211 関係: 助祭、ここへ来て見よ、司祭、受難、受難週、合唱、多感様式、大英図書館、定旋律、対位法、中世、修道士、マルコによる福音書、マトフェイ受難曲、マドリガーレ、マタイによる福音書、マタイ受難曲、チプリアーノ・デ・ローレ、ネウマ譜、ハンブルク、ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク、ハインリヒ・シュッツ、バイエルン大公、モテット、モデナ、ヤーコプ・オブレヒト、ヤコブ・ルニャール、ヤコブス・ガルス、ユゼフ・エルスネル、ヨハネによる福音書、ヨハネ受難曲、ヨハネス・マルティーニ、ヨハン・ワルター、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ヨハン・タイレ、ラインハルト・カイザー、ルネサンス、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ルーテル教会、ルカによる福音書、ルターシュタット・ヴィッテンベルク、レチタティーヴォ、レオンハルト・レヒナー、ヴロツワフ、ヴォルフガング・リーム、トマス・ルイス・デ・ビクトリア、トリエント公会議、プラハ、プロテスタント、パリ、...、パロディ、ピエトロ・メタスタージオ、テノール、フランシスコ会、フランシスコ・ゲレーロ、フランス王国、フーゴー・ディストラー、ドミニコ会、ドイツ、アリア、アルヴォ・ペルト、アレッサンドロ・スカルラッティ、アロンソ・ロボ、イラリオン (アルフェエフ)、イエス・キリスト、イギリス、イタリア、ウィリアム・バード、ウィーン、エルンスト・ペッピング、エルサレム、エステ家、オペラ、オラトリオ、オルランド・ディ・ラッソ、オーケストラ、オスバルド・ゴリホフ、カール・ハインリヒ・グラウン、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、カトリック教会、キリスト教、キリスト教音楽、クリストフ・デマンティウス、クレルヴォーのベルナルドゥス、クローダン・ド・セルミジ、クシシュトフ・ペンデレツキ、ゲオルク・フィリップ・テレマン、コラール、コンチェルト、コンチェルタート、ゴットフリート・アウグスト・ホミリウス、シュトゥルム・ウント・ドラング、シンフォニア、ジャケス・デ・ヴェルト、ジュゼッペ・ジョルダーニ、ジョヴァンニ・パイジエッロ、ジル・バンショワ、スペイン、ソフィア・グバイドゥーリナ、典礼、典礼劇、四旬節、器楽、神秘主義、福音書、福音書記者、音楽史、聖セシリア、聖金曜日、譚盾、通奏低音、枝の主日、新約聖書、斉唱、10世紀、1254年、12世紀、1348年、13世紀、1400年、1430年、1440年、1444年、1460年、1465年、1470年、1480年、1483年、1490年、1496年、1497年、1498年、14世紀、1502年、1507年、1510年、1516年、1517年、1522年、1525年、1526年、1528年、1532年、1534年、1538年、1540年、1545年、1548年、1550年、1553年、1559年、1560年、1561年、1562年、1563年、1565年、1567年、1570年、1571年、1575年、1580年、1582年、1585年、1589年、1591年、1592年、1594年、1599年、15世紀、1606年、1611年、1620年、1622年、1636年、1641年、1643年、1646年、1649年、1663年、1666年、1672年、1674年、1681年、1683年、1685年、16世紀、1703年、1704年、1714年、1716年、1719年、1724年、1739年、1750年、1759年、1767年、1770年、1785年、1788年、17世紀、1827年、1843年、1872年、18世紀、1900年、1933年、1935年、1956年、19世紀、381年、384年。 インデックスを展開 (161 もっと) »
助祭
助祭(じょさい、)はキリスト教における教会職務のひとつで、ギリシャ語のδιάκονος(奉仕者の意)を語源とする。カトリック教会では、司祭につぐ職位。正教会では「輔祭」の訳語を、聖公会などプロテスタントでは「執事」という訳語を用いている。 ラテン語ではdiaconusといい、トリエント公会議では「聖職位階の上位」であったが、第2バチカン公会議ではそれまで存在した副助祭、祓魔師、読師、守門という四つの下級叙品が廃止されたため、現代では「聖職位階の下位」(『教会憲章』29項)となっている。 第二バチカン公会議以来、助祭を司祭への通過点や、ミサなどの典礼における単なる「司祭の補助」と見なすのではなく、助祭として固有の職務を再確認する方向に進んでいる。これに伴い司祭には叙階されず、既婚者もなりうる終身助祭 (permanent deacon) の制度が復活し、最近では日本でも登場し始めている。 また、中世以降(現教会法でも)、助祭は男性に限られているが、カルケドン公会議などで40歳以上の独身女性の叙階を認めるなどの例が教会の歴史において見られる。 Category:キリスト教の称号・役職 Category:カトリック en:Deacon id:Diakon pl:Diakonat.
ここへ来て見よ
『ここへ来て見よ』(ここへきてみよ、)は、カール・ハインリヒ・グラウンが作曲した1730年頃に作曲した受難オラトリオである。.
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司祭
司祭(しさい)とは、キリスト教における位階の一つ。東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会に存在する。 プロテスタントには、万人祭司の教理により司祭がおらず、指導者として牧師がいる。.
受難
受難(じゅなん、Passion)とは神学用語で、イエス・キリストの裁判と処刑における精神的および肉体的な苦痛のための言葉である。キリストの磔刑はキリスト教の信条にとっての主要な出来事のひとつである。 語源はラテン語のpassus(pati, 苦しむ patior- から生じた)であり、2世紀に現れた。この「受難 Passion」という言葉はイエスの成業と苦しみ(逮捕後の裁判や処刑)の全体を表す言葉として適用されている。これに対して「イエスの苦悶 Agony」という言葉は、彼が逮捕される直前のゲッセマネの園での祈りにおける彼の精神的な苦悶に限定して適用される。4つの福音書のうちこれらの出来事を記述した部分は「受難物語」として知られる。外典であるペトロによる福音書も正典ではないがまた受難物語である。.
受難週
ルサレム入城の様子 受難週(じゅなんしゅう:プロテスタント)、聖週間(せいしゅうかん:カトリック)、聖週(せいしゅう:聖公会)、受難週間(じゅなんしゅうかん:正教会)、(Passion Week, Holy Week, Semana Santa)とは、棕櫚の主日(=枝の主日、聖枝祭)から、復活祭(=復活大祭)の前日までの一週間を指す。イエス・キリストがエルサレムで受けた苦難を記憶する事から「受難週」等の名がある。 この週の木曜日は「聖木曜日」(「洗足木曜日」、「聖大木曜日」)、金曜日は「聖金曜日」(「受難日」、「受苦日」、「聖大金曜日」とも)、土曜日は「聖土曜日」と呼ばれる。.
合唱
ウィーン少年合唱団 合唱(がっしょう)は、複数の人が複数の声部に分かれて各々の声部を複数で歌う声楽の演奏形態のこと - コトバンク。器楽における「合奏」の対語でもある。クワイア(choir)、コーラス(chorus)とも呼ばれる。.
多感様式
多感様式(たかんようしき、Empfindsamer Stil、sensitive style)は、18世紀後半のドイツ語圏で発達した作曲様式である。「率直で自然な」感情表現を重んじ、突然の気分の変化が特徴的である。 バロック音楽のへの反撥として発展した。代表的な作曲家に晩年のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハがおり、シュトルム・ウント・ドラング期のハイドンや、ベートーヴェンに多大な影響を与えた。ただし近年では、表現衝動の激しさゆえに、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハも代表的旗手と見なされるようになりつつある。.
大英図書館
大英図書館(だいえいとしょかん、、略称: )は、イギリスの国立図書館である。英国図書館とも訳されるの例にあるように、国立国会図書館では主にこちらの名称が用いられている。。世界最大級の1億5000万点以上もの資料を所蔵する、世界で最も重要な研究図書館であり、世界的な図書館の一つである。ロンドンのに本館、ウェスト・ヨークシャーのに分館が置かれている。古今東西のあらゆる言語の書籍を収集しているほか、雑誌、新聞、パンフレット、録音、特許、データベース、地図、切手、版画、絵画、その他多くの資料を保存している。その2500万冊以上の網羅的なコレクションを数で上回るのは、今やワシントンD.C.のアメリカ議会図書館のみであるオンライン版のブリタニカ百科事典のから確認できる。。このコレクションに含まれる作品には、紀元前1600年頃の時代にまで遡るものもある。大英博物館図書館といくつかの他の国立図書館との合併により1973年に設立された大英図書館は、文化・メディア・スポーツ省に従属し、法定納本制度の下で、イギリスおよびアイルランドで出版されたすべての図書を1部ずつ受け取り、イギリスの全国書誌を作成する。.
