ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

法相宗

索引 法相宗

法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年(唐代、貞観19年)中インドから玄奘が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。 日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして、8-9世紀に隆盛を極めた。.

67 関係: 基 (僧)南都六宗大乗仏教天台宗宗派安史の乱宋 (王朝)世親三一権実諍論平城京会昌の廃仏徳一信円修円インド唯識唯識三十頌元 (王朝)元興寺玄奘三蔵玄ボウ第二次世界大戦義淵瑜伽師地論瑜伽行唯識学派遣唐使聖徳宗道昭華厳宗行基飛鳥飛鳥寺覚憲解深密経説一切有部高宗 (唐)護命護法貞慶賢憬部派仏教興福寺薬師寺開元蔵俊武則天法隆寺法興寺法蔵...清水寺濮陽市最澄成唯識論斉明天皇日本の仏教智鳳智雄智通1882年645年653年658年690年703年705年717年 インデックスを展開 (17 もっと) »

基 (僧)

基(き、拼音: 、632年 - 682年)は、中国唐代の仏教家であり、法相宗を起した。窺基(きき)と通称されるが、窺の字を付けない「基」が正しい名前である。.

新しい!!: 法相宗と基 (僧) · 続きを見る »

南都六宗

南都六宗(なんとろくしゅう/- りくしゅう)とは、奈良時代、平城京を中心に栄えた日本仏教の6つの宗派の総称。奈良仏教(ならぶっきょう)とも言う。.

新しい!!: 法相宗と南都六宗 · 続きを見る »

大乗仏教

大乗仏教(だいじょうぶっきょう、महायान Māhāyāna, Mahāyāna Buddhism)は、伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の一派。大乗仏教が発祥した背景としてはさまざまな説が唱えられているが、部派仏教への批判的見地から起こった側面があるとされている。.

新しい!!: 法相宗と大乗仏教 · 続きを見る »

天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

新しい!!: 法相宗と天台宗 · 続きを見る »

宗派

宗派(しゅうは)は、教義・信仰対象などの違いや歴史的経緯により生じた分派である。主に仏教において用いられる。実際にどんな仏教の宗派があるかについては、十三宗五十六派および:Category:仏教の宗派を参照。.

新しい!!: 法相宗と宗派 · 続きを見る »

安史の乱

安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明およびその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。.

新しい!!: 法相宗と安史の乱 · 続きを見る »

宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

新しい!!: 法相宗と宋 (王朝) · 続きを見る »

世親

世親(せしん、वसुबन्धु vasubandhu)は、古代インド仏教瑜伽行唯識学派の僧である。世親はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の訳名であり、玄奘訳以降定着した。それより前には「天親」(てんじん)と訳されることが多い。「婆薮般豆」、「婆薮般頭」と音写することもある。 唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、地論宗・摂論宗・法相宗・浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称される。.

新しい!!: 法相宗と世親 · 続きを見る »

三一権実諍論

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。.

新しい!!: 法相宗と三一権実諍論 · 続きを見る »

平城京

平城宮跡 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。.

新しい!!: 法相宗と平城京 · 続きを見る »

会昌の廃仏

会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ/えしょうのはぶつ)とは、中国・唐朝の武宗期に行われた廃仏事件。また、仏教と共に、長安を中心に盛んであった「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教)も排斥された。「会昌」は、その時の年号。中国史上の対仏教弾圧である三武一宗の廃仏の1つであり、第3回目に当たる。.

新しい!!: 法相宗と会昌の廃仏 · 続きを見る »

徳一

徳一(とくいつ)は奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。最澄とのあいだでやりとりされた所謂三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる。.

新しい!!: 法相宗と徳一 · 続きを見る »

信円

信円(しんえん、仁平3年(1153年)- 元仁元年11月19日(1224年12月30日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての興福寺の僧。別当として南都焼討からの復興に尽力し、現在の興福寺の基礎を築き上げた中興の祖。摂政関白太政大臣藤原忠通の九男。.

