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スペイン継承戦争

索引 スペイン継承戦争

ペイン継承戦争(スペインけいしょうせんそう、Guerra de Sucesión Española)は、18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争(1701年 - 1714年)。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。.

240 関係: はとこ南ネーデルラント友清理士同君連合合同法 (1707年)堀米庸三大同盟戦争大北方戦争大類伸宣戦布告仏蘭戦争彩流社北アメリカ北アメリカ大陸ナミュールナバラ王国ナポリ王国ミノルカ島の占領ミラノ公国マラガの海戦マリー・ルイーズ・ドルレアンマリー・テレーズ・ドートリッシュマリー・ド・メディシスマリー・アンヌ・ド・バヴィエールマリアナ・デ・アウストリアマリア・アナ・デ・アウストリアマリア・アンナ・フォン・バイエルン (1574-1616)マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルクマリア・アントニア・フォン・エスターライヒマルプラケの戦いマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャマルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃)マールバラ公マース川マドリードマクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)ネーデルラント継承戦争ネーデルラント連邦共和国ハノーヴァー朝ハノーファー君主一覧ハプスブルク帝国ハドソン湾バルセロナバルセロナ包囲戦 (1705年)バルセロナ包囲戦 (1706年)バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)バレンシア王国バーデン (領邦)バイロイト侯領...バイエルン大公バイエルン選帝侯領バスク地方ポルトガル王国メノルカ島メイナード・ションバーグ (第3代ションバーグ公爵)モンスユトレヒト条約ヨーロッパヨーゼフ1世ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンラミイの戦いラーコーツィの独立戦争ラーコーツィ・フェレンツ2世ライン川ラインラントラシュタット条約リール (フランス)リール包囲戦 (1708年)リエージュ司教領ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯)ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)ルッザーラの戦いルイ (ブルゴーニュ公)ルイ (グラン・ドーファン)ルイ13世 (フランス王)ルイ14世 (フランス王)ルイ15世 (フランス王)ルイ・フランソワ・ド・ブーフレールルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンルクセンブルクレイスウェイク条約レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)ヴュルテンベルクヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウンヴィットーリオ・アメデーオ2世ヴィッテルスバッハ家ヴェネツィア共和国トリノトリノの戦いトーリー党 (イギリス)トゥルネートゥーロントゥーロン包囲戦 (1707年)ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルクブランデンブルク辺境伯領ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領ブリウエガの戦いブルボン家ブルゴーニュ公一覧ブルゴスブレナム宮殿ブレンハイムの戦いプロイセンの王プロイセン王国プロシア公領パリビリャビシオーサの戦いビーゴ湾の海戦デン・ハーグフランドルフランドル・フランセーズフランス王国フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)フリートリンゲンの戦いフリードリヒ1世 (プロイセン王)フィリップ1世 (オルレアン公)フィリップ2世 (オルレアン公)フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)フェリペ3世 (スペイン王)フェリペ4世 (スペイン王)フェリペ5世 (スペイン王)フェルディナン・ド・マルサンフェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)ドナウ川ドーファンドイツドゥナの戦いニューイングランドニコラ・カティナホイッグ党 (イギリス)ベルギーアラゴン王国アルマンサの戦いアルメナラの戦いアルザス地域圏アン (イギリス女王)アン女王戦争アンリ4世 (フランス王)アンヌ・ドートリッシュアントウェルペンアーノルド・ヴァン・ケッペル (初代アルベマール伯)アウデナールデの戦いアカディアアストゥリアス公イングランド王国イタリア半島イサベル・デ・ボルボンウィリアム3世 (イングランド王)ウィーンウォー・シミュレーションゲームエレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルクオランダ総督オルレアン家オルレアン公オーストリア大公オイゲン・フォン・ザヴォイエンカミーユ・ドスタン (タラール公)カミザールの乱カルチナートの戦いカルロス2世 (スペイン王)カルピの戦いカール6世 (神聖ローマ皇帝)カッサーノの戦いカディスの戦いカスティーリャ王国カタルーニャ君主国キアーリの戦いクリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)クレモナの戦いクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラールグレートブリテン王国グイード・フォン・シュターレンベルクケルン大司教ケベックコブレンツシチリア王国シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)ジャン=バティスト・コルベール (トルシー侯)ジャコバイトジョン・チャーチル (初代マールバラ公)ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)ジョージ1世 (イギリス王)ジョージ・ルークジブラルタルジブラルタルの占領ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)スペイン君主一覧スペイン帝国スペイン・ハプスブルク朝ストラスブールステュアート朝スコットランド王国サラ・ジェニングスサラゴサの戦いサルデーニャサヴォイア公国四国同盟戦争神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝第2次百年戦争瀬原義生選帝侯領邦西ヨーロッパ林健太郎 (歴史学者)新人物往来社11月1日1697年1698年1700年1701年1701年王位継承法1702年1702年8月の海戦1703年1704年1705年1706年1707年1708年1709年1710年1711年1712年1713年1714年17世紀18世紀2007年 インデックスを展開 (190 もっと) »

はとこ

はとこは、自分からみて祖父母の兄弟姉妹の孫である。6親等の傍系親族の一つ。再従兄弟、又従兄弟(またいとこ)、二従兄弟(ふたいとこ)ともいう。.

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南ネーデルラント

南ネーデルラント(みなみネーデルラント、Pays-Bas du Sud)は、スペイン(1579年 - 1713年)、オーストリア(1713年 - 1794年)及びフランス(1794年 - 1815年)により支配された低地諸国の一部の地域を指す。時代によって、スペイン領ネーデルラント、オーストリア領ネーデルラントとも呼ばれる。この領域は、現在のベルギーのほとんど(リエージュ司教領を除く:ここは神聖ローマ帝国の一部であった)とルクセンブルク(現在のベルギーのリュクサンブール州、ドイツのラインラント=プファルツ州の一部も含む)と、1678年までは北フランスの一部を含んでいた。.

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友清理士

友清 理士(ともきよ さとし、1967年 - )は、日本の歴史作家、翻訳家。アメリカ独立戦争やスペイン継承戦争などの近世ヨーロッパ史に関する著作や翻訳で知られる。.

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同君連合

同君連合(どうくんれんごう)は、複数の君主国の君主が同一人物である状態・体制のことである。同君連合の形態は大きく2つに分けることができる。同君連合の各構成国がそれぞれ独立した主権をもち続ける人的同君連合 と、各構成国を超えた中央政府が置かれて一元的にコントロールされる物的同君連合 の2つである。.

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合同法 (1707年)

レートブリテン王国の国旗 合同法(ごうどうほう、)は、1707年、イングランド王国とスコットランド王国が合併し、連合王国としてグレートブリテン王国を建国することとした法。合同法の一つ。イギリスの歴史における政治事件であり、この合同法の可決をもって、1707年5月1日、グレートブリテン島全土を統治するグレートブリテン王国が成立した。.

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堀米庸三

堀米 庸三(ほりごめ ようぞう、1913年2月24日 - 1975年12月22日)は、山形県河北町生まれの歴史家。専攻は西洋中世史。.

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大同盟戦争

大同盟戦争(だいどうめいせんそう、War of the Grand Alliance, guerre de la Grande Alliance, 1688年 - 1697年)は、膨張政策をとるフランス王ルイ14世に対してアウクスブルク同盟に結集した欧州諸国が戦った戦争である。アウクスブルク同盟戦争(War of the League of Augsburg, Guerre de la Ligue d'Augsbourg)とも九年戦争(Nine Years' War)、プファルツ戦争またはプファルツ継承戦争(Pfälzischer Erbfolgekrieg)とも言う。 主戦場となったのはドイツのライン地方やスペイン領ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク一帯)で、アイルランドやイタリア、スペイン北部、北アメリカにも拡大した。アイルランドではしばしばウィリアマイト戦争と呼ばれ、北アメリカではウィリアム王戦争と呼ばれる。.

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大北方戦争

大北方戦争(だいほっぽうせんそう、、、、、、、1700年 - 1721年)は、スウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)を結成した諸国とがスウェーデンの覇権をめぐって争った戦争であり、近世の北欧、中欧、そして東欧における重要な画期となった。.

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大類伸

大類 伸(おおるい のぶる、1884年2月2日 - 1975年12月27日)は、日本の西洋史学者。東北帝国大学教授、帝国学士院会員、日本学士院会員。.

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宣戦布告

宣戦布告(せんせんふこく、declaration of war)とは、紛争当事者である国家が相手国に対して戦争行為(hostilities) を開始する意思を表明する宣言である。開戦宣言、戦争宣言とも呼ばれる。.

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仏蘭戦争

仏蘭戦争(ふつらんせんそう、Guerre de Hollande, Hollandse Oorlog, Holländischer Krieg, Franco-Dutch War, 1672年 - 1678年)は、17世紀に発生したフランス王国とオランダ(ネーデルラント連邦共和国)・ハプスブルク帝国・スペインとの戦争である。初めはフランス・イングランドとオランダの戦いだったが、途中からイングランドが中立、神聖ローマ帝国諸侯とスペインがオランダと同盟を結び参戦、フランスもスウェーデンを戦争に引き入れ規模が拡大していった。.

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彩流社

彩流社(さいりゅうしゃ)は、日本の出版社。海外文学を中心に人文社会関連、趣味・実用書、ほぼ全てのジャンルを網羅し現在まで千点を超える書籍を刊行する。.

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北アメリカ

北アメリカ(きたアメリカ、North America、América del Norte、Amérique du Nord)は、アメリカ(米州)の北半の、北アメリカ大陸を中心とした地域である。六大州の1つ。漢字では北米(ほくべい)と表す。.

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北アメリカ大陸

北アメリカ大陸(きたアメリカたいりく、North American continent)、通称北米大陸(ほくべいたいりく)は、現在においては南北アメリカ大陸のうち、パナマ地峡より北側の部分のこと。かつてはローラシア大陸から分かれ、ゴンドワナ大陸から分かれた南アメリカ大陸とは別々に存在していた大陸であった。面積は約2400万平方キロメートルである。.

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ナミュール

ナミュール(フランス語・英語:Namur, ワロン語:Namuer, オランダ語:Namen)は、ベルギーのワロン地域、ナミュール州の都市。.

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ナバラ王国

ナバラ王国(ナバーラ王国とも、Nafarroako Erresuma、Reino de Navarra、Royaume de Navarre)は、中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国。824年バスク人の首領アリスタがパンプローナで王として選ばれフランク王国に対する反乱を率いたことによる。ナバラの名は、7世紀のスペインでの西ゴート族の時代が終わりを告げた頃から登場している。.

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ナポリ王国

ナポリ王国(ナポリおうこく、Regno di Napoli)は、13世紀から19世紀にかけて、ナポリを中心に南イタリアを支配した国家。 13世紀末にシチリア島とイタリア半島南部を支配していた中世シチリア王国が分裂した際、半島側の領土を支配下に置いた王国である。19世紀初頭、シチリア島のシチリア王国とナポリ王国は正式に統合され「両シチリア王国」となった。.

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ミノルカ島の占領

ミノルカ島の占領(Capture of Minorca)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで、1708年9月14日から9月30日にかけてイギリス軍が地中海のスペイン領であるバレアレス諸島のメノルカ島を守備するスペイン軍と交戦した。なおミノルカ島という名称はメノルカ島の英語名である。 イギリスはフランス・スペインを地中海から抑えるため海外領土を奪い、1704年にジブラルタルを占領して地中海から大西洋への出口であるジブラルタル海峡を監視できる場所を手に入れた。より封鎖を確実にするため1708年にスペインのイングランド駐屯軍の司令官ジェームズ・スタンホープはスペイン王位候補者カール大公とスペイン方面司令官グイード・フォン・シュターレンベルクと相談の上でジブラルタルより東のメノルカ島遠征を計画した。これに地中海艦隊司令官ジョン・リークが協力、8月末にスタンホープのイギリス軍を乗せた艦隊はメノルカ島へ出航した。 メノルカ島は西にシウタデリャ・デ・メノルカ、北にフォルネルス、東にマオーの3つの港があり、マオーの入り口に築かれたセントフィリップ砦にスペイン軍が立て籠もっていた。9月14日に上陸したイギリス軍は作戦を開始、9月20日にフォルネルスを落とし、9月22日にシウタデリャも降伏、残ったマオーは艦隊砲撃と続く陸軍の突入で9月30日に降伏、メノルカ島はイギリスに制圧された。 戦後メノルカ島はスタンホープがカール大公と交渉した結果イギリス領となり、イギリス軍はフランスの港湾都市トゥーロンを監視出来るようになり、以後大規模な海戦は起こらなかった。同時にフランスに与していたイタリアの教皇領にも圧力をかけ、ローマ教皇クレメンス11世は屈服して翌1709年にカール大公をスペイン王と認めた。1713年のユトレヒト条約でメノルカ島とジブラルタルは正式にイギリス領と認められ、地中海を制する重要拠点を手に入れた。.

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ミラノ公国

人を飲み込む竜はミラノの昔話からきており、ヴィスコンティ家の紋章でもあった。現在はミラノのシンボルとして定着しており、アルファロメオのロゴの元にもなっている。 ミラノ公国(Ducato di Milano, Ducatus Mediolani)は、1395年から1535年(断続あり)までイタリア北部の都市ミラノを首都として存在した公国である。.

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マラガの海戦

マラガの海戦(英語:Battle of Málaga, フランス語:Bataille navale de Malaga)はスペイン継承戦争中最大の海戦。1704年8月24日にスペインのマラガ沖でフランス・スペイン連合艦隊とイングランド・オランダ連合艦隊の間で行われた。 ジブラルタルを英蘭連合軍が占領した数週間後に、フランス艦隊がトゥーロンを出航してジブラルタルへ向かっているとの情報を得た英蘭艦隊が、スペイン・マラガ沖でこれを迎撃すべく待ち受けて海戦が始まった。双方とも戦列艦を主力とした戦列を形成して戦った。砲門、人員、隻数総ての面において英蘭艦隊が優位であったが、戦闘による被害は英蘭艦隊のほうが大きかった。しかしながら、フランス艦隊は英蘭艦隊に壊滅な打撃を与えることができず、ジブラルタル上陸が果たせなかったため、英蘭は戦略目標を達成することができた。 後にスペインで提督となるブラス・デ・レソは、この戦いで片足を失っている。 Category:スペイン継承戦争の戦闘 Category:マラガ Category:イングランドの海戦 Category:フランスの海戦 Category:スペインの海戦 Category:オランダの海戦 Category:1704年の戦闘 Category:1704年のヨーロッパ.

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マリー・ルイーズ・ドルレアン

マリー・ルイーズ・ドルレアン (Marie Louise d'Orléans, 1662年4月26日 - 1689年2月12日)は、スペイン王カルロス2世の最初の王妃。スペイン語名はマリア・ルイサ・デ・オルレアンス(Maria Luisa de Orléans)。.

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マリー・テレーズ・ドートリッシュ

マリー・テレーズ・ドートリッシュ(Marie Thérèse d'Autriche, 1638年9月10日 - 1683年7月30日)は、フランス王ルイ14世の王妃。父はスペイン王フェリペ4世、母はフランス王アンリ4世とマリー・ド・メディシスの娘イサベル・デ・ボルボン。スペイン名はマリア・テレサ(María Teresa de Austria)。 ルイ14世の父ルイ13世はイサベルの兄、母アンヌ・ドートリッシュはフェリペ4世の姉であり、ルイ14世とマリー・テレーズとは父方・母方双方で従兄妹に当たる。神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后マルガリータ・テレサは異母妹、スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世は異母弟である。.

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マリー・ド・メディシス

『マリー・ド・メディシスの肖像』(1622年)ピーテル・パウル・ルーベンス画、プラド美術館所蔵 マリー・ド・メディシス(, 1575年4月26日 - 1642年7月3日)は、フランス国王アンリ4世の2番目の王妃で、ルイ13世の母である。.

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マリー・アンヌ・ド・バヴィエール

マリー・アンヌ・ド・バヴィエール マリー・アンヌ・クリスティーヌ・ヴィクトワール・ド・バヴィエール(Marie Anne Christine Victoire de Bavière, 1660年11月28日 - 1690年4月20日)は、フランス王太子ルイ(グラン・ドーファン)の妃。バイエルン選帝侯フェルディナント・マリアと妃ヘンリエッテ・アーデルハイトの長女で、ドイツ名はマリア・アンナ・クリスティーネ・ヴィクトリア(Maria Anna Christine Victoria)。バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルとケルン選帝侯ヨーゼフ・クレメンスは弟で、アストゥリアス公ヨーゼフ・フェルディナントと神聖ローマ皇帝カール7世・ケルン選帝侯クレメンス・アウグスト兄弟は甥に当たる。 1680年にルイ14世の長男ルイ王太子と結婚した。夫との間に以下の3男をもうけた。.

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マリアナ・デ・アウストリア

マリアナ・デ・アウストリア (Mariana de Austria, 1634年12月23日 - 1696年5月16日)は、スペイン王フェリペ4世の2度目の王妃。マリア・アナ(Maria Ana)ともいう。ドイツ語名ではマリア・アンナ・フォン・エスターライヒ(Maria Anna von Österreich)と呼ばれた。.

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マリア・アナ・デ・アウストリア

マリア・アナ・デ・エスパーニャ(María Ana de España)またはマリア・アナ・デ・アウストリア(María Ana de Austria, 1606年8月18日 - 1646年5月13日)は、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の皇后。ドイツ語名はマリア・アンナ・フォン・シュパーニエン(Maria Anna von Spanien)。.

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マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1574-1616)

マリア・アンナ・フォン・バイエルン(Maria Anna von Bayern, 1574年12月8日 - 1616年3月8日)は、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の最初の妃。フェルディナントの帝位継承以前に亡くなったため、皇后とならなかった。.

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マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク

マリア・アンナ・フォン・デア・プファルツ=ノイブルク (Maria Anna von der Pfalz-Neuburg, 1667年10月28日 - 1740年7月16日)は、スペイン王カルロス2世の2度目の王妃。スペイン語名はマリアナ・デ・ネオブルゴ(Mariana de Neoburgo)。 プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムとヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の娘エリザベート・アマーリアの娘。兄にヨハン・ヴィルヘルム、カール3世フィリップ、姉に神聖ローマ皇帝レオポルト1世妃エレオノーレ・マグダレーネ、ポルトガル王ペドロ2世妃マリア・ソフィア、妹にパルマ公子オドアルド2世妃ドロテア・ゾフィー、姪にスペイン王フェリペ5世の2度目の王妃エリザベッタ・ファルネーゼがいる。.

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マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ

マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ(Maria Antonia von Österreich, 1669年1月18日 - 1692年12月24日)は、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの最初の妃。神聖ローマ皇帝レオポルト1世と最初の皇后マルガリータ・テレサの娘として、ウィーンで生まれた。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世、カール6世の異母姉に当たる。.

