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高橋久光

索引 高橋久光

橋 久光(たかはし ひさみつ、寛正元年(1460年) - 大永元年(1521年))は、戦国時代の武将。石見国の豪族。子に元光、娘(毛利興元正室)、重光(弘厚)。弟に清光。 寛正元年(1460年)、高橋朝貞の子として生まれる。周防国の大内氏、出雲国の尼子氏と時勢を見極めながらどちらかの味方についたが、久光自身も武将としての力量に優れ、石見に高橋氏の勢力を拡大していった。また、娘が安芸国の毛利興元の正室になり、その間に毛利幸松丸が生まれる。そして興元が死去して幸松丸が毛利家当主になると、久光は外祖父として毛利家の実権も掌握し、石見高橋氏の全盛期を築き上げた。 しかし晩年には永正12年(1515年)に長男の元光が戦死するなどして、次第に高橋氏の衰退が見え始める。大永元年(1521年)、久光は備後国の豪族・三吉氏を討つために出陣したが、戦死した。享年62。 家督は孫の高橋興光が継いだが、久光の死で毛利氏では毛利元就が実権を握り、高橋氏は内紛などで急速に衰退してゆく。.

23 関係: 大内氏大永安芸国寛正尼子氏三吉氏周防国備後国出雲国石見国高橋弘厚高橋興光高橋氏豪族武将毛利幸松丸毛利元就毛利興元毛利氏永正戦国時代 (日本)1460年1521年

大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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寛正

寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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尼子氏

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.

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三吉氏

三吉氏(みよしし、みよしうじ)は、日本の氏族の一つ。藤原鎌足の子孫、藤原兼範(かねのり、藤原行成の子)を祖とし、備後国の国人領主として成長した備後三吉氏が有名。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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出雲国

出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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石見国

石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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高橋弘厚

橋 弘厚(たかはし ひろあつ、文明13年(1481年) - 享禄2年(1529年))は、戦国時代の武将。 文明13年(1481年)、高橋久光の次男として生まれる。明応3年(1494年)ごろまでには元服し、大内政弘より偏諱を受けて弘厚と名乗ったものと思われる。 永正12年(1515年)に長兄の高橋元光(もとみつ)が戦死すると、父・久光の命令で弘厚の子である興光が高橋家の後継者となった。大永元年(1521年)に久光も戦死すると、興光の後見人として高橋氏の存続に尽力した。 しかし享禄2年(1529年)、高橋氏の征服を謀る毛利元就によって、子の興光と共に殺害された。これにより、石見高橋氏の嫡流は断絶した。 なお、石見高橋氏の系図には疑問点が多く、一説では弘厚とその弟とされている高橋重光(しげみつ)は同一人物という説があり、定かではない。ちなみに重光も元就によって殺されている。.

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高橋興光

橋 興光(たかはし おきみつ、文亀3年(1503年) - 享禄2年11月21日(1529年12月21日))は、戦国時代の武将。安芸国・石見国国人高橋氏の当主。高橋久光の次男・高橋弘厚の子とされるが、高橋氏の系図については異説も多く、以下の記述も確定的なものではない。 1515年、当主であった伯父高橋元光(もとみつ)の戦死により、祖父・久光の後見を受けて家督を相続する。父に倣い、大内義興から一字を貰って興光と名乗ったが、これは安芸国人一揆の結束を弱め、大内氏による安芸への影響力が再び強まる一因となった。 近隣の国人毛利氏とは当主毛利興元に叔母(伯母)が嫁いだ上に、男児毛利幸松丸にも恵まれ友好関係にあった。1516年の興元の早世を機に外戚として毛利氏に干渉するも、1521年には毛利幸松丸の外祖父として権力を振るった久光も戦死してしまう。 毛利家の幼主を後見していた毛利元就(興元の弟で、幸松丸の夭折後に家督も相続)は、高橋氏と敵対するようになり、まずは松尾城にいた父・弘厚(一説に弘厚の弟・重光(しげみつ)とも)が滅ぼされた。次に元就は興光の叔父(従兄弟、義兄弟とも)高橋盛光(もりみつ)をそそのかし、合戦から帰還途中の興光を討ち果たさせ、それに乗じ高橋氏の領地を併呑した(なお、盛光も主君殺しを理由に直後に元就に殺害されている)。これにより石見高橋氏は滅亡した。 なお、元光・久光の戦死についても、興光の最後と類似したエピソードが伝わっており、どこかで伝承に混乱があったと推察される。ちなみに、同じく元就に滅ぼされた本城常光は高橋氏の一族だという。.

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高橋氏

橋氏(たかはしし)は、日本の氏族、苗字、大姓。 高橋の名の由来については諸説あり、同姓には諸流ある。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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毛利幸松丸

毛利 幸松丸(もうり こうまつまる)は、戦国時代の人物。安芸国の国人毛利氏当主。毛利興元の嫡男。.

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毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。.

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毛利興元

毛利 興元(もうり おきもと)は、戦国時代の武将。安芸国の国人領主。吉田郡山城城主。守護大内氏の被官。諱は大内義興の偏諱を受けたもの。.

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毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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1460年

記載なし。

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1521年

記載なし。

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