新しい!!: 法相宗と信円 · 続きを見る »

修円

修円(しゅえん、宝亀2年(771年) - 承和2年6月13日(835年7月16日))は、平安時代前期の法相宗の僧。俗姓は小谷氏。大和国北谷の出身。檉生禅師(ていしょうぜんじ)とも称される。(義真から天台教学を学び、義真の没後は義真に代わって後にいう天台座主を私に襲うも宗徒の反対にあい、大和国室生寺に住し、いわゆる「室生天台」を現出させた「円修」とは別人(逵日出典の著作参照)。) 大和国興福寺の賢憬に法相を学び、794年(延暦13年)比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめ、805年(延暦24年)には最澄から灌頂を受けた。810年(弘仁元年)に律師、812年(弘仁3年)に興福寺別当となり、興福寺に伝法院を設けて深密会を始めた。827年(天長4年)少僧都となる。 空海とも親しく、天台宗・真言宗という当時としては新しい仏教に理解を示していたようである。 Category:法相宗の僧 Category:平安時代の僧 Category:大和国の人物 Category:771年生 Category:835年没.

新しい!!: 法相宗と修円 · 続きを見る »

インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

新しい!!: 法相宗とインド · 続きを見る »

唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

新しい!!: 法相宗と唐 · 続きを見る »

唯識

唯識(ゆいしき、skt:विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。.

新しい!!: 法相宗と唯識 · 続きを見る »

唯識三十頌

唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ、Triṃśikā-vijñapti-mātratā, トリンシカー・ビジュニャプティ・マートラター)は、大乗仏教唯識派の世親が著した唯識の思想を要約した30の偈頌で、玄奘が訳したもの。 原題は「トリンシカー」(triṃśikā)が「三十頌」、「ビジュニャプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)が「唯識」、総じて「唯識についての三十頌」の意。 なお、このほかに漢訳されたものに、真諦が訳した「転識論」がある。 その後、護法がこの唯識三十頌を注釈して玄奘が訳した『成唯識論』は、法相宗(唯識宗)の重要な論典のひとつとなった。.

新しい!!: 法相宗と唯識三十頌 · 続きを見る »

元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

新しい!!: 法相宗と元 (王朝) · 続きを見る »

元興寺

日本最古、飛鳥時代の瓦(極楽坊禅室・本堂) 元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。.

新しい!!: 法相宗と元興寺 · 続きを見る »

玄奘三蔵

奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は。諡は大遍覚『全唐文』「s:zh:大唐三藏大遍覺法師塔銘(並序)」で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。.

新しい!!: 法相宗と玄奘三蔵 · 続きを見る »

玄ボウ

昉(げんぼう、生年不詳 - 天平18年6月18日(746年7月15日))は、奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)。安斗阿加布の子とする系図や、善珠の父とする史書もある。僧官は僧正。.

新しい!!: 法相宗と玄ボウ · 続きを見る »

第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

新しい!!: 法相宗と第二次世界大戦 · 続きを見る »

義淵

義淵(ぎえん・ぎいん、皇極天皇2年(643年) - 神亀5年10月20日(728年11月29日))は、奈良時代の法相宗の僧。『続日本紀』によると俗姓は市往氏であるが、『扶桑略記』では大和国高市郡の出身で俗姓を阿刀氏とする。 『扶桑略記』や『東大寺要録』では、父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたという。出家して元興寺に入り唯識・法相を修め、龍蓋寺(岡寺)、龍門寺などの5ヶ龍寺を創建した。文武天皇3年(699年)、学行褒賞で稲1万束を賜り、大宝3年(703年)に僧正に任じられた。元正・聖武両天皇の下で内裏に供奉した。『続日本紀』には、先代からの行いを称され727年(神亀4年)に岡連の姓を賜り兄弟に仕えることを許された、とある。 『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄昉・行基・隆尊・良弁などがおり、道慈・道鏡なども義淵の門下であったという。 伝説的逸話として、醍醐寺本『諸寺縁起集』薬師寺縁起によれば、憤怒のあまり悪龍と変じた大津皇子を義淵と修円が調伏し、皇子のために龍峯寺を建立したとある。義淵の龍調伏伝説は龍に変じた人物が草壁皇子に変じたものなど異伝が多いが、龍門寺など龍の名を冠する寺の縁起譚として共有され、平安時代には説話として広く伝搬していた。.