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マルプラケの戦い

マルプラケの戦い(Battle of Malplaquet)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで、1709年9月11日にグレートブリテン王国(イギリス)・オーストリア(神聖ローマ帝国)・ネーデルラント連邦共和国(オランダ)同盟軍とフランス軍が現在のフランス・ノール=パ・ド・カレー地域圏・ノール県で衝突した。.

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マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ

マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(西:Margarita Teresa de España, 1651年7月12日、マドリード - 1673年3月12日、ウィーン)は、スペイン王フェリペ4世の娘で、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の最初の皇后。ドイツ語名はマルガレーテ・テレジア・フォン・シュパーニエン(Margarete Theresia von Spanien)。フランス王ルイ14世妃マリア・テレサは異母姉、スペイン・ハプスブルク朝最後の王カルロス2世は同母弟である。 ディエゴ・ベラスケスの描いた可憐な肖像画でも知られる。.

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マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃)

マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (Margarete von Österreich, 1584年12月25日-1611年10月3日)は、スペイン王フェリペ3世の王妃。スペイン語ではマルガリータ・デ・アウストリア=エスティリア(Margarita de Austria-Estiria)。 オーストリア大公カール2世(マクシミリアン2世の弟)とマリア・アンナ・フォン・バイエルンの娘としてグラーツで生まれた。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹。姉にアンナ、妹にコンスタンツェ(この2人は相次いでポーランド王ジグムント3世の妃となった)がいる。 1599年にフェリペと結婚。宮廷で芸術家たちのパトロンとなった。フェリペとの間に8子をもうけた。.

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マールバラ公

マールバラ公爵(Duke of Marlborough)は、イギリスの公爵位。イングランド貴族。モールバラとも表記される。 この爵位は1702年にスペイン継承戦争でイングランド軍司令官を務めた初代マールバラ伯爵ジョン・チャーチルに授与されたことに始まる。しかし初代公爵が女子しか残さなかったため、議会から特に許されて女系継承が行われ、3代公爵チャールズ・スペンサー以降スペンサー家によって代々世襲されるようになった。5代公爵ジョージはチャーチルの家名を復活させて「スペンサー=チャーチル」に改姓している。2018年現在の当主は12代公爵チャールズ・スペンサー=チャーチルである。 爵位をもっている分家にスペンサー伯爵家とチャーチル男爵家の2つが存在する。.

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マース川

250px マース川(オランダ語:Maas、フランス語:Meuse ムーズ)は、フランス北東部を水源としベルギーを流れオランダで北海へ注ぐ川である。 9世紀頃よりアルザス、ロレーヌ地方がフランスに併合されることとなるヴェストファーレン条約が締結された1648年まで、神聖ローマ帝国の西の国境線がこの河川であった。このことよりドイツ国歌「ドイツの歌」の歌詞の1番にて「マース川からメーメル川まで」とその領土範囲を郷愁的に歌っていることでも有名である(1番は現在のドイツでは国歌とされていない)。また、流域であるベルギーのワロン工業地帯は欧州大陸で最初に産業革命が始まったところとしても知られている。 オランダのナイメーヘン付近でマース・ワール運河によりライン川と接続され、フランスでは運河網によってセーヌ川とも通じている。北海に注ぐ河口部では、オランダの大規模治水計画であるデルタ計画により可動堰や防潮水門等で水位制御されている。.

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マドリード

マドリード(Madrid)は、スペインの首都である。マドリード州の州都であり、マドリード州の唯一の県であるマドリード県の県都でもある。 人口は約325万人。2011年の都市圏人口は541万人であり、世界第57位、欧州では第5位である。 紋章はイチゴノキとクマ。 スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。 ヨーロッパ屈指の世界都市であり、アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界15位の都市と評価された。.

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マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)

マクシミリアン2世エマヌエル マクシミリアン2世エマヌエル マクシミリアン2世エマヌエル(Maximilian II.

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チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)

3代ピーターバラ伯チャールズ・モードント(Charles Mordaunt, 3rd Earl of Peterborough, KG, PC, 1658年 - 1735年10月25日)は、イギリスの貴族、政治家、軍人。.

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ネーデルラント継承戦争

ネーデルラント継承戦争(ネーデルラントけいしょうせんそう、War of Devolution)は、1667年から1668年にかけて行われた、フランス王国とスペイン王国の間の戦争。フランス王ルイ14世がスペイン領ネーデルラントの継承権を主張して起こした。フランドル戦争、帰属戦争とも言う。.

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ネーデルラント連邦共和国

ネーデルラント連邦共和国(ネーデルラントれんぽうきょうわこく、Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden、Republic of the Seven United Netherlands)は、16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家。現在のオランダ王国の原型であり、そのことからオランダ共和国などと呼ばれることもある。 連邦共和国はヘルダーラント州、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、フリースラント州、オーファーアイセル州、フローニンゲン州のネーデルラント北部7州からなり、これにドレンテ準州、国境地帯の連邦直轄領ブラーバント、リンブルフ、フランデレンなどが加わっていた。中でもホラント州が連邦の経費の半分以上を負担し、人口、富、対外関係の面で他の6州より抜きんでていた。そのため、この州の名がそのまま連邦共和国、さらに今日の王国の通称となった。日本語名の「オランダ」もホラントのポルトガル語名に由来する。.

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ハノーヴァー朝

ハノーヴァー朝(ハノーヴァーちょう、英語:)は、1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝。ステュアート朝の断絶を受けて、ドイツ北部の領邦君主の家系であったハノーヴァー家から国王を迎えて成立した。 ハノーヴァー家(House of Hanover )は、ドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領の分邦の一つカレンベルク侯領(1692年からハノーファー選帝侯領)の君主の家系であったが、ステュアート家の血筋を引いていたことからイギリスの王家となり、ハノーファー選帝侯領(1814年からハノーファー王国)とイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。1837年、女王ヴィクトリアの即位によりハノーファー王国との同君連合を解消した。 1901年のヴィクトリアの死後は、夫(王配)であったアルバートの家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。これらは別項で扱うが、ヴィクトリアの血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることがある。 なお、初代(ジョージ1世)から4代(ジョージ4世)まで、連続して4人の「ジョージ」(ゲオルク)という名の王が在位していたことから、この時期を特にジョージ王朝(時代)と称することがあり、文化史ではこの時期を中心とした「ジョージアン時代」という区分もある。.

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ハノーファー君主一覧

ハノーファー君主一覧では、ハノーファーを中心とする領邦国家を統治した君主を列挙する。 ヴェルフ家が支配するブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国は頻繁に一族間で領地の分割が行われた。このうち、カレンベルク侯領とゲッティンゲン侯領を相続したゲオルクはハノーファーに拠点を移した。ゲオルクの息子であるエルンスト・アウグストは1692年に選帝侯位を獲得し、それは居住地であるハノーファーに因んでハノーファー選帝侯と呼ばれるに至った。 次代のゲオルク・ルートヴィヒが1705年にリューネブルク侯領を相続したことによりブラウンシュヴァイク=リューネブルクは再統一に近い形となった(ヴォルフェンビュッテル侯領は同族が治めていた)。さらにゲオルク・ルートヴィヒはイングランド王ジェームズ1世の曾孫であったことから、1714年にイギリス(グレートブリテン王国)の国王ジョージ1世として即位した。こうしてハノーヴァー朝が創始され、ハノーファーとイギリスの同君連合体制が敷かれた。なお、選帝侯及び王家の名前として一般にハノーファーが使われているが、正式名称はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯であり、家名も正式にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク家(Hause of Brunswick-Lüneburg)の名がもっぱら使用された。 ゲオルク3世(ジョージ3世)の代にはフランス帝国によるハノーファー占領と1806年の神聖ローマ帝国崩壊で選帝侯の地位を失った。1814年のウィーン会議の結果、ハノーファー王国が成立し、ゲオルク3世はその初代国王となる。1837年にヴィクトリアが即位したが、ハノーファーは女子の相続を認めないサリカ法を採用していたので、叔父のカンバーランド公エルンスト・アウグストがハノーファーの王位に就く事でイギリスとの同君連合は解消された。ただし、同君連合解消後もカンバーランド公及びイギリス王族の地位は認められた。エルンスト・アウグストの息子ゲオルク5世は1866年に勃発した普墺戦争でオーストリア側に就き、その結果ハノーファー王国はプロイセンに占領・併合されて滅びた。.

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ハプスブルク帝国

ハプスブルク帝国(ハプスブルクていこく)大津留厚「ハプスブルク帝国」世界民族問題事典、平凡社、2002年は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合である。単一の「帝国」ではなかった、あるいは推戴する君主が「皇帝」でなかった時代もあるが、日本語ではこの呼称が用いられることが多い。ドイツ語では Habsburgermonarchie または Habsburgisches Reich であるが、前者は直訳するとハプスブルク君主国であり、後者の場合もライヒ (Reich) は必ずしも「帝国」を意味しない。 成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリアと呼称していた。1804年から1867年まではオーストリア帝国、1867年から1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国を総称とした。 ただし、これより古い時代の、神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世を君主とする国家群なども、広く「ハプスブルク家の帝国」といった意味で「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがある。 ハプスブルク帝国(ハプスブルク家)の旗.

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ハドソン湾

ハドソン湾地図 春5月、湾の東の海岸では流氷が流れているが、湾中央はまだ凍っている。 ハドソン湾(ハドソンわん、英語:Hudson Bay、仏語:baie d'Hudson)は、カナダ北東にある面積123万平方kmにおよぶ大きな湾。その水深は比較的浅い。西経78度から95度、北緯51度から70度までの範囲に広がる。島が多く、多島海のひとつ。 湾内にはオタワ諸島、ベルチャー諸島、アキミスキ島などの島があり、全てヌナブト準州に属している。ハドソン湾の南部、オンタリオ州とケベック州の境に向かってジェームズ湾が切れ込んでいる。また東はハドソン海峡で大西洋に、北はフォックス海峡とローズウェルカム海峡からフォックス湾などを経て、北極海と繋がっている。国際水路機関(IHO)はハドソン湾を北極海の一部に分類している。 ハドソン湾に注ぐ河川のうち大きなものは東のケベック州から注ぐラ・グランド川および、ウィニペグ湖から発しマニトバ州を流れる西のネルソン川(支流:ノースサスカチュワン川、サウスサスカチュワン川、サスカチュワン川、ボウ川、レッド川)、およびチャーチル川である。また南のオンタリオ州からはジェームズ湾にオールバニー川、ムース川などが流れ込んでいる。ハドソン湾に流れる水系の流域は北アメリカ大陸の中央部からハドソン湾を取り囲む島々に広がり、面積は390万平方kmに及ぶ。カナダ国土の半分ほど(ケベック州とオンタリオ州の北側の大部分、マニトバ州とサスカチュワン州のほとんど、アルバータ州の南半分、ヌナブト準州の南東部)とアメリカ合衆国の一部(ノースダコタ州、ミネソタ州)も含む。 ハドソン湾という名前は、1610年に湾を探検したヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)にちなんでつけられた。先住民の東部クリー語ではハドソン湾を「泥の水」という意味の「Wînipekw」(南部方言)または「Wînipâkw」(北部方言)という。ウィニペグ湖(Lake Winnipeg)と語源は同様である。.

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バルセロナ

バルセロナ(Barcelona、 バルサローナ)は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県のムニシピ(基礎自治体)。カタルーニャ州の州都であり、バルセロナ県の県都である。2017年に独立を宣言したカタルーニャ共和国の首都にもなっている。人口はマドリードに次いでスペインで第2位、カタルーニャでは第1位である。.

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バルセロナ包囲戦 (1705年)

1次バルセロナ包囲戦(カタルーニャ語:Setge de Barcelona)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1705年にイングランド・オランダ・オーストリア・ポルトガル連合軍がカタルーニャの中心地バルセロナを攻め落とした戦いである。バルセロナを攻め落とした連合軍はカタルーニャ、バレンシア地方を手中にした。 6月20日にポルトガルの首都リスボンに到着したイングランド艦隊はオランダ艦隊と合流して7月24日に出港、8月22日にバルセロナの海側を封鎖し、カール大公率いる兵を上陸させた。しばらく両軍はにらみ合いを続けていたが、9月13日にイングランド軍司令官のピーターバラ伯チャールズ・モードントはバルセロナ南のムンジュイック砦への攻撃を開始した。連合軍は一時は砦の守備兵に押し返されオーストリアの将軍ゲオルク・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットも戦死したものの砲撃によって17日に砦を占領することに成功した。 砦の陥落を見たバルセロナの住民は暴動を起こし、町は大混乱に陥った。ピーターバラはすぐにバルセロナに侵入して暴動を停止させ、バルセロナは同盟軍の手に入った。同盟軍はここを拠点にマドリードのフェリペ5世に対抗していった。.

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バルセロナ包囲戦 (1706年)

2次バルセロナ包囲戦(カタルーニャ語:Setge de Barcelona)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1706年4月3日から27日にかけてスペイン・フランス連合軍がイングランド・オーストリア同盟軍が守るカタルーニャの中心地バルセロナを包囲した戦いである。 イングランド・オーストリア同盟軍は1705年9月の第1次バルセロナ包囲戦でバルセロナをスペイン軍から奪い、カタルーニャ・アラゴン・バレンシアを根拠地としてカスティーリャのフェリペ5世と相対した。対するスペイン・フランス連合軍は1704年8月にジブラルタルを占拠され(ジブラルタルの占領)、奪還に向かい9月にジブラルタル包囲を開始したが、マラガの海戦でフランス・スペイン連合艦隊はジブラルタル進出を阻止され、1705年3月21日のマルベラの海戦でポルトガルから出航してきたジョン・リーク率いるイングランド艦隊にフランス艦隊を撃破されたため4月にジブラルタル包囲は中止となった。 バルセロナ占拠から動きは無かったが、4月3日にフランスの将軍テッセ伯ルネ・ド・フルーレがバルセロナに進軍、マドリードからフェリペ5世も合流してバルセロナ包囲が始まった。カタルーニャを拠点としていたカール大公はバルセロナに籠城してスペイン・フランス連合軍に抵抗、ジブラルタルからリークが艦隊を率いてバレンシアに駐屯していたピーターバラ伯チャールズ・モードントとジェームズ・スタンホープらと合流しバルセロナ救援に向かった。ピーターバラはスペイン・フランス連合軍がカタルーニャに釘付けになっている隙にマドリードを落とすことを提案したが、リークが却下してバルセロナに向かうと慌てて艦隊に乗り込み出航した。 スペイン・フランス連合軍は4月21日にバルセロナの付近にあるムンジュイックの砦を奪いバルセロナを窺ったが、イングランドの援軍が来たことを知ると27日に包囲を注して撤退した。同盟軍は好機を逃さず6月にカール大公・ピーターバラがカタルーニャ・バレンシアから出陣、ポルトガルに駐屯していたゴールウェイ伯ヘンリー・デ・マシューも進軍して6月29日にマドリードを奪取した。フェリペ5世はマドリードから逃れたが、同盟軍はそれぞれの連携が取れず8月に撤退、10月4日にフェリペ5世がマドリードへ復帰した。スペイン戦線は仕切り直しとなったが、フランスの援軍を得たフェリペ5世は反撃に出て同盟軍と戦っていった。.

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バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)

3次バルセロナ包囲戦(カタルーニャ語:Setge de Barcelona)は、1713年7月25日から1714年9月11日までスペイン(実質的にはカスティーリャ王国が母体)・フランス連合軍がカタルーニャの首都バルセロナを包囲・攻め落とした戦いである。この戦いがスペイン継承戦争最後の戦いであり、スペイン全土を平定したフェリペ5世が、名実ともに統一スペイン王国の国王となった。 1705年の第1次バルセロナ包囲戦でイングランド・ポルトガル同盟軍がバルセロナを陥落させてからはカタルーニャはフェリペ5世とスペイン王位を争ったカール大公の根拠地となり、同盟軍は1706年の第2次バルセロナ包囲戦でスペイン軍の包囲を持ちこたえ逆にマドリードを落とした。しかし、すぐにフェリペ5世に奪還されて仕切り直しになっただけでなく1707年のアルマンサの戦いでスペイン・フランス連合軍に大敗してからは劣勢となり、アラゴン・バレンシアがスペイン軍に制圧、残されたカタルーニャもバルセロナ周辺しか保てなくなっていた。 1711年にカール大公が神聖ローマ皇帝カール6世に即位してドイツへ戻ると同盟軍がスペインとオーストリアの合邦を恐れ和睦に動き、1713年にユトレヒト条約を締結、カタルーニャの同盟軍も引き上げバルセロナは孤立無援となった。にも拘らずバルセロナ市民は抵抗を続け、7月25日にスペイン軍が包囲したが砲兵の不足で落とせず戦闘は長引いた。 1714年にオーストリアとフランスがラシュタット条約を調印するとフランスが4月から5月に2万の援軍を送り、援軍の指揮官ベリック公が包囲を受け持ち攻撃、8月30日に市内へ入城してバルセロナ側の敗北が決まり、9月11日にバルセロナは降伏してカタルーニャは平定された。フェリペ5世は戦後スペインを中央集権国家に作り変えることを目指し、新国家基本法で反抗したアラゴン・バレンシア・カタルーニャの自治権を取り上げ、カタルーニャ語の禁止、大学の廃止などカタルーニャは閉塞を強いられていった。陥落の9月11日はカタルーニャの記念日(カタルーニャの日)となっている。.

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バレンシア王国

バレンシア王国の位置 バレンシア王国(バレンシアおうこく、バレンシア語: Regne de Valencia)は、イベリア半島東海岸にかつてあった王国で、アラゴン連合王国を構成する国の一つ。 バレンシア王国は、イスラム教徒のタイファとして成立したが、レコンキスタにより1237年キリスト教のアラゴン連合王国に占領された。カトリック両王の結婚によりアラゴンとカスティーリャ王国が同君連合となり、その後スペイン王国が成立すると、バレンシア王国はスペインの構成国家となった。 存在している間バレンシア王国は、アラゴン、そしてスペインから与えられた広い自治権を有する憲章の上で、独自法と自治機関を持ち、統治されていた。スペイン継承戦争でバレンシアが敗北したために、フェリペ5世は新国家基本法 (en) を1707年に布告し、バレンシアから全ての自治と特権を奪った。 境界線、そして現在のスペインの自治州であるバレンシア州の同一性は、基本的にかつてのバレンシア王国に基づいている。.

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バーデン (領邦)

バーデン(標準, アレマン語: )は、ドイツ南西部、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州に存在した領邦。辺境伯領、後に大公国として12世紀から20世紀初頭まで存続した。 1112年にツェーリンゲン家のヘルマン2世がシュヴァーベンにおいて辺境伯となり、子孫が代々所領と財産を引き継いでいったことから始まる。バーデン家内で抗争を繰り広げ、幾度かの分裂を繰り返したが、1771年にバーデン=ドゥルラハ辺境伯カール・フリードリヒが所領を統一、バーデン辺境伯となった。また、カール・フリードリヒはナポレオン戦争最中の1803年に選帝侯となり、1806年に帝国が解体すると大公となった。1815年にドイツ連邦へ加盟した。1840年、バーデン大公国邦有鉄道会社を設立した。1866年、南ドイツ連邦への加盟が予定された。1871年にドイツ帝国の構成国となり、1918年のドイツ革命まで存続した。.

