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カブリアス

索引 カブリアス

ブリアス(Χαβρίας、Chabrias)は、紀元前4世紀に活躍したことで知られるアテナイの将軍。紀元前388年には、ゴルゴパス (Gorgopas) が率いたスパルタとアイギナの艦隊を、アイギナ島で破り、さらに、アケメネス朝ペルシア帝国に対抗していたキュプロス王エウアゴラス (Evagoras) の支援のために派遣された艦隊の指揮もとった。 紀元前378年、アテナイがテーバイと反スパルタ同盟を結んだとき、カプリアスはテーバイ近郊で、数に優ったアゲシラオス2世率いる軍勢と対峙した。アゲシラオス2世側が数で優っていたため、カブリアスは攻撃命令を出さず、その代わりに、槍の穂先を上に向けたまま敵に向けず、盾は肩に乗せずに左膝に立てかけ置く「休め」の姿勢を命じた。命令は直ちに、問答無用で指揮下の傭兵たちに伝えられ、さらに友軍の精鋭であるゴルギダス (Gorgidas) 率いる神聖隊にも伝達された。この「蔑みの姿勢 (show of contempt)」を見せたことで、スパルタ軍の前進は止まり、程なくしてアゲシラオス2世側は撤退した。 紀元前376年、カブリアスは、スパルタ艦隊に対し、ナクソス島の沖合で大勝利を上げたが、もう少しでスパルタ艦隊を殲滅もできたであろう段階でアルギヌサイ (Arginusae) の将軍たちの運命を思い出し、遺体回収のために追撃を遅らせた。後年、アテナイの立場が変わりスパルタと同盟した際、カブリアスはエパメイノンダスをコリントスの城壁の前で撃退した。 紀元前366年、カブリアスとカリストラトスは、オロポス (Oropus) を放棄して、テーバイに明け渡すことを提言したとして、敵への内通の罪に問われた。カブリアスは辞任し、ペルシア帝国からの再征服の脅威に晒されて国防に腐心していたエジプトのファラオ(王)テオスの配下となった。しかし、同盟市戦争 (紀元前357-355年) が勃発すると、カブリアスはカレス (Chares) とともにアテナイ艦隊を指揮した。カブリアスは、キオス島攻撃の最中に戦死した。.

27 関係: 将軍職 (アテナイ)ペルシア帝国ナクソス島ヒオス島テーバイテオス (ファラオ)ファラオアテナイアイギナ島アケメネス朝アゲシラオス2世エパメイノンダスエウアゴラスエジプト第30王朝カリストラトスキプロス傭兵コリントススパルタ神聖隊紀元前366年紀元前376年紀元前378年紀元前388年紀元前406年紀元前4世紀戦死

将軍職 (アテナイ)

将軍職(しょうぐんしょく)は、ギリシャ語で στρατηγός ストラテゴス, 複数形は στρατηγοί ストラテゴイと呼ばれ、古代ギリシアの都市・アテナイの最高職。軍事指導者の職であったが、重要職の全市民への解放とともに実質的に最高職となった。任期1年で毎年春に市民の中から10名が民会の挙手で選ばれて再任も可能だった。 将軍は市民と在留外国人とを戦いに招集する権限をもち、また海上の戦いにも陸上の戦いと同じくこれを指揮する権限を持っていた。たいていの遠征には一名か二名が指揮に赴き、10名全員が出征することは希だった。 古くはキモンやペリクレスなどの有能な政治家が就任したが、後に古代アテナイ民主主義が衆愚政治に陥るとデマゴーグ(扇動者)が就任するようになった。またアルギヌサイの海戦の際のようにデマゴーグによって将軍らが敗戦の責任を追及されたあげくに死刑に処されるようなことも起こった。 Category:古代ギリシアの軍事 Category:アテナイ *.

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ペルシア帝国

ペルシア帝国(ペルシアていこく)とは、現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家を指し、一般的にはアケメネス朝・アルサケス朝・サーサーン朝に対する総称である。.

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ナクソス島

ナクソス島 (Νάξος / Naxos、Nasso、Nakşa) は、エーゲ海中部・キクラデス諸島に属するギリシャ領の島。キクラデス諸島中最大の島(面積428km)で、島の総人口は1万8188人(2001年)。.

