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バシレウス

索引 バシレウス

+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人のバシレウス)と書かれている。 バシレウス(Βασιλεύς; Basiléus)は、ギリシア語の君主の称号。元は「王」を意味するギリシア語であり、古代ギリシア世界ではラテン語の "rex" にあたるものであった。中世東ローマ帝国においては皇帝の称号となった。中世~現代ギリシア語では「ヴァシレフス」。.

43 関係: 古代ギリシア君主天皇専制公山川出版社岩波書店中世伊藤貞夫ミケーネ文明ポリスラテン語レオーン6世ローマ帝国ローマ人ヘラクレイオスツァーリフラウィウス朝アウグストゥス (称号)インペラトルカエサル (称号)カガンギリシャ王国ギリシア語ゲルマン人コンスタンティノープルシャーサーサーン朝公用語前1200年のカタストロフ皇帝称号銅貨諸王の王講談社学術文庫豪族都市国家暗黒時代 (古代ギリシア)東ローマ帝国東海大学出版部610年629年641年

古代ギリシア

この項目では、太古から古代ローマに占領される以前までの古代ギリシアを扱う。.

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君主

フランス国王ルイ14世 君主(くんしゅ)とは、一般に、世襲により国家を治める最高位の人。伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であり、王・帝王・天子・皇帝・きみ等ともいう。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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専制公

Demetrios Palaiologosの刻印 専制公(せんせいこう、δεσπότης)は、コムネノス王朝時代以降の東ローマ帝国の爵位および、後にバルカン半島において使用された地方の領主の称号。古典ギリシャ語では「デスポテース」、中世ギリシャ語では「デスポティス」。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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伊藤貞夫

伊藤 貞夫(いとう さだお、1933年(昭和8年)11月20日 - )は、西洋史学者、東京大学名誉教授。専門は古代ギリシア史、特に紀元前4・5世紀のアテネ研究。東京生まれ。.

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ミケーネ文明

ミケーネの獅子門シュリーマンによって発見された。 ミケーネ文明(ミケーネぶんめい)またはミュケナイ文明(ミュケナイぶんめい)は、エーゲ文明のうち、ペロポネソス半島のミケーネ(ミュケナイ)を中心に栄えた青銅器文明である。.

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ポリス

ポリス(πόλις, 複数形 πόλεις)は、都市、都市国家、市民権または市民による政体を指すギリシア語である。古代アテナイなど古代ギリシアに関して使用される場合は、通常都市国家と訳される。.

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ラテン語

ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.

