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四国同盟戦争

索引 四国同盟戦争

四国同盟戦争(しこくどうめいせんそう、War of the Quadruple Alliance)は、1718年から1720年まで行われた、スペインと四国同盟(オーストリア、イギリス、フランス、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の4カ国)及びサヴォイア公国(当時シチリア王国を称する)との間に行われた戦争。.

102 関係: 南ネーデルラント友清理士墺土戦争 (1716年-1718年)大北方戦争山川出版社三国同盟 (1717年)北原敦ナポリ王国ペンサコーラ (フロリダ州)ペンサコーラ占領 (1719年)ナッソーナッソー襲撃 (1720年)ミラノ公国ミラッツォの戦い (1718年)マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイアネーデルラント連邦共和国ハノーヴァー朝ハーグ条約 (1720年)ハプスブルク帝国ハイランド地方バハマメッシーナユトレヒト条約ラ・セウ・ドゥルジェイ包囲戦 (1719年)ラシュタット条約リチャード・テンプル (初代コバム子爵)リーグ (単位)ルイ14世 (フランス王)ルイ15世 (フランス王)ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボンレサカロバート・ウォルポールロザス包囲戦 (1719年)ヴィットーリオ・アメデーオ2世トスカーナ大公国パルマ公国パンプローナパッサロ岬の海戦 (1718年)パッサロヴィッツ条約ビリャスルの遠征ビーゴ占領フランカヴィッラの戦いフランス王国フィリップ2世 (オルレアン公)フィニステレ岬フェリペ5世 (スペイン王)フェロルウィーン条約 (1725年)エリザベッタ・ファルネーゼオルレアン公...オンダリビアオイゲン・フォン・ザヴォイエンオスマン帝国カルロス3世 (スペイン王)カール12世 (スウェーデン王)カール6世 (神聖ローマ皇帝)カディスカタルーニャ州クロード・フロリモン・ド・メルシーグレン・シールの戦いグレートブリテン王国グレートプレーンズシチリアシチリア王国ジャコバイトジョージ1世 (イギリス王)ジョージ・ビング (初代トリントン子爵)ジブラルタルジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)スペインスペインによるサルデーニャ侵攻スペイン君主一覧スペイン帝国スペイン継承戦争スペイン領フロリダステュアート朝スウェーデンスコットランドサルデーニャサルデーニャ王国サン・セバスティアンサントーニャサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコサヴォイア公サヴォイア公国四国同盟 (1718年)神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝福井憲彦立石博高錦正社関哲行英仏同盟 (1716年-1731年)柴田三千雄樺山紘一戦列艦1718年1720年2月17日 インデックスを展開 (52 もっと) »

南ネーデルラント

南ネーデルラント(みなみネーデルラント、Pays-Bas du Sud)は、スペイン(1579年 - 1713年)、オーストリア(1713年 - 1794年)及びフランス(1794年 - 1815年)により支配された低地諸国の一部の地域を指す。時代によって、スペイン領ネーデルラント、オーストリア領ネーデルラントとも呼ばれる。この領域は、現在のベルギーのほとんど(リエージュ司教領を除く:ここは神聖ローマ帝国の一部であった)とルクセンブルク(現在のベルギーのリュクサンブール州、ドイツのラインラント=プファルツ州の一部も含む)と、1678年までは北フランスの一部を含んでいた。.

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友清理士

友清 理士(ともきよ さとし、1967年 - )は、日本の歴史作家、翻訳家。アメリカ独立戦争やスペイン継承戦争などの近世ヨーロッパ史に関する著作や翻訳で知られる。.

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墺土戦争 (1716年-1718年)

墺土戦争(おうとせんそう、, 1716年 - 1718年)は、18世紀にオーストリア(ハプスブルク君主国)とオスマン帝国が東ヨーロッパ・バルカン半島のセルビアを主戦場として衝突した戦争である。.

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大北方戦争

大北方戦争(だいほっぽうせんそう、、、、、、、1700年 - 1721年)は、スウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)を結成した諸国とがスウェーデンの覇権をめぐって争った戦争であり、近世の北欧、中欧、そして東欧における重要な画期となった。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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三国同盟 (1717年)

三国同盟(さんごくどうめい、Triple Alliance)は1717年にネーデルラント連邦共和国、フランス王国、グレートブリテン王国の間で締結された条約。同盟は1713年のユトレヒト条約での合意を維持しようとした。三国がスペインがヨーロッパにおける超大国になることを恐れた結果、軍事化が行われ、平民には多大な負担をかけた。またスペインなどが激怒し、瀬戸際政策が実施された結果、翌年に神聖ローマ皇帝カール6世が同盟に加入(四国同盟が成立)、四国同盟戦争が勃発した。.

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北原敦

北原 敦(きたはら あつし、1937年 - )は、歴史学者。北海道大学名誉教授。元立正大学、帝京大学教授。専門はイタリア史、ファシズム。.

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ナポリ王国

ナポリ王国(ナポリおうこく、Regno di Napoli)は、13世紀から19世紀にかけて、ナポリを中心に南イタリアを支配した国家。 13世紀末にシチリア島とイタリア半島南部を支配していた中世シチリア王国が分裂した際、半島側の領土を支配下に置いた王国である。19世紀初頭、シチリア島のシチリア王国とナポリ王国は正式に統合され「両シチリア王国」となった。.

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ペンサコーラ (フロリダ州)

ペンサコーラ(Pensacola)は、アメリカ合衆国フロリダ州北西端に位置する都市。モービルの東約90km、州都タラハシーの西約300kmに位置する。メキシコ湾につながるペンサコーラ湾に面し、また「海軍航空のゆりかご」と称されるペンサコーラ海軍航空基地をはじめとする海軍関連施設を多数抱える軍事都市・港湾都市であり、また、歴史的建築物と白砂のビーチで知られる観光都市・保養都市でもある。人口は51,923人(2010年国勢調査).

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ペンサコーラ占領 (1719年)

ペンサコーラ占領(ペンサコーラせんりょう、)は四国同盟戦争中の1719年5月、率いるフランス軍がスペイン領フロリダの集落ペンサコーラを占領した戦闘。同年8月、スペインの大部隊が救援に来たためフランスの小規模な駐留部隊は降伏したBense, p. 14.

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ナッソー

ナッソー(Nassau )は、バハマの首都。2000年における人口は約21万人。ニュープロビデンス島に位置する。.

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ナッソー襲撃 (1720年)

ナッソー襲撃(ナッソーしゅうげき、)、またはニュープロビデンスの戦い(ニュープロビデンスのたたかい、)は、四国同盟戦争中の1720年2月、スペイン軍がグレートブリテン王国領ナッソーを強襲した戦闘。.

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ミラノ公国

人を飲み込む竜はミラノの昔話からきており、ヴィスコンティ家の紋章でもあった。現在はミラノのシンボルとして定着しており、アルファロメオのロゴの元にもなっている。 ミラノ公国(Ducato di Milano, Ducatus Mediolani)は、1395年から1535年(断続あり)までイタリア北部の都市ミラノを首都として存在した公国である。.

