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エルジュビェタ・クヤフスカ

索引 エルジュビェタ・クヤフスカ

エルジュビェタ・クヤフスカ(ポーランド語:Elżbieta kujawska、1315/1320年 - 1345年8月22日以後)は、ボスニア太守スティエパン2世コトロマニッチの妻。ポーランドのグニェフコヴォ公カジミェシュ3世の娘。 1323年までに、ハンガリー王カーロイ1世ローベルトはボスニア太守スティエパン2世コトロマニッチに対する影響力を強めようと考えるようになった。そこで国王は王妃エルジュビェタの親戚の娘で同名のエルジュビェタをスティエパン2世に妻として与えた。エルジュビェタとの結婚により、スティエパン2世はハンガリー王からの贈り物として、クロアチア太守でボスニア太守位をめぐるライバルであったムラデン2世・シュビッチ・ブリビルスキが公的には領有するボスニアの西部地域を獲得し、またセルビア王ステファン・ドラグティンとその息子が公的には領しているボスニア北部のウソラとソリをも獲得した。 結婚は1339年までには合法なものとなった。しかし1339年に至るまでに、スティエパンはブルガリア皇帝の娘と結婚している。彼はエルジュビェタと正式に結婚するためにブルガリアの王女との結婚を解消したか、もしくは重婚という形で2人の妻を持ったのだろう。エルジュビェタはローマ・カトリック教会の信徒だったが、スティエパン2世はカトリック教会から異端として断罪されていたボゴミル派に属するボスニア教会の一員だった。エルジュビェタは夫とのあいだに娘エリザベタを産んだことは間違いない。エリザベタは1340年に生れ、1353年にハンガリー王ラヨシュ1世と結婚し、間にマーリア(ハンガリー)とヤドヴィガ(ポーランド)の女王姉妹をもうけた。 一部の歴史家たちは、スロヴェニアの封建君主ツェリェ伯ヘルマン1世の夫人カタリナ・コトロマニッチが、エルジュビェタとスティエパン2世の間に生れたもう一人の娘だと主張している。別の歴史家たちは、カタリナはスティエパン2世の弟ヴラディスラフと、その妻イェレナ・シュビッチ(ムラデン2世の姪)の間の娘だと考えている。また、スティエパン2世には若くして亡くなった息子ヴクがいたが、このヴクもエルジュビェタの所生の可能性がある。もっとも、スティエパンの前の2人の妻が産んだ息子だった可能性もある。 エルジュビェタは夫スティエパンよりも早くに死んだ。死亡時期から考えると、死因は14世紀のヨーロッパ全土を襲った黒死病だったと考えられる。 Category:クヤヴィ・ピャスト家 Category:14世紀生 Category:1345年没.

17 関係: ペストマーリア (ハンガリー女王)ハンガリー君主一覧バン (称号)ポーランド王国ポーランド語ヤドヴィガ (ポーランド女王)ラヨシュ1世ボゴミル派ボスニアエリザベタ・コトロマニッチエルジュビェタ・ウォキェトクヴナカーロイ1世カトリック教会カジミェシュ3世 (グニェフコヴォ公)スロベニアステファン・ドラグティン

ペスト

ペスト(, )とは、ヒトの体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することにより発症する伝染病である。黒死病(, )とも。.

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マーリア (ハンガリー女王)

マーリア(Mária, 1371年 - 1395年5月17日)は、ハンガリー女王(在位:1382年 - 1385年、1386年 - 1395年)。ハンガリーとポーランドの王ラヨシュ1世の次女で、母はその2番目の妃エルジェーベト(エリザベタ・コトロマニッチ)。ポーランド女王ヤドヴィガの姉である。 父王の死により11歳足らずで女王として即位、母エルジェーベトが摂政となったが、実権は宮宰として権力を振るってきたミクローシュ・ガライが握った。 1385年にルクセンブルク家のジギスムント(後の神聖ローマ皇帝、ハンガリー名ジグモンド)と結婚した。同年12月、同族のナポリ王カルロ3世(ハンガリー王カーロイ2世)に迫られて一時王位を奪われたものの、翌1386年2月24日にエルジェーベトの策謀でカーロイが殺害されたことで復位した。 しかしカーロイの殺害により、その地盤でもあった王国南方のボスニア地方で貴族ホルヴァート兄弟の叛乱が勃発、政情が不安定化した。ガライ、エルジェーベト、マーリアらは叛乱の説得のためボスニア地方に向かったが、その途上の7月25日、ディアコヴァルで奇襲を受け、ガライは殺害、マーリアとエルジェーベトはホルヴァート一派に捕らわれ、ノヴィグラード(現クロアチア領)の要塞に幽閉された。エルジェーベトは1387年1月16日に幽閉先で殺害され、マーリアにも身の危険が及ぶが、最終的には6月4日に釈放された(一説には、これらの奇襲・幽閉劇はマーリアらと折り合いが悪かった夫ジギスムントが仕掛けたとも言われる)。 釈放後は、夫ジギスムントがハンガリー王に即位して実権を握り、マーリアは象徴的な地位にとどまった。 1395年に死去し、ジギスムントとの間に子供がなかったため、ハンガリーにおけるアンジュー家の血筋は断絶した。.

