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広大院

索引 広大院

広大院(こうだいいん、安永2年6月18日(1773年8月6日) - 天保15年11月10日(1844年12月19日))は、江戸幕府の11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方(慈光院))。市田氏は薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽から下級武士階級に昇進したとされるが異説もある。養父は近衛経熙。実名は寧姫、篤姫、茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものである。弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に敬姫(奥平昌男婚約者)がいる。.

107 関係: ABO式血液型お富の方増上寺増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体大奥 (漫画)大御所 (江戸時代)大阪大江戸捜査網天保天保の改革天璋院天明外様大名奥平昌男奥平昌高姉小路 (和宮の大叔母)宮家安永 (元号)寛政小芝風花専行院島津宗信島津忠剛島津継豊島津重年島津重豪島津斉宣島津斉彬島津斉興崇源院市田盛常享和御三卿徳川吉宗徳川家基徳川家定徳川家治徳川家斉徳川家慶徳川宗尹徳川将軍家御台所徳川秀忠徳川綱吉徳川治済徳川敦之助徳川慶昌従一位保姫テレビ東京フジテレビジョン...よしながふみ公家光浦靖子田沼意誠田沼意次白石加代子西武鉄道骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと豊臣秀吉足軽鹿児島城鹿児島県近衛家近衛経熙近衛熙子近思録崩れ阿部正弘薩摩藩蔵屋敷雄山閣押込桂川てや桂昌院水野忠邦江戸江戸幕府清水徳川家月光院明和春光院 (島津重豪側室)浄岸院浅井長政摂家敬姫慈光院 (島津重豪側室)11月10日 (旧暦)11月15日 (旧暦)12月19日1769年1772年1773年1781年1787年1789年1796年1798年1799年1832年1835年1837年1841年1844年2015年2016年5月10日 (旧暦)6月18日 (旧暦)8月6日 インデックスを展開 (57 もっと) »

ABO式血液型

ABO式血液型(ABOしきけつえきがた)とは、血液型の分類法の一種。ヒトの場合はA、B、O、ABの4型に分類する。型を決定する対立遺伝子はA、B、Oの3種、遺伝子型はAA、BB、AB、AO、BO、OOの6種がある。.

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お富の方

お富の方(おとみのかた、? - 文化14年5月8日(1817年6月22日))は、江戸幕府10代将軍・徳川家治時代の大奥女中で、御三卿・一橋徳川家当主・徳川治済の側室。父は幕臣・岩本正利。母は大奥の御年寄・梅田の養女。子に11代将軍・徳川家斉、尾張藩主・徳川治国、福岡藩主・黒田斉隆、一橋徳川家当主・徳川斉敦がいる。 於富の生家・岩本家は、紀伊藩の紀伊徳川家に仕える家臣であったが、時の紀伊藩主・徳川吉宗が8代将軍及び将軍家継承に随従した紀伊系幕臣の家であった。 於富は明和8年(1771年)頃、大奥で一橋徳川家当主・徳川治済の目にとまり、治済は将軍・家治に於富を所望して、於富は治済の側室となった(大奥には将軍以外の男でも老中や御三家・御三卿のみ入ることは可能であった)。 安永2年(1773年)に於富は豊千代(後の徳川家斉)、安永5年(1776年)に力之助(後の徳川治国)、安永6年(1777年)に雅之助(後の黒田斉隆)、安永9年(1780年)に好之助(後の徳川斉敦)を産む。 豊千代は天明元年(1781年)5月に10代将軍・家治の養子となる。この養子縁組は治済が、於富と関係が深い田沼意次や大奥年寄・大崎などに豊千代の将軍家継嗣擁立を頼み込んだ結果、大奥の支持で決定したという。 於富は天明元年(1781年)10月頃に、豊千代とその婚約者・茂姫と共に江戸城西の丸に入る。 天明6年(1786年)に家治が薨去すると、翌年に家斉(豊千代)が11代将軍となり、於富や茂姫は西の丸から本丸に移り住む。於富は将軍の生母として、大奥にて絶大な権勢を振るった。 文化14年(1817年)5月8日に江戸城大奥にて死去した。亡骸は上野寛永寺凌雲院に埋葬される。院号は慈徳院殿善教成誉大姉。 Category:御三卿家の人物 Category:大奥関連人物 Category:江戸時代の大名の側室 Category:18世紀生 Category:1817年没.

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増上寺

大殿の扁額 増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。.

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増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体

『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(ぞうじょうじ とくがわ しょうぐんぼと その いひん いたい)は、1958年から1960年にかけて、増上寺の徳川将軍家墓地の改葬に際して行われた、将軍家の人々の遺品や遺体の調査結果を、東京大学の鈴木尚など、この調査に関わった研究者たちがまとめた報告論文集。鈴木尚、矢島恭介、山辺知行の共編で、1967年12月25日に東京大学出版会から刊行された。 歴代の将軍の遺品、遺骨に関する様々な観点からの調査の報告は、医学、人類学、歴史学などの分野に貴重な資料となっている。 遺体・遺骨の調査を行った鈴木尚がのちにより一般向けに書いた『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』もある、増上寺の徳川将軍家墓地についてかなり詳しい情報を解説、巻末には発掘された遺骨や遺品などの写真が掲載された。.

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大奥 (漫画)

『大奥』(おおおく)は、よしながふみによる日本の少女漫画。隔月刊誌『MELODY』(白泉社)にて連載されている。2010年に実写映画化され、2012年にテレビドラマと映画第2作による続編が製作された(#実写作品を参照)。物語の舞台は日本の江戸時代をモデルとした世界。男子のみが罹る謎の疫病により男子の人口が急速に減少し、儒教思想など当時の概念はそのままであるが、社会運営の根幹や権力は男から女へと移っていく世界を江戸城の大奥を中心に描く。 徳川家の代々の将軍達や要職にあった者など、歴史上では男性である人物が女性に、女性である人物が男性に置き換えられている。春日局が大奥を作ったことや、当時の「カピタン本国報告」にある、「御簾越し家光拝謁し、少年のような声だと思った。拝謁の場は若い男性ばかり同座していた。市中で女性が多く働いているのを見た」などの詳細な史実と、フィクションを巧みに織り交ぜたストーリー構成となっている。掲載誌『MELODY』での扉絵や柱にある粗筋では「男女逆転!パラレル時代劇」「これは日本の江戸時代とは似て非なる物語」と必ず記載されており、いわゆるSF作品(歴史改変SF)であると位置付けされている。 連載中からいくつかの重要な日本の漫画賞を受賞しているほか、ジェンダーに対する理解を深める内容を称えられジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞を受賞するなど、日本国外からも評価されている。雑誌『ダ・ヴィンチ』が発表した2012年の「Book of the Year 2012」では、女性誌コミックランキング部門で4位を記録した。.

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大御所 (江戸時代)

大御所(おおごしょ)とは、江戸幕府において征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍の敬称。.

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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大江戸捜査網

『大江戸捜査網』(おおえどそうさもう)は、東京12チャンネル、のちテレビ東京で放送された時代劇シリーズ。全6シリーズ、713話。初期は『大江戸捜査網 アンタッチャブル』とサブタイトルが付けられていた。 1970年から1984年まで、土曜日の夜に日産自動車グループの一社提供による「日産劇場」として放送番組販売による遅れネットで放送した社では、日産自動車と競合する自動車メーカー(トヨタ自動車系の地元ディーラー・マツダ、三菱自動車工業など)がスポンサーだった例もある。。杉良太郎 → 里見浩太朗 → 松方弘樹と、後に時代劇の大看板となった俳優が主役を務めた。終了後は引き続き、並樹史朗主演で『新・大江戸捜査網』として放送されたが、日産自動車のスポンサー降板による打ち切りで一旦幕を閉じた。1990年から1年半の間に、橋爪淳主演で年度下半期の半年間ずつ、金曜日夜に計2シリーズ放送された。2015年には、テレビ東京開局50周年企画YAMADA新春ワイド時代劇として、高橋克典(十文字小弥太役)、村上弘明(井坂十蔵役)らの出演で『大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!』が放送された。前作からは23年ぶり。 本記事では、『新・大江戸捜査網』も含め、1970年から1992年に放送されたTVシリーズ、それに関係した映画版について説明する。.

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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天保の改革

天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1830年 - 1843年)に行われた、幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸藩でも藩政改革が行われた。.

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天璋院

天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった人物。 実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。 幼名は一(かつ)、その後に、市(いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となった)。.

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天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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奥平昌男

奥平 昌男(おくだいら まさお)は、豊前中津藩の第4代藩主。中津藩奥平家8代。.

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奥平昌高

奥平 昌高(おくだいら まさたか)は、豊前中津藩第5代藩主。中津藩奥平家9代。「蘭癖大名」の一人として知られている。.

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姉小路 (和宮の大叔母)

姉小路(あねのこうじ、文化7年2月12日(1810年3月16日)畑尚子「姉小路と徳川斉昭 内願の構図について」『茨城県史研究 94号』p1-18、2010年 - 明治13年(1880年)8月9日)は、幕末の大奥の上臈御年寄。諱は勝子。小上臈の時はいよ(伊与子)と称し、大奥を退いた後は勝光院(しょうこういん)と称した。父は橋本実誠。兄に橋本実久、妹に水戸藩老女・花野井がいる。和宮の生母である観行院(橋本経子)の叔母にあたる。 第11代将軍・徳川家斉から第12代将軍・徳川家慶の治世の間、大奥に君臨した。将軍家の縁組に関しては姉小路が独断で差配していたとされ、後の第13代将軍・徳川家定の正室・篤姫の輿入れに際しても、当初は大奥側の担当者として島津家との交渉を行っていた。一方で、政敵への陰謀の画策や天保の改革の妨害を試みるなど、政権運営にも影響力を及ぼした。.

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宮家

宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。 宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。 宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家という。 当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。.

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安永 (元号)

安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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小芝風花

小芝 風花(こしば ふうか、1997年4月16日 - )は、日本の女優。大阪府堺市出身。オスカープロモーション所属。.

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専行院

専行院(せんこういん、寛政9年(1797年) - 明治5年6月11日(1872年7月16日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の側室。俗名は美代(伊根とも)。.

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島津宗信

島津 宗信(しまづ むねのぶ)は、江戸時代中期の島津氏第23代当主。薩摩藩の第6代藩主。.

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島津忠剛

島津 忠剛(しまづ ただたけ)は、江戸時代後期の今和泉島津家第10代当主。第9代薩摩藩主・島津斉宣の七男。母は籌姫(荒田常明の娘)。天璋院(篤姫)の実父。.

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島津継豊

島津 継豊(しまづ つぐとよ)は、江戸時代の島津氏第22代当主。薩摩藩の第5代藩主。.

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島津重年

島津 重年(しまづ しげとし)は、江戸時代の島津氏第24代当主。薩摩藩の第7代藩主。初名は久門(ひさかど)。.

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島津重豪

島津 重豪(しまづ しげひで)は、江戸時代後期の大名。島津氏第25代当主で、薩摩藩の第8代藩主。第11代将軍徳川家斉の正室(御台所)・広大院の父。 いわゆる「蘭癖大名」のひとりとされる。.

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島津斉宣

島津 斉宣(しまづ なりのぶ)は、江戸時代後期の島津氏第26代当主。薩摩藩の第9代藩主。天璋院(篤姫)の祖父にあたる。.

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島津斉彬

島津 斉彬(しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。島津氏第28代当主。 薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。.

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島津斉興

島津 斉興(しまづ なりおき)は、江戸時代後期の外様大名。島津氏第27代当主。薩摩藩の第10代藩主。.

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崇源院

崇源院(すうげんいん、天正元年〈1573年〉8月 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。位階は従一位。浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいる。 最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子は、姉茶々の猶子となる。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。.

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市田盛常

市田 盛常(いちだ もりつね、生没年不詳)は、江戸時代の薩摩藩士。通称は出雲、勘解由。別名に貞央・貞英・教国『島津重豪』252頁。大坂屋敷の足軽(後に城下士)・市田貞行の子、あるいは養子とも。姉に島津重豪の側室・慈光院がいる。子に市田義宜(島津斉興時代の家老)がいる。 島津氏第25代当主島津重豪隠居直前の天明6年(1786年)12月13日に江戸家老(定府奥掛家老)に任じられる『島津重豪』183頁。寛政元年(1789年)に家老を辞めて家格一所持となった後、寛政4年(1792年)5月19日に家老に再任された。 琉球貿易等を通して藩財政改革を行った。このころ盛常は、『有馬甲川先生覚書』によれば「江戸居付ニテ万事解由計ニテ在国ノ同役共皆其指揮ニ相従フ」(江戸在住でありながら、国元の役人は解由(盛常)の指示に従う)と称される権勢を誇った。 文化5年(1808年)、近思録崩れの内乱が起き、2月4日に定府留守居家老を罷免され、帰国・慎を命じられ、子の義宜も小姓組番頭を免職された。この際、家老の鎌田典膳は盛常による公儀への影響について危惧の念を表明したが、藩主島津斉宣は「先年(寛政元年に家老を辞めた時)と同じで特に変わりはない」として取り合わなかった。しかし5月、重豪により樺山久言・秩父季保の罷免処分が命じられた際には、斉宣は「これは市田の仕業に違いない、今日市田を手討ちにする」と言い出し、秩父により宥められる一幕もあった。.

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享和

享和(きょうわ)は日本の元号の一つ。寛政の後、文化の前。1801年から1804年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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御三卿

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。以下の三家を指す。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川家基

徳川 家基(とくがわ いえもと)は、江戸幕府第10代将軍徳川家治の長男。将来の第11代将軍として期待されていたが、夭折した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の一文字を賜りながら将軍位に就けなかったため、「幻の第11代将軍」とも言われる。.

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徳川家定

徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代征夷大将軍。.

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徳川家治

徳川 家治(とくがわ いえはる)は江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年) - 天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方(梅渓通条の娘)。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川家慶

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。11代将軍・徳川家斉の次男。.

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徳川宗尹

徳川 宗尹(とくがわ むねただ)は、江戸時代の一橋徳川家(御三卿の一つ)の初代当主。一橋宗尹とも名乗った。.

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徳川将軍家御台所

徳川将軍家御台所(とくがわしょうぐんけみだいどころ)では、徳川将軍家の御台所について扱う。 御台所とは大臣や将軍の妻に対して用いられる敬称で、江戸時代においては主に江戸幕府将軍の正室の呼称として用いられていた。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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徳川治済

徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)は、江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たる。.

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徳川敦之助

徳川 敦之助(とくがわ あつのすけ、寛政8年3月19日(1796年4月26日) - 寛政11年5月7日(1799年6月10日))は、御三卿の清水徳川家第2代当主。11代将軍徳川家斉の五男。母は家斉の御台所(正室)の近衛寔子。官位はなし。松平敦之助とも。 江戸城大奥で誕生した。敦之助の誕生に、家斉・寔子夫妻のみならず、祖父の徳川(一橋)治済、外祖父の島津重豪(薩摩藩前藩主)らの喜びも絶大であったという。御台所が男子を出生するのは2代将軍徳川秀忠の正室のお江与(崇源院)以来であった。ただし、その3年前に側室のお楽(香琳院)が産んだ敏次郎(後の12代将軍・家慶)が将軍家世子と定められていたため、初代当主重好が嗣子を残さずに死亡して空跡となっていた清水徳川家を、敦之助を当主として寛政10年(1798年)に再興させた。しかしその翌年、敦之助はわずか4歳で病没した。院号は体門院。嗣子があるはずもなく、清水徳川家は再び当主を欠き、文化2年(1805年)になって異母弟の斉順が継いだ。.

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徳川慶昌

徳川 慶昌(とくがわ よしまさ)は、江戸時代後期の御三卿・一橋徳川家の6代当主。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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保姫

保姫(やすひめ、延享4年(1747年) - 明和6年9月26日(1769年10月25日)は、薩摩藩主島津重豪の正室。兄に徳川治済。法号は慈照院殿円応霊妙大姉。.

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テレビ東京

株式会社テレビ東京(テレビとうきょう、TV TOKYO Corporation)は、関東広域圏を放送対象地域とするテレビジョン放送事業を行っている特定地上基幹放送事業者である。 略称は、テレ東、呼出符号「JOTX-DTV」(東京 23ch)からのTX、旧局名・かつて使われたアナログ放送のチャンネルからの12チャンネル、てれと、など様々。 アナログ放送で親局の周波数がVHFであった放送局は、テレビ東京が日本国内で最後であり、これ以後に開局した民放局の親局は全てUHFであった。 リモコンキーIDは「7」。.

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フジテレビジョン

株式会社フジテレビジョン(Fuji Television Network, Inc.)は、関東広域圏を放送対象地域とするテレビジョン放送の特定地上基幹放送事業者。また、フジテレビONE・フジテレビTWO・フジテレビNEXTの衛星一般放送を行う衛星一般放送事業者でもある。産経新聞や扶桑社などとともにフジサンケイグループに属する フジサンケイグループ。 略称は、開局から現在に至るまで正式に定められたことがなくフジネットワークの加盟局一覧にも略称の表記がない。なおOX仙台放送も略称表記がない。、後述の通りコールサイン「JOCX-DTV」(東京 21ch)から一般的に用いられるCX(シーエックス)が半ば公式略称の様相を呈している。通称はフジテレビ、フジただし、地上デジタル放送のEPGと『あしたのジョー』(第1作)での制作クレジットは、正式社名のフジテレビジョンと表示。。 FNNフジニュースネットワーク、FNSフジネットワーク(フジテレビ系列)のキー局である。リモコンキーIDはアナログ親局8chから「8」。.

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よしながふみ

よしなが ふみ( - )は、日本の漫画家。女性。慶應義塾大学法学部卒。同大学院法学研究科中退。血液型はB型。代表作多数を持つ。ペンネームは女優の吉永小百合と檀ふみから。同人サークル「大沢家政婦協会」の主宰者で、しばらくの活動休止ののちコミックマーケット89より活動を再開。練りこまれた筋書きや綿密なストーリー構成を得意とする。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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光浦靖子

光浦 靖子(みつうら やすこ、1971年5月20日 - )は、日本のお笑いタレント。大久保佳代子とお笑いコンビオアシズを組んでいる。 愛知県田原市出身。プロダクション人力舎所属。.

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田沼意誠

沼 意誠(たぬま おきのぶ、1721年(享保6年) - 1774年1月30日(安永2年12月19日))は、江戸時代中期の幕臣(旗本)。田沼意行の次男。田沼意次の弟。妻は一橋家家老伊丹直賢の孫。子に一橋家家老から幕府御側御用取次まで昇進した意致、および石谷清定の養子となった石谷清豊などがいる。.

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田沼意次

沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。.

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白石加代子

白石 加代子(しらいし かよこ、1941年12月9日 - )は、東京都港区出身 の舞台女優。有限会社白石加代子事務所所属。夫は早稲田小劇場に所属していた深尾誼(ふかお よしみ)。.

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西武鉄道

西武鉄道株式会社(せいぶてつどう、英称:SEIBU RAILWAY Co.,Ltd.)は、埼玉県所沢市に本社を置く鉄道事業者である。登記上の本店所在地は東京都豊島区南池袋。 東京都北西部から埼玉県南西部に路線を有する鉄道・沿線・不動産事業を行う西武グループの主要企業で、大手私鉄の一つである。また、プロ野球・埼玉西武ライオンズの親会社(2009年から)である。 「西武」の名称は武蔵国の西部に由来する。また、利用客は西武鉄道の路線のことを「西武線」と呼ぶことが多く、車内放送などでも「西武線」と呼称している。.

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骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと

『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(ほねはかたる とくがわしょうぐん・だいみょうけのひとびと)は、医学博士であり人類学者である日本人、鈴木尚の著作の一つ。東京大学教授として長年、人骨の研究を専門に行ってきた鈴木が、日本の江戸時代において上層階層であった将軍家および大名家の人々の生活等を、骨格の調査を通じて形質人類学の面から語ったものである。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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足軽

蓑を身に着け、雨中を火縄銃の射撃姿勢をとる足軽 火縄銃の一斉射撃を行う足軽部隊 射撃姿勢をとる足軽 足軽行列のパフォーマンス 足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。.

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鹿児島城

鹿児島城の航空写真(1974年撮影・国土航空写真) 石垣と水堀 鹿児島城(かごしまじょう)は、薩摩国鹿児島城山麓(現在の鹿児島県鹿児島市城山町)に築かれた江戸時代の日本の城である。別名「鶴丸城(つるまるじょう)」。鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。 1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城であった。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。.

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鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近衛経熙

近衛 経熙(このえ つねひろ)は江戸時代中期の公家、父は近衛内前、養母は尾張藩主・徳川宗春の娘・勝子(実母は家女房)。官位は従一位・右大臣。.

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近衛熙子

近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日) - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。.

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近思録崩れ

近思録崩れ(きんしろくくずれ)は、江戸時代後期文化5年(1808年)から翌6年(1809年)にかけて薩摩藩(鹿児島藩)で勃発したお家騒動。文化朋党事件、秩父崩れとも言われる。処分者の数は有名なお由羅騒動より多い77名であり、薩摩藩の経済改革が遅れる原因となった。 命名の由来は、処分された秩父季保らが『近思録』(朱子学の教本で、儒教の実践に重きを置く)の学習会によって同志を募ったことから。.

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阿部正弘

阿部 正弘(あべ まさひろ、文政2年10月16日(1819年12月3日) - 安政4年6月17日(1857年8月6日))は、江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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蔵屋敷

蔵屋敷(くらやしき)とは、江戸時代に大名(藩)が年貢米や領内の特産物を販売するために設置した倉庫兼邸第の事である。一般的に大阪にあったものが著名であるが、江戸・敦賀・大津・堺・長崎など、交通の要所である商業都市に設置される場合もある。また、大名のみならず有力な旗本・公家・寺社の中には自前の蔵屋敷を持つものもいた.

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雄山閣

山閣(ゆうざんかく)は、東京都千代田区にある出版社。創業は1916年で、以来日本の歴史、宗教、民俗学、考古学などに関する書籍を出版し続けている。.

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押込

押込(おしこめ、押籠)とは、中世から近世にかけての日本で行われた刑罰の一つ。主に武士・庶民に対して適用され、自宅(あるいは自室)などの前に戸を立てて閉鎖(いわゆる「座敷牢」)して、一定期間の昼夜の出入・通信を一切禁じて謹慎・幽閉させる措置を取ること。 平安時代、検非違使において生命の危険性のある杖刑や笞刑の代わりに獄舎などに一定期間監禁する召禁と呼ばれる刑罰が行われるようになった。鎌倉時代の御成敗式目にも召禁・召籠という刑罰が喧嘩や悪口の罪に対して適用されている。中世中期以後には獄舎以外の建物で代行される事もあり、これを特に押込(押籠)と称した。 江戸時代には自由刑の一種として比較的軽い罪の場合に適用された。江戸幕府の公事方御定書によれば、武士が主君から賜った宅地を質に入れて訴訟沙汰になったことが明らかになった場合や小規模な失火などに対して適用されている。刑期は20日・30日・50日・100日の4種が原則であったが、場合によっては終身にわたる押込や逆に名目だけの謹慎に留まる場合もあった。 なお、中世から近世にかけて大名家などで行われてきたいわゆる「主君押込」もその延長上において考えるべきだとされている。 おしこめ おしこめ.

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桂川てや

桂川 てや(かつらがわ てや、文政12年〈1829年〉 - 天保15年5月10日〈1844年6月25日〉)は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の御台所であった広大院の御中臈。「蘭学の家」として知られる桂川家の出身。書籍によってはこやと記されることもある。.

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桂昌院

桂昌院廟(善峯寺) 桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。.

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水野忠邦

水野 忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代後期の大名・老中。肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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清水徳川家

清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に清水家とも言う。.

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月光院

月光院(げっこういん、貞享2年(1685年) - 宝暦2年9月19日(1752年10月25日))は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。本名は勝田輝子(かつたてるこ)で、家宣が死去してから月光院と呼ばれる。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)がある。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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春光院 (島津重豪側室)

春光院(しゅんこういん、延享4年(1747年)- 文化8年10月14日(1811年11月29日))は、薩摩藩第8代藩主・島津重豪の側室。子に第9代藩主・島津斉宣。父は京都の公家で名家の堤家当主・堤代長。幼少時の本名は不明、側室にあがって後の雅名はお千万の方(おちまのかた)。 当初は島津継豊後室の浄岸院付の上臈だったといわれている(『島津重豪』ISBN 4642051376)。浄岸院死後、重豪の寵愛を受け、長男・斉宣、三男(名前不詳)、五女・克を生む。安永5年1月22日(1776年3月11日)に薩摩国に下向、寛政元年(1789年)8月に呼称を「お千万様」から「御内証様」に改められる(『島津家列朝制度』巻之二十七-一六七八、一七三二)。文化4年(1807年)8月、重豪の命により江戸に出府。文化8年(1811年)に江戸高輪の薩摩藩邸にて死去。享年65。法号「春光院心月清涼大姉」、墓所は大円寺、後に福昌寺に改葬。.

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浄岸院

浄岸院(じょうがんいん、宝永2年2月19日(1705年3月14日) - 安永元年12月5日(1772年12月28日))は、薩摩藩第5代藩主島津継豊の継室。権大納言清閑寺熈定の娘。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉及び第8代将軍徳川吉宗の養女。名は竹姫(たけひめ)。なお、徳川宗直の娘で吉宗養女となり、仙台藩の伊達宗村の正室となった利根姫とは養姉妹関係にある。.

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浅井長政

浅井 長政(あざい ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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敬姫

敬姫 (けいひめ、すみひめ、明和7年8月21日(1770年10月9日) - 天明8年4月20日(1788年5月25日))は、中津藩4代藩主・奥平昌男の婚約者。薩摩藩主・島津重豪の二女。母は薩摩藩元足軽で藩士・市田喜内貞行の娘の於登勢。妹に江戸幕府11代将軍・徳川家斉の御台所・広大院(茂姫、近衛寔子)。異母弟に奥平昌高(中津藩5代藩主。実母は鈴木藤賢の娘)がいる。 敬姫は奥平昌鹿の嫡男・昌男と婚約するも、天明8年(1788年)に19歳の若さで病没したため、結婚にはいたらなかった。後に異母弟の昌高が昌男の娘婿となり、中津藩5代藩主となった。 Category:奥州島津氏 Category:江戸時代の女性 Category:薩摩藩の人物 Category:1770年生 Category:1788年没.

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慈光院 (島津重豪側室)

慈光院(じこういん、? - 享和元年10月30日(1801年12月5日))は、薩摩藩主・島津重豪の側室。11代徳川幕府将軍・徳川家斉の御台所・茂子(広大院)の母。父は市田貞行(薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽出身とされる)、弟に市田盛常がいる。生前はお登勢の方を名乗っていた。.

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11月10日 (旧暦)

旧暦11月10日(きゅうれきじゅういちがつとおか)は、旧暦11月の10日目である。六曜は友引である。.

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11月15日 (旧暦)

旧暦11月15日は旧暦11月の15日目である。六曜は先勝である。.

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12月19日

12月19日(じゅうにがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から353日目(閏年では354日目)にあたり、年末まであと12日ある。.

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1769年

記載なし。

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1772年

記載なし。

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1773年

記載なし。

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1781年

記載なし。

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1787年

記載なし。

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1789年

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1796年

記載なし。

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1798年

記載なし。

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1799年

記載なし。

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1832年

記載なし。

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1835年

記載なし。

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1837年

記載なし。

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1841年

記載なし。

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1844年

記載なし。

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2015年

この項目では、国際的な視点に基づいた2015年について記載する。.

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2016年

この項目では、国際的な視点に基づいた2016年について記載する。.

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5月10日 (旧暦)

旧暦5月10日は旧暦5月の10日目である。六曜は友引である。.

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6月18日 (旧暦)

旧暦6月18日は旧暦6月の18日目である。六曜は大安である。.

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8月6日

8月6日(はちがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から218日目(閏年では219日目)にあたり、年末まであと147日ある。.

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