目次
72 関係: 千載和歌集、古今和歌集、大河ドラマ、大治 (日本)、女房名、女房三十六歌仙、定数歌、家集、山家集、崇徳天皇、上西門院兵衛、中宮、平安時代、平清盛 (NHK大河ドラマ)、平成、久安、康治、令子内親王、後撰和歌集、後拾遺和歌集、ユリウス暦、ヒグラシ、和暦、りょう (女優)、出家、勅撰集、玉葉和歌集、神祇伯、続千載和歌集、続古今和歌集、続後撰和歌集、続後拾遺和歌集、続拾遺和歌集、白河天皇、行幸、風雅和歌集、西行、西行花伝、西暦、詞花和歌集、鳥羽天皇、辻邦生、門松、藤原璋子、金葉和歌集、歌合、歌人、法金剛院、源顕仲、斎院、... インデックスを展開 (22 もっと) »
千載和歌集
『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)は、平安時代末期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。略称は『千載集』(せんざいしゅう)。
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古今和歌集
『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の歌集。全二十巻 国立文化財機構「e国宝」(2024年4月19日閲覧)。醍醐天皇の命により編纂され、905年(延喜5年)に奏上され、最初の勅撰和歌集として位置づけられる。後世の勅撰和歌集の範となり、国風文化、歌論を中心とした日本文学に影響を残した。 仮名序(後述)と全二十巻が揃った最古の写本は、平安時代後期にあたる元永3年(1120年)の奥書がある上下巻である(所謂「元永本古今和歌集」)。 略称を『古今集』(こきんしゅう)といい、更に「古今」と呼ばれることもある(古今伝授など)。 日本の国歌『君が代』歌詞の源流は、『古今和歌集』に収められた読み人知らずの賀歌「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(343番)である。
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大河ドラマ
『大河ドラマ』(たいがドラマ)または『NHK大河ドラマ』は、1963年度から放送されているNHKによる歴史ドラマシリーズの総称。略称は大河。 日本史上実在した人物の生涯を描いた作品や群像劇が多いが、ドラマオリジナルの架空の人物を通して時代そのものを描き出す作品もある。 1984年から1986年にかけて放送された新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。
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大治 (日本)
は、日本の元号の一つ。天治の後、天承の前。1126年から1131年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。
女房名
女房名(にょうぼうな)は、主に平安時代から鎌倉時代にかけて、貴人に出仕する女房が仕える主人や同輩への便宜のために名乗った通称、またその形式。 当時は女子の諱を公にすることは忌避されていた。宮中での歌合の記録などにも女性の実名が記されることはなく、系図の上にすら実名を垣間見ることは稀だった。そのため、和歌や文学の世界における活躍が広く知られた女房でも、その実名は判明していないという例がほとんどである。 女房名は、父・兄弟・夫など、本人の帰属する家を代表する者の官職名を用いることが多い。すなわち、紫式部の「式部」(父藤原為時が式部大丞だった)、清少納言の「少納言」(兄弟に少納言となった者がいたという)、伊勢(父が伊勢守)、相模(夫が相模守)などがこれに当たる。ただしこれのみでは同名の者が多出して不便なため、その者の特性を端的に表す字を冠することで区別をした。清少納言の「清」は清原氏の出自であることを示す。紫式部も当初は同じように藤原氏の「藤」を冠して「藤式部」(とうしきぶ)と呼ばれていたが、やがてその著作『源氏物語』が有名になると登場人物の紫の上にちなんで「紫」を冠すようになったという経緯がある。また和泉式部のように夫の官職(和泉守)と父の官職(式部大丞)を合わせた例や、大弐三位のように夫の官職(大宰大弐)と本人の位階(従三位)を合わせた例もある。
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女房三十六歌仙
女房三十六歌仙(にょうぼうさんじゅうろっかせん)は、日本の鎌倉中期に成立した『女房三十六人歌合』に歌を採られた女性歌人三十六人を指す。この歌合は、藤原公任の「三十六人撰」に模して作られ、平安時代前期から鎌倉時代中期の女性歌人36人を、18人ずつ左方・右方の2組に分け、左方に小野小町から相模までの中古歌人を、右方に式子内親王から藻璧門院少将までの中世初頭の歌人を配し、一人三首ずつ番わせた紙上の歌合である。 「女房三十六人歌合」のうち「伊勢」「宮内卿」 寛文年間 清原雪信筆 MIHO MUSEUM蔵。
定数歌
定数歌(ていすうか)は、一定の数を定めて和歌を詠む創作手法、及びその催し、作品。
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家集
家集(かしゅう)は、王朝和歌の世界において、個人または一家の和歌をまとめて収めた歌集を指す。「家の集」ともいい、家集の語はこれを漢語ふうに表現したもの。自撰・他撰の別は問わないが、初期には子孫が先祖の家集を編むことが多く、自撰家集が盛んになるのは院政期から新古今期前後にかけてである。鎌倉時代には勅撰集と並んで盛行した。 家集のもっとも古い例は10世紀前半ごろに編纂されたと思われる人丸集・赤人集・家持集・猿丸集の四種で、これらはいずれも『万葉集』巻十四以降あたりから、当該歌人の作品を抜き出して編まれたものである。が内容的には、その名を冠された歌人以外の作品も含まれるなど不備は多いものの、和歌が撰集形式ではなく、個人の著作物として鑑賞される機運が高まってきたことを示す重要な事例であるといえる。