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レオーン6世

レオーン6世の肖像が描かれた銅貨 レオーン6世“ソフォス”または“フィロソフォス”(ギリシア語:Λέων Ϛʹ ὁ Σοφός, Leōn VI ho Sophos または ὁ Φιλόσοφος, ho Philosophos, 866年9月1日あるいは9月19日 - 912年5月11日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の第2代皇帝(在位:886年 - 912年)。中世ギリシア語読みでは「レオン」となる。“ソフォス”は「賢者」を、“フィロソフォス”は「哲学者」を意味するあだ名である。 マケドニア王朝の開祖バシレイオス1世と、彼の二人目の妻のエウドキア・インゲリナとの間に生まれた。しかし、エウドキア・インゲリナは867年にミカエル3世がバシレイオス1世に暗殺されるまでミカエル3世の愛人であった。そのため866年に生まれたレオーンと、867年(ミカエル3世の暗殺直後)に生まれたステファノスはミカエル3世の息子である可能性を否定できない。こうした噂は既にレオーンの出生直後から広く流布していたようである。なお兄のコンスタンティノスはバシレイオス1世の最初の妻であるマリアとの間に生まれた子供である。これが事実だとすれば公式上、バシレイオス1世の子孫となっているレオーン6世をはじめとするマケドニア王朝の幾人かの皇帝達は実はミカエル3世の子孫であり、アモリア王朝の血統は1056年まで存続したことになる。 870年には共同皇帝として戴冠された。872年頃には一時幽閉されていたフォティオスが召喚され、レオーンらバシレイオス1世の息子たちの家庭教師となった。本来レオーンは権力の座につく予定はなかったが、879年に、後継者であった兄コンスタンティノスが没したためレオーンがバシレイオス1世の跡を継ぐことになり、882年に母親のエウドキア・インゲリナの一族のテオファノと結婚した。しかしテオファノと結婚した直後に母が没するとバシレイオス1世とレオーンの関係は急速に悪化した。そして883年には謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪され、宮殿内の一室に886年7月まで3年あまり幽閉されていた。レオーンが幽閉された要因、そして復権できた要因についてはなお定説はない。 レオーンが復権した直後にバシレイオス1世が急死したため、その権力を継承した。すぐに彼は当時コンスタンティノポリス総主教に復帰していたフォティオスを更迭し、弟のステファノスを総主教に任命した。 レオーン6世の治世は、前半はレオーンの復帰に尽力したステュリアノス・ザウツェスが実権を振るったとされている。彼はレオーンの愛人で後に二人目の妻となったゾエ・ザウツァイナの父親である。レオーンは後に彼にバシレオパトル(「皇帝の父」、あるいは「宮廷の長」の意味)の地位を創設して与えた。ただし最近の研究によると、ステュリアノスの権力は、従来想定されていたほど強力なものではなかったようである。899年にステュリアノスが没し、ザウツェス一族が失脚すると、それに代わってザウツェス一門の陰謀を通報した宦官のサモナスが実権を握った。彼は当時東ローマ軍で重きをなしていたアンドロニコス・ドゥークスと対立した。アンドロニコス・ドゥークスはバグダードに亡命したが、この事件にはサモナスが関与していたとされている。なおアンドロニコスの息子のコンスタンティノス・ドゥークスは後に復帰している。 レオーンはフォティオスを追放したものの、少年時代にその教えを受けて多方面に渡る学識を身につけており、たくさんの典礼詩や世俗詩、演説などを残した。また首都の商工業者の組合に関する法令集『総督の書』や6世紀のユスティニアヌス1世が編纂させた『ローマ法大全』のギリシャ語改訂版である『バシリカ法典』などの法律書の編纂をもさせている。 このように、内政面・文化面では功績を残したレオーンだったが、対外関係ではいくつか失敗を犯している。893年に第一次ブルガリア帝国のシメオン1世と開戦した。レオーンは当時ドナウ川北岸にいたマジャル人と同盟してブルガリアを挟撃したが、896年にはブルガロフュゴンでブルガリアに敗北して、毎年貢納金を支払う条件で和平を結んだ。なおこの時マジャル人も敗走して、現在のハンガリー平原に侵入することになる。 西方の領域でも敗北が続いた。888年にはミラッツォ沖でイスラーム艦隊に敗北を喫した。902年にはシチリア島で事実上最後の拠点であったタオルミナが陥落した。またエーゲ海の奥深くにまでイスラーム艦隊が侵入して各地を荒らし、904年には帝国第二の都市テッサロニキが襲撃され、多くの犠牲者を出した。イスラーム艦隊に対してレオーン6世はヒメリオスを艦隊司令官に任じて反撃を行わせた。ヒメリオスは当初大きな成果を挙げるが、911年のクレタ島遠征は完全な失敗に終わっている。また907年にはキエフ・ルーシの艦隊がコンスタンティノポリスを攻撃している(:en:Rus'–Byzantine War (907))。一方アナトリア半島東部では帝国の領域をユーフラテス川の東側にまで拡大し、テマ・メソポタミアを設置した。 レオーンには長い間後継者となる男子が生まれなかったため、私生活の面でもトラブルを起こした。最初の妻テオファノが897年頃に病死すると、898年に年来の愛人ゾエ・ザウツァイナと結婚したが、ゾエは翌年病死。その後3度目の妃エウドキア・バイアナを迎えたが、レオーン自身が三度目の結婚を禁止する法律を発布していたために、教会に反対された。 901年にはエウドキアも死去。レオーンには未だに子供がいないままだったので、4番目の妃であるゾエ・カルボノプシナ(ヒメリオスの一族)を迎え、905年についに息子のコンスタンティノス(のちのコンスタンティノス7世)が生まれた。当初、側近で学友でもあった総主教のニコラオス1世ミュスティコスはコンスタンティノスの認知のみ承認することで事態を収拾しようとしたが、レオーンがゾエとの正式な結婚に踏み込んだ(「四婚問題」)ために態度を硬化させた。その結果ニコラオス1世は906年のクリスマスおよび翌年の神現祭では、レオーンはハギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた。そのためレオーン6世はニコラオス1世を解任し、自身の信任する修道士エウテュミオスを後任とした。しかしこれはニコラオス派とエウテュミオス派の対立を惹起することになってしまう。 912年5月11日に病死した。コンスタンティノス7世がまだ幼かったため、バシレイオス1世の代から共同皇帝の地位にあったアレクサンドロスが後継者となった。 Category:東ローマ皇帝 Category:マケドニア家 Category:866年生 Category:912年没.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ローマ人

ーマ人は、.