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ハンガリー君主一覧

ハンガリー君主一覧(ハンガリーくんしゅいちらん)では、ハンガリー王国の成立から消滅に至るまでの国王、および王国成立以前の君主である大公、第一次世界大戦後の状況を一覧で示す。.

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バン (称号)

バン(ハンガリー語 bán、ドイツ語・ラテン語 、英語 )またはバーンは、、特にクロアチア・スラボニア地方の歴史的総督の称号。 ハンガリー王国がクロアチアを支配していたとき、クロアチア人たちの認識として、ハンガリー王はクロアチアのバン(総督)を兼ねていると言う歴史認識をしていた。同君連合とされる場合もある。.

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ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

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ポーランド語

ポーランド語(ポーランドご、język polski、polski、または polszczyzna)は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派の西スラヴ語群レヒト諸語に属するポーランドの公用語。レヒト諸語と同じ西スラヴ語群に属する言語は、チェコ・スロヴァキア諸語とソルブ諸語である。名詞の格変化は7格(主格、生格、与格、対格、造格、前置格、呼格)あり、文中での語の働きが格語尾によって示されることなど、形態による表現の豊かさを特徴とする。 ポーランド語は16世紀の期間に発達し、新単語は19世紀に口語のドイツ語、ラテン語、ロシア語、英語から採られポーランド語のスペルに反映されている。ラテン文字は12世紀に導入され、話し言葉だけのポーランド語を記載できるようになった。.

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ヤドヴィガ (ポーランド女王)

ヤドヴィガ・アンデガヴェンスカ(ポーランド語:Jadwiga Andegaweńska,1373年10月3日/1374年2月18日 - 1399年7月17日)は、ポーランド王(在位:1384年 - 1399年)。ハンガリー王・ポーランド王ラヨシュ1世(ルドヴィク1世)の末娘、母はその2番目の妻でボスニア太守スティエパン2世の娘であるエリザベタ・コトロマニッチ。女性の君主でありながら女王(regina, queen)ではなく王(rex, king)の称号を持つが、これはヨーロッパでは非常に稀な例である。ハンガリー名はヘドヴィグ(Hedvig)。カトリック教会の聖人で、女性君主、王妃および統合ヨーロッパの守護聖人である。.

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ラヨシュ1世

ラヨシュ1世(Anjou I Lajos, 1326年3月5日 - 1382年9月10日 トルナヴァ)は、アンジュー家のハンガリー王(在位:1342年 - 1382年)、ポーランド王(ハンガリー人のルドヴィク1世 Ludwik I Węgierski, 在位:1370年 - 1382年)。父はカーロイ1世。大ラヨシュ(Nagy Lajos király)とも呼ばれる。 大貴族の台頭によって弱体化していたハンガリー王国は、父カーロイ1世の治世の下で大貴族の抑制と王権の強化に成功し、大国へと成長していた。 1342年、父の後を継いで即位したラヨシュ1世は、勢力拡大のために積極的な対外政策を行なった。まず、ヴェネツィア共和国と交戦してクロアチアとダルマチアを支配下に収めた。次いで1370年、ポーランド王カジミェシュ3世が嗣子無くして死去すると、母エルジェーベトがその姉に当たるという縁故からポーランド王位も継承することとなる。 ラヨシュ1世はさらにナポリ王国の王位も狙い、同族の女王ジョヴァンナ1世と敵対した。弟で女王の最初の夫であったアンドラーシュが暗殺された後、1347年には軍勢を動かして王都ナポリを占領したが、王位を得ることはできずに終わった。しかし、晩年の1382年には同じく同族のカルロ3世にジョヴァンナ1世を殺害させ、王位につけた。 ポーランドの画家ヤン・マテイコによる「ポーランド王ルドヴィク1世」としての肖像画。王冠、法衣、王錫はポーランドのもの。 男児が無かったため、死後ハンガリー王位は年長の娘マーリア、ポーランド王位は末娘ヤドヴィガ、そして彼女らの夫たちが継承することとなった。ただし、ハンガリー王位は一時マーリアとカルロ3世(カーロイ2世)との間で争われている。 対外政策に成功を収めて勢力を拡大し、ポーランド王も兼ねたことから、ラヨシュ1世は「大王」と呼ばれている。しかしバルカン半島への勢力拡大には失敗した。ヴェネツィアとダルマツィアを巡る戦争を起こし、このためアドリア海経由の物流が滞り、トランシルヴァニアやワラキア経由の物流が発展し、ワラキア・トランシルヴァニアの発展を促す結果を招いた。また大貴族層の反発にも遭って、晩年には大貴族層に対して特権を与えるなどの譲歩もしている。これは、ハンガリー王権の衰退を現わすものでもあった。 ラヨシュの王国(赤線枠)と宗主下の国(青字).

