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アルキビアデス

索引 アルキビアデス

アルキビアデスの像 アルキビアデス(Αλκιβιάδης / Alkibiádēs、紀元前450年頃 - 紀元前404年)は、アテナイの政治家、軍人。ソクラテスの弟子であり、アテナイ衆愚政治を代表するデマゴーグ。アテナイの政敵により一時追放されたため敵国スパルタに味方し、結果的にペロポネソス戦争でアテナイを敗戦に導いた。.

34 関係: 京都大学学術出版会ペリクレスペロポネソス同盟ペロポネソス戦争トラキアヘルメースデマゴーグデモステネス (将軍)デロス同盟フリギアファルナバゾス (ファルナケスの子)ニキアスの和約アルブレヒト・アルキビアデスアテナイアケメネス朝ギュリッポスグナエウス・ポンペイウス・トログスシチリアシラクサシケリア遠征スパルタソクラテスサモス島サトラップ紀元前404年紀元前406年紀元前410年紀元前411年紀元前413年紀元前421年紀元前450年衆愚政治暗殺

京都大学学術出版会

一般社団法人京都大学学術出版会(きょうとだいがくがくじゅつしゅっぱんかい、英称:Kyoto University Press)は、京都大学の出版部に当たる一般社団法人で、大学出版部協会の会員。主として京都大学における学術的成果を出版活動を通じて公表・普及することを目的とする。現会長は山極寿一、理事長は末原達郎。同会の出版活動に対して、梓会出版文化賞第20回記念特別賞、2011年度地中海学会賞が授与されている。.

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徳(とく、ἀρετή アレテー, virtūs, virtue)は、人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性が発揮されたものである。 徳は卓越性、有能性で、それを所持する人がそのことによって特記されるものである。人間に備わって初めて、徳は善き特質となる。人間にとって徳とは均整のとれた精神の在り方を指すものである。これは天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、善き人間の特質となる。徳を備えた人間は他の人間からの信頼や尊敬を獲得しながら、人間関係の構築や組織の運営を進めることができる。徳は人間性を構成する多様な精神要素から成り立っており、気品、意志、温情、理性、忠誠、勇気、名誉、誠実、自信、謙虚、健康、楽天主義などが個々の徳目と位置付けることができる。.

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ペリクレス

ペリクレス ペリクレス(Περικλῆς、紀元前495年? - 紀元前429年)は、古代アテナイの政治家であり、アテナイの最盛期を築き上げた重鎮として有名である。また、彼と愛人アスパシアとの間に生まれた庶子で、後に軍人になったと区別して大ペリクレスとも呼ばれる。 ペリクレスの父は紀元前479年のミュカレの戦いの指揮官クサンティッポス、母はクレイステネスの姪であり、アナクサゴラスの弟子でもあった。 紀元前462年、ペリクレスは貴族派のキモンが出征中の不在を狙って、民主派のとともにアレオパゴス会議の実権を奪って、全アテナイ市民による政治参加を促進した。翌年、キモンが陶片追放によって正式に国外追放されると、以後アテナイの最高権力者の地位を独占した。前444年から430年までの15年間、ペリクレスは毎年連続ストラテゴス=「将軍職」に選出され、アテナイに全盛時代をもたらした。また、キモンが古来からの領地による富の再配分を行なっていたのに対し、ペリクレスは自ら積極的にアゴラでの売買を行ない、アテナイが商業的なアゴラを推進するきっかけともなった。 この頃、ペルシア戦争に勝利したアテナイは全盛時代を迎えていた。大国ペルシアの脅威が薄れると、デロス同盟の盟主であったアテナイはその同盟資金を自己の繁栄のために流用するようになった。デロス同盟は対ペルシア防衛機関という本来の主旨を失い、いわゆる「アテナイ帝国」を支える機関へと変質を遂げていたのである。ペリクレスはデロス島において管理していた同盟資金をアテナイでの管理に移し、パルテノン神殿などの公共工事に同盟資金を積極的に流用しアテナイ市民の懐を潤した。 アテナイが同盟内のポリスに対して専制的に振る舞うようになると、同盟から離脱しようとするポリスとの間に対立が生じるようになる。また、ペルシア戦争の勝利に大きな貢献をしたもう一つの有力ポリススパルタもアテナイの動きを冷ややかに見ていた。 スパルタがデロス同盟から離反したポリスを支援するようになると、紀元前431年、両者の間に戦争が勃発した(ペロポネソス戦争)。ペリクレスは強力なスパルタ陸軍に対し籠城策をとり、海上決戦の機会を狙っていたが、翌年城内に伝染病が発生したことで多くの市民が犠牲となって急速に市民の支持を失い、自らも病に罹って没した。この時に取った戦争方針から「防御的な行動で敵の疲弊を待ち、現状維持を狙う戦略」をペリクレス戦略と呼ぶことがある。 ペリクレスは弁舌に優れた政治家であった。格調高いペリクレスの演説は現代にまで伝えられ、欧米の政治家の手本となっている。 1954年に発行されたギリシャの旧50ドラクマ紙幣の肖像に使用されている。.