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山家集
『山家集』(さんかしゅう)は、平安末期の歌僧・西行法師の歌集。歌数は約1560首だが、増補本では300首余が加わる。 確かな成立年は不詳だが、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中か直後だと思われる。俊成・良経・慈円・定家・家隆ら5名の家集とともに六家集の一つで、『山家和歌集』、『西行法師歌集』の別名がある。西行生前の撰を後人が増補したと見られ、西行の自撰なる『山家心中集』や、『西行上人集』との関連が注目される。
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崇徳天皇
崇徳天皇(すとくてんのう、、1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉)は、日本の第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)。諱は顕仁(あきひと)。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。譲位後は新院。その後、 平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。日本三大怨霊の一人として知られる。 小惑星のSutoku(崇徳)は崇徳天皇に因んで命名された。
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上西門院兵衛
待賢門院が中興し後に上西門院も住した法金剛院 上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ、生年不詳 - 寿永2–3年頃(1183–84年頃)は、平安時代後期の女流歌人。父は村上源氏の神祇伯源顕仲。待賢門院兵衛(たいけんもんいんのひょうえ)、前斎院兵衛(さきのさいいんのひょうえ)、右兵衛督(うひょうえのかみ)などともいった。 姉妹には、いずれも勅選歌人である待賢門院堀河・大夫典侍『金葉和歌集』に2首が入集している。・散位重通妾ただしこの「重通」の家名が伝わらず出自は不詳。『金葉和歌集』に3首、『詞花和歌集』に1首が入集している。がいる。 姉の堀河と共に鳥羽院の中宮だった待賢門院(藤原璋子)に出仕、後にその皇女で斎院を退いた後の上西門院(統子内親王)に出仕した。
中宮
中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。
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平安時代
平安時代(へいあんじだい、、延暦3年(784年)/延暦13年(794年) - 12世紀末)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都からの約400年間を指す。 通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念と古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。
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平清盛 (NHK大河ドラマ)
『平清盛』(たいらのきよもり)は、2012年1月8日から12月23日まで放送されたNHK大河ドラマ第51作。大河ドラマシリーズ生誕50周年記念作品。平清盛の生涯を中心に、壇ノ浦の戦いまでの平家一門の栄枯盛衰を語り部・源頼朝の視点を通して描く。 2005年(平成17年)の『義経』以来となる平安時代を描いた作品であるとともに、1972年(昭和47年)の『新・平家物語』以来40年ぶりに平清盛を主役とした作品となった。松山ケンイチのNHK大河ドラマ初主演作。 大河ドラマの枠を拡大する形で前年まで放送された『坂の上の雲』の終了に伴い、通年放送の大河ドラマはこの作品から再び12月終了に戻った。
平成
上皇) 新元号「平成」を発表する当時の内閣官房長官・小渕恵三(竹下改造内閣/1989年1月7日) 2012年(平成24年)に竣工した東京スカイツリー は、日本の元号の一つ。 100円硬貨 昭和の後、令和の前。大化以降231番目、247個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明仁(第125代天皇)の在位期間である1989年(平成元年)1月8日明仁が即位したのは昭和天皇崩御の時点である1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分であり、同日中に新天皇の署名により「元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)」が公布され、新元号に改元されたのは同政令の附則の施行期日の定めに基づき、即位の翌日の1月8日午前0時である。
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久安
は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1151年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。