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ヒオス島

ヒオス島(Χίος / Khíos)は、エーゲ海東部に位置するギリシャ領の島。中心都市はヒオス。キオス島とも表記される。トルコ語ではサクズ島(Sakız Adası)と呼ばれる。 古くより交易の島として栄えた。11世紀に建設されたネア・モニ修道院は、他の2つの修道院とともにユネスコの世界遺産に登録されている。.

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テーバイ

テーバイが覇権を握っていた時期(紀元前371年-紀元前362年)の地図。黄色がテーバイとその同盟国。 テーバイ(Θήβαι / Thēbai 発音: )は、古代ギリシアにあった都市国家(ポリス)のひとつ。現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァにあたる。 ボイオーティア同盟の盟主となり、アテナイやスパルタと覇権を争った最有力の都市国家のひとつであった。精強を謳われた「神聖隊」の活躍も知られている。 またギリシャ神話では「7つの門のテーバイ」として名高く、オイディプース伝説などの舞台となっている。 長音を略した「テバイ」や、「テーベ」(Thebes)と表記されることもある。.

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テオス (ファラオ)

テオス(Τέως、Teos)、ないしタコス(Τάχως、Tachos)は、古代エジプト語で「ジェドー (Djedhor, Djedho)」 と呼ばれていたエジプト第30王朝2代目のファラオの、古代ギリシア語における名である。その治世は、ファラオに即位して以降紀元前360年から紀元前359年とされる。テオスの父ネクタネボ1世は、自らの治世の途中で、紀元前363年ないし紀元前362年にはテオスを摂政とする共同統治を始めていた。一部のエジプト学の記述では、この共同統治期間をテオスの治世に含めている。テオスの治世に試みられた硬貨(金貨:Nefer-nub)の導入は失敗した。 テオスは、第26王朝のアプリエス (ウアフイブラー)以来2世紀ぶりに、シリアやパレスチナ地域へのエジプト勢力の拡張を計画し、これに着手した。テオスは、トトメス3世の前例に則り、レテヌ一帯(カナンや歴史的シリアに相当)への外部勢力の脅威に対する攻撃に成功したWerner Huß: Ägypten in hellenistischer Zeit: 332-30 v. Chr. S. 48.

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ファラオ

ファラオ(英語:Pharaoh)は、古代エジプトの君主の称号。しばしば王と和訳される。.

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アテナイ

アクロポリス、間にアレオパゴス、西にプニュクスがある。 アテナイと外港ペイライエウス アテナイ(: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。.

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アイギナ島

アイギナ島( / Aígina) または エギナ島(現代ギリシャ語: / Aígina 発音:)は、エーゲ海・サロニコス湾の中央に位置するギリシャ領の島。古代ギリシアにおいては、アテナイに対抗する都市国家(ポリス)のひとつであった。今日ではリゾートの島として知られる。.

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アケメネス朝

アケメネス朝(古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 ハカーマニシュ、Ἀχαιμένης アカイメネース)は、古代オリエントに存在した王朝・帝国・遊牧国家。.

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アゲシラオス2世

アゲシラオス2世(Ἀγησίλαος、紀元前444年 - 紀元前360年、在位:紀元前400年 - 紀元前360年)は、エウリュポン朝のスパルタ王である。.

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エパメイノンダス

パメイノンダス(Επαμεινώνδας、紀元前420年? - 紀元前362年)は、古代ギリシアテーバイの将軍・政治家である。欧文表記からエパミノンダス(Epaminondas)とも呼ばれる。レウクトラの戦いで、斜線陣を用い、神聖隊を率いて、最強と謳われたスパルタ軍を破った。 現在のテーバイ改めティーヴァ市のメインストリートの一つにはエパメイノンダスの名が付けられており、その一角に彼の銅像が建てられている。.