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ペロポネソス同盟

ペロポネソス同盟の領域(赤) ペロポネソス同盟(ペロポネソスどうめい)は、紀元前6世紀末にスパルタ王クレオメネス1世によって結成された、スパルタを盟主とするペロポネソス半島の諸ポリスからなる同盟。 ペロポネソス同盟とデロス同盟の対立は、やがてペロポネソス戦争へと発展した。 紀元前371年にスパルタはレウクトラの戦いでテーバイに敗れ、ギリシアの覇権を失った。そして紀元前366年にテーバイの指導者エパメイノンダスによって同盟は解散させられた。しかし紀元前272年、ラコニアに攻め込んだエピロス王ピュロスをアレウス1世が撃退し、ペロポネソス同盟を再結成した。 Category:古代ギリシア Category:スパルタ Category:軍事同盟.

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ペロポネソス戦争

ペロポネソス戦争の両陣営。赤がペロポネソス同盟軍の進路、青がデロス同盟軍の進路 ペロポネソス戦争(ペロポネソスせんそう、Πελοποννησιακός Πόλεμος、Peloponnesian War、紀元前431年 - 紀元前404年)は、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。.

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トラキア

トラキア(Thracia、Trakya)は、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。.

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ヘルメース

ヘルメース(Ἑρμῆς.、Hermēs)は、ギリシア神話に登場する青年神であるマイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル 『ギリシア・ローマ神話事典』 大修館書店。長母音を省略してヘルメスとも表記される。 オリュンポス十二神の一人。神々の伝令使、とりわけゼウスの使いであり、旅人、商人などの守護神である。能弁、境界、体育技能、発明、策略、夢と眠りの神、死出の旅路の案内者などとも言われ、多面的な性格を持つ神である。その聖鳥は朱鷺および雄鶏。幸運と富を司り、狡知に富み詐術に長けた計略の神、早足で駆ける者、牧畜、盗人、賭博、商人、交易、交通、道路、市場、競技、体育などの神であるとともに、雄弁と音楽の神であり、竪琴、笛、数、アルファベット、天文学、度量衡などを発明し、火の起こし方を発見した知恵者とされた。プロメーテウスと並んでギリシア神話のトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。.

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デマゴーグ

デマゴーグ()は、古代ギリシアの煽動的民衆指導者のこと。英語ではであり、rabble-rouser(大衆扇動者)とも呼ばれ民主主義社会に於いて社会経済的に低い階層の民衆の感情、恐れ、偏見、無知に訴える事により権力を得かつ政治的目的を達成しようとする政治的指導者を言う。デマゴーグは普通、国家的危機に際し慎重な考えや行いに反対し、代わりに至急かつ暴力的な対応を提唱し穏健派や思慮を求める政敵を弱腰と非難する。デマゴーグは古代アテネの時代より民主主義社会に度々現れ、民主主義の基本・原理的な弱点、則ち究極的な権限は民衆にありその中でより大きな割合を占める人々の共通の願望や恐れに答えさえすれば(それらがどの様なものでも)政治的権力を得られるという点を利用した。.