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康治
は、日本の元号の一つ。永治の後、天養の前。1142年から1144年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。
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令子内親王
令子内親王(れいしないしんのう、承暦2年5月18日(1078年6月30日) - 天養元年4月21日藤原頼長『台記』 天養元年四月廿六日条(1144年5月25日))は、平安時代後期の皇女、賀茂斎院である。白河天皇の第3皇女。母は中宮藤原賢子(六条右大臣源顕房の娘、関白藤原師実養女)。同腹の姉に、郁芳門院媞子内親王、弟に堀河天皇。二条大宮、二条太皇太后とも呼ばれた。 上醍醐陵(醍醐寺上醍醐境内)。
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後撰和歌集
後撰和歌集 巻十二 『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)は、村上天皇の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。950年代成立。体裁は『古今和歌集』に倣い、春(上・中・下)、夏、秋(上・中・下)、冬、恋(六巻)、雑(四巻)、離別(附 羇旅)、賀歌(附 哀傷)の20巻からなり、総歌数は1425首。離別歌と羇旅歌とを、賀歌と哀傷歌とを併せて収めた所が独特である。
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後拾遺和歌集
『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)は、八代集の第四番目の歌集、『拾遺集』の後継として編まれた勅撰和歌集である。20巻で、総歌数は1218首(新編国歌大観本)。 勅命は白河天皇、撰者は藤原通俊。承保2年(1075年)奉勅、応徳3年(1086年)9月16日完成、同年10月奏覧された。その後、更に改訂を加えて、応徳4年(1087年)2月に再奏され、寛治元年8月に目録と序が奉献された。当時、それほど歌人として名高いわけではない通俊が撰集に当たった理由は明らかではない。 構成は『古今和歌集』を基とし、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、別、羇旅、哀傷、恋(四巻)、雑(六巻)からなる。巻20(雑歌六)に収める「神祇」「釈教」の分類は勅撰集における初見である。選歌範囲は『古今集』『後撰集』以後、村上朝から白河朝までの約130年間である。
ユリウス暦
ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日循環論法となってしまうため、参考として他の暦法の期日を示す。同日は中国暦初元3年11月29日、ユダヤ暦3716年4月29日である。計算はhttp://hosi.orgによる。 から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年10月4日の翌日から、ユリウス暦に換えて太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。
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ヒグラシ
ヒグラシ(日暮、Tanna japonensis)は、カメムシ目(半翅目)・セミ科に属するセミの一種。日本を含む東アジアに分布する中型のセミで、朝夕に甲高い声で鳴く。 日本ではその鳴き声からカナカナ、カナカナ蝉などとも呼ばれる。漢字表記は蜩、茅蜩、秋蜩、日暮、晩蝉などがあり、秋の季語にもなっている。
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和暦
は、元号とそれに続く年数によって年を表現する、日本独自の紀年法である。やとも。 この手法自体は東アジアで広く行われてきたが、日本独自の元号を用いているため日本固有の紀年法となる。飛鳥時代の孝徳天皇によって西暦645年に制定された「大化」がその始まりであり、以来15世紀に亘って使われ続けてきている。 たとえば、西暦2023年は令和5年に当たる。 また暦法について、明治改暦(明治6年/西暦1873年)で天保暦に代えてグレゴリオ暦を採用して以降は、月日についてはグレゴリオ暦と一致している。
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りょう (女優)
りょう(Ryo、1973年〈昭和48年〉1月17日 - )は、日本の女優、ファッションモデル。旧芸名、涼(読み同じ)。本名、宮田 ゆみ子(みやた ゆみこ)、旧姓、佐藤(さとう)。 埼玉県鳩ヶ谷市(現:川口市)出身。研音所属。夫はBRAHMANのTOSHI-LOW。東京都立大山高等学校卒業。
出家
出家(しゅっけ、pabbajjā、प्रव्रज्या ) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教コミュニティ(僧伽)に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。帰依する者(信者)の中では在家(Upāsaka; ざいけ)と対比される。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん,サマナ)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行に勤しんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。仏教における出家の伝統はこれに由来する。