新しい!!: 法相宗と義淵 · 続きを見る »

瑜伽師地論

『瑜伽師地論』(ゆがしじろん、Yogācārabhūmi-śāstra, ヨーガーチャーラ・ブーミ・シャーストラ)は、大乗仏教唯識派の重要な文献。.

新しい!!: 法相宗と瑜伽師地論 · 続きを見る »

瑜伽行唯識学派

伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)は大乗仏教の学派のひとつで、唯識の教学を唱導した学派である。 唯識瑜伽行派、唯識派(विज्ञानवाद, Vijñānavāda, ヴィジュニャーナヴァーダ、Vijñapti-mātra(tā), ビジュニャプティ・マートラ(ター)、Cittamātra, チッタマートラ)、瑜伽行派 (योगाचार, Yogācāra, ヨーガーチャーラ)とも言う。.

新しい!!: 法相宗と瑜伽行唯識学派 · 続きを見る »

遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。.

新しい!!: 法相宗と遣唐使 · 続きを見る »

聖徳宗

聖徳宗(しょうとくしゅう)は、日本の仏教宗派の一つであり、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺を総本山とする。小本山に法起寺・法輪寺、門跡寺院の中宮寺など末寺は、29ヵ寺。 昭和25年(1950年)に、法相宗からの独立を果たす(宗教法人として認可されたのは、昭和27年(1952年))。聖徳太子を宗祖とする。所依の経典は、聖徳太子が撰したとされる「三経義疏」である。.

新しい!!: 法相宗と聖徳宗 · 続きを見る »

道昭

道昭(どうしょう、道紹や道照とも、舒明天皇元年(629年)- 文武天皇4年3月10日(700年4月3日))は、河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧である。父は船恵尺。.

新しい!!: 法相宗と道昭 · 続きを見る »

華厳宗

華厳宗(けごんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつ。『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を拠り所とした宗派で、開祖は杜順。日本仏教における華厳宗は、審祥により736年に伝えられた。南都六宗の一つ。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された。.

新しい!!: 法相宗と華厳宗 · 続きを見る »

行基

行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)『大僧正舎利瓶記』、奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。.

新しい!!: 法相宗と行基 · 続きを見る »

飛鳥

飛鳥(あすか)は、かつて大和国高市郡にあった地域である。現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺を指した。 上記の他に、河内国安宿郡に現在の大阪府羽曳野市及び太子町あたりを指した飛鳥という地名があり、両者を区別するために、河内国(大阪府)の飛鳥は「'''近つ飛鳥'''」「'''河内飛鳥'''」とよばれ、大和国(奈良県)の飛鳥は「遠つ飛鳥」「大和飛鳥」と呼ばれる。この場合の「近つ」「遠つ」はかつて都があった難波宮(大阪市中央区)からみて近いかと遠いかによるとする説もある(なお、遠つ飛鳥と近つ飛鳥を逆に解する説もある)。 現在では、単に「飛鳥」といった場合には、大阪府の飛鳥(河内飛鳥)ではなく奈良県の飛鳥(大和飛鳥)を指すのが一般的である。したがって、ここでは奈良県の飛鳥について記述している(大阪の飛鳥は「河内飛鳥」を参照)。.

新しい!!: 法相宗と飛鳥 · 続きを見る »

飛鳥寺

本堂 飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。.

新しい!!: 法相宗と飛鳥寺 · 続きを見る »

覚憲

覚憲(かくけん、天承元年(1131年)- 建暦2年12月17日(1213年1月10日))は、鎌倉時代初期の法相宗の僧。父は藤原通憲(信西)。宝積院僧正・壺坂僧正とも称される。.