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ミラッツォの戦い (1718年)

ミラッツォの戦い(ミラッツォのたたかい、Battaglia di Milazzo)は、四国同盟戦争中の1718年10月15日、シチリア王国のミラッツォ近くで戦われた、オーストリア軍とスペイン軍の間の戦闘。.

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マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア

マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア(Maria Luisa di Savoia, 1688年11月17日 - 1714年2月14日)は、スペイン王フェリペ5世の最初の王妃。スペイン語名はマリア・ルイサ・デ・サボヤ(Maria Luisa de Saboya)。.

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ネーデルラント連邦共和国

ネーデルラント連邦共和国(ネーデルラントれんぽうきょうわこく、Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden、Republic of the Seven United Netherlands)は、16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家。現在のオランダ王国の原型であり、そのことからオランダ共和国などと呼ばれることもある。 連邦共和国はヘルダーラント州、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、フリースラント州、オーファーアイセル州、フローニンゲン州のネーデルラント北部7州からなり、これにドレンテ準州、国境地帯の連邦直轄領ブラーバント、リンブルフ、フランデレンなどが加わっていた。中でもホラント州が連邦の経費の半分以上を負担し、人口、富、対外関係の面で他の6州より抜きんでていた。そのため、この州の名がそのまま連邦共和国、さらに今日の王国の通称となった。日本語名の「オランダ」もホラントのポルトガル語名に由来する。.

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ハノーヴァー朝

ハノーヴァー朝(ハノーヴァーちょう、英語:)は、1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝。ステュアート朝の断絶を受けて、ドイツ北部の領邦君主の家系であったハノーヴァー家から国王を迎えて成立した。 ハノーヴァー家(House of Hanover )は、ドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領の分邦の一つカレンベルク侯領(1692年からハノーファー選帝侯領)の君主の家系であったが、ステュアート家の血筋を引いていたことからイギリスの王家となり、ハノーファー選帝侯領(1814年からハノーファー王国)とイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。1837年、女王ヴィクトリアの即位によりハノーファー王国との同君連合を解消した。 1901年のヴィクトリアの死後は、夫(王配)であったアルバートの家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。これらは別項で扱うが、ヴィクトリアの血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることがある。 なお、初代(ジョージ1世)から4代(ジョージ4世)まで、連続して4人の「ジョージ」(ゲオルク)という名の王が在位していたことから、この時期を特にジョージ王朝(時代)と称することがあり、文化史ではこの時期を中心とした「ジョージアン時代」という区分もある。.

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ハーグ条約 (1720年)

ハーグ条約(ハーグじょうやく、Treaty of The Hague, Tratado de La Haya, Paix de La Haye, Haager Vertrag, Verdrag van Den Haag)は、1720年2月17日に締結された、四国同盟戦争の講和条約。.

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ハプスブルク帝国

ハプスブルク帝国(ハプスブルクていこく)大津留厚「ハプスブルク帝国」世界民族問題事典、平凡社、2002年は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合である。単一の「帝国」ではなかった、あるいは推戴する君主が「皇帝」でなかった時代もあるが、日本語ではこの呼称が用いられることが多い。ドイツ語では Habsburgermonarchie または Habsburgisches Reich であるが、前者は直訳するとハプスブルク君主国であり、後者の場合もライヒ (Reich) は必ずしも「帝国」を意味しない。 成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリアと呼称していた。1804年から1867年まではオーストリア帝国、1867年から1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国を総称とした。 ただし、これより古い時代の、神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世を君主とする国家群なども、広く「ハプスブルク家の帝国」といった意味で「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがある。 ハプスブルク帝国(ハプスブルク家)の旗.

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ハイランド地方

ハイランド地方(英語:Highlands, スコットランド・ゲール語:A' Ghàidhealtachd, スコットランド語:Hielans)は、北側および西側の荒れた山がちな地域を含むスコットランドの一部であるが、正確な境界は、特に東側で厳密には定まっていない。をはさんで、とに分かれる。スコットランド高地地方、あるいは単にハイランド、スコットランド高地、高地地方などとも訳す。 一般に人口は疎であり、山脈が多く、そのなかにはブリテン諸島最高峰であるベン・ネヴィス山がある。ハイランドは、19世紀以前には現在よりもずっと多くの人口を擁していたが、スコットランドでのジャコバイトの台頭に続くハイランドの伝統的な方式の非合法化などの要因が複合した、悪名高き土地清掃 と、産業革命期の都市部への大量移入の結果、現在ではヨーロッパで最も人口密度の低い地域の一つとなっている。ハイランド地方および北部諸島の平均人口密度はスウェーデン、ノルウェー、パプアニューギニア、アルゼンチンよりも低い。 ハイランド地方の大部分を担当する行政体はハイランド・カウンシルであり、インバネスコートの語源となったことで知られるインヴァネスに行政の中心がおかれている。ハイランド地方の行政区分はこの他にアバディーンシャイア、アンガス、アーガイル・アンド・ビュート、マレー、パース・アンド・キンロス、スターリングがある。アラン島は行政的にはノース・エアシャイアに属するが、アラン島北部は一般的にはハイランドの一部とみなされている。.

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バハマ

バハマ国(バハマこく)、通称バハマは、西インド諸島のバハマ諸島を領有する国家。 英語圏に属し、イギリス連邦の加盟国であると同時に英連邦王国の一国たる立憲君主制国家である。 島国であり、海を隔てて北西にアメリカ合衆国のフロリダ半島が、南西にキューバが、南東にハイチが存在する。 首都はニュー・プロビデンス島のナッソー。 バハマ文書が注目を浴びている。 2010年5月3日の人口は35万1461人。.

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メッシーナ

メッシーナ(Messina)は、イタリア共和国のシチリア島北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約24万人の基礎自治体(コムーネ)。メッシーナ県の県都である。イタリア本土のカラブリア半島とを隔てるメッシーナ海峡に面した港湾都市で、シチリア州ではパレルモ、カターニアに次いで第3位のコムーネ人口を有する。都市圏にはおよそ50万人が暮らす。 古代ギリシャの植民都市にさかのぼるこの要衝の港町は、長く交易で栄えるとともに、古代には第一次ポエニ戦争の契機となり、中世には黒死病上陸地となるなど、多くの歴史的事件の舞台となった。近代ヨーロッパ最悪の犠牲者を出した地震・津波として記憶されているメッシーナ地震など、多くの自然災害や戦災に見舞われながら復興を遂げている。海峡南東に大都市レッジョ・ディ・カラブリアと向かい合い、経済的に密接なつながりがある。.

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ユトレヒト条約

ユトレヒト条約後の北アメリカ(1750年) ユトレヒト条約(ユトレヒトじょうやく)は、1713年スペイン継承戦争及び並行して北アメリカ大陸で行われていたアン女王戦争の講和条約。ただし、神聖ローマ皇帝カール6世とフランス王ルイ14世との間の講和条約はラシュタット条約として別途締結された。 内容はイギリスの一人勝ちであった。.

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ラ・セウ・ドゥルジェイ包囲戦 (1719年)

ラ・セウ・ドゥルジェイ包囲戦(ラ・セウ・ドゥルジェイほういせん、Sitio de Seo de Urgel)は四国同盟戦争中の1719年8月22日から8月31日にかけて、フランス軍によるラ・セウ・ドゥルジェイの包囲。 ボナス侯爵率いるフランス軍歩兵7千と騎兵1,200は8月22日にから出撃、31日にはラ・セウ・ドゥルジェイとを占領、スペイン軍の指揮官ディエゴ・デ・ビリャプラーナを捕虜にした。.