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勅撰集
勅撰集(ちょくせんしゅう)は、帝王(日本においては天皇や上皇)の命によって編纂された書物、もしくは帝王が記した書物のうち特に公式のものとして認められているものを指す。 勅撰集に対して帝王の命によらずに編纂されたものを私撰集(しせんしゅう)と呼ぶ。
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玉葉和歌集
『玉葉和歌集』(ぎょくようわかしゅう)は、鎌倉時代後期の勅撰和歌集である。和歌数約2800首と勅撰和歌集中最大であり、中世和歌に新風を吹き込んだ京極派和歌を中核とした和歌集として知られる。
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神祇伯
神祇伯(じんぎはく)は、日本の律令官制における神祇官の長官。唐名は「大常伯」「大常卿」「大卜令」「祠部尚書」など。和訓は「かみつかさのかみ」あるいは「かんづかさのかみ」。定員は1名。官位相当は従四位下・勲四等。令制四等官の内、長官を伯と称するのは神祇官だけであるので、単に伯(はく)と見える場合はこの神祇伯を指す。
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続千載和歌集
『続千載和歌集』(しょくせんざいわかしゅう)は、15番目の勅撰和歌集。20巻。二条為世撰。文保2年(1318年)10月30日、後宇多法皇の院宣によって編纂が開始され、同年4月19日に奏覧、元応2年(1320年)7月25日に返納された(下命日や奏覧日は諸説ある)。和歌所は長舜、連署は二条為藤・二条為定・長舜・津守国冬・津守国道、奉行は吉田定房が担当した。 正保2年刊行『二十一代集』の歌数は2148首。『国歌大観』の歌数は2159首。部立は、春上下・夏・秋上下・冬・雑体・羈旅・神祇・釈教・恋1~5・雑上中下・哀傷・賀である。主な歌人は、後宇多院(52首)・西園寺実兼(51首)・二条為氏(42首)・二条為世(36首)・藤原為家(29首)・藤原定家(28首)などである。
続古今和歌集
『続古今和歌集』(しょくこきんわかしゅう)は、鎌倉時代の勅撰集で、二十一代集の第十一番目。全20巻からなり、総歌数1915首(伝本によって異同がある)。
続後撰和歌集
『続後撰和歌集』(しょくごせんわかしゅう)は、「二十一代集」第10番の勅撰和歌集。20巻。撰者は藤原為家。収録歌集は1368首 後嵯峨上皇の命により、宝治2年(1248年)7月25日、奉勅。建長3年(1251年)10月27日、奏覧された。部立は、春(上中下)・夏・秋(上中下)・冬・神祇・釈教・恋(1-5)・雑(上中下)・羈旅・賀である。哀傷と無常の歌が雑下に収められるのが特徴。主な歌人は、藤原定家(43首)、西園寺実氏(35首)・藤原俊成(29首)、藤原良経(28首)・後鳥羽上皇(27首)などである。 歌風は、為家の父定家が選んだ『新勅撰和歌集』の歌風を受け継ぐ一方で、平板で無気力という評もある。『新古今和歌集』への回顧も見られる。『続古今和歌集』序文によれば、当時『古今和歌集』から『続後撰和歌集』までを「十代集」と呼称したようである。
続後拾遺和歌集
『続後拾遺和歌集』(しょくごしゅういわかしゅう)は、勅撰和歌集。20巻。二条為藤、二条為定撰。津守国道や惟宗光吉らも参画した。十三代集の8番目。
続拾遺和歌集
『続拾遺和歌集』(しょくしゅういわかしゅう)は、「二十一代集」中、12番目の勅撰和歌集。20巻。建治2年(1276年)亀山上皇の命によって編纂が開始され、弘安元年(1278年)に奏覧された。ただし、下命は文永11年(1274年)だった可能性もある。選者は二条為氏。和歌所は源兼氏だったが、その死に伴い、慶融が担当した。 序はない。流布本の収録歌は1461首。部立は春上下・夏・秋上下・冬・雑春・雑秋・羈旅・賀・恋1~5・雑上中下・釈教・神祇である。主な歌人は、藤原為家(43首)・後嵯峨上皇(33首)・藤原定家(29首)・西園寺実氏(28首)・藤原俊成(22首)・藤原信実(21首)などである。武士の歌が約80首収められており、「鵜舟集」の異名があった。
白河天皇
白河天皇(しらかわてんのう、1053年7月7日〈天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日〈大治4年7月7日〉)は、日本国第72代天皇(在位:1073年1月18日〈延久4年12月8日〉- 1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉)。諱は貞仁(さだひと)。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。
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行幸
第18回都市対抗野球大会開幕式における昭和天皇、香淳皇后、三笠宮崇仁親王の行幸啓(1947年8月3日) 行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が居所から外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸という。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)という場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。