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ボゴミル派

ボゴミル派(ボゴミルは)は、10世紀中ごろから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。 10世紀中頃に、ブルガリア司祭のボゴミルにより開始された。ブルガリアにおいては東ローマ帝国への抵抗運動と結びつき、一部の地域では正統派をしのぐ勢いをもったが、帝国が衰えブルガリアがオスマン帝国領となり、イスラム教が入ってくると、ボゴミル派からイスラムに改宗する者も現れ、廃れた。 フランスのカタリ派(アルビジョワ派)に影響を与えたとも考えられている。.

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ボスニア

ボスニア (''Bosnia'') とヘルツェゴビナ (''Herzegovina'') の大まかな地域範囲図 ボスニア (Bosnia) は、.

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エリザベタ・コトロマニッチ

リザベタ・コトロマニッチ(ボスニア語:Elizabeta Kotromanić, 1340年 - 1387年1月16日)は、ハンガリー王兼ポーランド王ラヨシュ1世の2番目の妃。ハンガリー語名コトロマニッチ・エルジェーベト(Kotromanić Erzsébet)、ポーランド語名エルジュビェタ・ボシニャチュカ(Elżbieta Bośniaczka)。娘マーリア女王の摂政を務めた。 現代の歴史家たちはエリザベタをしたたかな女王として描くことが多い。彼女は同時代人から、有能だが娘の地位を守るために政治的策謀を駆使した冷酷な政治家と見られていた。エリザベタの死後、マリア・テレジアが即位するまでハンガリーを実質的に統治した女性支配者は現れなかった。.

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エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ

ルジュビェタ・ウォキェトクヴナ(ポーランド語:Elżbieta Łokietkówna, 1305年 - 1380年12月29日)は、ハンガリー王カーロイ1世の3番目の妃。ポーランド王ヴワディスワフ1世ウォキェテクの次女で、母はヴィエルコポルスカ公ボレスワフの娘ヤドヴィガ。ハンガリー語名はエルジェーベト(Łokietek Erzsébet)。.

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カーロイ1世

ーロイ1世(I.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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カジミェシュ3世 (グニェフコヴォ公)

ニェフコヴォ公カジミェシュ3世の印璽、1307年 カジミェシュ3世(Kazimierz III gniewkowski, 1277年/1280年 - 1347年8月22日/1350年5月13日)は、イノヴロツワフ公(在位:1287年 - 1314年、兄弟と共同統治)、グニェフコヴォ公(在位:1314年 - 1347年/1350年、但し1332年から1343年はドイツ騎士団が占領支配)、トチェフ総督(在任:1306年以後 - 1309年)。イノヴロツワフ公ジェモミスウの末息子、母はポモジェのトチェフ公サンボル2世の娘サロメア。姉にハンガリー王妃フェネンナがいる。.

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スロベニア

ベニア共和国(スロベニアきょうわこく、Slovenija: )、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国で 、主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。.

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ステファン・ドラグティン

テファン・ドラグティン(Стефан Драгутин、? - 1316年3月12日)は、13世紀から14世紀にかけてのセルビア人君主。存命中にセルビア王(在位1276年 - 1282年)、スレム王(在位1282年 - 1316年)の地位に君臨していた。.

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