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バイロイト侯領

1791年のバイロイト侯領地図 バイロイト侯領(Fürstentum Bayreuth、1604年まではクルムバッハ侯領 Fürstentum Kulmbach)は、フランケン帝国クライスに属し、ホーエンツォレルン家の傍流が統治した。本家筋にあたるブランデンブルク選帝侯家(1701年以降はプロイセン王家)と緊密な関係を持ちながら、1792年まで独立した領邦を保った。この侯領の統治者の政治的な活動範囲は、もっぱらフランケン帝国クライス内とその周辺地域に留まった。この侯領は、「ブランデンブルク=バイロイト辺境伯領(すなわち、かつてのブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯領)」とも称される。 1604年にブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアンが宮廷をクルムバッハからバイロイトに移した後、この地域をまずは「クルムバッハ=バイロイト侯領」、次いで単に「バイロイト侯領」と呼んだのであった。しかし、この侯領の本来の名称は「ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯領」のままであった。.

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バイエルン大公

バイエルン大公(バイエルンたいこう)は、中世ドイツの部族大公。ドイツ南東部からオーストリアにかけてのバイエルン公国を支配した。 「大公」とはドイツ語Herzogの訳語であるが、ドイツ史においては中世の研究では「大公」、初期近代以降の研究では「公」という訳語が用いられるのが通常である。特にはっきりした境界があるわけではないが、以下では便宜上ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公位を独占するようになる1180年以降に限ってバイエルン公という用語を使うことにする。また、1623年以降バイエルン公は選帝権を保持したためバイエルン選帝侯と呼ばれる。.

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バイエルン選帝侯領

バイエルン選帝侯領(バイエルンせんていこうりょう、ドイツ語:Kurfürstentum Bayern)は、1648年から1805年まで存在した、神聖ローマ帝国の領邦。帝国崩壊後にバイエルン王国へと発展した。現ドイツ・バイエルン州の一部にあたる。.

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バスク地方

歴史的な領域としてのバスク地方(バスク語:Euskal Herria)は、バスク人とバスク語の歴史的な故国を指す概念である。ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペインの両国にまたがっている。 スペイン側にはバスク州の3県とナバーラ州の計4領域があり、フランス側にはフランス領バスクの3領域がある。バスク・ナショナリズム運動の中で「サスピアク・バット」(7つは1つ)というスローガンが掲げられ、7領域からなるバスク地方の地理的範囲が示された萩尾ほか(2012)、pp.24-28。バスク地方全体の旗としてイクリニャ(バスク国旗)が、バスク地方のシンボルとしてラウブル(バスク十字)がある萩尾ほか(2012)、pp.274-275。.

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ポルトガル王国

ポルトガル王国(ポルトガルおうこく、)は、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に、1139年から1910年まで存在した王国。.

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メノルカ島

メノルカ島(メノルカとう、)は、地中海西部のバレアレス海にあぶバレアレス諸島北東部にある島。行政的にはスペイン・バレアレス諸島州に属する。2010年の人口は94,383人。マヨルカ島やカブレーラ島などとともに、バレアレス諸島北東部の島々はジムネジアス群島と呼ばれる。最大都市はマオー=マオン。.

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メイナード・ションバーグ (第3代ションバーグ公爵)

3代ションバーグ公メイナード・ションバーグ(Meinhardt Schomberg, 3rd Duke of Schomberg, KG, 1641年6月30日 - 1719年7月5日)は、イギリスの貴族・軍人。初代ションバーグ公フレデリック・ションバーグの長男でチャールズ・ションバーグの兄。 ドイツのケルンで生まれ、父と共にポルトガル王政復古戦争を戦い、戦後父がフランスに帰化するとラ・ロシェルに定住、オランダ侵略戦争に従軍して1678年に元帥に昇進した。1685年にフォンテーヌブローの勅令が発令、宗教問題でフランスから出国した父に従いブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの下へ移り、1689年にイングランドへ移住、1690年に父が仕えたイングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世から騎兵連隊隊長に任命され、ウィリアム3世に従軍してアイルランドへ出兵した(ウィリアマイト戦争)。 アイルランドで滞在していた父と合流して南下、ボイン川の戦いでジェームズ2世・ティアコネル伯らジャコバイトと交戦した。戦闘では左翼を守備していた父が敵に討ち取られたが、右翼を率いて戦場を右に迂回して敵を引き付けたおかげで勝利に貢献、父の爵位のうちメルトラ伯位を継承(ションバーグ公位は弟のチャールズが継承)、1691年にレンスター公に叙爵、イギリス軍総司令官に任じられた(同年に解任)。1693年にチャールズが大同盟戦争で戦死するとションバーグ公位も相続、1703年にガーター勲章を受勲した。同年にスペイン継承戦争でスペイン遠征軍司令官に任命されポルトガルで待機していたが、成果を挙げられず翌1704年にゴールウェイ伯に交代した。 以後は1717年にアクスブリッジ付近(現在のヒリンドン特別区)に狩猟小屋(ヒリンドン・ハウス)を建造したほかは目立った活動が無く、1719年に78歳で死去。息子のチャールズに先立たれたため爵位は全て消滅したが、娘フレデリカを通して子孫はチャールズ2世の子孫であるレノックス家及びスペンサー家と姻戚関係を結び、ダイアナ元妃及びチャールズ王太子との間に生まれたウィリアム王子とヘンリー王子に繋がっていった。.

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モンス

モンス(フランス語:、オランダ語:、ピカルディ語:)は、ベルギーのワロン地域の都市。旧エノー伯領の首都であり、現在はエノー州の州都となっている。ベルギーに5つある控訴院のうちの1つが設置されている。 首都ブリュッセルから南西に50km、パリから北東に約200km、リールから東に75km、アーヘンから西に約150kmの場所に位置する。市内には欧州自動車道路のE19(アムステルダム - アントウェルペン - ブリュッセル-パリ)とE42(リール - シャルルロワ - リエージュ - フランクフルト・アム・マイン)の交差点がある。 歴史的に重要な建築遺産や文化遺産が多く残っており、2002年からワロン地域の文化首都に指定されている。さらに、2015年に欧州文化首都となることが決定している。.

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ユトレヒト条約

ユトレヒト条約後の北アメリカ(1750年) ユトレヒト条約(ユトレヒトじょうやく)は、1713年スペイン継承戦争及び並行して北アメリカ大陸で行われていたアン女王戦争の講和条約。ただし、神聖ローマ皇帝カール6世とフランス王ルイ14世との間の講和条約はラシュタット条約として別途締結された。 内容はイギリスの一人勝ちであった。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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ヨーゼフ1世

ヨーゼフ1世(Joseph I., 1678年7月26日 - 1711年4月17日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1705年 - 1711年)、ボヘミア王(在位:同)、ハンガリー王(在位:1687年 - 1711年)。ハプスブルク家の皇帝で、レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの長男、カール6世の兄である。.

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ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)

ヨーゼフ・フェルディナント・レオポルト・フォン・バイエルン(Joseph Ferdinand Leopold von Bayern, 1692年10月28日 - 1699年2月6日)は、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの子。母はその最初の妃である、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の娘マリア・アントニアである。アストゥリアス公(スペイン王太子)となり、スペイン語名ではホセ・フェルナンド・デ・バビエラ・イ・アウストリア(José Fernando de Baviera y Austria)と呼ばれた。異母弟に選帝侯位を継ぎ、神聖ローマ皇帝にもなったカール7世と、ケルン大司教、ドイツ騎士団総長に就任したクレメンス・アウグストがいる。.

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ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン

ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン(Joseph Clemens von Bayern, 1671年12月5日 - 1723年11月12日)は、ヴィッテルスバッハ家のケルン選帝侯(在位:1688年 - 1723年)。バイエルン選帝侯フェルディナント・マリアとサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の娘アデライデ・エンリエッタの次男。フランス王太子ルイの妃マリア・アンナは姉、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルは兄で、アストゥリアス公ヨーゼフ・フェルディナント、バイエルン選帝侯兼神聖ローマ皇帝カール7世、ケルン選帝侯兼ドイツ騎士団総長クレメンス・アウグスト、スペイン王フェリペ5世は甥に当たる。 ヴィッテルスバッハ家の権益保全のため、1685年に死んだ従叔父のフライジング・レーゲンスブルク司教アルブレヒト・ジギスムントの後を継ぎ、14歳にも関わらず高位聖職者となった。3年後の1688年にアルブレヒト・ジギスムントの兄であるケルン選帝侯マクシミリアン・ハインリヒが死去、ケルン選帝侯にもなった。しかし、フランス王ルイ14世が対立候補を擁立したため紛争となり、同族のプファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムに対するルイ14世の介入と共に大同盟戦争の一因となった。 1694年にリエージュ司教に選ばれ、1692年にスペイン領ネーデルラント総督に任命された兄と共にオランダに対する影響力を持つようになった。またこの頃からフランスに協力するようになり、2人の甥がスペイン王位継承者に選ばれたこともあってスペイン王位継承でルイ14世に加担、1701年にフランス軍をケルンに駐屯させオランダ侵攻の拠点にさせた。結果、スペイン継承戦争でイングランド・オランダ同盟軍に領土を占領され翌1702年にフランスへ亡命した。その後兄もブレンハイムの戦い、ラミイの戦いで大敗してバイエルンとスペイン領ネーデルラントを失いフランスへ亡命、終戦まで領土を取り戻せなかった。 1714年のバーデン条約で選帝侯に復帰、兄と共にドイツへ戻り、1723年に51歳でボンで亡くなった。選帝侯位は甥のクレメンス・アウグストが継いだ。.

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ラミイの戦い

ラミイの戦い(ラミイのたたかい、The Battle of Ramillies)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで1706年5月23日に現在のベルギー・ブラバン・ワロン州ラミイでイングランド・オランダ同盟軍とフランス・バイエルン軍が衝突した。ラミリーの戦いともいわれる。.

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ラーコーツィの独立戦争

ラーコーツィ・フェレンツ2世とエセ・タマーシュの出会い ラーコーツィの独立戦争(ラーコーツィのどくりつせんそう、Rákóczi-szabadságharc, 1703年 - 1711年)は、ハプスブルク帝国の絶対主義支配に対し、ハンガリーが自由を求めて起こした最初の重要な紛争。スペイン継承戦争に連動する形で展開した。 この戦いはハプスブルク家とハンガリー間の政治権力の不平等を是正しようと考えた富裕な進歩派上級貴族の一派が起こしたもので、ラーコーツィ・フェレンツ2世によって指導されていた。反乱を起こした貴族たちの狙いは、社会の諸身分の持つ権利を守ること、ハンガリー国家の経済的、社会的独立を保つことであった。 自由回復のための戦争は、成功すればヨーロッパ大陸の勢力均衡を崩しかねなかったし、ヨーロッパの支配的な政治理念である絶対主義を否定するものであり、結局は鎮圧された。しかし、紛争のおかげでハンガリーはハプスブルク帝国の単なる一部分として埋没するのを回避することに成功し、形ばかりとはいえ自国の国法を保つことも出来た。.

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ラーコーツィ・フェレンツ2世

ラーコーツィ・フェレンツ2世(II.

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ライン川

ライン川(ラインがわ、阿:Rhy、巴 / Rhein、Rijn、Rhin、Rhine、Rhenus)は、ヨーロッパを流れる川。 スイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルクなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。 全長1,233km。そのうちドイツを流れるのは698kmである。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開していった。また、ドイツ語の名詞には男性名詞、女性名詞、中性名詞があるが、河川のほとんどは女性名詞であるのに対し、ライン川、マイン川、ネッカー川などごく少数の川だけは男性形であらわされる。そのこともあって、ドイツ人はこの川を「父なる川」と呼んでいる。ドナウ川とともに、外国の船が自由に航行する国際河川の一つ。 下流地域は川幅が広く流れが穏やかなため、水運が盛んである。バーゼルから河口までのライン川流域圏はブルーバナナ(「太平洋ベルト」の西欧版)の一部を成す。また、産業革命の中心地のひとつとなったルール工業地帯もライン川とルール川に挟まれる形で位置しており、その充実した内陸水路と豊富な地下資源によって発達した。.

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ラインラント

ラインラントの位置 1905年のラインラント ラインラント(Rheinland)は、ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯を指す地方の名称。ラインラント=プファルツ州のほぼ全域とノルトライン=ヴェストファーレン州西部を中心に、ヘッセン州西部、バーデン=ヴュルテンベルク州北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域であるアルザスやバーデン地方は含まず、カールスルーエ付近からオランダ国境付近までを指す。ベネルクス三国やフランスのロレーヌ地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。 フランク族発祥地ということもあって方言系統はフランク語系に属し、宗教的には比較的カトリックが強い。観光名所が集まり、ドイツワインの中心的産地としても世界的に知られる。.

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ラシュタット条約

スペイン継承戦争後のヨーロッパ ラシュタット条約(ラシュタットじょうやく)は、1714年3月6日に神聖ローマ皇帝カール6世とフランス王ルイ14世との間に結ばれたスペイン継承戦争の講和条約。皇帝側全権はプリンツ・オイゲン、フランス全権はクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール。主な内容は以下の通り。.

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リール (フランス)

リール(フランス語:Lille, オランダ語・フラマン語:Rijsel ドイツ語:Ryssel)は、フランス北部の都市で、ベルギーと国境を接するオー=ド=フランス地域圏の首府、ノール県の県庁所在地である。.

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リール包囲戦 (1708年)

リール包囲戦(Siege of Lille)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1708年8月13日から12月9日までグレートブリテン王国(イギリス)・オーストリア(神聖ローマ帝国)・ネーデルラント連邦共和国(オランダ)同盟軍がフランス軍が籠もるフランス北部の要塞都市リールの包囲を敢行した。.

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リエージュ司教領

リエージュ司教領(リエージュしきょうりょう)Fürstbistum Lüttich)は、現在のベルギーに存在した神聖ローマ帝国の領邦。.

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ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯)

テッセ伯ルネ・ド・フルーレ テッセ伯ルネ・ド・フルーレ(René de Froulay, comte de Tessé, 1648年5月14日 - 1725年3月30日)は、フランス・ブルボン朝の軍人、外交官。同名のテッセ伯ルネ・ド・フルーレの長男としてル・マンで生まれた。同じく軍人のフィリベール・エマニュエル・ド・フルーレは弟。 オランダ侵略戦争で軍歴を始め、1685年に竜騎兵の隊長としてプロテスタント迫害に取り組んだ。1688年に大同盟戦争が起こると1689年にドイツ・プファルツ地方の略奪・荒廃を行い、1693年にイタリアのピネローロを包囲・陥落させた。同年からサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世と秘密交渉を行い、1696年にサヴォイアを戦争から離脱させた。1703年に元帥に任命され、スペイン継承戦争では1704年からベリック公に代わってスペインへ派遣された。 スペイン戦線では1705年にイングランド軍に奪われたジブラルタルの奪回を図ったが、イングランド艦隊にフランス艦隊を撃破されたため失敗(マルベラの海戦)、包囲を解いて撤退した。同年にポルトガルからイングランド・ポルトガル同盟軍の進出を阻んだ。1706年に同盟軍の拠点だったバルセロナをフェリペ5世と共に落とそうとして包囲したが、バレンシアとジブラルタルから救援が来たため撤退した(第2次バルセロナ包囲戦)。翌1707年にフランス南部のトゥーロンに派遣され、プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍を迎え撃ち、オーストリア軍からのトゥーロン守備を果たした(トゥーロン包囲戦)。 その後は外交官として活動、1708年に駐ローマ大使、1724年に駐スペイン大使を務め、フェリペ5世の長男ルイス1世が急死した事態を受け、フェリペ5世の復位を確認した。1725年にイエールで76歳で亡くなった。.

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ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)

ルートヴィヒ・ヴィルヘルム ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・バーデン=バーデン(Ludwig Wilhelm von Baden-Baden, 1655年4月8日 - 1707年1月4日)は、神聖ローマ帝国の領邦君主でオーストリアの軍人。バーデン=バーデン辺境伯(在位:1677年 - 1707年)。.

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ルッザーラの戦い

ルッザーラの戦い(ルッザーラのたたかい、Battle of Luzzara)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1702年8月15日に現在のイタリア・エミリア=ロマーニャ州レッジョ・エミリア県の都市ルッザーラでオーストリアとフランス軍が衝突した。.

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ルイ (ブルゴーニュ公)

ブルゴーニュ公ルイと呼ばれる人物は、フランス・ブルボン家に複数存在する。.

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ルイ (グラン・ドーファン)

ラン・ドーファン ルイ・ド・フランス(, 1661年11月1日 - 1711年4月14日)は、フランス王ルイ14世と王妃マリー・テレーズの長男で成人した唯一の子供。グラン・ドーファン(、大王太子)として知られる。 フォンテーヌブロー宮殿で生まれる。誕生後ただちにフランス王太子(ドーファン、dauphin)となったが、即位することなく父に先立って49歳で死去した。グラン・ドーファンと呼ばれるのは、代わって王太子に立てられた長男ブルゴーニュ公ルイが、同じく即位することなく父の死の翌年(1712年)に29歳で死去したこともあるが、大柄な体格であったことにもよる。 ルイ14世の死後、1715年にフランス王位を継承したルイ15世は、長男ルイの三男でグラン・ドーファンの孫、ルイ14世の曾孫である。.

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ルイ13世 (フランス王)

ルイ13世(、1601年9月27日 - 1643年5月14日)は、ブルボン朝第2代のフランス国王(在位:1610年5月14日 - 1643年5月14日)。ナバラ国王としてはルイス2世()。ブルボン朝創成期の王である。 父王アンリ4世の暗殺により幼くして即位した。母后マリーが摂政を務めるが、成年すると母后を排除している。リュイヌ公シャルル・ダルベール、次いで有能なリシュリュー枢機卿を重用してユグノーなどの国内の抵抗勢力を制圧し、国外では三十年戦争でハプスブルク家と戦い、国政を整備して最初期の絶対君主の一人となった。また、ブルボン朝で初めてハプスブルク家と政略結婚した。.

