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1975年全豪オープン

索引 1975年全豪オープン

1975年 全豪オープン(Australian Open 1975)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1974年12月21日から1975年1月1日まで開催された。.

30 関係: マルチナ・ナブラチロワマーガレット・スミス・コートメルボルントニー・ローチヘレン・グーレイフィル・デントアレックス・メトレベリイボンヌ・グーラゴングオルガ・モロゾワオーストラリアキム・ウォーウィックグランドスラム (テニス)ケリー・レイドジミー・コナーズジョン・ニューカムジョン・アレクサンダー (テニス選手)スー・バーカー全豪オープン国際テニス連盟沢松和子12月21日1970年全豪オープン1974年1974年全米オープン (テニス)1974年全豪オープン1975年1975年全仏オープン1976年全豪オープン1985年全豪オープン1月1日

マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。 1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。 2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。.

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マーガレット・スミス・コート

マーガレット・スミス・コート(Margaret Smith Court, 1942年7月16日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の女子テニス選手。自己最高ランキングは1位。 1970年にオープン化以降女子初となる「年間グランドスラム」を達成した選手で、4大大会優勝記録で女子歴代1位の「24勝」を樹立した。 4大大会ではダブルスで19回、混合ダブルスで21回の優勝があり合計64タイトルは歴代1記録である。また混合ダブルス初の年間グランドスラムを達成しており2回の達成は史上唯一。 旧姓は「マーガレット・スミス」(Margaret Smith)であるが、バリー・コート(Barry Court)との結婚後、両方の姓を併用して「マーガレット・スミス・コート」夫人と名乗った。日本では単純に「マーガレット・コート」夫人と呼ばれることが多い。.

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メルボルン

メルボルン(Melbourne、豪語発音:, )は、オーストラリアのビクトリア州の州都で、オーストラリア大陸南東部、ポート・フィリップ湾に面したヤラ川河口の港市。オセアニア有数の世界都市。.

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トニー・ローチ

トニー・ローチ(Tony Roche, 1945年5月17日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の男子プロテニス選手。1966年の全仏選手権で優勝し、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。左利き。彼のテニスは、独特な癖のある左腕からのサービスと、華麗なボレーに特徴があった。フルネームは Anthony Dalton Roche (アントニー・ドールトン・ローチ)という。.

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ヘレン・グーレイ

ヘレン・グーレイ(Helen Gourlay, 1946年12月23日 - )は、オーストラリア・タスマニア州ローンセストン出身の女子テニス選手。1971年の全仏オープンと1977年12月開催の全豪オープンで、4大大会女子シングルスに2度の準優勝がある。どちらも決勝でイボンヌ・グーラゴングに敗れた。4大大会女子ダブルスでは、全豪オープンで4勝を挙げ、ウィンブルドンでも1977年に優勝がある。右利きの選手。彼女は1977年にイギリス人のリチャード・コーリー(Richard Cawley)と結婚した後は、夫の姓を併用して「ヘレン・グーレイ・コーリー」(Helen Gourlay-Cawley)と名乗った。.

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フィル・デント

フィル・デント(Phil Dent, 1950年2月14日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1974年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。キャリアを通じてダブルスに優れ、ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス24勝を挙げた。身長182cm、体重78kg、右利き。テーラー・デントの父親としても有名である。 フィル・デントの4大大会出場歴は1968年から始まるが、この年はテニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施された転換期であった。デントは4大大会初出場となった1968年1月の「全豪選手権」でいきなりベスト8に進出する。オープン化制度のもとで開かれた1968年「全仏オープン」には出場していないが、ウィンブルドン選手権に出場した。1969年から「全豪オープン」となった地元開催の4大大会では、1回戦でケン・ローズウォールに敗退する。彼のテニス経歴のハイライトとなった1974年の全豪オープンでは、決勝でジミー・コナーズに 6-7, 4-6, 6-4, 3-6 で敗れて準優勝に終わった。その後、デントは1977年に全仏オープンでベスト4、ウィンブルドンでベスト8入りを果たしたが、全米オープンは1973年の3回戦進出が最高で、全米との相性は良くなかった。 フィル・デントはダブルスに強く、同じオーストラリアのジョン・アレクサンダーと組んで多くの好成績を残した。地元開催の全豪オープンでは、1975年にアレクサンダーとのペアで優勝を飾ったが、1970年・1973年・1977年12月の大会で3度準優勝がある。(1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。)全仏オープンの男子ダブルスでは、1975年と1979年の2度準優勝に終わった。1975年はアレクサンダーとのペアだったが、1979年は(いつもと違って)同じオーストラリアのロス・ケースと組んだ。ウィンブルドンでも1977年にアレクサンダーとのペアで準優勝している。4大大会の男子ダブルス決勝では、通算「1勝6敗」の成績を記録した。混合ダブルスでは、1976年の全米オープンでビリー・ジーン・キング夫人と組んで優勝したことがある。 息子のテーラー・デントが1981年4月24日にアメリカ・カリフォルニア州で生まれた時、父親のフィルはまだ現役選手であった。デントは1983年11月の全豪オープン1回戦敗退を最後に現役を引退したが、息子のテーラーも世界の一流プロテニス選手へと成長し、世界でも珍しい“親子2代男子テニス選手”として活躍している。.

