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フォキスのフィロメロス

索引 フォキスのフィロメロス

フィロメロス(希:Φιλομηλος、ラテン文字転記:Philomelos、?-紀元前354年)は第三次神聖戦争期のフォキスの将軍である。 フィロメロスはテオティモスの子である。紀元前355年にテバイは隣保会議において、かねてより対立していたフォキスにキラという神域を耕作しているとして莫大な罰金を課した。この時、フィロメロスはそのような額をフォキスは払いきれるものではなく、またテバイの要求は不当であるとフォキス人たちに言い、デルフォイの神託所を占領してそこに奉納されている莫大な宝物を軍資金としてテバイと戦おうと提案した。フォキス人は彼の提案を受け入れ、彼を全権将軍に任命した。彼は同じくテバイから罰金の支払いを迫られていたスパルタの王アルキダモス3世の支持を取り付け、スパルタからの資金援助を受けて傭兵を集めた。そしてフィロメロスはデルフォイを占領し、手向かってきたロクリス人を戦いで破った。ギリシア中から信仰を受けていた神託所のあるデルフォイが占領されたという知らせを受けたテバイと隣保会議はフォキスへ宣戦した。フォキス人の罰当たりな行いは人々に非難されたが、それよりも一層、テバイ人がフォキス人をそこまで追い詰めたことが非難の対象となり、アテナイやスパルタはフォキスに援軍を送った。フィロメロスは再び傭兵を集め、5000人をデルフォイの守備に残して自らはロクリスへと侵攻して略奪を行った。その後、彼はギリシアの諸都市に使節を送ってアテナイやスパルタなどとの同盟を正式に締結させたが、ボイオティアとロクリスは反フォキスの立場を崩さなかった。また、ギリシア全土のポリスもまたフォキス派と反フォキス派に二分され、相争った。 紀元前354年、フィロメロスは高給の支払いを提示して三度傭兵の大軍を集めた。その中の2000人を率いてロクリス領へと進軍し、続いて起こった騎兵戦ではロクリス軍に勝利したものの、直後にテッサリア軍6000人の援軍を得た敵にアルゴラスで破れた。その後、彼はネオンでボイオティア軍と戦って敗れた。その時、切り立った崖のある場所に囲まれた彼は敵に捕えられた時の仕打ちを恐れ、崖から身を投げて死んだ。指揮権は弟のオノマルコスが引継ぎ、彼は生存者を可能な限り撤退させた。.

20 関係: 将軍ネオンユニアヌス・ユスティヌスロクリスボイオーティアパウサニアステーバイテッサリアデルポイフォキスフォキスのオノマルコスアルキダモス3世アテナイキラ傭兵ギリシャグナエウス・ポンペイウス・トログススパルタ紀元前354年紀元前355年

将軍

将軍(しょうぐん)は、比較的大きな軍隊の指揮官に与えられる官職および称号の一つ、また軍閥の指導者の地位でもある。称号としての将軍を将軍号ともいう。 古くから東洋における軍隊の指揮官の役職名の一つであった。外交上または軍隊内の敬称としては閣下が用いられる。なお、古代中国では「将軍は皇帝に任命された官職」「将は王侯や地方領主に任命された官職」と区別されている。.

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ネオン

ネオン(neon )は原子番号 10、原子量 20.180 の元素である。名称はギリシャ語の'新しい'を意味する「νέος (neos)」に由来する。元素記号は Ne。 単原子分子として存在し、単体は常温常圧で無色無臭の気体。融点 −248.7 ℃、沸点 −246.0 ℃(ただし融点沸点とも異なる実験値あり)。密度は 0.900 g/dm (0 ℃, 1 atm)・液体時は 1.21 g/cm (−246 ℃)。空気中に18.2 ppm含まれ、希ガスとしてはアルゴンに次ぐ割合で存在する。工業的には、空気を液化・分留して作る手段が唯一事業性を持てる。磁化率 −0.334×10 cm/g。1体積の水に溶解する体積比は0.012。 ネオンの三重点(約24.5561 K)はITS-90の定義定点になっている。.

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ユニアヌス・ユスティヌス

マルクス・ユニアニウス(もしくはユニアヌス)・ユスティヌス(Marcus Junianius (or Junianus) Justinus、生没年不明)はラテン語での著述を残したローマ帝国の歴史家。.

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ロクリス

リス(Λοκρίς, Locris)とは、中央ギリシャの古代地名。主要都市はオプース。 東部エウボイア島側をロクリス・オプンティア(Lokris Opountia)、西部コリントス湾側をロクリス・オゾリス(Lokris Ozolis)と呼んで区別する - 世界大百科事典/コトバンク。 元々は東部のエウボイア島対岸地域のみをロクリスと呼び、この地域に住んでいたロクリス人(ロクロイ人、Lokroi)は、オイレウス王の子・小アイアースが率いる軍勢として、『イーリアス』にも登場する。当時は西部のコリントス湾側をポキス(フォキス)と呼び、この地に居住していたポキス人も同じくギリシア軍勢の一角として『イーリアス』に登場する。 紀元前680年頃にイタリア半島に進出し、ギリシア人初の植民市ロクロイ・エピゼフュリオイ(Lokroi Epizephyrioi)を、現在のイタリア・ロクリに建設した。この植民市では紀元前660年頃にギリシア人社会としては初めて成文法典を持った。 後に西部のポキス人がロクリスに侵入し、集団が混雑したことで、上記のように広義のロクリス人として統合された。このロクリス人は同等の権利を持ちつつ東西両地域に分かれ住んでいたが、ペロポネソス戦争では互いに交戦した。.

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ボイオーティア

ボイオーティア(Βοιωτία / Boeotia, Beotia, Bœotia)は、古代ギリシアの一地方で、アッティカの西北に位置した。中心都市はテーバイ。 「ボイオティア」「ヴィオティア」などとも表記される。ギリシャ語で「牛の国」という意味もある。.

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パウサニアス

パウサニアス(Παυσανίας, Pausanias, 115年頃 - 180年頃)は2世紀ギリシアの旅行家で地理学者。『ギリシア案内記』の著者として知られる。この著作は当時のギリシアの地誌や歴史、神話伝承、モニュメントなどについて知る手がかりとされている。.

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テーバイ

テーバイが覇権を握っていた時期(紀元前371年-紀元前362年)の地図。黄色がテーバイとその同盟国。 テーバイ(Θήβαι / Thēbai 発音: )は、古代ギリシアにあった都市国家(ポリス)のひとつ。現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァにあたる。 ボイオーティア同盟の盟主となり、アテナイやスパルタと覇権を争った最有力の都市国家のひとつであった。精強を謳われた「神聖隊」の活躍も知られている。 またギリシャ神話では「7つの門のテーバイ」として名高く、オイディプース伝説などの舞台となっている。 長音を略した「テバイ」や、「テーベ」(Thebes)と表記されることもある。.

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テッサリア

テッサリア(Θεσσαλία / Thessalía、Thessaly)は、ギリシャ中部の地域名であり、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリエス(地方)のひとつである。 テッサリア平原の広がるこの地方は、ギリシャの穀倉地帯である。.

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デルポイ

デルポイ(Δελφοι / Delphoi)は、古代ギリシアのポーキス地方にあった都市国家(ポリス)。パルナッソス山のふもとにあるこの地は、古代ギリシア世界においては世界のへそ(中心)と信じられており、ポイボス・アポローンを祀る神殿で下される「デルポイの神託」で知られていた。古代デルポイの遺跡はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。 日本語では「デルフォイ」「デルファイ」と表記されることも多い。英語表記(Delphi)、フランス語表記(Delphes)や現代ギリシア語発音に基づく「デルフィ」も用いられる。遺跡の西にはデルフィの名を持つ集落があり、また遺跡を含む自治体の名前にもなっている。.

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フォキス

ポーキス(Φωκίς)は、コリンティアコス湾の北部にあった、古代ギリシアの一地方。現代音(カサレヴサ)ではフォキス。名称は現在のフォキダ県(フォキス県)に受け継がれているが、範囲は必ずしも一致しない。 ポーキスという名前は、ポセイドーンの子でこの国の創設者である神話の登場人物ポーコス(Phocus.

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フォキスのオノマルコス

ノマルコス(希:Ονόμαρχος、ラテン文字転記:Onomarchos、?-紀元前353年)は紀元前4世紀中頃、特に第三次神聖戦争期のフォキスの将軍である。 オノマルコスはテオティモスの子で、第三次神聖戦争を起こしたフィロメロスの弟である。第三次神聖戦争が起こる以前、エラテイアがボイオティア軍によって包囲されていた時、その町を守っていたオノマルコスは兵士を町の外に出して彼らの家族を戦列のすぐ後ろに置き、城門に鍵をかけるという策を用いた。その時、敵の決死の覚悟を理解した敵将ペロピダスは包囲を解いて戦わずして撤退した。 紀元前355年に第三次神聖戦争が起こると、オノマルコスは兄フィロメロスの下で戦った。紀元前354年のネオンの戦いでボイオティア軍に追い詰められたフィロメロスが崖から身を投げて死んだ時、従軍していたオノマルコスは指揮権を引き継いで生存者を可能な限り撤退させた。 翌紀元前353年、フィロメロスの死によって和平の機運が生じ、フォキスは同盟国を集めて今後の話し合いをした。しかし、隣保同盟によって個人的に払いきれないほどの罰金を課されていたオノマルコスはこのまま和平が成れば自らはそのまま罰金を払わねばならなくなると考えた。彼は戦争続行を説く演説をし、人々はその意見を受け入れた。そして全権将軍に任命されたオノマルコスはデルフォイの奉納品を軍資金にして再び戦争の準備を始め、傭兵を集めた。また、その奉納品を貨幣に鋳造して同盟国に分配し、また敵にも買収のために配り、敵であったテッサリアに中立を約束させさえした。こうした準備が済むとオノマルコスは軍を率いてトロニオンを攻撃して落とし、アンフィサを服従させ、ドリスを略奪して回った。次に彼はボイオティアに侵入し、オルコメノスを占領し、カイロネイアを攻撃したが、撃退されてフォキスへと戻った。 同年に、テッサリア人の要請を受けマケドニア王ピリッポス2世が神聖戦争に参戦してきた。ピリッポスがフォキスの同盟者でフェライの僭主リュコフロンを攻撃すると、フォキスはオノマルコスの弟のファウロスを7000人の軍と共に送ったが、撃退された。そこで、次にオノマルコスが軍を率いて向った。オノマルコスは二度の戦いでピリッポスを破り、マケドニアへと退却させた。この時オノマルコスは半円に伏兵を置いた場所まで敵をおびき寄せて左右から攻撃するという戦術でピリッポスを破った。 再びピリッポスがマケドニアからリュコフロン攻撃にやってくると、援軍の要請を受けたオノマルコスは歩兵20000人と騎兵500騎と共に救援に向った。しかし、フォキス軍はクロコスの戦いで6000人の戦死者と3000人の捕虜を出すという大敗を喫し、オノマルコス自身も戦死した。オノマルコスの遺体は磔にされた後、海へと投げ捨てられた。.

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アルキダモス3世

アルキダモス3世(Αρχίδαμος, Archidamos III, ? - 紀元前338年、在位:紀元前360年 - 紀元前338年)は、エウリュポン朝のスパルタ王である。 アルキダモス3世は先代の王アゲシラオス2世の子であり、次代の王アギス3世とそのまた次の王エウダミダス1世の父である。.

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アテナイ

アクロポリス、間にアレオパゴス、西にプニュクスがある。 アテナイと外港ペイライエウス アテナイ(: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。.

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キラ

ラ、きら.

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傭兵

イス人傭兵達の記念碑である。国土の大半が山岳地帯であるため、農業や産業が育たない貧しい国だったスイスを支えていたのは「血の輸出」と呼ばれる傭兵派遣であった。 傭兵(ようへい、mercenary)は、金銭などの利益により雇われ、直接に利害関係の無い戦争に参加する兵またはその集団である。 「傭」という漢字が常用漢字および新聞漢字表に含まれないため、一部の新聞等の報道では「雇い兵」と表記される。 傭兵は現代でも存在しており、民間軍事会社のような新しい形態の傭兵も登場している。.

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ギリシャ

リシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。.

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グナエウス・ポンペイウス・トログス

ナエウス・ポンペイウス・トログス(Gnaeus Pompēius Trōgus)は、紀元前1世紀ローマの歴史家。『ピリッポス史』(Historiarum Philippicarum、邦訳では『地中海世界史』)の著者。.

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スパルタ

パルタ(: Σπάρτα / Spártā スパルター、Sparta)は、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。自らはラケダイモーン(Λακεδαίμων / Lakedaimōn)と称した。 古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を誇り、ペルシア戦争ではギリシア軍の主力であった。ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。.

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紀元前354年

紀元前354年は、ローマ暦の年である。当時は、「アンブストゥスとクリスピヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元400年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前354年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前355年

紀元前355年は、ローマ暦の年である。当時は、「ペティクスとポプリコラが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元399年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前355年と表記されるのが一般的となった。.

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