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ルイ14世 (フランス王)

ルイ14世(仏:Louis XIV、1638年9月5日 - 1715年9月1日)は、ブルボン朝第3代のフランス王国国王(在位:1643年5月14日 - 1715年9月1日)である。ナバラ王国国王としてはルイス3世(バスク語:Luis III.a)である。ルイ13世の長子であり、妃はスペイン国王であるフェリペ4世の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュである。王朝の最盛期を築き、太陽王(Roi-Soleil)と呼ばれた。 父の死後、幼くしてフランス国王に即位し、宰相ジュール・マザランの補佐を得てフロンドの乱を鎮圧した。1661年に親政を開始するとジャン=バティスト・コルベールを登用して中央集権と重商主義政策を推進した。対外戦争を積極的に行い、帰属戦争、仏蘭戦争で領土を拡張して権威を高めると、ジャック=ベニーニュ・ボシュエの唱える王権神授説・ガリカニスムを掲げ、絶対君主制を確立した。さらにミディ運河とヴェルサイユ宮殿を建設した。治世後半のアウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った。 72年もの在位期間はフランス史上最長であり、18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールはルイ14世の治世を「大世紀」(グラン・シエクル Grand Siècle)と称えている。また、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されている。 また、メヌエットを宮廷舞踊に取り入れ、メヌエットを最初に踊った人と言われ、その時、太陽神アポロンに変装して踊った姿から「太陽王」と言う諢名がついたとも言われる。.

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ルイ15世 (フランス王)

ルイ15世(、1710年2月15日 - 1774年5月10日)は、ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日 - 1774年5月10日)。ナバラ国王としてはルイス4世()。 曾祖父ルイ14世の死によりわずか5歳で即位し、ルイ14世の甥に当たるオルレアン公フィリップ2世が摂政の座に就いて政務を取り仕切った。成人後はブルボン公ルイ・アンリ、次いでフルーリー枢機卿が執政した。優れた政治家であるフルーリー枢機卿の執政によりフランスは繁栄した。フルーリー枢機卿の死後は親政を行う。ポーランド継承戦争に参戦して領土を得たが、続くオーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政を逼迫させた。七年戦争ではアメリカ大陸の権益を失い、フランスの衰退を招いた。ジョン・ローのミシシッピ会社が破綻してしまい、治世の間に5回もデフォルトした。 多くの愛人を持ち私生活は奔放で、最愛王(Bien-Aimé)と呼ばれた。特にポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人はルイ15世の治世に大きな影響を与えている。晩年になってショワズール公、次いで大法官を起用して改革を行い王権の強化を図るが、1774年に天然痘により64歳で崩御した。 この時代、啓蒙思想がヨーロッパ世界を席巻し、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどがフランスのサロンで活躍している。.

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ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール

ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール(Louis François de Boufflers, 1644年1月10日 - 1711年8月22日)は、フランス・ブルボン朝の貴族、軍人。カニー伯、ブーフレール公。.

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ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン

ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン(Louis Joseph de Bourbon, 1654年7月1日 - 1712年6月11日)は、ブルボン朝フランスの貴族・軍人。ボーフォール公、ヴァンドーム公。大同盟戦争、スペイン継承戦争において司令官を務めた。ヴァンドーム公ルイ2世(アンリ4世とガブリエル・デストレの孫)と、ロール・マンシーニの長男としてパリで生まれた。オーストリアの司令官プリンツ・オイゲンは母方の従弟に当たる。.

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ルクセンブルク

ルクセンブルク大公国(ルクセンブルクたいこうこく)、通称ルクセンブルクは、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。首都は国名と同名のルクセンブルク市。隣接国は、南のフランス、西と北のベルギー、東のドイツである。ベルギー、オランダと併せてベネルクスと呼ばれる。.

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レイスウェイク条約

レイスウェイク条約後のヨーロッパ レイスウェイク条約(Treaty of Ryswick, Traité de Ryswick, Vrede van Rijswijk)は、1697年9月20日にオランダのレイスウェイクで締結された国際条約。1688年に勃発した大同盟戦争(アウクスブルク同盟戦争、ファルツ継承戦争)を終結させた。この条約で1679年のナイメーヘン条約以降に占領された地域の回復を基本的に定めた。.

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レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)

アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世 レオポルト1世(Leopold I., Fürst von Anhalt-Dessau, 1676年7月3日 - 1747年4月9日)は、プロイセンの軍人。アンハルト=デッサウ侯(在位:1693年 - 1747年)、プロイセンで最初の重要な兵制改革の主導者。プロイセンの将軍の中でも非常に人気の高い人物である。同時代の将兵からは老デッサウ人(Der alte Dessauer)と呼ばれて親しまれた。またこれとは別に、同名の息子(レオポルト2世)と区別するため老デッサウ、もしくは老レオポルトと表記されることがある。父はアンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世、母はオラニエ公フレデリック・ヘンドリックの6女ヘンリエッテ・カタリーナ。.

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レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)

レオポルト1世(Leopold I., 1640年6月9日 - 1705年5月5日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1658年 - 1705年)、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王(在位:1655年 - 1705年)。ハプスブルク家の皇帝で、フェルディナント3世と皇后でスペイン王フェリペ3世の娘マリア・アンナの成人した2番目の息子。優れた作曲家でもあり、バロック大帝とも呼ばれた。 治世中は三十年戦争で衰退した領土を受け継ぎ、全盛期のフランスとオスマン帝国に圧迫されて苦戦を強いられたが、やがてオスマン帝国からハンガリー・トランシルヴァニアを奪取して東に領土を拡大、ハプスブルク家の大国復興の足がかりを築いた。また、ジギスムント・フランツ大公からチロルを相続した。.

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ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)

初代オックスフォード=モーティマー伯ロバート・ハーレー(Robert Harley, 1st Earl of Oxford and Earl Mortimer, KG, 1661年12月5日 - 1724年5月21日)は、イギリスの貴族・政治家。アン女王の晩年に政権を率いてユトレヒト条約を締結、スペイン継承戦争を終結させた。ダニエル・デフォーとジョナサン・スウィフトのパトロンとしても知られている。.

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ヴュルテンベルク

ドイツ帝国期(1871年 - 1918年)のヴュルテンベルク ヴュルテンベルク(Württemberg)は、ドイツ南西部に存在した領邦国家。首都はシュトゥットガルトであったが、一時期は君主の座所がルートヴィヒスブルクやウラッハに置かれたこともある。現在はドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州の東北部の部分を構成する。.

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ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン

ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン(Wirich Philipp Lorenz Graf von und zu Daun, 1669年10月19日 - 1741年7月30日)は、オーストリアの貴族、軍人。階位は伯爵、元帥。またオーストリアの属領統治を多く経験した政治家でもあった。父のヴィルヘルム・ヨーハン・アントン・フォン・ダウン、息子のレオポルト・フォン・ダウンも軍人で、特にレオポルトはマリア・テレジアのもとで軍事の最高責任者になったことから有名である。.

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ヴィットーリオ・アメデーオ2世

ヴィットーリオ・アメデーオ2世(、1666年5月14日 - 1732年10月30日)は、サヴォイア公(在位:1675年 - 1730年)、後にシチリア王(在位:1714年 - 1720年)、次いでサルデーニャ(ピエモンテ)王(在位:1720年 - 1730年)。カルロ・エマヌエーレ2世とサヴォイア家分家サヴォワ=ヌムール家出身のマリーア・ジョヴァンナ・バッティスタ・ディ・サヴォイアの息子。.

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ヴィッテルスバッハ家

ヴィッテルスバッハ家 は、ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系。バイエルンの君主(バイエルン公(選帝侯)、バイエルン王)の家系として有名だが、その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いていた。また神聖ローマ皇帝、ギリシャ王も一族から出ている。プファルツ系その他の全ての家系を含めて「バイエルン家」(フランス語: Maison de Bavièreなど)とも呼ばれる。 長い歴史を有する家系であるが、三十年戦争におけるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世とバイエルン公マクシミリアン1世に顕著なように、同族内でしばしば内紛を繰り返し、ハプスブルク家やホーエンツォレルン家に後れを取ることになった。.

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ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

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トリノ

トリノ(Torino)は、イタリア共和国ピエモンテ州にある都市で、その周辺地域を含む人口約87万人の基礎自治体(コムーネ)。ピエモンテ州の州都であり、トリノ県の県都。イタリア第4の人口規模を持つ。都市圏の人口は約170万人。一時は100万都市だったが昨今は人口減少が著しい。 ミラノに次ぐイタリア第2の工業都市であり、自動車工業の拠点である。近代にはサルデーニャ王国の首都が置かれた。サヴォイア王家の王宮群は世界遺産に登録されている。.

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トリノの戦い

トリノの戦い(Assedio di Torino)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1706年9月7日にピエモンテ地方の都市トリノでオーストリア・サヴォイア・プロイセン同盟軍とフランス軍が衝突した。トリノは5月14日からフランス軍に包囲されていたが、この戦いで救援軍が包囲軍に勝利したことにより解放、イタリア戦線は同盟軍が決定的に優位に立った。.

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トーリー党 (イギリス)

トーリー党(トーリーとう、Tory Party)は、かつて存在したイギリスの政党。現在の保守党の前身にあたる。チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位を認める立場をとった人達をさして「Tory」と言ったのが始まりである。.

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トゥルネー

トゥルネー トゥルネー(Tournai, オランダ語:Doornik)は、ベルギーのワロン地域、エノー州の市。面積213.75平方キロ、人口67,341人(2004年1月)。ベルギー最古の町であり、フランク王国初代のクロヴィス1世が生まれた地であるため、フランス揺籃の地とも言われる。世界遺産も2件登録されている。フランス国境に近い。.

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トゥーロン

トゥーロン(Toulon ・Tolon)は、フランスの南東部に位置する、地中海に面する都市。ヴァール県の県庁所在地である。トゥロンやツーロンと表記されることもある。.

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トゥーロン包囲戦 (1707年)

トゥーロン包囲戦(Siège de Toulon)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1707年7月29日から8月21日までオーストリア・サヴォイア・イギリス・オランダ同盟軍がフランス軍が籠もるフランス南部の港湾都市トゥーロン(現ヴァール県)の包囲を敢行した。.

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ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)

ールウェイ伯ヘンリー・ド・マシュー(Henri de Massue, Earl of Galway, 1648年4月9日 - 1720年9月3日)は、イギリスの貴族、軍人。元はフランスの貴族(リュヴィニー侯爵)だったが、宗教問題からイギリスへ亡命した。 初代リュヴィニー侯爵の息子としてパリで生まれた。1670年のドーヴァーの密約締結のためフランス王ルイ14世とイングランド王チャールズ2世の連絡役を務め、オランダ侵略戦争ではテュレンヌ元帥の下で戦った。ところが、1685年にフォンテーヌブローの勅令が発令されるとプロテスタント(ユグノー)だったことが問題になり、改宗を拒んで1690年にイングランドへ亡命した。 1691年にアイルランド遠征(ウィリアマイト戦争)におけるオーグリムの戦いで手柄を上げ、翌1692年にアイルランドに所領を与えられゴールウェイ子爵・ポーターリントン男爵に叙せられた(リュヴィニー侯爵位はフランスによって没収)。大同盟戦争でイングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世に従い大陸に渡りフランス軍と交戦、1693年のネールウィンデンの戦いで撤退を援護している。1697年にゴールウェイ伯爵に叙爵され、同年から1701年までアイルランドの支配に務めた。 スペイン継承戦争では1704年にションバーグ公メイナード・ションバーグから指揮権を引き継ぎ、同盟国ポルトガルに上陸してスペイン攻撃を目論んだが、ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズに国境で阻止され手が出せなかった。しかし、1706年にアルカンタラを奪いスペインへ進出するとカタルーニャのカール大公、バレンシアのピーターバラ伯チャールズ・モードントも呼応して進撃、マドリードを制圧した。だが、フェリペ5世とベリックにマドリードを奪還されると旗色が悪くなり、ピーターバラの離脱と兵力分散もあって劣勢になった。 1707年4月25日、アルマンサの戦いでベリックに大敗するとスペインの大半を制圧され同盟軍の不利が決定的となり、1708年にイングランド軍の指揮権はジェームズ・スタンホープに移り、1709年に辞任、帰国した。1715年にジャコバイトによってアイルランドの所領を奪われたため、以後は議会から支給された年金で余生を過ごした。 1720年、72歳で死去。独身で子供が無かったため、爵位は全て消滅した。.

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ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)

初代ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョン(PC、1678年9月16日 - 1751年12月12日)は、イギリスの貴族、政治家、作家。 アン女王時代のトーリー党政権で北部担当国務大臣(在職:1710年 - 1713年)や(在職:1713年 - 1714年)などの閣僚職を歴任したが、1714年のジョージ1世即位後にはホイッグ党に敗れ、一時フランスに亡命してジャコバイトと合流した。1723年に恩赦を受けて帰国し、パンフレットを通してホイッグ党政権を攻撃し続けた。1738年には政党政治を批判して「愛国王」による親政の必要性を説く『愛国王の理念』を著した。爵位名はボリングブロク、姓名はセントジョンとも表記される。.

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ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク

ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク(オランダ語:Hendrik van Nassau-Ouwerkerk, 1640年12月16日 - 1708年10月18日)は、オランダ共和国の軍人。オランダ総督マウリッツの庶子であるベーフェルウィート卿ローデウェイクの次男。ナッサウ伯およびアウウェルケルク卿(heer van Ouwerkerk)。イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)は又従弟に当たる。英語では名はヘンリー(Henry)、アウウェルケルクはオーヴァーカーク(Overkirk)とも呼ばれる。 ハーグで誕生して洗礼を受けた。軍人としてウィレム3世を支え、オランダ侵略戦争で1674年のスネッフの戦い、1678年のサン=ドニの戦いに従軍した。1679年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世からナッサウ伯爵に叙爵され、1688年にウィレム3世に従いイングランドへ上陸、名誉革命でウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位すると、1689年に主馬頭に任じられ、ロンドンのダウニング街10番地に邸宅を構えた。大同盟戦争・ウィリアマイト戦争でもウィリアム3世に従軍、1690年のボイン川の戦い、1692年のステーンケルケの戦い、1693年のネールウィンデンの戦いに参戦した。 スペイン継承戦争ではオランダ軍の筆頭に立ち、イングランド軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルと共にフランス軍と戦った。マールバラ公からの信頼は厚く、1703年にマーストリヒトの守備を固めてフランス軍を寄せ付けず、1704年にマールバラ公がドイツへ南下した後のオランダ防衛を任された。ブレンハイムの戦いでマールバラ公が勝利、翌1705年にマールバラ公がアントウェルペンからナミュールに至る防衛線を攻めると陽動役を務め、防衛線突破のきっかけを作った(エリクセムの戦い)。1706年のラミイの戦いで左翼を任されフランス軍を撃破、1708年のアウデナールデの戦いで左に回りこんで敵本陣を急襲、勝利に貢献するなど多くの手柄を挙げた。 戦後のリール包囲戦の最中に67歳で病死した。同名の息子ヘンドリックはグランサム伯爵に叙爵され、イギリス貴族として活動した。.

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ブランデンブルク辺境伯領

ブランデンブルク辺境伯領(ブランデンブルクへんきょうはくりょう、Mark/Markgrafschaft Brandenburg)は、神聖ローマ帝国の選帝侯の一人であるブランデンブルク辺境伯の所領の領地。現在のブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部に相当する。.

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ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領

ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領(ブラウンシュヴァイク=リューネブルクせんていこうりょう、Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)、またはハノーファー選帝侯領(ハノーファーせんていこうりょう、Kurfürstentum HannoverまたはKurhannover)は、神聖ローマ帝国の9番目の選帝侯が領する領邦である。1692年にブラウンシュヴァイ.

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ブリウエガの戦い

ブリウエガの戦い(ブリウエガのたたかい、Batalla de Brihuega)はスペイン継承戦争中の1710年12月8日、同盟軍がマドリードからバルセロナから撤退している最中におこった戦闘。スタンホープ卿率いるイギリス後衛はの町で同盟軍から切断され、ヴァンドーム公率いるフランス・スペイン連合軍に敗れた。ブリウエガの戦いは、イギリスがスペイン継承戦争から脱落した理由の1つとなったFrey (1995), pp.

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ブルボン家

ブルボン家(ブルボンけ。Maison de Bourbon)は、ヨーロッパの王家で、フランス王家カペー家の支流の一つ。かつてのフランス王家、また現在のスペイン王家であり、さらに両シチリア王国など現在のイタリアの一部を治めていた家系もある。現在のルクセンブルク大公家も男系ではブルボン家の後裔である。 ブルボン(Bourbon)の語源は、ケルト語で「泥」を意味する borvo もしくは borbo である。.

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ブルゴーニュ公一覧

ブルゴーニュ公一覧(ブルゴーニュこういちらん)では、ブルゴーニュ公(仏:duc de Bourgogne)の称号を持っていた諸侯、君主、王族などを全て挙げる。ブルゴーニュ伯と混同してはならない。.

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ブルゴス

ブルゴス(Burgos)はスペインの都市。カスティーリャ・イ・レオン州・ブルゴス県の県都。サンタ・マリーア大聖堂(ブルゴス大聖堂)は、ユネスコの世界遺産に登録されており、中世の民族的英雄エル・シッドとその妻などが埋葬されている。.

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ブレナム宮殿

ブレナム宮殿(ブレナムきゅうでん、Blenheim Palace)は、イギリスのオックスフォード近郊のにある宮殿。.

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ブレンハイムの戦い

ブレンハイムの戦い(Battle of Blenheim)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1704年8月13日にバイエルン選帝侯国・フランス連合軍とイングランド・オーストリア(神聖ローマ帝国)同盟軍が現在のドイツ・バイエルン州に位置するドナウ川流域の(ブレンハイム、ブレニム)で争い、イングランド・オーストリア同盟軍が勝った戦いである。イングランド・オーストリア同盟軍総司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルがフランス軍相手に大勝利した戦いとして知られている。.

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プロイセンの王

プロイセンにおける王(プロイセンにおけるおう、独:König in Preußen)は、1701年 から1772年までの間、プロイセン君主としてのブランデンブルク選帝侯が使用していた称号。ポーランド分割後はプロイセン国王(König von Preußen)の称号が使われるようになった。.

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プロイセン王国

プロイセン王国(プロイセンおうこく、Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 プロイセンの語源となったプルーセンはドイツ騎士団に征服され、1224年にドイツ騎士団国が作られた。ドイツ騎士団国は1525年にプロシア公領ないしプロイセン公国となる。1618年、公国はブランデンブルク選帝侯領とともに、同君連合であるブランデンブルク=プロイセンを構成した。君主フリードリヒ・ヴィルヘルムは、オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増した。1701年にプロイセン王国となった。王国は北ドイツ連邦の盟主となるまで軍事国家として成長し続け、普仏戦争に勝利した。そのときプロイセンを盟主とするドイツ帝国ができた。1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン州となった。(#歴史).

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プロシア公領

プロシア公領(ポーランド語: Prusy Książęce、)は、近世、16世紀から17世紀にかけて存在した、ポーランドおよびドイツの歴史的な領邦の一つ。東プロイセンを領有していたドイツ騎士団国家が宗教改革の時代に世俗化することで成立した、最初のルター派公爵領である。人口のほとんどはドイツ語を話す人々で、少数民族にポーランド人やリトアニア人がいた。西部近隣には、ポーランド王領プロシアがあった。おおむね、プロイセン公国を構成する領域にあたる。 ポーランド王領プロシア(英語: Royal Prussia)はポーランド王国の領土であったが、プロシア公領(英語: Ducal Prussia)はポーランド王国を宗主国としたポーランド王国の属領で、公はポーランド王に仕える封臣(レーエン)であった。 プロイセンの地図。プロシア公領(右側、縞ピンク)とポーランド王領プロシア(左側、薄ピンク).