定旋律
定旋律(ていせんりつ、羅:cantus firmus)とは、多声音楽の作曲の基礎として既存の旋律を用いること。定旋律に使われる旋律は、しばしば長い音符にして取り出される。 定旋律を用いた作曲は、中世の音楽においては、オルガヌムや、13~14世紀のモテットの基礎となった。これらのポリフォニーにおいて、もともと定旋律は常にグレゴリオ聖歌から採られ、旋律素材は長い音符による動きに固定され、その周りに、いくつかの旋律線がより装飾的かつ自由に動くようにして作曲された。(このような定旋律は、通常テノル声部に配置された。テノルとは、ラテン語で「保つこと」を意味する動詞 tenere に由来する。) 初期ルネサンス音楽の作曲家は、定旋律の利用に別の手法を試みた。これを各声部において対位法的な主題として導入したり、これにさまざまなリズムを加えて用いたり、あるいは宗教曲においてさえ、定旋律に世俗歌曲の旋律を転用したりした。 世俗音楽に由来する定旋律として最も広く流布したのは、おそらく「ロム・アルメ」の旋律であろう。これを利用した楽曲は30以上が知られている。草創期のルネサンス音楽の巨匠は、少なくとも1度はこの旋律によってミサ曲を作曲しており、この慣習は17世紀になるまで続いた。遅い作例はカリッシミのミサ曲《ロム・アルメ》がある。 なお、ヨーロッパ大陸ではシャンソン《手に負えぬ運命の女神よ Fortuna Desperata》(ビュノワ作曲)や《千々の後悔 Mille regretz》(ジョスカン作曲?)が、イングランドでは俗謡《西風 The westron wynde》がミサ曲の作曲に好まれた。《千々の後悔》はカール5世が愛したために、スペインではこの定旋律を「皇帝の歌」と呼び、器楽曲の作曲などにも利用している。 定旋律による作曲法は、フックスの著書『グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッソス山への階梯)』において欠かすことのできない指導手段であり、対位法指南書の根幹を成している。 ドイツのバロック音楽の作曲家、たとえばバッハは、グレゴリオ聖歌に代わってコラールの旋律を定旋律に利用した。バッハの《マタイ受難曲》の開始楽章では、コラール《おお、穢れなき神の子羊 O Lamm Gottes, unschuldig》が長い音符で現われ、「リピエーノによる」少年たちの分割合唱によって歌われる。バッハのコラール前奏曲は、ペダルパートにコラールの旋律が含まれている。 Category:音楽用語 Category:対位法.
対位法
対位法(たいいほう)(counterpoint, Kontrapunkt )とは、音楽理論のひとつであり、複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和して重ね合わせる技法である。 対位法と並び、西洋音楽の音楽理論の根幹をなすものとして和声法がある。和声法が主に楽曲に使われている個々の和音の種類や、和音をいかに連結するか(声部の配置を含む和音進行)を問題にするのに対し、対位法は主に「いかに旋律を重ねるか」という観点から論じられる。もっとも、和声法においても和音を連結する際に各声部の旋律の流れは論じられるし、対位法においても旋律間の調和を問題とする以上、音の積み重ねとしての和音を無視するわけではないので、これら二つの理論は単に観点の違いであって、全く相反するような性質のものではないと言える。 また対位法とは、狭義にはフックスの理論書を淵源とする厳格対位法(類的対位法)の理論、並びにその実習のことであり、作曲の理論・実習のひとつである。.
中世
中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.
修道士
修道士(しゅうどうし、)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。.
マルコによる福音書
マルコによる福音書(マルコによるふくいんしょ、Κατά Μάρκον Ευαγγέλιον、Evangelium secundum Marcam)は新約聖書中の一書。 ヒエロニムス以降、伝統的に新約聖書の巻頭を飾る『マタイによる福音書』の次におさめられ、以下『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている。執筆年代としては伝承でペトロの殉教の年といわれる65年から『ルカ福音書』の成立時期である80年ごろの間であると考えられる。『マタイによる福音書』、『ルカによる福音書』と共に「共観福音書」とよばれ、四つの福音書の中でもっとも短い。呼び方としては『マルコの福音書』、『マルコ福音』、『マルコ伝』などがあり、ただ単に『マルコ』といわれることもある。.
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マトフェイ受難曲
マトフェイ受難曲(Страсти по Матфею, St Matthew Passion)とは、ロシア正教会のイラリオン・アルフェエフ府主教(他教派でも同様の習慣を有するものがあるが)正教会においてヴァルソロメオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)やキリル1世 (モスクワ総主教)にも見られる通り、主教の名は修道名で呼ばれる事が原則であり、姓は同名の人物の区別の為などに初出箇所等において用いられるのみである。従って「アルフェエフ府主教」「アルフェエフ」という表記はあまり適切ではない。フルネームを用いない場合には「イラリオン府主教 (Metropolitan Hilarion)」が標準的な表記となる。(Архиепископ Иларио́н Алфе́ев, Archbishop Hilarion Alfeyev)によって2006年に作曲されたマタイによる福音書に題材をとる受難曲。マトフェイとは、ロシア語・教会スラヴ語によるマタイの表記"Матфей"を転写したものである。従って本作品はマタイ受難曲とも表記され得る。 原曲の歌唱は教会スラヴ語によるが、英語翻訳版が2008年にトロントで演奏された。 日本での初演は、2016年1月30日、東京・朝日浜離宮ホールにて、渡辺新指揮オーケストラ・ナデージダ、合唱団ナデージダ、ソプラノ:中村初惠、メゾソプラノ:ヴァレンチナ・パンチェンコ、テノール:黒田大介、バリトン:アレクセイ・トカレフ、福音史家(朗読):ユーリ・イリンによって行われた。 初演は第2稿を使用し、一部の曲順を入れ替えるなど渡辺氏による多少の変更が加えられた。 正教会は西方教会とは異なる伝統を保ってきたため、聖歌・音楽伝統にも著しい違いがある。本作品も西方教会のマタイ受難曲(J.S.バッハによるものが有名)とは異なる構成をとっている。 正教会の奉神礼に用いられる聖歌は無伴奏声楽が原則であるが、19世紀以降に正教徒作曲家によって作曲された、正教会に題材をとったオラトリオ、受難曲、カンタータなどの宗教曲には器楽による伴奏がついているものも少なくない。但しこれらの作品は奉神礼に使用はされず、専ら演奏会での使用が前提となっている。 本作品もオーケストラによる伴奏がついており、あくまで演奏会などにおける使用を前提とした楽曲であって、実際の奉神礼で使用される聖歌ではない。ただし本作品のうち一部の曲(真福九端)については、伴奏を外した声楽部分がイラリオン府主教が作曲した聖金口イオアン聖体礼儀の一部の曲と同一のものとなっている。 合唱、ソリスト、福音記者役が歌い交わし、弦楽器によるフーガが各所に挿入される構成となっている。.
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マドリガーレ
マドリガーレ(madrigale)は、イタリア発祥の歌曲形式の名称。マドリガーレには、時代も形式も異なる2種類の物がある。.
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マタイによる福音書
『マタイによる福音書』(マタイによるふくいんしょ、Κατά Ματθαίον Ευαγγέλιον Kata Matthaion Euangelion、Evangelium Secundum Mattheum)は、新約聖書におさめられた四つの福音書の一つ。 伝統的に『マタイによる福音書』が新約聖書の巻頭に収められ、以下『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている。呼び方としては『マタイの福音書』、『マタイ福音』、『マタイ伝』などがあり、ただ単に『マタイ』といわれることもある。日本ハリストス正教会では『マトフェイに因る聖福音』または『マトフェイによる福音書』という。.
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マタイ受難曲
マタイ受難曲 (Matthäus-Passion) とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲である。本稿ではヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の作品について述べる。.
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チプリアーノ・デ・ローレ
チプリアーノ・デ・ローレ(Cypriano de Rore または Cipriano de Rore, ? - 1565年9月11日もしくは9月20日)は、ネーデルラント出身の作曲家・音楽教師。イタリアで活躍したフランドル楽派の作曲家であり、ジョスカン以後を担った最初の世代の代表的人物であっただけでなく、16世紀中葉のマドリガーレ作曲家として最も傑出した存在であった。後期ルネサンス音楽様式の発展に力があり、半音階やきわめて表情豊かな実験的な作曲様式は、その後の世俗音楽に決定的な一打を与えたOwens, Grove Online。.
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ネウマ譜
ネウマ譜(ネウマふ、neumatic notation)とは、楽曲の楽譜を「ネウマ」と呼ばれる記号を用いて書き表す記譜法のことである。.
ハンブルク
ハンブルク(Hamburg、低ザクセン語・Hamborg (Hamborch) )は、ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約100kmほど入った港湾都市。正式名称は自由ハンザ都市ハンブルク(Freie und Hansestadt Hamburg、フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク)。行政上では、ベルリン特別市と同様に、一市単独で連邦州(ラント)を構成する特別市(都市州)なので、ハンブルク特別市やハンブルク州と呼ばれる。人口約175万人。国際海洋法裁判所がある。.
ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク
thumb ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(*1843年6月10日 グラーツ - †1900年10月9日 ヴィースバーデン)はオーストリアの作曲家・指揮者・音楽教師。称号も含めた公式な氏名は、Heinrich Picot de Peccaduc, Freiherr von Herzogenberg (またはHeinrich Freiherr von Herzogenberg)で、フランス貴族の末裔である。.
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ハインリヒ・シュッツ
ハインリヒ・シュッツ (クリストフ・スペトナー画。1650–60年頃、ライプツィヒ) ハインリヒ・シュッツ(Heinrich Schütz, 1585年10月8日(ユリウス暦)/10月18日(グレゴリオ暦)ケストリッツ - 1672年11月6日 ドレスデン-->)は、ドイツの作曲家、ドレスデン宮廷楽長。.
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バイエルン大公
バイエルン大公(バイエルンたいこう)は、中世ドイツの部族大公。ドイツ南東部からオーストリアにかけてのバイエルン公国を支配した。 「大公」とはドイツ語Herzogの訳語であるが、ドイツ史においては中世の研究では「大公」、初期近代以降の研究では「公」という訳語が用いられるのが通常である。特にはっきりした境界があるわけではないが、以下では便宜上ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公位を独占するようになる1180年以降に限ってバイエルン公という用語を使うことにする。また、1623年以降バイエルン公は選帝権を保持したためバイエルン選帝侯と呼ばれる。.
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モテット
モテット(-en-shortmotet、Motette、mottetto、motetus)は、声楽曲のジャンルのひとつ。一般的に、中世末期からルネサンス音楽にかけて成立・発達した、ミサ曲以外のポリフォニーによる宗教曲を指す。.
モデナ
モデナ(Modena)は、イタリアのエミリア=ロマーニャ州にある都市。その周辺地域を含む人口約18万人の基礎自治体(コムーネ)。モデナ県の県都である。 古代に起源を持つ都市で、中世にはモデナ公国の中心都市であった。特産品として、バルサミコ酢が有名である。自動車メーカー・フェラーリの本拠地マラネッロは郊外(モデナ県下)にある。.