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ラシュタット条約

スペイン継承戦争後のヨーロッパ ラシュタット条約(ラシュタットじょうやく)は、1714年3月6日に神聖ローマ皇帝カール6世とフランス王ルイ14世との間に結ばれたスペイン継承戦争の講和条約。皇帝側全権はプリンツ・オイゲン、フランス全権はクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール。主な内容は以下の通り。.

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リチャード・テンプル (初代コバム子爵)

初代コバム子爵リチャード・テンプル(Richard Temple, 1st Viscount Cobham, 、1675年10月24日 - 1749年9月14日)は、イングランド及びイギリスの陸軍軍人、政治家、貴族。 スペイン継承戦争で実戦経験を積んだのち、四国同盟戦争でイギリス軍の指揮をとった。最終階級は。.

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リーグ (単位)

リーグ (英語 league) は、広義には、欧米のいくつかの国で使われている距離(長さ)の単位である。値や定義は、国や時代によってことなるが、3.8~7.4キロメートルの範囲にある。狭義には、その中で英米の単位を指す。 各国語での呼び名は、リーグ(英語)、リュー(フランス語 lieue)、レグア (スペイン語 legua)、レゴア(オランダ語 legoa)など。また、幕末明治にリーギュと訳されたことがある。 いくつかの国では、同じ呼び名で、その国の1平方リーグに等しい面積の単位としても使う。.

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ルイ14世 (フランス王)

ルイ14世(仏:Louis XIV、1638年9月5日 - 1715年9月1日)は、ブルボン朝第3代のフランス王国国王(在位:1643年5月14日 - 1715年9月1日)である。ナバラ王国国王としてはルイス3世(バスク語:Luis III.a)である。ルイ13世の長子であり、妃はスペイン国王であるフェリペ4世の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュである。王朝の最盛期を築き、太陽王(Roi-Soleil)と呼ばれた。 父の死後、幼くしてフランス国王に即位し、宰相ジュール・マザランの補佐を得てフロンドの乱を鎮圧した。1661年に親政を開始するとジャン=バティスト・コルベールを登用して中央集権と重商主義政策を推進した。対外戦争を積極的に行い、帰属戦争、仏蘭戦争で領土を拡張して権威を高めると、ジャック=ベニーニュ・ボシュエの唱える王権神授説・ガリカニスムを掲げ、絶対君主制を確立した。さらにミディ運河とヴェルサイユ宮殿を建設した。治世後半のアウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った。 72年もの在位期間はフランス史上最長であり、18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールはルイ14世の治世を「大世紀」(グラン・シエクル Grand Siècle)と称えている。また、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されている。 また、メヌエットを宮廷舞踊に取り入れ、メヌエットを最初に踊った人と言われ、その時、太陽神アポロンに変装して踊った姿から「太陽王」と言う諢名がついたとも言われる。.

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ルイ15世 (フランス王)

ルイ15世(、1710年2月15日 - 1774年5月10日)は、ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日 - 1774年5月10日)。ナバラ国王としてはルイス4世()。 曾祖父ルイ14世の死によりわずか5歳で即位し、ルイ14世の甥に当たるオルレアン公フィリップ2世が摂政の座に就いて政務を取り仕切った。成人後はブルボン公ルイ・アンリ、次いでフルーリー枢機卿が執政した。優れた政治家であるフルーリー枢機卿の執政によりフランスは繁栄した。フルーリー枢機卿の死後は親政を行う。ポーランド継承戦争に参戦して領土を得たが、続くオーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政を逼迫させた。七年戦争ではアメリカ大陸の権益を失い、フランスの衰退を招いた。ジョン・ローのミシシッピ会社が破綻してしまい、治世の間に5回もデフォルトした。 多くの愛人を持ち私生活は奔放で、最愛王(Bien-Aimé)と呼ばれた。特にポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人はルイ15世の治世に大きな影響を与えている。晩年になってショワズール公、次いで大法官を起用して改革を行い王権の強化を図るが、1774年に天然痘により64歳で崩御した。 この時代、啓蒙思想がヨーロッパ世界を席巻し、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどがフランスのサロンで活躍している。.

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ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン

アンヌ・ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン(Anne Louise Bénédicte de Bourbon, 1676年11月8日 - 1753年1月23日)は、ブルボン朝のフランス王家の一員。ルイ14世の義理の娘にあたる。宮廷ではアンギャン令嬢(Mademoiselle d'Enghien)、シャロレー令嬢(Mademoiselle de Charolais)などとも呼ばれたが、結婚後のメーヌ公爵夫人(Duchesse du Maine)、メーヌ夫人(Madame du Maine)の呼び名で知られている。.

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レサカ

レサカ(Lesaka, Lesaca)は、スペイン・ナバーラ州のムニシピオ(基礎自治体)。公式名はバスク語のLesaka。ナバーラ州は3つの言語圏を設定しており、レサカはスペイン語とともにバスク語も公用語に指定されている「バスク語圏」に含まれている。.

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ロバート・ウォルポール

初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(、1676年8月26日 - 1745年3月18日)は、イギリスの政治家、貴族。 1701年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入り。高い討論力で頭角を現し、ホイッグ党政権(あるいはホイッグ党参加政権)で閣僚職を歴任した。1720年の南海泡沫事件の後処理を指揮。事件後にはホイッグ政権の最大の有力者となり、1721年に第一大蔵卿に就任した。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ、1741年ので与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣した。.

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ロザス包囲戦 (1719年)

包囲戦(ロザスほういせん、Setge de Roses)は四国同盟戦争中の1719年10月22日から11月17日にかけて、フランス軍がカタルーニャのロザスを包囲した戦闘。.

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ヴィットーリオ・アメデーオ2世

ヴィットーリオ・アメデーオ2世(、1666年5月14日 - 1732年10月30日)は、サヴォイア公(在位:1675年 - 1730年)、後にシチリア王(在位:1714年 - 1720年)、次いでサルデーニャ(ピエモンテ)王(在位:1720年 - 1730年)。カルロ・エマヌエーレ2世とサヴォイア家分家サヴォワ=ヌムール家出身のマリーア・ジョヴァンナ・バッティスタ・ディ・サヴォイアの息子。.

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トスカーナ大公国

トスカーナ大公国(トスカーナたいこうこく、Granducato di Toscana、Großherzogtum Toskana)は、16世紀から19世紀にかけて北イタリアに存在した国家。領域はほぼ現在のトスカーナ州にあたり、同州の前身となった。.

