ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

シツ支単于

索引 シツ支単于

郅支単于(呉音:しちしぜんう、漢音:しつしせんう、拼音:Zhìzhīchányú、? - 紀元前36年)は、中国前漢時代の匈奴の対立単于。虚閭権渠単于の子で、呼韓邪単于の兄。郅支単于というのは単于号で、正しくは郅支骨都侯単于(しつしこつとこうぜんう)といい、姓は攣鞮氏、名は呼屠吾斯(ことごし)という。また、郅支単于が堅昆に西遷してからの政権を西匈奴と呼び、それに対し呼韓邪単于の政権を東匈奴と呼ぶことがある。.

52 関係: 単于君主号堅昆大宛太子屠耆単于丁零中国康居五鳳 (漢)建昭伊利目単于匈奴モンゴル高原ピン音初元呼韓邪単于呉音アオルソイタラス川元帝 (漢)前漢神爵紀元前36年紀元前43年紀元前44年紀元前49年紀元前50年紀元前51年紀元前53年紀元前54年紀元前56年紀元前58年紀元前60年烏孫烏藉単于甘延寿甘露 (漢)西域講談社車犁単于黄龍 (漢)閏振単于虚閭権渠単于陳湯林俊雄握衍クテイ単于漢音漢書戊己校尉...攣テイ氏2007年 インデックスを展開 (2 もっと) »

単于

単于(呉音:ぜんう、漢音:せんう、拼音:Chányú)とは、匈奴を初めとした北アジア遊牧国家の初期の君主号である。また、単于の妻のことを閼氏(えんし)といい、特定の姻族または漢の公主がこれになった。.

新しい!!: シツ支単于と単于 · 続きを見る »

君主号

君主号(くんしゅごう)とは、君主の称号のこと。そもそもは、その文明や国家、民族特有の尊称により呼ばれていたが、中華文明のように、「皇帝」を称して近隣諸国の王を臣従させ、国王の封号と官爵を与え、さらに臣従の見返りとして文明や交易の利潤を与えるなど、君主の称号にも優劣が生ずるようになった。西欧においても、神聖ローマ皇帝が近隣諸国の国王よりも優位に立つなど、君主号はたんなる名称の域を超えて、その国の由緒や国力を誇示する重要な意味を持っていた。また、君主号を国内における表記・呼称と対外的呼称とで使い分ける場合、対外的に称する君主号を外交称号という。.

新しい!!: シツ支単于と君主号 · 続きを見る »

堅昆

堅昆(けんこん、拼音:Jiānkūn)は、かつて中央ユーラシア北部に分布したテュルク系遊牧民族。キルギズ(Qïrqïz)の転写とされており、時代によっては鬲昆(へきこん、Gékūn),契骨(けいこつ、Qìgŭ),居勿(きょぶつ、Jūwù),結骨(けつこつ、Jiégŭ),紇骨(こつこつ、Gēgŭ),紇扢斯(こつこつし、Gēgŭsī),黠戛斯(かつかつし、Xiájiásī),戛戛斯(かつかつし、Jiájiásī),吉利吉思,乞力吉思,乞児吉思,乞里吉思などと記された。現代のキルギス人(天山キルギズ)と区別するためイェニセイ・キルギズとも呼ばれる。現在のハカス人の祖先にあたる。.

新しい!!: シツ支単于と堅昆 · 続きを見る »

大宛

大宛(呉音:だいおん、漢音:たいえん、)は、紀元前2世紀頃より中央アジアのフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。大宛(だいえん)とは固有名詞を漢字に転写したものではなく、広大なオアシスという意味らしい。しばらく中国史書では大宛という名を使用したが、『魏書』以降はフェルガナの転写と思われる洛那国、破洛那国、鏺汗国、拔汗那国、㤄捍国「㤄」の字は「忄+巿(ふつ)」。などが使用された。 紀元前1世紀の西域諸国。.

新しい!!: シツ支単于と大宛 · 続きを見る »

太子

太子(たいし).

新しい!!: シツ支単于と太子 · 続きを見る »

屠耆単于

屠耆単于(呉音:ずぎぜんう、漢音:ときせんう、拼音:Túqíchányú、? - 紀元前56年)は、中国前漢時代の匈奴の対立単于。握衍朐鞮単于の従兄。屠耆単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は薄胥堂(はくしょとう)という。匈奴語で“屠耆”とは“賢”という意味なので、賢単于と表すこともできる。.