ヤーコプ・オブレヒト
ヤーコプ・オブレヒト(Jacob Obrecht, 1457年/1458年11月22日 ヘント-1505年7月 フェラーラ)は、ベルギーのヘント生まれのフランドル楽派の作曲家。.
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ヤコブ・ルニャール
ヤコプ・ルニャール(Jakob Regnart, 1540年~1545年 - 1599年10月16日) ネーデルラント出身(?)の声楽家、フランドル楽派の作曲家。ルネサンス後期のプラハで長く活躍した。ヤコブス・ファートのもとで宮廷礼拝堂の聖歌隊員を務める。1582年から1584年までプラハ宮廷副楽長を勤め、1585年から1596年までインスブルックにてシュタイアーマルク公の宮廷楽長に転身。1596年よりプラハで余生を送る。 37曲のミサ曲と195曲のモテット、受難曲を出版。そのほかに40曲あまりのイタリア語の世俗音楽も存在する。最も重要な創作は、イタリアのマドリガーレ様式ないしはヴィッラネッラ様式を取り入れた、ドイツ語の世俗歌曲である。ラッススのリートに比べると、最上声部が歌謡性に満ちているという点でルニャール作品はイタリア化されている。 ルニャールにはほかに4人の兄弟がおり、いずれも作曲家になったという。 バッハのカンタータ第5番《われはいずこにか逃がれゆくべき》に使われているコラール「神様にかけて Auf meinen lieben Gott」の旋律は、ルニャールの旋律が原曲であるといわれる。.
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ヤコブス・ガルス
ヤコブス・ガッルスまたはヤーコプ・ハンドル(Jacobus Gallus Carniolus (Jacob Handl), 1550年 クライン地方ライフニッツ Reifnitz(現スロベニア南部・リブニツァ Ribnica) - 1591年7月18日 プラハ)はスロベニア出身の後期ルネサンス音楽の作曲家、シトー会会士。宗教曲で著名。ラテン語形の氏名を好んで名乗り、しばしば付属の Carniolus を加えたことから、スロベニアでは「カルニオラ Carniola」(クライナ地方 Krajna の出身者の意味)の名で呼ばれている。元の名前はヤコプ・ペテリン(Jakob Petelin)。 ボヘミア、モラビア、シュレージエンを訪れ、低地オーストリアのメルク修道院に赴く。1574年にウィーン宮廷礼拝堂少年聖歌隊の一員となったと自身で述べているが、年齢や資料面から疑わしい。1579年から1585年までモラビアでオロモウツ司教の宮廷楽長に就任。 最も著名な作品は、4巻からなるモテット集《音楽作品 Opus musicum》(1586年-1590年)であり、ゆくゆくは教会暦による通年の典礼上の要求を満たしてゆくことになる。1586年 出版の第1巻に収録された8声部のための《おお、大いなる神秘 O magnum mysterium》は、明らかにヴェネツィア楽派の分割合唱様式に影響され、コーリ・スペッツァーティ技法が使われている。 ガルスの包括的で折衷的な作曲様式は、古典的なものと近代的なものを融合させている。ガルスは定旋律を用いることは滅多になく、当時は新しかったヴェネツィア楽派の合唱様式を優先させてエコーやステレオ音響の効果を追究したが、それでもなお同時に以前の通模倣様式への知悉も示している。 ガルスの半音階進行は旋法体系の崩壊に影を落としており、5声のモテット《驚くべき神秘よ Mirabile mysterium》は、ジェズアルド作曲と言っても通ずるほどである。ガルスはマドリガーレ様式の音画技法も受け入れたが、それでもなお、単純な《見よ、正しき者のいかに死せるとも Ecce quomodo moritur justus》のような楽曲を創作することもできた。このモテットは後にゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルによって、葬送アンセム《シオンへの道は嘆き悲しむ The Ways of Zion Do Mourn》に転用された。カンツォネッタやヴィッラネッラの作曲様式を用いた3巻からなる《倫理的な音楽 Harmoniæ Morales》(1589年-1590年)のような作品も遺している。 スロベニアのユーロ導入まで流通していた200トラール紙幣に肖像が使用されていた。 Category:ルネサンスの作曲家 Category:オーストリアの作曲家 Category:チェコの作曲家 Category:スロベニアの作曲家 Category:スロベニア系オーストリア人 Category:16世紀の音楽家 Category:スロベニア・トラール紙幣の人物 Category:1550年生 Category:1591年没.
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ユゼフ・エルスネル
ユゼフ・クサヴェルィ・エルスネル(Józef Ksawery Elsner 1769年6月1日 - 1854年4月18日)はポーランドの作曲家で音楽教育家。主にフリデリク・ショパンの師として知られる。ドイツ語読みではヨーゼフ・クサーヴァー・エルスナー(Joseph Xaver Elsner)。.
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ヨハネによる福音書
『ヨハネによる福音書』(ヨハネによるふくいんしょ、Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιον Kata Iōannēn Euangelion、Evangelium Secundum Iohannem)は新約聖書中の一書。 『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』に次ぐ4つの福音書(イエス・キリストの言行録)の一つである。ルターは本福音書とパウロ書簡を極めて高く評価しており、その影響は現在のプロテスタント各派に及んでいる。.
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ヨハネ受難曲
ヨハネ受難曲(ヨハネじゅなんきょく、Johannes-Passion)とは、新約聖書「ヨハネによる福音書」の18-19章のイエスの受難を題材にした受難曲。多くの音楽家が作曲してきた。このうち最も有名なものはヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の作品である。本項ではこのバッハの作品(BWV245)について述べる。.
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ヨハネス・マルティーニ
ヨハネス・マルティーニ(Johannes Martini, 1440年ごろ – 1497年もしくは1498年)はフランドル楽派の作曲家。.
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ヨハン・ワルター
ヨハン・ワルター(Johann Walter、1496年-1570年3月25日)とは、宗教改革時代のルーテル派の作曲家、讃美歌作家、詩人。 彼の編纂になるプロテスタント最初の讃美歌集Geystliches gesangk buchleynが、1524年にマルティン・ルターの序文付きで出版された。 ワルターは二つのスタイルを持っている。1つめのスタイルはフランドル楽派のポリフォニーであり、ジョスカン・デ・プレ、ハインリヒ・イザークの影響を受けている。 2つめのスタイルは、模倣技法ではないコラールであり、後の2世紀に影響を及ぼした。.
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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
ライプツィヒ・聖トーマス教会前に立つバッハ像 バッハにゆかりのある土地 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(, 1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日) - 1750年7月28日)は、18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家である。 バロック音楽の重要な作曲家の一人で、鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、当時から即興演奏の大家として知られていた。バッハ研究者の見解では、バッハはバロック音楽の最後尾に位置する作曲家としてそれまでの音楽を集大成したとも評価されるが、後世には、西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり音楽の源流であるとも捉えられ、日本の音楽教育では「音楽の父」と称された。 バッハ一族は音楽家の家系で(バッハ家参照)数多くの音楽家を輩出したが、中でも、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはその功績の大きさから、大バッハとも呼ばれている。J・S・バッハとも略記される。.
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ヨハン・タイレ
ヨハン・タイレ(Johann Theile, 1646年7月29日-1724年6月24日)は、ドイツの作曲家、音楽理論家。とくに宗教音楽の作曲に優れ、同時代人からは「対位法の父」と称される。.
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ラインハルト・カイザー
ラインハルト・カイザー(Reinhard Keiser, 1674年1月9日 - 1739年9月12日)は、ドイツ盛期バロック音楽の作曲家。ハンブルクを拠点に活躍した。約100曲の歌劇を作曲して人気を集め、1745年に音楽評論家ヨハン・アドルフ・シャイベから、クーナウや、ハンブルクゆかりのヘンデルとテレマンと並ぶ巨匠に数えられたが、大方その作品は長年にわたって忘れられてきた。.
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ルネサンス
レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人体図、科学と芸術の統合 ルネサンス(Renaissance ルネサーンスイギリス英語発音: リネイスンス、アメリカ英語発音: レナサーンス)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。 日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸のみでなく広義に使われるため現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。.
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い、1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。.
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ルーテル教会
ルーテル教会(ルーテルきょうかい、, )は、マルティン・ルターによりドイツに始まる、キリスト教の教派または教団。ルター派(ルターは)とも呼ばれる。プロテスタントの一つであり、全世界に推定8260万人の信徒が存在する。発祥の地ドイツを始め、北欧諸国では国民の大半がルター派であり、そこから移民が渡った先のアメリカ合衆国、カナダ、ブラジル等の南アメリカ各国でも信徒数が多い。 パッヘルベル、J.S.バッハ、テレマン、メンデルスゾーンなど著名な音楽家が多く所属し、作曲家や音楽家に縁がある教会としても知られる。.
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ルカによる福音書
『ルカによる福音書』(ルカによるふくいんしょ、Κατά Λουκάν Ευαγγέλιον Kata Loukan Euangelion、Evangelium Secundum Lucam)は、新約聖書中の一書で、イエス・キリストの言行を描く四つの福音書のひとつ。『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』(以下『ルカ福音書』)の三つは共通部分が多いことから共観福音書とよばれる。 福音書中には一切著者についての言及はないが、それぞれの冒頭部分の献辞などから『使徒言行録』と同じ著者によって執筆されたことは古代から認められており、現代の学者たちのほとんどが本福音書と使徒言行録は著者による二巻の作品が新約聖書の成立過程でイエスの生涯を記す福音書と、イエス後の教会の発展史という観点から分離して配列されることになった可能性が高いと考えている。(このため、『ルカ福音書』と『使徒言行録』をあわせて「ルカ文書」と称することもある。)伝承では『ルカ福音書』の著者はパウロの弟子の医師であるルカとされてきた。その名は『フィレモンへの手紙』等に見られる。.
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ルターシュタット・ヴィッテンベルク
ルターの像 ルターシュタット・ヴィッテンベルク (Lutherstadt Wittenberg) は、ドイツ連邦共和国ザクセン=アンハルト州の都市。単にヴィッテンベルクとも呼ばれる。現在の都市名は1938年以降である。宗教改革の立役者であるマルティン・ルターが神学部の大学教授として教鞭をとった地として有名である。同州のルターシュタット・アイスレーベンと共に、彼の足跡を記念し「ルター都市」を都市名に冠している。人口は約人。.
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レチタティーヴォ
レチタティーヴォ(recitativo,Rezitativ,récitatif,recitative)は、オペラ、オラトリオ、カンタータなどの中に置かれるもので、独唱が用いられる、概して大規模な組曲形式の作品の中に現れる歌唱様式の一種である。叙唱、朗唱と訳されることもある。リート、バラード、演奏会用アリアなどにも付随するが、通常は、個人的な感情の独白や、状況説明、ストーリーの紹介などの場面に採用されるため、当然ながら、多くの場合はアリアなどの旋律的な曲の間や前に置かれることとなる。 旋律的なふるまいを必要とせず、時にはそれを意図的に排除したい必要性がある場面において、そこに、音程やリズムのない非音楽的な朗読や台詞が置かれることによって発生する作品全体としての進行上の音楽的弊害を防ぐため、あえて音程やリズムを楽譜中に指定した台詞によってふるまわせようというのが、レチタティーヴォの本意である。時には、歌のない器楽曲の曲名や、曲中の部分などにこの語が使用されて、そのふるまいを模倣させることもあったり、レチタティーヴォに類似する歌曲にこの名が冠されることもある。 古い時代のものは、その多くがチェンバロで薄く和声的背景が伴奏されるレチタティーヴォ・セッコ(recitativo secco=乾いたレチタティーヴォ)であった。これは数字付低音によって記譜された伴奏であり、チェンバロ奏者は低音ラインと和声的枠組みの中で即興的にその場の雰囲気や感情などを表現することとなる。後にフォルテピアノ、ピアノフォルテによってもその役割が果たされたが、それらは、通奏低音としてチェロやコントラバスなどと共に伴奏されることもある。このレチタティーヴォ・セッコは、ナポリ楽派の作曲家たちによって高い効果をもたらされたが、オペラ・ブッファにおいてはこれが重要な役割を果たした。また、モーツァルトにおけるレチタティーヴォ・セッコは、特筆すべき効果が発揮されている。 これに対し、様々な器楽を用いた伴奏によるもの、またはオーケストラ伴奏によるものが挙げられる。これらは、レチタティーヴォ・ストロメンタート(recitativo stromentato=器楽付レチタティーヴォ)、レチタティーヴォ・アッコンパニャート(recitativo accompagniato=伴奏付レチタティーヴォ)と呼ばれる。 オペラにとっては、アリアの間や前に「台詞」を挟むか「レチタティーヴォ」を挟むかという選択について、時代による流行も含めて捉える必要がある。実際にその違いは大きいが、例えばビゼーのカルメンで、作曲家自身はオペラ・コミックとして台詞を挟みながら進める構成で仕上げたものの、不評の初演後3ヶ月でビゼーは亡くなってしまい、その後エルネスト・ギロー(Ernest Guilaud, 1837 - 92)がオペラ・コミックからグランド・オペラとして改変し、台詞をレチタティーヴォに作り直したものが広まってしまったのはよい例である。ギローによるそれはロマンティック・オペラと表記されることもあり、ギローの仕事の質などは別としても、台詞かレチタティーヴォかという違いによって作品全体が根本的に変わっており、この問題は表現上大きな意味を持っていることを示す例としてよく比較される。 Category:楽式 Category:音楽用語 Category:イタリア語の語句.
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レオンハルト・レヒナー
レオンハルト・レヒナー(Leonhard Lechner, 1553年 チロル南部 - 1606年9月9日 シュトゥットガルト)は、ドイツの作曲家、楽譜編集者。南チロル出身。オルランド・ディ・ラッソに師事、イタリア音楽、特にヴェネツィア楽派の技法の影響を受けながら、輪郭の明確な上部旋律、ホモフォニー的な構成など独自の世俗歌曲を作曲した。これらはドイツ・リートの源流となった。 同時期のドイツの作曲家にハンス・レオ・ハスラーがいる。.
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ヴロツワフ
ヴロツワフ(ポーランド語: 、 ブレスラウ、 ボロスロー)は、ポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつである。市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。 ヴロツワフは歴史上、様々な国(ポーランド王国、オーストリア帝国、ドイツ、ハンガリー、プロイセン、ボヘミア)の1部となっていたが、1945年(第二次世界大戦後)にポーランド領となった。 ヴロツワフは、UEFA欧州選手権2012 のホストである。2016年の欧州文化首都になることが決まっており、またワールドゲームズ2017の開催地にも決定した。.
ヴォルフガング・リーム
ヴォルフガング・リーム(Wolfgang Rihm, 1952年3月13日 - )は、ドイツのカールスルーエ生まれの現代音楽の作曲家。 ドイツの同姓の作曲家に、カールスルーエ音楽大学の音楽理論の教授で人智学系作曲家のペーター=ミヒャエル・リーム(Peter-Michael Riehm, 1947年 - )とフランクフルト音楽大学で作曲と音楽理論を教えていたロルフ・リーム(Rolf Riehm, 1937年 - )がいる。.
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トマス・ルイス・デ・ビクトリア
トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, 1548年 アビラ - 1611年8月27日)は黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人。16世紀スペインの作曲家では最も有名であり、多くの人からパレストリーナに次ぐポリフォニックな教会音楽の大家と見なされている。 少年期にセゴビアでバルトロメー・デ・エスコベドに学んだらしい。1564年頃にローマに行き、イエズス会の会士となった。この頃にパレストリーナに師事したようだが、これについては状況証拠しか残っていない。とはいえビクトリアがパレストリーナの様式に影響されているのは確かである。ビクトリアはイエズス会の修道院で一連の楽長職を務めたのち、1575年に司祭として叙階された。 しかしながらイタリアに逗留することなく、1586年になるとスペインに帰国、今度は、マドリッドのデスカルサス・レアレス女子修道会の一員となった皇太后マリアに奉職することになる。ビクトリアは終生にわたってこの修道会にとどまり、司祭・作曲家・合唱指揮者・オルガニストなど、数々の役割をこなした。皇太后マリアは神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世の妃であり、スペイン王フェリペ2世の妹だった人物である。 ビクトリアは対抗改革期のスペインで最も重要な作曲家であり、後期ルネサンス においては最もすぐれた宗教音楽の作曲家である。ビクトリアの作品は20世紀に復活を遂げ、近年たくさんの録音が制作されている。数多くの評者がビクトリア作品に、神秘的な烈しさと、直接に感情に訴えかけてくる特質を認めている。これらの特徴は、見方によっては、ビクトリアの偉大な同時代のイタリア人、パレストリーナの作品には見当たらない。パレストリーナ作品は、技術的には申し分ないが、情緒的には超然としているからである。 様式的に見るとビクトリア作品は、多くの同時代の作曲家と同様の凝った対位法は遠ざけて、単純な旋律線とホモフォニックなテクスチュアを好んでいるが、それでもなお多種多彩なリズムの変化や、時に驚くほどの明暗の対比を内に秘めている。旋律の書法や不協和音の扱いはパレストリーナよりもずっと自由である。ビクトリアは随所で、16世紀の厳格対位法では禁則とされていた音程、たとえば上行する長6度音程を用いた。あるいはモテット《聖なるマリアよ、顧みたまえ Sancta Maria, succurre》において、旋律中の嘆きを表す楽句に臨時記号のついた減4度音程をさえ使っている。ビクトリアは時どき、通常はマドリガーレに使われるような音画技法も利用した。ビクトリアの宗教曲のいくつかは器楽も用いており(16世紀スペインの宗教曲には異例の慣習)、さらには、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂につとめるヴェネツィア楽派の作曲家がしたように、分割合唱のための作品も残した。 ビクトリアの最も美しく、かつ最も洗練された作品の一つが、かの偉大な「死者のためのミサ曲」である。この作品は、1586年以来ビクトリアの主人であった皇太后マリアの葬礼のために作曲された。.
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トリエント公会議
トリエント公会議(トリエントこうかいぎ Concilium Tridentinum)は教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア領トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の公会議。諸事情により、多くの会期が断続的に行われたが、宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、対抗改革といわれるカトリック教会の刷新と自己改革の原動力となった。トレント公会議(とれんとこうかいぎ)とも。.
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プラハ
プラハ(チェコ語・スロヴァキア語: Praha )は、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は、約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。ドイツ語では Prag(プラーク)、マジャル(ハンガリー)語では Prága(プラーガ)、英語では Prague(プラーグ)と呼ばれる。漢字表記は布拉格。プラーグ、フラーグとも。 市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れる。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれる。ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もそのひとつである。市内にはヤン・フスが説教を行ったベツレヘム教会などがある。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もあることから、独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備えた都市となっている。.
プロテスタント
プロテスタント(Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではカトリック教会(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。.
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パリ
ランドサット パリの行政区 パリ(Paris、巴里)は、フランス北部、イル=ド=フランス地域圏にある都市。フランスの首都であり、イル=ド=フランス地域圏の首府である。 フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心である。ロンドン、ニューヨーク、香港、東京などと並ぶ世界トップクラスの世界都市でもある。行政上では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカルゴと形容される)。.
パロディ
パロディ(parody、παρωδια)は、現代の慣用においては他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法のことを指す。.
ピエトロ・メタスタージオ
ピエトロ・メタスタージオ(Pietro Metastasio, 本名 ピエトロ・アントニオ・ドメニコ・トラパッシ Pietro Antonio Domenico Trapassi, 1698年1月3日 – 1782年4月12日)は、イタリアの詩人、オペラ台本作家。オペラ・セリアでは最も著名な作家であった。.
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テノール
プラノ アルト '''テノール''' バス テノール、またはテナー(tenor、ténor、Tenor、tenore)は、高い声域の男声歌手(カウンターテナーほど高くはない)あるいはその声域のことである。.
フランシスコ会
フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.
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フランシスコ・ゲレーロ
フランシスコ・ゲレーロ(Francisco Guerrero, 1528年10月4日? – 1599年11月8日)はルネサンス時代に活躍した、スペインの作曲家。セビリャに生まれ、没した。.
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フランス王国
フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.
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フーゴー・ディストラー
フーゴー・ディストラー(1941年) フーゴー・ディストラー(Hugo Distler, 1908年6月24日 - 1942年11月1日)はヴァイマル共和国期から第三帝国期にかけて活躍したドイツの作曲家。福音教会の教会音楽家として名高いが、チェンバロ協奏曲などの器楽曲も遺している。 ニュルンベルク出身。ライプツィヒ音楽院に入学し、当初は指揮科で学ぶが、後に教員の助言によって作曲科とオルガン科に転属した。1931年にリューベックの聖ヤコビ教会にオルガニストとして就任。1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党し、同年にベルリンのシュパンダウ宗教音楽学校で教鞭を執るようになり、1937年にシュトゥットガルト宗教音楽学校の教授に迎えられた。 友人の死や空爆、職務上のプレッシャー、ナチス政権による常なる徴兵の脅威によって次第にうつ病気味となり、1942年にベルリンで自殺を遂げた。34歳だった。 ディストラーの作品はポリフォニックで頻繁にメリスマが用いられており、しばしばペンタトニックに依拠している。これらの特徴のために、ディストラーの作品はナチスによって退廃音楽の烙印を押された。自殺の直接の動機は、このような政治的背景によるものとする説もみられる。 Category:ドイツの作曲家 Category:近現代の作曲家 Category:教会音楽家 Category:ニュルンベルク出身の人物 Category:フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ出身の人物 Category:自殺した人物 Category:1908年生 Category:1942年没.
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ドミニコ会
ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum) で、略号は「OP」である。.
ドイツ
ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.
アリア
アリア (Aria、 Air(エア)) は、叙情的、旋律的な特徴の強い独唱曲で、オペラ、オラトリオ、カンタータなどの中に含まれるものを指す。また広義に、そのような独唱曲を想起させる曲を指す。 オペラなどでは、特に独唱者にとって聞かせどころとなる曲である。オペラやオラトリオの構成では、アリアの前に語りの内容が重視されあまり旋律的でないレチタティーヴォを置くことが多い。 日本では詠唱と訳されることもある。.
アルヴォ・ペルト
アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt, 1935年9月11日 - )はエストニア生まれの作曲家である。しばしばミニマリスムの楽派に属する一人とされる。.
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アレッサンドロ・スカルラッティ
アレッサンドロ・スカルラッティ(Alessandro Scarlatti, 1660年5月2日 - 1725年10月24日)はバロック期のイタリアの作曲家。特にオペラとカンタータで著名である。オペラにおけるナポリ楽派の始祖と考えられている。また、同じくバロック期の作曲家であるドメニコ・スカルラッティとピエトロ・フィリッポ・スカルラッティの父でもある。.
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アロンソ・ロボ
アロンソ・ロボ(Alonso Lobo、1555年頃オスナ - 1617年4月5日)は、後期ルネサンスのスペインの作曲家。ビクトリアほど有名ではないものの、当時は高く評価され、ビクトリア本人が自分に匹敵する才能の持ち主と認めたほどだった。 セビーリャ大聖堂で少年聖歌隊員を勤めたのち、オスナ大学で学位を取得、1591年まで司教座聖堂参次会員の地位を得る。同年セビーリャ大聖堂にフランシスコ・ゲレーロの助手として採用され、のちに楽長の地位まで昇格する。1593年にトレド 大聖堂の楽長職に採用され、1594年にセビーリャに戻るまでその任務にとどまった。 ロボの楽曲は、パレストリーナのよどみない対位法の技術を、ビクトリアの厳粛で濃密な表現に結びつけたものといえる。ロボ作品のいくつかは、1600年頃のイタリア音楽では普通だったコーリ・スペッツァーティ(分割合唱)の技法を用いているが、ロボは決して3つ以上の合唱は用いなかった(同時代のヴェネツィア楽派の合唱曲はそれより多いことがしばしばで、ジョヴァンニ・ガブリエーリはしばしば雄大なサン・マルコ大聖堂の聖歌隊席に見合うだけの数の合唱を用いている)。 ロボの影響力は、スペインの国境線を超えてはるか彼方——ポルトガルからメキシコ ——にまで及んだ。スペイン最高の作曲家の一人とする評価は、100年にわたって続くことになった。 ロボの作品はミサ曲やモテット、3つの受難曲、哀歌、詩篇、聖歌ならびに(散逸した)12声部のためのミゼレーレがある。世俗曲や室内楽曲が現存するかは知られていない。 Category:ルネサンスの作曲家 Category:スペインの作曲家 Category:16世紀の音楽家 Category:17世紀の音楽家 Category:1550年代生 Category:1617年没.
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イラリオン (アルフェエフ)
イラリオン(修道誓願前の姓:アルフェエフ、Иларион (Алфе́ев), Hilarion (Alfeyev)、1966年7月24日 - )は、ロシア正教会の府主教。渉外局長・モスクワ教区副主教・ヴォロコラムスクの府主教。聖職者であり、神学者であり、歴史学者であり、作曲家である。 出版された著作はロシア語のみならず、英語・フランス語・イタリア語・ドイツ語・フィンランド語・セルビア語など多言語にわたった版が存在し、日本正教会の信徒(ニコライ高松光一)によって日本語にも翻訳されている。 名前について英語表記から「ヒラリオン」と転写されるケースがあるが、ロシア語でこのように表記・発音する事は無い("Иларион"をラテン文字転写すると"Ilarion")。.
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イエス・キリスト
イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、Ίησοῦς Χριστός、יְהוֹשֻׁעַ/יֵשׁוּעַ הַמָּשִׁיחַ, )は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されているX.
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イギリス
レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.
イタリア
イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.
ウィリアム・バード
ウィリアム・バード ウィリアム・バード(William Byrd, 1543年? – 1623年7月4日)は、イングランドで活躍したルネサンス音楽の作曲家である。「ブリタニア音楽の父」 (Brittanicae Musicas Parens) として現代イギリスにおいて敬愛されている。.
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ウィーン
ウィーン(標準Wien〈ヴィーン〉、Wean〈ヴェアン〉、Vienne〈ヴィエンヌ〉、Vienna〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。.
エルンスト・ペッピング
ルンスト・ペッピング(Ernst Pepping, 1901年9月12日 - 1981年2月1日)は、ドイツの作曲家。 デュースブルク出身。1922年から1926年にかけてベルリン音楽大学(現在のベルリン芸術大学)で作曲を学ぶ。1934年にはベルリンので作曲と音楽理論を教えるようになり、人生の大半をそこで過ごした。さらに1935年から1938年と1947年から1968年までベルリン音楽大学の教会音楽と作曲の教授を務めた。ペッピングの作品の多くは称賛を受け、1961年にはベルリン自由大学から名誉博士号を受け取っている。 ペッピングはプロテスタント教会音楽家として多数のミサ曲・モテットを作曲している。それ以外にも3曲の交響曲(1932・1943・1949)、ピアノ協奏曲(1950)、管弦楽のための変奏曲(1949)、オルガン曲、ピアノ曲などの器楽曲がある。ベルリンのシュパンダウで死去。.
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エルサレム
ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.
エステ家
テ家(Este)は、中世以降のイタリアの有力な貴族の家系。学芸を重んじ、保護・発展に寄与したこと、美術の保護政策を実践したことでも知られる。.
オペラ
イタリア・ミラノにあるスカラ座。1778年に完成したこの歌劇場は、世界で最も有名である。 オペラ(イタリア語・英語: opera、フランス語: opéra、ドイツ語: Oper)は、演劇と音楽によって構成される舞台芸術である。歌劇(かげき)とも呼ばれる。.
オラトリオ
ラトリオ(伊: oratorio, 羅: oratorium)は、1640年頃、イタリアで始まったクラシック音楽における楽曲の種類、ないし曲名の一つ。日本語では「聖譚曲」と呼ばれる。バロック音楽を代表する楽曲形式のひとつである。ラテン語オラトリオと、イタリア語やドイツ語、英語などを用いた俗語オラトリオがある。ラテン語オラトリオは17世紀にのみ見られる。.
オルランド・ディ・ラッソ
ラッソ オルランド・ディ・ラッソ(Orlando di Lasso:イタリア語形)、オルランドゥス・ラッスス(Orlandus Lassus:ラテン語形)(1532年 - 1594年6月14日 ミュンヘン)は、後期ルネサンスのフランドル楽派の作曲家。 名前の表記としては、近年では、Orlande de Lassus や Roland de Lassus なども使われるようになっている。 ローマ楽派のジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナと並んで、こんにちでは、フランドル楽派のよく練れたポリフォニー様式を最も代表する作曲家のひとりと見なされており、16世紀末のヨーロッパでは最も有名で最も影響力を振るった作曲家であった。.
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オーケストラ
ーケストラ(伊/ オルケストゥラ オーキストゥラ)は、音楽の一種である管弦楽(管弦楽曲)、または、管弦楽曲を演奏する目的で編成された楽団(管弦楽団)を指す。日本語では後者の用法が主である。.
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オスバルド・ゴリホフ
バルド・ノエ・ゴリホフ(Osvaldo Noe Golijov, 1960年12月6日 - )は、グラミー賞を受賞したアルゼンチンラプラタ出身のクラシック音楽の作曲家。.
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カール・ハインリヒ・グラウン
ール・ハインリヒ・グラウン(Carl Heinrich Graun, 1704年5月7日 - 1759年8月8日)は、ドイツ人作曲家・声楽家。ヨハン・アドルフ・ハッセと並んで、イタリア・オペラの卓越した作曲家として同時代に知られていた。兄ヨハン・ゴットリープ・グラウンも作曲家で、ヴァイオリンのヴィルトゥオーソとしても知られた。.
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カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ
ール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach, 1714年3月8日 ヴァイマル - 1788年12月14日 ハンブルク)はドイツの作曲家。ヨハン・ゼバスティアン・バッハが最初の妻マリア・バルバラともうけた次男。父よりも、父の友人ゲオルク・フィリップ・テレマンの作曲様式を受け継ぎ、ギャラント様式や多感様式を追究して、古典派音楽の基礎を築いた。 弟ヨハン・クリスティアンがモーツァルトを教え導いたように、カール・フィリップの作風は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンやベートーヴェンに多大な影響を与えた。生前は父のヨハン・ゼバスティアンよりも有名で、兄弟の中では誰よりも世俗的な成功を収めたが、本人は父の指導があったからこそ自分が成功することができたと訴え続けた。その意味においては、初期のバッハ神話を創り出した張本人であったと言える。 他のバッハ一族の作曲家と区別するために「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」などとも呼ばれる。.
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カトリック教会
トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.
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キリスト教
リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.
キリスト教音楽
本項はキリスト教の祈祷(公祈祷・礼拝)で用いられる聖歌・音楽を中心に扱うとともに、礼拝ではほとんど用いられないが演奏会などでは用いられるキリスト教音楽についても扱う。教会音楽(きょうかいおんがく)という語もあるが、こちらは教会で用いられる音楽にほぼ限定して指すことがほとんどであり、演奏会向けのキリスト教音楽のことはあまり含まれない。キリスト教における礼拝音楽(れいはいおんがく)、典礼音楽(てんれいおんがく)はさらに狭義となり、公祈祷・礼拝で用いられる音楽のみを指す(ただし、礼拝音楽、典礼音楽は他宗教の音楽にも使われる用語である)。.
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クリストフ・デマンティウス
ヨハン・クリストフ・デマンティウス(デマンツィウスとも)(Johann Christoph Demantius, 1567年12月15日1643年4月20日)はボヘミア出身のドイツ(ザクセン選帝侯国)の作曲家・音楽理論家・詩人。クラウディオ・モンテヴェルディと完全に同世代で、ドイツのルター派教会音楽における、ルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期を代表する作曲家。音楽理論家としては、ドイツ語による最初の音楽事典を編纂したことで有名。.
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クレルヴォーのベルナルドゥス
レルヴォーのベルナルドゥス(ラテン語:Bernardus Claraevallensis, フランス語:Bernard de Clairvaux, 1090年 - 1153年8月20日)あるいは聖ベルナルドは、12世紀のフランス出身の神学者。すぐれた説教家としても有名である。フランス語読みでクレルヴォーのベルナール(聖ベルナール)とも呼ばれる。 聖公会とカトリック教会の聖人であり、35人の教会博士のうちの一人でもある。1830年8月20日、教皇ピウス8世から教会博士の称号を贈られている。その卓越した聖書注釈により、「蜜の流れるような博士(Doctor Mellifluus)」と称されている。また第2回十字軍の勧誘に大きな役割を果たしたことでも知られる。.
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クローダン・ド・セルミジ
ーダン・ド・セルミジ(Claudin de Sermisy, 1490年ごろ - 1562年10月13日)は、フランス・ルネサンス音楽の作曲家。ジャヌカンと並んで、16世紀の最も有名なシャンソン作家の一人だが、宗教音楽の作曲家としても重要。同時代のイタリア音楽に影響され、かつ影響を与えている。.
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クシシュトフ・ペンデレツキ
ュトフ(またはクリシュトフ)・エウゲニウシュ・ペンデレツキ(Krzysztof Eugeniusz Penderecki 1933年11月23日 - )は、ポーランドの作曲家、指揮者。クラクフ生まれのカトリック教徒。ポーランド楽派の主要作曲家の1人である。.
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ゲオルク・フィリップ・テレマン
ルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann、(ゲオルク・フィーリプ・テーレマン)、1681年3月14日 - 1767年6月25日) は、ドイツの作曲家。.
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コラール
ラール(独:Choral)は、もともとルター派教会にて全会衆によって歌われるための賛美歌である。現代では、これらの賛美歌の典型的な形式や、類似した性格をもつ作品をも含めて呼ぶことが多い。.
コンチェルト
ンチェルト.
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コンチェルタート
ンチェルタート(concertato)、コンチェルタート様式ないしはスティーレ・コンチェルタート(stile concertato)は、通奏低音の上で、器楽グループまたは声楽グループが一つの旋律を共有して、たいてい交互に奏でる(歌う)ような演奏様式または曲種のこと。イタリア語のコンチェルト(協演)の派生語であり、本来は「コンチェルト風に」「協演する方式で」ほどの意味であった。コンチェルタートという用語は、ほとんど決まって形容詞的に使われる。 いくぶん単純化しすぎではあるが「コンチェルタート」と「コンチェルト」を分かりやすく区別すると、コンチェルタート様式は、声楽グループと器楽グループの対比が含まれるのに対して、コンチェルト様式は、とりわけ盛期バロック音楽で展開された合奏協奏曲の場合に見られるように、大集団(リピエーノ)と小集団(コンチェルティーノ)の対比が含まれている。 コンチェルタート様式は、16世紀後半のヴェネツィアにおいて、聖マルコ大聖堂の特異な音響空間(バシリカ)で活動した、ガブリエーリ一族の作品を通じて発展をみた。この聖堂内では、別々の聖歌隊ないしは合奏団が、筋向いに相対することになる。一般的に一方から他方への響きのディレイ効果のために、また音響的に言うと「ライヴ」空間のために、完全なユニゾンは困難だったので、作曲家はいわばステレオの原理で聖歌隊が互いに歌い交わすように作曲することにより、すばらしい効果のある音楽ができることに気づいたのである。このようにして交唱様式を用いた聖マルコ大聖堂の合唱様式は、「コーリ・スペッツァーティ」様式と呼ばれた(「ヴェネツィア楽派」も参考のこと)。 コーリ・スペッツァーティの楽曲は、本来ア・カペラの合唱曲として作曲されたが、楽器を加えた演奏が行われるようになり、さらにジョヴァンニ・ガブリエーリによって、この原理を用いて器楽曲を作曲したり、あるいは声楽と器楽からなるアンサンブルのために作曲する習慣が確立され、単純な交唱ではなく、対比や競合の原理をそなえた「コンチェルタート様式」へと段階的に発展した。さらに、通奏低音とモノディが導入されると、それまでの器楽と声楽の対比や、音色の異なる楽器同士の対比に加えて、独唱・重唱・合唱も対比や競合の選択の可能性を広げた。 ヴェネツィアで作曲された楽曲は、すぐさまその他各地で演奏されたため、新たな「コンチェルタート」様式は急速にヨーロッパ各地に(最初に北部イタリアで、次いでドイツと中部・南部のイタリアで、その後は徐々に残りのヨーロッパ大陸に)浸透した。 17世紀初頭において、声楽と通奏低音を伴うほとんどすべての楽曲が「コンチェルト」と呼ばれたが、この用法は、現代的な意味(独奏楽器ないしは独奏楽器群と管弦楽のためのソナタ)とはかなりかけ離れている。17世紀におけるコンチェルタート様式の宗教曲は、しばしばモテットから発展した。16世紀までにア・カペラ様式による声楽ポリフォニーとして曲付けされたような聖句を用いて、声楽と器楽のためにコンチェルト様式によって作曲されるようになった。これらの楽曲はもはやモテットとは呼べず、「コンチェルト」や「シンフォニア(シンフォニエ)」「詩篇集」など、さまざまな名で呼ばれた。 コンチェルタート様式は、きわめて劇的な音楽の作曲を可能にするため、初期バロック音楽の特徴ある新機軸のひとつとなった。.
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ゴットフリート・アウグスト・ホミリウス
ットフリート・アウグスト・ホミリウス(ホミーリウス、Gottfried August Homilius, 1714年2月2日 - 1785年6月初旬)はドイツのカントル・作曲家・オルガニスト。 ローゼンタール(現ザクセン州)出身。大学進学のためにライプツィヒに行き、はじめ別の教師について音楽を学んだが、やがてヨハン・ゼバスティアン・バッハの門を叩く。1742年よりドレスデン聖母教会オルガニストに就任。1755年から没年までドレスデン十字架教会のカントルを振り出しとして、市内の3つの主要な教会で音楽監督を歴任した。ホミリウスの活動拠点はドレスデン聖母教会であった。十字架教会は1760年に破壊されてから、ホミリウスの没後まで再建されなかったためである。 ホミリウスの作品は教会音楽で占められている。10曲以上の受難曲(そのうち1曲は1775年に出版)、クリスマス・オラトリオ(1777年)、復活祭オラトリオ、60曲以上のモテット、150曲以上のカンタータ(そのうち6曲のアリアが1786年に死後出版)、オルガンのための前奏曲とコラールなど。声楽曲は、その大量の複写が今なお現存しているように、19世紀を通じて人気があった。.
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シュトゥルム・ウント・ドラング
シュトゥルム・ウント・ドラング(独:Sturm und Drang) とは、18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動である。この名称は、ドイツの劇作家であるフリードリヒ・マクシミリアン・クリンガーが1776年に書いた同名の戯曲に由来している。時期は、1767年から1785年までとする見方がもっぱらであるが、1769年から1786年、もしくは1765年から1795年とする見方もされる。 古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へとつながっていった。代表的な作品として、ゲーテの史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)や小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)、シラーの戯曲『群盗』(1781年)や悲劇『たくらみと恋』(1784年)など。クラシック音楽では中期のハイドンの名が挙げられる。 日本でのシュトゥルム・ウント・ドラングは「疾風怒濤」と和訳されたために「嵐と大波」という意味で理解されることも多いが、ドイツ語から直訳するならば「嵐と衝動」が正しい。 英語では「Storm and Stress(嵐と圧力)」や「Storm and Urge(嵐と衝動)」などと訳されているようである。また片仮名表記では「シュトゥルム」は「シュトルム」、「ドラング」は「ドランク」とも表記されることがある。 Category:ドイツ文学 Category:ドイツ哲学 Category:文学運動 Category:西洋文化 Category:大陸哲学 Category:ドイツ語の成句.
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シンフォニア
ンフォニア(sinfonia)は、ギリシア語の「syn-(一緒に)」+「phone(音)」を語源とするイタリア語で、元来は漠然と合奏曲を意味する言葉である。「交響曲」(シンフォニー)と同語源であるが、バロック音楽の分野においては主として「声楽作品中に挿入された合奏曲」を指す用語として用いる。なお、交響曲を指す場合は、英語では symphony、ドイツ語では Symphonie または Sinfonie の表記を用いるが、いずれも本項の意味ではそのまま sinfonia を用いる。イタリア語ではその区別がない。 バロック期にイタリアで始まったオペラ(ただし、近代オペラとは大きく異なるバロック・オペラ)の中で、歌唱を伴わない器楽(管弦楽)の合奏による楽章をシンフォニアと称した。序曲(前奏)としてのものが代表的だが、場面の切り替わりに奏されるような間奏も含まれる。これがのちには次第に長大化して独立し、古典派音楽に至り交響曲へと発展した。バロック音楽においては、“Ouverture”(序曲)といえばもっぱらバレエやフランス・オペラなどに用いられるフランス風序曲の形式を指し、同じくオペラなどの冒頭の合奏曲であっても、「シンフォニア」は主にイタリア・オペラとその流れに連なる声楽作品において用いられるという区別があった。 イタリア・オペラの形式を取り入れたオラトリオやカンタータでも、同様の形式で用いられるようになった。当時オペラが普及しなかったドイツでは、カンタータ中のシンフォニアが多く作られた。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの教会カンタータ中には秀逸な作例が多数あり、声楽の楽章に織り込んで2楽章以上のシンフォニアが挿入されているものもある。これには世俗音楽として作った曲を転用したり、その逆の転用を行ったことが確認できるものもある。例えば、恐らくケーテン時代に作曲された遺失オーボエ協奏曲BWV1053a は、楽章をばらして教会カンタータBWV49 とBWV169 のシンフォニアに編曲転用され、さらにチェンバロ協奏曲BWV1053 として再び編曲されたことが推測されている。 バッハの「インヴェンションとシンフォニア」や「パルティータ」中の楽章など、鍵盤楽器の独奏曲にもシンフォニアという言葉が用いられるが、この場合は「多声部を含むポリフォニー」という意味である。語源が同じで、なおかつ同じバロック音楽における用語であっても、意味合いや楽曲形態としては全く異なるものである。.
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ジャケス・デ・ヴェルト
ャケス・デ・ヴェルト(Giaches de Wert, 1535年頃~1596年 5月6日 マントヴァ)はイタリアで活躍したフランドル楽派の作曲家。後期ルネサンス音楽の前衛的作曲家の一人で、とりわけマドリガーレの発展に貢献した。Wertはこんにちの綴りであり、作曲者自身は Vuert のような自署を残している。.
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ジュゼッペ・ジョルダーニ
ュゼッペ・ジョルダーニ(Giuseppe Giordani, 1751年12月19日 - 1798年1月4日)は、イタリア・ナポリの作曲家。.
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ジョヴァンニ・パイジエッロ
ョヴァンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello, 1740年5月9日 - 1816年6月5日)は18世紀後半のイタリアのオペラ作曲家。セミセリア様式と呼ばれるオペラの代表的人物である。 ターラント出身。地元のイエズス会の神学校に通う。美声ゆえに多くの注意を惹き付け、ナポリの音楽学校に送られてフランチェスコ・ドゥランテに師事。1763年に音楽学校を終えると劇場のためにいくつかの幕間劇を作曲。その一つが注目を集め、イタリア各地の劇場に招かれてオペラを作曲。ボローニャの劇場に《 La Pupilla》と《 Il Mondo al Rovescio》を、ローマに《 Il Marchese di Tidipano》を提出。 パイジエッロの名声が確固たるものになると、数年間ナポリに落ち着く。ニコロ・ピッチンニやドメニコ・チマローザ、ピエトロ・グリエルミらの成功を羨みながらも、自らも一連の成功作を生み出していく。その一つ《 L'ldolo cinese》は、ナポリの聴衆に深い印象を与えた。 1772年に教会音楽の作曲に着手し、ジェンネラ・ボルボーネのためのレクイエムを完成。同年、チェチーリア・パッリーニと結婚、幸せな結婚生活を送った。1776年にエカチェリーナ2世に招かれサンクトペテルブルクの宮廷に赴き、8年間を過ごす。この間に魅力的な傑作《セヴィリアの理髪師 Il Barbiere di Siviglia》を完成させる。この人気はヨーロッパ中を席巻した。パイジェッロの《セヴィリアの理髪師》は、イタリア音楽の歴史において、一時代を画するものとなった。本作をもって、18世紀の巨匠たちが培ってきた気高い甘美さが姿を消し、新しい時代の目も眩むような超絶技巧に道を譲ったのである。 1816年(パイジエッロの没年)にジョアキーノ・ロッシーニが、パイジエッロと同じ台本に曲付けして、《アルマヴィーヴァ》の題名で新作を発表すると、舞台から非難の声が上がった。しかし、《セヴィリアの理髪師》に題名を改めると、このオペラはロッシーニの最高の作品と見做されるようになり、一方でパイジエッロのオペラは忘れ去られたのである。不思議な運命の復讐というべきか、かつてパイジエッロは、ペルゴレージの幕間劇《奥様女中 La Serva padrona》と同じ台本に曲付けをして、ペルゴレージの名声をかすめてしまったことがあった。 パイジエッロは1784年にロシアを去り、ウィーンで《 Il Re Teodoro》を上演した後、ナポリのフェルディナンド4世の宮廷に出仕、《ニーナ Nina》や《 La Molinara》を含む数々の名作オペラを送り出す。政体や王朝の変化の結果、人生の浮沈を味わった後、1802年にナポレオン・ボナパルトに招かれパリに行き、5年間にわたってその寵愛を得る。ルイ=ラザール・オッシュ将軍の葬儀のために作曲された葬送行進曲を、ナポレオンは溺愛した。ナポレオンはパイジエッロを非常に優遇したのに対し、ルイジ・ケルビーニやエティエンヌ=ニコラ・メユールを冷遇して顧みなかった。パイジエッロは、かつてチマローザやグリエルミ、ピッチンニに対して燃やしたような敵意を、この二人に対して向けた。 パイジエッロはテュイルリー宮殿の宮廷楽団を指揮して、1万フランの報酬を得たが、パリの聴衆から好意を得ることには完全に失敗した。歌劇《プロセルピナ Proserpine》は、パリの市民に冷たくあしらわれたのである。1803年にパイジエッロは、帰国要請を出し、困難に遭いながらも夫人の病気を口実に、帰国許可を得た。ナポリに戻るや否やパイジエッロは、ジョゼフ・ボナパルトとジョアシャン・ミュラによって以前の任務に戻されたが、すでにパイジエッロは限界上に能力を使い切っており、もはや新たな需要に尻を合わせることができなくなっていた。前途も当てにならなかった。ボナパルト家の失墜とともに、パイジエッロの幸運も地に堕ちた。1815年の夫人の死は、過酷な試練であった。パイジエッロの健康はみるみる衰え、他人の人気に対する生来の嫉妬は、不安やいら立ちの種になった。翌1816年にナポリで不遇のうちに生涯を閉じた。 ナポリのジェロラミニ図書館は、パイジエッロの興味深い手稿集を所蔵している。これは同時代の作曲家に対するパイジエッロの見方を書きとめたもので、――とりわけペルゴレージの作品に対して――なかなかきつい評論家だったことが伺われる。.
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ジル・バンショワ
ル・バンショワ(右)とギヨーム・デュファイ ジル・バンショワ(Gilles de BinchoisまたはBins, 1400年頃〜1460年9月20日)はネーデルラントの作曲家でブルゴーニュ楽派初期の一員。15世紀初頭で最も有名だった作曲家の一人。しばしば同世代のジョン・ダンスタブルやギヨーム・デュファイの陰に隠れがちではあるものの、バンショワ作品はしばしば他の作曲家たちによって、作曲の素材として借用されたり引用されたりしていることからすると、おそらく同時代の誰よりも影響力の大きい作曲家だったに違いない。.
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スペイン
ペイン王国(スペインおうこく、Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。.
ソフィア・グバイドゥーリナ
フィア・グバイドゥーリナ(Sofia Gubaidulina, 1931年10月24日 - )は、ソ連邦のタタール自治共和国(現在のロシア連邦タタールスタン共和国)出身の現代音楽の作曲家。ロシア語のキリル文字表記ではСофия Асгатовна Губайдулинаであり、カナで転写すると「サフィーヤ・アスガートヴナ・グバイドゥーリナ」となる。タタール語ではСофия Әсгать кызы Гобәйдуллина (Sofia Äsğät qızı Ğöbäydullina) 。.
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典礼
典礼(てんれい)とは、定まった儀式・儀礼あるいはこれを司る役である。通常はキリスト教(カトリック教会)のそれを指すことが多いが、釈奠典礼とも呼称される儒教の祖孔子を祀る儀礼である釈奠なども一般に典礼と呼ばれる。 本項目ではカトリック教会における典礼、すなわち公的礼拝およびその様式について述べるが、媒体によってはカトリック教会に限定されない術語として「典礼」が用いられる場合もあるため、キリスト教の他教派のものについても部分的に解説する。.