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エウアゴラス

ウアゴラス(Εὐαγόρας、Evagoras、? - 紀元前374年)は、古代ギリシアのキュプロス(キプロス)における、サラミス王(在位:紀元前410年 - 紀元前374年)。サラミス王を継いだニコクレスの父であり、自ら祖先は、テラモーンの子で大アイアースの異母兄弟にあたるテウクロス(トロイア戦争におけるアカイア人の英雄)であると称し井上、1965、p.35、先祖代々長くサラミスの統治者であったとしていたが、その真偽は判然としない井上、1965、p.36。一時期は、キュプロスの大部分に加え、小アジアの一部まで支配圏を広げたが、アケメネス朝ペルシア帝国のキュプロス侵攻によって支配領域を失い、最終的にはサラミス王に封じられた。.

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エジプト第30王朝

30王朝は紀元前4世紀にエジプトを支配した王朝。ネクタネボ1世がハコルの子ネフェリテス2世を排してこれを創始した。この王朝は時代的には末期にあたると考えるのが普通である。.

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カリストラトス

カリストラトス(Kallistratos、Καλλιστρατος、紀元前5世紀後半 - 紀元前4世紀半ば)は、アテナイの政治家。ティモテオスらに対抗して、スパルタとテーバイの勢力均衡の上にアテナイの外交政策を推進したが、紀元前361年に死刑判決を受けてマケドニア王国に逃亡した。 Category:古代アテナイの人物 Category:紀元前5世紀生 Category:紀元前4世紀没.

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キプロス

プロス共和国(キプロスきょうわこく、Κυπριακή Δημοκρατία、Kıbrıs Cumhuriyeti)、通称キプロスは、トルコの南の東地中海上に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。首都はニコシア。ヨーロッパ連合加盟国。公用語はギリシア語。 キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、往来は容易であるものの共和国領ではない。さらに1974年以来、南北に分断されており、島の北部約37%を、国際的にはトルコ共和国のみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。一方のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認をしている。 キプロスは元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家だったが、分断後は事実上、ギリシャ系によるほぼ単一民族国家となっている。.

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傭兵

イス人傭兵達の記念碑である。国土の大半が山岳地帯であるため、農業や産業が育たない貧しい国だったスイスを支えていたのは「血の輸出」と呼ばれる傭兵派遣であった。 傭兵(ようへい、mercenary)は、金銭などの利益により雇われ、直接に利害関係の無い戦争に参加する兵またはその集団である。 「傭」という漢字が常用漢字および新聞漢字表に含まれないため、一部の新聞等の報道では「雇い兵」と表記される。 傭兵は現代でも存在しており、民間軍事会社のような新しい形態の傭兵も登場している。.

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コリントス

リントス(Κόρινθος) は、ギリシア共和国ペロポネソス地方にある都市であり、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。コリントス地峡に位置する港湾都市で、コリンティア県の県都である。コリントなどの表記も用いられる。 古代ギリシアにおいてコリントスは、アテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)のひとつであり、アクロポリス(アクロコリントス)には遺跡が残る。古代ローマ時代には属州アカエアの州都として繁栄し、キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛先としても知られている。コリントスは戦乱や災害によって幾度もの破壊と再建を経ており、現在のコリントスの市街地は19世紀半ばに新たに建設されたものである。.

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スパルタ

パルタ(: Σπάρτα / Spártā スパルター、Sparta)は、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。自らはラケダイモーン(Λακεδαίμων / Lakedaimōn)と称した。 古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を誇り、ペルシア戦争ではギリシア軍の主力であった。ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。.

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神聖隊

聖隊(しんせいたい)ヒエロス・ロコス(Ιερός Λόχος)は、紀元前378年に将軍ゴルギダスが結成した古代ギリシア・テーバイ(テーベ)の、ギリシアで最強と謳われた精鋭歩兵部隊である。古代ギリシャにおいてテーバイはエリスとならび、男性の同性愛がもっとも行われた都市だった。テーバイが位置する中部ギリシャ・ボイオチア地方では、少年愛で知られたヘラクレス崇拝がさかんだった。アリストテレスの失われた著作には、ヘラクレスの甥であり、従者、愛人であったイオラウスの墓所に関する描写があるが、そこは古代テーバイの男性同性愛者のカップルが互いの愛を誓い合う場所として利用された。プルタルコスは「神聖隊」の呼称はこの風習に由来すると考えている。 スパルタを破ったレウクトラの戦い等で活躍し、紀元前4世紀のテーバイのギリシア覇権確立に大いに貢献したこの部隊は、150組300名の男性の恋人同士によって編成されていたという。なぜ男性同士のカップルから成っているかというと、愛する相手に惨めな姿を見せようとせず、かつ恋人を守って戦うだろうとの想定のもと設立されたためである。彼らは国費で養われ、平時は専ら訓練に励んでいた。 テーバイがギリシアの覇権を失った後もこの部隊は存続していたようであるが、紀元前338年のカイロネイアの戦いでマケドニア王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)率いる騎兵部隊との交戦で254人が戦死するという壊滅的打撃を受け、それ以後結成されることはなかった。カイロネイアで勝利したマケドニア王ピリッポス2世は彼らの亡骸を見て涙を流し、彼らを讃えたという。 近代以降、ギリシア陸軍において何度か編成された精鋭部隊の「神聖中隊」という隊名は、この神聖隊の名に由来すると言われている。.

