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ナク

索引 ナク

ナク(、、生没年不詳)は、チンギス・カンの孫のグユクの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では脳忽/納忽、『集史』などのペルシア語史料ではناقوNāqūと記される。

目次

  1. 20 関係: ペルシア語チンギス・カンバトゥモンケモンゴル帝国トルイトゥクルクトクメドレゲネホージャ・オグルホクオグルガイミシュカラ・スゥ平原の戦いグユクシレムンジョチ・ウルス元史集史漢文新元史

ペルシア語

ペルシア語(ペルシアご、 )は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語(پارسی‌)ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。

見る ナクとペルシア語

チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、英語:Genghis Khan、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。死後は廟号を太祖、諡を法天啓運聖武皇帝と称した。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(#名前の節を参照)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。

見る ナクとチンギス・カン

バトゥ

バトゥ(ペルシア語: باتو Bātū、1207年 - 1256年)は、ジョチ家の2代目当主(ハン:在位1225年 - 1256年)で、ジョチ・ウルスの実質的な創設者。チンギス・カンの長男のジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。カナ表記ではバツ、バト。

見る ナクとバトゥ

モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān)。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で永遠を意味する。チンギス・カンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。

見る ナクとモンケ

モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家(ウルス)である。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の領土。

見る ナクとモンゴル帝国

トルイ

トルイ(モンゴル語:、Tolui、 1192年 - 1232年)は、チンギス・カンの四男。漢文史料では拖雷、ペルシア語史料ではتولى خان (tūluy khān) またはتولوى خان (tūlūy khān)と表記され 、現代モンゴル語ではТулуй, Tuluiと綴られる。子孫が第4代以降のモンゴル帝国の皇帝位(カアン位)を世襲したために、睿宗の廟号を贈られ、景襄皇帝と諡された。日本語文献ではトゥルイ、ツルイと表記されている場合もある。トルイという名は、中世モンゴル語で「鏡」を意味する。ジョチ、チャガタイ、オゴデイの同母弟である。 幼少時から英邁で武勇に優れ、人望も厚かったという。チンギス・カンの正妻ボルテから生まれた末子だったため、末子相続の慣行に従って父の死までウルスの分封を受けずにその手元にもつ、帝国の最有力皇族であった。

見る ナクとトルイ

トゥクルク

トゥクルク(、、生没年不詳)は、チンギス・カンの孫のグユクの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では南平王禿魯(tūlŭ)・都魯(tūlŭ)・宗王脱忽魯(tuōhūlŭ)・土魯(tŭlŭ)・叛王吐魯(tŭlŭ)、『五族譜』などのペルシア語史料ではتوقلوق(Tūqlūq)と記される。

見る ナクとトゥクルク

トクメ

トクメ(、生没年不詳)は、チンギス・カンの孫のグユクの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では禿苦滅(tūkǔmiè)/禿曲滅(tūqūmiè)、『集史』などのペルシア語史料ではتوکمه(tūkme)と記される。 カイドゥの子のオロスらとともに、「カイドゥ・ウルス(カイドゥの国)」残党の中でも最後まで大元ウルスやチャガタイ・ウルスと敵対したことで知られる。

見る ナクとトクメ

ドレゲネ

ドレゲネ(モンゴル語:、転写: Töregene、? - 1246年)は、モンゴル帝国の第2代皇帝(カアン)オゴデイの第6夫人で、第3代皇帝グユクの生母。漢字表記では脱列哥那、禿納吉納。ペルシア語表記ではトゥラキナ・ハトゥン(توراكنه خاتون 、転写: Tūrākina khātūn)などと綴られる。諡号は昭慈皇后。史料によっては、トレゲネと書かれることもある。

見る ナクとドレゲネ

ホージャ・オグル

ホージャ・オグル(、、生没年不詳)は、チンギス・カンの孫のグユクの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では忽察/和只、『集史』などのペルシア語史料ではخواجه اغولKhwaja Āghūlと記される。オグルとは「王子」を意味するテュルク語。

見る ナクとホージャ・オグル

ホク

ホク(、、生没年不詳)は、チンギス・カンの孫のグユクの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では禾忽/霍忽/火和、『集史』などのペルシア語史料ではهوقوHūqūと記される。

見る ナクとホク

オグルガイミシュ

オグルガイミシュ(ᠤᠤᠭᠠᠯ ᠬᠠᠶᠢᠮᠢᠰᠢ Oγul Qaimiš、斡兀立海迷失、? - 1252年)は、モンゴル帝国第3代皇帝グユクの皇后。 『元史』などの漢文史料では斡兀立海迷失(wòwūlìhǎimíshī)、『集史』などのペルシア語史料ではاوغول قیمیش خاتون(ūghūl qaīmīsh khātūn)と記される。

見る ナクとオグルガイミシュ

カラ・スゥ平原の戦い

カラ・スゥ平原の戦い(カラ・スゥへいげんのたたかい)は、1270年にフレグ・ウルスの第2代君主アバカと、ムバーラク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪ったバラクとの間で行われた戦い。この戦いでアバカは大勝し、フレグ・ウルスの基盤を強固なものとした。

見る ナクとカラ・スゥ平原の戦い

グユク

グユク(Güyük、、 1206年3月19日 - 1248年4月20日)は、モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日 - 1248年4月20日)。漢語資料の表記では貴由、古余克、谷由皇帝。『元史』(大宗紀、定宗紀)の表記では古与、貴由、貴裕。ペルシア語資料での表記では كيك خان Kuyūk khān ないし گيوك خان Guyūk khān など。大元ウルスによって贈られた廟号は定宗、諡は簡平皇帝。 第2代皇帝オゴデイの長男で、第6皇后ドレゲネとの間に生まれた長男である。グユクは第3代モンゴル皇帝であるが、先代のオゴデイがモンゴル皇帝として初めて「カアン」(Qaγan, Qa'an)を名乗ったものの、グユクはこの「カアン」(哈罕皇帝/合罕皇帝)を父のオゴデイのみの称号と考えたのか、自らは名乗りとして用いず、もっぱらカン(ハン Qan/χan 〜 خان khān)の称号のみを名乗ったと考えられている。

見る ナクとグユク

シレムン

シレムン(Širemün、? - 1252年?)は、モンゴル帝国の皇族。第2代モンゴル皇帝(カアン)オゴデイの三男のクチュの子。『集史』などのペルシア語表記では شيرامون Shīrāmūn、『元史』などでの漢字表記は失烈門、昔列門太子。シラムンとも。

見る ナクとシレムン

ジョチ・ウルス

ジョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男のジョチの末裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。

見る ナクとジョチ・ウルス

元史

『元史』(げんし)は、元(大元ウルス)について書かれた歴史書(正史)。 清の乾隆帝が定めた二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はチンギス・カンがイェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した1206年から、順帝トゴン・テムルが大都を放棄した1367年まで。 拙速な編纂により誤謬・重複・脱漏が多いことが早くより知られており、考証学者の銭大昕が「古今、史成るの速やかなる、未だ元史に如く者あらず。而して文の陋劣もまた、元史に如く者なし」と評するなど、清代には既に二十四史の中で最も完成度が低いとの評価が定まっていた。そのため多くの歴史家によって『元史』改訂の試みがなされており、その集大成が20世紀に編纂された『新元史』であった。

見る ナクと元史

集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ 。 Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ。 Jāmi` al-Tawārīkh)は、イル・ハン国の第7代君主ガザン・ハンの勅令(ヤルリク)によってその宰相(ワズィール wazīr)であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。世界最初の世界史の書として名高い。

見る ナクと集史

漢文

漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または中国人・朝鮮人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう。

見る ナクと漢文

新元史

『新元史』(しんげんし)は、中華民国成立後に、柯劭忞(『清史稿』編纂メンバーでもある)が編纂して1919年に成立した元朝一代の紀伝体歴史書。従来の『元史』の不備を補うものとされて、1921年に当時の中華民国大総統・徐世昌によって正史に加えられて、従来の二十四史を「二十五史」と改めた。

見る ナクと新元史