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ヘラクレイオス

ヘラクレイオスまたはヘラクレイオス1世(希:Ἡράκλειος, Hērakleios, 羅:Heraclius, 575年頃 - 641年2月11日)は、東ローマ帝国中期の皇帝(在位:610年 - 641年)。ヘラクレイオス朝の開祖。「ヘラクレイオス」はギリシア神話の英雄ヘラクレスにちなんだ名で、中世ギリシア語読みでは「イラクリオス」。ラテン語では「ヘラクリウス」となる。また、称号として「バシレウス」を名乗った。 サーサーン朝ペルシア帝国との6年にわたる戦いに勝利し、奪われた領土を回復したものの、当時勃興してきたイスラム帝国に敗れ、サーサーン朝から奪い返した領土は再び失われた。 また彼の治世は、東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語へ変わり、軍事権と行政権が一体化したテマ(軍管区)制が始まるなど(テマ制の起源に付いては諸説あり)、古代のローマ帝国から「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ばれるような、ギリシア的要素の強い「中世ローマ帝国」の幕開けとなった。.

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ツァーリ

ツァーリ(царь)あるいはツァール(ブルガリア語、セルビア語、ウクライナ語:цар)は、ブルガリア・ロシアなどスラヴ語圏で使用された君主の称号。当初は、ギリシャ語の「バシレウス」と同様に東ローマ皇帝や聖書に登場する王を指す語であったが、やがて(大公の称号より上ではあるが皇帝の称号より下である)一部の国の王やハーンを指す語としても用いられるようになった。 ラテン語「カエサル」やギリシア語「カイサル」のスラヴ語形。そもそもは、ローマ皇帝やその継承者である東ローマ皇帝の有する称号として「カエサル」という語が用いられており、その称号を周辺の国家が用いたもの。その際に発音が変化して「ツァーリ」や「ツァール」となった。モスクワ大公らが用いたこの称号を西欧語において「王」と訳すか「皇帝」と訳すかについては中世ヨーロッパにおいても外交上の問題として議論があった。漢語においても「王」とも「皇帝」とも訳す。 民話においては、「善き王」を意味する。.

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フラウィウス朝

フラウィウス朝(フラウィウスちょう、Flavian dynasty)は、ローマ帝国の王朝。その名前は皇帝たちの属したフラウィウスの氏族名から。ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの三人が属する。 ドミティアヌス没後、帝位にはネルウァが就き、ローマは五賢帝時代を迎える。 ウェスパシアヌスはクラウディウス帝に見出され、ブリタンニア遠征などに従軍し、有能な軍人として知られていたが、ローマの中流階級の出身で、ネロ死後の皇位争奪戦の中で、皇位継承の候補者とは見なされていなかった。しかし68年にネロが帝位を追われ自殺、1年で皇帝が3度も変わる事態となった(四皇帝の年)。立て続きの政変に、国家は混乱を来すようになり、人々は有能な政治家、安定した政権を望むようになり、これが軍隊の支持を得て、かつ的はずれのない堅実な政策を取ると思われたウェスパシアヌスが皇位につく切っ掛けとなった。 ローマが混乱していた当時、ウェスパシアヌスはネロの命によりユダヤ戦争の平定を命じられており、これを終わらせることによって実力をつけ、シリア総督ムキアヌス、息子のティトゥスなどの補佐もあってローマに入り政権をとった。 フラウィウス朝はローマ皇帝が従来権威の由来としていたアウグストゥスの血統とは無縁であったが、混乱の後のウェスパシアヌスの統治はローマ市民に歓迎された。 ウェスパシアヌスの死後は長男のティトゥスが皇位につき、市民からの評判はよかったが、病に倒れ、治世は僅か2年と短かった。続いて次男のドミティアヌスが皇帝となるも彼はやがて公然と元老院などと敵対するようになり、財政においても失政を重ねたため、支持を失い、最終的に暗殺された。ティトゥス及びドミティアヌスの子は全て夭折しており、これをもってフラウィウス朝は断絶した。 その後、フラウィウス朝の血統はウェスパシアヌスの兄ティトゥス・フラウィウス・サビヌス2世の孫の一人ティトゥス・フラウィウス・クレメンスが、ウェスパシアヌスの孫娘(娘・小ドミティラの子フラウィア・ドミティラ(聖ドミティラ))との間に4男3女を儲けていたことで存続した。息子二人はそれぞれ、ウェスパシアヌス、ドミティアヌスと名乗ったが、子を残さずに死去した。別の息子で三男にティトゥス・フラウィウス・ティティアヌス(95年頃生誕)がおり、その息子がティトゥス・フラウィウス・クラウディウス・スルピキアヌス(137年頃 - 197年)である。 スルピキアヌスには以下の子女がいる。.

