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カメラ (雑誌)

索引 カメラ (雑誌)

『カメラ』(CAMERA)は、戦前と戦後にかけアルスが出版していたカメラ、写真に関するアマチュア向け雑誌。1921年4月創刊。.

19 関係: 三宅克己伊藤逸平土門拳北原白秋北原鉄雄アルス (出版社)写真工業出版社写真サロン石津良介玄光社研光社芸術写真研究鈴木八郎金丸重嶺桑原甲子雄植田正治木村伊兵衛日本カメラ1956年

三宅克己

三宅 克己(みやけ こっき、1874年1月8日 - 1954年6月30日)は、明治から昭和初期に活動していた日本の洋画家。.

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伊藤逸平

伊藤 逸平(いとう いっぺい、1912年9月5日 - 1992年12月18日)は、日本の写真・漫画評論家。.

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土門拳

土門 拳(どもん けん、1909年(明治42年)10月25日 - 1990年(平成2年)9月15日『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』p.161。)は昭和時代に活躍した日本の写真家である。 リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界で屈指の名文家としても知られた。.

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北原白秋

北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。 詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野でも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並んで評される、近代の日本を代表する詩人である。 弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエ社を創業し、従弟の北原正雄も写真系の玄光社を創業した。.

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北原鉄雄

北原 鉄雄(きたはら てつお、1887年9月5日 - 1957年3月28日)は出版人。写真や文学を専門とする出版社、アルスを設立し、代表を務めた。 北原白秋の弟(三男)にあたる。アルスは北原白秋の作品も出版した。 Category:日本の実業家 Category:北原白秋 Category:1887年生 Category:1957年没.

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アルス (出版社)

『ARS』創刊号の表紙(和蘭陀書房、1915年4月) アルス(ARS)は、かつて日本に存在した出版社である。アルスはラテン語で「芸術」の意で、北原白秋の弟(三男)・北原鐵雄(1887年-1957年)が創立者かつ代表者。雑誌『カメラ(CAMERA)』や北原白秋の詩集などの単行本も刊行した。.

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写真工業出版社

写真工業出版社(しゃしんこうぎょうしゅっぱんしゃ)は、写真と映像に関する雑誌、書籍を発行する出版社。近年はプロ、専門技術者を対象とした出版物が多い。 定期刊行物は月刊誌「写真工業」(1952年(昭和27年)に創刊、2008年(平成20年)12月号で休刊)と月刊誌「ビデオα」が広く知られているが、前身の光画荘時代に発行していた「光画月刊」、それを改題した「月刊カメラ」(アルスの発行していた同名雑誌とは異なる)といったアマチュアむけの雑誌も発行していた。 初代社長であった北野邦雄は「写真工業」の主宰でもあり、それ以前は主にアルスの出版物に執筆していた。ヤシカ、コパルの役員を務めたこともある業界の重鎮であったが、元々はドイツ語の教師であった。.

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写真サロン

『写真サロン』は、戦前と戦後にかけ玄光社が出版していたカメラ、写真に関するアマチュア向け雑誌。1933年1月創刊。.

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石津良介

石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) - 昭和61年(1986年))は、日本の写真家。ファッションデザイナー・石津謙介の兄。.

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玄光社

光社(げんこうしゃ)は、日本の出版社。主に映像や写真に関する雑誌や書籍の出版の他、イラストレーションや写真集などの出版を行っている会社である。 また、写真や映像の撮影、編集に必要な機材、グッズなどの販売も行っている。 主な出版物は『CM NOW』、『COMMERCIAL PHOTO コマーシャル・フォト』、『ビデオSALON』『フォトテクニックデジタル』(『フォトテクニック』と『デジタルフォトテクニック』の2誌を統合し、発行形態を月刊化した)、『イラストレーション illustraition』など。.

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研光社

光社(けんこうしゃ)は、かつて日本に存在したカメラ・写真を専門とした出版社。.

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芸術写真研究

芸術写真研究(げいじゅつしゃしんけんきゅう、藝術寫眞研究)とは、第二次世界大戦以前から(中断はあるものの)戦後まで刊行されていた日本の写真関係の雑誌。写真投稿者の中から高山正隆、山本牧彦、渡辺淳らが登場し、これら写真家たちは「ベス単派」と呼ばれるようになり、この雑誌は「ベス単派」の拠点となった。 1922年5月にアルスが創刊。当初は南実が中心であったが、1923年4月号から中島謙吉(中嶋謙吉)が発行兼編集者となり中心となった。 1923年10月号から同社の雑誌「カメラ」に合併(関東大震災の影響)。 1924年9月号(3巻1号、復活号)から独立刊行を再開。 1926年4月号から「カメラ」に再合併。 中嶋は、この雑誌が「カメラ」に合併されている期間中である1928年9月にアルス社の経営上の改革のためアルス社を退社し、光大社を創設して1929年1月号(6巻1号)から独立刊行を開始した。この後、しばしば休刊号が出たため、特に1932年から1940年までが「巻号」と「年月」が一致していない。詳細は、下記「戦前の芸術写真研究の巻号」を参照。 1940年8月号(15巻4号)まで刊行したのち休刊し、戦時雑誌統廃合で1941年1月号から『アサヒカメラ』に合併された。 戦後は1951年6月号(15巻5号、ページ数も15巻4号から連続している)から復刊し、1970年11月号(33巻1号通巻373号)までで廃刊。 1972年には、「ベス単派(光大派)」の中心人物の1人である渡辺淳などにより、後継誌『光大』(桐畑会)が刊行された。.