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デモステネス (将軍)

デモステネス(デーモステネース、Δημοσθένης、ラテン文字転記:Dēmosthénēs、Demosthenes、? - 紀元前413年)は、古代ギリシア、ペロポネソス戦争期のアテナイの将軍。.

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デロス同盟

デロス同盟の勢力圏 デロス同盟(デロスどうめい)はエーゲ海周辺のギリシア諸ポリス(都市国家)が、ペルシア帝国軍の来襲にそなえて、アテネを盟主として結んだ同盟。紀元前478年に結成された軍事同盟で、最盛期には200のポリスが参加した。各ポリスが一定の兵船を出して連合艦隊を編成し、それのできないポリスは一定の納入金(フォロイ)を同盟の共同金庫に入れることにした。実際に艦隊を提供したのはアテネだけで、他のポリスは納入金を納めるだけだった。共同金庫は共通の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島に置かれ、同盟の会議もそこで開催された。.

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フリギア

フリギア(Phrygia, Φρυγία)は、古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名・王国名である。フリュギア・プリュギアとも表記する。 (Phrygians)は、インド・ヨーロッパ語族のフリギア語を話す人々で、おそらくヨーロッパから紀元前12世紀頃移住してこの地域を支配し、紀元前8世紀に王国を建てた。しかし紀元前7世紀末頃キンメリア人の支配に屈し、その後隣接するリディア、さらにペルシャ、アレクサンドロス3世(大王)とその後継者たち、そしてペルガモン王国に支配されたのち、ローマ帝国領内の地域名として名を残した。フリギア語は6世紀頃まで残った。.

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ファルナバゾス (ファルナケスの子)

ファルナバゾス(希:Φαρνάβαζος, ラテン文字転記:Pharnabazos, 紀元前4世紀)は、ダレイオス2世とアルタクセルクセス2世に仕えたアケメネス朝ペルシアの軍人、政治家である。 ファルナバゾスはファルナケスの子であり、彼の家系は世襲で紀元前480年以来ダスキュレイオンを拠点としてヘレスポントス・フリュギアの太守領を支配していた。テオドール・ノルデケによれば、ファルナバゾスはダレイオス1世がスメルディスを殺害した際にダレイオスに協力した貴族オタネスの子孫にあたる。 ファルナバゾスはペロポネソス戦争にスパルタ側で参加した。彼は紀元前412年春に自分のもとに身を寄せていたメガラ人カリゲイトス、キュジコス人ティマゴラスをスパルタに送り、スパルタにヘレスポントスに艦隊を送らせ、自領内のギリシア諸都市をアテナイとの同盟から離反させ、ペルシアの同盟国にしようとした。しかし、時を同じくしてカリア・リュディア太守ティッサフェルネスからも同じような用向きで使者が訪れていたため、その時はスパルタはティッサフェルネスの方に応じた。同年の冬、冬至頃にスパルタはファルナバゾスのために20隻の艦隊をイオニアに送り、その後も増援を送りつつエーゲ海東部にてアテナイ艦隊との戦いを繰り広げた。 紀元前404年にペロポネソス戦争が終戦した際、これまでスパルタに身を寄せていたが、アテナイの敗戦とともにスパルタに居辛くなったアルキビアデスがファルナバゾスのもとに亡命してきた。彼らは友人同士となり、ファルナバゾスはフリュギアのグリュニオンをアルキビアデスに与えた。しかし、アテナイの僭主クリティアスらの要請を受けたリュサンドロスはファルナバゾスに生死に関わらずアルキビアデスを引き渡すことを求め、さもなくばペルシアとスパルタの協定を破棄すると迫った。ファルナバゾスはそれに抗しえず、部下たちにアルキビアデスを殺させ、ファルナバゾスのもとには彼の首が持ち帰られた。 ペロポネソス戦争後、スパルタは将軍ティブロンを小アジアに派遣し、ティブロンおよびその後任のデルキュリダスはファルナバゾスの所領を含む小アジアを荒らしまわった。ファルナバゾスは彼と戦うも、苦戦を強いられた。さらに紀元前399年にスパルタ王アゲシラオス2世が小アジアに侵攻し、ファルナバゾスの所領はまたしても攻撃を受け、アゲシラオスは大量の戦利品を奪った。その後、アゲシラオスはコリントス戦争の勃発によって小アジアから去り、ファルナバゾスはその戦争でスパルタと戦った。彼は紀元前394年にはアテナイ人コノンと共にクニドスの海戦でスパルタ艦隊を壊滅させ、小アジア沿岸の諸都市からスパルタ人の総監を追い払って回ったが、デルキュリダスの守るアビュドスとセストスだけはできなかった。 ファルナバゾスの地位は部下のアリオバルザネスによって受け継がれた。.