見る 待賢門院堀河と行幸
風雅和歌集
『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう、風雅集)は、室町時代(南北朝時代)に北朝で成立した勅撰和歌集。二十一代集のうち、17番目の歌集である。全20巻、全2211首。光厳上皇親撰・花園法皇監修。京極派歌風を採る。
見る 待賢門院堀河と風雅和歌集
西行
西行像(MOA美術館蔵) 西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉- 文治6年2月16日〈1190年3月23日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。 和歌は約2,300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と注目される事もある。
見る 待賢門院堀河と西行
西行花伝
『西行花伝』(さいぎょうかでん)は、辻邦生の歴史小説。 新潮社の文芸雑誌『新潮』に1991年1月号(発売は前年12月)から1993年6月号まで断続的に連載された。加筆推敲を経て、1995年に同社から単行本が出版された。同年に谷崎潤一郎賞(第31回)を受賞した。なお、大佛次郎賞にも推薦されたが、当時本人は、同賞の選考委員であり固辞している。 作者は1994年に、信州軽井沢(別荘がある)で人身事故に遭い、長期療養を余儀なくされ刊行が大幅にずれている。1999年7月に文庫再刊した直後の同月29日に、軽井沢での外出中に急逝している(この事故の後遺症が一因でもあった)。なお没後刊のエッセイ集『微光の道』(新潮社、2001年)に、自作解題がある。
見る 待賢門院堀河と西行花伝
西暦
とは、キリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法がある。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」または「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 注釈がない場合、現在の日本ではグレゴリオ暦による紀年法を指す1582年10月4日まではユリウス暦による紀年法を指す。。 西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601や天文学的紀年法においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「#0と負の西暦」を参照)。
見る 待賢門院堀河と西暦
詞花和歌集
『詞花和歌集』(しかわかしゅう)は、八代集の第六にあたる勅撰和歌集。1144年(天養元年)6月2日に崇徳院が下命し、藤原顕輔が撰者となって編集した。1150年(久安6年)から1152年(仁平2年)の間に成立した。10巻、総歌数409首。古写本では『詞華和歌集』と記される。
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鳥羽天皇
鳥羽天皇(とばてんのう、、1103年2月24日〈康和5年1月16日〉- 1156年7月20日〈保元元年7月2日〉)は、日本の第74代天皇(在位: 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉- 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉)。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は藤原実季の女の苡子(贈皇太后)。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年にわたり院政を敷いた。
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辻邦生
辻 邦生(つじ くにお、1925年(大正14年)9月24日 - 1999年(平成11年)7月29日)は、日本の小説家・フランス文学者。学習院大学教授も務めた。 東京駒込に生まれた。旧制松本高校で敗戦の前後を過ごしたことが、精神上大きな糧となる。 東京大学仏文科卒業後、渡仏。その時の日記『パリの手記』(1973年 - 1974年)は、辻文学の素材と風土を語る貴重な資料である。滞仏中にギリシア旅行をし、パルテノンの神殿に永遠の人間のあり方を見、『見知らぬ町にて』(1967年)を執筆した。1961年、帰国の途中で書きはじめた『廻廊にて』(1963年)で近代文学賞を受賞。以後、『安土往還記』(1968年)、『背教者ユリアヌス』(1969年 - 1972年)などの長編歴史小説を次々と発表した。人間精神の高貴さを物語性の追求の中で描き続けた作家である。
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門松
神社の入り口に飾られた門松住吉神社 (神戸市西区) 門松(かどまつ)は、正月に日本の家の門前などに立てられる松や竹を用いた正月飾りである。松飾り、飾り松、立て松とも言う。新年の季語『広辞苑 第5版』。古くは、木の梢に神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。「松は千歳を契り、竹は万歳を契る」と言われ、松と竹で神の依代の永遠を願うフリーダ・フィッシャー、安藤勉 『明治日本美術紀行―ドイツ人女性美術史家の日記』(講談社 2002年7月)p.164。年神はこの松門を目印に降臨してくると言われる。
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藤原璋子
藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、1101年〈康和3年〉- 1145年9月10日〈久安元年8月22日〉)は、日本の第74代天皇・鳥羽天皇の皇后(中宮)。崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。
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金葉和歌集
『金葉和歌集』(きんようわかしゅう)は、平安時代後期に編纂された勅撰和歌集。全10巻。『後拾遺和歌集』の後、『詞花和歌集』の前に位置し、第5番目の勅撰集に当たる。略称『金葉集』(きんようしゅう)。撰者は源俊頼。
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歌合
歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組に分け、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。
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歌人
歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。
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法金剛院
山門 庭園(夏季) 庭園(冬季) 青女の瀧 法金剛院(ほうこんごういん)は、京都市右京区花園にある律宗の寺院。山号は五位山。本尊は阿弥陀如来。境内に現存する浄土式庭園の一隅にある青女の瀧は日本最古の人工の滝とされており、国の特別名勝に指定されている。法金剛院は、古くから名勝の地として知られる双ヶ丘の東麓にある。付近には妙心寺、仁和寺などの著名寺院や史跡も多い。
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源顕仲
源 顕仲(みなもと の あきなか)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、右大臣・源顕房の子。官位は従三位・神祇伯。
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斎院
斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女で、伊勢神宮の斎宮と併せて斎王(斎皇女)という。斎王の御所を指すこともある。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。 賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。斎王代に選ばれた女性は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施される。
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新千載和歌集
『新千載和歌集』(しんせんざいわかしゅう)は、勅撰和歌集。20巻。二条為定撰。二十一代集の18番目にあたる。
新古今和歌集
『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は、後鳥羽院の勅命で編纂された勅撰和歌集。鎌倉時代初期成立。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾る。略称は『新古今集』(しんこきんしゅう)。撰歌にあたり、幽玄・有心の美学が反映されている(新古今調)。
新後撰和歌集
『新後撰和歌集』(しんごせんわかしゅう)は、13番目の勅撰和歌集。20巻。二条為世撰。本集ではじめて連署の役が設けられ、二条為藤・二条定為・長舜・津守国冬・津守国道が務めた。 正安3年(1301年)12月23日、後宇多院の命により編纂が開始され、嘉元元年(1303年)12月29日に奏覧された。 歌数は1612首(諸本によって異同あり)。部立は春(上下)・夏・秋(上下)・冬・離別・羈旅・釈教・神祇・恋(1-6)・雑(上中下)・賀から成る。恋の6巻仕立ては『後撰和歌集』、哀傷歌を雑下に収めるのは『続後撰和歌集』に倣う。主な歌人は、藤原定家(32首)・藤原為家(28首)・藤原為氏(28首)・西園寺実兼(27首)・後嵯峨院(25首)・亀山院(25首)など。歌風は京極派に比べて、陳腐とされる。
新後拾遺和歌集
『新後拾遺和歌集』(しんごしゅういわかしゅう)は、勅撰和歌集。20巻。二十一代集の20番目。二条家 (御子左流)撰の最後の集である。 室町幕府第3代将軍足利義満の執奏により、後円融院の永和元年(1375年)6月29日、二条為遠が下命を受けた。永徳元年(1381年)5月に為遠が死ぬと、二条為重が後を引き継ぎ、至徳元年(1384年)12月に完成した。 永徳2年(1382年)筆の二条良基の序がある。歌数は1554首。部立は春(上下)・夏・秋(上下)・冬・雑春・雑秋・離別・羈旅・恋(1-5)・雑(上下)・釈教・神祇・慶賀から成り、『拾遺和歌集』に倣う。一方で、仮名序や四季の部立は『続拾遺和歌集』にならった。主な歌人は、二条良基(29首)・二条為定(28首)・後円融天皇(24首)・二条為重(23首)・近衛道嗣(19首)・足利義詮(19首)・足利義満(19首)など。二条為重に近い人々が多数入集する一方で、彼と対立した二条為明に近い人々は冷遇された。武家や僧侶の入集も目立つ。
新勅撰和歌集