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アウグストゥス (称号)

アウグストゥス(Augustus)は、歴代のローマ皇帝の称号のひとつ。この語はラテン語で「威厳者」または「尊厳者」を意味する。アウグストゥスの名は、初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)を指すことが多いが、彼の後はローマ帝国の皇帝を示す最高の称号として用いられるようになった。ローマ帝国が崩壊した後も、特に神聖ローマ帝国などヨーロッパでは貴族の男性の名前(アウグスト)に用いられることがある。女性形はアウグスタ(Augusta)。.

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インペラトル

インペラトル(、インペラートル)は、古代ローマとくに共和政ローマにおけるローマ軍の最高司令官・将軍の称号である。のちに皇帝もしくは帝権保持者の称号となり、ローマ帝国における皇帝あるいは帝権の一部を成した。共和政期には対外戦争で成功を収めた軍事指導者の称号としても使用された。字義的には「インペリウムを保持する者」という意味で、平時における「最高命令権者」あるいは戦時における「最高司令官」のことを指す。.

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カエサル (称号)

イウス・ユリウス・カエサル カエサル(Caesar)は、ローマ帝国およびその継承国家で用いられた君主号である。 共和政ローマ末期の終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルは、内戦での勝利を経て事実上の単独支配を確立し、帝政の礎を築いた。これを継承し、実際に帝政(プリンキパトゥス)を開始したオクタウィアヌス(アウグストゥス)もまた、カエサル家の養子となっておりガイウス・ユリウス・カエサルに後継者として選ばれた後は「カエサル」の名はオクタウィアヌスの名でもあった。 帝政を確立したアウグストゥスは自分の後継者も養子としてカエサルの名を継がせており、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝たちは皆、カエサルの家族名を持っていた。このため「カエサル」は皇帝の家族名であると同時に徐々に皇帝そのものを指す一般名詞としても機能するようになっていった。イエス・キリストが語ったとされる言葉「カエサルのものはカエサルに」はこうした用法の例といえ、ここでの「カエサル」は具体的には当時のティベリウス帝を指しているものの、もっと広い意味でローマ皇帝=ローマ帝国一般を指しているともとることができる。 こうした皇帝を指す一般名詞としての「カエサル」の用法は、ユリウス・クラウディウス朝が断絶したあとの皇帝たちもカエサルを名乗ったことから確立されていった。また皇帝たちは自らの後継者にカエサルの名を与えたため「カエサル」は次期元首を意味するようにもなっていった。 次期元首としてのカエサルの用法はローマ帝国後期(専制君主制、ドミナートゥス)に入ると副帝をあらわす称号として使われるようになり、正帝(アウグストゥス)を補佐する者として使われるようになった。ビザンツ帝国でも当初は副帝を指すことば(ギリシア語では「カイサル」)だったが、11世紀後半のコムネノス王朝時代には、セバストクラトール・デスポテースなどの皇帝(バシレウス)の下位・カエサル(カイサル)より上位に位置づけられた爵位が多数新設されて、そのなかに埋没してしまった。 このように「カエサル」の名はローマ皇帝を指す語として使われてきたため、ヨーロッパ各国では皇帝を意味する語として「カエサル」に由来する単語が使用されることも多い。代表的なものとして、ドイツ語のカイザー (Kaiser) やロシア語のツァーリ (Царь, Tsar) がある。 イスラームの伝統的な歴史学においては、タバリー以前から初代ローマ皇帝アウグストゥス以来の歴代ローマ帝国皇帝やその後の西ローマ皇帝、東ローマ皇帝などをアラビア語でカイサル (قيصر, Qayṣar) と呼んでいた。東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国では、オスマン語(およびトルコ語)でカイセル (قيصر, Qayṣar/Kayser) と言い、主にローマ皇帝を表すものとしてルーム・カイセリ (Kayser-i-Rûm) という称号が用いられ、スレイマン1世などの一部のスルタンは東ローマの継承者であることを示すためにこの称号を用いた。.

