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1983年ウィンブルドン選手権

索引 1983年ウィンブルドン選手権

1983年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1983)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1983年6月20日から7月3日にかけて開催された。.

54 関係: マルチナ・ナブラチロワマッツ・ビランデルハナ・マンドリコワバージニア・ルジッチバージニア・ウェードヨハン・クリークロンドンロージー・カザルスロスコー・タナートム・ガリクソントレーシー・オースチンブライアン・ゴットフリートパム・シュライバービリー・ジーン・キングビタス・ゲルレイティスピーター・フレミングティム・メイヨットティム・ガリクソンニュージーランドベッティーナ・バンジアンドレア・テメシュバリアンドレア・イエガーアンソニー・ワイルディングイワン・レンドルイギリスウィンブルドン選手権ウェンディ・ターンブルオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブキャシー・リナルディキャシー・ジョーダンギリェルモ・ビラスクラウディア・コーデ=キルシュクリス・ルイスクリス・エバートグランドスラム (テニス)ケビン・カレンシルビア・ハニカジミー・コナーズジョン・マッケンロージョン・ロイドジョー・デュリースティーブ・デントン国際テニス連盟1883年1915年1961年ウィンブルドン選手権1982年ウィンブルドン選手権1982年全仏オープン1983年1983年全仏オープン...1983年全米オープン (テニス)1984年ウィンブルドン選手権6月20日7月3日 インデックスを展開 (4 もっと) »

マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。 1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。 2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。.

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マッツ・ビランデル

マッツ・ビランデル(Mats Wilander、1964年8月22日 - )は、スウェーデン・ヴェクショー出身の元男子プロテニス選手。ビョルン・ボルグ、ステファン・エドベリと並んで、スウェーデンの男子テニス界の黄金期を築いた3強豪のひとりである。4大大会でシングルス通算「7勝」を挙げ、ダブルスでも1986年のウィンブルドンで優勝した。彼は4大大会男子シングルスで、クレーコート・芝コート・ハードコート、すべてのサーフェスを制した史上2人目の選手でもある(現在まで、ジミー・コナーズ、ビランデル、アンドレ・アガシ、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチの6人のみが達成した)。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス33勝、ダブルス7勝を挙げた。右利きの選手。.

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ハナ・マンドリコワ

ハナ・マンドリコワ(Hana Mandlíková, 1962年2月19日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、4大大会女子シングルス「4勝」を挙げた名選手である。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス7位。WTAツアーでシングルス27勝、ダブルス19勝を挙げた。当時の女子テニス界の2巨頭であったクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワの壁に挑み続けた選手の筆頭に位置している。.

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バージニア・ルジッチ

バージニア・ルジッチ(Virginia Ruzici, 1955年1月31日 - )は、ルーマニア・クンピャ・トゥルジイ出身の元女子プロテニス選手。1978年の全仏オープン女子シングルス優勝者である。ルーマニア出身の先輩選手イリ・ナスターゼが1972年の全米オープンと1973年の全仏オープンで4大大会に2勝した後、ルジッチは女子の第一人者として活躍し、同国の女子選手として最初の4大大会優勝者になった。WTAツアーでシングルス14勝を挙げる。.

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バージニア・ウェード

バージニア・ウェード(Virginia Wade, 1945年7月10日 - )は、イギリス・ボーンマス出身の女子テニス選手。WTAツアーでシングルス通算55勝を挙げた。4大大会では女子シングルス3勝・女子ダブルス4勝を獲得した。 1977年のウィンブルドン女子シングルス優勝者で、同選手権大会女子における現時点で最後のイギリス人優勝者として知られる。 イギリスの人々には“Our Ginny”(我らのジニー)と呼ばれて敬愛されている。.

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ヨハン・クリーク

ヨハン・クリーク(Johan Kriek, 1958年4月5日 - )は、南アフリカ・ポンゴラ出身の元男子プロテニス選手。1981年と1982年の全豪オープン男子シングルスで2連覇を達成した選手である。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス12位。ATPツアーでシングルス14勝、ダブルス8勝を挙げた。同国のライバル選手、ケビン・カレンとは年齢も同じ親友である。身長175cm、体重76kg、右利き。.

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ロンドン

ンドン(London )はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国およびこれを構成するイングランドの首都。イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2,000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に当たる地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイルあり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンは市街地の大部分はコナベーションにより形成されている 。ロンドンを管轄するリージョンであるグレーター・ロンドンでは、選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われている。 ロンドンは屈指の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力がある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2009年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界で最も来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界で最も航空旅客数が多い。欧州では最も高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。2012年のロンドンオリンピック開催に伴い、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。 ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7%を占めている。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる8,278,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1200万人から1400万人に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界で最も外国人旅行者が訪れる都市である。 イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。.

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ロージー・カザルス

ーズマリー・"ロージー"・カザルス(Rosemary "Rosie" Casals, 1948年9月16日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の女子プロテニス選手。“Rosebud”(バラの花束)の愛称でも知られた。ダブルスの名手として一時代を築き、ウィンブルドン女子ダブルスで5勝、全米オープン女子ダブルスで4勝を挙げた。しかしシングルスでは1970年と1971年の全米オープンで2年連続準優勝に終わり、とうとう優勝できなかった。カザルスのテニスは、サービス・アンド・ボレーが“豹のように速い”曲芸師のような動きを特徴としていた。女子プロテニス選手としてシングルス通算11勝、ダブルス通算112勝を挙げ、生涯獲得賞金として136万ドルを稼いだ。著名なチェリストのパブロ・カザルスとは遠い親戚に当たる。.

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ロスコー・タナー

ー・タナー(Roscoe Tanner、1951年10月15日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州チャタヌーガ出身の元男子プロテニス選手。1977年の全豪オープン男子シングルス優勝者で、1979年のウィンブルドン準優勝でもよく知られた選手である。シングルス自己最高ランキングは4位。身長182cm、体重77kg、左利き。左腕から繰り出す、威力あふれるサービスを最大の武器とした。しかし、同時代の選手としてジミー・コナーズやビョルン・ボルグなどの強豪選手がいたこともあり、現在の印象はやや薄くなった存在でもある。ATPツアーでシングルス16勝、ダブルス13勝を挙げた。.

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トム・ガリクソン

トム・ガリクソン(Tom Gullikson, 1951年9月8日 - )は、アメリカ・ウィスコンシン州ラクロス出身の元男子プロテニス選手。本名は Thomas Robert Gullikson (トーマス・ロバート・ガリクソン)という。双子の弟であるティム・ガリクソン(1996年5月3日没)とともに「ガリクソン兄弟」のダブルスペアとして活躍し、1983年のウィンブルドン男子ダブルスで準優勝した。トムは1984年の全米オープン混合ダブルスでマニュエラ・マレーバ(ブルガリア)と組んだ優勝がある。自己最高ランキングはシングルス34位、ダブルス4位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス16勝を挙げた。現役選手時代の体格は身長180cm、体重77kgほどで、トムは左利きの選手だった。 ガリクソン家で双子の兄弟が1951年9月8日に誕生した時、トムのほうが数分先に生まれた。2人は同じ北イリノイ大学を卒業した後、テニスのティーチング・プロの仕事に就き、トムは1976年に25歳という遅い年齢からプロテニス選手生活を始めた。1978年、トムは男子ツアーで2大会のシングルス決勝に進出し、ダブルスで年間4勝を獲得した。1980年には日本のセイコー・スーパー・テニスでシングルス準優勝があり、同じアメリカのジミー・コナーズに 1-6, 2-6 で敗れた。トムの4大大会シングルス自己最高成績は、1982年の全米オープンベスト8進出で、この準々決勝ではギリェルモ・ビラス(アルゼンチン)に 2-6, 1-6, 3-6 のストレート負けを喫している。1985年7月、トムはロードアイランド州ニューポート大会の決勝でジョン・サドリ(アメリカ、1979年全豪オープン準優勝者)を 6-3, 7-6 で破り、この地で生涯唯一のシングルス優勝を果たした。彼の最後の4大大会シングルス出場は、1986年全米オープンの3回戦進出であった。 トム・ガリクソンは男子ツアーダブルス通算15勝のうち、10個を双子の弟ティムとのコンビで獲得した。ガリクソン兄弟のダブルスは1978年から男子ツアーで勝ち始め、4大大会のうち全仏オープンを除く3大会でベスト4に勝ち残り、1983年のウィンブルドン男子ダブルス準優勝ペアになった。2人は当時世界最強の実力を誇ったジョン・マッケンロー&ピーター・フレミング組に 4-6, 3-6, 4-6 のストレートで完敗し、ウィンブルドン・ダブルス優勝を逃した。ガリクソン兄弟は1982年に日本のジャパン・オープンで優勝したこともあり、この時はマッケンローとピーター・レナート(アメリカ)組に 6-4, 3-6, 7-6(7-3) で勝った。ガリクソン兄弟ペアの現役最後の優勝は、1985年10月の「スイス室内選手権」(当地バーゼル開催)であった。2人のダブルスは、1988年3月までトーナメントに出場した。 トムは1984年の全米オープン混合ダブルスで、ブルガリアのマニュエラ・マレーバと組んだ優勝がある。トムとマニュエラは、決勝でオーストラリアペアのジョン・フィッツジェラルド&エリザベス・セイヤーズ組に 2-6, 7-5, 6-4 の逆転勝ちを収めた。(パートナーのM・マレーバは、これによりブルガリアの地に最初のグランドスラム・タイトルをもたらした。) 選手生活からの引退後、トム・ガリクソンは1994年から1999年まで6年間男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表監督を務め、1995年にアメリカ・チームを優勝に導いた。1996年5月3日、双子の弟ティムが脳腫瘍のため44歳8か月で死去した。ティムの短い生涯を偲び、トムは双子の兄弟の名前で「ガリクソン財団」を設立し、現在に至るまで脳腫瘍の人々を支援するための活動を行っている。.

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トレーシー・オースチン

トレーシー・オースチン(Tracy Austin, 1962年12月12日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州パロスベルデ出身の元女子プロテニス選手。1979年と1981年の2度、全米オープン女子シングルスで優勝した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。女子テニス界における10代の早熟選手の位置を確立し、低年齢化の火付け役となった選手でもある。WTAツアー通算でシングルス30勝、ダブルス4勝を挙げた。.

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ブライアン・ゴットフリート

ブライアン・ゴットフリート(Brian Gottfried, 1952年1月27日 - )は、アメリカの元プロテニス選手。メリーランド州ボルチモアでユダヤ系の家庭に生まれる。同時にウェールズ系の血も引く。 1977年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。ダブルスではメキシコのラウル・ラミレスとペアを組んで数多くのタイトルを獲得し、全仏オープンの男子ダブルスで1975年と1977年の2度、ウィンブルドンでも1976年の男子ダブルスを制覇した。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス2位。ATPツアーでシングルス25勝、ダブルス54勝を挙げた。身長182cm、体重75kg、右利き。フルネームは Brian Edward Gottfried (ブライアン・エドワード・ゴットフリート)という。.

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パム・シュライバー

パメラ・ハワード・シュライバー(Pamela "Pam" Howard Shriver、1962年7月4日 - )は、アメリカ・メリーランド州ボルチモア出身の元女子プロテニス選手。1978年の全米オープン女子シングルス準優勝者で、ダブルスの名手として一時代を築いた名選手である。WTAツアーでシングルス21勝、ダブルス111勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。.

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ビリー・ジーン・キング

ビリー・ジーン・キング(Billie Jean King, 1943年11月22日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチ出身の女子テニス選手。1960年代から1980年代初頭までの四半世紀に及び、長い間女子テニス界に君臨した名選手であり、女子テニスの歴史を通じて最大の偉人のひとりに数えられる。レズビアンとしてカミングアウトしている。.

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ビタス・ゲルレイティス

ビタス・ゲルレイティス(Vitas Gerulaitis、1954年7月26日 - 1994年9月17日ニューヨーク市内にある彼の墓石には「9月17日」と刻まれており、デビスカップのプロフィールページにもこの日付で掲載されているが、文献によっては「9月18日」と掲載しているものもあり、若干の混乱が見られる。)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン出身の元男子プロテニス選手。フルネームはビタス・ケビン・ゲルレイティス (Vitas Kevin Gerulaitis) という。1970年代後半に活躍し、1977年12月の全豪オープン男子シングルスで優勝した。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス24勝、ダブルス8勝を挙げた。父親はリトアニアのテニス・チャンピオンであり、ゲルレイティスは“Lithuanian Lion”(リトアニアのライオン)というニックネームで呼ばれた。1歳年下の妹、ルタ・ゲルレイティスもプロテニス選手である。 ゲルレイティスの活躍した時代は、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金期であり、同年代の選手としてビョルン・ボルグやジミー・コナーズなどの強豪選手がいたため、彼の現在の印象はやや薄くなった。しかしボルグと数々の熱戦を繰り広げ、良き友人でもあった。 ゲルレイティスはコロンビア大学を1年で中退し、1971年にプロテニス選手となった。4大大会にデビューした1971年全米オープンでは、1回戦で敗れた相手が日本の坂井利郎選手であった。1975年のウィンブルドンで、ゲルレイティスは同じアメリカのサンディ・マイヤーとペアを組み、4大大会の男子ダブルスで初優勝を果たす。ゲルレイティスのテニス成績が大きく伸び始めたのは、1976年のウィンブルドンベスト8進出からである。ゲルレイティスは4回戦で大会前年優勝者のアーサー・アッシュを破ったが、続く準々決勝でラウル・ラミレス(メキシコ)に敗れた。それからウィンブルドンでは、1977年と1978年の2年連続でベスト4に進んだが、1977年の準決勝でビョルン・ボルグと最終第5セット 6-8 まで競り合った試合は、今なお選手権史上に残る名勝負の1つとして語り継がれている。 1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。ゲルレイティスが優勝したのは12月の年末開催の大会で、決勝の相手はイギリスのジョン・ロイド(後にクリス・エバートと結婚した選手)であった。先にゲルレイティスが2セットを先取したが、ロイドが第3・第4セットを連取して2セット・オールに追いつく。最終第5セットでゲルレイティスはロイドを突き放し、6-3, 7-6, 5-7, 3-6, 6-2 のスコアで初優勝を飾った。 その後のゲルレイティスは4大大会で2度の準優勝に終わり、1979年全米オープンの決勝では当時20歳のジョン・マッケンローに 5-7, 3-6, 3-6 で敗れ、1980年全仏オープンの決勝ではボルグに 4-6, 1-6, 2-6 で敗れた。ゲルレイティスとボルグの対戦成績は、ボルグの「16戦全勝」である。ゲルレイティスは1986年3月、ベルギー・ブリュッセルの大会を最後に31歳で現役を引退した。 ビタス・ゲルレイティスは1994年9月17日、ニューヨーク州ロングアイランドの友人宅に滞在していた時、睡眠中にエアコン装備が故障し、一酸化炭素中毒のため40歳で死去した。.

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ピーター・フレミング

ピーター・フレミング(Peter Fleming, 1955年1月21日 - )は、アメリカ・ニュージャージー州チャタム出身の元男子プロテニス選手。4歳年下のジョン・マッケンローと組んで数多くのダブルス・タイトルを獲得し、4大大会の男子ダブルスでもウィンブルドン4勝、全米オープン3勝を挙げた選手である。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス60勝を挙げたが、そのうち57勝がマッケンローとのペアで獲得したものである。身長195cm、体重84kgの長身選手。右利き。.

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ティム・メイヨット

ティム・メイヨット(Tim Mayotte, 1960年8月3日 - )は、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールド出身の元男子プロテニス選手。1988年のソウル五輪で男子シングルスの銀メダルを獲得した選手で、1980年代にアメリカを代表する選手の1人として活動した。4大大会ではウィンブルドン選手権を最も得意にした。シングルス自己最高ランキングは7位。ATPツアーでシングルス12勝、ダブルス1勝を挙げた。身長190cm、体重84kg、右利き。 1979年にプロ入り。1981年にウィンブルドンと全豪オープンでベスト8に進出し、1982年にウィンブルドンで初の準決勝進出を果たす。メイヨットは準々決勝で1980年全豪オープン優勝者ブライアン・ティーチャーに競り勝ったが、初めての準決勝ではジョン・マッケンローに 3-6, 1-6, 2-6 で完敗した。1983年にウィンブルドンで3年連続のベスト8に入った後、当時は11月の年末開催だった全豪オープンでも初めてベスト4に進んだが、この準決勝ではイワン・レンドルに 1-6, 6-7, 3-6 のストレートで敗れた。メイヨットの4大大会成績は、1982年ウィンブルドンと1983年全豪オープンの2度の準決勝進出が最高であるが、その後も安定した好成績を維持した。しかしメイヨットのツアー初優勝は比較的遅く、1985年2月にアメリカ・フロリダ州デルレイビーチ大会の決勝でスコット・デービス(同じくアメリカ)を 4-6, 4-6, 6-3, 6-2, 6-4 の逆転で破った勝利が彼の初栄冠だった。1987年にメイヨットは男子ツアーで5つのシングルス・タイトルを獲得したが、4大大会ではいくらか低迷気味だった。 オリンピックにおけるテニス競技は、1928年のアムステルダム五輪以後、プロ選手の登場により除外されていた。しかし1988年のソウル五輪でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。その記念すべき大会で、メイヨットは準決勝で同じアメリカ代表のブラッド・ギルバートを破ったが、決勝戦ではチェコスロバキア代表のミロスラフ・メチージュに 6-3, 2-6, 4-6, 2-6 で敗れ、復活金メダルの第1号を逃した。オリンピック銀メダルの年、メイヨットは4つのツアー大会で優勝し、この年に世界ランキングの自己最高位「7位」をマークした。 オリンピック銀メダルの翌年、1989年にメイヨットはウィンブルドンと全米オープンの2大会連続でベスト8に進出する。ウィンブルドンのベスト8は通算6度目であったが、全米オープンでは29歳にしてようやく自己最高成績を出した。この大会では4回戦で当年度の全仏オープン優勝者マイケル・チャンに快勝したが、初めての準々決勝では第1シードのイワン・レンドルに 4-6, 0-6, 1-6 で一方的な完敗に終わった。しかし1990年に入ると、メイヨットのテニス成績は下降線をたどり始める。1991年の全米オープン1回戦敗退が、彼の最後の4大大会出場になった。ソウル五輪の銀メダルで印象を残したティム・メイヨットは、1992年2月にアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア大会の1回戦敗退を最後に31歳で現役を引退した。.

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ティム・ガリクソン

ティム・ガリクソン(Tim Gullikson, 1951年9月8日 - 1996年5月3日)は、アメリカ・ウィスコンシン州ラクロス出身の元男子プロテニス選手。本名は Timothy Ernest Gullikson (ティモシー・アーネスト・ガリクソン)という。双子の兄であるトム・ガリクソンとともに「ガリクソン兄弟」のダブルスペアとして活躍し、1983年のウィンブルドン男子ダブルスで準優勝した。ティムはピート・サンプラスのコーチとしても知られた。 双子の弟ティムは攻撃的なプレースタイルを持ち味にし、対戦相手にプレッシャーをかける術に優れていた(ATPツアープロフィール内の解説による)。彼はATPツアーでシングルス4勝、ダブルス16勝を挙げたが、シングルスの優勝は1977年と1978年の2シーズンに獲得したのみで、以後はトムとのダブルスで多数の業績を挙げた。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス3位。現役選手時代の体格は身長180cm、体重79kgほどで、ティムは右利きの選手だった。 ガリクソン家で双子の兄弟が1951年9月8日に誕生した時、トムのほうが数分先に生まれた。2人は同じ北イリノイ大学を卒業した後、テニスのティーチング・プロの仕事に就き、ティムはオハイオ州デイトンで働いた。ティムは仕事の同僚だったハンク・ジャングル(Hank Jungle)に勧められて、プロテニスツアーへの参戦を決意し、1975年から男子ツアー下部大会に出場し始めた。彼は1977年にシングルスで目覚ましい躍進を遂げ、男子ツアーで年間3勝を挙げたことにより、この年のATPツアー「最優秀新人賞」を受賞した。1978年12月の南アフリカ・ヨハネスブルグ大会優勝を最後に、彼は男子ツアーのシングルス優勝から遠ざかる。4大大会の男子シングルスでは、1979年のウィンブルドンでロスコー・タナー(アメリカ)に 1-6, 4-6, 7-6, 2-6 で敗れたベスト8が自己最高成績だった。 ティム・ガリクソンは男子ツアーダブルス通算16勝のうち、10個を双子の兄トムとのコンビで獲得した。ガリクソン兄弟のダブルスは1978年から男子ツアーで勝ち始め、4大大会のうち全仏オープンを除く3大会でベスト4に勝ち残り、1983年のウィンブルドン男子ダブルス準優勝ペアになった。2人は当時世界最強の実力を誇ったジョン・マッケンロー&ピーター・フレミング組に 4-6, 3-6, 4-6 のストレートで完敗し、ウィンブルドン・ダブルス優勝を逃した。ガリクソン兄弟は1982年に日本のジャパン・オープンで優勝したこともあり、この時はマッケンローとピーター・レナート(アメリカ)組に 6-4, 3-6, 7-6(7-3) で勝った。ガリクソン兄弟ペアの現役最後の優勝は、1985年10月の「スイス室内選手権」(当地バーゼル開催)であった。 ティム・ガリクソンは1986年全米オープンでミロスラフ・メチージュ(当時チェコスロバキア)に敗れた1回戦を最後に、男子ツアーのシングルスから撤退した。双子の兄トムとのダブルスでは、1988年3月までトーナメントに出場した。ティムの最後の活躍は、1988年全豪オープン混合ダブルスでマルチナ・ナブラチロワと組んだ準優勝であった。ティムとナブラチロワはジム・ピュー(アメリカ)&ヤナ・ノボトナ(チェコスロバキア)組に 7-5, 2-6, 4-6 で敗れ、彼はとうとうグランドスラム・タイトルを取れずに現役を退いた。 選手生活からの引退後、ティム・ガリクソンはピート・サンプラスのコーチに就任し、彼を世界ランキング1位の座まで導いたが、1995年1月に脳腫瘍で倒れた。1995年全豪オープンの男子シングルス準々決勝で、サンプラスがジム・クーリエとの対戦中、第5セット開始の時点でガリクソンの病気を思って涙を流した場面は、彼の選手経歴のみならず、全豪オープンの大会歴史にも残るエピソードの1つとして語り継がれてきた。発病から1年半もたたないうちに、ガリクソンは1996年5月3日にアメリカ・フロリダ州ボカラトンにて44歳で死去した。ティムの短い生涯を偲んで「ガリクソン財団」が設立され、現在に至るまで脳腫瘍の人々を支援するための活動が行われている。.

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ニュージーランド

ニュージーランド(New Zealand)は、南西太平洋のオセアニアのポリネシアに位置する立憲君主制国家であり、ニュージーランド王国を構成する最大の主体地域である。島国であり、二つの主要な島と、多くの小さな島々からなる。北西に2,000km離れたオーストラリア大陸(オーストラリア連邦)と対する。南方の南極大陸とは2,600km離れている。北はトンガ、ニューカレドニア、フィジーがある。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。.

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ベッティーナ・バンジ

ベッティーナ・バンジ(Bettina Bunge, 1963年6月13日 - )は、旧西ドイツの元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、旧西ドイツのテニス界の黄金期を築いた先駆者のひとりである。ドイツ人のビジネスマンであった父親の仕事の関係で、スイス・アドリスウィルに生まれる。現役時代はアイドル性のあるキャラクターとして人気が高く、日本では“元祖アイドル”とまで呼ばれた。身長173cm、体重57kg、右利き。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス2勝を挙げた。.

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アンドレア・テメシュバリ

アンドレア・テメシュバリ(Andrea Temesvári, 1966年4月26日 - )は、ハンガリー・ブダペスト出身の元女子プロテニス選手。1986年の全仏オープン女子ダブルスで、マルチナ・ナブラチロワとペアを組んで優勝した。若き日には、アイドル性のある愛らしい天才少女としても高い人気を持っていた。WTAツアーでシングルス5勝、ダブルスで1986年全仏オープンを含む6勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは7位。身長182cm、体重61kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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アンドレア・イエガー

アンドレア・イエガー(Andrea Jaeger, 1965年6月4日 - )は、アメリカ・イリノイ州シカゴ出身の元女子プロテニス選手。1982年の全仏オープンと1983年のウィンブルドンで、4大大会に2度の準優勝がある。どちらも決勝戦でマルチナ・ナブラチロワに敗れた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高ランキングは2位(1981年8月)。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス4勝を挙げた。.

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アンソニー・ワイルディング

アンソニー・ワイルディング(Anthony Wilding, 1883年10月31日 - 1915年5月9日)は、ニュージーランド・クライストチャーチ出身の男子テニス選手。1910年から1913年にかけてウィンブルドン選手権の男子シングルスに4連覇を達成し、黎明期の全豪選手権でも1906年、1909年の2度優勝した。しかし、1914年に勃発した第1次世界大戦に徴兵されてフランスで戦死してしまい、戦闘から帰還できなかった悲運の人でもある。愛称の「トニー・ワイルディング」(Tony Wilding)で優勝記録表やテニス文献に記載されることも多い。フルネームは Anthony Frederick Wilding (アンソニー・フレデリック・ワイルディング)という。.

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イワン・レンドル

イワン・レンドル(Ivan Lendl, 1960年3月7日 - )は、チェコスロバキア・オストラヴァ出身の元男子プロテニス選手、テニス指導者。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。グランドスラム通算8勝の男子テニス歴代9位タイ記録、ATPツアーのシングルスでいずれも男子歴代2位のツアー94勝、シングルス1071勝などの大記録を持つ。 1980年代の男子テニス界に長らく王者として君臨し、ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンローらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。 世界ランキング1位連続在位記録「157週」は当時歴代2位(現在歴代3位)。また世界ランキング通算在位記録「270週」は当時の歴代1位記録を樹立した。現在もフェデラー(302週)、サンプラス(286週)に次ぐ歴代3位記録。 レンドルは現役時代から大のゴルフ好きであり(ただしゴルフだけは左打ち)、ミュシャの蒐集家としても知られる。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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ウィンブルドン選手権

ウィンブルドン選手権(ウィンブルドンせんしゅけん、英語:The Championships, Wimbledon)は、イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの四大国際大会の一つである。.

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ウェンディ・ターンブル

ウェンディ・ターンブル(Wendy Turnbull, 1952年11月26日 - )は、オーストラリア・ブリスベン出身の元女子プロテニス選手。主に1970年代後半から1980年代に活躍した選手で、素速いフットワークから“Rabbit”(ラビット)というニックネームで呼ばれた。しかし4大大会の女子シングルスで3度の準優勝に終わり、1977年全米オープン、1979年全仏オープン、1980年全豪オープンの決勝戦で敗れた。WTAツアーでシングルス13勝、ダブルス55勝を挙げた。 ターンブルは15歳で学校をやめ、4年間の銀行勤務を経てテニス選手になった。1975年にプロ入り。1976年に日本の「ジャパン・オープン」で優勝している。最初のチャンスは1977年の全米オープンで訪れ、ターンブルは準々決勝で当年度のウィンブルドン優勝者バージニア・ウェード(第3シード、イギリス)、準決勝で第2シードのマルチナ・ナブラチロワを連破して初めての4大大会決勝に進んだが、第1シードのクリス・エバートに 6-7, 2-6 で敗れて準優勝になった。全米オープンでは、翌1978年も準決勝でエバートに敗れる。2度目のチャンスとなった1979年全仏オープンでも、決勝戦で同じエバートの壁にぶつかり、2-6, 0-6 の完敗で2度目の準優勝になっている。 1980年のシーズンは全体的に好調で、全仏オープンとウィンブルドンでともにベスト8進出を果たした後に、年末開催の全豪オープンで3度目の4大大会決勝進出を決めた。(注:当時は全豪オープンの開催時期が何度も変わり、1977年に1月開催・12月開催と2度行われたのちに、1978年-1985年までは12月の年末開催で行われていた。)ターンブルは準決勝で第1シードのマルチナ・ナブラチロワを破ったが、決勝で当時18歳の新鋭ハナ・マンドリコワに 0-6, 5-7 で敗れ、またしても優勝のチャンスを逃した。その後は全豪オープンで1981年と1984年、全米オープンで1984年に準決勝進出がある。シングルスでは1989年ウィンブルドンの2回戦敗退が最後の試合になった。 ウェンディ・ターンブルはダブルスの名手として、女子テニスツアーで通算55勝を記録した。4大大会でも女子ダブルスは4勝、混合ダブルスは5勝を挙げている。1978年のウィンブルドンで、ターンブルは同じオーストラリアのケリー・レイドとペアを組み、ミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)&バージニア・ルジッチ(ルーマニア)組を 4-6, 9-8, 6-3で破って初優勝を飾った。1979年はオランダのベティ・ストーブとペアを組み、全仏オープンと全米オープンで年間2冠を獲得する。1982年には全米オープンの女子ダブルスで、ベテランのロージー・カザルスと組んで3年ぶり2度目の優勝を果たした。1988年のソウル五輪では、オーストラリア代表選手として女子ダブルスに出場し、エリザベス・スマイリーと組んで銅メダルを獲得している。混合ダブルスでは、ターンブルはジョン・ロイド(クリス・エバートの元夫として有名な人)と相性が良く、1982年から1984年までウィンブルドンの混合ダブルス決勝に3年連続で進出した。ターンブルは1989年夏にシングルスから引退した後も、ダブルスでは1990年まで現役を続行した。 ターンブルは現役生活を通じて、クリス・エバートの厚い壁をどうしても破れなかった選手の1人である。2人の対戦成績はエバートの「21勝1敗」で終わった。マルチナ・ナブラチロワとは「5勝29敗」の対戦成績を残している。エバートとナブラチロワの2強豪と同年代に活動した女子プロテニス選手たちにとって、2人の壁を破ることがいかに至難であったか、ターンブルの3度の準優勝はその難しさを物語る1つの記録と言えるだろう。.

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オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ

ンターコート(2010年)。 引き込み式屋根が無かった頃のセンターコート(2005年)。 オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ()は、イギリスのロンドンのウィンブルドンに位置するテニス競技場。6月から7月に行われるウィンブルドン選手権の会場でもある。.

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キャシー・リナルディ

ャシー・リナルディ(Kathy Rinaldi, 1967年3月24日 - )は、アメリカ・フロリダ州スチュアート出身の元女子プロテニス選手。1980年代にアメリカを代表する女子選手のひとりとして活動し、早熟選手として高い人気を持っていた。キャリアの後半には、ジル・ヘザリントン(カナダ)とのダブルスで多くの好成績を出した。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス13位。身長168cm、体重55kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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キャシー・ジョーダン

ャシー・ジョーダン(Kathy Jordan, 1959年12月3日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州出身の元女子プロテニス選手。1983年の全豪オープン女子シングルス準優勝者。姓名の略称である“KJ”がそのままニックネームになっていた。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス41勝を挙げた。実の姉バーバラ・ジョーダン (テニス選手)は、1979年の全豪オープン女子シングルス優勝者である。 ラケットを厚めのウエスタングリップで握りフォアハンドストロークは回転量の多いトップスピン、バックハンドはそのグリップのままラケットの裏面を使いこれまた回転量の多いスライス(ごくまれにフラット気味の軽打も放つ)、さらにボレーまでそのグリップのままこなすという独自のスタイルで戦っていた。 高校在学中はバスケットボール部員として活躍したが、1979年6月にプロテニス選手となる。同年11月に「東京エメロンカップ」というトーナメントで初来日する。この年、キャシー・ジョーダンは女子テニス協会の「最も印象的な新人選手賞」(Most Impressive Newcomer Award)を受賞した。彼女の経歴のハイライトとなった1983年は、まずウィンブルドンで準々決勝進出があった。この時敗れたビリー・ジーン・キング夫人は、39歳にしてまだ第10シードの位置にいた。そして、当時は年末開催だった全豪オープンがやってくる。ジョーダンはこの大会で初の4大大会決勝進出を果たしたが、最盛期を迎えた第1シードのマルチナ・ナブラチロワに 2-6, 6-7 のストレートで敗れて準優勝に終わり、4年前の姉バーバラ・ジョーダン (テニス選手)の快挙に続くことはできなかった。1984年はウィンブルドンで自己最高成績を出したが、準決勝でまたナブラチロワに敗れる。その後は故障などもあり、4大大会のシングルスで好成績が途絶えた。 キャシー・ジョーダンはダブルスの名手として、4大大会の女子ダブルスではすべてのタイトルを獲得した。1980年に全仏オープンとウィンブルドンの女子ダブルスで優勝し、1981年には全米オープンと全豪オープンを制している。4つともパートナーはアメリカのアン・スミスで、同一ペアによる「キャリア・グランドスラム」の偉業達成となった。後年はオーストラリアのエリザベス・スマイリーとペアを組むことが多くなり、1985年のウィンブルドンの女子ダブルスではスマイリーと組んで5年ぶり2度目の優勝を果たした。とりわけ、1985年ウィンブルドンの女子ダブルス決勝では、ジョーダン&スマイリー組はマルチナ・ナブラチロワ&パム・シュライバー組の女子ダブルス「109連勝」の歴代1位記録を止めている。 ジョーダンは混合ダブルスでも、1986年に全仏オープンとウィンブルドンで2大会連続優勝がある。パートナーは両方ともケン・フラック(アメリカ)と組んだ。 ジョーダンは日本のトーナメントでの活躍も多く、1987年と1988年の「ジャパン・オープン」で女子ダブルス2連覇がある。1991年2月にエリザベス・スマイリーとのペアで「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」のダブルスで優勝したが、これがジョーダンの現役生活最後の優勝となる。1991年全米オープンで、ジョーダンは現役引退を宣言した。 テニスの歴史を通じて、姉妹が揃って4大大会の決勝に進出したのは、1884年に第1回ウィンブルドン選手権の女子シングルス決勝で“姉妹対決”をしたモード・ワトソンとリリアン・ワトソン(イングランド)以来のことであり、テニス界の「オープン化時代」(1968年以後)では初めての快挙だった。最近ではアメリカの黒人姉妹、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹がともに世界ランキング1位の座に立ち、ワトソン姉妹やジョーダン姉妹とは比較にならないほどのプレーを展開してきた。.

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ギリェルモ・ビラス

リェルモ・ビラス(Guillermo Vilas, 1952年8月17日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれマル・デル・プラタ育ちの元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手として、4大大会通算「4勝」を挙げた選手である。身長180cm、体重75kg、左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス62勝、ダブルス16勝。 オープン化以降2人目となる通算900勝。またクレーコートで600勝以上挙げている。1977年にはグランドスラム2冠・46連勝・クレーコート53連勝・オープン化記録となるシーズン134勝を達成。 またオープン化以降初となる同一大会優勝8回を達成(ブエノスアイレス大会)。 長髪をバンダナで束ねた風貌でも強い印象を持ち、「パンパスの若き雄牛」(Young Bull of the Pampas)というニックネームで呼ばれた。 彼はジミー・コナーズと同い年であり、ビョルン・ボルグやジョン・マッケンローなども同世代のライバル選手だった。ビラスは彼らと並んで、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を刻んだ選手のひとりに数えられる。特にクレーコートに強く数多の記録を保持している。.

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クラウディア・コーデ=キルシュ

ラウディア・コーデ=キルシュ(Claudia Kohde-Kilsch, 1963年12月11日 - )は、旧西ドイツ・ザールブリュッケン出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、西ドイツのテニス界の黄金期を築いた先駆者のひとりである。身長187cm、体重68kg、右利き。WTAランク自己最高位はシングルス4位、ダブルス3位。WTAツアーでシングルス8勝、ダブルスで1985年全米オープン・1987年ウィンブルドンを含む26勝を挙げた。「コーデ・キルシュ」と2つの姓を名乗ったのは、養子として育った家庭の背景にあり、生まれた時の名前は“Claudia Kohde”(クラウディア・コーデ)といったが、養父のユルゲン・キルシュ(Jurgen Kilsch)に育てられたため“Claudia Kohde-Kilsch”の名前でプレーするようになった。.

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クリス・ルイス

リス・ルイス(Chris Lewis, 1957年3月9日 - )は、ニュージーランド・オークランド出身の元男子プロテニス選手。1983年のウィンブルドン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは19位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス8勝を挙げた。身長180cm、体重70kg、右利き。.

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クリス・エバート

リス・エバート(Chris Evert, 1954年12月21日 - )は、アメリカ・フロリダ州フォートローダーデール出身の元女子プロテニス選手。フルネームは Christine Marie Evert (クリスティン・マリー・エバート)というが、「クリス・エバート」の名前で最もよく知られる。愛称の「クリッシー」“Chrissie”で呼ばれることも多い。父親のジミー・エバートと妹のジャンヌ・エバートも元プロテニス選手である。好敵手であるマルチナ・ナブラチロワとともに、1970年代から1980年代前半の女子テニス界を牽引した。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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ケビン・カレン

ビン・カレン(Kevin Curren, 1958年3月2日 - )は、南アフリカ・ダーバン出身の男子プロテニス選手。1984年の全豪オープンと1985年のウィンブルドンで、4大大会男子シングルスに2度の準優勝がある。ダブルスでは、1982年の全米オープン男子ダブルスでスティーブ・デントン(アメリカ)と組んで優勝し、混合ダブルスではアン・スミス(アメリカ)とのペアで3勝を獲得した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス26勝を挙げた。身長185cm、体重77kg、右利き。.

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シルビア・ハニカ

ルビア・ハニカ(Sylvia Hanika, 1959年11月30日 - )は、旧西ドイツ・ミュンヘン出身の元女子プロテニス選手。1981年の全仏オープン女子シングルス準優勝者。左利き。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス1勝を挙げる。旧西ドイツのテニス界の黄金時代を築いた先駆者のひとりである。 1977年にプロ入り。1978年に地元の大会「ドイツ室内選手権」でプロ初優勝。1981年の全仏オープン決勝戦では、チェコスロバキアのハナ・マンドリコワに 2-6, 4-6 のストレートで敗れた。1982年に女子ツアー年間最終戦(当時の名称は「エイボン・チャンピオンシップス」)決勝戦でマルチナ・ナブラチロワを 1-6, 6-3, 6-4 の逆転で破り初優勝。女子国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)の西ドイツ代表として、1978年-1981年、1984年、1985年、1988年の7度出場した。 ハニカはテニスがオリンピック競技として復活したソウル五輪にも、西ドイツ代表として出場している。先駆者としてのハニカの活躍に刺激されて、ベッティーナ・バンジやクラウディア・コーデ=キルシュが西ドイツの女子テニス界を盛り上げ、やがて同国最大の選手シュテフィ・グラフが世界の頂点に立った。ハニカはソウル五輪代表として、後輩のグラフの金メダルを見守ることができた。1990年に31歳で現役を引退した。.

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ジミー・コナーズ

ミー・コナーズ(Jimmy Connors, 1952年9月2日 - )は、アメリカ・イリノイ州ベルビル出身の元男子プロテニス選手。フルネームは James Scott Connors (ジェームズ・スコット・コナーズ)という。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(U.C.L.A.)出身。 ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドルらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。コナーズは1970年代の男子テニス界に長らく王者として君臨した。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会通算8勝は、フレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、イワン・レンドル、アンドレ・アガシと並ぶ男子テニス歴代8位タイ記録。 ATPツアーのシングルスではいずれも男子歴代1位のツアー109勝、シングルス1243勝などの大記録を持つ。世界ランキング1位連続保持記録「160週」は歴代2位(当時歴代1位、2007年2月26日にロジャー・フェデラーがコナーズの記録を更新し、2008年8月17日まで「237週」を記録)。また世界ランキング1位通算在位記録「268週」は当時歴代最長で、現在でもフェデラー(302週)、サンプラス(286週)、レンドル(270週)に次ぐ歴代4位である。 闘志溢れるプレーで高い人気を集め、観客を自分の味方につける術にも優れた選手だった。.

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ジョン・マッケンロー

ョン・マッケンロー(John McEnroe, 1959年2月16日 - )は、アメリカの男子プロテニス選手。左利き。身長180cm、体重75kg。ATPツアーでシングルス77勝、ダブルス71勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。 グランドスラムではシングルス優勝7回・ダブルス優勝9回・混合ダブルス優勝1回の計17回の優勝を飾った。ダブルスでは旧友ピーター・フレミングと組んで57個(うち4大大会7勝/同一ペアの優勝記録としては歴代2位)のタイトルを獲得した。 他にも年間最終戦優勝3回、最多タイトル獲得記録(シングルス・ダブルス合計)、シングルス通算世界1位在位記録歴代5位・ダブルス通算世界1位在位記録歴代3位など数々の記録を保持する。 父親の軍務地であったドイツ・ヴィースバーデンで生まれる。父親は著名な弁護士で、弟のパトリック・マッケンローもプロテニス選手。元妻は女優のテータム・オニール。現在の妻はロックシンガーのパティ・スマイス。 マッケンローは試合中に審判の判定に納得しない場合は、判定にクレームをつけたり、審判に暴言を発する言動が頻繁にあったことから“悪童マッケンロー”と呼ばれた。.

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ジョン・ロイド

ョン・ロイド(John Lloyd, 1954年8月27日 - )は、イギリス・エセックス州リー・オン・シー出身の元男子プロテニス選手。クリス・エバートの元夫として有名な選手であるが、1977年12月の全豪オープン男子シングルス準優勝者でもある。ロイドは混合ダブルスに強く、オーストラリアのウェンディ・ターンブルとペアを組んで4大大会の混合ダブルス部門に3勝を挙げた。ATPツアーではシングルス1勝、ダブルス2勝止まりに終わっている。シングルス自己最高ランキングは21位。身長177cm、体重75kg、右利き。.

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ジョー・デュリー

ョー・デュリー(Jo Durie, 1960年7月27日 - )は、イングランド・ブリストル出身の女子プロテニス選手。若き日にはアイドル性のあるキャラクターとしても高い人気を持っていた。シングルス自己最高ランキングは5位。WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス4勝を挙げた。身長183cm、体重68kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 1977年にプロ入り。同年のウィンブルドンで4大大会にデビューするが、当年度の優勝者となったバージニア・ウェードに初戦で敗退する。最初期はほとんどイギリス国内の試合のみに出場していたが、1981年から世界的な活躍を始め、全仏オープンを除く4大大会で4回戦に進出した。1983年にデュリーのテニス経歴は全盛期を迎え、女子ツアー大会でシングルス2勝とダブルス3勝を挙げ、全仏オープンと全米オープンでベスト4に入り、(当時は年末開催の)全豪オープンでベスト8入りした。全仏オープン準決勝ではミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)に 6-3, 5-7, 2-6 の逆転で敗れ、全米オープン準決勝ではクリス・エバートに 4-6, 4-6 で完敗したが、こうしてデュリーは国際レベルの選手に躍進する。1984年にデュリーは地元のウィンブルドンで自己最高成績のベスト8に入ったが、この時の4回戦で当時15歳のシュテフィ・グラフ(当時西ドイツ)を 3-6, 6-3, 9-7 で退けた試合は今なお語り草になっている。 その後のデュリーは4大大会の女子シングルスで4回戦以上に勝ち残ることはできなかったが、混合ダブルスで1987年のウィンブルドンと1991年の全豪オープンに優勝を飾っている。パートナーはどちらも同じイギリスのジェレミー・ベイツと組んだ。デュリーは比較的長く現役生活を続行したが、1995年のウィンブルドン2回戦で第4シードのヤナ・ノボトナに敗れた試合の後、35歳で現役を退いた。 デュリーは女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップでも、1981年から1995年まで15年間イギリス代表選手を務めた。通算成績は34勝22敗(シングルス12勝16敗、ダブルス22勝6敗)で、フェデレーションカップではシングルスよりもダブルスで高い勝率を挙げた。通算勝利数はイギリス・チームの2位タイ記録で(1位バージニア・ウェード、2位タイがデュリーとクレア・ウッド)、ダブルス勝利数はウェードに続く単独2位記録となった。.

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スティーブ・デントン

ティーブ・デントン(Steve Denton, 1956年9月5日 - )は、アメリカ・テキサス州キングスビル出身の元男子プロテニス選手。1981年と1982年の2年連続で、全豪オープンの男子シングルス準優勝者になった選手である。男子ダブルスでは1982年の全米オープンで、ケビン・カレンとペアを組んで優勝した。混合ダブルスではウィンブルドンで1983年と1984年の2年連続準優勝がある。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス5位。ATPツアーでダブルス18勝を挙げたが、シングルスでは全豪オープンの2年連続準優勝を含めて6度の準優勝があり、1度も優勝できずに終わった不運な選手である。.

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国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

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1883年

記載なし。

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1915年

記載なし。

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1961年ウィンブルドン選手権

1961年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1961)に関する記事。イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて開催。.

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1982年ウィンブルドン選手権

1982年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1982)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1982年6月21日から7月4日にかけて開催された。.

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1982年全仏オープン

1982年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1982)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1982年5月24日から6月6日にかけて開催された。.

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1983年

この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.

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1983年全仏オープン

1983年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1983)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1983年5月23日から6月5日にかけて開催された。.

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1983年全米オープン (テニス)

1983年 全米オープン(US Open 1983)は、アメリカ・ニューヨークマンハッタンにある「USTAナショナル・テニスセンター」にて、1983年8月30日から9月11日にかけて開催された。.

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1984年ウィンブルドン選手権

1984年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1984)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1984年6月25日から7月8日にかけて開催された。.

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6月20日

6月20日(ろくがつはつか、ろくがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から171日目(閏年では172日目)にあたり、年末まであと194日ある。誕生花はオトメギキョウ、クリ。.

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7月3日

7月3日(しちがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から184日目(閏年では185日目)にあたり、年末まではあと181日ある。誕生花はハス、バラ。.

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