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1985年ウィンブルドン選手権

索引 1985年ウィンブルドン選手権

1985年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1985)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1985年6月24日から7月7日にかけて開催された。.

59 関係: ミロスラフ・メチージュマルチナ・ナブラチロワマッツ・ビランデルマニュエラ・マレーバマイケル・チャンハナ・マンドリコワハインツ・ギュンタードヤニック・ノアヨハン・クリークロンドンボリス・ベッカーボニー・ガドゥセクトマシュ・スミッドヘレナ・スコバパム・シュライバーパット・キャッシュピート・サンプラスティム・メイヨットドイツアンリ・ルコントアンダース・ヤリードアーロン・クリックステインイワン・レンドルイギリスウィンブルドン選手権ウェンディ・ターンブルエリザベス・スマイリーオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブカーリン・バセット=セグソカタリナ・リンドクイストガブリエラ・サバティーニキャシー・リナルディキャシー・ジョーダンクラウディア・コーデ=キルシュクリス・エバートグランドスラム (テニス)ケン・ローズウォールケビン・カレンシュテフィ・グラフジミー・コナーズジョン・マッケンロージョン・フィッツジェラルド (テニス選手)ジーナ・ガリソンステファン・エドベリ全仏オープン全米オープン (テニス)全豪オープン国際テニス連盟1953年オーストラリア選手権 (テニス)1983年ウィンブルドン選手権...1984年ウィンブルドン選手権1985年1985年全仏オープン1985年全米オープン (テニス)1986年ウィンブルドン選手権1989年全仏オープン1990年全米オープン (テニス)6月24日7月7日 インデックスを展開 (9 もっと) »

ミロスラフ・メチージュ

ミロスラフ・メチージュ(Miloslav Mečíř, 1964年5月19日 - )は、チェコスロバキア、ボイニツェ(現スロバキア領)出身の元男子プロテニス選手。1988年のソウル五輪で男子シングルスの金メダルを獲得した。1986年の全米オープンと1989年の全豪オープンで、4大大会に2度の準優勝がある。どちらも決勝戦でイワン・レンドルに敗れた。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス4位。ATPツアーでソウル五輪金メダルを含むシングルス11勝、ダブルス9勝を挙げた。身長190cm、体重81kg、右利き。.

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マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。 1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。 2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。.

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マッツ・ビランデル

マッツ・ビランデル(Mats Wilander、1964年8月22日 - )は、スウェーデン・ヴェクショー出身の元男子プロテニス選手。ビョルン・ボルグ、ステファン・エドベリと並んで、スウェーデンの男子テニス界の黄金期を築いた3強豪のひとりである。4大大会でシングルス通算「7勝」を挙げ、ダブルスでも1986年のウィンブルドンで優勝した。彼は4大大会男子シングルスで、クレーコート・芝コート・ハードコート、すべてのサーフェスを制した史上2人目の選手でもある(現在まで、ジミー・コナーズ、ビランデル、アンドレ・アガシ、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチの6人のみが達成した)。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス33勝、ダブルス7勝を挙げた。右利きの選手。.

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マニュエラ・マレーバ

マニュエラ・マレーバ・フラニエール(Manuela Maleeva-Fragniere、Мануела Малеева, 1967年2月14日 - )は、ブルガリア・ソフィア出身の元女子プロテニス選手。姉妹プロテニス選手として有名な「マレーバ3姉妹」(マニュエラ、カテリナ、マグダレナ)の長女である。スイス人であるコーチのフランソワ・フラニエール(Francois Fragniere)と結婚して、国籍もブルガリアからスイスに移住した。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス19勝、ダブルス4勝を挙げる。日本でも4つのトーナメントで優勝した。.

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マイケル・チャン

マイケル・ターペイ・チャン(Michael Te-Pei Chang, 中国語名:張德培(Zhāng Dépéi), 1972年2月22日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ホーボーケン出身の元男子プロテニス選手。台湾系アメリカ人。右利き。バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高ランキングは2位。グランドスラム優勝1回、準優勝3回。ATPマスターズシリーズ優勝7回。テニス・マスターズ・カップに7度出場し1995年に準優勝を果たした。 男子シングルスグランドスラム最年少優勝記録保持者(17歳3ヶ月)。アジアにルーツを持つ男子選手として唯一のグランドスラム優勝者。 台湾系アメリカ人の選手で、男子テニス選手としては身長175センチの小柄な身体であるが、世界でも屈指のストロークプレーヤーであった。驚異的なフットワークと、発想豊かなゲームメイキング力を持ち味とした。ATPツアーでシングルス34勝を挙げた。 現在、錦織圭のコーチを務めている。.

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ハナ・マンドリコワ

ハナ・マンドリコワ(Hana Mandlíková, 1962年2月19日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、4大大会女子シングルス「4勝」を挙げた名選手である。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス7位。WTAツアーでシングルス27勝、ダブルス19勝を挙げた。当時の女子テニス界の2巨頭であったクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワの壁に挑み続けた選手の筆頭に位置している。.

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ハインツ・ギュンタード

ハインツ・ギュンタード(Heinz Günthardt, 1959年2月8日 - )は、スイス・チューリッヒ出身の元男子プロテニス選手。現役選手時代はダブルスの名手としてよく知られ、ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス30勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス3位。ダブルスでは、ハンガリーのバラージュ・タロツィと組んで多くの好成績を出した。現役引退後、ギュンタードはシュテフィ・グラフのコーチとして有名になった。 前年にモニカ・セレシュ(当時ユーゴスラビア)に世界ランキング1位の座を奪われたシュテフィ・グラフの父親、ペーター・グラフからのオファーを受け、この年の初めからグラフのコーチに就任する。以降グラフは1999年に引退するまで、4大大会において12勝を挙げる。 ギュンタードは当時不調に陥っていたグラフに対し、「ストロークのバリエーションを増やすよりも、今ある物の質を高めるべきだ」という観点から、持ち味であったバックハンドのスライス(逆回転の球)をさらに強化することにした。この結果、グラフは以前は普通に使っていたバックハンドのトップスピンをごく限られた場面でしか打たなくなった。 グラフの引退後は、エレナ・ドキッチ(セルビア)、アナ・イバノビッチ(セルビア)のコーチを務めたこともある。.

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ヤニック・ノア

ヤニック・ノア(Yannick Noah, 1960年5月18日 - )は、フランス・スダン出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス23勝、ダブルス16勝を挙げた。身長193cm、体重81kg、右利き。 1983年の全仏オープン男子シングルス優勝者で、フランス人の男子選手としては現時点で最後のグランドスラム大会シングルス優勝者である。 サービス・アンド・ボレーのプレースタイルを得意とした選手で、華麗なパフォーマンスで高い人気を持っていた。 2015年9月よりデビスカップフランス代表監督に就任。.

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ヨハン・クリーク

ヨハン・クリーク(Johan Kriek, 1958年4月5日 - )は、南アフリカ・ポンゴラ出身の元男子プロテニス選手。1981年と1982年の全豪オープン男子シングルスで2連覇を達成した選手である。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス12位。ATPツアーでシングルス14勝、ダブルス8勝を挙げた。同国のライバル選手、ケビン・カレンとは年齢も同じ親友である。身長175cm、体重76kg、右利き。.

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ロンドン

ンドン(London )はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国およびこれを構成するイングランドの首都。イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2,000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に当たる地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイルあり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンは市街地の大部分はコナベーションにより形成されている 。ロンドンを管轄するリージョンであるグレーター・ロンドンでは、選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われている。 ロンドンは屈指の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力がある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2009年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界で最も来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界で最も航空旅客数が多い。欧州では最も高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。2012年のロンドンオリンピック開催に伴い、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。 ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7%を占めている。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる8,278,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1200万人から1400万人に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界で最も外国人旅行者が訪れる都市である。 イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。.

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ボリス・ベッカー

ボリス・ベッカー(Boris Becker, 1967年11月22日 - )は、旧西ドイツ・ライメン出身の元男子プロテニス選手。プロ・ポーカー・プレーヤー。2歳年下のシュテフィ・グラフとともに、ドイツのテニス界の黄金時代を築いたスター選手だった。4大大会通算「6勝」を挙げる。ATPツアーでは、シングルスで4大大会6勝を含む49勝、ダブルスで15勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス6位。フルネームは Boris Franz Becker (ボリス・フランツ・ベッカー)という。 2008年よりプロのポーカー・プレーヤーとしてのキャリアをスタートさせた。またオンライン・ポーカーを運営する会社と既にスポンサー契約を結んでいる。.

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ボニー・ガドゥセク

ボニー・ガドゥセク(Bonnie Gadusek, 1963年9月11日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグ出身の元女子プロテニス選手。体操競技の練習中に段違い平行棒から転落し、首を骨折する大けがを乗り越えて、プロテニス選手に転向し、1985年にシングルス自己最高ランキング「8位」まで到達した選手である。WTAツアーでシングルス5勝、ダブルス3勝を挙げた。 ガドゥセクは体操競技選手を志望し、幼少時代はバレエも習っていたが、13歳の時に段違い平行棒から転落し、首を骨折する大けがをした。全治6ヵ月を要したけがのため、医師から「もう体操競技はできない」と告げられた後、姉妹からテニスのラケットをもらい、そこからテニスに転向する。彼女は50人のテニスコーチに、体操競技のけがのことを述べて「私にテニスを教えてください」という趣旨の手紙を書いたが、それを受け入れたのがハリー・ホップマンだった。ホップマンは彼のテニスキャンプで、ガドゥセクに無償でテニスを教えた。初めてのテニス・トーナメントに出場した時、ガドゥセクはまだ首回りにギプスをつけていたという。そのような逆境を乗り越えて、彼女は1981年全仏オープンのジュニア女子シングルスで優勝し、この年からプロテニス選手になった。 プロ転向の翌年、ガドゥセクは1982年全米オープンで初のベスト8に入り、第2シードのクリス・エバート・ロイドから第1セットを奪う健闘を見せたが、この試合では 6-4, 1-6, 0-6 で敗れた。1984年1月末に「マルコ・アイランド」大会で女子ツアー大会のシングルス初優勝を果たす。彼女の全盛期は1985年に訪れ、この年に女子ツアー大会でシングルス4勝を挙げ、そのうち2大会で単複2冠を獲得した。1985年末に日本を訪れ、第2回「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」で準優勝したこともある。第4シードのガドゥセクは、決勝でマニュエラ・マレーバに 6-7, 6-3, 5-7 で敗れた。このトーナメントが、彼女の最後のツアー決勝戦になる。1984年から1985年にかけて、彼女は女子テニスの世界ランキングトップ10位以内に名前を連ねた。 1986年全米オープンで、ボニー・ガドゥセクは4年ぶり2度目の準々決勝に勝ち進み、第3シードのシュテフィ・グラフに 3-6, 1-6 で敗れた。この全米準々決勝が、彼女の最後の活躍になる。テニスに転向したいきさつである体操競技のけがの後遺症に加えて、1984年に患った低血糖症などもあり、彼女の体力は短期間で低下していった。1987年に24歳で現役を引退した後は、パーキンソン病のための国際広報活動など、難病を患う人々のためのボランティア活動を精力的に行っている。.

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トマシュ・スミッド

トマーシュ・シュミート(Tomáš Šmíd, 1956年5月20日 - )は、チェコスロバキア(現チェコ)・ピルゼン出身の元男子プロテニス選手。現役選手時代はダブルスの名手としてよく知られ、ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス55勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス11位、ダブルス1位。ダブルスでは、チェコのパベル・スロジル、ミロスラフ・メチージュなどと組んで多くの好成績を出した。現役引退後、スミッドはボリス・ベッカーほか多数のプロ選手のコーチになった。 あまり知られていない話に、当時チェコスロバキアでは徴兵があり(とはいえ、トップクラスのスポーツ選手の場合は、単に『籍を置いていた』という程度であるが)、スミッドも陸軍で兵役に就いたことがある。この時に新兵として入ってきたのが、後に男子テニスの世界ランキング1位になるイワン・レンドルであった。.

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ヘレナ・スコバ

ヘレナ・スコバ(Helena Suková, 1965年2月23日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。4大大会の女子シングルスで4度の準優勝があり、全豪オープンで2度、全米オープンで2度ずつの準優勝に終わった。オリンピックでも、1988年ソウル五輪と1996年アトランタ五輪で2個の女子ダブルス銀メダル獲得がある。当時のチェコスロバキアでも名門のテニス一家に育ち、母親のベラ・スコバ(1931年 - 1982年)も1962年のウィンブルドン準優勝の経歴を持つ名選手だった。父親のシリル・スーク(Cyril Suk)は長年「チェコスロバキア・テニス連盟」の会長を務めた人である。弟のシリル・スーク3世(シリル・スーク・ジュニアとも呼ばれる)もプロテニス選手で、ダブルスのスペシャリストとしてよく知られている。.

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パム・シュライバー

パメラ・ハワード・シュライバー(Pamela "Pam" Howard Shriver、1962年7月4日 - )は、アメリカ・メリーランド州ボルチモア出身の元女子プロテニス選手。1978年の全米オープン女子シングルス準優勝者で、ダブルスの名手として一時代を築いた名選手である。WTAツアーでシングルス21勝、ダブルス111勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。.

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パット・キャッシュ

パット・キャッシュ(Pat Cash, 1965年5月27日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の元男子プロテニス選手。1987年のウィンブルドン男子シングルス優勝者である。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス6位。ATPツアーで1987年ウィンブルドンを含むシングルス7勝、ダブルス12勝を挙げる。右利き。強靭なリスト(手首)を生かしたバックハンド・ストロークを特徴とした。フルネームは Patrick Hart Cash (パトリック・ハート・キャッシュ)。.

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ピート・サンプラス

ピーター・"ピート"・サンプラス(Peter "Pete" Sampras, 1971年8月12日 - )は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランクは1位でありテニス史上に残る名選手である。 4大大会優勝数14回はロイ・エマーソンを抜き当時歴代1位記録(現在歴代3位)。ウィンブルドン選手権優勝7回は歴代2位タイ記録、全米オープン優勝5回はオープン化以降歴代1位タイ記録。1993年から1998年まで年間最終ランキング1位6年連続は歴代1位記録。.

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ティム・メイヨット

ティム・メイヨット(Tim Mayotte, 1960年8月3日 - )は、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールド出身の元男子プロテニス選手。1988年のソウル五輪で男子シングルスの銀メダルを獲得した選手で、1980年代にアメリカを代表する選手の1人として活動した。4大大会ではウィンブルドン選手権を最も得意にした。シングルス自己最高ランキングは7位。ATPツアーでシングルス12勝、ダブルス1勝を挙げた。身長190cm、体重84kg、右利き。 1979年にプロ入り。1981年にウィンブルドンと全豪オープンでベスト8に進出し、1982年にウィンブルドンで初の準決勝進出を果たす。メイヨットは準々決勝で1980年全豪オープン優勝者ブライアン・ティーチャーに競り勝ったが、初めての準決勝ではジョン・マッケンローに 3-6, 1-6, 2-6 で完敗した。1983年にウィンブルドンで3年連続のベスト8に入った後、当時は11月の年末開催だった全豪オープンでも初めてベスト4に進んだが、この準決勝ではイワン・レンドルに 1-6, 6-7, 3-6 のストレートで敗れた。メイヨットの4大大会成績は、1982年ウィンブルドンと1983年全豪オープンの2度の準決勝進出が最高であるが、その後も安定した好成績を維持した。しかしメイヨットのツアー初優勝は比較的遅く、1985年2月にアメリカ・フロリダ州デルレイビーチ大会の決勝でスコット・デービス(同じくアメリカ)を 4-6, 4-6, 6-3, 6-2, 6-4 の逆転で破った勝利が彼の初栄冠だった。1987年にメイヨットは男子ツアーで5つのシングルス・タイトルを獲得したが、4大大会ではいくらか低迷気味だった。 オリンピックにおけるテニス競技は、1928年のアムステルダム五輪以後、プロ選手の登場により除外されていた。しかし1988年のソウル五輪でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。その記念すべき大会で、メイヨットは準決勝で同じアメリカ代表のブラッド・ギルバートを破ったが、決勝戦ではチェコスロバキア代表のミロスラフ・メチージュに 6-3, 2-6, 4-6, 2-6 で敗れ、復活金メダルの第1号を逃した。オリンピック銀メダルの年、メイヨットは4つのツアー大会で優勝し、この年に世界ランキングの自己最高位「7位」をマークした。 オリンピック銀メダルの翌年、1989年にメイヨットはウィンブルドンと全米オープンの2大会連続でベスト8に進出する。ウィンブルドンのベスト8は通算6度目であったが、全米オープンでは29歳にしてようやく自己最高成績を出した。この大会では4回戦で当年度の全仏オープン優勝者マイケル・チャンに快勝したが、初めての準々決勝では第1シードのイワン・レンドルに 4-6, 0-6, 1-6 で一方的な完敗に終わった。しかし1990年に入ると、メイヨットのテニス成績は下降線をたどり始める。1991年の全米オープン1回戦敗退が、彼の最後の4大大会出場になった。ソウル五輪の銀メダルで印象を残したティム・メイヨットは、1992年2月にアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア大会の1回戦敗退を最後に31歳で現役を引退した。.

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ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

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アンリ・ルコント

アンリ・ルコント(Henri Leconte, 1963年7月4日 - )は、フランス・パ=ド=カレー県リレ出身の元男子プロテニス選手。1988年の全仏オープンテニス男子シングルス準優勝者。左利き。バックハンドは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス6位。ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス10勝を挙げた。 1980年に地元全仏オープンの男子ジュニアシングルス部門で優勝し、プロ選手に転向。1984年には同じフランスのヤニック・ノアとペアを組み、全仏オープンのダブルス優勝を果たしている。1988年全仏オープンでシングルス決勝進出を果たしたが、マッツ・ビランデルに 5-7, 2-6, 1-6 のストレートで完敗。1983年のヤニック・ノア以来となる、地元フランス人選手としての全仏オープン優勝を逃した。ルコントがこのチャンスを逃した後、フランス人の男子テニス選手で4大大会のシングルスに優勝した選手は誰もいない。全仏オープンでは2年後の1990年にも好成績があるが、この時はヨナス・スベンソン(スウェーデン)に準々決勝で敗退している。男子国別対抗戦・デビスカップのフランス代表としては、生涯通算「41勝25敗」の成績を残した。 ルコントは好不調時の差が大きい選手で、好調な時は世界ランク1位の選手にも勝てるが、不調な時は世界ランク200位以下の選手に負けてしまうと言われた。実際、スーパーショットでエースを奪う反面、簡単に決められそうなボールをミスショットすることも見受けられた。 ルコントは現役生活の間に2度の手術を克服し、1993年6月にドイツ・ハーレの芝生コートの大会でキャリア最後の優勝を飾った。1996年に33歳で現役を引退し、現在はスイスのジュネーヴに在住している。.

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アンダース・ヤリード

アンデシュ・ペル・ヤリード(Anders Per Järryd, 1961年7月13日 - )は、スウェーデン・出身の元男子プロテニス選手。1980年代から1990年代前半にかけて活躍し、スウェーデンの男子プロテニス界の最盛期をリードした選手のひとりである。ヤリードは優れたダブルス選手として、男子ダブルスですべての4大大会でのタイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス8勝、ダブルスで4大大会「8勝」を含む59勝を挙げた。.

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アーロン・クリックステイン

アーロン・クリックステイン(Aaron Krickstein, 1967年8月2日 - )は、アメリカ・ミシガン州アナーバー出身の元男子プロテニス選手。1989年の全米オープンと1995年の全豪オープンで、2度4大大会の男子シングルス準決勝に進出した実力者である。シングルス自己最高ランキングは6位。ATPツアーでシングルス9勝を挙げた。身長182cm、体重72kg、右利き。クリックステインは現役時代、ステファン・エドベリ・イワン・レンドルやアンドレ・アガシとの対戦が多かった。 1983年にプロ入りし、同年の全米オープンで4大大会にデビュー。クリックステインは1回戦でいきなりステファン・エドベリを破って波に乗り、3回戦でもビタス・ゲルレイティスを破って注目を集め、当年度の全仏オープン優勝者ヤニック・ノアとの4回戦まで進出した。1ヶ月後の10月第2週にイスラエル・テルアビブ大会にて、「16歳2ヶ月13日」でプロ初優勝を達成。これは今日に至るまで、男子プロテニス協会ツアー大会の最年少優勝記録として残っている。1985年にクリックステインは初めて男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、「ワールドグループ」1回戦の対日本戦で白石正三と丸山薫の両選手を破った。1987年後半に左脛骨の骨折で戦線を離脱したこともあるが、1988年に初めて全米オープンの準々決勝に勝ち上がり、同じアメリカのダレン・カーヒルにフルセットで惜敗する。1989年にクリックステインはキャリアの最盛期を迎え、全米オープンで自己最高の準決勝進出を果たすが、第2シードのボリス・ベッカーに 4-6, 3-6, 4-6 のストレートで完敗した。全米オープン4強進出の後、10月に日本の「セイコー・スーパー・テニス」で優勝する。セイコーでのクリックステインは準決勝でステファン・エドベリを 2-6, 7-6, 7-6 の逆転で破った後、決勝でカール・ウーベ=シュテープ(西ドイツ)に 6-2, 6-2 で圧勝した。 この後、アメリカの男子プロテニス界はアンドレ・アガシ、ピート・サンプラス、ジム・クーリエといった若手選手の活躍で盛り上がるようになり、先輩選手のクリックステインはやや影の薄い存在になった。デビスカップでも1990年の「ワールドグループ」準々決勝を最後に、アメリカ代表選手としての起用がなくなってしまう。1990年は4月の「サントリー・ジャパン・オープン」でステファン・エドベリに敗れた準優勝があった。全米オープンの4強進出から6年後、1995年の全豪オープンでクリックステインは2度目の4大大会準決勝進出を果たす。この時は世界ランキング45位のノーシード選手に落ちていたが、クリックステインは3回戦でペトル・コルダ、4回戦でステファン・エドベリ、準々決勝でヤッコ・エルティンを破って勝ち進んだ。6年ぶりの大舞台で、クリックステインは親友のアンドレ・アガシと対戦中に 4-6, 4-6, 0-3 で途中棄権を余儀なくされた。全米オープンや全豪オープンに比べると、ウィンブルドンはあまり得意ではなかったクリックステインだが、1995年ウィンブルドンではエフゲニー・カフェルニコフとの4回戦まで勝ち進んでいる。1996年全豪オープンの1回戦敗退が、彼の最後の4大大会出場となった。1996年4月、クリックステインはアメリカ・ミシガン州ウェスト・ブルームフィールド大会の1回戦敗退を最後に現役を引退した。 2007年の「クラフト・ナビスコ選手権」優勝者になった女子プロゴルファーのモーガン・プレッセルは、クリックステインの姪にあたる。2001年の全米女子オープンゴルフで、当時12歳のプレッセルが初めて予選会を通過した時、おじのクリックステインがプレッセルのゴルフバッグをかついだ場面が話題になった。.

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イワン・レンドル

イワン・レンドル(Ivan Lendl, 1960年3月7日 - )は、チェコスロバキア・オストラヴァ出身の元男子プロテニス選手、テニス指導者。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。グランドスラム通算8勝の男子テニス歴代9位タイ記録、ATPツアーのシングルスでいずれも男子歴代2位のツアー94勝、シングルス1071勝などの大記録を持つ。 1980年代の男子テニス界に長らく王者として君臨し、ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンローらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。 世界ランキング1位連続在位記録「157週」は当時歴代2位(現在歴代3位)。また世界ランキング通算在位記録「270週」は当時の歴代1位記録を樹立した。現在もフェデラー(302週)、サンプラス(286週)に次ぐ歴代3位記録。 レンドルは現役時代から大のゴルフ好きであり(ただしゴルフだけは左打ち)、ミュシャの蒐集家としても知られる。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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ウィンブルドン選手権

ウィンブルドン選手権(ウィンブルドンせんしゅけん、英語:The Championships, Wimbledon)は、イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの四大国際大会の一つである。.

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ウェンディ・ターンブル

ウェンディ・ターンブル(Wendy Turnbull, 1952年11月26日 - )は、オーストラリア・ブリスベン出身の元女子プロテニス選手。主に1970年代後半から1980年代に活躍した選手で、素速いフットワークから“Rabbit”(ラビット)というニックネームで呼ばれた。しかし4大大会の女子シングルスで3度の準優勝に終わり、1977年全米オープン、1979年全仏オープン、1980年全豪オープンの決勝戦で敗れた。WTAツアーでシングルス13勝、ダブルス55勝を挙げた。 ターンブルは15歳で学校をやめ、4年間の銀行勤務を経てテニス選手になった。1975年にプロ入り。1976年に日本の「ジャパン・オープン」で優勝している。最初のチャンスは1977年の全米オープンで訪れ、ターンブルは準々決勝で当年度のウィンブルドン優勝者バージニア・ウェード(第3シード、イギリス)、準決勝で第2シードのマルチナ・ナブラチロワを連破して初めての4大大会決勝に進んだが、第1シードのクリス・エバートに 6-7, 2-6 で敗れて準優勝になった。全米オープンでは、翌1978年も準決勝でエバートに敗れる。2度目のチャンスとなった1979年全仏オープンでも、決勝戦で同じエバートの壁にぶつかり、2-6, 0-6 の完敗で2度目の準優勝になっている。 1980年のシーズンは全体的に好調で、全仏オープンとウィンブルドンでともにベスト8進出を果たした後に、年末開催の全豪オープンで3度目の4大大会決勝進出を決めた。(注:当時は全豪オープンの開催時期が何度も変わり、1977年に1月開催・12月開催と2度行われたのちに、1978年-1985年までは12月の年末開催で行われていた。)ターンブルは準決勝で第1シードのマルチナ・ナブラチロワを破ったが、決勝で当時18歳の新鋭ハナ・マンドリコワに 0-6, 5-7 で敗れ、またしても優勝のチャンスを逃した。その後は全豪オープンで1981年と1984年、全米オープンで1984年に準決勝進出がある。シングルスでは1989年ウィンブルドンの2回戦敗退が最後の試合になった。 ウェンディ・ターンブルはダブルスの名手として、女子テニスツアーで通算55勝を記録した。4大大会でも女子ダブルスは4勝、混合ダブルスは5勝を挙げている。1978年のウィンブルドンで、ターンブルは同じオーストラリアのケリー・レイドとペアを組み、ミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)&バージニア・ルジッチ(ルーマニア)組を 4-6, 9-8, 6-3で破って初優勝を飾った。1979年はオランダのベティ・ストーブとペアを組み、全仏オープンと全米オープンで年間2冠を獲得する。1982年には全米オープンの女子ダブルスで、ベテランのロージー・カザルスと組んで3年ぶり2度目の優勝を果たした。1988年のソウル五輪では、オーストラリア代表選手として女子ダブルスに出場し、エリザベス・スマイリーと組んで銅メダルを獲得している。混合ダブルスでは、ターンブルはジョン・ロイド(クリス・エバートの元夫として有名な人)と相性が良く、1982年から1984年までウィンブルドンの混合ダブルス決勝に3年連続で進出した。ターンブルは1989年夏にシングルスから引退した後も、ダブルスでは1990年まで現役を続行した。 ターンブルは現役生活を通じて、クリス・エバートの厚い壁をどうしても破れなかった選手の1人である。2人の対戦成績はエバートの「21勝1敗」で終わった。マルチナ・ナブラチロワとは「5勝29敗」の対戦成績を残している。エバートとナブラチロワの2強豪と同年代に活動した女子プロテニス選手たちにとって、2人の壁を破ることがいかに至難であったか、ターンブルの3度の準優勝はその難しさを物語る1つの記録と言えるだろう。.

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エリザベス・スマイリー

リザベス・スマイリー(Elizabeth Smylie, 1963年4月11日 - )は、オーストラリア・パース出身の元女子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られている。自己最高ランキングはシングルス20位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルスは3勝と少ないが、ダブルスで35勝を挙げた。フルネームはエリザベス・セイヤーズ・スマイリー(Elizabeth Sayers Smylie)という。旧姓エリザベス・セイヤーズ(Elizabeth Sayers)というが、コーチのピーター・スマイリー(Peter Smylie)との結婚後は夫の姓だけを使用して「エリザベス・スマイリー」と名乗った。リズ(Liz)という愛称で親しまれ、リズ・スマイリーと呼ばれることも多かった。 エリザベス・セイヤーズの競技経歴は、1980年末の全豪オープンから始まる。1983年の全米オープン混合ダブルスで、セイヤーズは同じオーストラリアのジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、ファーディ・テイガン&バーバラ・ポッター(ともにアメリカ)組を破って初優勝を飾った。その直後、9月末の「バージニアスリムズ・カンザス」大会で単複優勝を果たす。1984年11月10日にピーター・スマイリーと結婚。1985年のウィンブルドン女子ダブルス優勝は、エリザベス・スマイリーのテニス経歴を通じて最も顕著な勝利であった。この時スマイリーはアメリカのキャシー・ジョーダンとペアを組み、決勝でマルチナ・ナブラチロワとパム・シュライバーのペアを 5-7, 6-3, 6-4 の逆転で破ったのである。ナブラチロワとシュライバーはそれまで女子ダブルスで前人未到の「109連勝」の記録を樹立していたが、スマイリーとジョーダンがこの記録を止めた。 1987年の全豪オープンでスマイリーは4大大会のシングルス自己最高記録を出し、ベスト8に進出した。当時のスマイリーはシングルスの世界ランキング82位から勝ち上がり、準々決勝で第5シードのクラウディア・コーデ=キルシュ(西ドイツ)に 6-7, 6-4, 2-6 で敗れた。同年の全米オープン女子ダブルスで、スマイリー&ジョーダン組は(2年前に連勝記録を止めた)ナブラチロワ&シュライバー組に 7-5, 4-6, 2-6 で敗れて準優勝になった。1988年、スマイリーは全豪オープンの女子ダブルスでシュテフィ・グラフとペアを組んで準決勝に進み、同年のソウル五輪にもオーストラリア代表として出場した。スマイリーとウェンディ・ターンブルのペアは、準決勝でアメリカ代表のジーナ・ガリソン&パム・シュライバー組に敗れた。このソウル五輪では、準決勝敗退選手(ペア)による銅メダル決定戦は行われず、両方に銅メダルが授与されたため、スマイリーとターンブルはオーストラリアにテニス女子ダブルスの銅メダルをもたらした。 エリザベス・スマイリーは1988年以後、4大大会の女子シングルスでは3回戦以上に勝ち進めなかったが、ダブルスでさらに成績を伸ばし、1990年の全米オープンで7年ぶり2度目の混合ダブルス優勝を飾った。パートナーのトッド・ウッドブリッジは当時まだ19歳の若者であったが、8歳の年齢差があった2人は決勝でジム・ピュー(アメリカ)&ナタリア・ズベレワ(ソ連)組を 6-4, 6-2 で破っている。1991年のウィンブルドンで、スマイリーは混合ダブルスで再びジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、前年の全米混合決勝と同じピュー&ズベレワ組を 7-6, 6-2 で破って優勝した。スマイリーにとっては、1985年の女子ダブルス優勝以来6年ぶりに獲得した2つ目のウィンブルドン・タイトルであった。 スマイリーのシングルス成績はダブルスほど目立たないが、日本の「ジャパン・オープン」で1989年・1990年の2年連続シングルス準優勝がある。1989年の決勝戦では岡本久美子に、1990年はカタリナ・リンドクイスト(スウェーデン)に敗れた。ダブルスでも日本のトーナメントに数多く出場したことから、日本にも多くのファンを持っていた。 スマイリー夫妻には長い間子供がいなかったが、1991年末にようやく妊娠が分かった。スマイリーは出産後、1992年6月から直ちに現役復帰をし、1993年の全豪オープンでパム・シュライバーと組んで初めての女子ダブルス決勝進出を決めた。このペアは決勝で第1シードのジジ・フェルナンデス&ナターシャ・ズベレワ組に 4-6, 3-6 で敗れて準優勝になった。スマイリーは1994年のシーズンを最後に女子ツアー大会のシングルスから撤退したが、1996年にダブルスのフルシーズンをこなし、ウィンブルドン女子ダブルスでリンダ・ワイルド(アメリカ)と組んで準決勝に進出している。最後の大舞台では、スマイリーのペアはマルチナ・ヒンギスとヘレナ・スコバの組に敗れた。1997年は全豪オープンとウィンブルドンの2大会のみに出場し、最後はどちらもパム・シュライバーと組んだ。こうしてエリザベス・スマイリーは、出産後も34歳まで現役を続行し、十数年間にわたってダブルスの第一線で活躍を続けたのである。 スマイリーは引退後も、女子テニスツアーの運営に携わった。引退の翌年、1998年からは母国オーストラリア・ゴールドコーストで開催されていたツアー大会「モンディアル・オーストラリア女子ハードコート選手権」のトーナメント・ディレクターの職に就任し、同大会が終了となった2008年までその職務を務めた。.

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オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ

ンターコート(2010年)。 引き込み式屋根が無かった頃のセンターコート(2005年)。 オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ()は、イギリスのロンドンのウィンブルドンに位置するテニス競技場。6月から7月に行われるウィンブルドン選手権の会場でもある。.

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カーリン・バセット=セグソ

ーリン・バセット(Carling Bassett, 1967年10月9日 - )は、カナダ・トロント出身の元女子プロテニス選手。1984年の全米オープンで女子シングルスのベスト4に入り、当地の女子テニス選手として4大大会の最高成績を出した選手である。シングルス自己最高ランキングは8位(1985年3月)。1987年に男子ダブルスのトップ選手であるロバート・セグソ(アメリカ)と結婚した後は、2つの姓を併用して「カーリン・バセット=セグソ」(Carling Bassett-Seguso)と名乗った。WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス2勝を挙げたが、彼女の全盛期は比較的短期間で終わった。.

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カタリナ・リンドクイスト

タリナ・リンドクイスト(Catarina Lindqvist, 1963年6月13日 - )は、スウェーデン・ヴェルムランド県クリスティーネハム出身の元女子プロテニス選手。1987年の全豪オープンと1989年のウィンブルドンで、2度4大大会の準決勝に進出した当地最大の女子テニス選手である。シングルス自己最高位は10位(1985年4月)。WTAツアーでシングルス6勝を挙げた。身長165cm、体重57kg、右利き。.

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ガブリエラ・サバティーニ

ブリエラ・ベアトリス・サバティーニ(Gabriela Beatriz Sabatini、1970年5月16日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元女子プロテニス選手。1990年の全米オープン女子シングルス優勝者である。 ボールに回転を多くかけた、重いトップスピン(順回転)のグラウンド・ストロークを得意にした選手だった。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス27勝、ダブルス13勝を挙げた。 美貌と親しみやすい人柄で幅広い人気を持ち、「ガビー」(Gaby)の愛称で呼ばれていた。.

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キャシー・リナルディ

ャシー・リナルディ(Kathy Rinaldi, 1967年3月24日 - )は、アメリカ・フロリダ州スチュアート出身の元女子プロテニス選手。1980年代にアメリカを代表する女子選手のひとりとして活動し、早熟選手として高い人気を持っていた。キャリアの後半には、ジル・ヘザリントン(カナダ)とのダブルスで多くの好成績を出した。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス13位。身長168cm、体重55kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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キャシー・ジョーダン

ャシー・ジョーダン(Kathy Jordan, 1959年12月3日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州出身の元女子プロテニス選手。1983年の全豪オープン女子シングルス準優勝者。姓名の略称である“KJ”がそのままニックネームになっていた。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス41勝を挙げた。実の姉バーバラ・ジョーダン (テニス選手)は、1979年の全豪オープン女子シングルス優勝者である。 ラケットを厚めのウエスタングリップで握りフォアハンドストロークは回転量の多いトップスピン、バックハンドはそのグリップのままラケットの裏面を使いこれまた回転量の多いスライス(ごくまれにフラット気味の軽打も放つ)、さらにボレーまでそのグリップのままこなすという独自のスタイルで戦っていた。 高校在学中はバスケットボール部員として活躍したが、1979年6月にプロテニス選手となる。同年11月に「東京エメロンカップ」というトーナメントで初来日する。この年、キャシー・ジョーダンは女子テニス協会の「最も印象的な新人選手賞」(Most Impressive Newcomer Award)を受賞した。彼女の経歴のハイライトとなった1983年は、まずウィンブルドンで準々決勝進出があった。この時敗れたビリー・ジーン・キング夫人は、39歳にしてまだ第10シードの位置にいた。そして、当時は年末開催だった全豪オープンがやってくる。ジョーダンはこの大会で初の4大大会決勝進出を果たしたが、最盛期を迎えた第1シードのマルチナ・ナブラチロワに 2-6, 6-7 のストレートで敗れて準優勝に終わり、4年前の姉バーバラ・ジョーダン (テニス選手)の快挙に続くことはできなかった。1984年はウィンブルドンで自己最高成績を出したが、準決勝でまたナブラチロワに敗れる。その後は故障などもあり、4大大会のシングルスで好成績が途絶えた。 キャシー・ジョーダンはダブルスの名手として、4大大会の女子ダブルスではすべてのタイトルを獲得した。1980年に全仏オープンとウィンブルドンの女子ダブルスで優勝し、1981年には全米オープンと全豪オープンを制している。4つともパートナーはアメリカのアン・スミスで、同一ペアによる「キャリア・グランドスラム」の偉業達成となった。後年はオーストラリアのエリザベス・スマイリーとペアを組むことが多くなり、1985年のウィンブルドンの女子ダブルスではスマイリーと組んで5年ぶり2度目の優勝を果たした。とりわけ、1985年ウィンブルドンの女子ダブルス決勝では、ジョーダン&スマイリー組はマルチナ・ナブラチロワ&パム・シュライバー組の女子ダブルス「109連勝」の歴代1位記録を止めている。 ジョーダンは混合ダブルスでも、1986年に全仏オープンとウィンブルドンで2大会連続優勝がある。パートナーは両方ともケン・フラック(アメリカ)と組んだ。 ジョーダンは日本のトーナメントでの活躍も多く、1987年と1988年の「ジャパン・オープン」で女子ダブルス2連覇がある。1991年2月にエリザベス・スマイリーとのペアで「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」のダブルスで優勝したが、これがジョーダンの現役生活最後の優勝となる。1991年全米オープンで、ジョーダンは現役引退を宣言した。 テニスの歴史を通じて、姉妹が揃って4大大会の決勝に進出したのは、1884年に第1回ウィンブルドン選手権の女子シングルス決勝で“姉妹対決”をしたモード・ワトソンとリリアン・ワトソン(イングランド)以来のことであり、テニス界の「オープン化時代」(1968年以後)では初めての快挙だった。最近ではアメリカの黒人姉妹、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹がともに世界ランキング1位の座に立ち、ワトソン姉妹やジョーダン姉妹とは比較にならないほどのプレーを展開してきた。.

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クラウディア・コーデ=キルシュ

ラウディア・コーデ=キルシュ(Claudia Kohde-Kilsch, 1963年12月11日 - )は、旧西ドイツ・ザールブリュッケン出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、西ドイツのテニス界の黄金期を築いた先駆者のひとりである。身長187cm、体重68kg、右利き。WTAランク自己最高位はシングルス4位、ダブルス3位。WTAツアーでシングルス8勝、ダブルスで1985年全米オープン・1987年ウィンブルドンを含む26勝を挙げた。「コーデ・キルシュ」と2つの姓を名乗ったのは、養子として育った家庭の背景にあり、生まれた時の名前は“Claudia Kohde”(クラウディア・コーデ)といったが、養父のユルゲン・キルシュ(Jurgen Kilsch)に育てられたため“Claudia Kohde-Kilsch”の名前でプレーするようになった。.

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クリス・エバート

リス・エバート(Chris Evert, 1954年12月21日 - )は、アメリカ・フロリダ州フォートローダーデール出身の元女子プロテニス選手。フルネームは Christine Marie Evert (クリスティン・マリー・エバート)というが、「クリス・エバート」の名前で最もよく知られる。愛称の「クリッシー」“Chrissie”で呼ばれることも多い。父親のジミー・エバートと妹のジャンヌ・エバートも元プロテニス選手である。好敵手であるマルチナ・ナブラチロワとともに、1970年代から1980年代前半の女子テニス界を牽引した。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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ケン・ローズウォール

ン・ローズウォール(Ken Rosewall, 1934年11月2日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。フルネームは Kenneth Robert Rosewall (ケネス・ロバート・ローズウォール)という。小柄で軽量な体躯から皮肉を込めて“Muscles”(筋肉男)というニックネームで呼ばれたが、素早い攻撃やボレーを武器として強豪たちと渡り合った。グランドスラム優勝8回は歴代9位タイ記録。プロスラム優勝15回は歴代1位記録。グランドスラム・プロスラム合計優勝23回も歴代1位記録である。.

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ケビン・カレン

ビン・カレン(Kevin Curren, 1958年3月2日 - )は、南アフリカ・ダーバン出身の男子プロテニス選手。1984年の全豪オープンと1985年のウィンブルドンで、4大大会男子シングルスに2度の準優勝がある。ダブルスでは、1982年の全米オープン男子ダブルスでスティーブ・デントン(アメリカ)と組んで優勝し、混合ダブルスではアン・スミス(アメリカ)とのペアで3勝を獲得した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス26勝を挙げた。身長185cm、体重77kg、右利き。.

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シュテフィ・グラフ

ュテフィ・グラフ(Steffi Graf, 1969年6月14日 - )は、旧西ドイツ・マンハイム出身の女子プロテニス選手。本名は「シュテファニー・マリーア・グラーフ」(Stefanie Maria Graf)。 卓越したフットワークに加え、力強いフラット系のフォアハンドとよく滑るバックハンド・スライスを武器に、ボリス・ベッカーと、ドイツテニス界の黄金時代を築いたスター選手である。WTAツアーで女子歴代3位のシングルス107勝、ダブルス11勝。女子国別対抗戦・フェドカップ(旧名称「フェデレーション・カップ」)の西ドイツ代表(東西ドイツ再統一が実現した1990年以後は、統一ドイツ代表)としても、1987年と1992年の2度優勝を飾っている。 グランドスラムでは女子歴代3位・オープン化以降2位となる22勝を挙げた。世界ランキング1位の在位記録は通算「377週」で、これは男女を通じての史上最長記録である。また、年間ゴールデン・スラムを達成した史上唯一のテニスプレーヤーでもある。 現役引退後の2001年10月22日にアンドレ・アガシと結婚、2児とともにアメリカ・ラスベガス在住。2004年7月11日に国際テニス殿堂入りを果たした。.

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ジミー・コナーズ

ミー・コナーズ(Jimmy Connors, 1952年9月2日 - )は、アメリカ・イリノイ州ベルビル出身の元男子プロテニス選手。フルネームは James Scott Connors (ジェームズ・スコット・コナーズ)という。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(U.C.L.A.)出身。 ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドルらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。コナーズは1970年代の男子テニス界に長らく王者として君臨した。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会通算8勝は、フレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、イワン・レンドル、アンドレ・アガシと並ぶ男子テニス歴代8位タイ記録。 ATPツアーのシングルスではいずれも男子歴代1位のツアー109勝、シングルス1243勝などの大記録を持つ。世界ランキング1位連続保持記録「160週」は歴代2位(当時歴代1位、2007年2月26日にロジャー・フェデラーがコナーズの記録を更新し、2008年8月17日まで「237週」を記録)。また世界ランキング1位通算在位記録「268週」は当時歴代最長で、現在でもフェデラー(302週)、サンプラス(286週)、レンドル(270週)に次ぐ歴代4位である。 闘志溢れるプレーで高い人気を集め、観客を自分の味方につける術にも優れた選手だった。.

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ジョン・マッケンロー

ョン・マッケンロー(John McEnroe, 1959年2月16日 - )は、アメリカの男子プロテニス選手。左利き。身長180cm、体重75kg。ATPツアーでシングルス77勝、ダブルス71勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。 グランドスラムではシングルス優勝7回・ダブルス優勝9回・混合ダブルス優勝1回の計17回の優勝を飾った。ダブルスでは旧友ピーター・フレミングと組んで57個(うち4大大会7勝/同一ペアの優勝記録としては歴代2位)のタイトルを獲得した。 他にも年間最終戦優勝3回、最多タイトル獲得記録(シングルス・ダブルス合計)、シングルス通算世界1位在位記録歴代5位・ダブルス通算世界1位在位記録歴代3位など数々の記録を保持する。 父親の軍務地であったドイツ・ヴィースバーデンで生まれる。父親は著名な弁護士で、弟のパトリック・マッケンローもプロテニス選手。元妻は女優のテータム・オニール。現在の妻はロックシンガーのパティ・スマイス。 マッケンローは試合中に審判の判定に納得しない場合は、判定にクレームをつけたり、審判に暴言を発する言動が頻繁にあったことから“悪童マッケンロー”と呼ばれた。.

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ジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)

ョン・フィッツジェラルド(John Fitzgerald, 1960年12月28日 - )は、オーストラリア・南オーストラリア州カミンズ出身の元男子プロテニス選手。1980年代から1990年代前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、4大大会で男子ダブルス7勝、混合ダブルス2勝を挙げた。フィッツジェラルドは、男子ダブルスでキャリア・グランドスラム(すべての4大大会で優勝すること)を達成した数少ない選手のひとりである。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス30勝を挙げた。.

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ジーナ・ガリソン

ーナ・ガリソン(Zina Garrison, 1963年11月16日 - )は、アメリカ・テキサス州ヒューストン出身の元女子プロテニス選手。黒人の女子テニス選手として活動した。1990年のウィンブルドン女子シングルス準優勝者で、同選手権の混合ダブルスで1988年と1990年に2度優勝した。1988年のソウル五輪でも女子シングルス銅メダル・女子ダブルス金メダル獲得がある。身長164cm、体重61kgで、小柄な体格の選手だった。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルス14勝、ダブルス20勝を挙げる。.

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ステファン・エドベリ

テファン・エドベリ(Stefan Edberg, 1966年1月19日 - )は、スウェーデンのベステルビーク出身の元男子プロテニス選手。日本では、新聞・ラジオが現地のスウェーデン語読みに近い「エドベリ」となっているが、テニス専門誌・テレビは英語読みの「エドバーグ」となっている。ハンサムなので「グラスの貴公子」と呼ばれていた。 エドベリは、ビョルン・ボルグやマッツ・ビランデルのような、グラウンド・ストロークを武器にトップに躍り出る選手を多く輩出してきたスウェーデンにおいては異例のサーブ・アンド・ボレーで世界の頂点に立った。エドベリはATPツアーでシングルス41勝、ダブルス18勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界1位になった数少ない選手のひとりに数えられる。特に片手打ちバックハンドを得意とした。身長188cm、体重77kg、右利き。.

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全仏オープン

全仏オープンのセンターコート(フィリップ・シャトリエ・コート) 全仏オープン(ぜんふつオープン、フランス語:Les Internationaux de France, Le Tournoi de Roland-Garros, 英語:The French Open)は、テニスの4大国際大会であるグランドスラムの一つ。フランスの首都パリの名所ブローニュの森の隣接するスタッド・ローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)にて、5月末から6月初めにかけて開催される。大会運営はフランステニス連盟(FFT)が行う。 飛行家ローラン・ギャロス(1888年 - 1918年)の功績を称えて、会場にはギャロスの名前が冠されている。このため本大会は「ローラン・ギャロス・トーナメント」(Le Tournoi de Roland Garros)とも呼ばれる。.

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全米オープン (テニス)

全米オープン(英語:US Open)は、アメリカ・ニューヨーク市郊外にあるフラッシング・メドウのUSTAナショナル・テニス・センターを会場として、毎年8月の最終月曜日から2週間の日程で行われる4大国際大会の一つである。観客動員数や賞金総額はテニス競技大会で最大である。主催および運営は全米テニス協会(USTA)。.

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全豪オープン

メルボルン・パークの1番コート。「マーガレット・コート・アリーナ」の名前がある 全豪オープンテニス(英語:Australian Open)は、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。.

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国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

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1953年オーストラリア選手権 (テニス)

1953年 オーストラリア選手権(1953 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1983年ウィンブルドン選手権

1983年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1983)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1983年6月20日から7月3日にかけて開催された。.

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1984年ウィンブルドン選手権

1984年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1984)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1984年6月25日から7月8日にかけて開催された。.

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1985年

この項目では、国際的な視点に基づいた1985年について記載する。.

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1985年全仏オープン

1985年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1985)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1985年5月27日から6月9日にかけて開催された。.

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1985年全米オープン (テニス)

1985年 全米オープン(US Open 1985)は、アメリカ・ニューヨークマンハッタンにある「USTAナショナル・テニスセンター」にて、1985年8月27日から9月8日にかけて開催された。.

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1986年ウィンブルドン選手権

1986年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1986)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1986年6月23日から7月6日にかけて開催された。.

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1989年全仏オープン

1989年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1989)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1989年5月28日から6月11日にかけて開催された。.

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1990年全米オープン (テニス)

1990年 全米オープン(US Open 1990)は、アメリカ・ニューヨークマンハッタンにある「USTAナショナル・テニスセンター」にて、1990年8月27日から9月9日にかけて開催された。.

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6月24日

6月24日(ろくがつにじゅうよっか、ろくがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から175日目(閏年では176日目)にあたり、年末まであと190日ある。誕生花はバラ、バーベナ。.

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7月7日

7月7日(しちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から188日目(閏年では189日目)にあたり、年末まであと177日ある。誕生花はスイレン、ヒオウギ。.

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