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1975年全仏オープン

索引 1975年全仏オープン

1975年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1975)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1975年6月2日から15日にかけて開催された。.

35 関係: マルチナ・ナブラチロワマニュエル・オランテスハロルド・ソロモンヤン・コデシュラウル・ラミレスロスコー・タナーヘルガ・マストホフブライアン・ゴットフリートパリビョルン・ボルグフランスフィル・デントフィオレラ・ボニセジアレックス・メトレベリアドリアーノ・パナッタイリ・ナスターゼオルガ・モロゾワオニー・パルンギリェルモ・ビラスクリス・エバートグランドスラム (テニス)ジュリー・ヘルドマンジョン・アレクサンダー (テニス選手)スタン・スミススタッド・ローラン・ギャロス全仏オープン国際テニス連盟沢松和子1974年全仏オープン1975年1975年ウィンブルドン選手権1975年全豪オープン1976年全仏オープン6月15日6月2日

マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。 1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。 2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。.

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マニュエル・オランテス

マニュエル・オランテス・コルラル(Manuel Orantes Corral, 1949年2月6日 - )は、スペイン・グラナダ出身の男子プロテニス選手。1970年代から1980年代前半にかけて活躍し、1975年の全米オープン男子シングルスで優勝した。左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス33勝、ダブルス22勝を挙げた。身長177cm、体重75kgで、男子テニス選手としてはやや小柄な体格だった。.

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ハロルド・ソロモン

ハロルド・ソロモン(Harold Solomon, 1952年9月17日 - )は、アメリカ・ワシントン出身の元男子プロテニス選手。1976年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは5位。ATPツアーでシングルス22勝、ダブルス1勝を挙げた。身長167cm、体重59kgで、男子プロテニス界では小柄な体格の選手だった。ソロモンは“the human backboard”(人間バックボード)と呼ばれたほど温厚な人柄の持ち主だったが、対戦相手の選手たちは彼の巧みなロブショットやリターンに“いらだつ”ことが多かったという。.

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ヤン・コデシュ

ヤン・コデシュ(Jan Kodeš, 1946年3月1日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の男子テニス選手。1970年代前半、まだチェコスロバキアが共産主義の支配下にあった時代に活躍した名選手である。コデシュは他のチェコスロバキア出身選手の大半とは異なり、国内にとどまって活動したことから、チェコスロバキアの国民的英雄として幅広い尊敬を集めた。4大大会の男子シングルスでは通算「3勝」を挙げ、1970年と1971年に全仏オープンで大会2連覇を飾り、1973年にウィンブルドンでも優勝している。コデシュのテニスは、粘り強いグラウンド・ストロークを中心に組み立てるベースライン・プレーヤーだった。.

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ラウル・ラミレス

ラウル・ラミレス(Raúl Ramírez, 1953年6月20日 - )は、メキシコ・エンセナダ出身の元男子プロテニス選手。フルネームは Raúl Carlos Ramírez (ラウル・カルロス・ラミレス)という。1970年代にメキシコを代表する選手として活動し、ATPツアーでシングルス19勝、ダブルス60勝を挙げた実力者である。ダブルスではアメリカのブライアン・ゴットフリートとペアを組んで39個のタイトルを獲得し、4大大会の男子ダブルスでも全仏オープンで1975年と1977年、ウィンブルドンで1976年に優勝した。シングルス自己最高ランキングは4位。身長182cm、体重79kg、右利き。 ラミレスは少年時代、当地最大の男子テニス選手であるラファエル・オスナの指導を受けたが、オスナが1969年6月に飛行機事故で死去した。ラミレスはアメリカ・南カリフォルニア大学で研鑽を積み、そこでブライアン・ゴットフリートと一緒に練習した。オスナの死去から2年後、1971年にラミレスはプロテニス界にデビューする。この年の全米オープンで4大大会に初出場したラミレスは、1回戦でスタン・スミスに敗れた。1973年のウィンブルドンで、ラミレスはジャネット・ニューベリー(アメリカ)と混合ダブルスのペアを組み、オーウェン・デビッドソン&ビリー・ジーン・キング夫人(ともにアメリカ)組との決勝まで勝ち進んだ。ウィンブルドン混合ダブルス準優勝の直後、7月にオーストリア・キッツビュール大会で単複優勝を飾り、ここからラミレスの優勝記録が始まる。 1974年から1978年まで、ラミレスは全仏オープンで5年連続のベスト8に入った。彼のダブルスは、最初はイギリスのクリストファー・モットラム(“バスター・モットラム”の愛称で知られる)などと組むことが多かったが、1974年5月から大半のトーナメントをブライアン・ゴットフリートと組むようになった。1975年、ラミレスとゴットフリートはダブルスで年間「12勝」を記録する。この年から1977年まで、ラミレスとゴットフリートは全仏オープンの男子ダブルスに3年連続決勝進出を果たす。1975年の全仏男子ダブルス決勝で、2人はオーストラリアペアのフィル・デント&ジョン・アレクサンダー組を 6-4, 2-6, 6-2, 6-4 で破り、4大大会初優勝を飾った。 ラウル・ラミレスは1975年、1度「ジャパン・オープン」で来日したことがあり、この大会で単複優勝を飾った。シングルス決勝では、準々決勝でジョン・ニューカム、準決勝でケン・ローズウォールを破って勝ち進み、決勝では当年度の全米オープン優勝者マニュエル・オランテスを 6-4, 7-5, 6-3 で破って優勝した。ゴットフリートとのダブルスでも、決勝でオランテスとフアン・ヒスベルト組に 7-6, 6-4 で勝ち、単複ともオランテスを破っている。このタイトルは、2人が最盛期の1975年にダブルスで獲得した年間「12勝」のひとつである。 ラミレスのテニス経歴のハイライトは、1976年の全仏オープンとウィンブルドンで訪れた。この2大会連続で、ラミレスはメキシコの男子テニス選手として史上初のシングルス準決勝に進み、ゴットフリートとのダブルスで決勝に進出した。全仏オープンのシングルス準決勝では、ラミレスはハロルド・ソロモン(アメリカ)に 7-6, 0-6, 6-4, 4-6, 4-6 のフルセットで敗れ、ダブルス決勝でもシャーウッド・スチュワート&フレッド・マクネアー(ともにアメリカ)組に敗れて2連覇を逃した。続くウィンブルドンでは、シングルス準決勝ではイリ・ナスターゼに 2-6, 7-9, 3-6 で敗れたが、ダブルス決勝でロス・ケース&ジェフ・マスターズ(ともにオーストラリア)組を 3-6, 6-3, 8-6, 2-6, 7-5 の熱戦の末に破り、4大大会ダブルス2勝目を達成した。この年、ラミレスはシングルスで自己最高の年間4勝を記録する。 1977年の全仏オープンで、ラウル・ラミレスは2年連続のシングルス準決勝に進出する。準々決勝では前年優勝者のアドリアーノ・パナッタに 7-6, 6-3, 7-5 で快勝し、このイタリア人選手の大会連覇を阻止したが、2年連続の準決勝ではギリェルモ・ビラスに 2-6, 0-6, 3-6 で完敗した。ゴットフリートと組んだ男子ダブルスでは、決勝でヤン・コデシュ(チェコスロバキア)&ヴォイチェフ・フィバク(ポーランド)組を 7-6, 4-6, 6-3, 6-4 で破り、2年ぶり2度目の優勝を飾った。1978年は全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープンで3大会連続のシングルス準々決勝進出がある。1963年の全米選手権優勝者になった先輩選手のラファエル・オスナは、全仏選手権は1964年の4回戦、ウィンブルドン選手権は3度のベスト8が自己最高成績であったため、ラミレスはこの2大会でオスナを上回る成績を出したが、あと一歩で決勝戦に手が届かなかった。 1979年に入ると、ラミレスのシングルス成績は下降し始める。ゴットフリートとのダブルスでは、1979年ウィンブルドンと1980年全仏オープンで準優勝があった。キャリアを通じて、精力的に多数の試合をこなしたラウル・ラミレスは、現役引退する1983年までシングルス・ダブルスとも優勝記録を残したが、1983年ウィンブルドンでカシオ・モッタ(ブラジル)との1回戦を 6-7, 1-6, 6-2, 2-3 で途中棄権した試合を最後に、30歳で現役を引退した。.

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ロスコー・タナー

ー・タナー(Roscoe Tanner、1951年10月15日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州チャタヌーガ出身の元男子プロテニス選手。1977年の全豪オープン男子シングルス優勝者で、1979年のウィンブルドン準優勝でもよく知られた選手である。シングルス自己最高ランキングは4位。身長182cm、体重77kg、左利き。左腕から繰り出す、威力あふれるサービスを最大の武器とした。しかし、同時代の選手としてジミー・コナーズやビョルン・ボルグなどの強豪選手がいたこともあり、現在の印象はやや薄くなった存在でもある。ATPツアーでシングルス16勝、ダブルス13勝を挙げた。.

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ヘルガ・マストホフ

ヘルガ・マストホフ(Helga Masthoff, 1941年11月11日 - )は、ドイツ・エッセン出身の女子テニス選手。1970年の全仏オープン女子シングルス準優勝者。1960年代から1970年代にかけて、旧西ドイツを代表する女子選手として活動した。旧姓「ヘルガ・ニーセン」(Helga Niessen)といい、1970年全仏準優勝当時はこの名前であったが、結婚後は夫の姓のみを用いて「ヘルガ・マストホフ」と名乗った。彼女は身長184cmほどの長身選手で、全仏オープンをはじめ、赤土のクレーコートを最も得意にした。.

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ブライアン・ゴットフリート

ブライアン・ゴットフリート(Brian Gottfried, 1952年1月27日 - )は、アメリカの元プロテニス選手。メリーランド州ボルチモアでユダヤ系の家庭に生まれる。同時にウェールズ系の血も引く。 1977年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。ダブルスではメキシコのラウル・ラミレスとペアを組んで数多くのタイトルを獲得し、全仏オープンの男子ダブルスで1975年と1977年の2度、ウィンブルドンでも1976年の男子ダブルスを制覇した。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス2位。ATPツアーでシングルス25勝、ダブルス54勝を挙げた。身長182cm、体重75kg、右利き。フルネームは Brian Edward Gottfried (ブライアン・エドワード・ゴットフリート)という。.

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パリ

ランドサット パリの行政区 パリ(Paris、巴里)は、フランス北部、イル=ド=フランス地域圏にある都市。フランスの首都であり、イル=ド=フランス地域圏の首府である。 フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心である。ロンドン、ニューヨーク、香港、東京などと並ぶ世界トップクラスの世界都市でもある。行政上では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカルゴと形容される)。.

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ビョルン・ボルグ

ビョルン・ボルグ(またはビョーン・ボーリ、ビェーン・ボリなど、Björn Borg, 1956年6月6日 - )は、スウェーデン・セデーテイェ(首都ストックホルム近郊の都市)出身の元男子プロテニス選手。ジミー・コナーズ(アメリカ)やジョン・マッケンロー(アメリカ)らと並んで、男子テニスの黄金時代を築いた名選手のひとりである。全仏オープンに4連覇を含む6勝、ウィンブルドン選手権で5連覇を達成した。4大大会通算「11勝」は、ロッド・レーバー(オーストラリア)と並ぶ男子歴代6位タイ記録。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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フィル・デント

フィル・デント(Phil Dent, 1950年2月14日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1974年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。キャリアを通じてダブルスに優れ、ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス24勝を挙げた。身長182cm、体重78kg、右利き。テーラー・デントの父親としても有名である。 フィル・デントの4大大会出場歴は1968年から始まるが、この年はテニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施された転換期であった。デントは4大大会初出場となった1968年1月の「全豪選手権」でいきなりベスト8に進出する。オープン化制度のもとで開かれた1968年「全仏オープン」には出場していないが、ウィンブルドン選手権に出場した。1969年から「全豪オープン」となった地元開催の4大大会では、1回戦でケン・ローズウォールに敗退する。彼のテニス経歴のハイライトとなった1974年の全豪オープンでは、決勝でジミー・コナーズに 6-7, 4-6, 6-4, 3-6 で敗れて準優勝に終わった。その後、デントは1977年に全仏オープンでベスト4、ウィンブルドンでベスト8入りを果たしたが、全米オープンは1973年の3回戦進出が最高で、全米との相性は良くなかった。 フィル・デントはダブルスに強く、同じオーストラリアのジョン・アレクサンダーと組んで多くの好成績を残した。地元開催の全豪オープンでは、1975年にアレクサンダーとのペアで優勝を飾ったが、1970年・1973年・1977年12月の大会で3度準優勝がある。(1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。)全仏オープンの男子ダブルスでは、1975年と1979年の2度準優勝に終わった。1975年はアレクサンダーとのペアだったが、1979年は(いつもと違って)同じオーストラリアのロス・ケースと組んだ。ウィンブルドンでも1977年にアレクサンダーとのペアで準優勝している。4大大会の男子ダブルス決勝では、通算「1勝6敗」の成績を記録した。混合ダブルスでは、1976年の全米オープンでビリー・ジーン・キング夫人と組んで優勝したことがある。 息子のテーラー・デントが1981年4月24日にアメリカ・カリフォルニア州で生まれた時、父親のフィルはまだ現役選手であった。デントは1983年11月の全豪オープン1回戦敗退を最後に現役を引退したが、息子のテーラーも世界の一流プロテニス選手へと成長し、世界でも珍しい“親子2代男子テニス選手”として活躍している。.

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フィオレラ・ボニセジ

フィオレラ・ボニセジ(Fiorella Bonicelli, 1951年12月21日 - )は、ウルグアイの元女子プロテニス選手。ペルーのリマに生まれる。全仏オープンで1975年の混合ダブルス部門、1976年の女子ダブルス部門に優勝し、当地のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった選手である。WTAツアー大会では、シングルスの優勝はなかったが(準優勝2度)、ダブルスで1976年全仏オープンを含む2勝を挙げた。 ボニセジはペルーの首都リマで生まれたが、人生の大半をウルグアイの首都モンテビデオで過ごしてきた。9歳からテニスを始め、1968年からウルグアイの第一人者になる。1972年、ウルグアイは女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」に初参加を果たし、ボニセジは当地のエースとして活躍し始める。フェデレーション杯初参加から3年後の1975年、ボニセジは全仏オープンの混合ダブルスでトーマス・コッホ(ブラジル)とペアを組み、決勝でハイメ・フィヨル(チリ)&パム・ティーガーデン(アメリカ)組を 6-4, 7-6 で破って初優勝を果たした。 翌1976年、ボニセジは全仏オープンで女子ダブルス優勝を達成した。パートナーは地元フランスのゲイル・シェリフと組み、キャスリーン・ハーター(アメリカ)&ヘルガ・マストホフ(西ドイツ)組を 6-4, 1-6, 6-3 で破った。こうしてボニセジは、全仏オープンで2つのタイトルを獲得し、ウルグアイのテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。 シングルスでのボニセジは、1978年全仏オープンのベスト8進出が自己最高成績である。ウィンブルドンでは1974年、全米オープンでは1972年と1977年の2度3回戦進出があった。1978年ウィンブルドンの1回戦でフランソワーズ・デュールに敗れた試合を最後に、ボニセジは26歳でテニス界の第一線から退いた。それから8年後の1986年、もう1度フェデレーションカップに参加したことがある。 フィオレラ・ボニセジの1976年全仏女子ダブルス優勝から32年後、2008年全仏オープンでパブロ・クエバスが男子ダブルス優勝者になり、ウルグアイの男子テニス選手として初めてのグランドスラム・タイトルを獲得した。.

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アレックス・メトレベリ

アレクサンドル・イラクリエヴィチ・"アレックス"・メトレベリ(Alexander Iraklievich "Alex" Metreveli,,, 1944年11月2日 - )は、ソビエト連邦グルジア共和国トビリシ出身の男子テニス選手。.

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アドリアーノ・パナッタ

アドリアーノ・パナッタ(Adriano Panatta, 1950年7月9日 - )は、イタリア・ローマ出身の男子プロテニス選手。1976年の全仏オープン男子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス17勝を挙げた。身長183cm、体重81kg、右利き。.

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イリ・ナスターゼ

イリ・ナスターゼ(Ilie Năstase, 1946年7月19日 - )は、ルーマニア・ブカレスト出身の男子プロテニス選手。1972年全米オープンと1973年全仏オープンの男子シングルスで優勝し、ルーマニア人のテニス選手として史上初の4大大会優勝者になった。当地最大のテニス選手であるナスターゼは、体操のナディア・コマネチと並んでルーマニアが生んだ最大のスポーツ選手のひとりに数えられる。1973年に世界ランキング1位の座につき、現役生活を通じてシングルス57勝、ダブルス45勝を挙げた。彼はまた、テニスの歴史を通じて最も個性的なキャラクターの選手でもあり、“Bucharest Buffoon”(ブカレストの道化師)というニックネームで呼ばれた。コートマナーが非常に悪く、物議を醸す振る舞いも多かったことから、語呂合わせで“Nasty Nastase”(癇癪持ちのナスターゼ)と呼ばれたこともある。身長182cm、体重75kg、右利き。.

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オルガ・モロゾワ

ルガ・モロゾワ(Olga Morozova, Ольга Васильевна Морозова, 1949年2月22日 - )は、ソビエト連邦(現在はロシア)・モスクワ出身の元女子テニス選手。男子選手のアレックス・メトレベリと並んで、ソ連におけるテニス競技の草分けに大きく貢献した名選手である。1974年の全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続で、4大大会に準優勝した。モロゾワの経歴を通じて「ソビエト連邦出身の女子テニス選手として史上初」の業績は多い。現役生活でシングルス20勝、ダブルス10勝を挙げた。 モロゾワは1965年のウィンブルドン女子ジュニアシングルス部門に16歳で優勝し、翌1966年で本戦に初出場した。1968年、モロゾワは5歳年上の先輩選手アレックス・メトレベリと混合ダブルスのペアを組み、ソ連出身の選手として初のウィンブルドン混合ダブルス決勝に進出した。ソ連ペアは初舞台の決勝戦で、ケン・フレッチャー&マーガレット・コート(ともにオーストラリア)組に 1-6, 12-14 で敗れた。 それから、モロゾワは1969年に「モスクワ国際選手権」で初優勝を遂げ、1970年にはソ連国内のトーナメントで5勝したほかに「ヨーロッパ・アマチュア選手権」でも初優勝した。1970年には、メトレベリと組んで2年ぶり2度目のウィンブルドン混合ダブルス決勝進出もあった。2人はイリ・ナスターゼ(ルーマニア)&ロージー・カザルス(アメリカ)組に 3-6, 6-4, 7-9 で敗れ、この部門で2度の準優勝に止まったが、こうして2人はソ連におけるテニス競技の開拓者となった。モロゾワは徐々にソ連国外にも活動を広げ、1972年の「イタリアン・オープン」で初めて女子テニスツアー大会の決勝戦に進出した。この年は、ウィンブルドンを除く4大大会女子シングルスでベスト8に進出している。 1974年、オルガ・モロゾワはソ連出身の女子選手として初の4大大会決勝進出の偉業を成し遂げる。それも全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続であったが、どちらもクリス・エバートにストレートで敗れて準優勝になった。(スコア:全仏オープン決勝は 1-6, 2-6 / ウィンブルドン決勝は 0-6, 4-6)全仏オープンの女子ダブルスで、モロゾワとエバートがペアを組んで優勝を飾り、彼女はソ連の女子選手として初の4大大会タイトルをここで獲得した。(モロゾワは現役生活の間、エバートには1勝もできず「13戦全敗」で終わった。)その後、彼女は女子ダブルスで1975年全仏オープン・全豪オープン・1976年全米オープンの3度決勝に進出したが、いずれも準優勝で止まった。 モロゾワは女子国別対抗戦・フェドカップ(当時の名称は「フェデレーション・カップ」)にソ連代表選手が出場する道も開き、通算12勝4敗(シングルス8勝3敗・ダブルス4勝1敗)の成績を挙げた。ところが、1977年にソ連政府がテニス選手の海外試合出場を禁止したことにより、モロゾワは4大大会などの海外テニスツアーへの出場が不可能になり、ここで彼女のツアー経歴が終わった。 モロゾワはテニス・コーチのビクトル・ルベノフ(Victor Rubenov)と結婚し、モスクワ市内に「スパルタクラブ」というスポーツ選手育成クラブを創設した。このクラブから多くの選手が育ち、アンナ・クルニコワ、アナスタシア・ミスキナ、エレーナ・デメンティエワ、マラト・サフィンなどが世界へ巣立った。2004年の全仏オープン女子シングルス決勝で、ミスキナとデメンティエワによるテニス史上初の「ロシア対決」が実現し、ミスキナがロシア出身の女子テニス選手として最初の4大大会優勝者になった。.

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オニー・パルン

ニー・パルン(Onny Parun, 1947年4月15日 - )は、ニュージーランド・ウェリントン出身の元男子プロテニス選手。1973年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。ダブルスでは1974年の全仏オープンで、オーストラリアのディック・クリーリーとペアを組んだ優勝がある。シングルス自己最高ランキングは19位。身長187cm、体重76kg、右利きの選手。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルスで1974年全仏オープンを含む2勝を挙げた。 ユーゴスラビア人とオーストラリア人の両親の間に生まれたパルンは、1967年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのニュージーランド代表選手に選ばれた。彼は芝生コートで優れた才能を発揮し、1971年と1972年の2年連続でウィンブルドンのベスト8に入る。1973年の全豪オープンは、1972年と1973年の年末年始をまたいで行われた。パルンは初進出の決勝でジョン・ニューカムに 3-6, 7-6, 5-7, 1-6 で敗れ、大会黎明期の1906年と1909年に2勝を挙げたアンソニー・ワイルディング以来となる、ニュージーランド選手としての全豪優勝を逃した。全豪で準優勝した1973年は、全米オープンでもスタン・スミスとの準々決勝まで勝ち進んでいる。 翌1974年の全仏オープンで、オニー・パルンはディック・クリーリー(1970年全豪オープン準優勝者)とペアを組み、男子ダブルス初優勝を飾った。全仏男子ダブルス決勝戦の相手は、アメリカの強豪ペアであるスタン・スミス&ボブ・ルッツ組であった。先にパルン&クリーリー組が2セットを連取したが、スミス&ルッツ組が第3・第4セットを連取し、試合は最終第5セットまでもつれた。第5セットはパルン&クリーリー組のペースで進み、最終スコア 6-3, 6-2, 3-6, 5-7, 6-1 で初優勝を決めた。全仏オープンの2ヶ月前、パルンは当時の男子プロテニスツアーであった「ワールド・チャンピオンシップ・テニス」(World Championship Tennis, 略称 WCT)の東京大会でもダブルス優勝がある。この大会では、パルンは南アフリカのレイモンド・ムーアとペアを組んだ。 1976年の前半、パルンはニュージーランド・オークランド大会と「ヨハネスブルグWCT」で男子ツアーのシングルスに2勝を挙げたが、全米オープンの1回戦でイリ・ナスターゼとの対戦中に足首を痛めてしまう。この故障からの回復が思わしくなかったため、彼の最盛期はあまり長く続かず、前述の2大会を最後にツアーでの優勝が途絶えた。最後の好成績は、1980年ウィンブルドンの4回戦進出であった。パルンは1982年3月、デビスカップの「ワールドグループ」1回戦を最後に現役を引退した。.

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ギリェルモ・ビラス

リェルモ・ビラス(Guillermo Vilas, 1952年8月17日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれマル・デル・プラタ育ちの元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手として、4大大会通算「4勝」を挙げた選手である。身長180cm、体重75kg、左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス62勝、ダブルス16勝。 オープン化以降2人目となる通算900勝。またクレーコートで600勝以上挙げている。1977年にはグランドスラム2冠・46連勝・クレーコート53連勝・オープン化記録となるシーズン134勝を達成。 またオープン化以降初となる同一大会優勝8回を達成(ブエノスアイレス大会)。 長髪をバンダナで束ねた風貌でも強い印象を持ち、「パンパスの若き雄牛」(Young Bull of the Pampas)というニックネームで呼ばれた。 彼はジミー・コナーズと同い年であり、ビョルン・ボルグやジョン・マッケンローなども同世代のライバル選手だった。ビラスは彼らと並んで、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を刻んだ選手のひとりに数えられる。特にクレーコートに強く数多の記録を保持している。.

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クリス・エバート

リス・エバート(Chris Evert, 1954年12月21日 - )は、アメリカ・フロリダ州フォートローダーデール出身の元女子プロテニス選手。フルネームは Christine Marie Evert (クリスティン・マリー・エバート)というが、「クリス・エバート」の名前で最もよく知られる。愛称の「クリッシー」“Chrissie”で呼ばれることも多い。父親のジミー・エバートと妹のジャンヌ・エバートも元プロテニス選手である。好敵手であるマルチナ・ナブラチロワとともに、1970年代から1980年代前半の女子テニス界を牽引した。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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ジュリー・ヘルドマン

ュリー・ヘルドマン(Julie Heldman, 1945年12月8日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州バークレー出身の元女子プロテニス選手。名門のテニス一家に生まれ育ち、1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカを代表する女子選手のひとりとして活動した。彼女はウィンブルドンを除く4大大会で女子シングルスのベスト4に入ったが、決勝戦には進出できず、故障のため早い年齢での現役引退を余儀なくされた。.

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ジョン・アレクサンダー (テニス選手)

ョン・ギルバート・アレクサンダー(John Gilbert Alexander, 1951年7月4日 - )はオーストラリア・シドニー出身の元男子プロテニス選手。主に1970年代に活動し、4大大会男子ダブルスで2度の優勝と4度の準優勝を挙げた。ATPでシングルス7勝、ダブルス27勝を挙げる。ATPランキング自己最高位はシングルス8位、ダブルス15位。ダブルス優勝の多くは同郷のフィル・デントと組んで獲得した物である。.

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スタン・スミス

タン・スミス(Stan Smith, 1946年12月14日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州パサデナ出身の男子テニス選手。フルネームは Stanley Roger Smith (スタンレー・ロジャー・スミス)という。1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカを代表する選手として活躍した。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでアメリカ・チームに「7勝」をもたらした選手としてよく知られ、当時のアメリカの国民的英雄でもあった。プロテニス選手としてシングルス39勝、ダブルス61勝を挙げ、通算「100勝」を記録した。優れたテニスコーチとしても有名である。.

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スタッド・ローラン・ギャロス

ンターコート(フィリップ・シャトリエ・コート) スザンヌ・ランラン・コート スタッド・ローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)はフランス・パリの名所「ブローニュの森」にあるテニス競技場(テニスコート)。.

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全仏オープン

全仏オープンのセンターコート(フィリップ・シャトリエ・コート) 全仏オープン(ぜんふつオープン、フランス語:Les Internationaux de France, Le Tournoi de Roland-Garros, 英語:The French Open)は、テニスの4大国際大会であるグランドスラムの一つ。フランスの首都パリの名所ブローニュの森の隣接するスタッド・ローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)にて、5月末から6月初めにかけて開催される。大会運営はフランステニス連盟(FFT)が行う。 飛行家ローラン・ギャロス(1888年 - 1918年)の功績を称えて、会場にはギャロスの名前が冠されている。このため本大会は「ローラン・ギャロス・トーナメント」(Le Tournoi de Roland Garros)とも呼ばれる。.

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国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

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沢松和子

沢松 和子(さわまつ かずこ, 1951年1月5日 - )は、兵庫県西宮市出身の元女子テニス選手。神戸松蔭女子学院大学卒業。身長174cm、体重61kg、右利き。日本人初のテニスプロ選手。 1975年のウィンブルドン女子ダブルス部門で、日系人選手のアン清村とペアを組んで優勝し、日本人女子テニス選手として史上初の4大大会タイトルを獲得した名選手である。シングルスでは日本人女子初のグランドスラムベスト4進出を果たした。 姉の沢松順子もテニス選手で、沢松奈生子は姪(順子の娘)にあたる。.

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1974年全仏オープン

1974年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1974)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1974年6月3日から16日にかけて開催された。.

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1975年

記載なし。

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1975年ウィンブルドン選手権

1975年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1975)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1975年6月23日から7月5日にかけて開催された。.

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1975年全豪オープン

1975年 全豪オープン(Australian Open 1975)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1974年12月21日から1975年1月1日まで開催された。.

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1976年全仏オープン

1976年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1976)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1976年5月31日から6月13日にかけて開催された。.

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6月15日

6月15日(ろくがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から166日目(閏年では167日目)にあたり、年末まであと199日ある。誕生花はタチアオイ、アジサイ。大西歯科医院.

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6月2日

6月2日(ろくがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から153日目(閏年では154日目)にあたり、年末まであと212日ある。誕生花はタイム、シャクナゲ。.

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