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アリ・パシャ

索引 アリ・パシャ

アリ・パシャ(トルコ語:Ali Paşa、英語:Ali Pasha)はオスマン帝国における幾人かの重要人物。「パシャ」は宰相もしくは文武の高官に与えられる称号であり、「アリ・パシャ」は「アリ宰相」「アリ将軍」といった語義となる。.

25 関係: 大宰相宰相ムハンマド・アリーモンテ・クリスト伯レパントの海戦トルコ語パシャテペデレンリ・アリー・パシャアリ・パシャ・モスクアーヤーンアーリ・パシャオスマン帝国クルチ・アリサラエヴォ称号英語1387年1406年1571年1741年1769年1815年1822年1849年1871年

大宰相

大宰相 (トルコ語: Vezir-i AzamまたはSadr-ı Azam(ザドラザム、Sadrazam)またはSerdar-ı Ekrem、オスマン帝国時代にはصدر اعظم または وزیر اعظم)は、オスマン帝国における最上位の官位で、ペルシャ語のヴェズィール (vizier、وزير、宰相の意)に由来する。また、ヴェズラザム (Vizrazam)、ヴェズザラム と呼ばれる場合もある。英語では、Grand Vizierと呼ぶ。支配構造上ではスルタンの直下に位置し、スルタンの絶対権力を代行する立場であり、原理的にはスルタン以外からは罷免されない。オスマン帝国運営の実務を担い、政務にあたって他の宰相を招集することができた。宮廷内の御前会議 (en) は、その開かれていた場所がトプカプ宮殿内の聖堂内 (Kubbealtı) であったことから、「聖堂宰相」(Kubbealtı viziers、英: under the dome visiers) と呼ばれた。また大宰相の公邸はバーブ・アーリー(大宰相府、en)と呼ばれた。大宰相 (Vazīr-e Azam) はまた、パキスタンの首相を指すウルドゥー語でもある(大臣一般は "vizier")。 オスマン帝国の成立してまもない頃には大宰相と言う名称はなく、宰相 (Vizier) とだけ呼ばれていた。その中で最初に大宰相と呼ばれたのはチャンダルル家出身のハイレッディン・パシャ (en) である。大宰相という位は、宰相の中でスルタンの代行者とその他の宰相を峻別するために設けられた。初めのうちはヴェズィール・イ・アーザム (vezir-i âzam) と呼ばれることが多かったが、次第にサドラザム (sadrazam) と呼ばれるようになった。どちらも意味としては同じである。大宰相はまた、オスマン帝国の歴史を通じてサドル・イ・アーリー (sadr-ı âlî、英: 'high vizier')、ベキル・イ・ムトラク (vekil-i mutlak、英: 'absolute attorney')、サーヒブ・イ・デヴレト (sâhib-i devlet、英: 'holder of the state')、セルダル・イ・エクレム、セルダル・イ・アザム、ザート・イ・アーサフィ (zât-ı âsafî、英: 'vizieral person') などと呼ばれた。 キョプリュリュ時代 (en)(1656年 – 1703年) には、歴代の大宰相がオスマン帝国の実権を握っていた。この時代には、スルタンの権力は弱められ、それが支配階級の下位に分散していた。 タンジマートの後、19世紀のオスマン帝国では、大宰相は現代の西洋国家政府における首相に近い役割を果たすようになった。.

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宰相

この項では宰相(さいしょう)について記述する。.

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ムハンマド・アリー

ムハンマド・アリー・パシャ(, 1769年? - 1849年8月2日)は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年 - 1849年)。メフメト・アリー(Mehmet Ali)ともいう。 エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至る。 最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父山口2006、26頁。、エル・キビール(大王)山口2006、104頁。と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。.

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モンテ・クリスト伯

モンテ・クリスト伯 『モンテ・クリスト伯』(モンテ・クリストはく、)は、アレクサンドル・デュマ・ペールによる小説。 日本では『巌窟王』の名称でも知られている。.

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レパントの海戦

レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。 スペイン王国は、支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。この海戦は西ヨーロッパ史において初めての大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。レパントの海戦は、ガレーが主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。.

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トルコ語

トルコ語(トルコご、)は、アゼルバイジャン語やトルクメン語と同じチュルク諸語の南西語群(オグズ語群)に属する言語。.

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パシャ

パシャ(paşa)は、オスマン帝国の高官、高級軍人の称号。語源は不明だが、ペルシア語の「パーディシャー(大王)」に由来するとする説、トルコ語の「バシュ・アガ(長兄)」に由来するとする説などがある。 トルコ人男性の名前の一部に用いられることもあるが、普通には15世紀頃からオスマン帝国においてヴェズィール(宰相)やベイレルベイ(州総督)の官職を持つ高級官僚に与えられるようになり、称号として使われた。 近代に入ってからも、首相や大臣、州知事、将官クラスの高級軍人の称号として用いられた。ムスタファ・ケマル・パシャなどのオスマン帝国末期に与えられたパシャの称号は、オスマン帝国滅亡後のトルコ共和国でもそのまま敬称として使われていたが、1934年に公式称号として廃止されて使われなくなった。 エジプト州知事など、パシャの称号をもつ州知事の官職を指してパシャと呼ぶこともある。.

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テペデレンリ・アリー・パシャ

テペデレンリ・アリ・パシャ(トルコ語:Tepedelenli Ali Paşa、1741年(1744年とも) – 1822年1月24日)は、オスマン帝国時代のバルカン半島南西部を治めた領主(アーヤーン)。半独立の専制君主としてふるまい、その勢力はヤニナ(現:ギリシャ領ヨアニナ)を中心として、現在のアルバニア・ギリシャにまたがる地域に広がっていた。.

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アリ・パシャ・モスク

アリ・パシャ・モスク(ボスニア語:Alipašina džamija)は、1560年から1561年にかけて、オスマン帝国のブダペスト地区の統治者(ベグレルベグ)、(後に、1580–1867)の知事(パシャルク)であったハディム・アリ・パシャの遺産(vakuf)としてボスニアのサラエヴォに建てられたモスクである。今日のボスニア・ヘルツェゴビナ、サラエヴォ県のツェンタルにある。 モスクはイスタンブールの典型的な建築に倣って建てられている。中央の大きいドーム型の天井は礼拝の場を覆い、小さい3つのドームは回廊の上を覆っている。建物の枠組みには、2つのドーム型の墓地があり、それぞれ、1915年にアラドで死去した2人のガイレット活動家アヴド・スンブル(Avdo Sumbul)とベフジェト・ムテヴェリッチ(Behdžet Mutevelić)の石棺である。 アリ・パシャ・モスクは1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中、セルビア人勢力によるサラエヴォ包囲によって激しく損壊した。モスクの復興は段階的に続けられており、国立記念物保存委員会はアリ・パシャ・モスクをボスニア・ヘルツェゴビナの国家的記念物に加えることを決定した.

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アーヤーン

アーヤーンとは、18世紀以降のオスマン帝国において、中央政府に対し半ば独立した勢力を維持した地方有力者を指す。日本語では「地方名士」「地方名望家」などと訳される。ただしオスマン帝国において狭義には、行政・軍事・宗教等における階級組織の地位や財産を保持する人びとを指し、富裕な都市民や地主などもこの範疇に入る。.

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アーリ・パシャ

改革勅令起草の中心人物、アーリ・パシャ メフメト・エミン・アーリ・パシャ(Mehmed Emin Âli Paşa, 1815年2月5日 - 1869年9月7日)はオスマン帝国末期、「タンジマート(恩恵改革)の時代」の政治家、外交官。アーリー・パシャ、アリ・パシャなどとも表記する。実務官僚(キャーティプ)出身山内(1996)pp.176-179オスマン帝国のキャーティプたちは、帝国の近代化と富国強兵に大きな役割を担ったが、必ずしも経済に明るいとはいえなかった。山内(1996)pp.178-179。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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クルチ・アリ

ルチ・アリ・パシャ(Kılıç Ali Paşa)(1519年 – 1587年6月21日) は、オッキアーリ(Occhiali)、ウルグ・アリ・レイース (Uluç Ali) 、ウルグ・アリ・パシャとも呼ばれる人物で、バルバリア海賊のひとりである。後にオスマン帝国海軍の将 (レイース)、のベイレルベイ、最終的に16世紀オスマン帝国海軍における(大提督)となった。 Giovanni Dionigi Galeniとして生まれた彼は、地中海盆地一帯のキリスト教諸国においては幾つかの別名で知られており、文学作品の中でも様々な名前で登場する。ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(Don Quixote de la Mancha)』第39章では、Uchaliと呼ばれている。単にアリ・パシャとのみ呼称される事もある。John Wolfはその著作The Barbary Coastにおいて、彼をEuldj Aliとしている。.

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サラエヴォ

ラエヴォ (ボスニア語:Sarajevo 、クロアチア語:Sarajevo、セルビア語:Сарајево)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、同国で最大の人口をもつ都市である。ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもある。 日本語表記においては、一般に「サラエボ」や「サライェヴォ」 などの表記も多く見られる(以下、本項では「サラエヴォ」とする。呼称と表記も参照)。 2011年8月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォ県に属する4つの自治体の人口は併せて311,161人である。サラエヴォはまた、サラエヴォ県の県都でもある。サラエヴォはボスニア地方のサラエヴォ渓谷のなかにあり、ディナール・アルプスに取り囲まれ、ミリャツカ川周辺に広がっている。サラエヴォの町は宗教的な多様性で知られており、イスラム教、正教会、カトリック教会、ユダヤ教が何世紀にもわたって共存してきた。旅行ガイドブックのロンリープラネットでは、「世界の都市」ランキングにおいてサラエヴォを43位にランクしている。これは、同じ旧ユーゴスラビア諸国の観光都市であるドゥブロヴニクの59位、リュブリャナの84位、ブレッドの90位、ベオグラードの113位、ザグレブの135位を上回る。 サラエヴォに隣接して、ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつであるスルプスカ共和国の首都であるイストチノ・サラエヴォ(東サラエヴォ)がある。現在のイストチノ・サラエヴォの市域には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争前のサラエヴォの市域の一部が含まれている。 この地域に人が居住を始めたのは先史時代にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは15世紀のオスマン帝国の統治下でのことであった。オーストリア=ハンガリー帝国に併合されたのちもボスニアの州都と位置付けられたサラエヴォは、近代以降の何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。1914年にはこの地はオーストリア帝位継承者の暗殺事件の現場となり、この事件によって第一次世界大戦が引き起こされた。1984年にはサラエヴォは1984年冬季オリンピックの会場となり、さらに後のユーゴスラビア崩壊のときには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において数年間にわたるセルビア人勢力による包囲を受けた。現在のサラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている。サラエヴォはヨーロッパで初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車が運行された町である終日運行の路面電車の世界初はアメリカ合衆国のサンフランシスコであった。 Lonely Planet: Best Cities in the World。.

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称号

号(しょうごう、英語:Title)とは、主に個人または団体の公的な身分や資格、地位などを表す呼び名。.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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1387年

記載なし。

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1406年

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1571年

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1741年

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1769年

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1815年

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1822年

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1849年

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1871年

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