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カガン

ン(古テュルク語: qaγan、漢語:可汗、可寒)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa'an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) となった。.

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ギリシャ王国

リシャ王国(希:, 1832年 - 1924年、1935年 - 1941年、1944年 - 1967年)は、ギリシャ独立戦争によりオスマン帝国から独立したギリシャに設けられた王国。列強諸国によってバイエルン王国、デンマークの王子が王に据えられたため国内での支持基盤が弱く、政変が相次ぎ安定しなかった。.

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ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

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ゲルマン人

1世紀のゲルマニア。スエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語がゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。 ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族・民族百科事典マイペディア、平凡社。。先史時代,歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ日本大百科全書(ニッポニカ)「ゲルマン人」平城照介。原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。 原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた岩谷道夫「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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シャー

ャー(shāh شاه)は、「王」を意味するペルシア語、または王の称号。古代ペルシア語の"χšāyaθiya-"に由来する。もともとイラン系の王の称号であったが、イスラーム時代以降はイラン系のみならずイラン・イスラーム文化の影響を受けたテュルク・モンゴル系の王侯でも称号や人名などに使われるようになった。また「シャーハンシャー」 شاهنشاه shāhan-shāh とはパフラヴィー語のシャーハーン・シャー šāhān-šāh 「šāh-ān(「王」の複数形)+šāh(王);"諸王の王"、"王の中の王"の意味」のアラビア語転写ないしアラビア語形である。.

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サーサーン朝

ーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、ساسانيان - 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。.

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公用語

公用語(こうようご)とは、国、州など、ある集団・共同体内の公の場において用いることを公式に規定した言語を指す。その集団が有する公的機関には義務が課され、公的情報を発信する際等には公用語を用いなければならない。「公共言語」というように間違えないよう注意。 ある国において公用語として複数の言語が定められた場合には、その全ての言語を用いて公的情報を国民へ伝えなければならない。従ってこの場合、国家(あるいは集団)の公的機関は、全ての公用語を併記し通訳して伝えることになる。これによって、指定された複数の言語のうちどれか一つの言語だけを理解する国民(や構成員)に対しても不利益を生じさせないという原則が守られる。 一言語集団が大多数を占める国家や圧倒的に強い力を持っている国家の場合、公用語を法律で定めていない場合もある。.

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前1200年のカタストロフ

前1200年の地中海東部 前1200年のカタストロフとは地中海東部を席巻した大規模な社会変動のこと。この社会変動の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎え鉄器時代が始まった。 そしてその原因は諸説あるが、この社会変動の発生により、分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出す モアコット (1998)、p.19.。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。 または、主に東アジア地域において用いられた爵位の一つ。.

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称号

号(しょうごう、英語:Title)とは、主に個人または団体の公的な身分や資格、地位などを表す呼び名。.

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銅貨

古代の銅貨 銅貨(どうか Copper coin)とは、銅を素材として作られた貨幣をいう。.

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諸王の王

諸王の王(しょおうのおう、king of kings; lord of lords; emperor)または王の中の王、王中の王、王者の王、王の王.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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都市国家

都市国家(としこっか、City-state)は、ひとつの都市とその周辺地域が、独立した政体や文明としてひとつとなり、まとまった形態をなす小国家を表す。明確な要件・定義はないが、現代ではシンガポール・モナコを指す。.

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暗黒時代 (古代ギリシア)

暗黒時代(あんこくじだい、Γεωμετρική εποχή)とは、古代ギリシアにおける紀元前1200年から紀元前700年頃までの間における文字資料に乏しい時代のこと。ミケーネ文化、前古典期(アーカイック期)の間にあたる。また、この時代のうち前1059年から前700年頃は土器に幾何学文様の描かれたことから幾何学文様期と呼ばれる事がある。 また、暗黒時代と呼ぶ事が不適切として初期鉄器時代と呼ばれる事が普及しつつある。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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東海大学出版部

東海大学出版部(とうかいだいがくしゅっぱんぶ)は、神奈川県平塚市にある学校法人東海大学の出版機関。.

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610年

記載なし。

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629年

記載なし。

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641年

記載なし。

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