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アレックス・メトレベリ

アレクサンドル・イラクリエヴィチ・"アレックス"・メトレベリ(Alexander Iraklievich "Alex" Metreveli,,, 1944年11月2日 - )は、ソビエト連邦グルジア共和国トビリシ出身の男子テニス選手。.

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イボンヌ・グーラゴング

イボンヌ・グーラゴング(Evonne Goolagong, 1951年7月31日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州グリフィス出身の女子プロテニス選手。フルネームは Evonne Fay Goolagong Cawley (イボンヌ・フェイ・グーラゴング・コーリー)という。オーストラリア原住民・アボリジニの女子スポーツ選手として初の世界メジャー選手。「アボリジニ女性の星」と賞賛された。現役生活でシングルス92勝(うちWTAツアー大会は68勝、4大大会総計7勝を含む)、ダブルス11勝を挙げる。身長168cm、体重59kg、右利き。.

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オルガ・モロゾワ

ルガ・モロゾワ(Olga Morozova, Ольга Васильевна Морозова, 1949年2月22日 - )は、ソビエト連邦(現在はロシア)・モスクワ出身の元女子テニス選手。男子選手のアレックス・メトレベリと並んで、ソ連におけるテニス競技の草分けに大きく貢献した名選手である。1974年の全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続で、4大大会に準優勝した。モロゾワの経歴を通じて「ソビエト連邦出身の女子テニス選手として史上初」の業績は多い。現役生活でシングルス20勝、ダブルス10勝を挙げた。 モロゾワは1965年のウィンブルドン女子ジュニアシングルス部門に16歳で優勝し、翌1966年で本戦に初出場した。1968年、モロゾワは5歳年上の先輩選手アレックス・メトレベリと混合ダブルスのペアを組み、ソ連出身の選手として初のウィンブルドン混合ダブルス決勝に進出した。ソ連ペアは初舞台の決勝戦で、ケン・フレッチャー&マーガレット・コート(ともにオーストラリア)組に 1-6, 12-14 で敗れた。 それから、モロゾワは1969年に「モスクワ国際選手権」で初優勝を遂げ、1970年にはソ連国内のトーナメントで5勝したほかに「ヨーロッパ・アマチュア選手権」でも初優勝した。1970年には、メトレベリと組んで2年ぶり2度目のウィンブルドン混合ダブルス決勝進出もあった。2人はイリ・ナスターゼ(ルーマニア)&ロージー・カザルス(アメリカ)組に 3-6, 6-4, 7-9 で敗れ、この部門で2度の準優勝に止まったが、こうして2人はソ連におけるテニス競技の開拓者となった。モロゾワは徐々にソ連国外にも活動を広げ、1972年の「イタリアン・オープン」で初めて女子テニスツアー大会の決勝戦に進出した。この年は、ウィンブルドンを除く4大大会女子シングルスでベスト8に進出している。 1974年、オルガ・モロゾワはソ連出身の女子選手として初の4大大会決勝進出の偉業を成し遂げる。それも全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続であったが、どちらもクリス・エバートにストレートで敗れて準優勝になった。(スコア:全仏オープン決勝は 1-6, 2-6 / ウィンブルドン決勝は 0-6, 4-6)全仏オープンの女子ダブルスで、モロゾワとエバートがペアを組んで優勝を飾り、彼女はソ連の女子選手として初の4大大会タイトルをここで獲得した。(モロゾワは現役生活の間、エバートには1勝もできず「13戦全敗」で終わった。)その後、彼女は女子ダブルスで1975年全仏オープン・全豪オープン・1976年全米オープンの3度決勝に進出したが、いずれも準優勝で止まった。 モロゾワは女子国別対抗戦・フェドカップ(当時の名称は「フェデレーション・カップ」)にソ連代表選手が出場する道も開き、通算12勝4敗(シングルス8勝3敗・ダブルス4勝1敗)の成績を挙げた。ところが、1977年にソ連政府がテニス選手の海外試合出場を禁止したことにより、モロゾワは4大大会などの海外テニスツアーへの出場が不可能になり、ここで彼女のツアー経歴が終わった。 モロゾワはテニス・コーチのビクトル・ルベノフ(Victor Rubenov)と結婚し、モスクワ市内に「スパルタクラブ」というスポーツ選手育成クラブを創設した。このクラブから多くの選手が育ち、アンナ・クルニコワ、アナスタシア・ミスキナ、エレーナ・デメンティエワ、マラト・サフィンなどが世界へ巣立った。2004年の全仏オープン女子シングルス決勝で、ミスキナとデメンティエワによるテニス史上初の「ロシア対決」が実現し、ミスキナがロシア出身の女子テニス選手として最初の4大大会優勝者になった。.

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オーストラリア

ーストラリア連邦(オーストラリアれんぽう、Commonwealth of Australia)、またはオーストラリア(Australia)は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。南方の南極大陸とは7,877km離れている。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。日本での略称は「豪州」である。.

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キム・ウォーウィック

ム・ウォーウィック(Kim Warwick, 1952年4月8日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の元男子プロテニス選手。1980年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。1970年代後半から1980年代前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、4大大会で男子ダブルス4勝、混合ダブルス2勝を挙げた。ATPツアーではシングルス3勝、ダブルス26勝を挙げたが、準優勝が1980年全豪オープンを含めて8つあった。 ウォーウィックは少年時代、オーストラリアの名コーチであるビクトル・エドワーズの“秘蔵っ子”として知られた。エドワーズはイボンヌ・グーラゴングを育てたコーチであり、ウォーウィックとグーラゴングは1972年に混合ダブルスでペアを組んだ。2人は全仏オープンで地元フランスペアのジャン・クロード・バークレー&フランソワーズ・デュール組を 6-2, 6-4 で破り、続くウィンブルドンでもイリ・ナスターゼ&ロージー・カザルス組との決勝まで進出したが、ナスターゼとカザルスには 4-6, 4-6 で敗れた。その後しばらく低迷期があったが、1976年全仏オープン混合ダブルスでイラナ・クロス(南アフリカ)とペアを組み、4年ぶり2度目の優勝を果たす。ウォーウィックの4大大会男子ダブルス初優勝は、1978年全豪オープンであった。この大会で、ウォーウィックはポーランドのヴォイチェフ・フィバクと組み、決勝でポール・クロンク&クリフ・レッチャー(ともにオーストラリア)組を 7-6, 7-5 で破って初優勝を決めた。パートナーのフィバクにとっては、これはポーランドの男子テニス選手として初めて獲得した4大大会タイトルであった。 それから2年後、1980年全豪オープンでウォーウィックは男子シングルス・男子ダブルスの2部門に決勝進出を果たした。当時の全豪オープン男子シングルスは、64名の選手による6回戦制で行われていた。第14シードのウォーウィックは、準決勝で大会3連覇を目指した第1シードのギレルモ・ビラスを 6-7, 6-4, 6-2, 2-6, 6-4 で破ったが、決勝ではブライアン・ティーチャー(アメリカ)に 5-7, 6-7, 2-6 のストレートで敗れて準優勝になった。男子ダブルスではマーク・エドモンドソンとペアを組んで優勝し、それ以後ウォーウィックはエドモンドソンとペアを組む機会が多くなった。1981年全豪オープンで、ウォーウィック&エドモンドソン組は男子ダブルス2連覇を達成する。1982年はシングルスで好成績があり、全米オープンでイワン・レンドルとの準々決勝に進出した。 4年後の1985年、ウォーウィックとエドモンドソンは全仏オープン男子ダブルスで初優勝を飾り、このペアで4大大会3勝目を挙げた。2人は決勝でシュロモ・グリックスタイン(イスラエル)&ハンス・シモンソン(スウェーデン)組に 6-3, 6-4, 6-7, 6-3 で競り勝った。ウォーウィックにとっては、1972年と1976年の混合ダブルス優勝以来、9年ぶり3個目の全仏オープンタイトルになる。ところが、半年後の全豪オープン男子ダブルス決勝で、ウォーウィックとエドモンドソンはポール・アナコーン(アメリカ)&クリスト・バン・レンスバーグ(南アフリカ)組に 6-3, 6-7, 4-6, 4-6 で敗れ、4年ぶりの優勝を逃した。当時の全豪オープンは、1978年から1985年まで12月の年末開催であったため、1月開催となった現在の感覚とは大きく異なる点が注意を要する。 キム・ウォーウィックは「ジャパン・オープン」で何度か日本を訪れたこともあり、1977年の大会で単複の決勝進出があった。ダブルスでは同じオーストラリアのジェフ・マスターズとペアを組んで優勝したが、シングルス決勝ではマニュエル・オランテスに敗れている。彼のテニス経歴を通じて、ダブルスでは1987年まで優勝記録があり、通算「26勝」を獲得した。“エドワーズの秘蔵っ子”からスタートしたウォーウィックは、1989年に37歳で現役を引退した。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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ケリー・レイド

リー・レイド(Kerry Reid, 1947年8月7日 - )は、オーストラリア・モスマン出身の元女子プロテニス選手。1977年の全豪オープン女子シングルス優勝者で、1972年全米オープンの準優勝もある。女子ダブルスでも1968年の全豪選手権(当時の名称)と1978年のウィンブルドンで優勝した。フルネームは Kerry Ann Melville Reid (ケリー・アン・メルビル・レイド)という。旧姓は「ケリー・メルビル」(Kerry Melville)というが、ラズ・レイド(Raz Reid)と結婚した。種々のテニス文献の中でも、彼女の名前表記はさまざまに異なっているが、本記事では1977年全豪オープン優勝時の、最も広く知られた「ケリー・レイド」を見出しとして記載する。WTAツアーでシングルス通算22勝、ダブルス12勝を挙げた。身長166cm、体重57kg、右利き。.

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ジミー・コナーズ

ミー・コナーズ(Jimmy Connors, 1952年9月2日 - )は、アメリカ・イリノイ州ベルビル出身の元男子プロテニス選手。フルネームは James Scott Connors (ジェームズ・スコット・コナーズ)という。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(U.C.L.A.)出身。 ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドルらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。コナーズは1970年代の男子テニス界に長らく王者として君臨した。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会通算8勝は、フレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、イワン・レンドル、アンドレ・アガシと並ぶ男子テニス歴代8位タイ記録。 ATPツアーのシングルスではいずれも男子歴代1位のツアー109勝、シングルス1243勝などの大記録を持つ。世界ランキング1位連続保持記録「160週」は歴代2位(当時歴代1位、2007年2月26日にロジャー・フェデラーがコナーズの記録を更新し、2008年8月17日まで「237週」を記録)。また世界ランキング1位通算在位記録「268週」は当時歴代最長で、現在でもフェデラー(302週)、サンプラス(286週)、レンドル(270週)に次ぐ歴代4位である。 闘志溢れるプレーで高い人気を集め、観客を自分の味方につける術にも優れた選手だった。.

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ジョン・ニューカム

ョン・ニューカム(John Newcombe, 1944年5月23日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1960年代から1970年代前半にかけて、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。フルネームは John David Newcombe (ジョン・デビッド・ニューカム)という。重いサービスとフォアハンド・ストローク、ボレーを中心に組み立てるプレー・スタイルで、芝生のウィンブルドン選手権を最も得意にした。4大大会でシングルス通算「7勝」(全豪オープン2勝、ウィンブルドン3勝、全米オープン2勝)を挙げたが、赤土のクレーコートが苦手で、全仏オープンではどうしても優勝できなかった選手の1人である。.

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ジョン・アレクサンダー (テニス選手)

ョン・ギルバート・アレクサンダー(John Gilbert Alexander, 1951年7月4日 - )はオーストラリア・シドニー出身の元男子プロテニス選手。主に1970年代に活動し、4大大会男子ダブルスで2度の優勝と4度の準優勝を挙げた。ATPでシングルス7勝、ダブルス27勝を挙げる。ATPランキング自己最高位はシングルス8位、ダブルス15位。ダブルス優勝の多くは同郷のフィル・デントと組んで獲得した物である。.

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スー・バーカー

ー・バーカー(Sue Barker, 1956年4月19日 - )は、イングランド・ペイントン出身の元女子プロテニス選手。1976年の全仏オープン女子シングルス優勝者である。WTAツアーでシングルス15勝、ダブルス16勝を挙げた。強力なフォアハンド・ストロークを最大の武器にした選手である。 スー・バーカーが優勝した1976年当時、全仏オープンの女子シングルスは64名の選手による6回戦制で行われ、現在とは1ラウンド小さい規模のトーナメントであった。バーカーはこの大会で、3回戦から決勝までフルセットの試合が続き、決勝でもレナータ・トマノワ(チェコスロバキア)を 6-2, 0-6, 6-2 で退けた。この年はバーカーのテニス経歴でも最盛期にあたり、ウィンブルドンでは第7シードとして、4回戦でブラジルのマリア・ブエノを破ったが、準々決勝で第4シードのマルチナ・ナブラチロワに 3-6, 6-3, 5-7 で競り負ける。全米オープンでは、4回戦で第1シードのクリス・エバートに 1-6, 0-6 で完敗した。 その後、バーカーの4大大会女子シングルスの成績は、1978年のウィンブルドンで第5シードのビリー・ジーン・キングに敗れた4回戦進出と、1980年と1981年の2年連続で全豪オープンのベスト16入りがあった。シングルスでは1973年から1981年まで優勝記録がある。ダブルスではキャリアの後半に、日系人選手のアン清村と組んで多くのタイトルを獲得した。1984年に現役を引退し、現在はBBCテレビの解説者として活動している。2000年以後、ウィンブルドン選手権で男女シングルス決勝戦終了後のインタビューを担当している人が、このバーカーである。 イギリスのテニス界からは、1977年のバージニア・ウェードを最後に地元ウィンブルドン選手権女子シングルスの優勝者が出現していない(2013年ウィンブルドン選手権男子シングルスでアンディ・マリーが77年ぶりに優勝した)。とはいえ、全仏オープンでも1976年のスー・バーカーを最後に、男女ともイギリス人のシングルス優勝者は出現していない。.

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全豪オープン

メルボルン・パークの1番コート。「マーガレット・コート・アリーナ」の名前がある 全豪オープンテニス(英語:Australian Open)は、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。.

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国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

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沢松和子

沢松 和子(さわまつ かずこ, 1951年1月5日 - )は、兵庫県西宮市出身の元女子テニス選手。神戸松蔭女子学院大学卒業。身長174cm、体重61kg、右利き。日本人初のテニスプロ選手。 1975年のウィンブルドン女子ダブルス部門で、日系人選手のアン清村とペアを組んで優勝し、日本人女子テニス選手として史上初の4大大会タイトルを獲得した名選手である。シングルスでは日本人女子初のグランドスラムベスト4進出を果たした。 姉の沢松順子もテニス選手で、沢松奈生子は姪(順子の娘)にあたる。.

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12月21日

12月21日(じゅうにがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から355日目(閏年では356日目)にあたり、年末まであと10日ある。.

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1970年全豪オープン

1970年 全豪オープン(Australian Open 1970)は、オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」において、1970年1月19日から27日まで開催された。.

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1974年

記載なし。

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1974年全米オープン (テニス)

1974年 全米オープン(US Open 1974)は、アメリカ・ニューヨーク市クイーンズ区フォレストヒルズにある「ウエストサイド・テニスクラブ」にて、1974年8月27日から9月8日にかけて開催された。.

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1974年全豪オープン

1974年 全豪オープン(Australian Open 1974)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1973年12月26日から1974年1月1日まで開催された。.

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1975年

記載なし。

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1975年全仏オープン

1975年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1975)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1975年6月2日から15日にかけて開催された。.

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1976年全豪オープン

1976年 全豪オープン(Australian Open 1976 )は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1975年12月26日から1976年1月4日まで開催された。.

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1985年全豪オープン

1985年 全豪オープン(Australian Open 1985)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1985年11月25日から12月8日まで開催された。.

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1月1日

1月1日(いちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から1日目に当たり、年末まであと364日(閏年では365日)ある。誕生花は松(黒松)、または福寿草。 キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる。.

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1975年全豪オープンテニス

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