新しい!!: 法相宗と覚憲 · 続きを見る »

解深密経

『解深密経』(げじんみっきょう、Saṃdhi-nirmocana Sūtra, サンディ・ニルモーチャナ・スートラ)は、中期大乗仏教経典の1つ。 原題は、「サンディ」(saṃdhi) が「結合・連結」、「ニルモーチャナ」(nirmocana)が「解放」(「解脱」)、「スートラ」(sūtra) が「経」、総じて「解放(解脱)へとつながる経」の意。 唯識派(ゆいしきは)もしくは、中国(唐)・日本の法相宗の所依の経典の一つで、唯識思想を初めて説いたといわれる経典である。また、序品を除いて、ほとんどが『瑜伽師地論』第75-78巻に引用され、さらに『摂大乗論』『成唯識論』などに引用されて、後世への影響が大きい。.

新しい!!: 法相宗と解深密経 · 続きを見る »

説一切有部

説一切有部(せついっさいうぶ、Sarvāstivādin)は、部派仏教時代の部派の一つ。略称は有部。説因部(せついんぶ、Hetuvāda)ともよばれる。紀元前1世紀の半ば頃に上座部から分派したとされ、部派仏教の中で最も優勢な部派であったという。同じく上座部系とされる南伝の分別説部と並んで、多くのアビダルマ文献が現存している。 「あらゆる現象」(諸法、dharmā)を構成する基体として、有法、法体(ダルマ、dharma)を想定し、主観的な我(人我)は空だが客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在するとした。説一切有部は大衆部や経量部と対立し、大乗仏教からも批判されたが、大きな勢力を保った。.

新しい!!: 法相宗と説一切有部 · 続きを見る »

高宗 (唐)

宗(こうそう)は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后である。.

新しい!!: 法相宗と高宗 (唐) · 続きを見る »

護命

護命(ごみょう、天平勝宝2年(750年)- 承和元年9月11日(834年10月20日))は、奈良時代末から平安時代前期にかけての法相宗の僧。俗姓は秦氏。小塔院僧正とも呼ばれる。美濃国各務郡の出身。奈良市西新屋町45番地、史跡「元興寺小塔院」に墓が残っている。 日本における法相教学の大成者で、元興寺の法相宗が興福寺の法相宗に上回る原動力となった。著作に天長六本宗書の一つ『大乗法相研神章』5巻などがある。比叡山の最澄による天台戒壇独立運動には僧綱の上首として反対した。一方で真言宗の空海とは親交があり、空海から80歳を祝う詩(『性霊集』巻十所収)を贈られている。.

新しい!!: 法相宗と護命 · 続きを見る »

護法

護法(ごほう、ダルマパーラ, dharmapāla、530-561)は、古代インドの大乗仏教の僧であり、唯識派の学僧。唯識十大論師の一人。 南インドのパッラヴァ朝の大臣の長男に生まれ、若くしてナーランダ寺の学長となったが、29歳で隠退し、ブッダガヤで亡くなった。 世親(vasubandhu)の『唯識三十頌』を護法が注釈した学説は、弟子のシーラバドラ(戒賢)から玄奘を通じてその弟子の慈恩大師基の『成唯識論』によって後世に伝えられた。.

新しい!!: 法相宗と護法 · 続きを見る »

貞慶

貞慶(じょうけい、久寿2年5月21日(1155年6月22日)- 建暦3年2月3日(1213年2月24日))は、鎌倉時代前期の法相宗の僧である。 祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。号は解脱房。釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たした。その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上した『興福寺奏状』の起草者としても知られる。.

新しい!!: 法相宗と貞慶 · 続きを見る »

賢憬

賢憬(けんけい、和銅7年(714年) - 延暦12年11月8日(793年12月15日))は、奈良時代の法相宗の僧。俗姓は荒田井氏。尾張国の出身。賢璟(けんきょう)とも称される。尾張僧都あるいは尾張大僧都とも呼ばれた。 興福寺の宣教に師事して唯識法相を学ぶ一方で苦業練行を重ね、天平15年(743年)正月に「師主元興寺賢璟」として同族の子麻呂を優婆塞に貢進推挙した。754年(天平勝宝6年)唐の僧鑑真を難波に迎え、翌755年(天平勝宝7歳)には旧戒を破棄して鑑真から具足戒を受けた。758年(天平宝字2年)には唐招提寺に一切経420巻を奉納している。774年(宝亀5年)に律師に任じられている。宝亀9年(778年)頃に大和国室生山で延寿法を修して山部皇太子(後の桓武天皇)の宿痾を治したために、後に桓武天皇の深い信頼を得た。780年(宝亀11年)多度大社神宮寺に三重塔を建立、また宝亀年間(770年-780年)には室生寺を創建している。784年(延暦3年)大僧都に任じられる。延暦4年(785年)4月の最澄の戒牒や『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』に、ともに僧綱の一人として署名した。793年(延暦12年)遷都を行うにあたって遷都先の地を選ぶ際、山背(山城)の地に派遣されている。その際、比叡山文殊堂供養で導師をつとめている。同年11月8日に80歳で没した。 高い学識で知られ、大安寺戒明が入唐求法で請来した「釈摩訶衍論」を調べてこれを偽書と判定し、最澄と会津の徳一との論争に影響を与えた。多くの弟子がいたが、その中でも修円・明福は有名である。 Category:法相宗の僧 Category:奈良時代の僧 Category:尾張国の人物 Category:714年生 Category:793年没.

新しい!!: 法相宗と賢憬 · 続きを見る »

部派仏教

部派仏教(ぶはぶっきょう、Early Buddhist schools)とは、釈迦の死後百年から数百年の間に仏教の原始教団から分裂して成立した諸派の仏教。アビダルマ仏教ともいう。紀元前3世紀頃に原始教団が上座部と大衆部に分裂(根本分裂)したのち、この2部派がさらに分裂してゆき、部派の数は全体で20となった。各部派は、釈迦が残した教法を研究・整理して、独自の教義を論(アビダルマ)として作り、互いに論争した。部派仏教は、釈迦と直弟子時代の初期仏教を継承し、大乗仏教の成立後も数世紀に渡りインドで大きな勢力を有していたとされる。のちに興った大乗仏教からは小乗仏教と貶称された。.

新しい!!: 法相宗と部派仏教 · 続きを見る »

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 法相宗と興福寺 · 続きを見る »

薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 法相宗と薬師寺 · 続きを見る »

開元

開元(かいげん)は、中国・唐代の元号のひとつ。玄宗の治世に行われた。 この時期は、玄宗の治世の前半にあたり、「開元の治」と呼ばれ唐の絶頂期と評価されている。.

新しい!!: 法相宗と開元 · 続きを見る »

蔵俊

蔵俊(ぞうしゅん、長治元年(1104年) - 治承4年9月27日(1180年10月17日))は、平安時代後期の法相宗の僧。俗姓は巨勢氏。大和国高市郡池尻の出身。教明房・菩提院上綱・菩提院贈僧正とも称される。.

新しい!!: 法相宗と蔵俊 · 続きを見る »

武則天

武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.

新しい!!: 法相宗と武則天 · 続きを見る »

法隆寺

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。.

新しい!!: 法相宗と法隆寺 · 続きを見る »

法興寺

法興寺(ほうこうじ).

新しい!!: 法相宗と法興寺 · 続きを見る »

法蔵

法蔵(ほうぞう).

新しい!!: 法相宗と法蔵 · 続きを見る »

清水寺

清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号は音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。.

新しい!!: 法相宗と清水寺 · 続きを見る »

濮陽市

陽市(ぼくよう-し)は中華人民共和国河南省に位置する地級市。.

新しい!!: 法相宗と濮陽市 · 続きを見る »

最澄

最澄像(能福寺) 哭澄上人詩(嵯峨天皇宸翰)(部分) 最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。 先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。.

新しい!!: 法相宗と最澄 · 続きを見る »

成唯識論

『成唯識論』(じょうゆいしきろん、Vijñapti-mātratā-siddhi, ヴィジュナプティ・マートラター・シッディ)は、法相宗(唯識宗)が所依とする論典の一つ。10巻からなる。 「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」(悉地, siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による(悟りの)成就(についての論)」の意。 世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典。 日本へも早くに伝わり、長く唯識の教学として研究された。近年新しい訳解説が刊行されている。.

新しい!!: 法相宗と成唯識論 · 続きを見る »

斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.

新しい!!: 法相宗と斉明天皇 · 続きを見る »

日本の仏教

日本の仏教(にほんのぶっきょう)について解説する。約8470万人が仏教徒であるとされる(2013年統計)。伝統的な仏教の13宗は、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗である。幕末まで、日本は仏と神を一体で不可分とする神仏習合の時代であった。.

新しい!!: 法相宗と日本の仏教 · 続きを見る »

智鳳

智鳳(ちほう、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけて日本で活動した新羅の僧。 703年(大宝3年)に智鸞・智雄などとともに入唐し、慈恩大師基(或いは窺基)の法孫で法相第3祖の濮陽(ぼくよう)大師智周に師事して法相宗を学んだ。 奈良法興寺に住して法相宗を広め、日本における法相宗の第3伝とされる。706年(慶雲3年)藤原不比等が維摩会を復興した折にはその講師をつとめた。 弟子に義淵がいる。 Category:法相宗の僧 Category:飛鳥時代の僧 Category:奈良時代の僧 Category:朝鮮の僧 Category:新羅の人物 Category:渡来人 Category:飛鳥時代の外国人 Category:奈良時代の外国人 Category:前近代の日本の朝鮮人 Category:前近代の朝鮮系日本人 Category:生没年不詳.

新しい!!: 法相宗と智鳳 · 続きを見る »

智雄

智雄(ちゆう、生没年不詳)は、奈良時代の法相宗の僧。新羅の出身。 703年(大宝3年)智鳳・智鸞らとともに入唐し、慈恩大師基(または窺基)の法孫で法相第3祖の濮陽(ぼくよう)大師智周に師事して法相宗を学んだ。日本において法相宗を広め、日本法相宗の第3伝とされている。 Category:法相宗の僧 Category:飛鳥時代の僧 Category:奈良時代の僧 Category:朝鮮の僧 Category:新羅の人物 Category:渡来人 Category:飛鳥時代の外国人 Category:奈良時代の外国人 Category:前近代の日本の朝鮮人 Category:前近代の朝鮮系日本人 Category:生没年不詳.

新しい!!: 法相宗と智雄 · 続きを見る »

智通

智通(ちつう、生没年不詳)は、飛鳥時代の法相宗の僧。俗姓は湯坐氏。 658年(斉明天皇4年)智達とともに新羅の船で唐に渡り、玄奘から無性衆生義を受けた。日本に帰国して法相宗を伝え、日本における法相宗の第2伝とされている。平城京に観音寺を建立し、673年(天武天皇2年)に僧正に任じられた。.

新しい!!: 法相宗と智通 · 続きを見る »

1882年

記載なし。

新しい!!: 法相宗と1882年 · 続きを見る »

645年

記載なし。

新しい!!: 法相宗と645年 · 続きを見る »

653年

記載なし。

新しい!!: 法相宗と653年 · 続きを見る »

658年

記載なし。

新しい!!: 法相宗と658年 · 続きを見る »

690年

記載なし。

新しい!!: 法相宗と690年 · 続きを見る »

703年

記載なし。

新しい!!: 法相宗と703年 · 続きを見る »

705年

記載なし。

新しい!!: 法相宗と705年 · 続きを見る »

717年

記載なし。

新しい!!: 法相宗と717年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

中道宗唯識宗法性宗慈恩宗

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »