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足利義持

索引 足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

323 関係: 加賀国くじ側室あっかんべェ一休南禅寺南朝 (日本)右京区参議吉川弘文館吉野吉良義尚吉良氏吉良持助吉良持家吉良持広吉良持長吉良持清坂口尚塔頭増阿弥大友持直大崎氏大崎持兼大崎持詮大御所大内盛見大内持世大内持盛大納言大舘持房大掾氏天龍寺太上天皇太政大臣奥州探題奨学院如拙嫡男宝幢若公宣明暦室町幕府室町時代宮司宿老守護大名富樫満成富樫満春富樫持春寒山尊卑分脈...尊満小笠原持長 (京都小笠原氏)小笠原持長 (信濃小笠原氏)小笠原政康小栗満重小早川煕平山城国山名宗全山名義幸山名氏山名持熙山入氏山科家山科嗣教山科教言山田風太郎岡山県立美術館岩松満純島尾新上京区上杉禅秀上杉禅秀の乱上杉氏上杉持房上杉房方上杉憲基上杉憲直両統迭立師郷記中京区中納言中条満秀常陸国世阿弥万里小路嗣房万里小路時房三淵晴員一色義貫一色氏一色持信一色持範九条家平凡社京都市京都扶持衆京極高光京極持高京極持清庶子康富記人物叢書二階堂氏二条家二条持基二条持通二本松氏二本松持重今川仲秋今川範政仁和寺仁木頼章建内記伊達持宗伊豆国佐竹与義佐竹義憲征夷大将軍侍所後小松天皇後亀山天皇従三位従一位従二位従四位信濃国応永応永の外寇土岐持益 (守護)土岐持頼北畠家北畠満雅ミネルヴァ日本評伝選ユリウス暦別所氏嘉吉の乱イコノロジーグレゴリオ暦シアトル美術館備前国冷泉家冷泉為尹冷泉持為内大臣六角持綱元中元服勅使国司国宝石清水八幡宮神護寺福岡市美術館称光天皇穴山満春等持院管領細川之持細川和氏細川勝益細川頼久細川頼種細川氏細川満元細川持常細川持之細川持元細川持隆細川持賢細川持春細川成春細川教春 (和泉上守護家)美作国美作朝親義昭真壁氏猶子猿楽看聞日記瓢鮎図田楽甲斐国熱田神宮畠山家国畠山義深畠山義清畠山氏畠山満家畠山満慶畠山持富畠山持国畠山持永相国寺白衣観音癇癪花の御所花山院持忠花営三代記花押鎌倉大草紙鎌倉公方飛騨国親王馬寮駿河国高野山高橋殿講談社学術文庫鯨統一郎越後国足利将軍家足利義嗣足利義詮足利義量足利義満足利義教足利氏足利氏満足利満直足利満隆足利満詮足利持仲足利持氏鹿苑寺近衛大将近衛府赤松光範赤松義則赤松貞村赤松満祐赤松持則赤松持貞門跡藤原季範藤原慶子葛西満信葛西政信肥田氏重要美術品重要文化財至徳 (日本)逸見氏院司李氏朝鮮東大寺桜井英治桃井直信椿葉記楠木氏正三位正二位正五位正四位正親町家武田信重武田信満武蔵国永楽帝河内国河野通久法助法尊淳和院源氏長者満済満済准后日記朝松健木造俊康有馬義祐有馬持家明史斯波義将斯波義重斯波義淳斯波満種斯波持種斯波持有日野家日野康子日野資康日野重光日野栄子日明貿易摂家播磨国数え年敗血症慈光寺家思文閣出版1386年1394年1395年1396年1397年1398年1399年1400年1401年1402年1406年1407年1408年1409年1410年1411年1412年1413年1414年1415年1416年1417年1418年1419年1422年1423年1424年1425年1427年1428年1月18日 (旧暦)2月12日 (旧暦)2月3日3月12日 インデックスを展開 (273 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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くじ

くじ(籤・鬮)とは、正負や順序が割り当てられる対象について、その割り当て情報をあらかじめ与えずに選択させること、またはその対象のこと。割り当て情報は、対象に見えないよう封入されていてもよく、選択の後に無作為な手段で割り当ててもよい。 通常、くじ引きの確率はくじを引く順番にかかわらず平等である(確率保存)。 宗教的に神の意志を問うために用いられることもあるが、世俗世界では確率の上で平等な割り当てを行うために用いられることが多い。この場合は結果について、あらかじめ公にされている単純な確率計算以上の予測を行えないことが必要である。 賭博の手段として用いられることもある。この場合は娯楽性を高めるため、戦略的な選択によって勝率を高められる可能性を持たせることもある。.

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側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

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あっかんべェ一休

『あっかんべェ一休』(あっかんべェいっきゅう)は、坂口尚の漫画。1993年から1996年まで月刊アフタヌーン(講談社)に連載された。単行本全4巻のほか、文庫判(上下巻)もある。.

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南禅寺

南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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右京区

右京区(うきょうく)は、京都市を構成する11区のひとつ。市内西北部に位置し、旧京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積である(それまでは左京区が最大だった)。 区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。 区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京都に運ばれた。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

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吉良義尚

吉良 義尚(きら よしなお、応永21年(1414年) - 応仁元年(1467年))は、室町時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)3代目。吉良俊氏の嫡男。西条城主。幼名は三郎。官位は従四位下、左兵衛佐。弟に頼氏、義真。子は斯波義健室(本光院秀本)。.

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吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.

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吉良持助

吉良 持助(きら もちすけ)は、室町時代中期の武将。後期東条吉良(下吉良)氏4代当主。三河国東条城主。 吉良持長の子として誕生。長禄2年(1458年)4月、足利政知が古河公方・足利成氏討伐のため、関東へ発向する際、持助も随行することになった。実際は随行することはなかったが、弟・頼高が太田道灌と親交があったため、事前工作に持助の力を借りようとしたらしい。 同年12月2日、8代将軍・足利義政に対し、古河公方討伐のための関東出陣について意見書を提出している。 応仁元年(1467年)からの応仁の乱では、子・義藤が活躍しているので、それ以前に没したと思われる。.

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吉良持家

吉良 持家(きら もちいえ)は、南北朝時代の武将。.

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吉良持広

吉良 持広(きら もちひろ)は、戦国時代の武将。後期東条吉良(下吉良)氏7代当主。三河国東条城主。.

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吉良持長

吉良 持長(きら もちなが)は、室町時代前期から中期にかけての武士。後期東条吉良(下吉良)氏3代当主。三河国東条城主。 吉良朝氏の子として誕生。元服時に室町幕府4代将軍・足利義持より偏諱を受けて持長と名乗る。 永享10年(1438年)の永享の乱の際、次男・頼高は鎌倉公方・足利持氏に味方して戦功があったが、父である持長も持氏の反幕府の計画に加わっていたらしい。このため、永享の乱や結城合戦で持氏一族や持氏派の武将が滅ぶと、ことが露見しそうになり、嘉吉元年(1441年)6月23日、足利義教の懲罰を怖れて逐電した。.

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吉良持清

吉良 持清(きら もちきよ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。後期東条吉良(下吉良)氏6代当主。三河国東条城主。 幼少期に父・吉良義藤が没したと伝わる。このため、松平氏の一族で青野松平家・松平義春が後見したというが信憑性に乏しい。後年、吉良義昭が松平元康と戦って敗れ、東条城に義春の孫・松平家忠が入ったことから創られた伝説と思われる。 西条吉良(下吉良)氏の当主が常は京都に住していたのに対して、下吉良家の当主は通常は在国し、稀に上洛するという形をとっていたが、持清の場合、記録に残るのは永正6年(1509年)12月3日に上洛して10代将軍・足利義稙に年始の祝儀として太刀一腰を献上している。この時は左京大夫と呼ばれている。 在京の折に冷泉為和に歌道を学んでいたらしく、大永2年(1522年)に為和を東条城に招いている。為和はその書『為和卿記』に同年10月4日、東条城にて詠んだ歌を載せている。 享禄年間(1528年 - 1531年)に為和は知行地のある駿河国に下向、今川氏の庇護を受ける。天文2年(1533年)に為和は三河を通って上洛するが、その際には吉良のことを何も記していない。前年に持清が没していたためと思われる。.

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坂口尚

坂口 尚(さかぐち ひさし、男性、1946年5月5日 - 1995年12月22日)は、日本の漫画家・アニメーター。東京都出身。.

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塔頭

塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。 塔中(たっちゅう)、塔院(とういん)、寺中(じちゅう)、院家(いんげ)とも。 やがて塔頭に類する塔台を建立するようになった他宗派も現れたり、後に改宗や廃絶したものの塔が残ったりなど現存例は混然としている。.

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増阿弥

増阿弥(ぞうあみ、生没年未詳)は、室町時代の田楽法師、田楽新座の役者。世阿弥と同時期に活躍し、田楽能の名手として世阿弥と人気を争った。「冷えに冷えたり」(『申楽談義』)と評されるように、幽玄な芸風の持ち主であったらしく、応永20年代ごろ足利義持の後援を受けて活躍した。 生年未詳ではあるが、応永21年(1414年)の年紀を持つ『竹生島縁起』に勧進者として名が挙がり、逆算して世阿弥と同年代かあるいはやや年下と考えられる。詳細不明ながら、『申楽談義』によれば「閑花風」(『九位』の第三位)の芸風で、東北院の立合能では「感涙も流るるばかり」の名演を見せたという。また「冷えに冷えたり」という有名な評言で知られる「尺八の能」を演じたことからも推測されるように、尺八をよくしたらしく、『体源抄』や『ささめごと』には豊原量秋に師事して名手であった旨の記載がある。 『仮面譜』以来、女面の増の作者もしくはモデルとなった女性の夫に擬せられることがあるが、真偽不明。 Category:芸道 Category:室町時代の人物 Category:生没年不詳.

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大友持直

大友 持直(おおとも もちなお)は、室町時代中期の武将・守護大名。豊後国大友氏の12代当主。.

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大崎氏

大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。 斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。.

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大崎持兼

大崎 持兼(おおさき もちかね)は、室町時代の守護大名。.

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大崎持詮

大崎 持詮(おおさき もちあきら)は、室町時代中期の陸奥大崎氏の第6代当主。持詮については学説上、諸説あるがここでは通説に従う。.

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大御所

大御所(おおごしょ)とは、古くは親王の隠居所である御所を指し、やがては隠居した親王その者を呼ぶ際の尊称として用いられた。後には摂政関白の実父を呼ぶ際にも用いられている。.

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大内盛見

大内 盛見(おおうち もりはる)は、室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、周防・長門・豊前守護。大内氏の第11代当主。大内弘世の子。兄に義弘、満弘、弟に弘茂、道通(みちなお?/ひろみち?)など。子に教弘、教幸、盛持(もりもち)など。.

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大内持世

大内 持世(おおうち もちよ)は、室町時代中期の武将、守護大名。周防・長門・豊前・筑前守護。大内氏の第12代当主。.

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大内持盛

大内 持盛(おおうち もちもり)は、周防国・長門国守護職。安芸国東西条、石見国迩摩郡の領主。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大舘持房

大舘 持房(おおだち もちふさ)は、室町時代中期の武将。室町幕府の幕臣。大舘満信(みつのぶ、義冬の子)の子。.

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大掾氏

大掾氏(だいじょうし)は、中世常陸国に勢力を持った一族で、軍事貴族。坂東平氏(桓武平氏)国香流。常陸平氏の嫡流であり、多くの庶家を輩出した。通字は「幹」(もと)。使用の家紋は「対い蝶(むかいちょう)」、「三つ巴(みつどもえ)」。.

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天龍寺

亀山天皇陵 後嵯峨天皇陵 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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奥州探題

奥州探題(おうしゅうたんだい)とは、室町時代から戦国時代にかけて置かれた室町幕府の役職の一つ。守護に代わって設置され、陸奥国の統括を担った。奥州とは一般的には陸奥(青森、岩手、宮城、福島)を指す。出羽(秋田、山形)は羽州と呼ぶのが一般的で、現東北地方である両国をまとめて指す場合は奥羽と呼ぶのが通常である。.

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奨学院

奨学院(しょうがくいん)とは、平安時代の大学別曹の一。大学別曹とは、平安時代の貴族(公家)の教育機関である。.

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如拙

代表作「瓢鮎図」 如拙(じょせつ、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代中期の画僧。道号は大巧(たいこう)。絶海中津(ぜっかいちゅうしん)が『老子』の「大巧は拙なるが如し」にちなんで名づけたという。.

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嫡男

嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.

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宝幢若公

宝幢若公(ほうどうじゃくこう)は、室町時代の足利将軍家の一族。室町幕府の第3代将軍・足利義満の次男。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教の異母兄に当たる。庶長子の尊満とは同母兄弟である。宝幢寺の造営中に義満側室の加賀局(柳原殿)が産んだ男子のために宝幢若公と称したが、わずか3歳で夭折した 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.240。.

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宣明暦

宣明暦(せんみょうれき)は中国暦の一つで、かつて中国や日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言う。特に日本においては中世を通じて823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となった。 以下、和暦の日付は旧暦表示である。また、西暦の日付は1582年10月4日まではユリウス暦表示、1582年10月15日以降はグレゴリオ暦表示となっている。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮司

宮司(ぐうじ、みやづかさ)とは神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)である神職の職階(職名・職称)である。.

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宿老

宿老(しゅくろう)とは、『宿徳老成』の人の意味『角川日本史辞典』第二版(角川書店) 467 P。十分に経験を積んだ老人を指す言葉であり、そこから転じて古参の臣や家老など重要な地位に就く者の称となった。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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富樫満成

富樫 満成(とがし みつなり)は、室町時代前期の武将・守護大名。富樫氏14代当主。.

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富樫満春

富樫 満春(とがし みつはる)は、室町時代前期の武将・守護大名。富樫氏13代当主。加賀国守護。 富樫氏12代当主・富樫昌家の弟である富樫満家の子として誕生。元中4年/嘉慶元年(1387年)に昌家が没して以来、加賀守護職は斯波氏の手に移っていたが、応永21年(1414年)に斯波満種が4代将軍・足利義持の勘気を受けて守護職を更迭されると、義持に近侍していた富樫満成が加賀南半国守護に任じられ、同時に満春も北半国守護に任じられた。 応永26年(1419年)2月に満成が政争に敗れて殺害されると、満春は義持から満成が任じられていた加賀南半国守護の兼任を任じられ、結果として加賀一国の守護となった。その後も満春は義持や足利義量に仕え、重用されたようである。 応永34年(1427年)、死去。家督及び加賀守護職は長男・持春が継いだ。.

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富樫持春

富樫 持春(とがし もちはる)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名。富樫氏15代当主。加賀国守護。 富樫満春の長男として誕生。4代将軍・足利義持の偏諱を受けて持春と名乗った。応永34年(1427年)に父・満春が没すると家督を継承。義持や足利義教からは将軍の相判衆に任じられるなど信任が厚く、義持は京都にある持春の館に何度か出向いている。また持春は永享2年(1430年)正月まで幕府に出仕することがなかったという。同年6月、加賀守護となる。同年、南禅寺領同国宮保違乱の停止を執行した。永享5年(1433年)、死去。享年21。 持春には嗣子がいなかったため、家督と加賀の守護職は義教の近臣となっていた弟・教家が継いだ。.

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寒山

寒山拾得図」(部分)個人蔵 寒山(かんざん、生没年不詳)は、中国・唐代に浙江省にある天台山の国清寺にいたとされる伝説的な風狂僧。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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尊満

尊満(そんまん)は、室町時代前期から中期にかけての足利将軍家の一族。第3代将軍・足利義満の庶長子で、第4代将軍・足利義持と第6代将軍・足利義教の兄に当たる。青蓮院尊満、友山清師(ゆうざんせいし)とも呼ばれる 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.241。名前の「尊」の字は曽祖父の足利尊氏、「満」の字は父・義満より、それぞれ取ったものと思われる。.

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小笠原持長 (京都小笠原氏)

小笠原 持長(おがさわら もちなが、元中元年/至徳元年(1384年) - 長禄2年(1458年))は、室町時代中期の有職故実家。民部少輔、備前守。号は浄元。小笠原満長の子。小笠原持清の父。小笠原流弓馬故実の基礎をつくった人物である。 室町幕府の近習にあり、応永30年(1423年)に幕府的始の騎手を務め、永享2年(1430年)には6代将軍足利義教の「御弓師」(弓術師範)となっている。歌道に通じ、清巌正徹の『草根集』などにも名が見える。 著書に「騎射秘抄」、「射礼私記」、「射御拾遺集」、「笠懸日記」等がある。長禄2年(1458年)没、享年75。.

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小笠原持長 (信濃小笠原氏)

小笠原 持長(おがさわら もちなが)は、室町時代中期の武将、守護大名。信濃守護。父は小笠原長基の長男小笠原長将、母は側室。子に清宗。信濃府中(現在の長野県松本市)を本拠とした府中小笠原氏の祖。 応永18年(1411年)に幕命により、京極高数に従って飛騨の乱の鎮圧に参加、嘉吉元年(1441年)の結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績を挙げた。応永29年(1422年)9月には将軍足利義持の伊勢神宮参詣に供奉した。.

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小笠原政康

小笠原 政康(おがさわら まさやす)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護。小笠原長基の3男で長将、長秀の弟。宗康、光康の父。 小笠原氏は曾祖父貞宗が足利尊氏に仕えた功績で信濃守護を世襲したが、隠居した父の後を継いだ次兄長秀が国人衆の反感を買い、大塔合戦に敗れて応永8年(1401年)に信濃守護職を取り上げられ、信濃は一時斯波義将の支配に置かれた後、翌応永9年(1402年)には室町幕府の直轄領となった。 政康は嘉慶2年(1388年)に13歳で元服し、応永12年(1405年)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られた。 応永23年(1416年)に関東で発生した上杉禅秀の乱鎮定に駿河守護今川範政や越後守護上杉房方と共に出陣し、また応永30年(1423年)には鎌倉公方足利持氏と対立した京都扶持衆山入氏・小栗氏・真壁氏らを救援するため、幕府代官細川持有と共に常陸国に出陣するなど、足利将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代将軍足利義持から重用され、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命された。信濃の幕府直轄化は元々は守護による統治を嫌って幕府直臣化を望む信濃村上氏ら国人の動きに応えたものであったが、自立志向が強い彼らは幕府の命令にも従わず関東足利氏に通じて反抗することもあったため幕府にとって直轄支配のメリットがなかったこと、関東足利氏に対抗する軍事的再編の中で守護による軍事指揮権の再構築が図られたことによるとみられている。 正長元年(1428年)の正長の土一揆に対して上洛し一揆勢の鎮圧にあたった。また、この年に足利持氏が越後守護代長尾邦景や同国の国人を寝返らせようとして邦景から告発を受けると、政康を急遽帰国させて越後出陣の事態に備えさせている。 永享4年(1432年)には6代将軍足利義教の弓馬師範に推挙された(『林羅山撰 将軍家譜』)。永享8年(1436年)には持氏と通じた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、義教から感状を授かった。村上氏は永享9年(1437年)に幕府に降伏し、小笠原氏の信濃支配は一応達成することになる。これに先立つ応永24年(1417年)、在京していた武田信元の甲斐帰還を手助け、守護代として跡部氏を派遣している。甲斐では持氏の支援を受けた国人・逸見有直が勢力を強めており、その対抗的意味があったと考えられている。 永享10年(1438年)の永享の乱では上野国に出陣し平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。永享12年(1440年)の結城合戦にも信濃武士を統べて参戦しており、『結城陣番帳』にその諸将の名が見える。 嘉吉2年(1442年)、小県郡海野で死去。享年67。長男の宗康が後を継いだ。しかし、正式な譲状を作成しなかったことから、この継承に異論を挟む余地を生んだ。その後、嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏はお家騒動で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦いを起こすことになった。 信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺や筑摩神社を開基した。.

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小栗満重

小栗 満重(おぐり みつしげ、生誕年未詳 - 応永30年(1423年)(※没年には異説あり))は、室町時代前期から中期にかけての武将。常陸国真壁郡小栗を領した常陸小栗氏の当主。通称は孫次郎。常陸介。.

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小早川煕平

小早川 煕平(こばやかわ ひろひら)は、室町時代中期から後期の武将。安芸国を拠点に置く沼田小早川氏の当主。諱の「煕」の字は、同国守護・山名時熙の偏諱を受けたものと考えられる。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

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山名義幸

山名 義幸(やまな よしゆき)は南北朝時代の守護大名。室町幕府侍所頭人、丹後・出雲・隠岐守護。山名師義の長男、氏之、義熙、満幸の兄。子に師幸。日野屋形家(日野山名氏)の始祖となった。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山名持熙

山名 持熙(やまな もちひろ)は室町時代の武将。室町幕府侍所頭人を務めた山名時熙の次男。従五位下刑部少輔。兄に山名満時、弟に山名持豊(宗全)がいる。.

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山入氏

山入氏(やまいりし)は、武家のひとつ。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の傍系常陸源氏 佐竹氏の一門。新羅三郎義光の流れである。.

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山科家

山科家(やましなけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家四条流。家名は家領があった京都山科荘に由来する。家業は装束・衣紋で江戸時代には高倉家(藪家)とともに装束色目を担当した。江戸時代の家禄は300石。.

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山科嗣教

山科 嗣教(やましな つぐのり、明徳4年(1393年)- 没年未詳(応永25年(1418年)?))は、室町時代の公家。.

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山科教言

山科 教言(やましな のりとき、嘉暦3年6月8日(1328年7月15日)- 応永17年12月15日(1411年1月9日))は、南北朝時代の公家。日記『教言卿記』の著者。.

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山田風太郎

山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年(大正11年)1月4日 - 2001年(平成13年)7月28日)は、日本の小説家。本名は山田 誠也(せいや)。伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人である。東京医科大学卒業、医学士号取得。 『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される、奇想天外なアイデアを用いた大衆小説で知られている。『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた作品を多数執筆した。 2010年、その名を冠した「山田風太郎賞」が創設された。.

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岡山県立美術館

城下筋より望む岡山県立美術館 岡山県立美術館(おかやまけんりつびじゅつかん、The Okayama Prefectural Museum of Art)は、岡山県岡山市北区にある美術館。通称「県美」(けんび)。.

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岩松満純

岩松 満純(いわまつ みつずみ)は、室町時代前期の武将。上野新田荘の国人領主。父は新田義宗で、養父は岩松満国と伝わり、妻は上杉氏憲(禅秀)の娘で那須資之、千葉兼胤は相婿。子に家純。.

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島尾新

島尾 新(しまお あらた、1953年(昭和28年) - )は、日本美術史家。専門は、日本美術史。特に雪舟と水墨画に関する研究。.

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上京区

沂高校 京都市歴史資料館 京極小学校、左手に二宮金次郎の像が現存している 上京区(かみぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。市の中心部に位置し、かつての京都の北側に該当する。東側には鴨川が流れる。京都府庁もこの区に置かれている。.

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上杉禅秀

上杉 禅秀(うえすぎ ぜんしゅう) / 上杉 氏憲(うえすぎ うじのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。関東管領。禅秀は出家名。.

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上杉禅秀の乱

上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、室町時代の応永23年(1416年)に関東地方で起こった戦乱。前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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上杉持房

上杉 持房(うえすぎ もちふさ)は、室町時代中期の武将。足利将軍家の家臣。.

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上杉房方

上杉 房方(うえすぎ ふさかた)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。越後国守護。越後上杉家2代当主。.

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上杉憲基

上杉 憲基(うえすぎ のりもと)は、室町時代中期の武士・守護大名。関東管領、上野国・伊豆国守護。山内上杉家7代当主。.

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上杉憲直

上杉 憲直(うえすぎ のりなお)は、室町時代の武将。4代鎌倉公方・足利持氏の側近。上杉氏の庶流・宅間上杉家の一族。相模国榎下城主。.

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両統迭立

両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。 日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。.

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師郷記

師郷記(もろさとき)とは、室町時代の貴族、中原師郷(1387年-1460年)の日記。原本35巻が国立国会図書館に保管されている。 日記の記述範囲は応永27年(1420年)から長禄2年(1458年)まで及ぶ。日記として残されているものは断片的だが、永享年間(1429年-1440年)までのものは、永享8年(1436年)を除いてほぼ全て残っている。また、嘉吉元年(1441年)から、日記の最後の長禄2年(1458年)までの記述も、永享年間よりは欠落があるが多く書かれている。 著者の中原師郷は、大外記を務めた人物である。彼が認めたこの日記には、大外記の職務である公事や朝儀についての記述が豊富に書かれている。諸々の公家や武家のこの時代における動向についても詳しく記述されているだけでなく、この時代の庶民の生活を調べる上でも有益な史料とみなされている。 正長の土一揆、嘉吉の土一揆、文安の麹騒動に関する記述も豊富な史料である。猿楽、田楽に関する記事も多い。.

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中京区

中京区(なかぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつである。 2005年(平成17年)国勢調査における推計人口が1985年(昭和60年)以来20年ぶりに10万人の大台を回復した。特に南部の明倫学区や本能学区での人口増加が著しい。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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中条満秀

中条 満秀(ちゅうじょう みつひで、生年不詳 - 応永19年10月16日(1412年11月23日))は室町時代前期の武将。室町幕府奉公衆。三河国高橋荘(愛知県豊田市)地頭。衣城主。五郎、備前五郎と称す。官途は右衛門尉。左衛門少尉となった可能性もある。父は中条詮秀。弟に中条満平がいる。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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世阿弥

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。.

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万里小路嗣房

万里小路 嗣房(までのこうじ つぐふさ)は南北朝時代から室町時代前期の公卿。従一位内大臣。父は准大臣万里小路仲房。子は『建内記』の記者として名高い建聖院内大臣時房。 .

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万里小路時房

万里小路 時房(までのこうじ ときふさ、応永元年12月27日(1395年1月18日)-長禄元年11月20日(1457年12月6日))は、室町時代の公卿。従一位内大臣。父は万里小路嗣房、母は家女房(実母は見周信如、養母は無偽禪尼との名で『建内記』に記され、忌日に祈祷が行われている)。息子は万里小路冬房・玄周・中権の三人、娘は慈俊・慈照(算子)の二人。法号を建聖院。日記『建内記』(『建聖院内大臣記』或いは『建聖院内府記』、10巻)の著者として知られている(生年の西暦換算については、月日まで厳密に換算せず1394年とする文献もある)。.

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三淵晴員

三淵 晴員(みつぶち はるかず)は、戦国時代の武将。室町幕府幕臣(申次衆)。細川藤孝(幽斎)の父。.

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一色義貫

一色 義貫(いっしき よしつら)は、室町時代の武将、守護大名。丹後一色氏の当主。 室町幕府第4代将軍・足利義持より偏諱を受け、初めは父の1字と合わせて義範を名乗り、のち義貫と改名する。尚、上の「義」の字を与えられていることから、下の「持」の字を与えられた兄・持範、弟・持信に比べ、良い待遇を受けていたものと推測される。.

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一色氏

一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.

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一色持信

一色 持信(いっしき もちのぶ)は、室町時代の武将、歌人。.

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一色持範

一色 持範(いっしき もちのり)は、室町時代の武将。式部一色氏の祖。.

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九条家

九条家(くじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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京都扶持衆

京都扶持衆(きょうとふちしゅう)とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結んだ関東地方・東北地方の武士。京都御扶持衆ともいう。 なお、この言葉の語源については、渡辺世祐が作った学術的用語であり、史料上に出てくる用語としては「京都御扶持者」「京都御扶持之輩」であるため、「京都扶持者」の方が正確なのではないか?とする渡政和の指摘もある渡政和「〈京都様〉の〈御扶持〉について -いわゆる〈京都扶持衆〉についての考察-」(初出:『武蔵大学日本文化研究』第5号(1986年)/所収:植田真平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二〇巻 足利持氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-198-1)。.

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京極高光

京極高光(きょうごく たかみつ)は、室町時代中期の守護大名。室町幕府侍所頭人、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。.

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京極持高

京極 持高(きょうごく もちたか)は、室町時代中期の武将、守護大名。出雲・隠岐・飛騨・山城守護。京極高光の嫡男で弟に持清、妹に細川持之室。 持高の「高」の字は京極氏の通字であるものを父・高光から取ったものであるが、高光のもう片方の1字(「光」の字)により持光(もちみつ)を別名とするものもある。いずれにせよ、「持」の字は室町幕府第4代将軍足利義持から偏諱を賜ったものである。 応永20年(1413年)に父が亡くなり出雲・隠岐・飛騨3ヶ国の守護職を継ぐ。応永31年(1424年)から正長元年(1428年)まで山城守護にも補任された。 永享6年(1434年)に6代将軍足利義教から反抗する延暦寺への攻撃を命じられ、六角満綱と共に山門を囲み降伏させる。さらに近江国内に多くあった延暦寺領の差し押さえを命じられている。 永享11年(1439年)に子を残さないまま亡くなった。享年は39とされる。後を継いだのは薩戎記によれば叔父の高数とされ、西讃府史によれば弟の持清とされる。.

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京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.

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庶子

庶子(しょし)は、正室ではない女性から生まれた子供を指す語。結婚(婚姻)制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。 結婚制度は、(1)相続権、親族関係の明確化といった世俗的な要求と、(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的、宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において嫡子と差別をこうむることになる。 大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。.

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康富記

『康富記』(やすとみき)は、室町時代の外記局官人を務めた中原康富の日記。 記述は1408年(応永15年)から1455年(康正元年)に及ぶが、散逸が顕著であり、特に永享年間の記述はほぼ全てが欠落している。また1401年(応永8年)の日記は康富の経歴、年齢に鑑みると、父・中原英隆が書いたものと考えられる。幕府を始め、武家の動向や、隼人司、主水司、大炊寮の各々の所領の経営について細かく記述され、和歌、連歌、猿楽など文化、芸能に関する記述も豊富。15世紀前半の社会、有職故実を研究する上で有益な情報を提供する貴重な史料である。朝議、除目、叙位については関係文書を貼り継いで補填した箇所も多い。 欠落部分を補う文書として「永享二年大賞会記」「永享十年八幡宮放生会記」などがある。国立国会図書館に原本93巻が所収される。.

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人物叢書

『人物叢書』(じんぶつそうしょ)とは、吉川弘文館より刊行されている日本史上の人物の学術伝記叢書。1958年に刊行開始し、1980年代後半に新装版に切り替わった。日本歴史学会編集。100冊を刊行した時点で第11回(1963年)の菊池寛賞を受賞している。 日本史上の人物が対象のため、大半は日本人が対象となっているが、日本史での活動が見られる来日外国人や、国姓爺のように日本と関わりのあるのみの外国人もごく稀に対象となる。また、1冊で複数人や一族(奥州藤原氏・菊池氏・浅井氏)を題材としているものもある。.

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二階堂氏

二階堂氏(にかいどうし)は公家、武家の一氏族。特に陸奥国の岩瀬郡を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名。.

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二条家

二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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二条持基

二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。.

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二条持通

二条 持通(にじょう もちみち)は、日本の室町時代の公卿。.

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二本松氏

二本松氏(にほんまつし)は、陸奥国安達郡二本松城に拠った戦国大名。二本松畠山氏、奥州畠山氏とも。奥州管領畠山国氏の子、国詮を祖とする 。.

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二本松持重

二本松 持重(にほんまつ もちしげ)/畠山 持重(はたけやま もちしげ)は、室町時代の武将。二本松氏第3代当主。陸奥国安達郡二本松城主。.

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今川仲秋

今川 仲秋(いまがわ なかあき)は、南北朝時代後期から室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、遠江・尾張守護。今川氏の分家・遠江今川氏の第2代当主。初名は国泰(くにやす)、後に頼泰(よりやす)、仲秋と名乗る。法名は仲高(ちゅうこう)。父は今川範国、兄に範氏、貞世(了俊)、氏兼。子に貞秋(さだあき)、氏秋(うじあき)、直秋(なおあき)、国秋(くにあき)。官位は中務少輔、右衛門佐。 正平23年/応安元年(1368年)に次兄了俊の後任として侍所頭人兼山城守護に就任。続く建徳2年/応安4年(1371年)には九州探題に就任した兄に従い長門から九州肥前に下向、翌文中元年/応安5年(1372年)2月に肥前に攻めてきた菊池武政を破って筑前に上陸していた兄の軍勢と合流、大宰府を落とした。以後は兄の代官として肥前に赴き、松浦党の結集と南朝勢力の駆逐に務めた。 元中3年/至徳3年(1386年)頃に帰京、元中5年/嘉慶2年(1388年)に遠江守護に任命、翌年の3代将軍足利義満の厳島神社参詣に同行、明徳4年(1393年)に尾張守護を務め、応永2年(1395年)の義満の出家にならい出家、同年に九州探題を解任された兄と遠江を半国守護として共同統治、後年は兄の養子となった。遠江今川氏当主となるも実権は兄にあったとされるが、甥で了俊の子貞臣の後見役として貞臣を養育している。但し、遠江はもう1人の甥泰範に取り上げられている。 在任中は目立った記録はないものの、堅実な中継ぎという評価がある。応永19年(1412年)、了俊の今川状は仲秋に与えられ、以後治世の教訓、手本となり継承されていく。 肥前に残された末子の国秋(くにあき、母は九州千葉氏)は、肥前佐嘉郡を幕府より与えられ、肥前今川家(今川佐賀家)の祖となった。.

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今川範政

今川 範政(いまがわ のりまさ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名・歌人。駿河今川氏の第4代当主。 武将として上杉禅秀の乱の鎮圧をはじめとする多くの功績を挙げた一方で、和歌や書にも秀でた才能を示した。『源氏物語提要』などの著書がある。.

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仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の仏教寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。.

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仁木頼章

仁木 頼章(にっき よりあき)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将で、室町幕府初代将軍足利尊氏の執事。.

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建内記

『建内記』(けんないき)は、室町時代の公卿万里小路時房の日記。「けんだいき」とも読まれる。書名は時房の法号である「建聖院」と、時房の極官である内大臣に由来。後世の人が時房の日記を「建聖院内府記」と呼び、この呼称が略されて「建内記」の呼称が定着した。「満済准后日記」「薩戒記」「看聞日記」と並び、室町時代中期の日記を代表する。 記述は1414年(応永21年)から1455年(康正元年)まで及ぶが、現在する記述は断片的である。1429年(永享元年)から1449年(宝徳元年)の20年分の記述が、最も欠落が少なく、現存状態が良好とされる。筆者時房は南都伝奏、勧修寺氏長者などを担当し、幕府とも密接な関係にあった。そのため、伝奏、氏長者としての仕事や、幕府、公武関係の動向に関する記述が豊富。将軍足利義教が横死した嘉吉の乱、嘉吉の徳政一揆の経緯についても詳らかに記述する。また万里小路家が保有する荘園が年貢滞納のために武士、商人、僧侶らに代官請に移行しなければならなくなった経緯など、社会経済に関する記述が多い。これは公家の日記の中でも特色とされ、室町中期の社会経済史研究に有益な情報を提供する。 時房の死後、日記は実子の冬房、甘露寺家から養子に入った春房、さらに勧修寺家から養子に入った賢房の手に渡り、賢房の実父である勧修寺教秀の所有するところとなっていた。中御門宣胤の1489年(延徳元年)の日記から、この時教秀が『建内記』を所有していたことが確認される。 その後、どのようにして伝来したのかは不明。伝来する過程で散逸、欠落もあった。最終的には伏見宮、菊亭家の手に渡ったらしく、伏見本は宮内庁書陵部に、菊亭本は京都大学付属図書館に所蔵されている。.

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伊達持宗

伊達 持宗(だて もちむね、1393年(明徳4年) - 1469年2月19日(応仁3年1月8日))は室町時代前・中期の地頭(この当時、奥羽両国には守護職はなく、陸奥国には奥州探題が置かれていた。補足事項として、伊達氏が陸奥守護職に補任されたのは持宗の三代後となる伊達稙宗から)。伊達氏の第11代当主。第10代当主・伊達氏宗の嫡男。官位は兵部少輔。大膳大夫。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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佐竹与義

佐竹 与義(さたけ ともよし、生年不詳 - 応永29年閏10月13日(1422年11月27日))は、室町時代の武将。常陸守護佐竹氏の一族。佐竹師義の子で、兄弟に佐竹言義(父師義の名乗り替えであるという説もある)、小田野自義。諱は興義とも。子に義郷、祐義。父の代から常陸国山入を所領としていることから、山入 与義(やまいり ともよし)という名でも知られているが、与義やその子孫は存命中は佐竹姓を称しており、山入姓を用いたという記録はない(山入氏の項目を参照)。.

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佐竹義憲

佐竹 義憲(さたけ よしのり、元亀元年(1570年) - 慶長4年4月20日(1599年6月12日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。佐竹北家第5代当主。佐竹義斯の嫡男。母は額田下野守従通の娘。通称は又七郎、左衛門督。北義憲とも。妻は武茂氏。 佐竹義久の後を継いで奥州方面の軍権を任された。また、佐竹義重の三男・岩城貞隆の補佐役であった岡本顕逸が病死すると、天正19年(1591年)には貞隆の新たな補佐役として岩城氏の政務を取り仕切り、検地などを行なったという。慶長4年(1599年)、父・義斯の死よりわずか二日後に死去。享年30。法名、傑山大英。嫡男の義廉(よしかど)が跡を継いだ。 梅津憲忠と親交があり、憲忠に「憲」の一字を与えている(義憲の嫡男・義廉も、憲忠の子に「廉」の一字を与えて廉忠と名乗らせている)。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.

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後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.

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後亀山天皇

後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり)。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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応永の外寇

応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征()と言われる。当時足利義持が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した『宗氏家譜』「應永二十六年己亥六月廿日、朝鮮將李從茂率戰艦二百二十七艘、卒一萬七千二百八十五人、到對馬州與良郡淺海浦。州兵拒之海濱不利。朝鮮兵到仁位郡、分道下陸、竟進屯糠獄。貞茂率州兵、到糠嶽下。侵矢石攻之。連戰數日、七月初一日、與左軍朴松戰大破之。朝鮮兵狼狽走海濱乘船、貞茂使海人放火。以燒賊船。齋藤、立石等發兵撃之。賊兵大潰而還。我兵戰死者百二十三人。斬賊二千五百餘級。」、台風の接近もあって、漁村と船を焼き払ったのち10日余りで対馬から撤退した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほどが、結局実現しなかった。朝鮮は以後二度と対馬に対する外征は行わず、土地を与えたり米を送ったりと鎮撫策に終始した。前期倭寇はそれ以前からすでに衰退傾向であったが、朝鮮が終息したと公式に判断したのはこの遠征の25年後の世宗26年(1444年)である。一方、侵略を受けた対馬はその後の朝鮮との交渉を通じて日朝貿易を独占し、朝鮮との唯一の窓口へと成長した。.

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土岐持益 (守護)

土岐 持益(とき もちます)は、室町時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃守護。土岐頼益の子。子に持兼。「持」の字は将軍・足利義持からの偏諱。養子に成頼。通称は池田二郎。官職は美濃守、左京大夫。.

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土岐持頼

土岐 持頼(とき もちより、生年不詳 - 永享12年5月16日(1440年6月15日))は、室町時代中期の守護大名。伊勢守護。父は土岐康政(やすまさ)。子に政康、東陽英朝。祖父の土岐康行を祖とする土岐世保家の3代目当主で、世保 持頼(よやす もちより)とも記される。「持」の字は室町幕府第4代将軍足利義持から偏諱を賜ったものである。また、土岐世保家歴代当主で唯一名前に「康」の字が付かず、土岐氏の通字である「頼」の字を使用している。.

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北畠家

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.

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北畠満雅

北畠 満雅(きたばたけ みつまさ)は、室町時代前期の武将・公家。伊勢国司北畠家の第3代当主。北畠顕泰の次男。.

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ミネルヴァ日本評伝選

『ミネルヴァ日本評伝選』(ミネルヴァにほんひょうでんせん)とは、ミネルヴァ書房より刊行されている日本史上の人物の評伝叢書。.

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ユリウス暦

ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.

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別所氏

別所氏(べっしょし)は、播磨の戦国大名を輩出した氏族。 播磨の守護大名・赤松氏の庶流であり、三木城を本拠とした。.

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嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.

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イコノロジー

イコノロジーあるいは図像解釈学(ずぞうかいしゃくがく)は図像を記述・解釈する技術だが、とくに20世紀の美術史学において、図像を生み出した社会や文化全体と関連づけて解釈するために発展した研究手法を指す。.

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グレゴリオ暦

レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.

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シアトル美術館

アトル美術館 (Seattle Art Museum、略称:『サム』 SAM)はアメリカ合衆国ワシントン州シアトルにある美術館である。正面玄関にある大きな彫刻『ハマリング・マン(Hammering Man)』が目印。 シアトルのダウンタウンにあり、設計はロバート・ヴェンチューリ。2008年現在約25,000点以上の作品を収蔵。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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冷泉家

冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家。家格は羽林家。代々近衛中将に任官された。家名は冷泉小路に由来する。歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承している。.

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冷泉為尹

冷泉 為尹(れいぜい ためまさ)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・歌人。従二位権中納言・冷泉為秀の子。官位は正二位権大納言。冷泉家3代当主。.

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冷泉持為

冷泉 持為(れいぜい もちため)は、室町時代中期の公卿・歌人。権大納言・冷泉為尹の子。官位は正三位・権大納言。下冷泉家の祖。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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六角持綱

六角 持綱(ろっかく もちつな)は、室町時代中期の武将・守護大名。近江国守護。六角氏10代当主。.

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元中

元中(げんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。弘和の後。1384年から1392年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後亀山天皇、北朝方が後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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勅使

勅使(ちょくし)とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。 上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の使者は中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使者は皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の使者は女院使(にょいんし)と呼ばれる。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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国宝

建築:宇治上神社本殿覆屋(宇治市) 寺院建築:法隆寺金堂・五重塔(斑鳩町) 城郭建築:姫路城連立天守(姫路市) 絵画:源氏物語絵巻(徳川美術館) 彫刻:臼杵磨崖仏(阿弥陀三尊像) 工芸品:天寿国繍帳(中宮寺) 書跡・典籍:秋萩帖(東京国立博物館) 弘法大師筆尺牘「風信帖」(東寺) 考古資料:人物画像鏡(隅田八幡神社) 歴史資料:慶長遣欧使節関係資料のうちローマ市公民権証書(仙台市博物館) 国宝(こくほう)とは、日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。 法的には、国宝は重要文化財の一種である。国宝・重要文化財の指定手続、指定制度の沿革などについては、重要文化財の項を参照。 なお、いわゆる「人間国宝」とは重要無形文化財に指定された芸能、工芸技術などの保持者として各個認定された者の通称であり、本項で解説する国宝とは異なる。.

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石清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.

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神護寺

護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。.

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福岡市美術館

福岡市美術館(ふくおかしびじゅつかん)は、福岡県福岡市中央区にある市立の美術館。大濠公園の敷地内にある。現在、長期に渡る改築工事のため休館中。2019年度の再開館を予定している。.

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称光天皇

光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.59(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の第101代天皇(在位: 応永19年8月29日(1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち實仁(みひと)に改めた。.

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穴山満春

山 満春(あなやま みつはる、生没年不詳)は、室町時代の武将。武田氏の一族。四郎。受領名は信濃守、官途名は修理大夫。『卜部本武田系図』『若州武田系図』では「信秋」、別名は「信元」(『浅羽本武田系図』。「満春」は『武田源氏一統系図』に見られる名で渡邉(2007)、p.226、はじめは穴山姓であったと考えられている。父は武田信春。武田系図類では次男、『甲斐国志』では末子としている。兄に信満、弟に下条信継、市部信久、吉田成春、観音寺遠大西堂、法弥陀仏(一蓮寺住持)、姉妹に上杉禅秀正室、小笠原長基正室、武田信繁室などがいる。.

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等持院

等持院(とうじいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は萬年山。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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細川之持

細川 之持(ほそかわ ゆきもち)は、室町時代後期の武将。阿波細川家の当主。.

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細川和氏

細川 和氏(ほそかわ かずうじ / - ともうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。細川公頼の子。.

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細川勝益

細川 勝益(ほそかわ かつます、生年未詳 - 文亀2年6月4日(1502年7月8日))は、室町時代から戦国時代にかけての武将。細川遠州家当主および土佐守護代。細川頼種の子孫にあたる。通称は三郎。官位は治部少輔・遠江守。.

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細川頼久

細川 頼久(ほそかわ よりひさ、生没年不詳)は、室町時代の武将。父は細川基之(もとゆき、満之の子)。細川和泉下守護家当主。阿波守、兵部大輔。子に4代将軍足利義持の一字を受けた持久(もちひさ)、弟に6代将軍足利義教(義持の弟)の一字を受けた教久(のりひさ)がいる。 基久没後の文安5年(1448年)10月から応仁3年(1469年)頃まで和泉半国守護を務めた。 頼久は応仁3年には在国しており、子の持久が在京したという。文明年間初頭に没したと推測されている。.

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細川頼種

細川 頼種(ほそかわ よりたね、生年不詳 - 建武3年6月20日(1336年8月5日))は南北朝時代の武将。細川遠州家の祖にあたる人物。細川氏庶流の細川宗義(むねよし)の子。細川頼貞・公頼の従兄弟にあたる。通称は七郎五郎。子に上野義幸(よしゆき)、細川頼元(よりもと)。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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細川満元

細川 満元(ほそかわ みつもと)は、室町時代前期の守護大名。第11代室町幕府管領。摂津・土佐・讃岐・丹波守護。第8代細川京兆家当主。細川頼元の長男。満国の兄。子に持元、持之、持賢。幼名は聡明丸、のち元服に際して3代将軍・足利義満より偏諱を受け満元に改名。通称は五郎。官位は右馬頭、右京大夫。 応永4年(1397年)、父の死去により家督を継い摂津・土佐・讃岐・丹波の守護となる。応永19年(1412年)3月に管領職に就任した。就任中の北畠満雅の反乱、上杉禅秀の乱、足利義嗣の殺害事件、有力守護大名と4代将軍足利義持及び側近の富樫満成との対立など様々な問題が起こったが、満元は義持をよく補佐してこれを全て処理し、守護連合制度の確立に努めた。 応永28年(1421年)7月に管領を辞任、5年後の応永33年(1426年)10月16日、49歳で死去した。 満済は『満済准后日記』で満元について「天下の重人なり、御政道等一方の意見者」と記し、公家の中山定親も日記『薩戒記』で「執政の器」と評しており、満元が公家からも武家からも幕政における重鎮と評されていたことを示している。.

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細川持常

細川 持常(ほそかわ もちつね)は、室町時代の守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河守護。細川氏の分家・阿波細川家の当主。父は、細川満之の子・細川満久(みつひさ)。弟に教祐(のりすけ)、その子の成之は持常の養子となる。官位は従五位下、兵部少輔、讃岐守。.

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細川持之

細川 持之(ほそかわ もちゆき 1400年~1442年9月8日)は、室町時代の武将・守護大名。第14代室町幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐守護。第10代細川京兆家当主。細川満元の次男で兄に持元、弟に持賢がいる。妻は京極高光の娘。嫡男に勝元、成賢(しげかた、持賢養子)。.

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細川持元

細川 持元(ほそかわ もちもと、応永6年(1399年) - 正長2年7月14日(1429年8月14日))は室町時代前期の武将・守護大名。摂津、丹波、讃岐、土佐守護。第9代細川京兆家当主。細川満元の嫡男。持之、持賢の兄。幼名は聡明丸、通称は五郎。官途は右馬助、右京大夫。.

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細川持隆

細川 持隆(ほそかわ もちたか)は、戦国時代の武将。細川氏一門。阿波守護。第34代室町幕府管領の細川晴元は従弟にあたる。 明応6年(1497年)、細川之持の子として生まれる。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継いで阿波守護となった。細川高国と細川本家当主の座を奪い合っていた細川晴元(持隆の従兄弟)をよく補佐し、享禄4年(1531年)には軍を率いて和泉に渡海し、高国の討伐戦(大物崩れ)で功績を挙げた。ところが、晴元が三好元長を攻めようとした時にこれに反対して晴元から離反して阿波に帰国してしまった。その後、将軍足利義晴の仲裁で晴元と和解する一方で、足利将軍家の連枝である足利義維を阿波に迎え入れた。 天文8年(1539年)、赤松晴政(政村)の要請を受けて備中に出陣し、出雲の尼子晴久(詮久)と戦ったが、このときは敗れた。 天文18年(1549年)、晴元が三好長慶に敗れて没落した後、天文22年(1553年)に長慶の弟・三好実休によって見性寺において殺された(勝瑞事件)。享年57。 勝瑞事件の原因として三好長慶に対抗するため足利義栄(義維の子)を擁して上洛を謀ったが実休に漏れたとする説、阿波国内での実休の力の増大に脅威を感じて暗殺を謀ったのが実休に漏れたとする説、細川晴元の再起を持隆が支援しているのが実休に漏れたとする説があるが、晴元と長慶の戦いの最中に積極的な行動を起こさずに三好氏に好意的とも言える立場を採った持隆が突然長慶・実休と対立するに至った背景には不明な点が多い。.

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細川持賢

細川 持賢(ほそかわ もちかた)は、室町時代後期の武将。細川典厩家の祖。細川満元の3男で持元、持之の弟。.

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細川持春

細川 持春(ほそかわ もちはる)は、室町時代の武将。細川野州家当主。細川満国の子。 備中・伊予などの分郡守護を代襲した。.

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細川成春

細川 成春(ほそかわ しげはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。淡路守護細川家の一族である。淡路守護の細川家は細川師氏を祖とする。.

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細川教春 (和泉上守護家)

細川 教春(ほそかわ のりはる、応永30年(1423年) - 宝徳2年4月27日(1450年6月7日))は、室町時代の武将、守護大名。細川和泉上守護家当主。父は細川持有(もちあり)。母は最勝院。弟に常有(つねあり、元有の父)。仮名は九郎。和泉上守護家の通字により、教有(のりあり)ともいう。教春、教有いずれも「教」の字は将軍足利義教から偏諱の授与を受けたものである。等観院と号す。刑部大輔。.

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美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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美作朝親

美作 朝親 (みまさか ともちか、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武士・御家人。系譜については村上源氏の流れを汲むとされるが、一説には清和源氏とも云われる。号は美作蔵人、美作左近大夫など。子に本郷有泰(ほんごう ありやす)がある。 承元3年(1209年)12月、宿所を相対する御家人橘公業と妻女を巡った争論から合戦へと発展しかけ、将軍実朝の命によって駆け付けた北条時房の仲介により事を収めるという騒ぎがあった。建暦2年(1212年)には実朝の鶴岡八幡宮参拝に随行しているほか、建保元年(1213年)2月に設置された学問所番のうち二番の一人としてその名が見えている(『吾妻鏡』)。このように、実朝と関わりがあったことから、「朝」の字も実朝から与えられたものと推測される。 承久の乱の後、若狭国大飯郡本郷の地頭に任じられ同地に下向した。子孫は本郷氏を称し、鎌倉期には在京の御家人として存続している(下記外部リンクを参照のこと)。.

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義昭

義昭(ぎしょう、応永11年(1404年) - 嘉吉元年旧3月13日(1441年4月4日))は、室町時代の僧。室町幕府第3代将軍・足利義満の子息。大覚寺門跡となり、官職は大僧正に昇り、たびたび東寺長者を務めた。.

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真壁氏

真壁氏(まかべし)は、常陸国真壁郡に栄えた武家。本姓・家系は桓武平氏の一門平繁盛の流れを汲む大掾氏(多気氏)の流れを汲み、多気直幹の四男・長幹を祖とする。通字は「幹」(もと)。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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猿楽

猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.

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看聞日記

『看聞日記』(かんもんにっき)は、伏見宮貞成親王(後崇光院、1372年 - 1456年)の日記。日記41巻と御幸記1巻、別記1巻、目録1巻から構成され、全44巻から成る。一部は散逸しているが、応永23年(1416年)より文安5年(1448年)まで33年間に渡る部分が現存する。『看聞日記』は宮内庁書陵部所蔵の貞成親王自筆の原本の題名で、一般には『看聞御記』(かんもんぎょき)とも呼ばれる。 貞成親王は伏見宮3代で、後花園天皇の実父にあたる人物である。将軍足利義教時代の幕政や世相、貞成親王の身辺などについて記されており、政治史だけでなく文化史においても注目される。 一部は消失しているが、原本は宮内庁書陵部に所蔵されている。1930年(昭和5年)に続群書類従完成会により宮内庁書陵部所蔵原本が翻刻され、以来室町期の政治・社会・文化を知る史料として活用されている。.

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瓢鮎図

鮎図(ひょうねんず)は、日本の初期水墨画を代表する画僧・如拙作の絵画作品である。日本の国宝に指定されている。.

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田楽

楽(でんがく)は、平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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熱田神宮

熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。.

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畠山家国

山 家国(はたけやま いえくに、生年不詳 - 建武2年(1335年))は、鎌倉時代末期の武将。足利氏の支流畠山氏の5代当主(実質的初代当主の足利義純を除くと4代当主)。通称二郎。畠山貞国の子。国清、義深、義熈、清義、国頼、義輝、清渓尼(足利基氏妻)の父。後に出家して西蓮と称す。治部大輔。位階は従五位下。 当時の畠山氏の嫡流は家国の伯父とされる畠山高国であるが、家国の子孫が後に室町幕府の管領を輩出する家柄となった。.

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畠山義深

山 義深(はたけやま よしふか/よしとお安田(1990)p407 、元弘元年(1331年) - 康暦元年/天授5年10月12日(1379年11月21日))は、南北朝時代の武将。畠山氏6代当主。畠山家国の子。兄弟に畠山国清、足利基氏室が、子に畠山基国、畠山深秋がいる。通称、三郎。増福寺と号。 国清とともに幕政に参与、関東で兄とともに北朝方として戦う。以降兄と行動を共にし、康安元年(1361年)11月、兄国清が伊豆で挙兵した際もこれに従うが(畠山国清の乱)、敗北し降伏 。貞治5年(1366年)、幕府に許され、貞治の変で失脚した斯波高経の分国であった越前守護に任命され、高経を打ち破った。のち、能登守、越中守、河内守、和泉守、紀伊守、伊豆、越前の守護を歴任した。.

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畠山義清

山 義清(はたけやま よしきよ、生没年不詳)は南北朝時代から室町時代前期の武将。阿波守。入道祐寿。.

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畠山氏

山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.

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畠山満家

山 満家(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。.

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畠山満慶

山 満慶(はたけやま みつのり)は、室町時代の守護大名。室町幕府相伴衆、越中・紀伊・河内・能登守護。能登畠山氏の初代当主。畠山基国の次男で、満家の弟。子に畠山義忠、畠山教国(のりくに)がいる。 詳しい生誕年は不明だが、元服時には室町幕府第3代将軍・足利義満より偏諱を賜って満慶(または満則)と名乗る。 応永13年(1406年)に父が亡くなると将軍・義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄満家に代わって畠山家の家督を継いだが、応永15年(1408年)に義満が死去すると、満慶は家督を兄に返還することとした。このことは当時、「天下の美挙」と言われた。このため、兄は感謝の意から分国のうち能登一国を満慶に与え、同年には満慶を初代とする能登畠山氏が創設された。 しかし義満の長男で第4代将軍の足利義持とは不仲だったようで、義持と対立していた足利義嗣が上杉禅秀の乱に呼応して反乱を起こそうとすると、満慶は義嗣を援助しようとしたため、義持の命令により捕らえられ、剃髪して蟄居するように命じられた。 永享4年(1432年)6月27日に死去。長子の義忠が家督を継いだ。また、次子は第6代将軍足利義教(義持の弟)から偏諱を賜って教国と名乗り、御供衆の一人となっている。.

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畠山持富

山 持富(はたけやま もちとみ、生年不詳 - 宝徳4年(1452年))は、室町時代後期の武将。河内畠山家当主・畠山満家の三男。異母兄に持国、同母兄に持永。子に弥三郎(政久)、政長がいる。幼名は弥三郎。官位は尾張守。.

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畠山持国

山 持国(はたけやま もちくに)は、室町時代の守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。畠山満家の嫡男。義就の父。 危機的状況を脱して管領に就任、勢力拡大を目指すも晩年にお家騒動を発生させ、畠山氏衰退の元を生み出してしまった。.

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畠山持永

畠山 持永(はたけやま もちなが、生年不詳 - 嘉吉元年閏9月5日(1441年10月28日)?)は、室町時代の守護大名。河内・紀伊・越中守護。官位は左馬助。 畠山満家の次男として生まれる。生誕年は不明だが、兄・持国、弟・持富と同様、室町幕府第4代将軍足利義持の偏諱(「持」の字)を賜っていることから、義持の在職中に元服は済ませている筈である。 嘉吉元年(1441年)1月29日、兄持国が第6代将軍足利義教(義持の弟)の怒りに触れて家督を更迭されると、家臣の遊佐氏・斎藤氏らに擁立されて当主となった。しかし、6月24日に義教が赤松満祐に暗殺(嘉吉の乱)されると持国が赦免され、持永は7月4日に京都から出奔、越中に逃れたが、持国方に打ち破られた。この時持永は討たれたとも、閏9月5日に摂津で身を隠していた所を発見、殺されたとも言われる。 もちなか Category:室町時代の人物 Category:守護大名 Category:生年不明 Category:1441年没.

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相国寺

法堂(側面) 相国寺(しょうこくじ)は、日本の禅寺。京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺である。山号を萬年山(万年山)と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺、まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)という。 本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石である。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。.

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白衣観音

白衣観音(びゃくえかんのん、びゃくいかんのん)は、梵語にパーンダラヴァーシニー(pandara vasini)といい、日本や中国では、三十三観音の一人に数えられる観音菩薩。また、大白衣観音、白衣観自在母、白処、白衣母、白衣明妃とも称され、密教の『胎蔵界曼荼羅』には蓮華部に白処尊菩薩の名前でも登場する。 古くからインドで崇拝されていたとされ、仏教に取り入れられてからは阿弥陀如来の明妃となり、観音菩薩の母とも仰がれて、その後、観音菩薩の変化身の一尊として信仰されるようになった。.

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癇癪

癇癪(かんしゃく).

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花の御所

花の御所(はなのごしょ)は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称()であり、敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町を占めた。京都御所()がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角に位置した。.

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花山院持忠

花山院 持忠(かざんいん もちただ)は、室町時代の公卿。 応永29年(1422年)に従三位となり公卿に列する。参議・伊予権守・権中納言を経て、正長元年(1428年)に権大納言となる。永享2年(1430年)従二位・造営上卿となる。永享9年(1437年)右近衛大将に、永享13年(1440年)には内大臣に任じられる。嘉吉2年(1442年)に右大将を辞し、翌年には内大臣も辞した。文安5年(1448年)に44歳で出家。薨去後に太政大臣が追贈された。 なお『看聞御記』には、父・忠定に相続人がおらず花山院家の家門が断絶しかかったため、「南方近衛息」(南朝関白近衛経忠の末裔)を密かに迎えて、将軍足利義持の加冠によって元服してその偏諱を受けたとする記述があるが、真相は不明である。.

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花営三代記

花営三代記(かえいさんだいき)とは、足利義満以後3代の室町幕府将軍に関して記した記録。武家日記・室町記の別称で知られている。もっとも、この書は元が全く別個である2つの文書をつないだだけに過ぎず、それを行った編者についても知られていない。 前半部と後半部では、記された年代も体裁・記述内容も全く異なっており、元は全く別箇の書物であったことを示している。前半部は足利義満が将軍であった1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)から1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)までの幕府法令や補任状、各種記録などから政務に関係する主だったものを抜き出して集成したもので、政所関係者の手によるものと言われている。後半部は足利義持・足利義量父子が将軍であった1421年(応永28年)から1425年(応永32年)までの幕府役人の個人日記である。著者は御供衆の伊勢貞弥とされている。伊勢氏もまた政所と深い関わりのある一族であり、前半部・後半部ともに室町時代の法制史・政治史に関する貴重な資料である。.

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花押

花押(かおう、華押)は、署名の代わりに使用される記号・符号をいう。 元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図案化・文様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれた。花押は、主に東アジアの漢字文化圏に見られる。中国の斉(5世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた。世界各地においても、花押の類例(イスラム圏でのトゥグラなど)が見られる。.

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鎌倉大草紙

鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)とは、室町時代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。康暦2年(天授6年/1380年)より文明11年(1479年)の100年間の歴史を記している。『太平記』を継承するという意味から太平後記の別称がある。全3巻。 戦国時代初期の作品と推定されている。永享の乱から結城合戦について扱った中巻は『結城戦場記』(『永享記』)とほぼ同文であり、早い時期に逸失して別の書籍から補われた可能性が高い。 作者は不明だが、東常縁と斎藤妙椿との和歌問答や享徳の乱によって千葉氏の嫡流となったいわゆる「下総千葉氏」の存亡の危機となった臼井城攻略戦で締めくくられており、千葉氏のかつての嫡流であったいわゆる「武蔵千葉氏」を擁護する記載が見られることから、武蔵千葉氏を支援して下総千葉氏と争った東常縁の関係者を著者と推定する説が有力である。また上・中巻と下巻の1までには全体に鎌倉公方足利氏に忠実な臣下としての関東管領上杉氏を賛美する記述があり、このような傾向は千葉氏に関する記述が増える下巻の2にはみられないことから、上巻から下巻の1までと下巻の2では作者が異なる可能性も指摘されている。 上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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飛騨国

飛騨国(ひだのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

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馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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高野山

壇場伽藍 壇場伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。 2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録された。.

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高橋殿

橋殿(たかはしどの、? - 永享元年(1429年))は、室町時代前期の女性で室町幕府第3代将軍足利義満の側室。実名は不詳。義満の存命中は「西御所」と称され、義満の没後に京都の北野高橋の邸宅に住んだことから、「高橋殿」「北野殿」と呼ばれた。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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鯨統一郎

統一郎(くじら とういちろう)は日本の小説家。推理作家、SF作家。覆面作家。國學院大學文学部国文学科卒。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義嗣

足利 義嗣(あしかが よしつぐ)は、室町時代の足利将軍家の人物。室町幕府3代将軍足利義満の四男で、4代将軍足利義持の弟にあたる。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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足利義量

足利 義量(あしかが よしかず)は、室町時代中期の室町幕府第5代征夷大将軍(在職:応永30年3月18日(1423年4月28日) - 応永32年2月27日(1425年3月17日))。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利氏満

足利 氏満(あしかが うじみつ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。第2代鎌倉公方(在職:正平22年/貞治6年5月29日(1367年6月26日) - 応永5年11月4日(1398年12月12日))。父は足利基氏、母は畠山家国の娘。.

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足利満直

足利 満直(あしかが みつなお/みつただ)は室町時代中期の武将で篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。第2代鎌倉公方足利氏満の次男。第3代公方足利満兼は兄。.

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足利満隆

足利 満隆(あしかが みつたか)は、室町時代の武将である。第2代鎌倉公方・足利氏満の三男。.

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足利満詮

足利 満詮(あしかが みつあきら)は南北朝時代から室町時代にかけての武将。室町幕府第2代将軍・足利義詮の4男。母は紀良子。同第3代将軍・足利義満の同母弟にあたる。父・義詮と兄・義満より1字ずつ賜って満詮と名乗る。.

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足利持仲

足利 持仲(あしかが もちなか、生年未詳兄・持氏が生まれた応永5年(1398年)から叔父・満隆の養子となる応永17年(1410年)の間に生まれているのは確かであり、享年は十数であったとみられる。 - 応永24年1月10日(1417年1月27日))は、室町時代の武将。父は第3代鎌倉公方・足利満兼で、叔父・足利満隆の養嗣子。幼名は乙若丸。.

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足利持氏

足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.

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鹿苑寺

足利義満 鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。 寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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赤松光範

赤松 光範(あかまつ みつのり)は、南北朝時代の武将、守護大名。摂津守護。赤松範資の嫡男で赤松則村(円心)の孫に当たる。京都七条の屋敷に住んでいたことから七条 光範(しちじょう みつのり)とも称される。 正平5年/観応元年(1350年)と翌正平6年/観応2年(1351年)に祖父と父が相次いで亡くなり、摂津守護職は光範に受け継がれたが、家督と播磨は叔父の則祐に移った。正平7年/観応3年(1352年)に南朝が京都を襲撃する事態が発生すると、近江に逃れた将軍足利義詮の召集命令に応じて叔父と共に北朝に味方し京都を奪回、男山包囲戦にも加わった(八幡の戦い)。 正平14年/延文4年(1359年)の南朝征討にも従軍したが、翌年に摂津守護職を佐々木道誉に交替させられた。正平18年/貞治2年(1363年)に摂津守護に再任されたが、文中3年/応安7年(1374年)に細川頼元に替えられた。弘和元年/永徳元年(1381年)10月3日に死去、享年62。 子孫は七条氏として存続、戦国時代に義村が惣領家の家督を継承した。また義村の弟義允の末裔は戦国期に石野氏を名乗って別所氏・豊臣氏に仕え、江戸時代には5000石の大身旗本として赤松家を再興した。.

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赤松義則

赤松 義則(あかまつ よしのり)は、室町時代前期の守護大名。赤松則祐の嫡男で、赤松満祐の父。.

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赤松貞村

赤松 貞村(あかまつ さだむら)は、室町時代中期の武士。足利将軍家の近習。.

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赤松満祐

赤松 満祐(あかまつ みつすけ/まんゆう)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。.

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赤松持則

赤松 持則(あかまつ もちのり)は、室町時代前期の武将。 赤松則祐の子(義則の弟)として生まれる。この年は不明だが、名前(諱)の「持」の字は足利義持(のちの室町幕府第4代将軍)から受けたものとみられ、この場合、第3代将軍・足利義満の1字を受けた満則(1366年生まれ)より後に生まれたものと思われる。 康応元年/元中6年(1389年)、将軍・義満が厳島神社に参詣の途上、備前牛窓港で一泊したとき、その接待を務めた。元中8年/明徳2年12月30日、明徳の乱で山名氏清と山名満幸が京都に攻め込んできた際、兄・義則や満則と共に二条猪熊において奮戦して山名軍に勝利するも、戦死した。 尚、庶流の別所氏の名跡を継いだとされ、別所持則とも呼ばれる。子孫は赤松家臣の別所氏として続き、別所則治は持則の曾孫とされる。.

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赤松持貞

赤松 持貞(あかまつ もちさだ)は、室町時代前期の武士。赤松氏庶流・春日部家3代当主。足利将軍家の近習。.

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門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

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藤原季範

誓願寺(名古屋市熱田区)門前にある「右大将頼朝公誕生舊地」の碑。季範の別邸跡ともされ、季範女由良御前がここで頼朝を出産したという。 藤原 季範(ふじわら の すえのり)は、平安時代末期の公家・神官。藤原南家、藤原季兼の子。位階は従四位下。額田冠者を名乗る。.

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藤原慶子

藤原 慶子(ふじわら の よしこ、延文3年/正平13年(1358年) - 応永6年5月8日(1399年6月12日))は、室町時代前期の女性。室町幕府第3代将軍・足利義満の側室。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの生母。通称は北向殿 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.235。.

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葛西満信

葛西満信(かさい みつのぶ、応安3年(1370年) - 応永27年(1420年))は、室町時代の大名。葛西氏当主。.

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葛西政信

葛西 政信(かさい まさのぶ)は、室町時代後期の大名。奥州葛西氏の第13代当主。名は信勝(のぶかつ)とも。従五位下、壱岐守、左京大夫。正室は千葉師胤の娘。子に晴重、女子(大崎持高後室)。.

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肥田氏

肥田氏(ひだし)は、日本の氏族。土岐氏庶流で代々武家として鎌倉幕府、室町幕府を支えた後、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、北条氏康、徳川家康の家臣として仕え、江戸時代には旗本幕閣(長崎奉行、勘定奉行)として徳川幕府中枢を支えるとともに、尾張藩、水戸藩、高松藩の家老を輩出した。また幕末には遣米使節一行として咸臨丸で渡米するなど明治にかけても活躍し新政府の下で文明開化に貢献した。 発祥により大きく播州肥田氏・土岐肥田氏・豆州肥田氏・遠江肥田氏などがある。また飛騨氏、飛田氏、比田氏、樋田氏、氷田氏、木田氏、貴田氏も同族の可能性がある。九州の日田氏(ひたし)は大蔵氏 (豊後国)であり別族。 家紋は「土岐桔梗」「桔梗」「丸に桔梗」「片喰」「三つ柏」「丸に剣花菱」「丸に太九枚笹」「三つ盛酢漿草」などがある。 2008年(平成20年)現在、日本に1849世帯の肥田姓があり、岐阜、中京、関西圏が多いものの広く日本全国に分布している。首都圏を除き主だった地域では常滑市に87世帯(4%)、可児市48世帯(2%)、土岐市45世帯(2%)、賀茂郡42世帯(2%)、射水郡31世帯(1%)、加東市・西脇市12世帯となっている。.

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重要美術品

重要美術品(じゅうようびじゅつひん)は、文化財保護法施行以前、旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき日本政府(文部大臣)が、日本国外への古美術品の流出防止を主目的として認定した有形文化財のことである。.

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重要文化財

建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.

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至徳 (日本)

至徳(しとく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。永徳の後、嘉慶の前。1384年から1387年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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逸見氏

逸見氏(へみし、へんみし)は、日本の氏族。以下の2つの流れがある。.

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院司

院司(いんし、いんのつかさ)は、日本の中世・古代において、上皇や女院の直属機関として設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった。平安時代後期に院政が開始すると、上皇の政務機関である院庁の院司は、政治の枢要を担う重要職とされた。 本項では、院政の院司について詳述する。.

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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桜井英治

桜井 英治(さくらい えいじ、1961年11月 - )は、日本の歴史学者、東京大学教授。専門は日本中世史・流通経済史。茨城県出身。.

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桃井直信

桃井 直信(もものい ただのぶ、生没年不詳)は、南北朝時代の武将、守護大名。越中守護。桃井貞頼(さだより)の子で直常の弟、直弘の兄。子に桃井詮信、温井景信。官位は兵庫頭、修理大夫、刑部大輔。 延元3年/暦応元年(1338年)に越前金ヶ崎城と敦賀の南朝軍と戦ったことが初見で、以後は兄と行動を共にし、観応の擾乱では足利直義に付き従い、正平5年/観応元年(1350年)11月に能登の足利尊氏派と交戦、直義没後は南朝に降り直義の養子直冬に与したが、正平22年/貞治6年(1367年)の斯波高経・義将父子の失脚(貞治の変)に伴い兄と共に室町幕府に帰順、義将の領国だった越中守護に任命された。しかし翌正平23年/応安元年(1368年)の義将の幕政復帰と共に越中守護を解任された。「祇園執行日記」によれば文中元年/応安5年(1372年)になると六角室町に宿所を構え在京していることが分かるので、兄と別行動を取っていたことが分かる。没年は不明。 後を継いだ子の詮信(あきのぶ)は尊氏の子・足利義詮から偏諱(「詮」の字)を与えられてその名を称し、将軍直臣として義詮とその子・義満の二代に仕えた。子孫は室町幕府奉公衆のうち二番衆の番頭となっている。 直信の嫡男景信が((藤姓))温井景直に迎え桃井氏から温井氏へと姓を改めた。.

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椿葉記

椿葉記(ちんようき)とは、室町時代に伏見宮貞成親王(後崇光院)が著した伏見宮家の家譜。全1巻。南北朝時代後半の北朝及び室町時代の皇室史に関する歴史書として価値を有している。.

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楠木氏

楠木氏(くすのきし)は、河内国の豪族で、南北朝時代に活躍した南朝方の武家。「楠氏」と表記される事もある。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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正親町家

正親町家(おおぎまちけ)は羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流。洞院家支流。本家である洞院家は室町期に断絶したが、清華クラスの家柄であった。江戸時代の家禄は355石。明治維新後、華族令施行により伯爵。 太政大臣西園寺公経の孫で、太政大臣洞院公守の二男正親町実明から始まる。 家名の由来は、正親町東洞院南西角に屋敷にあったことに由来しているが、その屋敷が土御門東洞院殿の裏築地に面していたことから、裏築地(うらついじ)もしくはそれが変じた裏辻(うらつじ)とも称した。後に分家した一流が「裏辻」と称したのはこれに由来している。 江戸時代元禄時代の正親町町子は、実豊の女で柳沢吉保の側室である。「松蔭日記(東源氏)」を著わした才媛として知られる。寛政年間の公明は、尊号一件で中山愛親とともに処分された。 明治維新後の1884年(明治17年)7月8日実正に伯爵の位を授けられた。実正は、埼玉県知事、侍従長、賞勲局総裁を歴任した。.

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武田信重

武田 信重(たけだ のぶしげ)は、室町時代中期の守護大名。甲斐武田氏の第14代当主。.

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武田信満

武田 信満(たけだ のぶみつ、?-応永24年2月6日(1417年2月22日))は、室町時代前期の守護大名。甲斐国・安芸国守護。甲斐武田氏の第13代当主。甲斐守護 武田信春の嫡男。息子に甲斐守護 刑部大輔 武田信重、悪八郎 武田信長、江草兵庫助 信康、仁勝寺 宗印、今井孫六 左馬助 信景、巨瀬村宮内 信賢、倉科治部少輔 信広、上杉禅秀室(『武田系図』)がいる。官位は安芸守。通称は武田二郎。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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永楽帝

永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河野通久

河野 持通/通久(こうの もちみち/みちひさ)は、室町時代中期の武将。伊予の守護大名。 初めは室町幕府の将軍・足利義持の偏諱を受けて持通と名乗っていたが、のちに鎌倉時代の当主に肖って通久に改名(これは義持の死後に「持」の字を避けるために行われたものと推測される)。.

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法助

法助(ほうじょ、嘉禄3年閏3月5日(1227年4月22日) - 弘安7年11月21日(1284年12月29日))は、鎌倉時代中期の真言宗僧侶。摂政左大臣九条道家の5男。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。非皇族で初めて仁和寺門跡となり、僧侶として初めて准后となる。 嘉禎4年6月23日(1238年8月4日)に12歳で出家して京都仁和寺の道深法親王に学び、同年に東大寺戒壇院において満分戒を受ける。延応元年7月26日(1239年8月26日)に一身阿闍梨の宣下を受け、翌27日に准后宣下を受ける。寛元元年11月28日(1244年1月9日)、八大師御影を図し、翌年12月観音院において道深法親王より伝法潅頂を受ける。建長元年(1249年)、皇胤以外で初めて仁和寺第10世を継承して教説を講ずる。正嘉2年(1258年)門跡の地位を辞して性助入道親王に譲り、乙訓郡開田院に隠退。開田准后・開田御室と号す。文永元年(1264年)8月孔雀法を修す。弘安7年(1284年)58歳で示寂した。 後深草院二条の随筆『とはずがたり』に登場する「有明の月」のモデルは、性助入道親王もしくはこの法助ではないかと考えられている。 Category:鎌倉時代の僧 Category:真言宗の僧 Category:真言宗御室派 Category:九条家 Category:1227年生 Category:1284年没.

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法尊

法尊(ほうそん、応永3年12月30日(1397年1月29日) - 応永25年2月15日(1418年3月22日))は、室町時代前期の真言宗の僧侶。仁和寺門跡・准后。室町幕府第3代将軍足利義満の子。母は『系図纂要』によれば御台所・日野業子だが異説もある。また生年については応永4年(1398年)説もある。 義満の後継を巡って義持・義嗣と並ぶ第3の候補者的な立場にあったとする見方もあるが、義満の死の翌年応永16年(1409年)11月7日に仁和寺門跡永助法親王から得度を受けて仁和寺に入る。応永19年(1412年)4月16日には准后宣下を受けている。これは3歳年上で後に天台座主となった義円(後の6代将軍足利義教)よりも早い待遇だった。苦修錬行を重ね、応永20年(1413年)4月22日に永助法親王から伝法潅頂を受けて仁和寺門跡を継承する。天皇の子以外で仁和寺門跡になったのは鎌倉時代に摂政関白九条道家の子法助の例があるのみという異例の昇進だったが、その5年後に師に先立って23歳で死去した。このため歴代の御室門跡には数えられていない。 法尊の異例の速さの昇進は将軍職の継承を放棄した代償だと言われている。また原則として天皇の子しか就けない仁和寺門跡の地位に父・義満ではなく異母兄・義持の後ろ盾で就いた事実も注目される。.

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淳和院

淳和院(じゅんないん)は、平安京の右京四条二坊(現在の京都府京都市右京区)にあった淳和天皇の離宮・後院。後に源氏長者が奨学院(大学別曹)とともに別当を務めた。別名・西院(さい/さいいん).

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源氏長者

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。.

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満済

満済(まんさい/まんぜい)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺(真言宗)の僧。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后(まんさい じゅごう)、法身院准后(ほっしんいん じゅごう)、三宝院満済(さんぼういん -)としても知られる。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られる。.

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満済准后日記

満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)は、室町時代前期の醍醐寺座主であった満済の日記。法身院准后記(ほっしんいんじゅごうき)とも。 記名は本来なく、いずれも後人の命名による。自筆本の大部分が現存し、応永18年(1411年)1月及び同20年(1413年)から同29年(1422年)までの巻子本11軸が国立国会図書館に、応永30年(1423年)から永享7年(1435年)までの冊子本38冊が醍醐寺三宝院に所蔵される(ともに重要文化財)他、1軸が東京大学史料編纂所に、1冊が京都大学に所蔵される。巻子本が当年の具注暦を用いて覚書のような簡略な記述を行うに留まる一方、冊子本が白紙や反故文書の紙背を用いて詳密な記事を残していることから、恐らく満済が日記を書いていく過程で、次第に記事が増えたために暦に書き切れず、途中から改めて冊子を用いることになったと推測される。 満済は将軍足利義持・義教の護持僧として近侍したので、初期には禳災祈祷の記事が多いが、やがて「黒衣の宰相」と称されるごとく幕政の枢密にも携わるようになると、幕府内外の政治・外交の機微に関わる記述が豊富となる。また、満済は将軍と管領以下の諸大名との意思疎通の役割を果たしていたため、守護大名の複雑な動向を窺う上で格好の史料である。当時の記録として貞成親王の『看聞日記』と双璧を成すが、彼が好奇心から噂話までも書き留めたのに対し、満済は情報を客観的に捉えようとし、直接関与・見聞したことにのみ記述を限定しようとする自制的な態度すら認められる。したがって、史料としての信憑性は極めて高いと言えよう。当代きっての学僧・文化人であるゆえに、将軍・朝廷から民衆に至るまでその見識は広く、室町前期の年中行事や世相・文化・思想を知る上でも欠かせない根本史料である。 刊本としては、『京都帝国大学文科大学叢書4』(全3冊)・『続群書類従補遺1』(全2冊)の2種が出版されており、後者の方が比較的普及しているものの、誤字・脱字がまま見られる。なお、冊子本には奉公衆の書状など840通余りの紙背文書があり、これらも『大日本古文書』醍醐寺文書別集(全3冊)として既刊である。.

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朝松健

朝松 健(あさまつ けん、1956年4月10日 - )は、北海道札幌市生まれの小説家、怪奇小説家。本名、松井克弘。ペンネームの由来は作家アーサー・マッケンから。妻は魔女思想家の松尾未来。 密教立川流と室町時代をベースにした小説を精力的に発表している。またクトゥルフ神話についてのアンソロジー編纂についても内外から高い評価を得ている。.

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木造俊康

木造 俊康(こづくり としやす)は、室町時代前期の公卿。南朝伊勢国司北畠顕能の孫で、木造顕俊の二男。叔父顕泰の養子として在京出仕したが、反幕行動をとる満雅とは袂を分ち、帰家して木造家を継いだ。初名は俊泰。.

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有馬義祐

有馬 義祐(ありま よしすけ、生年不明 - 応永28年9月26日(1421年10月22日))は、室町時代の武将。摂津有馬氏の祖。父は赤松則祐。兄に義則、時則、満則、持則、義房、弟に祐秀。姉妹に細川頼元室。子は持家。 兄義則が赤松家の後を継ぎ播磨国・備前国の守護職に任命された為、義祐は播磨の守護代となる。明徳2年(1391年)の明徳の乱の戦功により摂津国有馬郡有馬荘の地頭職に任命され、その土地の名を取って姓を有馬とした(有馬郡は細川氏への牽制の為に赤松氏が分郡守護とされた)。応永15年(1408年)、兄義則が出家し、その子満祐が家督を継ぐと、義祐は守護大名同様に将軍家に仕えることとなる。 応永28年(1421年)、一族内の抗争により、2歳の孫と共に赤松家の若党に殺害される。.

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有馬持家

有馬 持家(ありま もちいえ、応永3年(1396年)? - 宝徳2年(1450年)?)は、室町時代中期の武将。摂津有馬氏の当主。通称は兵部少輔。有馬義祐の子。子に元家。赤松満祐、満政とは従兄弟。 有馬氏は摂津国有馬郡を領して将軍の近習を務め、本家の赤松氏とは別に室町幕府に直勤していた。 初名は教実(のりざね)、のち第4代将軍足利義持より偏諱を受けて持家と改名。前述の通り赤松氏の分家であることから、姓は赤松とも。 永享元年(1429年)頃から6代将軍足利義教(義持の弟)の御伴衆となる。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱直後も本家である赤松満祐方には与せず、山名宗全率いる幕府側の赤松追討軍に加わったとみられる。その後、新たに播磨守護を兼ねた宗全が持家の従兄弟・赤松満政の領する播磨東3郡を侵食すると、満政は怒り挙兵するが敗北。逃亡した満政は持家を頼る。持家は一度は満政に呼応し挙兵するが敗れ、満政父子を討ち取り幕府へ帰順するが、態度を咎められ隠居した。 8代将軍足利義成(後の義政)に近侍し、その寵臣となったと言われ、義政の乳母今参局(御今)および義政の母日野重子の従弟烏丸資任と共に義政側近の有力者として知られ、「三魔」と並び称されたという(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人)。相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』康正元年1月6日(1455年1月23日)条には「政は三魔より出づ」と記されている。 ただし、他の2人と異なり、持家に関しては特に専横の振る舞いは記録されておらず、義政側近中の「ま」がつく人ということで数合わせとして挙げられたとも考えられる(一説に持家が死去したのは宝徳2年(1450年)といい、そうなると義政将軍期としては時期が合わない)。その事から近年では子の元家が三魔の一人であると言われている。 もちいえ Category:室町・安土桃山時代の武士 Category:摂津国の人物 Category:1390年代生 Category:1450年代没.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明史

『明史』(みんし、拼音:Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から校正される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。.

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斯波義将

斯波 義将(しば よしゆき「義将」の読みに関しては、一般的には「よしまさ」と読まれる(平将門などと同様)ことが多いが、実際は「よしゆき」のようである。偏諱(「将」の字)を賜った人物についても同様のことが言える。)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。.

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斯波義重

斯波 義重(しば よししげ)は、室町時代前期の守護大名。室町幕府管領、越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護。斯波氏(武衛家)6代当主。後に義教(よしのり)と改名。管領として長年に亘って室町幕府を支えた斯波義将の嫡男で、自身も幕府の宿老として重んじられた。.

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斯波義淳

斯波 義淳(しば よしあつ)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府管領、越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)7代当主。管領斯波義重の嫡男で、室町幕府前期の有力者斯波義将の孫に当たる。.

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斯波満種

斯波 満種(しば みつたね)は室町時代前期の武将・守護大名。加賀守護。大野満種とも称す。斯波義種の嫡男で、母は千秋高範の娘(藤原季範の末裔にあたる)。幕府管領の斯波義将は伯父にあたる。.

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斯波持種

斯波 持種(しば もちたね)は室町時代中期の武将。斯波氏の有力一族・斯波満種の嫡男で、母は京極氏の娘。.

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斯波持有

斯波 持有(しば もちあり、応永20年(1413年) - 永享12年5月20日(1440年6月19日))は室町時代の武将。斯波義教(初め斯波義重)の三男。母は甲斐教光の娘で甲斐常治は従兄弟にあたる。通称、次郎。官途は従五位下左衛門佐。義教の子である斯波義淳の異母弟、斯波義郷の同母弟にあたるが、この兄弟の中では唯一、足利将軍家の通字である「義」の字を賜っておらず、4代将軍・足利義持から下(二文字目)の「持」の字を偏諱として賜り、持輔(もちすけ、初名)、次いで持有と名乗った。.

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日野家

日野家(ひのけ)は、日本の貴族の家系のひとつ。藤原北家に属し、名家の家格を有した堂上家である。.

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日野康子

日野 康子(ひの やすこ、正平24年/応安2年(1369年) - 応永26年11月11日(1419年11月28日))は、室町幕府第3代将軍・足利義満の室。女院北山院。父は日野資康。住居にちなんで南御所とも称された。妹の日野栄子は4代将軍となった足利義持の正室で第5代将軍・義量の生母。弟に裏松重光らがいる。 1394年(応永元年)ころ(1405年との説有り。日野業子を参照。)に日野業子(康子の叔母)に先立たれた足利義満の後妻となり、北山第南御所に住したことから南御所と称された。1406年(応永13年)後円融天皇の側室(事実上の正妻)で後小松天皇の生母である通陽門院三条厳子の死後、義満は、後小松は即位後に父の後円融を亡くしており、さらに母の通陽門院を亡くせば、天皇1代のうちに諒闇を2度経験することになり、過去の例(四条天皇・後醍醐天皇)が不吉であることから、准母を立てて諒闇を回避すべきだと主張した。関白・一条経嗣や重光ら側近たちが義満の意向を迎えて奔走し、康子はまず後小松の准母とされ、翌1407年(応永14年)に准三宮となり、さらに北山院の院号を宣下されて女院となった。1408年に義満が没した後、跡を継いだ義持は実妹の夫であったが康子とは疎遠であったらしく(『兼宣公記』応永24年正月10日条によれば、康子の兄弟であった僧侶の処遇を巡って康子と義持が衝突した後に不仲になったという)、義持による義満の朝廷政策の否定の影響もあって、康子の葬儀は女院としての格式では挙行されなかった。康子の死後わずか1ヶ月で御所としていた南御所は解体され、所領も後小松天皇に返還された。.

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日野資康

日野 資康(ひの すけやす、貞治4年/正平3年(1348年)-明徳元年/元中7年8月10日(1390年9月19日))は、南北朝時代の公卿。日野時光の次男。兄に日野資国(日野西家)、弟に日野資教、妹に日野業子。室は池尻殿(出自不詳)。子に日野康子、日野重光、烏丸豊光、日野栄子がいる。室町幕府5代将軍足利義量は外孫にあたる。「裏松」を家号として裏松 資康(うらまつ すけやす)と称した。従一位権大納言。 永和4年/天授4年(1378年)3月、正四位上左大弁兼蔵人頭(頭弁)から左大弁兼参議に進み、同年12月13日に従三位権中納言に任ぜられる。2年後に按察使を兼任。永徳元年/弘和元年(1381年)に正三位を経て従二位に叙され、翌永徳2年/弘和2年(1382年)には後円融院の院執権になる。永徳3年/弘和3年(1383年)には按察使を辞して代わって左衛門督・検非違使別当を兼ねる。至徳元年/元中元年(1384年)に正二位に叙される。至徳3年/元中3年(1386年)1月にに院執権を辞し、同年11月に権大納言に任ぜられる。嘉慶2年/元中5年(1388年)に一旦権大納言を辞しているが、明徳元年/元中7年(1390年)に再任される。8月に病が重く、同月9日に従一位に叙されるが、翌10日に死去した。 妹の業子と娘の康子が3代将軍足利義満の御台所となったことが急激な昇進につながり、同じく娘の栄子も資康の没後に4代将軍足利義持の御台所となり、5代将軍足利義量を生んでいる。日野家の家督は弟の資教が継ぎ、資康は裏松家を名乗ったが、文安5年(1448年)に玄孫の裏松勝光(8代将軍足利義政御台所日野富子の兄)が断絶した宗家を継承して子孫は日野家を家名としたことから、後世においては資康以降の裏松家の人々も「日野」と呼ばれることになる。.

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日野重光

日野 重光(ひの しげみつ、応安7年(1374年) - 応永20年3月16日(1413年4月16日))は、室町時代の公家。藤原北家真夏流の出身で裏松家を創始した。父は日野資康。姉に日野康子(足利義満御台所・北山院)、妹に日野栄子(足利義持御台所)、子に義資、宗子(足利義教御台所)、重子(足利義教側室)らがいる。足利義勝・義政兄弟の祖父であることから、死後左大臣を追贈された。 Category:室町・安土桃山時代の公家 しけみつ Category:1374年生 Category:1413年没.

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日野栄子

日野 栄子(ひの えいし、えいこ、明徳元年/元中7年(1390年) - 永享3年7月27日(1431年9月3日))は、室町時代中期の女性。日野重光の妹。室町幕府第4代将軍・足利義持の正室。同第5代将軍・足利義量の生母にあたる 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.486 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.218。.

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日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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数え年

数え年(かぞえどし)とは、年齢や年数の数え方の一つで、生まれてから関わった暦年の個数で年齢を表す方法である。即ち、生まれた年を「1歳」「1年」とする数え方である。 以降、暦年が変わる(元日(1月1日)を迎える)ごとにそれぞれ1歳、1年ずつ“年をとる”(例:12月31日に出生した場合、出生時に1歳で翌日には2歳となる。また1月1日に出生した場合は、2歳になるのは翌年の1月1日になる)。数え歳や数えともいい、年齢以外の項目では足掛け(あしかけ)ともいう。年齢の序数表示(たとえば、満年齢の0歳をあらわす英語の “first year of life” など)とは異なる。 これに対し、誕生日前日24時を過ぎた時点で加齢・加年する数え方を「満年齢」「満」といい、生まれた年を「0歳」「0年」として暦年が変わるごとに加齢加年する数え方を「周年」という。本項においては、主に年齢に関する事柄について記述する。.

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敗血症

感染症と全身性炎症反応症候群と敗血症の関係。 敗血症(はいけつしょう、sepsis)とは、感染症に対する制御不能な生体反応に起因する生命を脅かすような臓器障害のことで、患者数は世界で年間約2700万人。そのうち約800万人が死亡していると報告されている。国際的な診断基準では感染症が疑われSOFAスコアがベースラインから2点以上増加しているものを敗血症としている。細菌感染症の全身に波及したもので非常に重篤な状態であり、無治療ではショック、播種性血管内凝固症候群(DIC)、多臓器不全などから死に至る。元々の体力低下を背景としていることが多く、治療成績も決して良好ではない。 これに対し、傷口などから細菌が血液中に侵入しただけの状態は菌血症と呼ばれ区別される。また、敗血症と全身性炎症反応症候群(SIRS)は似た概念だが、全身性炎症反応症候群は感染によらない全身性の炎症をも含む概念である『日本版敗血症診療ガイドライン』2013年版による。.

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慈光寺家

慈光寺家(じこうじけ)は宇多源氏の流れを汲む堂上家。左衛門尉・五辻遠兼の次男慈光寺仲清を祖とする。 家格は半家。中務権大輔・慈光寺冬仲の代で堂上家に列せられ、慈光寺澄仲(1713年 - 1795年)が従二位・左馬権頭に叙せられて以降、従二位・非参議が極官となる。 江戸時代の家禄は30石。明治維新後は有仲が子爵に叙せられた。.

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思文閣出版

思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市左京区にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている[こんな出版社]思文閣出版 命の長い本作る 読売新聞 2007年9月27日 大阪夕刊7頁。所在地同ビルに企画展をメインとする美術館・思文閣美術館(しぶんかくびじゅつかん、2011年4月10日より休館中)、京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。.

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1386年

記載なし。

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1394年

記載なし。

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1395年

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1396年

記載なし。

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1397年

記載なし。

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1398年

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1399年

記載なし。

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1400年

14世紀の最後でもある。.

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1401年

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1402年

記載なし。

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1406年

記載なし。

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1407年

記載なし。

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1408年

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1409年

記載なし。

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1410年

記載なし。

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1411年

記載なし。

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1412年

記載なし。

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1413年

記載なし。

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1414年

記載なし。

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1415年

記載なし。

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1416年

記載なし。

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1417年

記載なし。

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1418年

記載なし。

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1419年

記載なし。

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1422年

記載なし。

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1423年

記載なし。

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1424年

記載なし。

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1425年

記載なし。

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1427年

記載なし。

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1428年

記載なし。

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1月18日 (旧暦)

旧暦1月18日は旧暦1月の18日目である。六曜は赤口である。.

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2月12日 (旧暦)

旧暦2月12日(きゅうれき 2がつ12にち)、は旧暦2月の12日目である。六曜は先勝である。.

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2月3日

2月3日(にがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。.

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3月12日

3月12日(さんがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から71日目(閏年では72日目)にあたり、年末まであと294日ある。.

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