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ニキアスの和約

ニキアスの和約(Peace of Nicias)は紀元前421年ペロポネソス戦争終結を目的として、デロス同盟とペロポネソス同盟との間で結ばれた講和条約である。.

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アルブレヒト・アルキビアデス

アルブレヒト・アルキビアデス・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ(Albrecht Alcibiades von Brandenburg-Kulmbach、1522年3月28日、アンスバッハ - 1557年1月8日、プフォルツハイム)は、ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミールとバイエルン公アルブレヒト4世の娘ズザンナの息子で、公的には1527年からブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯の位にあったが、成人前であったため1541年までは叔父のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクが後見人として実際の統治を行った。母がハプスブルク家の血を引いており、神聖ローマ皇帝カール5世とフェルディナント1世兄弟とは又従兄弟にあたる。 副え名の「アルキビアデス」は、権力欲の強い日和見主義のアテネの政治家アルキビアデス(紀元前450年 - 404年)になぞらえて、後代の人々が皮肉で付けたもの。存命中は「ベラトール(Bellator)」、すなわち好戦伯と呼ばれていた。.

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アテナイ

アクロポリス、間にアレオパゴス、西にプニュクスがある。 アテナイと外港ペイライエウス アテナイ(: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。.

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アケメネス朝

アケメネス朝(古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 ハカーマニシュ、Ἀχαιμένης アカイメネース)は、古代オリエントに存在した王朝・帝国・遊牧国家。.

