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フォロ・ジュリアーノ

索引 フォロ・ジュリアーノ

フォロ・ジュリアーノ(Foro Juliano)またはフォルム・ユリウム(Forum Julium)は、ローマにある古代ローマのフォルム(公共広場)。フォロ・ロマーノ(フォルム・ロマヌム)に隣接している。フォロ・ディ・チェーザレ(Foro di Cesare)やカエサルのフォルムと表記されることもある。 紀元前1世紀に、ガイウス・ユリウス・カエサルによるフォロ・ロマーノの北西部再建計画の一環として建設されたもので、いわゆる皇帝たちのフォルムと呼ばれるものの先駆であった。フォロ・ロマーノと同じく、西ローマ帝国滅亡後は土砂に埋もれ、その存在は忘れ去られていた。.

26 関係: 古代ローマローマローマ大火ローマ建築ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂トラヤヌストラヤヌスのフォルムディオクレティアヌスフォルムフォロ・ロマーノアウグストゥスウェヌスカンピドリオガイウス・ユリウス・カエサルセステルティウス皇帝たちのフォルム紀元前1世紀紀元前44年紀元前46年紀元前54年113年283年3月15日5月12日80年9月26日

古代ローマ

古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ローマ大火

ーマ大火(ローマたいか)は、西暦64年7月19日、皇帝ネロ時代のローマ帝国の首都ローマで起こった大火災を指す。.

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ローマ建築

ーマ建築(ローマけんちく、Roman Architecture)は、古代ローマの文化、芸術を代表する建築。共和政ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。 ヨーロッパをはじめとする西方世界において、極めて重要な位置を占めるローマ建築は、エトルリア建築、そしてギリシア建築の影響を受けつつ発展していった。古代ローマにおいてギリシア美術の影響は特に強いものとなったが、古典期のギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では、建築物相互の関係性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っていると考えられている。そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築では神殿でなく、神殿やバシリカなどを包含したフォルム、円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。 また、精密に構築されたローマ水道、水道を架けるためのアーチ、建築物の天井を覆うヴォールト、ドームなどの優れた土木・建築工学は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。 パンテオンの内部.

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ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂

ーマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(ローマれきしちく、きょうこうりょうとサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラだいせいどう)は、イタリアのローマおよびバチカンにあるユネスコの世界遺産の登録物件。登録は1980年で、ヴェネツィア広場を中心としたエリアが登録されている。1990年には、アウグストゥスの霊廟、ハドリアヌス帝の霊廟などが拡張登録されている。また、同じく世界遺産に登録されている「バチカン市国」とも隣接し、こちらと一体となった保全活動が実施されている。.

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トラヤヌス

マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス(ラテン語:マールクス・ウルピウス・ネルウァ・トライヤーヌス・アウグストゥス、53年9月18日 - 117年8月8日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:98年 - 117年)で、ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝である。文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア・パルティアで功績をあげ、ローマ帝国史上最大の版図を現出した。 イタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝でもある。それまでは、首都ローマを含むイタリア本土出身者の最上流貴族しか皇帝に選ばれたことはなかった。 トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している。.

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トラヤヌスのフォルム

トラヤヌスのフォルム(Forum Traiani,フォルム・トライアニ)、あるいはフォロ・ディ・トライアーノ(Foro di Traiano)は、古代ローマ時代のローマに築かれた皇帝たちのフォルムのうち、最後に建設されたフォルムである。トラヤヌス帝のダキア戦争での勝利を記念して作られた。.

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ディオクレティアヌス

イウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。帝国の安定化に努め『3世紀の危機』と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾した。その過程でドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。また、帝国内に勢力を伸ばすキリスト教とマニ教に対して弾圧を加えた。.

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フォルム

トラヤヌスのフォルムの遺跡 フォルム(Forum, 複数形は Fora)は、古代ローマ都市の公共広場のことである。帝政時代のフォルムは四周をバシリカ、元老院、神殿などの公共施設や列柱廊で取り囲まれた計画的なオープンスペースとなり、屋根のない公共建築の観を呈するのが普通であった。 フォルムは、幹線道路上に集落が形成されるとき、その中心に商店などが集まる広場として造られた場所を起源としている。町が発展し都市となると、フォルムは商業活動の中心だけでなく、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われるオープン・スペースであり、また市民生活の上で最も重要な都市施設となっていった。 古代ローマの都市は、フォルムを中心として東西・南北の大通りであるデクマヌス・マクシムスおよびカルド・マクシムスが造られ、その軸線を基準とした碁盤の目状の都市計画がなされた。フォルムの広さは市民の人口に応じ、形は3対2の比率の長方形とされた。フォルムの北端にはユーピテル神殿などの神殿やバシリカが建てられるとともに、フォルムに面した神殿の階段は選挙演説を行う場所としても使われた。こうした典型的なフォルムは、帝政時代の計画都市であった北アフリカのローマ都市に多く、東方属州の都市は、むしろ古代ギリシアのアゴラに近い自然発生的な広場が多かった。 古代ローマの首都である都市ローマには、最も初期に形成されたフォルム・ボアリウム、共和政期に国家の中心として整備されたフォルム・ロマヌム、フォル・ロマヌムが手狭になったため、帝政期に新たに整備されたフォラ・インペラトラムがなどがある。 フォルムの機能は、古代ギリシア都市の『アゴラ』のそれとほぼ同じであった。アゴラとの違いは、規模がフォルムの方が際だって大きいこと、空間が都市化の進展にともなって矩形に整備されたこと、周囲に列柱廊をめぐらせるようになったことなどである。 現代において似た機能を果たす都市施設としては、イタリア語ではピアッツァ、スペイン語圏のプラザ、ドイツ文化圏のマルクト広場などがある。.

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フォロ・ロマーノ

フォロ・ロマーノ(伊:Foro Romano)は、ローマにある古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名である。フォロ・ロマーノは、ラテン語の古名フォルム・ロマヌム(Forum Romanum)のイタリア語読みである。 紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。 フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。.

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アウグストゥス

アウグストゥス(Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。.

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ウェヌス

ンドロ・ボッティチェッリ1482-1485年頃ウフィツィ美術館所蔵--> ウェヌス(古典ラテン語: Venus - )は、ローマ神話の愛と美の女神。日本語では英語読み「ヴィーナス」()と呼ばれることが多い。.

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カンピドリオ

ンピドリオ (Campidoglio) は、ローマの七丘の一つである。カピトリーノ (Capitolino) ともいい、古代ローマ時代にはラテン語でカピトリヌス (Capitolinus) と呼ばれた。 この丘は、ローマの七丘でも最も高い丘で、ローマ神の最高神であったユピテルやユノーの神殿(ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿)があり、ローマの中心であり、現在もローマ市庁舎が位置する。.

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ガイウス・ユリウス・カエサル

イウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句でも知られる。また暦で彼の名称が使用されていた(ユリウス暦)時期が存在していた。 古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となった。.

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セステルティウス

ーマ、裏面はディオスクーロイの騎乗する姿が描かれている。 ハドリアヌス帝時代(治世 117年 - 138年)のセステルティウス貨 セステルティウス(sestertius)は、古代ローマの硬貨の一種。共和政ローマ時代は小さな銀貨で、ごく稀にしか造幣されなかった。ローマ帝国期には大型の黄銅貨となった。 名称は semis-tertius (3番目の半分)に由来し、「2と2分の1」を意味する(1番目の半分は「2分の1」、2番目の半分は「1と2分の1」を意味する)。これは、その価値をアス貨の21/2としたためである。.

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皇帝たちのフォルム

皇帝たちのフォルム(こうていたちのフォルム、Fora Imperatorum, Fori Imperiali)は、ローマ帝国時代のローマ中心部の地区の呼び名である。 それまで国の中心であったフォルム・ロマヌムが手狭になったため、北側に隣接した土地に新たな政治・経済・宗教の中心施設を造ることを目的に、ガイウス・ユリウス・カエサルが計画し、建設を始めた。紀元前46年から113年までの1世紀半の期間に、皇帝や指導者たちがフォルムを造った地区のことである。.

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紀元前1世紀

ーマ帝国の成立。紀元前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得てローマの帝政時代が始まった。画像はヴァティカン美術館所蔵の「プリマポルタのアウグストゥス」。 エジプト女王クレオパトラ7世。絶世の美女として知られるが、衰勢のプトレマイオス朝存続のためにローマの有力者と結ばざるを得ない事情があった。画像は19世紀フランスの画家ジャン・レオン・ジェロームの歴史画で、女王とユリウス・カエサルの出会いの状況を描いている。 カッシウスやブルートゥスに暗殺された。画像は暗殺直後を描いたジャン・レオン・ジェロームの歴史画。 アグリッパによって建設された。 ケルト人の消長。カエサルの遠征でアルプス以北のガリアは共和政ローマに帰服した。これらの地に住んでいたケルト人(ガリア人)たちはラ・テーヌ文化の担い手とも考えられている。画像はラ・テーヌ文化を代表するグンデストルップの大釜。 アンティオコス1世により独特な墳墓が営まれた。 王昭君。前漢と匈奴の和平のために呼韓邪単于へと嫁ぐことになった悲劇の女性として語り継がれた。画像は明治時代の菱田春草の「王昭君図」。 銅鐸の祭祀。荒神谷遺跡と並ぶ古代出雲を代表する加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土した。これら銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。画像は島根県立古代出雲歴史博物館での展示の様子。 紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、西暦による紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す世紀。紀元前を区分する最後の世紀でもある。紀元1世紀の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。 なお、天文学やISO 8601では、紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。.

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紀元前44年

『カエサル暗殺』(La Mort de César) フランス人画家ジャン=レオン・ジェロームによる1867年の作 紀元前44年頃のローマ共和国 紀元前44年。.

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紀元前46年

紀元前46年は、ローマ暦の最後の年である。暦の調整のため、445日間あった。この年にユリウス暦が導入されたが、適用されたのは紀元前45年からである。.

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紀元前54年

紀元前54年は、ローマ暦の年である。.

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113年

記載なし。

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283年

記載なし。

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3月15日

3月15日(さんがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から74日目(閏年では75日目)にあたり、年末まであと291日ある。.

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5月12日

5月12日(ごがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から132日目(閏年では133日目)にあたり、年末まではあと233日ある。誕生花はアスチルベ。.

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80年

土曜日から始まる。.

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9月26日

9月26日(くがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から269日目(閏年では270日目)にあたり、年末まであと96日ある。.

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カエサルのフォルム

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