『新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)は、十三代集の最初、通算で第9番目の勅撰和歌集。仮名序は藤原定家筆。20巻。 貞永元年(1232年)6月13日、後堀河天皇の下命を受け、藤原定家が単独で撰出を開始した。しかし、後堀河天皇が貞永元年10月4日に四条天皇への譲位することが決まり、その直前の10月2日に仮名序と20巻部目録が奏覧された。勅撰の大義名分を重視する措置であった。後堀河院の死後、定家は草案を焼却して撰集事業を止めるが、九条道家・教実父子によって編纂事業は継続し、文暦2年(1235年)3月12日に完成して奏上された。なお、道家父子は定家が選んだ歌を選別し、承久の乱後に処罰を受けた後鳥羽院・土御門院・順徳院の歌を除外し、北条泰時ら幕府関係者の歌を入集させている。この点は『越部禅尼消息』で批判されている。
新続古今和歌集
『新続古今和歌集』(しんしょくこきんわかしゅう)は、室町時代の勅撰和歌集。二十一代集の最後にあたる。
新潮社
株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。
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新拾遺和歌集
『新拾遺和歌集』(しんしゅういわかしゅう)は、勅撰和歌集。20巻。二条為明撰。二十一代集の19番目。 貞治2年(1363年)、室町幕府第2代将軍足利義詮の執奏により後光厳天皇より綸旨が下った。貞治3年(1364年)4月20日、四季奏覧。10月、為明の死去により頓阿が継いで、12月に成る。部立は、春上下、夏、秋上下、冬、賀、離別、羇旅、哀傷、恋一二三四五、神祇、釈教、雑上中下。雑下に『拾遺和歌集』の組織をまねて雑体歌をのせた。恋および雑の部の歌作者に僧が多いのは頓阿の撰したためかという。歌風は平明である。 Category:勅撰和歌集 勅 Category:南北朝時代 (日本) Category:14世紀の書籍 Category:14世紀の詩 Category:足利義詮。
拾遺和歌集
『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)は、『古今和歌集』『後撰和歌集』に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」の最後にあたる。一条天皇の代、寛弘2年(1005年)から寬弘4年の間の成立か。
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10月16日
10月16日(じゅうがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から289日目(閏年では290日目)にあたり、年末まであと76日ある。
10月23日
10月23日(じゅうがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から296日目(閏年では297日目)にあたり、年末まであと69日ある。
12月25日
12月25日(じゅうにがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から359日目(閏年では360日目)にあたり、年末まであと6日ある。この日はクリスマスである。
1989年
この年にベルリンの壁が崩壊したり冷戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。
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1995年
この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。
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2008年
この項目では国際的な視点に基づいた2008年について記載する。
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2009年
この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。
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2011年
この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。
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8月 (旧暦)
旧暦8月(きゅうれきはちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から8番目の月である。 秋分を含む月が8月となる。新暦では8月下旬から10月上旬ごろに当たる。 8月の別名は葉月(はづき)である。名前の由来は8月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、8月29日までで8月30日は存在しない年もある。
8月29日 (旧暦)
旧暦8月29日は旧暦8月の29日目である。年によっては8月の最終日となる。六曜は赤口である。
9月21日 (旧暦)
旧暦9月21日は旧暦9月の21日目である。六曜は大安である。
9月25日
9月25日(くがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から268日目(閏年では269日目)にあたり、年末まであと97日ある。
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9月28日 (旧暦)
旧暦9月28日は旧暦9月の28日目である。六曜は赤口である。
前斎院六条 別名。