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パルマ公国

1639年のパルマ・ピアチェンツァ公国の地図 18世紀後半のイタリア。パルマ公国は濃いピンクの部分 パルマ公国(Ducato di Parma)は、イタリア北部にあった国で、1545年に創られ1860年のイタリア統一まで存続した。パルマ・ピアチェンツァ公国、パルマ・エ・ピアチェンツァ公国 (Ducato di Parma e Piacenza) とも。 ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世が息子のピエール・ルイージに教皇領の一部であったパルマとピアチェンツァを分けて創建したのが最初である。 1731年にアントーニオが跡継ぎのないまま死ぬと、アントーニオの姪エリザベッタを母に持つスペイン・ブルボン家のカルロス王子(後のスペイン王カルロス3世)が短期間公位に就いた。1733年からのポーランド継承戦争の結果、カルロスはオーストリア・ハプスブルク家領だったナポリ王国・シチリア王国を獲得するかわりに、パルマ公国をハプスブルク家に割譲した。その後、オーストリア継承戦争の講和条約である1748年のアーヘンの和約によって、再びスペイン・ブルボン家のカルロス3世の弟フィリッポへと公位が渡った。 ナポレオン・ボナパルトのフランスに侵略された後、1814年にはナポレオンの妻でハプスブルク家皇女のマリーア・ルイーザに公位が渡され、彼女の死んだ1847年に再び公位がブルボン家に戻された。 1860年、住民投票によりサルデーニャ王国への併合が決定され、そのままイタリア王国に統一された。.

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パンプローナ

パンプローナ(Pamplona)またはイルーニャ(IruñaまたはIruñea)は、スペイン・ナバーラ州のムニシピオ(基礎自治体)。ナバーラ州の州都である。かつてはナバーラ王国の首都だった。 毎年7月6日から14日にはサン・フェルミン祭(牛追い祭り)が開催される。アーネスト・ヘミングウェイの長編小説『日はまた昇る』の主な舞台である。.

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パッサロ岬の海戦 (1718年)

パッサロ岬の海戦(パッサロみさきのかいせん、Battle of Cape Passaro)は1718年8月11日にシチリア王国の沖で生起した、ジョージ・ビング提督率いるイギリス艦隊と、フェルナンド・チャコン(Fernando Chacón)両提督率いるスペイン艦隊の間の戦闘。戦闘は四国同盟戦争の宣戦布告がなされる4か月前に起こった。.

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パッサロヴィッツ条約

パッサロヴィッツ条約は、1718年7月21日にパッサロヴィッツ(現・セルビアのポジャレヴァツ)で、オスマン帝国とハプスブルク君主国(オーストリア大公国)・ヴェネツィア共和国の間に結ばれた条約。パッサロヴィツ条約などとも表記される。 1714年から1718年にかけて、オスマン帝国はヴェネツィアとギリシャやクレタ島でを有利に戦っていた一方で、墺土戦争ではペーターヴァルダインの戦いとベオグラード包囲戦でオイゲン公率いるオーストリア軍に敗れており、両戦争の講和条約として締結された。 本条約は軍事情勢を反映して、オスマン帝国は、ワラキア西部(バナト地方)・セルビア北部・ボスニア北部などをオーストリアに割譲した。ヴェネツィアはペロポネソス半島を放棄し、1699年のカルロヴィッツ条約で得た領土のうちで残っているのは、クレタ島の居留地やイオニア諸島などとなった。 Category:オスマン帝国の講和条約 Category:オーストリアの講和条約 Category:講和条約 Category:ハプスブルク帝国の条約 Category:ヴェネツィア共和国 Category:バルカンの歴史 Category:18世紀のヨーロッパ Category:1718年の条約.

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ビリャスルの遠征

ビリャスルの遠征(ビリャスルのえんせい、Villasur expedition)は1720年、スペインによる軍事遠征であり、北アメリカ大陸中部のグレートプレーンズにおいて増大していたフランスの勢力を低減させるために行われた。ペドロ・デ・ビリャスル中将(Pedro de Villasur)率いる遠征隊は現ネブラスカ州にあたる場所でとの軍勢に襲われ、46人が戦死した。遠征隊の生存者はサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコへ撤退した。.

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ビーゴ占領

ビーゴ占領(ビーゴせんりょう、)は四国同盟戦争中の1719年10月、イギリスの遠征軍がスペイン王国の海岸に上陸しRodger p. 229.

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フランカヴィッラの戦い

フランカヴィッラの戦い(フランカヴィッラのたたかい、Battaglia di Francavilla)は、四国同盟戦争中の1719年6月20日、シチリア王国のフランカヴィッラ近くで戦われた、オーストリア軍とスペイン軍の間の戦闘。.

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フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

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フィリップ2世 (オルレアン公)

ルレアン公フィリップ2世 フィリップ2世(Philippe II, 1674年8月2日 - 1723年12月23日)は、シャルトル公(在位:1674年 - 1701年)、後にオルレアン公(在位:1701年 - 1723年)。1715年から1723年までルイ15世の摂政を務めたフランスの王族でオルレアン家当主。 ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世と後妻エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールの子。大同盟戦争で従軍、1691年のモンス包囲から軍人としての経歴をスタートさせた。翌1692年にルイ14世とモンテスパン夫人の間の庶子である従妹のフランソワーズ・マリーと結婚したことにより、王の好意を勝ち得た。同年のステーンケルケの戦いと1693年のネールウィンデンの戦いにも参戦、1701年の父の死によりオルレアン公位を継承した。 スペイン継承戦争にも参戦、1706年にフェルディナン・ド・マルサンと共にイタリアでの作戦を担当したが、トリノ包囲中にプリンツ・オイゲンに急襲されマルサンは戦死、フィリップ2世はフランスへ敗走した(トリノの戦い)。翌1707年にスペイン戦線に移り、ベリック公の援軍に加わりスペイン制圧を進めてフランス優位に傾けた。しかしフィリップ2世はただの軍人で終わるつもりは毛頭なく、ルイ14世の孫のフェリペ5世に代わってスペイン王位につく野望を持っているのではないかとルイ14世に疑われた。結果、長く王の不興をかこつ羽目となった。 1715年のルイ14世の死により、前もって摂政会議の座長であったフィリップ2世が5歳のルイ15世の摂政に就任した。彼は当初徴税を減らしたり、政治から遠ざけられていた貴族を中心とした集団政治を企画したり、2万5千人の兵士を解雇したが、すぐに行き詰まった。経済では銀行家ジョン・ローのリスクの高い施策を認めたため、フランス王家は公事にも私事にも破産状態の危機となっていった。1717年にはローとサン=シモン公に吹き込まれ、摂政会議を説き伏せて、トマス・ピット(大ピットの祖父)から当時世界一の大きさとうたわれていた、13万5千ポンドもする141カラットのダイヤモンドをフランスの王冠につけるために購入させた。このダイヤモンドは“ル・レジャン”(Le Régent:摂政の意、en)の名で知られている。 フィリップ2世とルイ15世 他の政策として、1716年にイギリスと協調関係を結んで平和外交を展開、宮廷を一時ヴェルサイユ宮殿からパリに移したことが挙げられる。フィリップ2世はパレ・ロワイヤルでサロンを開き、絵画の膨大なコレクション(オルレアン・コレクション)を所有していたが、フランス革命後に多くがロンドンで売られてしまった。ソルボンヌ大学の聴講を無料とし、王立図書館を公に開放するなど、教育を奨励した。 1723年に、成年に達したルイ15世は親政を宣言、フィリップ2世は摂政を降りて宰相となったが、同年12月にヴェルサイユ宮殿で死去、生誕地サン・クロー城に葬られた。オルレアン公位は息子のルイが継承、宰相にはコンデ公ルイ4世が就任した。.

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フィニステレ岬

フィニステレ岬の位置(イベリア半島) フィニステレ岬(フィニステレみさき、Cabo Finisterre)またはフィステーラ岬(フィステーラみさき、Cabo Fisterra)は、スペイン北西部ガリシア州の、西に大西洋を望む岩がちの半島。.

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フェリペ5世 (スペイン王)

フェリペ5世(Felipe V, 1683年12月19日 - 1746年7月9日)は、スペイン・ボルボン(ブルボン)朝最初の国王(在位:1700年 - 1724年、1724年 - 1746年)で、フランス国王ルイ14世とスペイン・ハプスブルク家(アブスブルゴ家)出身の王妃マリー・テレーズの長男ルイ(グラン・ドーファン)の次男。母はバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアの娘マリー・アンヌ・ド・バヴィエール。数次の中断を挟みながら、ボルボン朝は現国王フェリペ6世まで続いている。.

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フェロル

リシア州内の位置 フェロル(Ferrol)はスペイン北西部ガリシア州ア・コルーニャ県の自治体。ガリシアで3番目に人口が集中している地域にあり、近隣の自治体アーレス、セデイラ、フェネ、モエーチェ、ムガルドス、ナロン、ネダ、サン・サドゥルニーニョ、アス・ソモーサス、バルドビーニョなどとコマルカ・デ・フェロルを構成、同コマルカの中心自治体である。ガリシア統計局によると2012年の人口は71,997人(2011年:72,963、2010年:73,638人、2008年:74,696人)で、県内3番目の人口規模で、ガリシア7都市ではもっとも小さい。 フェロルは北部と西部は大西洋に、南部はリア・デ・フェロル(フェロル湾)に面し、東はナロンと境界をなし、アルタブロ湾の一角にある。 フェロルはガリシアで最も工業化された地域のひとつで、歴史的には海に関する産業で発展してきた。特に造船業はこの街の主要な産業である。 住民呼称はferrolán/-lá、ártabro/-a、男女同形のdepartamental(sg.)/departamentais(pl.)など。 ガリシア語話者数の自治体住民に占める割合は12.20%(2011年)。 フランシスコ・フランコはこの街の出身。.

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ウィーン条約 (1725年)

ウィーン条約は、1725年にオーストリアとスペインとの間で結ばれた条約。 先の四カ国同盟戦争終結後、二国間では対イギリス政策について協議が行われ、ジブラルタルの奪回を目指すスペインと、オステンド貿易会社を成功させたいオーストリアの利害が一致を見た。そのため、過去の対立は水に流すことにして、1725年の4月にウィーンで条約を締結した。その内容は以下の通り。.

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エリザベッタ・ファルネーゼ

リザベッタ・ファルネーゼ (Elisabetta Farnese, 1692年10月22日 - 1766年7月11日)は、スペイン王フェリペ5世の2度目の王妃。パルマ公ラヌッチョ2世の長男オドアルド2世と、プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの娘ドロテア・ソフィアの長女。スペイン王カルロス2世の2度目の王妃マリア・アンナ(マリアナ)の姪にあたる。スペイン名イサベル・デ・ファルネシオ(Isabel de Farnesio)。イサベラ・ファルネーゼとも呼ばれる。.

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オルレアン公

ルレアン公(duc d'Orléans)は、フランスの公爵位の一つ。ヴァロワ朝期にフランス王フィリップ6世が2番目の息子フィリップに授けて以来、王太子に次ぐ王家の男子(王太子もしくは王の最年長の弟)に授けられた、フランスの公爵位のうちでも特に格の高いものであった。正嫡の男子がいれば公爵位は継承されたが、実際に2代以上にわたり直系継承されたのはヴァロワ=オルレアン家とブルボン=オルレアン家(いわゆるオルレアン家)の2例である。7月王政(オルレアン朝)の王ルイ・フィリップは後者から出た。.

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オンダリビア

ンダリビア(Hondarribia)またはフエンテラビーア(Fuenterrabía)は、スペイン・バスク州ギプスコア県のムニシピオ(基礎自治体)。公式名はバスク語表記のHondarribia。ギプスコア県の北東端に位置し、フランスとの国境となっているビダソア川河口部のチングディ湾を挟んで、フランス領土のアンダイエと向かい合っている。フランス語名はFontarrabie。.

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オイゲン・フォン・ザヴォイエン

イゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(Eugen Franz von Savoyen-Carignan, 1663年10月16日 - 1736年4月24日)は、オーストリアに仕えた軍人・政治家。プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)の呼び名で知られる。 サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カルロス3世 (スペイン王)

ルロス3世(Carlos III, 1716年1月20日 - 1788年12月14日)は、ナポリ・シチリア王(カルロ7世および5世、在位:1735年 - 1759年)、のちボルボン(ブルボン)朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)。スペインの啓蒙専制君主と言われる。.

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カール12世 (スウェーデン王)

ール12世(, 1682年6月17日(グレゴリオ暦6月27日) - 1718年11月30日(グレゴリオ暦12月11日))は、プファルツ王朝のスウェーデン国王(在位:1697年 - 1718年)。バルト帝国に君臨し、ロシアのツァーリ・ピョートル1世の好敵手として知られる。.

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カール6世 (神聖ローマ皇帝)

ール6世(Karl VI., 1685年10月1日 - 1740年10月20日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1711年 - 1740年)、ハンガリー王(在位:同)、ボヘミア王(在位:同)。レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男でヨーゼフ1世の弟。マリア・テレジアの父。ハプスブルク家最後の男系男子であり、狭義には同家最後のローマ皇帝である。.

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カディス

ディス(Cádiz)は、アンダルシア州・カディス県のムニシピオ(基礎自治体)カディス県の県都である。スペイン南西部の港湾都市として重要な役割を果たしている。カディス司法管轄区に属する。.

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カタルーニャ州

タルーニャ州(Catalunya, Cataluña, アラン語:Catalonha)は、スペインの自治州。州都はバルセロナ。 カタルーニャ州はスペイン北東部の地中海岸にあり、交通の要衝として古代から栄えた。カタルーニャは独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有している。中世にはアラゴン=カタルーニャ連合王国として地中海の覇権を握ったが、スペイン王国成立後には衰退した。1979年にはスペイン国家内で自治州の地位を得たが、2010年代にはカタルーニャ独立運動が盛んになり、2017年10月にはカタルーニャ共和国として独立宣言が行われるに至った。.

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クロード・フロリモン・ド・メルシー

ード・フロリモン・(Claude Florimond de Mercy、1666年 - 1734年6月29日)は、神聖ローマ帝国の元帥。1734年のサン・ピエトロの戦いで戦死した。.

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グレン・シールの戦い

レン・シールの戦い(グレン・シールのたたかい、)は1719年6月10日、スコットランドのハイランド地方のにて、イギリス政府軍(主にスコットランド人)とスペインとジャコバイトの連合軍の間で行われた戦闘。政府軍が勝利し、グレートブリテン島においてイギリス軍と外国軍とが交戦した歩兵戦として最後のものである。の継続とみなされることもあるが、実質的には別であり、また1回の戦闘で鎮圧された唯一の蜂起である。ザ・ナインティーン(、「19年」の意)とも。2011年の歴史環境改正法により、グレン・シールの戦場はに保護されている。.

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グレートブリテン王国

レートブリテン王国(グレートブリテンおうこく、Kingdom of Great Britain)は、1707年合同法によりイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国が合同し成立した王国。グレートブリテン島全体を支配した、歴史上最初の国家である。.

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グレートプレーンズ

レートプレーンズの範囲(緑色の部分) グレートプレーンズ(Great Plains)は、北アメリカ大陸の中西部、ロッキー山脈の東側との間を南北に広がる台地状の大平原。ロッキー山脈から流れ出る河川によって形成された多くの堆積平野の総称である。.

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シチリア

チリア島(Sicilia, シチリア語: Sicìlia)は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海最大の島である。 周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。.

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シチリア王国

チリア王国(シチリアおうこく、Regnum Siciliae, Regno di Sicilia)は、中世から近世にかけて、シチリア島やイタリア半島南部を支配した王国。現在は、その領域はほぼイタリア共和国領の一部となっている。.

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ジャコバイト

John Pettie画『ジャコバイト』、1874年作 ジャコバイト()は、1688年イングランドで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン語名()である。.

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ジョージ1世 (イギリス王)

ョージ1世(George I、1660年5月28日(グレゴリオ暦6月7日) - 1727年6月11日(グレゴリオ暦6月22日ジョージ1世の存命中、グレートブリテン王国はユリウス暦を使用したが、ハノーファーでは1700年3月1日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では2月19日)にグレゴリオ暦を採用した。))は、グレートブリテン王国及びアイルランド王国の国王で、ハノーヴァー朝の開祖である『英国王室史事典』p199-200「ジョージ1世」。また、神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯でもあり、ドイツ語名をゲオルク・ルートヴィヒ()という。英国王としての在位期間は1714年8月1日から1727年6月11日、ハノーファー選帝侯としての在位期間は1698年1月23日から1727年6月11日である。 ジョージはドイツのハノーファーで生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地や選帝侯位称号を父や伯父たちから相続したただし父から受け継いだ選帝侯位が他のドイツ諸侯から「正式」に認められるには10年を要した。。スペイン継承戦争などヨーロッパにおける一連の戦争により、ジョージのドイツ領地はその治世中に拡大した。イギリスで又従妹のアン女王が死去してステュアート朝が断絶すると、母のゾフィーがステュアート家の血筋だったことから、54歳でグレートブリテン王国の国王ジョージ1世として迎えられた長子相続制において、イギリスの王位継承順位では50人以上のカトリックがジョージより上の順位にあったが、1701年王位継承法によりカトリックがイギリス王位を継承することは禁止され、プロテスタントの間ではジョージがアンの最も近い近親者であった。これに対し、ジャコバイトはジョージを廃位して、ジェームズ2世の息子でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを王位につけようとしたが失敗した。。 しかしドイツで生まれ育ったジョージ1世は英語を理解できず、文化も異なるイギリス国民から嫌われた。イギリスの政務もサー・ロバート・ウォルポールサー・ロバート・ウォルポールは実質的にはイギリスの初代首相となった。に任せきりにして、それがイギリスにおける責任内閣制(「国王は君臨すれども統治せず」)の発達を促す結果になった。 ジョージ1世は母国ハノーファーへ戻る途中で卒中を起こして死去、ハノーファーで埋葬された。.

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ジョージ・ビング (初代トリントン子爵)

初代トリントン子爵ジョージ・ビング(George Byng, 1st Viscount Torrington, 、1663年1月27日 - 1733年1月17日)は、イングランド及びイギリスの海軍軍人、政治家、貴族。 1704年のスペイン継承戦争のマラガの海戦とジブラルタル占領、1708年と1715年の対ジャコバイト戦争、1718年のパッサロ岬の戦いなどでイギリス海軍の指揮を執った。最終階級は。.

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ジブラルタル

ブラルタル(Gibraltar)は、イベリア半島の南東端に突き出した小半島を占める、イギリスの海外領土。.

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ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)

2代オーモンド公ジェームズ・バトラー 第2代オーモンド公ジェームズ・バトラー(, 1665年4月29日 - 1745年11月16日)は、イギリスのアングロ=アイリッシュ系貴族、軍人。 1665年、初代オーモンド公ジェームズ・バトラーの長男のオソリ伯トマス・バトラーとエミリア・ファン・ナッサウの長男として生まれた。母方の祖父はオラニエ公マウリッツの庶子ローデウェイクで、庶出ながらオラニエ家と血縁関係があった。1680年に父が急死したためオソリ伯位を継承、オーモンド公位の後継者に選ばれた。 1683年に騎兵隊長に就任、1685年にイングランド王ジェームズ2世の即位直後に起こったモンマス公ジェームズ・スコットの反乱鎮圧に貢献した。1688年に父方の祖父が亡くなりオーモンド公位を継承、同年に名誉革命が勃発するとジェームズ2世を裏切ってウィリアム3世に寝返り、恩賞として翌1689年に大司馬、近衛騎兵隊長に任命された。1690年にボイン川の戦いでジェームズ2世を迎撃した後は大陸に渡り大同盟戦争に従軍、1693年のネールウィンデンの戦いで捕らえられたが、ジェームズ2世の庶子ベリック公との捕虜交換で解放されている。 アン女王の治世になるとスペイン継承戦争にも参戦、ジョージ・ルーク指揮下の海軍に所属しカディスの戦い、ビーゴ湾の海戦で手柄を挙げ、1703年から1707年までアイルランド総督を務めた。1710年、イギリスの総選挙でトーリー党がホイッグ党に勝利すると1713年までアイルランド総督に再任、翌1711年、大陸のイギリス軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルが失脚するとトーリー党指導者のロバート・ハーレーとヘンリー・シンジョンの後押しで後任の司令官に就任、北フランス戦線でプリンツ・オイゲンと共にフランス軍と相対した。 しかし、マールバラ公の失脚はトーリー党とホイッグ党の政争が絡んだ事情からであり、政権を取った和平派のハーレーらトーリー党はオーモンドに積極的な戦闘を控えるように指示、オーモンドもフランスの将軍ヴィラールと内通したり軍を動かさず終始不戦の態度を取り、1712年にイギリスとフランスの単独講和が成立すると大陸からイギリス軍を引き上げさせ帰国した。イギリス軍のいなくなった同盟軍はフランス軍に敗北(ドゥナの戦い)、スペイン継承戦争の終結に繋がった。 ところが、トーリー党は王位継承問題で内部分裂を起こし、アン女王の死後即位した又従兄のジョージ1世と結びついたホイッグ党によってハーレー・シンジョンら主要党員が弾劾・罷免され、オーモンドもホイッグ党に弾劾され全ての官職と公位及び財産を没収され、ジャコバイトと結んで反乱を起こしたが失敗してフランスへ亡命した。その後四国同盟戦争に従軍したりジャコバイトの再度の反乱に加わったが、イギリスへ戻れないままアヴィニョンで80歳で死去。1682年にロチェスター伯ローレンス・ハイドの娘アンと結婚、1685年にボーフォート公ヘンリー・サマセットの娘メアリーと再婚したが、どちらの結婚でも子供が無かったため、イギリスに残った弟のチャールズがアイルランド貴族としてのオーモンド公位を継承した。.