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ギュリッポス

ュリッポス(Γύλιππος、Gylippus)は、ペロポネソス戦争で活躍した、紀元前5世紀のスパルタの将軍。父クレアンドリダス (Cleandridas) はスパルタ王プレイストアナクスの顧問であったが、紀元前446年にアテナイから賄賂を受け取ったとされてスパルタから追放され、アテナイからの支援を受けてアテナイ人たちが入植していたイタリア半島をヒールのある靴を履いた脚に見立てたときの土踏まずにあたる部分に建設されていたギリシア植民地トゥーリー(Θούριοι、Thurii)へ逃亡した。母親はヘイロタイ(非自由身分)出身であった可能性があり、そうだとすればギュリッポスは本当のスパルタ人ではなく、より身分の低かったモタケス(μόθαξ、mothax)であったことになる。こうした事情にもかかわらず、ギュリッポスは幼い頃から伝統的なスパルタ流の戦士としての訓練を受け、成人するとスパルタ軍の一員に選ばれ、裕福なスパルタ人のパトロンから提供された資金で必要な費用を賄った。不利な背景を抱えた個人にとって、戦争は栄誉と出世を得る好機であった。 アテナイによるシケリア遠征に際し、アテナイを追われたアルキビアデスは、シュラクサイ(シラクサ)支援のために将軍を派遣するようスパルタに要請し、その結果として紀元前414年にギュリッポスが派遣され、その参戦によって戦況は一変した。対峙したアテナイの将軍ニキアス (Nicias) より大胆であったギュリッポスは、戦闘の主導権を握り、アテナイ勢を要衝から追い立てて、攻城戦を仕掛けていたアテナイ方の包囲陣を突き崩した。アテナイは、デモステネスが率いる増援部隊を派遣したが、こちらもギュリッポスに敗れ、結局、アテナイのシュラクサイ攻撃は失敗に終わった。 シケリアのディオドロスは、おそらくはティマイオスを踏まえ、ギュリッポスが、捕虜となったアテナイの将軍たちを死刑にするようシュラクサイ市民たちをそそのかしたように記しているが、プルタルコスのニキアス伝 (Plutarch, Nicias, 28) に見えるピリストス (Philistus) という名のシュラクサイ人弁護人の発言や、トゥキディデス (Thucydides vii. 86) によれば、ギュリッポス自身が、捕虜たちをスパルタに連行して勝利の証拠としたいと望み、捕虜たちの命を救おうとしたがうまく行かなかったのだという。 ギュリッポスは、父クレアンドリダスと同じように、金銭的なスキャンダルによって失脚した。リュサンドロスから信任を得ていたギュリッポスは、スパルタのエフォロイ(監督官)たちへ銀貨の財宝を届ける仕事を任されたが、誘惑に負けて荷物の一部を横領した。この一件はやがて露見し、ギュリッポスはスパルタを離れて流浪の身となった。欠席裁判で死刑を宣告されたギュリッポスは、その後の歴史記録から姿を消した。.

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グナエウス・ポンペイウス・トログス

ナエウス・ポンペイウス・トログス(Gnaeus Pompēius Trōgus)は、紀元前1世紀ローマの歴史家。『ピリッポス史』(Historiarum Philippicarum、邦訳では『地中海世界史』)の著者。.

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シチリア

チリア島(Sicilia, シチリア語: Sicìlia)は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海最大の島である。 周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。.

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シラクサ

ラクサ(Siracusa)は、イタリア共和国のシチリア島南東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。シラクサ県の県都である。標準イタリア語の発音に近い表記は「シラクーザ」。 古代ギリシャの植民都市シュラクサイに起源を持つ都市で、歴史的な遺跡など、多くの観光スポットがある。2005年には市内および周辺の歴史的建造物や遺跡が「シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡」の名で世界遺産に登録もされている。.

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シケリア遠征

リア遠征は、ペロポネソス戦争中の紀元前415年から紀元前413年にかけてアテナイが実施した、シケリア方面に対する軍事作戦である。 この遠征の目的も命令系統も不確かであり、遠征軍の規模も当初の計画である60隻の船で小部隊を送るというものから、大艦隊と重装歩兵の大部隊派遣にまで拡大した。当初の司令官の一人であったアルキビアデスは、艦隊がシケリアに到着する前に解任され、裁判のために送り返された。それでも初期には成功を収めることができた。このアテナイの脅威に対して、シケリアで最有力の都市であるシュラクサイの反応は非常に鈍く、結果として、スパルタ軍が到着する前にアテナイはシュラクサイを封鎖するための攻城堡塁をほとんど完成していた。スパルタの将軍ギュリッポスは、到着するや否やシュラクサイ市民の行動を促した。この時点からアテナイは主導権を失い、戦争の流れは変わった。アテナイから増援部隊が送られると一旦は優勢を取り戻したが、しかし戦略的に重要な地点での大敗北と幾つかの海戦での敗北は、包囲軍の戦闘能力と士気を低下させ、アテナイ軍は攻略を予定していたシュラクサイから陸伝いに脱出せざるを得なくなった。この試みも失敗し、最終的には遠征軍のほとんどがシケリア内陸部で降伏するか戦死した。 この敗北の影響は大きかった。200隻の軍船と、アテナイ市民のかなりの割合を占める数万人の市民が、この遠征で失われた。ギリシア本土でのアテナイの敵対勢力とペルシア帝国は行動を起こし、エーゲ海でも反乱が発生した。この敗北はペロポネソス戦争の転換点でもあり、これから10年間アテナイは苦しむこととなる。トゥキディデスは、当時のギリシア人はアテナイがシケリアで敗北したことよりも、遠征失敗後にも長期間戦い続け膨大な損害をこうむったことに驚いたと観察している。.

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スパルタ

パルタ(: Σπάρτα / Spártā スパルター、Sparta)は、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。自らはラケダイモーン(Λακεδαίμων / Lakedaimōn)と称した。 古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を誇り、ペルシア戦争ではギリシア軍の主力であった。ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。.

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ソクラテス

ラテス(希:Σωκράτης、ラテン語:Socrates、紀元前469年頃 - 紀元前399年4月27日)は、古代ギリシアの哲学者である。長母音を発音するならソークラテース。妻は、悪妻として知られる、クサンティッペ。 ソクラテス自身は著述を行っていないので、その思想は弟子の哲学者プラトンやクセノポン、アリストテレスなどの著作を通じ知られる。.

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サモス島

モス島(Σάμος / Samos)は、エーゲ海の東部、トルコ沿岸にあるギリシャの島。トルコ語名はスィサム島(Sisam Adası)。 ギリシャ神話の主神ゼウスの正妻である女神ヘーラーの生まれた島とされ、彼女を祭った神殿遺跡は1992年に「サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿」としてユネスコの世界遺産に登録された。エピクロスやピタゴラスの生まれた島でもある。.

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サトラップ

トラップは、古代メディア王国・アケメネス朝ペルシア王国及び、その政治体制を受け継ぐ諸国で用いられた州の行政官を指す称号である。サーサーン朝やヘレニズム要素の強い帝国でも用いられた。太守、総督とも訳される。 サトラップは古代ペルシア語の xšaçapāvan(州の守護者)から来ている。 xšaça が領域や州を示す言葉で、pāvan が守るものという意味である。この語をギリシア語に借用した σατράπης (サトラペース)から語尾を抜いてサトラップという言葉になった。現代ペルシア語でもساتراپ(サートラープ)と表記される。 現在では、超大国・覇権国の動向に極めて強い影響を受ける指導者・行政長官のことを比喩的に「サトラップ」と呼ぶことがある。.

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紀元前404年

紀元前404年は、ローマ暦の年である。当時は、「ウォルスス、コッスス、フィデナス、アムブストゥス、マルギネンシス、ルティルスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元350年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前404年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前406年

紀元前406年は、ローマ暦の年である。当時は、「コッスス、アムブストゥス、コッスス、ポティトゥスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元348年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前406年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前410年

紀元前410年は、ローマ暦の年である。当時は、「マメルキヌスとウオルススが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元344年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前410年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前411年

紀元前411年は、ローマ暦の年である。当時は、「ムギラヌスとルティルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元343年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前411年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前413年

紀元前413年は、ローマ暦の年である。当時は、「コッススとメドゥリヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元341年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前413年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前421年

紀元前421年は、ローマ暦の年である。当時は、「ウイブラヌスとバルバトゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元333年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前421年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前450年

紀元前450年は、ローマ暦の年である。当時は、「第二次十人委員会の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元304年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前302年と表記されるのが一般的となった。.

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衆愚政治

衆愚政治(しゅうぐせいじ、ochlocracy、あるいはmobocracy 、mob rule)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。暴民政治(ぼうみんせいじ)とも呼ばれる。.

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暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

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