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パリ

ランドサット パリの行政区 パリ(Paris、巴里)は、フランス北部、イル=ド=フランス地域圏にある都市。フランスの首都であり、イル=ド=フランス地域圏の首府である。 フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心である。ロンドン、ニューヨーク、香港、東京などと並ぶ世界トップクラスの世界都市でもある。行政上では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカルゴと形容される)。.

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ビリャビシオーサの戦い

ビリャビシオーサの戦い(ビリャビシオーサのたたかい、)は、スペイン継承戦争中の1710年12月10日、スペイン王フェリペ5世とヴァンドーム公率いるフランス・スペイン連合軍とオーストリア出身のグイード・フォン・シュターレンベルク率いるハプスブルク家を首とする同盟軍の間の戦闘。戦闘はフランス・スペイン連合軍がジェームズ・スタンホープ率いるイギリス軍に勝利したブリウエガの戦いの翌日に行われたFrey, pp.

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ビーゴ湾の海戦

ビーゴ湾の海戦(La batalla de RandeまたはLa batalla de Vigo、Battle of Vigo bay)は、スペイン継承戦争中の海戦の一つ。イングランド・オランダ連合艦隊とスペイン・フランス連合艦隊の間で戦われ、英蘭連合艦隊の勝利に終わった。 新大陸の莫大な富を積んだスペインの商船及び護衛の軍艦がビーゴ湾に停泊していたが、イングランドはこれをスコットランド侵略を企図しているとして同盟国のネーデルラント連邦共和国と共に攻撃を加えることとした。スペインとフランスの連合艦隊は応戦したが軍艦の質やおそらく隻数でも劣っていたため、あえなく敗北した。また、湾口は封鎖されていたため逃亡することなく全滅することとなった。 イングランド・オランダ連合艦隊は新大陸の財宝を手に入れることに成功し、国庫を潤した。 Category:スペイン継承戦争の戦闘 Category:スペインの海戦 Category:フランスの海戦 Category:イギリスの海戦 Category:オランダの海戦 Category:18世紀のヨーロッパ Category:1702年の戦闘 Category:1702年のフランス Category:1702年のスペイン.

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デン・ハーグ

デン・ハーグ( デン・ハーハ/ スフラーフェンハーヘ、日本語では多くハーグ)は、北海沿岸に位置するオランダ南ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)であり、同州の州都。事実上のオランダの首都で、アムステルダムとロッテルダムに次ぐオランダ第3の都市でもある。 スターテン・ヘネラールと称されるオランダ議会の議事堂が所在している。議事堂のほかに、王室の宮殿、中央官庁、各国の大使館などが置かれており、ほぼすべての首都機能を担う、国内政治の中心都市である。そのほかにも、国際司法裁判所や旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、国際刑事裁判所等の重要な国際機関が複数置かれ、「平和と司法の街」とも呼ばれる。一般に首都とされているアムステルダムは、憲法において首都と規定され、かつ王宮も存在する(ただし実質的には離宮)ものの、歴史的に首都機能はハーグが担ってきている。 イングランド王ジェームズ2世が亡命してきたり、逆にオランダ王ウィレム2世をイギリスへ亡命させたりした、緊密な英蘭関係を象徴する都市である。ロイヤル・ダッチ・シェルの本社がある。 北海に面した郊外に、行楽地であるスヘフェニンゲンがある。.

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フランドル

フランドル(Vlaanderen、Flandre、Flandern)は、旧フランドル伯領を中心とする、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。.

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フランドル・フランセーズ

フランドル・フランセーズ(La Flandre française; Frans-Vlaanderen)は、フランドル地方のうち現在はフランスに属する地域における歴史的な地理概念。この地域は現在では、ベルギー国境地域のノール=パ・ド・カレー地域圏のリール郡、ドゥエー郡及びダンケルク郡といった郡を構成しており、また、カンブレジ(旧カンブレー大司教領)と旧エノー伯領とともにノール県を構成している。.

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フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

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フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)

ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィル(François de Neufville, duc de Villeroy, 1644年4月7日 - 1730年7月18日)は、フランス・ブルボン朝の貴族、軍人。フランス元帥ニコラ・ド・ヌフヴィルの次男。 幼少時からフランス王ルイ14世に付き従い軍歴を重ね、1693年に元帥に任命、1695年に死去したリュクサンブール公の後を受けて大同盟戦争における南ネーデルラント戦線を担当した。ブリュッセル包囲を敢行して落とそうと図り、イングランド王ウィリアム3世率いる同盟軍に包囲されたナミュールの救援に向かったが、いずれも果たせずに終わった(第二次ナミュール包囲戦)。ブリュッセル包囲時に広場のグラン=プラスがフランス軍の砲撃で被害に遭っている。 1701年、スペイン継承戦争が勃発するとニコラ・カティナに代わってイタリア戦線に派遣されたが、オーストリアの将軍プリンツ・オイゲンにキアーリの戦いで敗北、翌1702年のクレモナの戦いで捕虜となり、解放後はヴァンドーム公と交替、ネーデルラント戦線へ送られブーフレールに代わってイングランド軍司令官マールバラ公ジョン・チャーチルと相対、アントワープからナミュールまでの防衛線を固めた。しかし、1704年に入ってドイツへ南下したマールバラ公を取り逃がした上、ブレンハイムの戦いで敗れたフランス軍の敗残兵を収容したものの同盟軍の勢いに圧倒され、ドイツ戦線の後退を余儀なくされた。 1705年にネーデルラントへ戻り引き続き防衛線を固めたが突破され(エリクセムの戦い)、翌1706年にルイ14世の指示を受けて防衛線奪還のため進軍した。だが、ラミイの戦いでバイエルン選帝侯マクシミリアン2世と共にマールバラ公に大敗、攻勢を阻止されたばかりかネーデルラント全土も制圧され、他の戦線にも悪影響を及ぼすまでになってしまった。この事態を受けたルイ14世によって更迭され、ヴァンドームに交替させられた。以後は出陣することなく廷臣として過ごし、1717年から1722年まで幼いルイ15世の養育係を務めた。1730年にパリで死去、長男のルイ・ニコラがヴィルロワ公位を継いだ。.

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フリートリンゲンの戦い

フリートリンゲンの戦い(Battle of Friedlingen)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで、1702年10月14日に現在のドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウ近郊でフランスと神聖ローマ帝国軍が衝突した。 ドイツのライン川戦線ではフランス軍と神聖ローマ帝国軍が対陣、フランス軍司令官ニコラ・カティナはアルザスの都市ストラスブールで待機していたが、プファルツ選帝侯領でライン川封鎖が行われ、フランス軍はライン川左岸からの北上とケルンに駐屯していた友軍の支援が出来なくなった。右岸ではバーデン=バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが右岸の都市シュトルホーフェンからシュヴァルツヴァルト(黒い森)に防衛線を敷いたため、右岸からも北へ進めなくなった。 1702年9月にはルートヴィヒ・ヴィルヘルムがライン川左岸でストラスブールから北のランダウを落としてフランス軍の進軍範囲を狭め、カティナは軍勢が少ないため傍観するより他になかった。しかし、フランスと同盟を結んでいたバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルがランダウ陥落前後に反乱を起こし、フランス軍にとって東へ進出する好機が到来した。カティナは東進を躊躇っていたが、部下のクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラールはカティナを説得して南からライン川を渡河する作戦を実行した。 ヴィラールは南下してライン川が曲がるスイス国境付近に到着、10月14日に河畔のフリートリンゲンとバーゼル付近に陣取るルートヴィヒ・ヴィルヘルムの帝国軍と衝突した。この戦いに際してヴィラールは戦場から下流に分遣隊を渡河させ、敵を動揺させた隙に自らも渡河を果たした。バイエルン軍挙兵も帝国軍の士気を下げる一因となっていた。 フランス軍はシュヴァルツヴァルトの傍で布陣した帝国軍を攻撃、歩兵部隊が反撃を受けて逃亡しようとした所をヴィラールが引き止め戦場に戻す場面もあったが、帝国軍は北へ撤退してフリートリンゲンは降伏した。帝国軍の損害は3000人に達したが、フランス軍も死者・負傷者合わせて4000人以上だったため、ヴィラールはバイエルン軍の合流は断念しストラスブールへ戻った。戦後ヴィラールはルイ14世から元帥に叙せられ、カティナの引退でライン川戦線司令官に就任した。 1702年の戦況はそれ以上進展しなかったが、ヴィラールは翌1703年に再度南下してライン川を渡河、北上してライン川右岸のケールを陥落させると(ケール包囲戦)、シュヴァルツヴァルトを突破してバイエルン軍と合流を果たし、ドイツ戦線で活躍していった。.

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フリードリヒ1世 (プロイセン王)

フリードリヒ1世(Friedrich I., 1657年7月11日 - 1713年2月25日)は、初代の「プロイセンにおける王」。はじめはプロイセン公(在位:1688年5月9日 - 1701年1月17日)、またブランデンブルク選帝侯(フリードリヒ3世、在位:1688年5月9日 - 1713年2月25日)。 「猫背フリッツ」とあだ名される風采の上がらない小男で、フランス王ルイ14世にあこがれるような虚栄心の強い浪費家だったが、妻の影響もあって学芸を振興させ、プロイセンの王となった。.

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フィリップ1世 (オルレアン公)

フィリップ・ド・フランス(Philippe de France)またはフィリップ・ドルレアン(Philippe d'Orléans, 1640年9月21日 - 1701年6月9日)は、フランス・ブルボン朝の王族。フランス王ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュの次男でルイ14世の弟。オルレアン公(フィリップ1世)。ブルボン=オルレアン家(単にオルレアン家として知られる)の初代当主。.

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フィリップ2世 (オルレアン公)

ルレアン公フィリップ2世 フィリップ2世(Philippe II, 1674年8月2日 - 1723年12月23日)は、シャルトル公(在位:1674年 - 1701年)、後にオルレアン公(在位:1701年 - 1723年)。1715年から1723年までルイ15世の摂政を務めたフランスの王族でオルレアン家当主。 ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世と後妻エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールの子。大同盟戦争で従軍、1691年のモンス包囲から軍人としての経歴をスタートさせた。翌1692年にルイ14世とモンテスパン夫人の間の庶子である従妹のフランソワーズ・マリーと結婚したことにより、王の好意を勝ち得た。同年のステーンケルケの戦いと1693年のネールウィンデンの戦いにも参戦、1701年の父の死によりオルレアン公位を継承した。 スペイン継承戦争にも参戦、1706年にフェルディナン・ド・マルサンと共にイタリアでの作戦を担当したが、トリノ包囲中にプリンツ・オイゲンに急襲されマルサンは戦死、フィリップ2世はフランスへ敗走した(トリノの戦い)。翌1707年にスペイン戦線に移り、ベリック公の援軍に加わりスペイン制圧を進めてフランス優位に傾けた。しかしフィリップ2世はただの軍人で終わるつもりは毛頭なく、ルイ14世の孫のフェリペ5世に代わってスペイン王位につく野望を持っているのではないかとルイ14世に疑われた。結果、長く王の不興をかこつ羽目となった。 1715年のルイ14世の死により、前もって摂政会議の座長であったフィリップ2世が5歳のルイ15世の摂政に就任した。彼は当初徴税を減らしたり、政治から遠ざけられていた貴族を中心とした集団政治を企画したり、2万5千人の兵士を解雇したが、すぐに行き詰まった。経済では銀行家ジョン・ローのリスクの高い施策を認めたため、フランス王家は公事にも私事にも破産状態の危機となっていった。1717年にはローとサン=シモン公に吹き込まれ、摂政会議を説き伏せて、トマス・ピット(大ピットの祖父)から当時世界一の大きさとうたわれていた、13万5千ポンドもする141カラットのダイヤモンドをフランスの王冠につけるために購入させた。このダイヤモンドは“ル・レジャン”(Le Régent:摂政の意、en)の名で知られている。 フィリップ2世とルイ15世 他の政策として、1716年にイギリスと協調関係を結んで平和外交を展開、宮廷を一時ヴェルサイユ宮殿からパリに移したことが挙げられる。フィリップ2世はパレ・ロワイヤルでサロンを開き、絵画の膨大なコレクション(オルレアン・コレクション)を所有していたが、フランス革命後に多くがロンドンで売られてしまった。ソルボンヌ大学の聴講を無料とし、王立図書館を公に開放するなど、教育を奨励した。 1723年に、成年に達したルイ15世は親政を宣言、フィリップ2世は摂政を降りて宰相となったが、同年12月にヴェルサイユ宮殿で死去、生誕地サン・クロー城に葬られた。オルレアン公位は息子のルイが継承、宰相にはコンデ公ルイ4世が就任した。.

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フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)

フィリップ・ヴィルヘルム フィリップ・ヴィルヘルム(Philipp Wilhelm, 1615年10月4日 - 1690年9月12日)は、プファルツ選帝侯(在位:1685年 - 1690年)。元はプファルツ=ノイブルク公(在位:1653年 - 1690年)、ユーリヒ=ベルク公(在位:同)であった。父はプファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルム、母はバイエルン選帝侯マクシミリアン1世の妹マグダレーネである。スウェーデン王カール10世は又従弟に当たる。 カール2世が嗣子なくして死去したため、プファルツ選帝侯位を継承した。フリードリヒ3世からカール2世に至るプファルツ=ジンメルン家系のプファルツ選帝侯はいずれもプロテスタントであったが、フィリップ・ヴィルヘルムの継承によってカトリックに戻ることになった。 遠縁のフィリップ・ヴィルヘルムによる選帝侯位継承に対して、フランス王ルイ14世は王弟オルレアン公フィリップ1世の妃でカール2世の妹であるエリザベート・シャルロットの継承権を主張し、ラインラントへ侵攻した。これを契機として、反仏同盟であるアウクスブルク同盟諸国とフランスとの間でアウクスブルク同盟戦争(プファルツ継承戦争ともいう)が勃発した。既に高齢だったフィリップ・ヴィルヘルムは、戦争中に没した。.

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フェリペ3世 (スペイン王)

フェリペ3世(Felipe III, 1578年4月14日 - 1621年3月31日)は、スペイン、ナポリ・シチリア、ポルトガルの王(在位:1598年 - 1621年)。フェリペ2世と最後の妻である神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘アナとの間に生まれた末子である。ポルトガル王としてはフィリペ2世。.

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フェリペ4世 (スペイン王)

フェリペ4世 フェリペ4世 フェリペ4世(Felipe IV, 1605年4月8日 - 1665年9月17日)は、スペイン、ナポリ・シチリアの王(在位:1621年 - 1665年)、ポルトガルの王(在位:1621年 - 1640年)。ポルトガル王としてはフィリペ3世。フェリペ3世と王妃マルガリータの息子。.

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フェリペ5世 (スペイン王)

フェリペ5世(Felipe V, 1683年12月19日 - 1746年7月9日)は、スペイン・ボルボン(ブルボン)朝最初の国王(在位:1700年 - 1724年、1724年 - 1746年)で、フランス国王ルイ14世とスペイン・ハプスブルク家(アブスブルゴ家)出身の王妃マリー・テレーズの長男ルイ(グラン・ドーファン)の次男。母はバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアの娘マリー・アンヌ・ド・バヴィエール。数次の中断を挟みながら、ボルボン朝は現国王フェリペ6世まで続いている。.

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フェルディナン・ド・マルサン

フェルディナン・ド・マルサン(Ferdinand de Marsin, 1656年2月10日 - 1706年9月9日)は、フランス王国ブルボン朝の軍人。グランヴィル伯ジャン・ガスパール・フェルディナン・ド・マルサンの子。リエージュ出身。 フランス軍に所属して軍歴を重ね、大同盟戦争でリュクサンブール公の軍に従軍して南ネーデルラントを転戦、1690年のフルーリュスの戦いで負傷したり、1693年のネールウィンデンの戦いでイングランド王ウィリアム3世と戦い、シャルルロワの包囲にも加わった。1701年から1702年までに駐スペイン大使として活動、スペイン継承戦争ではイタリア戦線へ出向きルッザーラの戦いに参戦、ドイツ戦線に移り1703年のシュパイアーバハの戦いにも加わり、戦後元帥に昇進した。 翌1704年にヴィラールに代わってバイエルン選帝侯マクシミリアン2世の補佐を務め、タラール伯と共にドナウ川に勢力を張った。しかし、マールバラ公ジョン・チャーチルとプリンツ・オイゲンが率いるイングランド・オーストリアにブレンハイムの戦いで大敗、一気に劣勢に傾いてしまった。1705年から復帰したヴィラールと交替、ネーデルラントに送られた。1706年に一旦ドイツのヴィラールと合流した後ネーデルラントに戻り、ラミイの戦いで敗北したヴィルロワ公の救援に向かった後、ネーデルラントにヴァンドーム公が出向きヴィルロワは更迭、マルサンはオルレアン公フィリップ2世と共にヴァンドームが担当していたイタリア戦線へ異動となった。 だが、トリノ包囲中に救援に向かったオイゲンへの対応でフィリップ2世と対立、有効な策が取れないまま9月7日のオイゲンの襲撃で大敗して致命傷を負い、2日後の9月9日に死去(トリノの戦い)。トリノはオーストリア軍に解放され、翌1707年にナポリもオーストリア軍に制圧され、イタリア戦線は崩壊した。.

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フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)

フェルディナント2世(Ferdinand II., 1578年7月9日 - 1637年2月15日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1619年 - 1637年)、オーストリア大公(在位:1619年 - 1637年)、ボヘミア王(在位:1617年 - 1619年、1620年 - 1637年)、ハンガリー王(在位:1619年 - 1625年)。ハプスブルク家傍系の内オーストリア大公家の出身。三十年戦争を引き起こした皇帝として知られる。.

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フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)

フェルディナント3世(Ferdinand III., 1608年7月13日 - 1657年4月2日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1637年 - 1657年)、ハンガリー王(在位:1625年 - 1657年)、ボヘミア王(在位:1627年 - 1646年)。ハプスブルク家の皇帝で、フェルディナント2世と最初の妃でバイエルン公ヴィルヘルム5世の娘マリア・アンナ・フォン・バイエルンの三男。.

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フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)

フェルディナント・マリア フェルディナント・マリア フェルディナント・マリア(Ferdinand Maria, 1636年10月31日 - 1679年3月26日)はバイエルン選帝侯(在位:1651年 - 1679年)。マクシミリアン1世と神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の娘マリア・アンナの長男。 1650年にサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の娘エンリエッタ・アデライデと結婚し、マクシミリアン2世エマヌエル、マリア・アンナ(フランス王太子ルイ妃)ら7子をもうけた。翌年に父が死去、幼少のため1654年まで叔父のロイヒテンベルク公アルブレヒト6世が摂政を務めた。 1657年、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世が亡くなり帝位が一時的に空位となり、フランス宰相マザランから次の皇帝に即位するよう勧められるも拒絶、翌1658年にレオポルト1世が即位した。1662年から1664年のオスマン帝国との戦争ではバイエルン軍を派遣したが、フランスとの提携も重視、1672年からのオランダ侵略戦争では中立を通し、娘マリア・アンナをフランス王ルイ14世の王太子に嫁がせている(但し、実現したのはフェルディナント・マリア死後の1680年)。 内政では三十年戦争で荒廃したバイエルンの復興に取り組み、農業・産業の奨励、教会・修道院の修復や軍の近代化も図った。また、ミュンヘンにニンフェンブルク宮殿を建設、ヨハン・カスパール・ケルルとアゴスティーノ・ステッファーニのパトロンにもなっている。 1679年、42歳で死去。息子のマクシミリアン2世が選帝侯位を継いだが、幼いため弟のマクシミリアン・フィリップ・ヒエロニムスが摂政を務めた。.

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ドナウ川

ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語:Danubius、 ドイツ語: Donau )は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。 ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。.

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ドーファン

ドーファンの紋章 ドーファン(Dauphin)は、フランス国王の法定推定相続人(王太子)の称号。正式には「ヴィエノワのドーファン」(dauphin de Viennois)という。1350年から復古王政期まで用いられた。1791年の立憲王制期と1830年からのオルレアン朝ではと改称された。.

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ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

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ドゥナの戦い

ドゥナの戦い(Bataille de Denain)は、スペイン継承戦争の戦闘の一つで1712年7月24日に現在のフランス・ノール県のドゥナにおいて、プリンツ・オイゲンとアルベマール伯アーノルド・ヴァン・ケッペル率いるオーストリア・オランダ同盟軍と、クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール元帥率いるフランス軍の間で行われた。.

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ニューイングランド

ニューイングランド(New England)は、アメリカ合衆国北東部の6州(北から南へメイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネチカット州)を合わせた地方である。中心都市はボストン。.

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ニコラ・カティナ

ニコラ・カティナ(Nicolas Catinat, 1637年9月1日 - 1712年2月22日)は、フランス・ブルボン朝の軍人。 フランス軍に入隊してオランダ侵略戦争で頭角を現し、1686年にワルドー派の追放に取り組み、1688年の大同盟戦争でドイツのフィリップスブルク包囲に加わった後でイタリア戦線を任された。1690年のシュタファルダの戦いと1693年のマルサリーアの戦いでサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世に勝利、1696年にサヴォイアを同盟から離脱させる手柄を挙げ、1693年に元帥に叙任された。 スペイン継承戦争でもイタリア戦線の司令官に就いていたが、1701年にプリンツ・オイゲンに防衛線を破られ後退(カルピの戦い)、ヴィルロワ公と交替させられ副司令官に降格、キアーリの戦いにも敗れてドイツ戦線へ異動、ライン川の守備を務めた後に引退、部下のヴィラールに引き継がれた。1712年にサン=グラティアンで74歳で死去、書き残した回想録が1819年に出版された。.

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ホイッグ党 (イギリス)

ホイッグ党(ホイッグとう、Whig Party)は、かつて存在したイギリスの政党。後の自由党及び自由民主党の前身にあたる。 ホイッグ党の起こりはイングランド王チャールズ2世の時代の1678年からpp1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。Whigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。.

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ベルギー

ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。首都のブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため、"EUの首都"とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は19の基礎自治体から成るブリュッセル首都圏の自治体の一つ、ブリュッセル市である。 19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域とフランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語の地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域とワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。.

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アラゴン王国

アラゴン王国(アラゴンおうこく、アラゴン語: カタルーニャ語: スペイン語:Reino de Aragón)は、中世後期のイベリア半島北東部、現在のスペインのアラゴン州に存在した王国。.

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アルマンサの戦い

アルマンサの戦い(Battle of Almansa)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで、1707年4月25日に現在のスペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州アルバセーテ県の都市アルマンサでイギリス・オランダ・ポルトガル同盟軍とスペイン・フランス連合軍が衝突した。.

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アルメナラの戦い

アルメナラの戦い(アルメナラのたたかい、Batalla de Almenar)は、スペイン継承戦争中の1710年7月27日、フェリペ5世とカール大公の軍勢の間の戦闘。フェリペ5世の軍が敗れ、カタルーニャから撤退してエブロ川の後ろでの再集結を余儀なくされた。.

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アルザス地域圏

アルザス地域圏(アルザスちいきけん、アルザス語: Elsàss、アレマン語: Elsäß、標準Elsass、Alsace、Alsace)は、フランス中東部にかつて存在した地域圏である。ストラスブール(独:シュトラースブルク)を首府とする。ヴォージュ山脈のある西側の大部分をかつてのロレーヌ地域圏と接し、残りはかつてのフランシュ=コンテ地域圏と接している。東はドイツとスイスに接する。地域圏内にはバ=ラン県とオー=ラン県二つの県を含む。中フランクと重なるブルーバナナ圏に属している。 2016年1月1日より、グラン・テスト地域圏となった。.

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アン (イギリス女王)

アン(Anne Stuart, 1665年2月6日 - 1714年8月1日)は、最後のイングランド王国・スコットランド王国君主(女王、在位:1702年4月23日 - 1707年4月30日)で、最初のグレートブリテン王国君主(女王、在位:1707年5月1日 - 1714年8月1日)、及びアイルランド女王。ステュアート朝最後の君主でもある。ブランデー好きであったことから、ブランデー・ナン(Brandy Nan)の異名で知られている。.

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アン女王戦争

アン女王戦争(アンじょうおうせんそう、Queen Anne's War、1702年 - 1713年)は、欧州のスペイン継承戦争に対応して北米大陸において起こった、フランス王国(以下フランス)とイングランド王国(後にグレートブリテン王国1707年、イングランド王国とスコットランド王国はグレートブリテン王国として統一され、1707年連合法の下にウェストミンスターにおいて1つの議会を共有した。その後スコットランド軍は、全ての植民地戦争においてグレートブリテン王国軍としてイングランド王国軍に加わった。、以下イギリスで統一)との間の戦争であり、一連の北米植民地戦争においては2度目の戦争である。名称は当時イギリスを統治していたアン女王の名にちなむ。それぞれの国と同盟を結んでいた多数のアメリカ州の先住民族および、フランス王国の同盟国であったスペイン帝国(以下スペイン)も戦争に加わった。別称に第三次インディアン戦争(Third Indian War)があり、またフランス語では第二次植民地間戦争(Deuxième Guerre intercoloniale)と呼ばれる。 アン女王戦争は3つの局面から成っている。.

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アンリ4世 (フランス王)

アンリ4世(、1553年12月13日 - 1610年5月14日)は、ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日 - 1610年5月14日)、およびナバラ国王エンリケ3世(、在位:1572年6月9日 - 1610年5月14日)。 ユグノー戦争で叔父コンデ公ルイが戦死したため、年少にしてユグノーの盟主となる。1572年、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺に遭遇したが、カトリックに改宗して難を避け、1576年に脱走して再びプロテスタントに復帰し、1589年のアンリ3世の暗殺により王位を継承する。その後再度カトリックに改宗して国内を平定し、1598年にナントの勅令を発布してカトリックとユグノーとの国内融和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、1610年に狂信的なカトリック信者によって暗殺された。在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる。1959年から発行された50フラン紙幣において肖像が採用されていた。.

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アンヌ・ドートリッシュ

アンヌ・ドートリッシュ(Anne d'Autriche, 1601年9月22日 - 1666年1月20日)は、フランス王ルイ13世の王妃で、ルイ14世の母。父はスペイン王フェリペ3世、母は同族でオーストリア大公カール2世の娘(神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹)マルガレーテ。フェリペ4世、枢機卿フェルナンドは弟、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の皇后マリア・アナは妹である。.

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アントウェルペン

アントウェルペン州内のアントウェルペン行政区の位置 Stadhuis van Antwerpen) ルーベンスの三連祭壇画がある。現在も市内最大の建造物 アントウェルペン(,, )は、ベルギーのフランデレン地域・アントウェルペン州の州都で、同国最大の都市(首都圏地域の人口を合わせればブリュッセル市が最大)。英語名に由来するアントワープや、フランス語名に由来するアンヴェルス(アンベルス)も日本語の表記においてよく用いられる。2012年1月1日の総人口は502,604人。面積は204.51 km2, 人口密度は2,457.56人/km2である。.

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アーノルド・ヴァン・ケッペル (初代アルベマール伯)

初代アルベマール伯アーノルド・ジョースト・ヴァン・ケッペル(Arnold Joost van Keppel, 1st Earl of Albemarle, KG, 1670年1月30日 - 1718年5月30日)は、イギリスの貴族・軍人。オランダ出身で、オランダ総督兼イングランド王ウィリアム3世の男色相手として寵愛され、立身出世を重ねてイングランド貴族の一員に選ばれた。 オランダのヘルダーラント州ズトフェンでヘルダーラント州の貴族オズワルド・ファン・ケッペルと妻アンナの息子として誕生・洗礼を受けた。魅力的な美少年で早くから小姓(ペイジ)としてウィレム3世(後のウィリアム3世)に仕え、16歳でウィレム3世の愛人となり、1688年の名誉革命でウィレム3世率いるイングランド遠征軍に加わりそのままイングランドに住むようになった。 イングランド王に即位したウィリアム3世からの寵愛は深まり褒賞を与えられ、1692年に王領地を与えられ1695年に寝室係侍従と王室衣装係に任命、1696年に新設のバリー子爵とアシュフォード男爵を授与、翌1697年にはアルベマール伯爵に叙爵された。同年にイングランド軍とオランダ軍両方の陸軍少将とスヘルトーヘンボスの総督に任じられ、1699年に近衛騎兵第1中隊隊長にも任じられいくつかの連隊を率いる立場に置かれた。それまでウィリアム3世の寵臣だったポートランド伯爵ウィリアム・ベンティンクは憤慨して所領に引き下がっている。 1700年にガーター勲章を受勲、アイルランドからも領地を与えられたが、イングランド議会から問題にされ帳消しとなり、代わりにウィリアム3世から5万ポンドを与えられている。また、議会はウィリアム3世の他の外国人への所領と爵位授与にも抗議して翌1701年に制定した王位継承法でウィリアム3世の王権が制限されることに繋がった。1702年2月にウィリアム3世が病気と落馬事故で伏せっていた時は対フランス戦準備のためオランダに送られていたが、イングランドへ帰国して臨終に立ち会い秘密書類の保管を委託された。3月8日にウィリアム3世が死去、遺言で20万ギルダーが送られ、オランダへ帰国した後はオランダ貴族としてオランダ議会に出席、オランダ軍の騎兵隊長に任じられた。 スペイン継承戦争ではイングランド軍総司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルに従い1702年から1703年にかけてスペイン領ネーデルラントでフランス軍と交戦、1706年のラミイの戦い、1708年のアウデナールデの戦いとリール包囲戦に加わり、1710年から1711年にかけて北フランス戦線を戦い続け、1712年にイギリスとフランスが単独講和してマールバラ公の後任のイギリス軍司令官のオーモンド公ジェームズ・バトラーがイギリス軍を引き上げさせた後もプリンツ・オイゲンと共にフランス軍と戦ったが、ドゥナの戦いでヴィラール率いるフランス軍に敗れて捕虜となった。以後目立った活動がないまま1718年に48歳で死去、息子のウィリアム・ヴァン・ケッペルがアルベマール伯位を継いだ。子孫はイギリス貴族として存続、第7代アルベマール伯ウィリアム・ケッペルの息子ジョージ・ケッペルの妻アリス・ケッペルはエドワード7世の愛人となり、アリスの曾孫に当たるカミラはプリンセス・オブ・ウェールズになっている。.

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アウデナールデの戦い

アウデナールデの戦い(Battle of Oudenarde)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで、1708年7月11日にグレートブリテン王国(イギリス)・オーストリア(神聖ローマ帝国)・ネーデルラント連邦共和国(オランダ)同盟軍とフランス軍が現在のベルギー・オースト=フランデレン州の町アウデナールデ近郊で衝突した。.

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アカディア

アカディア(、)は、北米東部大西洋岸、特に現在のアメリカ合衆国メイン州東部とカナダノバスコシア州に相当する地域の古名で、フランス人入植者によって名付けられた地名。「」は英語では「アケイディアン()」、フランス語では「アカディアン()」と呼ばれる。また、現在アカディア人が多く居住する地域を指す。.

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アストゥリアス公

アストゥリアス公紋章 モントブランク公としての紋章 サルベラ伯及びバラゲー領主としての紋章 アストゥリアス公()、アストゥリアス女公()は、スペイン国王の推定相続人に与えられる称号。王太子に相当するが、ある時点で王家に該当する人物(性別不問)が居ない場合、スペイン国外にいる権利者がこの称号を帯びることもある。推定相続人以外の王子・王女にはinfanta)の称号が与えられる。 フランシスコ・フランコが王政復古を前提にフアン・カルロスを後継者とした際には、アストゥリアス公ではなくスペイン公()の称号を用いた。 現在は1978年憲法第57条第2項で、国王の推定相続人に与えられることが規定されており、フェリペ6世の長女レオノールがこの称号を有している。.

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イングランド王国

イングランド王国(イングランドおうこく、英語:Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から、1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。 スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ1世が1603年に王位を兼ねて以来、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。.

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イタリア半島

イタリア半島(イタリアはんとう、Penisola italiana、Paeninsula Italica)は、ヨーロッパ大陸のアルプス山脈の南側から地中海に南東に延びた形の半島。別名アペニン半島。東側をアドリア海、南側をイオニア海、西側をティレニア海に分断している。アペニン山脈が貫いていて、半島のつけ根には北のアルプス山脈と南のアペニン山脈に囲まれるようにパダーナ平原がある。 以下の国が存在する。.

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イサベル・デ・ボルボン

イサベル・デ・ボルボン(Isabel de Borbón, 1602年11月22日 - 1644年10月6日)は、スペイン王フェリペ4世の最初の王妃。フランス語名ではエリザベート・ド・フランス(Élisabeth de France)またはエリザベート・ド・ブルボン(Élisabeth de Bourbon)と呼ばれた。.

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ウィリアム3世 (イングランド王)

ウィリアム3世(William III, 1650年11月14日 - 1702年3月8日)は、オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日 - 1702年3月8日)、オランダ総督(在職:1672年6月28日 - 1702年3月8日)、イングランド王・スコットランド王・アイルランド王(在位:1689年2月13日 - 1702年3月8日)。スコットランド王としてはウィリアム2世。オランダ名ではウィレム3世(Willem III van Oranje-Nassau)。 父はオランダ総督・オラニエ公ウィレム2世、母はイングランド王チャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート。イングランド女王・スコットランド女王・アイルランド女王メアリー2世は妻。オラニエ=ナッサウ家の出身であるが、ステュアート朝の王の1人に数えられている。.

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ウィーン

ウィーン(標準Wien〈ヴィーン〉、Wean〈ヴェアン〉、Vienne〈ヴィエンヌ〉、Vienna〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。.

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ウォー・シミュレーションゲーム

ウォー・シミュレーションゲームあるいはウォー・ゲームとは、戦争を題材としその戦闘を再現したシミュレーションゲーム。ボードゲーム、コンピューターゲームの形式をとるものが多い。戦略シミュレーションゲーム、戦争シミュレーションゲーム、軍事シミュレーションゲームなどの呼び方もある。英語では"Wargame"と呼ばれる。.

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エレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク

レオノーレ・マグダレーネ・テレーゼ・フォン・プファルツ=ノイブルクまたはフォン・デア・プファルツ(Eleonore Magdalene Therese von Pfalz-Neuburg (von der Pfalz), 1655年1月6日 - 1720年1月19日)は、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后。プファルツ選帝侯(元はプファルツ=ノイブルク公)フィリップ・ヴィルヘルムの長女。母はヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の娘エリーザベト・アマーリア。弟にプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム、カール3世フィリップ、妹にポルトガル王ペドロ2世の妃マリア・ソフィア、スペイン王カルロス2世の妃マリア・アンナ、パルマ公子オドアルド2世妃ドロテア・ゾフィーらがいる。.

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オランダ総督

ランダ総督(オランダそうとく、stadhouder, stadtholder)は、広義には16世紀から18世紀にかけてのネーデルラント連邦共和国(オランダ王国の前身)における各州の首長。狭義にはその中でも特に有力で、ゼーラント州など他の州の総督も兼ね、事実上の世襲君主として君臨したホラント州の総督を指す。 ただしこのstadtholderの訳語に、植民地の長官を意味するgovernorの訳語としてすでに定着している「総督」を充てるのは、意味上の混乱を招きやすく不都合なため、今日ではオランダ総督に代えてオランダ統領と表現することも見られるようになった。.

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オルレアン家

ルレアン公の紋章 オルレアン家(オルレアンけ、)は、フランスの公爵であるオルレアン公(duc d'Orléans)の家系。オルレアン公は王太子(ドーファン)に次ぐ国王の男子、あるいは国王の弟に授けられる、フランスの公爵位のうちでも特に格式の高いものであった。公爵位は男子の相続人が続く限りはその家系で継承されたが、国王に嫡子がいない場合に王位継承者を出すなど重要な位置づけにあり、王家とも密接に関わりを持っていた。 オルレアン公の家系にはヴァロワ家支流のヴァロワ=オルレアン家(Maison de Valois-Orléans)とブルボン家支流のブルボン=オルレアン家(Maison de Bourbon-Orléans)があり、それぞれで主に2系統が存在したが、通常単にオルレアン家と呼ぶ場合には最後の系統を指す。以下、この最後の系統について説明する。.

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オルレアン公

ルレアン公(duc d'Orléans)は、フランスの公爵位の一つ。ヴァロワ朝期にフランス王フィリップ6世が2番目の息子フィリップに授けて以来、王太子に次ぐ王家の男子(王太子もしくは王の最年長の弟)に授けられた、フランスの公爵位のうちでも特に格の高いものであった。正嫡の男子がいれば公爵位は継承されたが、実際に2代以上にわたり直系継承されたのはヴァロワ=オルレアン家とブルボン=オルレアン家(いわゆるオルレアン家)の2例である。7月王政(オルレアン朝)の王ルイ・フィリップは後者から出た。.

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オーストリア大公

ーストリア大公(Erzherzog von Österreich)は、ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家を含む)により用いられたオーストリア(オーストリア大公国)の領主としての称号(男性形)。16世紀以降は君主以外の一族の成員も用いた。.

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オイゲン・フォン・ザヴォイエン

イゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(Eugen Franz von Savoyen-Carignan, 1663年10月16日 - 1736年4月24日)は、オーストリアに仕えた軍人・政治家。プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)の呼び名で知られる。 サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。.

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カミーユ・ドスタン (タラール公)

タラール公カミーユ・ドスタン(Camille d'Hostun, duc de Tallard, 1652年2月14日 - 1728年3月20日)は、フランス・ブルボン朝の貴族、軍人。ロジェ・ドスタンの子としてリヨンで生まれた。初め伯爵で、後に公爵に叙爵された。.

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カミザールの乱

ミザールの首領カヴァリエ カミザールの乱(フランス語:La guerre des Camisards)とは、1702年から1705年にフランス王国で起こったプロテスタント(ユグノー)の反乱。セヴェンヌ戦争(La guerre des Cévennes)とも呼ばれる。 フランス南部のセヴェンヌ山脈を本拠地として反乱は拡大、国王軍は完全鎮圧に3年を要した。カミザールという名前はプロテスタントの着ていたシャツに由来するという説があるが、後に鎮圧側が白カミザールという部隊を組織すると対比から黒カミザールと呼ばれた。.

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カルチナートの戦い

ルチナートの戦い(Battaglia di Calcinato)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1706年4月19日に現在のイタリア・ロンバルディア州ブレシア県の都市カルチナートでオーストリアとフランス軍が衝突した。 1706年1月4日にニースがフランスの将軍・ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズに落とされ、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世とグイード・フォン・シュターレンベルクはピエモンテで身動きが取れなかった。イタリアのフランス軍を率いるヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンは戦局を有利にするため、ピエモンテとロンバルディアの繋がりを断つべく進軍、オーストリア軍は司令官のプリンツ・オイゲンが不在でデンマーク人のクリスチャン・デトレフ・レーヴェントローが代わりに留守を守っていた。 4月19日、ヴァンドームはオーストリア軍のキャンプに奇襲を仕掛け、オーストリア軍に大損害を与えてロンバルディアから追い立てた。オーストリア軍はチロル付近に逃亡、翌日に到着したオイゲンは6月まで軍の再編成に務めた。 ロンバルディアはフランス軍に平定され、サヴォイアの首都トリノも別のフランス軍に包囲され、事態はフランス有利に動いた。しかし、5月にラミイの戦いでスペイン領ネーデルラントに進軍していたフランス軍がイングランド・オランダ同盟軍に大敗したため、ヴァンドームがネーデルラントへ送られるとオイゲンはトリノへ向かい、奪還に動き出し進軍を開始した(トリノの戦い)。.

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カルロス2世 (スペイン王)

ルロス2世(Carlos II, 1661年11月6日 - 1700年11月1日)は、ハプスブルク(アブスブルゴ)家最後のスペイン国王(在位:1665年 - 1700年)。フェリペ4世とマリアナ王妃の息子である。フランス王ルイ14世妃マリア・テレサは異母姉、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の最初の皇后マルガリータ・テレサは同母姉に当たる。庶出の異母兄にオニャテ伯フアン・ホセ・デ・アウストリアがいる。.

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カルピの戦い

ルピの戦い(カルピのたたかい、Battaglia di Carpi)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つ。1701年7月9日に現在のイタリア・エミリア=ロマーニャ州モデナ県の都市カルピでオーストリア(ハプスブルク帝国)軍とフランス軍が衝突した。 オーストリアはイタリアのミラノ公領などのスペイン領を確保するため、プリンツ・オイゲンを司令官にしてイタリアに侵攻を開始、5月にチロルからイタリア北東のロヴェレートに3万の軍勢が集合した。しかし、中央のロンバルディアとアディジェ川流域はニコラ・カティナ将軍が守りを固めていて、イタリアへの進路は封鎖されていた。そこでオイゲンはヴェローナへ南下する途中で進路を東に変え、中立のヴェネツィア共和国を通ってヴェローナを右に迂回、イタリアの平原に出た。こうしてオーストリア軍はアディジェ川に沿って防衛線を張るフランス軍を大きく回り込む事に成功した。 7月9日、アディジェ川の南に出たオーストリア軍はカルピのフランス軍右翼に攻撃を加え勝利、防衛線をミンチョ川に後退させたフランス軍を追撃して左翼も打ち負かした。この戦いに勝利したオーストリア軍はイタリアに地歩を固め、チロルからの補給を可能にする事に成功した。戦後フランス軍の指揮権はカティナからヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルに移り、9月に西進して来たオーストリア軍と交戦した(キアーリの戦い)。.

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カール6世 (神聖ローマ皇帝)

ール6世(Karl VI., 1685年10月1日 - 1740年10月20日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1711年 - 1740年)、ハンガリー王(在位:同)、ボヘミア王(在位:同)。レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男でヨーゼフ1世の弟。マリア・テレジアの父。ハプスブルク家最後の男系男子であり、狭義には同家最後のローマ皇帝である。.

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カッサーノの戦い

ッサーノの戦い(カッサーノのたたかい、Battaglia di Cassano d'Adda)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1705年8月16日に現在のイタリア・ロンバルディア州ミラノ県の都市カッサーノ・ダッダでオーストリアとフランス軍が衝突した。 オーストリアのイタリア方面軍司令官プリンツ・オイゲンは1704年にドイツへ移り、ブレンハイムの戦いでイングランド軍司令官マールバラ公ジョン・チャーチルと共にフランス・バイエルン連合軍を撃破してドイツの危機を救ったが、イタリアではオーストリアと同盟していたサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世がヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンが率いるフランス軍に攻撃され救援を要請したため、4月にイタリアのロヴェレートに到着したオイゲンはイタリア方面軍を任せていたグイード・フォン・シュターレンベルクと交代、サヴォイアをフランス軍の圧力から解放すべく進軍した。 ヴァンドームはオイゲンの進軍を阻止すべくロンバルディアに布陣、カッサーノ付近を流れるアッダ川にはヴァンドームの弟フィリップが布陣していた。オイゲンはオーストリア軍を率いて西へ進みフィリップの軍勢を圧倒したが、ヴァンドームの救援とオイゲン自身の負傷、アッダ川が雨で増水して溺死者が続出したため渡河を断念、フランス軍の戦略的勝利に終わった。オーストリア軍の成果はオーリオ川東岸の確保とサヴォイアのフランス軍の動きを鈍らせただけだった。 オイゲンは11月に軍事作戦を中止、再びオーストリアへ戻り戦略を練り直していった。一方のフランス軍も行動を控えたため戦役は中断されたが、1706年になると1月にニースがフランス軍に奪われた(ニース包囲戦)ことから戦役が再開された。.

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カディスの戦い

ディスの戦い(カディスのたたかい、Battle of Cádiz)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つである。1702年8月23日から9月30日にかけて、スペイン・カディスでイングランド・オランダ連合艦隊とスペイン軍が衝突した。 イングランドは戦略をスペイン領ネーデルラントに陸軍を派遣してフランス軍を撃破する方針を採る一方、フランス・スペイン海軍とスペインの海外領土を揺さぶり、ヨーロッパにおけるイングランド・オランダの制海権確保のため地中海に橋頭堡を築くための海軍派遣も決めていた。この作戦に選ばれたのは海軍元帥ジョージ・ルークとオーモンド公ジェームズ・バトラーで、オーモンド率いる陸軍を乗せたイングランド・オランダ連合艦隊は7月末に出航して8月23日にカディス沖に到着、ルークは偵察部隊をカディスに送り作戦会議を開いた。 しかし、ルークは偵察帰還後も作戦会議を開き方針は二転三転、カディスへ降伏勧告し拒絶されるとまた会議を招集して上陸作戦を採用し、オーモンドの陸軍はカディス北方のロタと北東のエル・プエルト・デ・サンタ・マリアを落とし、沿岸都市を制圧しながらカディスへ接近したが、エル・プエルト・デ・サンタ・マリアでは兵士の略奪が発生、スペイン軍が陸海双方で連合軍の進路を封鎖したため連合軍は手詰まりとなり、9月26日に陸軍が艦隊へ戻り30日に連合艦隊は撤退した。 ルークとオーモンドは優柔不断と略奪放置で評判を落とし、作戦失敗でイングランドへの帰路を辿った。しかし、帰還途中に偶然フランス・スペイン艦隊がスペイン北西部に寄港したとの知らせを受けて襲撃、ビーゴ湾の海戦で勝利したため名誉挽回を果たし、手柄によりオーモンドはアイルランド総督、ルークは枢密院議員となった。.

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カスティーリャ王国

ティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。.

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カタルーニャ君主国

タルーニャ君主国またはカタルーニャ公国(Principat de Catalunya, アラン語: Principautat de Catalonha, Prencipato de Catalunya, Principado de Cataluña, Principauté de Catalogne, ラテン語: Principatus Cathaloniae)は、イベリア半島北東部にかつて存在した国家。現在は大半がスペインのカタルーニャ州に属し、一部がフランス南部ピレネー=オリアンタル県となっている。「君主国」ないし「公国」という呼称については後述する。 カタルーニャ君主国は、レコンキスタ時代に生じたスペイン辺境領の別々の伯爵領が、バルセロナ伯の支配下で連合したものである。1137年、アラゴン女王ペトロニラ(パルネリャ)とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、アラゴン連合王国の一部と見なされるようになったが、実際はカタルーニャ君主国とアラゴン王国は対等な関係であった。ラモン・バランゲー4世の子アルフォンソ2世は、アラゴンではアラゴン王ではあったが、カタルーニャではバルセロナ伯アルフォンス1世を名乗った。.

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キアーリの戦い

アーリの戦い(キアーリのたたかい、Battle of Chiari)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つ。1701年9月1日に現在のイタリア・ピエモンテ州ブレシア県の都市キアーリでオーストリア(ハプスブルク帝国)とフランス軍が衝突した。 プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍は、チロルから中立国であるヴェネツィア領内を横切り北イタリアに進撃した。それに対して、フランス軍を率いるニコラ・カティナはカルピで迎え撃ったが敗北を喫していたため(カルピの戦い)、ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルが代わりに指揮官となっていた。オイゲンはロンバルディアを北西に進軍し、1701年9月1日にキアーリで両軍は激突した。 File:Eugene de savoie.jpg|プリンツ・オイゲン File:Villeroy, François.jpg|ヴィルロワ公 File:Italy - War of the Spanish Succession 1701.png|オーストリア軍とフランス軍の進路 フランス軍38,000人ほどに対してオイゲン率いるオーストリア軍は22,000人ほどと数の上では劣勢であったが、オーストリア軍は戦いに有利な地点を占拠していた。フランス軍は陣地に突撃をかけたが、待ち構えていたオーストリア軍は周囲を川に囲まれた陣地で正面に大砲を設置していたため、2時間後にはフランス軍はおよそ3,000人の損害を出して敗れ去った。一方、オーストリア軍の損害はわずか200名ほどだった。戦後フランス軍とオーストリア軍は膠着状態となり戦闘は行われなくなったが、1702年に入りオーストリア軍はフランス軍に奇襲を仕掛けた(クレモナの戦い)。.

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クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)

バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンスト クリスティアン・エルンスト クリスティアン・エルンスト・フォン・ブランデンブルク=バイロイト(Christian Ernst von Brandenburg-Bayreuth、1644年7月27日、バイロイト - 1712年5月10日、エアランゲン)は、フランケン地方バイロイト侯領の辺境伯(在位:1655年 - 1712年)。寛容な領主で行政、経済を発展させ、一方では軍事力の大規模な増強を行った。.

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クレモナの戦い

レモナの戦い(クレモナのたたかい、Battaglia di Cremona)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つ。1702年2月1日に現在のイタリア・ロンバルディア州クレモナ県の都市クレモナでオーストリア(ハプスブルク帝国)軍とフランス軍が衝突した。 オーストリア軍司令官のプリンツ・オイゲンは1701年にキアーリの戦いでフランス軍に勝利したとはいえ、フランス軍は健在でミラノ公国に駐屯していたため、オーストリア軍はマントヴァ公国に駐屯してフランス軍と睨み合う状態となった。しかし、オーストリア軍は政府からの給料支払いが不足していたため、兵士達は食料不足に悩んでいた。 そこでオイゲンは閉塞状況を打開するため奇襲を敢行、フランス軍駐屯地のクレモナに関する情報を集め、1月31日から2月1日にかけての夜にクレモナへ移動、地元の聖職者の協力を得て下水道から侵入し、クレモナの門を開けて町へ入った。フランス軍司令官のヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルを含む幹部達は寝込みを襲われ捕虜となり、オーストリア軍はフランス軍のアイルランド兵の反撃で町の制圧を断念したとはいえ損害は500人と少数で(フランス軍は1000人)、オイゲンの作戦は成功に終わった。 醜態を晒したヴィルロワはフランス宮廷の非難を浴びた上、彼を風刺する歌がフランスで流行して評判を落とした。戦後ヴィルロワは身代金を支払われ、解放された後はスペイン領ネーデルラントへ転任、ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンがイタリア方面司令官となりオイゲンと対峙した。.

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クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール

ード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール(Claude Louis Hector de Villars, 1653年5月8日 - 1734年6月17日)は、17世紀から18世紀にかけてのフランス・ブルボン朝の軍人・政治家。スペイン継承戦争で活躍、フランス大元帥の一人に数えられた。.

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グレートブリテン王国

レートブリテン王国(グレートブリテンおうこく、Kingdom of Great Britain)は、1707年合同法によりイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国が合同し成立した王国。グレートブリテン島全体を支配した、歴史上最初の国家である。.

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グイード・フォン・シュターレンベルク

イード・フォン・シュターレンベルク グイード・ヴァルト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク(Guido Wald Rüdiger von Starhemberg、1657年11月11日 - 1737年3月7日)は、オーストリアの貴族・軍人。同じく軍人のエルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルクは従兄に当たる。 1683年の第二次ウィーン包囲ではエルンストの副官としてウィーンに留まってオスマン帝国を迎え撃ち、続く大トルコ戦争で遠征軍に加わり1686年の、翌1687年のモハーチの戦い、1688年のと1691年のスランカメンの戦いに従軍、1697年にはプリンツ・オイゲンの部下としてゼンタの戦いにも参戦している。 1701年にスペイン継承戦争が始まると引き続きオイゲンの指揮下でイタリアのフランス軍と交戦、1703年にオイゲンがドイツ戦線に移るとオーストリア軍の指揮を委ねられた。イタリア戦線ではフランスから寝返ったサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世と合流してフランスの将軍ヴァンドーム公と戦ったがトリノに追いやられ、1705年にドイツから戻ったオイゲンと交代、1706年からハンガリーで起こったラーコーツィ・フェレンツ2世の反乱鎮圧へ出動、1708年にスペイン戦線へ転任させられた。 スペインではカタルーニャに駐屯、イギリスの将軍ジェームズ・スタンホープとスペイン王位候補者のカール大公(後のカール6世)と共にフェリペ5世と交戦、1710年にアルメナラの戦い・サラゴサの戦いでスペイン軍に連勝、勢いに乗ってマドリードを占領した。だが、フランスから出兵してきたヴァンドームが迫るとマドリードから引き上げたが、イギリス軍がヴァンドームの奇襲に遭いスタンホープが捕虜となり(ブリウエガの戦い)、イギリス軍の救援に向かった所でフランス軍と衝突した(ビリャビシオーサの戦い)。この戦いは互いに多数の死傷者を出した末に撤退したが、フェリペ5世側の戦略的優位が決定的となりバルセロナ周辺の防衛しか出来なくなった。 1713年にユトレヒト条約と合わせて結ばれた中立協定でスペインから帰国、1716年から1718年までオイゲンが墺土戦争でオスマン帝国と戦い、オーストリアに不在の時は彼の代わりに軍事委員会総裁を務め、1737年に亡くなるまでスラヴォニアの総督を務めた。.

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ケルン大司教

ルン大司教(ケルンだいしきょう、Erzbischöfe von Köln)は、カトリック教会のドイツ、ケルン教区の首長、大司教である。 中世には寄進などによる膨大な領地をもち、領地からの収入および交易都市であるケルンからの財源収入により大きな経済力を持った。神聖ローマ帝国の選帝侯をつとめるなど、かつては世俗にも影響力を及ぼした。この状態は1803年の帝国代表者会議主要決議でケルン大司教領が世俗化されるまで続いた。三十年戦争では、その地位をフランス王国に脅やかされた。 2014年より、第95代の枢機卿が在任中。.

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ケベック

ベック(Quebec、Québec).

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コブレンツ

ブレンツ(コーブレンツ、Koblenz )は、ドイツ連邦共和国の都市である。ラインラント=プファルツ州に属する。人口は約 10 万人。コプレンツとも表記される。.

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シチリア王国

チリア王国(シチリアおうこく、Regnum Siciliae, Regno di Sicilia)は、中世から近世にかけて、シチリア島やイタリア半島南部を支配した王国。現在は、その領域はほぼイタリア共和国領の一部となっている。.

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シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)

初代ゴドルフィン伯シドニー・ゴドルフィン(Sidney Godolphin, 1st Earl of Godolphin, KG, PC, 1645年6月15日 - 1712年9月15日)は、イギリスの貴族・政治家。ステュアート朝の5人の王に仕えて出世、アン女王の代では側近として治世の大半を支えた。.

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ジャン=バティスト・コルベール (トルシー侯)

トルシー侯ジャン=バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert, marquis de Torcy, 1665年9月14日 - 1746年9月2日)は、ブルボン朝フランスの政治家・外交官。フランス王ルイ14世に仕え治世後期の外交を担当した。外務大臣シャルル・コルベール・ド・クロワシーの子で財務総監ジャン=バティスト・コルベールは伯父、同名の海軍大臣セニュレー侯は従兄に当たる。 1689年から外務省に勤務するようになり、父が没した1696年に外務大臣となり妻の父で元外相のシモン・アルノー・ド・ポンポンヌと共に大同盟戦争の終戦交渉を行い1697年のレイスウェイク条約締結に尽力、1698年に駐仏大使のポートランド伯ウィリアム・ベンティンクに接触してスペイン王カルロス2世死後の領土分割条約を1700年にイングランドと締結した。しかし、カルロス2世は条約を受け入れず同年にルイ14世の孫フィリップ(後のフェリペ5世)に領土の一括相続を明言して死去、フェリペ5世が全てのスペイン領を相続したことに反発した諸国がフランスと交戦、スペイン継承戦争が勃発した。 戦争でフランスが劣勢になり、1709年に同盟国と和睦交渉を行い、交渉が決裂した後はイギリス野党のトーリー党指導者のロバート・ハーレーらと秘密交渉を行い、1710年から元駐仏大使のジャージー伯エドワード・ヴィリアーズと交渉、1711年のジャージー急死後は国務大臣ヘンリー・シンジョンと和睦を取り纏め1712年にイギリス・フランスの単独講和を成立、1713年に駐仏大使のシュルーズベリー公チャールズ・タルボットと交渉を詰めていきユトレヒト条約を成立させた。1715年にルイ14世が死去、ルイ15世が即位すると辞任、引退生活を送った。 1715年、パリのフォーブル・サントノーレ通りにある邸宅を一部買い取り、後にオテル・ド・トルシーと名付けられた。また同年にサブレ=シュル=サルトにサブレ城を建設、1712年に外交官の訓練学校を設立、1712年から1715年、1717年から1720年にかけて後進の育成に務めた(1720年に閉鎖)。ルイ14世の庶子のメーヌ公ルイの妻ルイーズ・ベネディクトの文芸サロンに招待され、ルイーズが設立した蜜蜂騎士団の1人に選ばれている。 1746年、80歳で死去。在任中の活動を記した回想録が出版され、ヴォルテールは『ルイ十四世の世紀』で正直で誠実な人物と評している。.

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ジャコバイト

John Pettie画『ジャコバイト』、1874年作 ジャコバイト()は、1688年イングランドで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン語名()である。.

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ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)

初代マールバラ公ジョン・チャーチル(アドリアーン・ファン・デル・ウェルフ画、1704年) 初代マールバラ公爵、ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 、1650年5月26日 - 1722年6月16日(グレゴリオ暦6月27日))は、イングランド及びイギリスの軍人、貴族。 廷臣として出世を遂げると共にスペイン継承戦争で軍才を発揮して、1代でイギリスの名門貴族マールバラ公爵家を興した。イギリス首相ウィンストン・チャーチル、イギリス皇太子妃ダイアナ・スペンサーの先祖としても知られている。.

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ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)

2代アーガイル公ジョン・キャンベル(John Campbell, 2nd Duke of Argyll, KG, PC, 1678年10月10日 - 1743年10月4日)は、スコットランドの貴族・軍人。初代アーガイル公アーチボルド・キャンベルとヘルミンガム男爵ライオネル・タルマッシュの娘エリザベスの長男でアーチボルド・キャンベルの兄。イギリスの軍人として活動、イギリス貴族に列せられた。.

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ジョージ1世 (イギリス王)

ョージ1世(George I、1660年5月28日(グレゴリオ暦6月7日) - 1727年6月11日(グレゴリオ暦6月22日ジョージ1世の存命中、グレートブリテン王国はユリウス暦を使用したが、ハノーファーでは1700年3月1日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では2月19日)にグレゴリオ暦を採用した。))は、グレートブリテン王国及びアイルランド王国の国王で、ハノーヴァー朝の開祖である『英国王室史事典』p199-200「ジョージ1世」。また、神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯でもあり、ドイツ語名をゲオルク・ルートヴィヒ()という。英国王としての在位期間は1714年8月1日から1727年6月11日、ハノーファー選帝侯としての在位期間は1698年1月23日から1727年6月11日である。 ジョージはドイツのハノーファーで生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地や選帝侯位称号を父や伯父たちから相続したただし父から受け継いだ選帝侯位が他のドイツ諸侯から「正式」に認められるには10年を要した。。スペイン継承戦争などヨーロッパにおける一連の戦争により、ジョージのドイツ領地はその治世中に拡大した。イギリスで又従妹のアン女王が死去してステュアート朝が断絶すると、母のゾフィーがステュアート家の血筋だったことから、54歳でグレートブリテン王国の国王ジョージ1世として迎えられた長子相続制において、イギリスの王位継承順位では50人以上のカトリックがジョージより上の順位にあったが、1701年王位継承法によりカトリックがイギリス王位を継承することは禁止され、プロテスタントの間ではジョージがアンの最も近い近親者であった。これに対し、ジャコバイトはジョージを廃位して、ジェームズ2世の息子でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを王位につけようとしたが失敗した。。 しかしドイツで生まれ育ったジョージ1世は英語を理解できず、文化も異なるイギリス国民から嫌われた。イギリスの政務もサー・ロバート・ウォルポールサー・ロバート・ウォルポールは実質的にはイギリスの初代首相となった。に任せきりにして、それがイギリスにおける責任内閣制(「国王は君臨すれども統治せず」)の発達を促す結果になった。 ジョージ1世は母国ハノーファーへ戻る途中で卒中を起こして死去、ハノーファーで埋葬された。.

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ジョージ・ルーク

ー・ジョージ・ルーク(, 1650年 - 1709年1月24日)は、イギリス海軍の提督。最高位は海軍元帥。フランス海軍との間の海戦指揮で知られ、特にビーゴ湾の海戦での勝利と1704年のジブラルタル攻略で名を残している。.

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ジブラルタル

ブラルタル(Gibraltar)は、イベリア半島の南東端に突き出した小半島を占める、イギリスの海外領土。.

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ジブラルタルの占領

ブラルタルの占領(Capture of Gibraltar)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1704年8月1日から4日にかけてイングランド・オランダ・オーストリア連合軍がスペイン南端の港湾都市ジブラルタルを守備するスペイン軍と交戦した。戦後ジブラルタルはイングランドへ渡り、現在に続くイギリスの海外領土の一部となった。.

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ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)

2代オーモンド公ジェームズ・バトラー 第2代オーモンド公ジェームズ・バトラー(, 1665年4月29日 - 1745年11月16日)は、イギリスのアングロ=アイリッシュ系貴族、軍人。 1665年、初代オーモンド公ジェームズ・バトラーの長男のオソリ伯トマス・バトラーとエミリア・ファン・ナッサウの長男として生まれた。母方の祖父はオラニエ公マウリッツの庶子ローデウェイクで、庶出ながらオラニエ家と血縁関係があった。1680年に父が急死したためオソリ伯位を継承、オーモンド公位の後継者に選ばれた。 1683年に騎兵隊長に就任、1685年にイングランド王ジェームズ2世の即位直後に起こったモンマス公ジェームズ・スコットの反乱鎮圧に貢献した。1688年に父方の祖父が亡くなりオーモンド公位を継承、同年に名誉革命が勃発するとジェームズ2世を裏切ってウィリアム3世に寝返り、恩賞として翌1689年に大司馬、近衛騎兵隊長に任命された。1690年にボイン川の戦いでジェームズ2世を迎撃した後は大陸に渡り大同盟戦争に従軍、1693年のネールウィンデンの戦いで捕らえられたが、ジェームズ2世の庶子ベリック公との捕虜交換で解放されている。 アン女王の治世になるとスペイン継承戦争にも参戦、ジョージ・ルーク指揮下の海軍に所属しカディスの戦い、ビーゴ湾の海戦で手柄を挙げ、1703年から1707年までアイルランド総督を務めた。1710年、イギリスの総選挙でトーリー党がホイッグ党に勝利すると1713年までアイルランド総督に再任、翌1711年、大陸のイギリス軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルが失脚するとトーリー党指導者のロバート・ハーレーとヘンリー・シンジョンの後押しで後任の司令官に就任、北フランス戦線でプリンツ・オイゲンと共にフランス軍と相対した。 しかし、マールバラ公の失脚はトーリー党とホイッグ党の政争が絡んだ事情からであり、政権を取った和平派のハーレーらトーリー党はオーモンドに積極的な戦闘を控えるように指示、オーモンドもフランスの将軍ヴィラールと内通したり軍を動かさず終始不戦の態度を取り、1712年にイギリスとフランスの単独講和が成立すると大陸からイギリス軍を引き上げさせ帰国した。イギリス軍のいなくなった同盟軍はフランス軍に敗北(ドゥナの戦い)、スペイン継承戦争の終結に繋がった。 ところが、トーリー党は王位継承問題で内部分裂を起こし、アン女王の死後即位した又従兄のジョージ1世と結びついたホイッグ党によってハーレー・シンジョンら主要党員が弾劾・罷免され、オーモンドもホイッグ党に弾劾され全ての官職と公位及び財産を没収され、ジャコバイトと結んで反乱を起こしたが失敗してフランスへ亡命した。その後四国同盟戦争に従軍したりジャコバイトの再度の反乱に加わったが、イギリスへ戻れないままアヴィニョンで80歳で死去。1682年にロチェスター伯ローレンス・ハイドの娘アンと結婚、1685年にボーフォート公ヘンリー・サマセットの娘メアリーと再婚したが、どちらの結婚でも子供が無かったため、イギリスに残った弟のチャールズがアイルランド貴族としてのオーモンド公位を継承した。.

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ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート

ェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(James Francis Edward Stuart(あるいはStewart)、1688年6月10日 - 1766年1月1日)は、“老僭王”(あるいは“大僭称者”、The Old Pretender)と呼ばれるイングランド・スコットランドの王位請求者(自称在位:1701年9月16日 - 1766年1月1日)。支持者であるジャコバイトによって、イングランド王ジェームズ3世及びスコットランド王ジェームズ8世と呼ばれる。.

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ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)

ベリック公ジェームズ ベリック公爵、ゴドフリー・ネラー画、1687年 ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル画 ジェームズ・フィッツジェームズまたはジャック・フィツ=ジャメ・ド・ベリック(英語:James FitzJames, 1st Duke of Berwick, フランス語:Jacques Fitz-James de Berwick, 1670年8月21日 - 1734年6月12日)は、フランスの軍人でフランス陸軍元帥を務めた。 イングランド王族であるヨーク公ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ2世)と愛妾アラベラ・チャーチルの第2子としてムーランで誕生した。異母姉にメアリー2世、アン、異母弟にジェームズ・フランシス・エドワード、異母妹にルイーザ・マリア・テレーザがいる。マールバラ公ジョン・チャーチルは母方の叔父に当たる。.

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ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)

初代スタンホープ伯ジェームズ・スタンホープ(James Stanhope, 1st Earl Stanhope, PC, 1673年 - 1721年2月5日)は、イギリスの軍人・政治家。ホイッグ党に属し、スペイン継承戦争ではスペインに上陸してフランス・スペインと戦い、戦後は政権を率いてイギリスの政治を担った。姓はスタナップ、スタノップとも表記される。.

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スペイン君主一覧

ペイン君主一覧(スペインくんしゅいちらん)では、スペインおよび現在のスペインにつながるイベリア半島の諸国を統治してきた君主の一覧を挙げる。.

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スペイン帝国

'''黄金の世紀'''におけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年-1640年) スペイン帝国(スペインていこく、)は、スペインとその植民地・属領などの総称である。カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国がナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、イベリア半島からイスラーム勢力を一掃した1492年以降、1898年の米西戦争に敗北して、ほぼ全ての海外植民地を失うまでの期間を指す。「帝国」の名称はその広大な統治領域に由来する(共和制のもとでのローマ帝国のごとし)。君主号(皇帝)とは無関係である。1868年から1874年は革命政権の支配の下で、国王は空位となり、やがて共和制に移行した。 とりわけ、16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金世紀(Siglo de Oro)と呼ばれている。スペイン君主のカルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した際には、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つなど、その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。.

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スペイン・ハプスブルク朝

'''黄金の世紀'''と呼ばれたスペイン・ハプスブルク朝のころにおけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年 - 1640年) スペイン・ハプスブルク朝は、16世紀初めから17世紀末まで続いた、ハプスブルク家によるスペイン統治時代を指す。ハプスブルクのスペイン語名によりアブスブルゴ朝とも呼ばれる。 この時代、スペインはアメリカ大陸や太平洋(フィリピン、マリアナ諸島)に広大な植民地(ヌエバ・エスパーニャ)を有し、またヨーロッパにおいてもネーデルラント、フランシュ=コンテ、北イタリア(ミラノ公国)、南イタリア(ナポリ王国、シチリア王国、サルデーニャ)などを支配下に置いた。カルロス1世はまた神聖ローマ皇帝を兼ねた。1580年から1640年にかけてはポルトガル王も兼ねることで、イベリア半島全域を支配()するだけでなく、ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地をも併せ持つことになった。.

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ストラスブール

トラスブール(仏・Strasbourg ストラズブールアルザス語:Schdroosburiシュトロースブーリ、アレマン語:Strossburiシュトロースブリ、Straßburg シュトラースブルク)は、グラン・テスト地域圏の首府である。バ=ラン県の県庁所在地でもある。 フランス北東部の、ライン川左岸に位置する。河川港を抱える交通の要衝である。対岸にはドイツの都市ケールが存在するが、シェンゲン協定によってパスポートチェック無しで自由に行き来できる。2007年6月10日にはTGV東ヨーロッパ線が開業し、パリ東駅と2時間20分で結ばれた。.

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ステュアート朝

テュアート朝( または )は、1371年から1714年まで続いたスコットランド起源の王朝。1603年以後はイングランド国王を兼ねて同君連合体制となり、1707年にグレートブリテン王国(イギリス)を成立させた。「ステュアート」は、スコットランド語の宮宰()に由来する。メアリー女王のとき綴りをからに改めた。.

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スコットランド王国

ットランド王国(スコットランドおうこく、ゲール語:Rìoghachd na h-Alba, スコットランド語:Kinrick o Scotland, 英語:Kingdom of Scotland)は、グレートブリテン島の北部、現在のイギリスのスコットランドに存在した王国。843年にケネス1世により成立したとされ、1707年のイングランド王国との合同で消滅した。 ステュアート朝のジェームズ1世が1603年にイングランド王位を兼ねて以来、南部のイングランドとは同君連合の関係にあったが、アン女王時代の1707年の合同法によりイングランド王国と合同して、グレートブリテン王国となった。.

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サラ・ジェニングス

マールバラ公爵夫人サラ サラ・ジェニングス(Sarah Jennings(Jenyns), 1660年6月5日 - 1744年10月18日)は近世イギリスの女性。初代マールバラ公ジョン・チャーチルの妻でサラ・チャーチル(Sarah Churchill)とも呼ばれる。アン女王の女官として、夫の出世に貢献した女性として知られる。アン女王の晩年には寵愛を失うが、ハノーヴァー王家のジョージ2世と王妃キャロライン、首相ロバート・ウォルポールと親交を結んだ。マールバラ公家の莫大な資産をトラスト法によって継承し、当時ヨーロッパ有数の資産家でもあった。.

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サラゴサの戦い

ラゴサの戦い(サラゴサのたたかい、Batalla de Zaragoza)は、スペイン継承戦争中の1710年8月20日、率いるスペイン・ブルボン家の軍勢と オーストリアのグイード・フォン・シュターレンベルク率いる多国籍軍の間で発生した戦闘。.

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サルデーニャ

ルデーニャ(Sardegna)は、イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。 周辺の島を含めて、サルデーニャ自治州を構成している。この州は、イタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はカリャリ(カリアリ)。.

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サヴォイア公国

ヴォイア公国またはサヴォワ公国(サヴォイアこうこく、伊:Ducato di Savoia, 仏:Duché de Savoie)は、サルデーニャ王国の前身となった公国(公爵領)である。1416年、サヴォイア家のサヴォイア伯アメデーオ8世が、皇帝ジギスムントから公爵の位を与えられて成立した。 現在のイタリア北西部(現ヴァッレ・ダオスタ州、ピエモンテ州)とフランス東部サヴォワ地方や現アルプ=マリティーム県、ジュネーヴ(現スイス)も含んだ。首都はサヴォイア伯爵領の頃からシャンベリ(現フランス)であったが、1563年にトリノに遷都された。 1718年に締結されたロンドン条約の結果、1720年にサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は、シチリア島(シチリア王国)を手放す代わりに、ハプスブルク家の所領だったサルデーニャ島(サルデーニャ王国)を獲得した。一方、サヴォイア公爵領もイタリア統一によりイタリア王国の一部となって解消されるまで存続した。.

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四国同盟戦争

四国同盟戦争(しこくどうめいせんそう、War of the Quadruple Alliance)は、1718年から1720年まで行われた、スペインと四国同盟(オーストリア、イギリス、フランス、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の4カ国)及びサヴォイア公国(当時シチリア王国を称する)との間に行われた戦争。.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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神聖ローマ皇帝

聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser、Holy Roman Emperor)は神聖ローマ帝国の君主であるローマ皇帝を指し、古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語。実際に用いられた称号ではなく、実際にはローマ人の皇帝(Romanorum Imperator、Kaiser der Römer)と称した。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。.

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第2次百年戦争

ワーテルローの戦い(1815年) 第2次百年戦争(だいにじひゃくねんせんそう、Second Hundred Years' War、Seconde guerre de Cent Ans, 1689年 - 1815年)は、ヨーロッパ内の国境紛争と王位継承、主に北アメリカ大陸を舞台として南アジア・アフリカをふくむ海外植民地の争奪、そして、それらに起因するアメリカの独立・フランス革命・ナポレオン帝国を背景にイギリス(イングランド)とフランスの間で繰り広げられた一連の戦争の総称である。イギリスの歴史家J.R.シーリーの命名によるMorieux, Renaud: "Diplomacy from Below and Belonging: Fishermen and Cross-Channel Relations in the Eighteenth Century" article in "Past & Present", 202, (2009), p. 83.

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瀬原義生

原義生(せはら よしお、1927年12月1日-2016年9月25日)は、日本の歴史学者。ドイツの中世から近世初期にかけてが専門。.

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選帝侯

ハインリヒ7世時代) 選帝侯(せんていこう、Kurfürst)は、神聖ローマ帝国において、ローマ王(ドイツ王)すなわち神聖ローマ帝国の君主に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。選挙権以外にも他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有した。選挙侯(せんきょこう)または選定侯(せんていこう)ともいう。.

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領邦

邦(りょうほう、Territorium)は、中世ヨーロッパに成立した君主を中心とする半自立の支配圏。ドイツでは領邦が徐々に自立を進めて国家の体裁を整えていき(領邦国家、Territorialstaat, Landesstaat)、17世紀半ばに一応の国家主権が認められた。19世紀後半にドイツ統一が果たされると国家主権は失われ、ドイツ帝国を構成する諸邦としての地位を認められた。.

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西ヨーロッパ

中東 西ヨーロッパ(にしヨーロッパ、Western Europe、L’europe de l'ouest、Westeuropa)は、西欧ともいい、ヨーロッパ地域の西部を指す。.

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林健太郎 (歴史学者)

林 健太郎(はやし けんたろう、1913年1月2日 - 2004年8月10日)は、昭和期に活動した日本の歴史学者(近代ドイツ史専攻)、評論家。東京大学教授・文学部長・総長を務めた。参議院議員を一期務めている。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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11月1日

11月1日(じゅういちがつついたち)はグレゴリオ暦で始から305日目(閏年では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。.

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1697年

記載なし。

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1698年

記載なし。

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1700年

17世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1701年

18世紀最初の年である。.

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1701年王位継承法

ゾフィー現在のイギリス王位継承者は、事実上、彼女の子孫のみに限られている 1701年王位継承法(1701ねんおういけいしょうほう、)は、1701年に権利章典を改正した法で、イギリスの王位継承について定めた法。.

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1702年

記載なし。

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1702年8月の海戦

1702年8月の海戦(Action of August 1702)は、スペイン継承戦争における海戦の1つで、ユリウス暦の1702年8月19日から25日にかけてイングランド海軍の中将ジョン・ベンボウの艦隊と、フランス海軍のジャン=バティスト・デュカスの艦隊の間で行われた海戦である。.

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1703年

記載なし。

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1704年

記載なし。

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1705年

記載なし。

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1706年

記載なし。

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1707年

記載なし。

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1708年

記載なし。

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1709年

記載なし。

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1710年

記載なし。

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1711年

記載なし。

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1712年

記載なし。

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1713年

記載なし。

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1714年

記載なし。

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

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2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

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