93 関係: 執権、吾妻鏡、坊門忠信、嫡男、実賢、宝治、宝治合戦、守護、宇都宮朝綱、安達義景、安達盛長、安達氏、安達泰盛、安達時長、小笠原長経、島津忠久、上野国、中野能成、丹後内侍、三浦氏、三浦泰村、平安時代、平賀朝雅、建仁、建保、建暦、伊豆国、御家人、従五位、修禅寺、北条義時、北条経時、北条氏、北条泰時、北条政子、北条時頼、北条時氏、嘉禄、和田合戦、和田義盛、和田朝盛、出羽国、元久、元服、国司、石井進 (歴史学者)、灌頂、福島金治、秋田城介、畠山重忠の乱、...、牧氏事件、鎌倉幕府、鎌倉時代、順徳天皇、衛門府、高山寺、高野山、高橋慎一朗、近衛府、霜月騒動、藤原範季、藤原頼経、醍醐寺、金剛三昧院、NHK出版、松下禅尼、正治、武蔵国、比企宗員、比企能員の変、比企氏、河内源氏、源実朝、源範頼、源頼家、源頼朝、有隣堂、明恵、摂津国、承久、承久の乱、1199年、1203年、1205年、1213年、1218年、1219年、1221年、1225年、1247年、1248年、5月18日 (旧暦)、6月11日。 インデックスを展開 (43 もっと) »
執権
執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.
吾妻鏡
『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.
坊門忠信
坊門 忠信(ぼうもん ただのぶ)は、鎌倉時代前期の公卿・歌人。名は信能とも。内大臣・坊門信清の長男。官位は正二位・大納言。.
嫡男
嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.
実賢
実賢(じっけん、延徳2年(1490年)- 大永3年8月3日(1523年9月12日)は、室町時代後期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。堅田称徳寺(慈敬寺)住持。本願寺第8世法主蓮如の9男。母は畠山政栄の娘蓮能。妻は蓮誓の娘妙慶。子に実誓。諱は兼照。宰相。.
宝治
宝治(ほうじ)は、日本の元号の一つ。寛元の後、建長の前。1247年から1249年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、執権は北条時頼。.
宝治合戦
宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、『吾妻鏡』しか現存しない。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
宇都宮朝綱
宇都宮 朝綱(うつのみや ともつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鳥羽院武者所、白河院北面武士。藤原姓宇都宮氏3代当主。宇都宮三郎朝綱。八田宗綱の子。.
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安達義景
安達 義景(あだち よしかげ)は鎌倉時代中期の武将。安達景盛の嫡男。鎌倉幕府の有力御家人。子に安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。.
安達盛長
安達 盛長(あだち もりなが)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近である。 『尊卑分脈』では小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。兄は藤原遠兼でその子が足立遠元である。遠元は年上の甥にあたる『尊卑分脈』では盛長が「安達六郎」、遠元の父・遠兼が「安達藤九郎」と記され、盛長は遠兼の兄としている。盛長は正治2年(1200年)に66歳で没しているため、保延元年(1135年)生まれである。遠元は生没年不詳であるが、孫の藤原知光が仁安3年(1168年)生まれであることから、この段階で若く見積もって30代後半と考えられ、1130年代前半の生まれと推測される。したがって遠元は盛長よりも年長であり、『尊卑分脈』の兄弟順は逆で、実際の名乗りは遠兼が「六郎」、盛長が「藤九郎」であったと見られる。。盛長晩年の頃から安達の名字を称した。.
安達氏
安達氏(あだちし、あだちうじ)は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。藤原氏魚名流を称する。 家紋は連銭。.
安達泰盛
安達 泰盛(あだち やすもり)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。安達義景の三男。評定衆、御恩奉行。 鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。元寇・御家人の零細化・北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族と共に滅ぼされた。 元寇にあたって御恩奉行を務め、自邸で竹崎季長の訴えを聞く姿が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。.
安達時長
安達 時長(あだち ときなが、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。安達盛長の次男。母は丹後内侍。兄に安達景盛。子に安達長泰、盛経、長景。通称は九郎藤次。藤九郎次郎。次郎兵衛。安達氏庶流である大曾禰氏の祖。 『吾妻鏡』の初見は建久元年(1190年)で、初代将軍源頼朝が鷲羽を後白河院に贈る使節を務め、同年の頼朝上洛に供奉している。 所領は建保元年(1213年)の和田合戦で武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)を拝領した。時長の名字大曾禰は大曾禰荘(山形市)に由来しており、同地の明源寺境内には盛長創建と伝える毘沙門天があり、この堂は安達一門が代々住持した毘沙門山真妙寺の堂を移設したと伝える。兄景盛の出家後、その嫡子義景が安達氏の家督を継承して以降、時長の子長泰から大曾禰を名字とした分家が成立した。.
小笠原長経
小笠原 長経(おがさわら ながつね)は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原長清の子。.
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島津忠久
島津 忠久(しまづ ただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久(これむね の ただひさ)という。出自・生年については諸説ある。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
中野能成
中野 能成(なかの よしなり、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。通称は五郎。鎌倉幕府御家人。二代将軍源頼家の近習。本姓は藤原氏。.
丹後内侍
教導立志基」より『丹後局』水野年方筆 丹後内侍(たんごのないし、生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。源頼朝の乳母である比企尼の長女。鎌倉幕府の御家人、安達盛長の妻。子に安達景盛、安達時長、島津忠久、源範頼室、他『吾妻鏡』で丹後内侍の子と確認されるのは景盛のみで、他は系図による。。.
三浦氏
三浦氏(みうらし)は、平安時代の相模国の武家。三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。.
三浦泰村
三浦 泰村(みうら やすむら)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。三浦義村の次男。館は、鶴岡八幡宮の東。筋替橋の近く。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平賀朝雅
平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府の御家人。新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男。母は頼朝の乳母である比企尼の三女。.
建仁
建仁(けんにん)は、日本の元号の一つ。正治の後、元久の前。1201年から1203年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼家、源実朝、執権は北条時政。.
建保
建保(けんぽう)は、日本の元号の一つ。建暦の後、承久の前。1213年から1218年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.
建暦
建暦(けんりゃく)は、日本の元号の一つ。承元の後、建保の前。1211年から1214年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府征夷大将軍は源実朝、執権は北条義時。.
伊豆国
伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
御家人
御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.
従五位
従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.
修禅寺
修禅寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院。山号は福地山。正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」で、略して福地山修禅寺と呼んでいる(宗教法人としての名称は「修禅寺」)。修善寺温泉街の中心にある。夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修禅寺物語」でも名高い。.
北条義時
北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.
北条経時
北条 経時(ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権(在職:仁治3年6月15日(1242年7月14日) - 寛元4年3月23日(1246年4月10日))。 第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)で、第5代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄にあたる。.
北条氏
北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.
北条泰時
北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.
北条政子
北条政子(菊池容斎画、江戸時代) 北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。.
北条時頼
北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.
北条時氏
北条 時氏(ほうじょう ときうじ)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男。嫡子だったが早世したため執権にはなっていない。.
嘉禄
嘉禄(かろく)は、日本の元号の一つ。元仁の後、安貞の前。1225年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
和田合戦
和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。 鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は二代執権北条義時に度重なる挑発を受けて、姻戚関係にあった横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。 この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなる。.
和田義盛
和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。初代侍所別当。 三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。.
和田朝盛
和田 朝盛(わだ とももり)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。和田義盛の孫。.
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
元久
元久(げんきゅう)は、日本の元号の一つ。建仁の後、建永の前。1204年から1206年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.
元服
元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.
国司
国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.
石井進 (歴史学者)
石井 進(いしい すすむ、1931年7月2日 - 2001年10月24日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本中世史。文学博士(東京大学、1964年)。正四位勲三等旭日中綬章。.
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灌頂
頂(かんじょう, abhiṣeka, abhiṣecana)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。本項では密教における潅頂について述べる。.
福島金治
福島 金治(ふくしま かねはる、1953年 - )は、日本の歴史学者。愛知学院大学文学部歴史学科教授。専門は日本中世史。宮崎県出身。博士(文学)。 1977年、九州大学文学部卒業。1979年、九州大学大学院文学研究科博士課程中途退学。1979年から1999年まで神奈川県立金沢文庫の学芸員を務める。.
秋田城介
秋田城介(あきたじょうのすけ)は、古代から中世の日本において、出羽国の秋田城を専管した国司である。はじめは官職ではなく、国司の一人の任務にすぎなかったが、平安時代中期に出羽城介という令外官となり、鎌倉時代に秋田城介と呼ばれるようになった。.
畠山重忠の乱
山重忠の乱(はたけやましげただのらん)は、鎌倉時代初期の元久2年6月22日(1205年7月10日)、武蔵国二俣川(現神奈川県横浜市旭区保土ケ谷区)において、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つ。.
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牧氏事件
牧氏事件(まきしじけん)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。牧氏の変ともいわれる。.
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
順徳天皇
順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.
衛門府
衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.
高山寺
境内風景 高山寺(こうざんじ、こうさんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町(とがのおちょう)にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.
高野山
壇場伽藍 壇場伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。 2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録された。.
高橋慎一朗
橋 慎一朗(たかはし しんいちろう、1964年 - )は、日本の歴史学者、東京大学史料編纂所教授。専門は日本中世史・都市史・鎌倉時代政治史。.
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近衛府
近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.
霜月騒動
月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代後期の弘安8年11月17日(1285年12月14日)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。 源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。.
藤原範季
藤原 範季(ふじわら の のりすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原南家高倉流の祖。式部少輔・藤原能兼の子。官位は従二位・式部権少輔。後白河法皇の近臣。順徳天皇の外祖父。.
藤原頼経
藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。 竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。.
醍醐寺
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。.
金剛三昧院
山門と正面奥に本堂 金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある仏教寺院・宿坊。高野山真言宗別格本山。本尊は愛染明王。仏塔古寺十八尊第11番霊場。西国愛染十七霊場第17番霊場。 ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素。.
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NHK出版
株式会社NHK出版(エヌエイチケイしゅっぱん、NHK Publishing, Inc.)は、1931年(昭和6年)に設立された日本の出版社である。日本放送協会 (NHK) の関連会社で、2010年までの旧社名は日本放送出版協会(にっぽんほうそうしゅっぱんきょうかい)であった。.
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松下禅尼
松下禅尼(江戸時代菊池容斎画) 松下禅尼(まつしたぜんに、生没年未詳)は鎌倉時代中期の女性。鎌倉幕府の御家人・安達景盛の娘 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.2。北条時氏の正室。鎌倉幕府の第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の母。子は他に時定(為時)、檜皮姫、女子(北条時定 (時房流)室)など。.
正治
正治(しょうじ)は、日本の元号の一つ。建久の後、建仁の前。1199年から1200年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼朝(死後は空位)。.
武蔵国
武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.
比企宗員
比企 宗員(ひき むねかず、生年未詳 - 建仁3年9月2日(1203年10月8日))は、鎌倉時代前期の比企一族の武将。鎌倉幕府御家人。比企能員の子。通称は三郎。 父能員が乳母父を務めた2代将軍源頼家の近習として仕える。頼家が十三人の合議制に反発して指名した、取り次ぎ・狼藉不問の特権を持つ5人のうちの1人に弟時員と共に選ばれる。 建仁3年(1203年)9月、北条氏との対立による比企能員の変で討ち死にした。.
比企能員の変
比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。.
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比企氏
比企氏(ひきし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領した藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族。 一族は族滅したため、詳細な史料が残らず、系譜も明らかではないが、一族である比企尼が源頼朝の乳母を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。比企氏の家督を継いだ能員が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となった事から、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族は滅亡した。.
河内源氏
河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.
源実朝
源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.
源範頼
源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.
源頼家
岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
有隣堂
株式会社有隣堂(ゆうりんどう)は、神奈川県を中心に展開する書店チェーンであり、また出版社である。書店として神奈川県では良く知られた存在である。 社名は『論語』里仁25の「德不孤、必有鄰鄰は隣の異体字。(徳孤ならず 必ず隣有り)」に由来し、社の発行する情報誌(後述)のタイトルにもなっている。.
明恵
紙本著色明恵上人像」(高山寺蔵、国宝) ---- 高弁(明恵)が山中の松林の樹上で坐禅を組むすがたを、弟子の恵日房成忍が筆写したものといわれる。 明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される華厳宗は、華厳経にもとづく南都六宗の一学派。奈良時代に隆盛したが平安時代にはいると勢力を失い、天暦元年(947年)に光智が華厳専修道場として東大寺尊勝院を設立してやや衰勢を取り戻したが、それ以後、再び不振に陥った。藤田(1966)p.178。.
摂津国
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.
承久
承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.
承久の乱
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.
1199年
記載なし。
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1203年
記載なし。
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1205年
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1213年
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1218年
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1219年
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1221年
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1225年
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1247年
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1248年
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5月18日 (旧暦)
旧暦5月18日は旧暦5月の18日目である。六曜は仏滅である。.
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6月11日
6月11日(ろくがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から162日目(閏年では163日目)にあたり、年末まであと203日ある。誕生花はヒゲナデシコ、ガクアジサイ。.
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