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鈴木八郎

鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』カバー。 - 1985年)は、日本の写真家。写真雑誌編集者、カメラ文化史研究者。.

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金丸重嶺

金丸 重嶺(かなまる しげね、1900年7月10日 - 1977年12月7日)は、新興写真を代表する写真家。商業写真・広告写真分野の草分け。写真評論家、写真教育者。.

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桑原甲子雄

桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年12月9日 - 2007年12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.130。『季刊クラシックカメラNo.1ライカ』p.081。、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。 主として上野、浅草など東京の下町を撮影し『アサヒカメラ』、『フォトタイムス』、『カメラアート』などの写真雑誌で多くの入選を果たした。1936年の成績が第1位だったため1937年に『カメラアート』の第1回推薦作家となり、2月号が特集『桑原甲子雄推薦号』となった。この時木村伊兵衛が『桑原甲子雄論』を書いている。1930年代を代表するアマチュア写真家として『フォトタイムス』などにエッセイを寄せるが、アマチュアであることに徹する。このころ、盲腸炎で療養中に濱谷より金丸重嶺の『新興写真の作り方』(1931年)を贈られ、新興写真の動向に興味をもつ。またこの頃、石津良介の組織した「中国写真家集団」の山崎治雄、植田正治、野村秋良、緑川洋一らと広島、東京にて交流。 1938年にはライカIIIとズマール50mmF2を自分の金530円で購入した。 1940年には南満州鉄道の主催する「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に参加し、満州を撮影。帰国後「満州撮影隊現地報告展(東京日本橋白木屋)」に出展。1943年には在郷軍人会の依頼で出征軍人の留守家族を撮影。1944年、外務省の外郭団体である太平洋通信社(PNP)に写真部員として数か月勤め、初めてプロの写真家として仕事をした。 戦後は一転してアルス『カメラ』の編集長に就任『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.129。して長く勤め、月例写真の選者に土門拳と木村伊兵衛を起用した。当時プロとアマチュアの社会的隔たりは大きく、これは桑原の行なった斬新な変革のひとつだった。土門のリアリズム運動の拠点となり、東松照明、川田喜久治、福島菊次郎らが投稿した。これ以降、『サンケイカメラ』、『カメラ芸術』などいくつもの写真雑誌の編集長を歴任し、写真作品の制作よりも新人育成や写真評論に重点をおいた活動を行う。荒木経惟はそこから育っていった一人である。 戦後の使用カメラはライカM3にエルマーを装着していたことが知られている。 1960年代末頃から、桑原が撮った戦前の作品が再評価され始め、何冊もの写真集が出版された。 2007年12月10日に老衰のため死去。。.

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植田正治

植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本の写真家。 出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く活動。前衛的な演出写真は「植田調」として知られ、写真誕生の地であるフランスでも日本語表記そのままに「Ueda-cho」として紹介されている。.

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木村伊兵衛

木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1974年5月31日)は、20世紀に活動した日本の写真家。戦前・戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。 報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。.

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日本カメラ

『日本カメラ』(にっぽんカメラ)は、日本カメラ社から刊行されているカメラ・写真に関する月刊雑誌。 いわゆるカメラ雑誌のひとつである。 1950年に創刊。21世紀の現在まで刊行が続けられている。 その内容は、プロの写真家による写真作品を紹介、読者から募集した写真コンテスト入選作の発表と批評、カメラ・レンズなどの撮影機材の紹介、他人に見てもらえる写真の写し方など多義に亙り、1980年頃までは、モノクロ写真の暗室操作に関する記事もあり、アサヒカメラと共通している。又、カメラ機材の紹介を目的として、毎年『カメラ年鑑』(1951年から)も刊行している。さらに、2006年には、機材以外の写真の動向(写真賞、写真展、写真集など)を紹介するため、『写真年鑑』を刊行したが、以降の刊行継続が期待される。 カメラ毎日(1954年-1985年)休刊後は、アサヒカメラとともに、カメラ雑誌の二巨頭として君臨している。 毎年開催の「日本カメラフォトコンテスト展」を主催している。これは、誌上月例コンテストの年度賞の上位に入った者が選ばれる。2009年度の審査には、4つの部門ごとに、「モノクロプリント」が齋藤康一、「カラースライド」が小澤忠恭、「カラープリント」が竹内敏信、「ビギナーズ」が今岡昌子が行った(応募点数は80,000点以上にのぼった)。展覧会は、2009年2月~3月に新宿ニコンサロンおよび大阪ニコンサロンで開催された。 別冊的な位置づけで、日本カメラmookシリーズという名称の書籍(主として、個別のカメラに関するものと、撮影技法に関するものとが存在する)がかなり多く刊行されている。.

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1956年

記載なし。

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