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ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート

ェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(James Francis Edward Stuart(あるいはStewart)、1688年6月10日 - 1766年1月1日)は、“老僭王”(あるいは“大僭称者”、The Old Pretender)と呼ばれるイングランド・スコットランドの王位請求者(自称在位:1701年9月16日 - 1766年1月1日)。支持者であるジャコバイトによって、イングランド王ジェームズ3世及びスコットランド王ジェームズ8世と呼ばれる。.

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ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)

ベリック公ジェームズ ベリック公爵、ゴドフリー・ネラー画、1687年 ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル画 ジェームズ・フィッツジェームズまたはジャック・フィツ=ジャメ・ド・ベリック(英語:James FitzJames, 1st Duke of Berwick, フランス語:Jacques Fitz-James de Berwick, 1670年8月21日 - 1734年6月12日)は、フランスの軍人でフランス陸軍元帥を務めた。 イングランド王族であるヨーク公ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ2世)と愛妾アラベラ・チャーチルの第2子としてムーランで誕生した。異母姉にメアリー2世、アン、異母弟にジェームズ・フランシス・エドワード、異母妹にルイーザ・マリア・テレーザがいる。マールバラ公ジョン・チャーチルは母方の叔父に当たる。.

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ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)

初代スタンホープ伯ジェームズ・スタンホープ(James Stanhope, 1st Earl Stanhope, PC, 1673年 - 1721年2月5日)は、イギリスの軍人・政治家。ホイッグ党に属し、スペイン継承戦争ではスペインに上陸してフランス・スペインと戦い、戦後は政権を率いてイギリスの政治を担った。姓はスタナップ、スタノップとも表記される。.

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スペイン

ペイン王国(スペインおうこく、Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。.

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スペインによるサルデーニャ侵攻

ペインによるサルデーニャ侵攻(スペインによるサルデーニャしんこう、)、またはスペインによるサルデーニャ遠征(スペインによるサルデーニャえんせい、)は、1717年8月から11月にかけて行われた遠征。スペイン継承戦争が1714年に終結した後、スペインとオーストリアがはじめて交戦した戦闘であり、1718年に四国同盟戦争が勃発する直接的な原因となった。と率いるスペイン軍は艦隊の支援を受けて易々と皇帝軍を破り、サルデーニャ島の全土を占領した。1714年のラシュタット条約により皇帝が統治していたサルデーニャは侵攻でスペイン領に戻されたが、奪回された以降再びスペイン領になることはなかった。.

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スペイン君主一覧

ペイン君主一覧(スペインくんしゅいちらん)では、スペインおよび現在のスペインにつながるイベリア半島の諸国を統治してきた君主の一覧を挙げる。.

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スペイン帝国

'''黄金の世紀'''におけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年-1640年) スペイン帝国(スペインていこく、)は、スペインとその植民地・属領などの総称である。カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国がナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、イベリア半島からイスラーム勢力を一掃した1492年以降、1898年の米西戦争に敗北して、ほぼ全ての海外植民地を失うまでの期間を指す。「帝国」の名称はその広大な統治領域に由来する(共和制のもとでのローマ帝国のごとし)。君主号(皇帝)とは無関係である。1868年から1874年は革命政権の支配の下で、国王は空位となり、やがて共和制に移行した。 とりわけ、16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金世紀(Siglo de Oro)と呼ばれている。スペイン君主のカルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した際には、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つなど、その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。.

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スペイン継承戦争

ペイン継承戦争(スペインけいしょうせんそう、Guerra de Sucesión Española)は、18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争(1701年 - 1714年)。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。.

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スペイン領フロリダ

ペイン領フロリダ(スペイン語:Florida Española、英:Spanish Florida)は、スペインが16世紀から北アメリカ、現在のアメリカ合衆国フロリダ州のある地域に築いた植民地である。スペインはフロリダ半島に1513年に初めて上陸し、1565年から1763年までと1784年から1821年までの2つの期間に亘って領有した。.

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ステュアート朝

テュアート朝( または )は、1371年から1714年まで続いたスコットランド起源の王朝。1603年以後はイングランド国王を兼ねて同君連合体制となり、1707年にグレートブリテン王国(イギリス)を成立させた。「ステュアート」は、スコットランド語の宮宰()に由来する。メアリー女王のとき綴りをからに改めた。.

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スウェーデン

ウェーデン王国(スウェーデンおうこく、スウェーデン語: )、通称スウェーデンは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家。首都はストックホルム。西にノルウェー、北東にフィンランドと国境を接し、南西にカテガット海峡を挟んでデンマークと近接する。東から南にはバルト海が存在し、対岸のロシアやドイツとの関わりが深い。法定最低賃金は存在しておらず、スウェーデン国外の大企業や機関投資家に経済を左右されている。.

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スコットランド

ットランド()は、北西ヨーロッパに位置するグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成するカントリーの一つ。1707年の合同法によってグレートブリテン王国が成立するまでは独立した王国(スコットランド王国)であった。 スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、本島と別に790以上の島嶼部から構成される。 首都のエディンバラは第2の都市であり、ヨーロッパ最大の金融センターの一つである。最大の都市であるグラスゴーは、人口の40%が集中する。 スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度はイングランドおよびウェールズならびに北アイルランドとは独立したものとなっており、そのために、国際私法上の1法域を構成する。スコットランド法、教育制度およびスコットランド教会は、連合王国成立後のスコットランドの文化および独自性の3つの基礎であった。しかしスコットランドは独立国家ではなく、国際連合および欧州連合の直接の構成国ではない。.

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サルデーニャ

ルデーニャ(Sardegna)は、イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。 周辺の島を含めて、サルデーニャ自治州を構成している。この州は、イタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はカリャリ(カリアリ)。.

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サルデーニャ王国

ルデーニャ王国(サルデーニャおうこく、Regno di Sardegna)は、18世紀から19世紀にかけて存在したヨーロッパの国家。領土は現在のイタリアとフランスにまたがり、サルデーニャ島、ピエモンテ、サヴォワとニース伯領(アルプ=マリティーム県)を統治した。その存続期間の大半において、王国の本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノであった。 サヴォイア家が支配するこの王国は、19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)において中核となり、近代イタリア王国の前身となった。 本項ではサヴォイア家以前の「サルデーニャ王」についても略述する。.

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サン・セバスティアン

ン・セバスティアン(San Sebastián, )またはドノスティア(Donostia, )は、スペイン・バスク州ギプスコア県のムニシピオ(基礎自治体)。ギプスコア県の県都である。 ビスケー湾に面しており、フランスとの国境からの距離は約20kmである。2011年の人口は186,409人であり、サン・セバスティアン都市圏の人口は436,500人である。主要な経済活動は商業や観光業であり、スペインでもっとも著名な観光地のひとつである。その食文化やサン・セバスティアン国際映画祭などで世界的な知名度を得ている。ポーランドのヴロツワフとともに、2016年の欧州文化首都に選定されている。.

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サントーニャ

ントーニャ(Santoña)は、スペイン・カンタブリア州のムニシピオ(基礎自治体)。大西洋のビスケー湾にあるサントーニャ湾に面している。.

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サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ

サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ(Santa Fé de Nuevo México)は、16世紀後半から19世紀前半まで存在したヌエバ・エスパーニャのスペイン領の州の名称。現在のアメリカ合衆国ニューメキシコ州のほとんどを含む、リオ・グランデ川の上流域(リオ・ブラボ・デル・ノルテ)のエリアを中心に作られた。首都は現在のサンタフェに置かれた。 この州は1598年にフアン・デ・オニャーテのヌエバ・エスパーニャから北の探検により創設された。探検はフェリペ2世によって認可され、1588年のスペイン艦隊の悲惨な敗北に続いて、スペイン帝国の財宝を回復する願望によってある意味動機づけられたものだった。スペイン人たちは、以前に征服したアステカのような黄金都市の伝説が、北部の未開の領地に眠っていると信じていたが、オニャーテはそんな都市を見つけることができなかった。彼は後に、州の最初の知事となる。オニャーテはヌエバ・エスパーニャとは別の副王領として州を変えることを望んだが不首尾に終わった。スペインは、1680年のプエブロの反乱で、この領地から12年間追放され、1692年のディエゴ・デ・バルガスによる「無血の」再占領によって戻ってきた。州は、1810年のメキシコ独立宣言まではスペインの支配下にあり、1824年のメキシコ憲法の下ではメキシコ合衆国の連邦政府によって管理されるようになった。 かつての州のリオ・グランデ川東部エリアは、1836年にテキサス共和国が領土権を主張したが、メキシコ側は反駁した。テキサス人は、1841年に要求した土地を占領する遠征を送ったが、メキシコ軍部隊によって撃退された。1848年、テキサス併合とメキシコ割譲により、このエリアはアメリカ合衆国の一部となった。ニューメキシコは、1912年1月までは合衆国の州制にならなかった。 Category:アメリカ合衆国の地域 Category:メキシコの歴史 Category:ニューメキシコ州の歴史 Category:旧スペイン植民地 Category:サンタフェ Category:かつて存在したメキシコの州 Category:1848年に廃止された国家・領域.

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サヴォイア公

ヴォイア公(Duca di Savoia)は、1418年から1860年までのサヴォイア家によるサヴォワ統治の際に用いられた世襲の君主号である。現在ではサヴォイア家の儀礼称号の一つとなっている。.

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サヴォイア公国

ヴォイア公国またはサヴォワ公国(サヴォイアこうこく、伊:Ducato di Savoia, 仏:Duché de Savoie)は、サルデーニャ王国の前身となった公国(公爵領)である。1416年、サヴォイア家のサヴォイア伯アメデーオ8世が、皇帝ジギスムントから公爵の位を与えられて成立した。 現在のイタリア北西部(現ヴァッレ・ダオスタ州、ピエモンテ州)とフランス東部サヴォワ地方や現アルプ=マリティーム県、ジュネーヴ(現スイス)も含んだ。首都はサヴォイア伯爵領の頃からシャンベリ(現フランス)であったが、1563年にトリノに遷都された。 1718年に締結されたロンドン条約の結果、1720年にサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は、シチリア島(シチリア王国)を手放す代わりに、ハプスブルク家の所領だったサルデーニャ島(サルデーニャ王国)を獲得した。一方、サヴォイア公爵領もイタリア統一によりイタリア王国の一部となって解消されるまで存続した。.

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四国同盟 (1718年)

四国同盟(しこくどうめい、Quadruple Alliance)、またはロンドン条約(ロンドンじょうやく、Treaty of London)は、1718年8月2日に締結された、グレートブリテン王国、フランス王国、ハプスブルク君主国(オーストリア)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の間の条約。 条約は1713年のユトレヒト条約を再確認するとともに、サヴォイア公国がシチリア王国をハプスブルク家のと交換することを定めた。神聖ローマ皇帝カール6世は両シチリアを統一し、フェリペ5世をスペイン王として承認した。 しかし、フェリペ5世のサルデーニャ侵攻とシチリア侵攻により、同年には四国同盟戦争が勃発した。.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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神聖ローマ皇帝

聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser、Holy Roman Emperor)は神聖ローマ帝国の君主であるローマ皇帝を指し、古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語。実際に用いられた称号ではなく、実際にはローマ人の皇帝(Romanorum Imperator、Kaiser der Römer)と称した。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。.

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福井憲彦

福井 憲彦(ふくい のりひこ、1946年11月26日 - )は、日本の歴史学者。学習院大学兼任教授。学習院大学学長(第11代)。専門はヨーロッパ近代史、フランス史。ヨーロッパ現代の歴史学、特にアナール学派の紹介者として知られる。.

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立石博高

立石 博高(たていし ひろたか、1951年2月23日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.266 - )は、日本の歴史学者。専門は、スペイン近代史。東京外国語大学学長。神奈川県出身。.

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錦正社

錦正社(きんせいしゃ)は、日本史や民俗芸能、軍事・制度史など社会科学系統を軸にした出版社。出版方針は幕末維新から三代(明治・大正・昭和)にわたる大日本帝国の形成発展を弁えたものである。軍事史学会の機関誌『軍事史学』や、明治聖徳記念学会の紀要なども発行している。 1938年(昭和13年)、中藤正三(なかふじ しょうぞう、1914年2月6日 - 1966年2月4日)が創業。里見岸雄の著作などの出版を手掛ける。中藤は1966年(昭和41年)、さっぽろ雪まつりからの帰途、全日空羽田沖墜落事故に巻き込まれ死去した。.

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関哲行

関 哲行(せき てつゆき、1950年1月6日 - )は、スペイン史学者、流通経済大学教授。 茨城県生まれ。上智大学大学院文学研究科博士課程満期退学。流通経済大学社会学部助教授、教授。.

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英仏同盟 (1716年-1731年)

英仏同盟(えいふつどうめい、Anglo-French Alliance)は1716年から1731年まで、グレートブリテン王国とフランス王国の間で締結された同盟。同盟はヨーロッパ列強が同盟相手をとっかえひっかえしていたの一環だった。.

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柴田三千雄

柴田 三千雄(しばた みちお、1926年10月 - 2011年5月5日)は西洋史学者。東京大学名誉教授。.

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樺山紘一

樺山 紘一(かばやま こういち、1941年5月8日 - )は、日本の歴史学者、東京大学文学部名誉教授、印刷博物館館長。 東京出身。専門はフランス中世史、西洋中世史、西洋文化史。堀米庸三の弟子。父の樺山俊夫は警察庁警備局長や皇宮警察本部長を務めた。息子にSF作家の樺山三英。.

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戦列艦

戦列艦(せんれつかん、ship of the line)は17世紀から19世紀にかけてのヨーロッパ諸国で使用された軍艦の一種。単縦陣の戦列 (line of battle)を作って砲撃戦を行うことを主目的としていたのでこの名がある。.

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1718年

記載なし。

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1720年

記載なし。

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2月17日

2月17日(にがつじゅうななにち、にがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から48日目にあたり、年末まであと317日(閏年では318日)ある。.

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