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紀元前366年

紀元前366年は、ローマ暦の年である。当時は、「マメルキヌスとラテラヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元388年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前366年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前376年

紀元前376年は、ローマ暦の年である。当時は、「ムギラヌス、ラナトゥス、コルネリウス、プラエテクスタトゥスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元378年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前376年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前378年

紀元前378年は、ローマ暦の年である。当時は、「メドゥリヌス、フィデナス、ラナトゥス、シクルス、プルウイルス、マケリヌスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元376年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前378年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前388年

紀元前388年は、ローマ暦の年である。当時は、「カピトリヌス、フィデナス、イウルス、コルウウス、フラウウス、ルフスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元366年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前388年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前406年

紀元前406年は、ローマ暦の年である。当時は、「コッスス、アムブストゥス、コッスス、ポティトゥスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元348年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前406年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前4世紀

National Archaeological Museum, Naples蔵)。 マケドニアの勃興。アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世の時代からマケドニアは財力と軍事力によって周辺諸国を圧倒し始めた。画像はマケドニアの首都であったペラに残る「ディオニュソスの館」の遺跡。 プラトンのアカデメイア学園。アカデメイア学園は古典古代を通じて教育機関の模範と見なされ、後世「アカデミー」の語源ともなった。画像はローマ時代のポンペイのモザイク壁画(ナポリ国立考古学博物館蔵)。 アリストテレス。『形而上学』を初めとする諸学に通じ、「万学の祖」として後世の学問に多大な影響を与えるとともに、アレクサンドロス大王の家庭教師を務めたことでも知られる。画像はローマ国立博物館所蔵の胸像。 アスクレピオスの聖地でもあったエピダウロスの劇場はそれらの中でも最も保存状態が良く、この世紀に作られて以来、現在でも劇場として用いられている。 アッピア街道。「全ての道はローマに通ず」という言葉があるように、支配地域を拡大した都市国家ローマにとって軍事や運搬のための道路整備は不可欠だった。画像はクアルト・ミグリオ(Quarto Miglio)付近の街道の風景。 「エルチェの貴婦人」。フェニキア人の入植活動が盛んになる以前にイベリア半島にいた先住民イベリア人は独特な文化を発達させていた。イベリア人の文化を代表するこの貴婦人像はスペインのマドリッド国立考古学博物館に所蔵されている。 アケメネス朝の残照。大英博物館所蔵の「オクサスの遺宝」はマケドニアに滅ぼされたアケメネス朝の工芸の巧緻さを示すものとして名高い。画像はグリフォンをかたどった黄金の腕輪で紀元前5世紀から紀元前4世紀のもの。 チャンドラグプタがジャイナ教の師(スワミ)バドラバーフに帰依したことを記録した碑文で聖地シュラバナベラゴラに置かれているもの。 サクの王墓と大量の埋葬品が出土した。画像は出土した銀象嵌双翼神獣像。 紀元前4世紀(きげんぜんよんせいき)は、西暦による紀元前400年から紀元前301年までの100年間を指す世紀。.

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戦死

アメリカ陸軍兵士の葬儀。兵士がバトルフィールド・クロス(戦場で作成する簡易的な墓標)に対して最後の別れを行っている。 戦死(せんし、Killed in action: KIA)とは、軍人が戦争や戦闘により死亡すること。その定義や範囲は複数存在するが、通常は戦争による民間人の死亡は含まれない。.

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