新しい!!: シツ支単于と屠耆単于 · 続きを見る »

丁零

丁零(ていれい、拼音:Dīnglíng)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁令,丁霊,勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀~6世紀では高車、6世紀~8世紀では鉄勒(てつろく)とも呼ばれた。.

新しい!!: シツ支単于と丁零 · 続きを見る »

中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

新しい!!: シツ支単于と中国 · 続きを見る »

康居

紀元前1世紀の西域諸国。 康居(呉音:こうこ、漢音:こうきょ、拼音:Kāngjū)は、かつて中央アジアに在ったとされる遊牧国家。大宛の西北に在り、シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われ、現在のカザフスタン南部にあたる。.

新しい!!: シツ支単于と康居 · 続きを見る »

五鳳 (漢)

五鳳(ごほう)は、中国、前漢の宣帝劉詢の治世に行われた5番目の元号。紀元前57年 - 紀元前54年。.

新しい!!: シツ支単于と五鳳 (漢) · 続きを見る »

建昭

建昭(けんしょう)は、中国、前漢の元帝劉奭(りゅうせき)の治世に行われた3番目の元号。紀元前38年 - 紀元前34年。.

新しい!!: シツ支単于と建昭 · 続きを見る »

伊利目単于

伊利目単于(呉音:いりもくぜんう、漢音:いりぼくせんう、拼音:Yīlìmùchányú、? - 紀元前49年)は、中国前漢時代の匈奴の対立単于。匈奴における分裂時代の対立単于のひとりで、屠耆単于の小弟。姓は攣鞮氏、名は不明。.

新しい!!: シツ支単于と伊利目単于 · 続きを見る »

匈奴

匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.

新しい!!: シツ支単于と匈奴 · 続きを見る »

モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

新しい!!: シツ支単于とモンゴル高原 · 続きを見る »

ピン音

(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.

新しい!!: シツ支単于とピン音 · 続きを見る »

初元

初元(しょげん)は、中国、前漢の元帝劉奭(りゅうせき)の治世に行われた最初の元号。紀元前48年 - 紀元前44年。.

新しい!!: シツ支単于と初元 · 続きを見る »

呼韓邪単于

呼韓邪単于(こかんやぜんう、拼音:Hūhányéchányú、? - 紀元前31年)は、中国前漢時代の匈奴の単于。虚閭権渠単于の子で、郅支単于の弟。呼韓邪単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は稽侯狦(けいこうさん)という。漢に降伏したことや王昭君の夫となったことで知られる。.

新しい!!: シツ支単于と呼韓邪単于 · 続きを見る »

呉音

呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。当時の南朝(日本では大和時代)の首都 建康(南京)付近の漢字音をいう。中国語の中古音の特徴を伝えている。 一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に使われる。 慣用的に呉音ばかり使う字(未〔ミ〕、領〔リョウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくないが、基本的には両者は使用される熟語により使い分ける等の方法により混用されている。.

新しい!!: シツ支単于と呉音 · 続きを見る »

アオルソイ

紀元前1世紀頃のアオルソイの位置。 アオルソイ(ギリシア語:Αορσοι)は、かつてカスピ海の西部に存在したサルマタイ系遊牧民族。アオルシ,アオルシーとも言い、紀元前1世紀にその存在が確認されている。また、中国史書に出てくる奄蔡(えんさい、拼音:Yǎncài)はその転写であると思われる。.

新しい!!: シツ支単于とアオルソイ · 続きを見る »

タラス川

タラス川(タラスがわ、英:Talas River、露:Талас река、中:塔拉斯河)は、中央アジアのイリ地方を流れる国際河川である。流域の主要都市としてはキルギス共和国のタラス(Talas)とカザフスタン共和国のタラズ(Taraz)があり、ともにオアシス都市である。おもな支流を20ほどもつが、いずれも小河川である。.

新しい!!: シツ支単于とタラス川 · 続きを見る »

元帝 (漢)

元帝(げんてい)は、前漢の第10代皇帝。.

新しい!!: シツ支単于と元帝 (漢) · 続きを見る »

前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

新しい!!: シツ支単于と前漢 · 続きを見る »

神爵

爵(しんしゃく)は、中国、前漢の宣帝劉詢の治世に行われた4番目の元号。紀元前61年 - 紀元前58年。.

新しい!!: シツ支単于と神爵 · 続きを見る »

紀元前36年

紀元前36年。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前36年 · 続きを見る »

紀元前43年

紀元前43年。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前43年 · 続きを見る »

紀元前44年

『カエサル暗殺』(La Mort de César) フランス人画家ジャン=レオン・ジェロームによる1867年の作 紀元前44年頃のローマ共和国 紀元前44年。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前44年 · 続きを見る »

紀元前49年

紀元前49年は、ローマ暦の705年である。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前49年 · 続きを見る »

紀元前50年

紀元前50年の世界 紀元前50年は、ローマ暦の年である。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前50年 · 続きを見る »

紀元前51年

紀元前51年は、ローマ暦の年である。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前51年 · 続きを見る »

紀元前53年

紀元前53年は、ローマ暦の年である。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前53年 · 続きを見る »

紀元前54年

紀元前54年は、ローマ暦の年である。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前54年 · 続きを見る »

紀元前56年

紀元前56年は、ローマ暦の年である。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前56年 · 続きを見る »

紀元前58年

紀元前58年は、ローマ暦の年である。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前58年 · 続きを見る »

紀元前60年

紀元前60年は、ローマ暦の年である。.

新しい!!: シツ支単于と紀元前60年 · 続きを見る »

烏孫

紀元前1世紀の西域諸国。 烏孫(うそん、)は、紀元前161年から5世紀にかけて、イシク湖周辺(現在のキルギス)に存在した遊牧国家。.

新しい!!: シツ支単于と烏孫 · 続きを見る »

烏藉単于

烏藉単于(呉音:うじゃくぜんう、漢音:おせきせんう、拼音:Wūjíchányú、? - 紀元前56年)は、中国前漢時代の匈奴の対立単于。匈奴の分裂時代の対立単于のひとりで、もともと烏藉都尉だったので、烏藉単于と称した。名は不明。.

新しい!!: シツ支単于と烏藉単于 · 続きを見る »

甘延寿

延寿(かん えんじゅ、? - 紀元前24年)は、前漢の人。字は君況。北地郡郁郅の人。 若いときに騎射に長けていたことで羽林となり、ずば抜けた身体能力により郎となった。のち、期門となり寵愛され、遼東太守に至ったが罷免された。その後、車騎将軍許嘉の推薦で郎中、諫大夫となり、西域都護となった。 建昭3年(紀元前36年)、西域都護甘延寿は副校尉の陳湯と共に、匈奴内の抗争に敗れた後康居にいて漢の西域支配を阻んでいた郅支単于を西域の兵を動員して倒そうと考えたが、皇帝への上奏を経ようとする甘延寿に対し、陳湯は独断で行うべきと主張し、命令を偽って西域の兵や都護配下の屯田兵を動員した。甘延寿は止めようとしたが陳湯が恫喝したため従うこととなり、西域・漢の兵4万を率いて郅支単于を攻め、郅支単于の首を取った。 しかし命令を偽り独断で兵を興したことや、甘延寿がかつて中書令石顕の姉との結婚を断っていたことから、丞相匡衡や中書令石顕は彼らへ恩賞を与えようとしなかったが、劉向の進言があり、元帝は甘延寿・陳湯の罪を許すと共に甘延寿を列侯(義成侯)に封じ、陳湯は関内侯とした(竟寧元年(紀元前33年))。 甘延寿は長水校尉となり、城門校尉、護軍都尉と官を遷り、陽朔元年(紀元前24年)、在職中に死亡した。壮侯と諡された。 義成侯は子の煬侯甘建、節侯甘遷と継承され、甘遷の時、王莽により「誅郅支侯」と改名された。更にその子の甘相が後を継いだが、建武4年に兵士に殺されて断絶した。.

新しい!!: シツ支単于と甘延寿 · 続きを見る »

甘露 (漢)

露(かんろ)は、中国、前漢の宣帝劉詢の治世に行われた6番目の元号。紀元前53年 - 紀元前50年。.

新しい!!: シツ支単于と甘露 (漢) · 続きを見る »

西域

西域(さいいき、拼音:xīyù)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンを指したが、拡張されて西トルキスタン、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地).

新しい!!: シツ支単于と西域 · 続きを見る »

講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

新しい!!: シツ支単于と講談社 · 続きを見る »

車犁単于

車犁単于(呉音:しゃらいぜんう、漢音:しゃれいせんう、拼音:Chēlíchányú、生没年不詳)は、中国前漢時代の匈奴の対立単于。匈奴の分裂時代の対立単于のひとりで、もともと右薁鞬王に任ぜられていた。狐鹿姑単于の甥で、元日逐王で漢に降った先賢撣の兄。姓は攣鞮氏、名は不明。.

新しい!!: シツ支単于と車犁単于 · 続きを見る »

黄龍 (漢)

龍(こうりょう、こうりゅう)は、中国、前漢の宣帝劉詢の治世に行われた7番目の元号。紀元前49年。.

新しい!!: シツ支単于と黄龍 (漢) · 続きを見る »

閏振単于

閏振単于(呉音:にんしんぜんう、漢音:じゅんしんせんう、拼音:Rùnzhènchányú、? - 紀元前54年)は、中国前漢時代の匈奴の対立単于。匈奴の分裂時代における対立単于のひとりで、もともと休旬王という封王であった。屠耆単于の従弟で、姓は攣鞮氏、名は不明。.

新しい!!: シツ支単于と閏振単于 · 続きを見る »

虚閭権渠単于

虚閭権渠単于(呉音:ころごんごぜんう、漢音:きょりょけんきょぜんう、拼音:Xūlǘquánqúchányú、? - 紀元前60年)は、中国前漢時代の匈奴の単于。壺衍鞮単于の子。虚閭権渠単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏 、名は不明。.

新しい!!: シツ支単于と虚閭権渠単于 · 続きを見る »

陳湯

陳 湯(ちん とう、生没年不詳)は、前漢後期の人物。字は子公。山陽郡瑕丘(山東省兗州市)の人。 書を好み博学で、文章を得意としたが、家は貧しく、地元では称えられなかった。官を求めて長安に行き、太官献食丞となった。富平侯張勃は彼と親交を持ち、才能を認めた。初元2年(紀元前47年)に秀才の推挙を求める詔が出されると、張勃は陳湯を推薦したが、陳湯が父の死の報を聞いても葬式に駆けつけなかったため、司隷校尉が陳湯と張勃を弾劾し、陳湯は獄に下され、張勃も封邑を削られた上に「繆侯」という悪諡を贈られた。 その後、陳湯は推薦されて郎となり、しばしば外国への使者となった。西域副校尉に遷り、西域都護甘延寿と共に西域へ向かった。 建昭3年(紀元前36年)、副校尉陳湯は西域都護甘延寿と共に、匈奴内の抗争に敗れた後康居にいて漢の西域支配を阻んでいた郅支単于を西域の兵を動員して倒そうと考えたが、皇帝への上奏を経ようとする甘延寿に対し、陳湯は独断で行うべきと主張し、命令を偽って西域の兵や都護配下の屯田兵を動員した。甘延寿は止めようとしたが陳湯が恫喝したため従うこととなり、西域・漢の兵4万を率いて郅支単于を攻め、郅支単于の首を取った。 しかし命令を偽り独断で兵を興したことや、甘延寿がかつて中書令石顕の姉との結婚を断っていたことから、丞相匡衡や中書令石顕は彼らへ恩賞を与えようとしなかったが、劉向の進言があり、元帝は甘延寿・陳湯の罪を許すと共に甘延寿を列侯に封じ、陳湯は関内侯とした(竟寧元年(紀元前33年))。 成帝が即位すると、丞相匡衡は陳湯の独断専行や彼が鹵獲した財物を私したことを弾劾し、陳湯は罷免された。 陳湯は康居王が人質とした子は実の子ではないと摘発したが、これは事実ではなかったため陳湯は獄に下され、死罪に当たるとされた。太中大夫谷永が陳湯を弁護したため、爵位を剥奪するに留まり命を助けられた。 その後、西域都護段会宗が烏孫に包囲されるという事件があり、早馬で周辺諸国の兵を動員する許可を求めてきた。どうするべきか丞相の王商、大将軍の王鳳らが連日話し合ったが、結論が出なかった。王鳳が陳湯に意見を聞くことを申し出、成帝が陳湯を召し出した。陳湯は「憂うることではありません。5日以内には囲みが解けたという報告があるでしょう」と答え、4日後に実際に囲みが解けたという報告が届いた。王鳳は陳湯を従事中郎とし、王鳳の幕府の事は全て陳湯により決定された。 陳湯は王莽を列侯にすべきと上書したり、汚職で下獄した太守のために弁護するなど、金銭を受けて人のために上書をすることが多かった。しかし、成帝のお忍びを批判する言葉を述べたり、中止された皇帝陵造営をまた再開すべきと言ったことなどが罪となり、敦煌へ流罪となり、西域で威名が轟いていることから安定に遷された。 その後、議郎耿育が彼を弁護したことから陳湯は長安へ戻され、長安で死亡した。 王莽は陳湯に恩を感じており、政権を握ると陳湯を破胡壮侯と諡し、子の陳馮を破胡侯とした(元始5年(5年))。.

新しい!!: シツ支単于と陳湯 · 続きを見る »

林俊雄

林 俊雄(はやし としお、1949年 - )は、日本の歴史学者で考古学者。創価大学文学部教授。専門は古代中央ユーラシア・中央アジア史。東京都出身。.

新しい!!: シツ支単于と林俊雄 · 続きを見る »

握衍クテイ単于

握衍朐鞮単于(あくえんくていぜんう、ピンイン:Wòyǎnqúdīchányú、? - 紀元前58年)は、中国前漢時代の匈奴の単于。烏維単于の耳孫(玄孫の子、遠い子孫)。握衍朐鞮単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は屠耆堂(ときとう)という。.

新しい!!: シツ支単于と握衍クテイ単于 · 続きを見る »

漢音

漢音(かんおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。古くは「からごえ」とも呼んだ。7, 8世紀、奈良時代後期から平安時代の初めごろまでに、遣隋使・遣唐使や留学僧などにより伝えられた音をいう。中国語の中古音のうち、唐中葉頃の長安地方の音韻体系(秦音)を多く反映している。他の呉音や唐音に比べて最も体系性を備えている。また唐末に渡航した僧侶たちが持ち帰った漢字音は中国語の近世音的な特徴を多く伝えており、通常の漢音に対して新漢音と呼ばれることがある。.

新しい!!: シツ支単于と漢音 · 続きを見る »

漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.

新しい!!: シツ支単于と漢書 · 続きを見る »

戊己校尉

戊己校尉(ぼきこうい)は古代中国、前漢以降の官職名。西域を抑える役職であった。 『漢書』百官公卿表上によれば元帝の初元元年に置かれ、同西域伝上によると車師前王の土地(高昌)において屯田を開いた。 属官として丞、司馬各1名と候5名がおり、それぞれ秩石は比六百石であった。 名称の由来については、『漢書』百官公卿表上の顔師古注によれば、十干のうち甲乙丙丁庚辛壬癸はそれぞれ方角に位を持つが戊と己は位を持たないので、定住する場所を持たない校尉をそれになぞらえたという説と、戊と己は中央に位置して四方を鎮撫するので、西域の中心に位置して周囲を鎮撫するのになぞらえたという説があるといい、定かではない。 『後漢書』西域伝には「戊己二校尉」とあり、戊校尉と己校尉の2人の校尉があり、その総称が戊己校尉であったようである。 王莽の時代に西域が離反し、後漢の当初は戊己校尉は置かれていなかったが、永平16年に再度設置した。しかし西域での情勢悪化により建初元年に戊己校尉を漢に呼び戻した。しかし永元3年に班超の活躍により戊己校尉をまた置くようになった(『後漢書』西域伝)。 後漢末にまた西域との交通が途絶えていたが、三国魏の黄初3年に西域からの使者が訪れたことを契機として戊己校尉をまた置き、涼州刺史が戊己校尉を領するようになった(『三国志』文帝紀、『晋書』地理志上)。.

新しい!!: シツ支単于と戊己校尉 · 続きを見る »

攣テイ氏

攣鞮氏・攣鞮部(れんていし/れんていぶ、拼音:Luándī-shì)は、紀元前4世紀から2世紀に中央ユーラシアに存在した遊牧国家匈奴の君主である単于を輩出した氏族。『後漢書』では虚連題氏(きょれんていし、拼音:Xūliántí-shì)と表記された。南匈奴の中心種族である屠各種の直系で、南匈奴が崩壊すると中国風の劉氏に改姓した。独孤部・鉄弗部・破六韓部とは同族である。.

新しい!!: シツ支単于と攣テイ氏 · 続きを見る »

2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

新しい!!: シツ支単于と2007年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

郅支単于

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »