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岩倉家

索引 岩倉家

岩倉家(いわくらけ)は、村上源氏久我家の流れを汲む公家の家柄。羽林家。新家。堂上源氏十家のひとつ。鎌倉幕府の源頼朝と対立した源通親の子孫である。村上源氏の名門ではあったが家禄は150石で、中級の公家だった。通字は「具」(とも)。.

73 関係: 加山雄三千種家千種有維千種有能千種有敬南岩倉具威右大臣堀河康親天皇太政大臣奈良華族子爵家系小桜葉子山城国岩倉 (京都市)岩倉尚具岩倉乗具岩倉広雅岩倉具堯岩倉具定岩倉具綱岩倉具経岩倉具選岩倉具視岩倉具詮岩倉具賢岩倉具起岩倉具集岩倉具満岩倉具成岩倉具慶岩倉道倶岩倉恒具上原謙三条実美一糸文守幕末久我家久我晴通乙訓郡京都俳優公家公爵元和 (日本)国師国立歴史民俗博物館石高...羽林家男爵鎌倉幕府華族鮫島具重葛野郡長男村上源氏植松家植松賞雅植松雅永江戸時代洛北源頼朝源通親明治明治維新新家旧高旧領取調帳愛宕郡1615年1624年 インデックスを展開 (23 もっと) »

加山雄三

加山 雄三(かやま ゆうぞう、1937年4月11日 - )は、日本の俳優、シンガーソングライター、タレント、ギタリスト、ウクレレ奏者、ピアニスト、画家。本名は池端 直亮(いけはた なおあき)。ニックネームは若大将。作曲家としてのペンネームは弾 厚作(だん こうさく)。血液型A型。.

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千種家

千種家(ちぐさけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我流岩倉家庶流。堂上源氏十家の一つ。久我晴通の孫で、岩倉具尭の四男有能を家祖とする。家名は、南北朝時代に六条家から分家した千種忠顕に因むか(別系を参照のこと)。.

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千種有維

千種 有維(ちぐさ ありこれ、寛永15年9月22日(1638年10月29日) - 元禄5年11月29日(1693年1月5日))は、江戸時代前期の公卿。おもに後光明天皇(110代)から東山天皇(113代)の3代にわたって朝廷に仕え、官位は従二位権大納言まで昇った。父は千種有能。母は久我通前の娘。弟に分家植松家を起こした植松雅永がいる。 寛永18年(1641年)に叙爵。以降累進して、寛文6年(1666年)従三位となり公卿に列する。貞享元年(1684年)に武家伝奏役に就任し、朝幕間の取り次ぎにあたった。貞享2年(1685年)に従二位。元禄4年(1691年)に羽林家の最高官職権大納言となる。 千種家は岩倉家の分家であるため、子のない岩倉具詮に養子として唯一の実子乗具を出した。その乗具の子の一人有敬を千種家の養子に迎えて後を継がせている。 ありこれ Category:江戸時代の公家 Category:1638年生 Category:1693年没.

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千種有能

千種 有能(ちぐさ ありよし、元和元年(1615年) - 貞享4年3月1日(1687年4月12日))は、江戸時代前期の公卿。千種家(村上源氏の久我家の分流)を復興させた人物。おもに後西天皇(111代)から東山天皇(113代)の3代にわたり仕え、正二位権大納言まで昇った。 岩倉具堯の四男として京都に生まれる。兄に岩倉具起がいる。久我家の古の分家千種家を偲んで千種を氏とした。元和9年(1623年)に叙爵し、寛永2年(1625年)には元服して侍従に任じられ、以降累進して慶安2年(1649年)には従三位となり公卿に列した。明暦元年(1655年)、正三位参議。明暦2年(1656年)参議を辞職し、踏歌節会外弁となる。さらに寛文5年(1665年)に権中納言に任じられ、寛文9年(1669年)までつとめた。寛文6年(1666年)に従二位となる。延宝3年(1675年)から天和3年(1683年)にかけては武家伝奏役をつとめた。この間の延宝4年(1676年)には権大納言となっているがすぐに辞している。また延宝5年(1677年)には正二位となる。 貞享3年(1686年)に72歳で出家。その翌年に死去した。正室に久我通前の姫を迎えており、その間に千種有維、植松雅永を儲けた。また、上野沼田藩主の真田信吉の娘(長姫)を継室としている。(真田信利項目参照) ありよし Category:岩倉家 Category:江戸時代の公家 Category:1615年生 Category:1687年没.

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千種有敬

千種 有敬(ちぐさ ありのり、貞享4年9月10日〈1687年10月15日〉 - 元文3年3月30日〈1738年5月18日〉)は、江戸時代中期の公卿。 東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)の三帝にわたって仕え、官位は従二位権大納言まで昇る。実父は岩倉乗具。母は不詳。養父は千種有維。養子に千種有補、娘に有補の室がいる。初名は岩倉具広(いわくら ともひろ)、千種有統(ちぐさ ありすべ)。 元禄4年(1691年)叙爵。元禄5年(1692年)祖父にあたる千種有維(乗具の実父)の養子に入る。元禄11年(1698年)に元服。右近衛少将・左近衛中将を経て、享保2年(1717年)に従三位となり、公卿に列する。その後、参議や踏歌節会外弁・東照宮奉幣使などを歴任。享保20年(1735年)に権中納言に就任。さらに元文3年(1738年)に権大納言となるも辞職。同年中に薨去した。享年52。 藤波景忠の子で梅渓通条の養子だった有補を婿養子に迎え、千種家の名跡を継がせた。 ありのり Category:岩倉家 Category:江戸時代の公家 Category:1687年生 Category:1738年没.

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南岩倉具威

南岩倉 具威(みなみいわくら ともたけ、1868年- 1945年(昭和20年))は、明治時代から昭和時代の華族・貴族院議員。爵位は男爵。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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堀河康親

堀河 康親(ほりかわ やすちか、寛政9年2月20日(1797年3月18日) - 安政6年9月3日(1859年9月28日))は、江戸時代後期の公卿。おもに仁孝天皇(120代)と孝明天皇(121代)の二代にわたり仕え、従二位権中納言まで昇った。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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奈良華族

奈良華族(ならかぞく)は、奈良 興福寺の塔頭の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶のうち、明治維新後廃仏毀釈が進む中で勅令により復飾(還俗)し、公家社会に復帰して華族となることを得た26家の総称。いずれも明治17年(1884年)7月8日の華族令の施行とともに男爵が授爵された。 維新後新たに公家となり華族に列して男爵を授かった家はこの奈良華族以外にも十数家ある。そのほとんどが既存の堂上家からの分家によるものだが、このうちの3家は幕末まで興福寺以外の寺院の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶が復飾したもので、その成立過程には奈良華族のそれと本質的に類似した経緯がある。そこで本項では別節を立てこの3家についても紹介する。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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家系

家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.

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小桜葉子

小桜 葉子(こざくら ようこ、1918年3月4日 - 1970年5月12日)は、日本の女優。出身。日本における美容体操の草分け。本名は池端 具子(いけはた ともこ、旧姓:岩倉)。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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岩倉 (京都市)

岩倉(いわくら)は、京都市左京区南部に位置する地域。ここでは「岩倉」を町名に冠する京都市左京区の各町を包括する広域地名として用いる。 国立京都国際会館(岩倉南大鷺町) 岩倉具視幽棲旧居(岩倉上蔵町).

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岩倉尚具

岩倉 尚具(いわくら なおとも、元文2年4月20日(1737年5月19日) - 寛政11年1月7日(1799年2月11日 )は、江戸時代中期の廷臣。官位は正五位下左兵衛佐(死後、従四位追贈)。父は植松賞雅。母は不詳。養父は岩倉恒具。号は現水院。 岩倉家の家督を継ぎ、宝暦5年(1755年)に正五位下、翌宝暦6年(1756年)に左兵衛佐に叙爵。養父・恒具と共に竹内式部に神道・儒学を学んでおり、宝暦8年(1758年)の宝暦事件の際に連座して処罰された。宝暦10年(1760年)に許されたが、すぐに弟・広雅を養子として家督を譲り隠居・出家した。.

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岩倉乗具

岩倉 乗具(いわくら のりとも、寛文6年8月29日(1666年9月27日) - 享保15年8月23日(1730年10月4日))は、江戸時代前期から中期の公卿。霊元天皇(112代)東山天皇(113代)中御門天皇(114代)の三代にわたり朝廷に仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。実父は千種有維。養父は岩倉具詮。子に岩倉恒具、千種有敬、植松賞雅がいる。 初名は具統。千種家の嫡男だったが、千種家は岩倉家の分家筋にあたるため、子のない本家の具詮の養子に入って岩倉家を継いだ。延宝8年(1680年)に元服とともに叙爵。以降、右少将や右中将などの官職をつとめ、官位も累進し、元禄16年(1703年)には従三位となり、公卿に列する。宝永4年(1707年)には具偈と改名し、参議となった。正徳3年(1713年)に従二位権中納言。享保4年(1719年)に乗具と改名。享保9年(1724年)に羽林家最高位の権大納言に就任。享保10年(1725年)には正二位となった。 次男有敬を実父有維、三男賞雅を植松雅孝の養子に入れている。 のりとも Category:千種家 Category:江戸時代の公家 Category:1666年生 Category:1730年没.

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岩倉広雅

岩倉広雅(いわくら ひろまさ、延享3年(1746年)‐明和6年10月3日(1769年10月31日)は、江戸時代中期の廷臣。父は植松賞雅。養父は岩倉尚具。養子に岩倉具選。 兄尚具から家督を譲られて岩倉家の当主となる。桃園天皇時代の朝廷に勤仕し、従四位下・治部権大輔まで昇ったが、明和6年(1769年)に卒去。享年24。 柳原光綱の子具選が養子となり、岩倉家の名跡を継いだ。 ひろまさ ひろまさ Category:江戸時代の公家 Category:1746年生 Category:1769年没.

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岩倉具堯

岩倉具堯(いわくら ともたか、生年不詳 - 寛永10年9月(1633年))は室町時代後期頃から江戸時代初期の公家。最終官位は正五位下木工頭。村上源氏久我家の分家岩倉家の始祖。 正二位権大納言久我晴通の四男。兄に久我通堅(従二位権大納言)がいる。はじめ相国寺に入り万松院宗尊といったが、のち還俗し、後陽成院、中和門院に近侍した。久我家から分家し、初め桜井と号したが、子具起の代に、京都洛外の岩倉に邸をおいたことに因み、岩倉家と称するようになった。病を得て出家し、蕣庵と号した。明治維新の功臣岩倉具視は子孫にあたる。.

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岩倉具定

岩倉 具定(いわくら ともさだ、嘉永4年12月27日(1852年1月18日) - 明治43年(1910年)4月1日)は、日本の政治家。第4代宮内大臣、貴族院議員。.

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岩倉具綱

岩倉 具綱(いわくら ともつな、天保12年4月14日(1841年6月3日) - 1923年(大正12年)10月16日)は、日本の華族、宮内官僚。宮中顧問官。.

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岩倉具経

岩倉 具経(いわくら ともつね、1853年7月22日(嘉永6年6月17日)- 1890年(明治23年)10月17日『明治維新人名辞典』127-128頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。幼名・八千麿、八千丸。.

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岩倉具選

岩倉 具選(いわくら ともかず)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。権大納言・柳原光綱の末子。官位は従三位。岩倉家9代当主。.

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.

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岩倉具詮

岩倉 具詮(いわくら ともあき、寛永7年10月27日(1630年12月1日)- 延宝8年4月16日(1680年5月14日))は、江戸時代前期の公卿。村上源氏久我家の分家の岩倉家第3代当主。おもに後光明天皇(110代)から東山天皇(113代)の3代にわたって仕え、従二位参議まで昇った。 権中納言岩倉具起の子。母は右近衛少将小倉季藤の娘。はじめ具家と名乗った。寛永9年(1632年)に叙爵。寛永16年(1639年)に元服。その後、侍従・右近衛少将・右近衛中将を経て万治2年(1659年)に従三位となり、公卿に列する。寛文5年(1665年)正三位に昇進したのを機に具詮と改名。寛文6年(1666年)に参議となるも翌年には辞職し、延宝5年(1677年)には従二位となった。 従兄弟千種有維の子(岩倉乗具)を養子に迎えて家督を譲った。明治維新の功臣岩倉具視は子孫にあたる。.

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岩倉具賢

岩倉 具賢(いわくら ともかた、享和2年(1802年) - 文政元年5月22日(1818年6月25日))は、江戸時代後期の廷臣。実父は今城定成。母は中山愛親の娘。養父は岩倉具集。義理の弟で養子に岩倉具慶(明治維新の功臣岩倉具視の養父)。最終官位は従五位下。 公家岩倉家の嫡男であり、五位に叙爵もしていたが、17歳のとき父に先立って夭折した。岩倉具集の跡は大原家から養子に入った岩倉具慶が具賢の養子として継いでいる。.

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岩倉具起

岩倉 具起(いわくら ともおき、慶長6年6月14日(1601年7月13日) - 万治3年2月6日(1660年3月17日))は、江戸時代前期の公卿。村上源氏久我家の分家岩倉家の第2代当主。後水尾天皇(108代)から後西天皇(111代)の4代にわたり朝廷に仕え、従二位権中納言まで昇った。 父は岩倉具堯(正五位下木工頭)。母は左近衛中将園基継の娘。弟に千種有能(千種家を再興、正二位権大納言)。子に岩倉具詮がいる。明治維新の功臣岩倉具視は子孫にあたる。 元和5年(1619年)に叙爵。元和6年(1620年)、後水尾天皇の侍従となり、元和8年(1622年)に左近衛少将。その後、官位のみ累進していき、寛永19年(1642年)に従三位に達して公卿に列した。正保元年(1644年)に参議に任じられたが、翌年には辞す。同年踏歌節会外弁をつとめた。承応元年(1652年)従二位権中納言となったが、明暦2年(1656年)に辞職。.

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岩倉具集

岩倉 具集(いわくら ともあい、安永7年9月7日(1778年10月26日) - 嘉永6年5月16日(1853年6月22日))は岩倉具選の子。母は綾小路有美女。正室は綾小路俊資の娘。実子に岩倉具満、養子に岩倉具賢(今城定成の子)、岩倉具慶(大原重成二男)がいる。正二位。大国隆正に入門し、画を能くする。.

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岩倉具満

岩倉 具満(いわくら ともみつ、文化7年(1810年) - 文化10年(1813年))は、江戸時代後期の廷臣。官位は従五位下。父は公卿岩倉具集。母は公卿綾小路俊資の娘。義理の弟(いずれも年長者だが)に岩倉具賢・岩倉具慶らがいる。 岩倉家の嫡男であったが、幼くして夭折。そのため今城家から具賢が具満の養子として岩倉家に迎えられたが、具賢もまもなく夭折。最終的には大原家から具慶が具賢の養子として岩倉家を継いだ。その具慶の養子が明治維新の功臣岩倉具視である。.

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岩倉具成

岩倉具成(いわくら ともなり、寛文8年(1668年)‐延宝8年(1680年))は、江戸時代前期の廷臣。父は参議岩倉具詮。母は不詳。岩倉家の当主の一人ではあるが、13歳にして早世している。官位も従五位下止まりだった。岩倉家の家督は千種有維からの養子岩倉乗具が継いだ。.

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岩倉具慶

岩倉 具慶(いわくら ともやす)は、江戸時代後期の公卿、明治時代の政府高官。明治維新の功臣岩倉具視の養父にあたる。 大原重成の子として生まれる。権大納言岩倉具集の子・具満、養子の具賢がともに早世したため、具集の養子となり岩倉家を継いだ。文政3年(1820年)に元服とともに叙爵。以降累進して嘉永3年(1850年)従三位左近衛中将となり、公卿に列する。安政元年(1854年)には正三位に進んだが、安政5年(1858年)の安政の大獄の廷臣八十八卿列参事件で養子の具視や養孫の具綱とともに連座した。明治元年(1868年)に参議に任じられ、新政府でも右兵衛督行政官補相職や大総督府副総裁兼議定職などを歴任した。 子は娘のみであったため、天保9年(1838年)に堀河康親の子具視を婿養子(次女の誠子と婚姻)として迎えた。 ともやす Category:大原家 Category:廷臣八十八卿 Category:1807年生 Category:1873年没.

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岩倉道倶

岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月29日『平成新修旧華族家系大成』上巻、213頁。 - 1946年(昭和21年)10月9日)は、日本の華族。貴族院男爵議員。.

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岩倉恒具

岩倉 恒具(いわくら つねとも、元禄14年7月24日(1701年8月27日) - 宝暦10年7月29日(1760年9月8日))は、江戸時代中期の公卿。主に中御門天皇(114代)から桃園天皇(116代)の3代にわたって朝廷に仕え、官位は従二位権中納言まで昇った(薨去後に正二位追贈)。父は岩倉乗具。弟に岩倉具広(千種家養子)・具金(植松家養子)がいる。養子に岩倉尚具がいる。 宝永元年(1704年)に従五位下に叙爵。初め具備と名乗った。正徳4年(1714年)に元服とともに従五位上侍従となる。享保3年(1718年)に正五位下。享保4年(1719年)に恒具と改名する。その後も累進し、左近衛少将と右近衛中将を経て、享保17年(1732年)に従三位に達して公卿に列した。その後、正三位・参議・左近衛中将を経て宝暦3年(1753年)に従二位権中納言となったが、宝暦8年(1758年)には宝暦事件に連座。宝暦10年(1760年)に薨去している。享年60。明治24年(1891年)に名誉回復し、正二位を追贈された。 実子がないため、弟植松賞雅の子尚具を養子に迎えている。.

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上原謙

上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991年11月23日)は、日本の俳優。戦前戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人である。本名は池端 清亮(いけはた きよあき)。.

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三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.

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一糸文守

一糸 文守(いっし ぶんしゅ、慶長13年(1608年)- 正保3年3月19日(1646年5月4日))は、江戸時代の臨済宗の僧。岩倉具堯の三男、母は園基継の娘。後水尾天皇に近侍した。諡は仏頂国師。 寛永3年(1626年)に真言宗西明寺の賢俊良永により得度して法名を文守としたが、翌年、大徳寺の沢庵宗彭の影響により臨済宗に転宗した。寛永6年(1628年)沢庵宗彭が紫衣事件により出羽国に配流されると、これに従ったが、翌年には一人で京に戻った。このころより近衛信尋などの公家との交流が深まるが、後水尾上皇との交流も弟近衛信尋の仲介によるものとされる。寛永11年(1634年)、丹波国に桐江庵(のちの法常寺)を建立し住んだが、しばしば上皇は京に呼び寄せている。寛永15年(1638年)、上皇は京都西賀茂に霊源庵(のちの霊源寺)を建て、そこに一糸を住まわせたが、同年末には桐江庵に戻された。そこで上皇は寛永18年(1641年)、桐江庵を法常寺とし、一糸を開山とした。寛永20年(1643年)、当時の住持の求めに従い、近江永源寺に住し、寺の中興に力を尽くした。その3年後、正保3年(1646年)3月19日、39歳で逝去。没後30年目の延宝3年(1675年)、後水尾院より「定慧明光仏頂国師」の号を贈られた。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久我家

久我家(こがけ)は、日本の氏族のひとつ。村上源氏(中院流)の総本家にあたる。貴族・公家・華族の家柄。公家としては清華家、華族としては侯爵家の家格を有した。源氏堂上十家のひとつ。家紋は竜胆紋のひとつである久我山竜胆こがやまりんどう/久我竜胆こがりんどう。 久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち内大臣まで昇った者6名、右大臣まで昇った者4名、太政大臣まで昇った者7名である。.

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久我晴通

久我 晴通(こが はるみち/はれみち)は、戦国時代・安土桃山時代の公卿。おもに後奈良天皇(105代)時代の朝廷に仕え、官位は正二位、官職は権大納言・右近衛大将まで昇った。「晴」の字は姉・慶寿院の夫でもある将軍・足利義晴からの偏諱と思われる。.

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乙訓郡

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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俳優

俳優(はいゆう、actor)は、演劇、映画等において、その人物に扮して台詞、身振り、表情などで演じる人のこと。またその職業。役者(やくしゃ)とも呼ばれる。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公爵

公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。 日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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国師

国師(こくし 、くす)は、高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる諡号の1つであり、特に皇帝の師への尊称である。 僧侶に贈られる諡号としては、他にも大師号、禅師号などがある。 中国では、北宋初の賛寧による『大宋僧史略』巻中「国師」によれば、北斉の法常に国師号が贈られたのが最初であるとする。また、陳隋の頃には、天台智顗を国師と号していた。唐代に入ると、禅宗の北宗六祖の神秀を国師とした。憲宗の元和年間には、知玄を悟達国師とした、という例を挙げている。 また日本では奈良時代に1国(地方行政単位)ずつに国師を置き、それぞれの国の仏教行政を統括させた。.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

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(ろく)とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。.

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羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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鮫島具重

鮫島 具重(さめじま ともしげ、1889年4月8日 - 1966年9月13日)は、日本の海軍軍人。階級は海軍中将。爵位は男爵。.

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葛野郡

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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植松家

植松家(うえまつけ)は、日本の公家。村上源氏岩倉家の分家、千種家家祖の千種有能の末男、植松雅永を祖とする。堂上源氏十家の一つ。家格は羽林家(新家、内々)。 明治維新後華族に列し、10代雅徳が子爵に叙せられた。 江戸時代の家禄は130石。家業は華道で、今日に至るまで代々の当主が日本生花司 松月堂古流の家元を継承している。墓所は浄土宗大本山金戒光明寺。.

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植松賞雅

植松 賞雅(うえまつ たかまさ、宝永2年7月24日(1705年9月11日) - 天明5年10月26日(1785年11月27日))は、江戸時代中期の公卿、華道家。公卿としては中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の五代にわたって朝廷につかえ、官位は従二位権中納言まで昇っている。華道家としては松月堂古流の継承者として知られる。.

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植松雅永

植松 雅永(うえまつ まさなが、承応3年10月23日(1654年12月1日) - 宝永4年12月16日(1708年1月8日))は、江戸時代前期から中期の公卿。公家植松家の祖。主に霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二代に仕え、正三位参議まで昇った。父は千種有能。母は久我通前の娘。兄に千種有維がいる。子に植松雅孝。 寛文3年(1663年)、千種家から分家して植松家を興すとともに叙爵。寛文7年(1667年)に元服して従五位上侍従となるが、名誉職としての就任ではなく、近習として霊元天皇の側近くにおかれて重用された。霊元上皇と仲の悪いことで知られる東山天皇の時代にもそのまま近習として留め置かれているので立ち回りの上手い人物であったと思われる。元禄7年(1694年)に正三位。元禄14年(1701年)に参議となっている。 まさなか Category:千種家 Category:江戸時代の公家 Category:1654年生 Category:1708年没.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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洛北

洛北(らくほく).

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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新家

新家(しんけ).

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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愛宕郡

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1615年

記載なし。

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1624年

記載なし。

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