典礼劇
典礼劇 (liturgical drama) は、中世の10世紀から14世紀にかけ、フランスを中心にキリスト教カトリック教会の典礼の中で行われた宗教的な音楽劇である。 ミサや聖務日課、特に朝課や晩課において、10世紀頃より既存の聖歌から派生したトロープスを拡大して行く中で寸劇が演じられるようになった。ラテン語が主であり、修道院の仲間内のためのものであったと思われる。特に復活祭における、空になったキリストの墓でキリストを探すマリアに天使が話しかける『だれを探しているのか』Quem quaeritis が有名で、フランス及びイギリス各地の修道院や教会の写本に残されている。やがて、旧約聖書や新約聖書の様々な部分を材料に多くの種類の典礼劇が作られ、その代表的なものにサン・ブノワ・シュル・ロワールのフルーリー(Fleury)修道院に残されている12世紀の戯曲集があげられる。これらのいくつかには部分的にフランス語も使われているところから、文字を読めない人々に聖書の内容を伝えようとして作られたのではないかとも思われる。 12世紀以降、中世都市が成立すると、舞台も教会内部からその前庭、更には街の広場で行われるようになり、役者も聖職者から一般市民になった。こうして典礼劇は典礼を離れ、近隣の村々の人々も見物する神秘劇として年中行事となり、14世紀から16世紀にかけ規模も拡大して世俗的な演劇としての性格を強める様になった。 オラトリオやオペラなどの音楽劇の源流の一つとして捉えられる。 今日知られている典礼劇は200以上あり、特に12世紀末から13世紀のはじめごろに、北フランスのボーヴェで上演された旧約聖書の予言者を題材にした「ダニエル劇」は、現在、中世音楽として演奏される機会の多いものである。.
四旬節
四旬節(しじゅんせつ、)は、カトリック教会などの西方教会において、復活祭の46日前(四旬とは40日のことであるが、日曜日を除いて40日を数えるので46日前からとなる)の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のこと。 聖公会では「大斎節」と呼び、プロテスタントの教派によっては「受難節」と呼ぶこともある。復活祭は3月22日から4月25日のいずれかの日曜日(年によって一定ではない)なので、四旬節は2月4日から3月10日のいずれかの日に始まる。 正教会では「大斎(おおものいみ)」に相当する。ただし、正教会における大斎の始まりは日曜日日没(教会暦でいう月曜日・教会暦は日没を一日の境目と捉える)であることや、東方教会の復活祭の日付は西方教会と必ずしも一致しないため大斎と四旬節は年によって1週から5週ほどのずれを生じていることなどにより、期間には相違がある。 本項はカトリック教会の四旬節について詳述する。.
器楽
器楽(きがく、instrumental music、musica strumental)とは、楽器の演奏による音楽のこと。声楽の対語である『新訂 標準音楽辞典 ア-テ 第二版』、音楽之友社、2008年新訂第2版、467-468頁「器楽」項。。 楽器と声の両方が用いられる場合もあるが、楽器が中心で部分的に声楽を含む場合(例:ベートーヴェンの交響曲第9番など)は、器楽として扱う『世界大百科事典 6』、平凡社、2007年改訂新版、577-578頁「器楽」項(植村耕三著)。。オペラやオラトリオといった大規模な声楽曲の中では、序曲や間奏曲として器楽が用いられる場合もある『日本大百科全書 6』、小学館、1985年、373-374頁「器楽」項(寺本まり子著)。。.
神秘主義
主義(しんぴしゅぎ、)とは、絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことである。.
福音書
福音書(ふくいんしょ、ευαγγέλιον, ラテン語: Evangelium)は、イエス・キリストの言行録である。通常は新約聖書におさめられた福音書記者による四つの福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書)を意味する。その他にトマスによる福音書などがあるが、正典として認められなかった外典文書である。 日本正教会では福音経(ふくいんけい)とも呼ばれる。これは福音書を、奉神礼において詠まれる祈祷書(経典)の一つでもあると捉える考えに基づいている。.
福音書記者
Karolingische Buchmalereiによる) ハリストス(キリスト)のこと。少年のような姿であるが題名通りハリストスを描いたもの。周りに福音記者を表す4種の象徴が描き込まれている。ロシアの大聖堂のフレスコ画のために準備された絵画。同様の構図をとったイコンがニコライ堂内に掲げられている。 福音書記者(ふくいんしょ・きしゃ、ドイツ語:Evangelist)とは、キリスト教の『新約聖書』に収められている四つの正典『福音書』の記者を指す。従って、伝統的な見地からは4名の福音書記者がいる。『マルコ福音書』のマルコ、『マタイ福音書』のマタイ、『ルカ福音書』のルカ、そして『ヨハネ福音書』の記者ヨハネである。福音史家・福音記者とも。日本正教会では聖人の称号として福音記者もしくは福音者と称される。 現代は、転じて、それら四文書の著者の呼び名として新約聖書学などで使われる一方、キリスト教信仰の現場においては、伝統的な用法も守られている。.
音楽史
この項目では、音楽史(おんがくし)、すなわち音楽の歴史について解説する。.
聖セシリア
リア(2世紀頃、生没年不詳)あるいは聖チェチリアは、キリスト教(カトリック教会・聖公会・正教会)の聖人。特にカトリック教会において有名な聖人であり、音楽家と盲人の守護聖人とされる。記念日は11月22日。 英語ではシシーリア、スペイン語ではセシーリア、イタリア語および中世ラテン語ではチェチーリア、ドイツ語ではツェツィーリア、フランス語ではセシルないしはセシール、古典ラテン語(再建音)ではカエキリア と呼ばれる。日本のキリスト教では、西方教会ではセシリアの表記が一般的カトリック教会、日本聖公会でもセシリア表記が一般的だと考えられる。である他、特にカトリック教会ではラテン語の教会式発音に基づいてチェチリアとも呼ばれる。対して日本のキリスト教の中でも正教会ではキキリヤと呼ばれる。 カエキリア(Caecilia)は、(Caecilii)の女性であることを示す名である。 ローマ皇帝ディオクレティアヌスによってアフリカで刑死した聖セシリア(聖名祝日2月11日)とは別人である。.
聖金曜日
聖金曜日(せいきんようび、Good Friday、Viernes Santo、Vendredi Saint、Karfreitag)は、キリスト教用語で、復活祭前の金曜日のこと。「受難日」、「受苦日」などとも呼ばれる。正教会では「聖大金曜日」と呼ばれる。イエス・キリストの受難と死を記念する日。 福音書の記述をもとにイエスの受難を思い起こす特別な典礼や祈りが行われることが多い。キリスト教では伝統的にイエスの受難と死は自ら選んで行った行為であり、三日目(日曜日)に復活したことで死を克服したとみなしてきた。福音書や種々の資料からイエスの死の日時を特定するのは簡単ではない。資料を読むことで、4月のある金曜日におこったということはわかる。資料の記述をもとに天文学的な分析を行うと、紀元33年4月3日になるという説を唱えるものもいる。 カトリック教会では聖金曜日には断食を行う習慣がある。断食といっても完全な絶食ではないが、大斎と小斎を行うのが一般的である。また聖金曜日は一年間で唯一ミサが執り行われない日でもある。(ただ、前日に保管しておいた聖体を拝領する儀式は行われる。)聖金曜日は復活祭にあわせて移動するが、最も早い場合で3月20日、遅い場合だと4月23日になる。 カトリック教会の聖金曜日の典礼の最大の特徴は司祭と複数の朗読者、さらには会衆全員の参加によるイエスの受難の朗読が行われることである。朗読は通常、『ヨハネによる福音書』からとられている。また荘厳な共同祈願と顕示した十字架への崇敬も行われる。カトリック信徒の多いフィリピンでは、聖金曜日に屋外や通りで大掛かりな受難劇を行うのが伝統となっている。 多くのプロテスタントの教会でもこの日に特別な典礼を行っている。16世紀以降、ドイツのルーテル派教会では一年のうちでもっとも重要な日にして、聖餐を受けるべき日とされ、バッハのマタイ受難曲などが教会で演奏されてきた。この日の讃美歌は、血しおしたたるである。 ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカなどの多くの国々では聖金曜日が国家の祝祭日として休日になっている。アメリカ合衆国では、連邦の祝日にはなっていないが州の祝日として多くの州で定められている。.
譚盾
譚盾(タン・ドゥン、Tan Dun, 1957年8月8日 - )は、現代中国を代表する作曲家である。映画『グリーン・デスティニー』や『HERO』のための映画音楽を作曲し、グラミー賞やアカデミー賞を受賞したことでも有名。.
通奏低音
通奏低音(つうそうていおん)とは、主にバロック音楽において行われる伴奏の形態。一般に楽譜上では低音部の旋律のみが示され、奏者はそれに適切な和音を付けて演奏する。イタリア語のバッソ・コンティヌオ (Basso continuo) の訳語で、伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名がある。略してコンティヌオと呼ぶことも多い。ドイツ語でゲネラルバス (Generalbass) とも呼ばれる。 記譜された音に和音を付け加える和声化の作業をリアライズという。リアライズを補助するために、音符に和音の構成音の記譜音からの音程を示す数字を付けることが一般的であり、これを数字付き低音という。現代では専門教育を受けていない者のためにリアリゼーションを楽譜に書き起こしたものも多く市販されている。 通奏低音の演奏には、オルガン、チェンバロなどの鍵盤楽器や、リュート(テオルボ)、ハープ、ギターなどの撥弦楽器といった和音の出せる楽器が用いられ、しばしばヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ、コントラバス(またはヴィオローネ)、ファゴットなどの低音旋律楽器が併用される。コントラバスやヴィオローネの場合、記譜音の8度下を演奏することが通例である。一般には楽譜に演奏楽器の指定は無く、演奏時にこれらの楽器を任意で選択する。ただし、歴史的には和音楽器と一緒に低音旋律楽器が使われることは限定的であったことに留意しなければならない。イギリスのP.ホールマンによれば「ソナタでこれらの楽器が使われたのは、音楽がオブリガートのバス・パート(コンティヌオのバス・ラインより手がこんでいる)を含むときだったと思われる」という。一方、楽器編成の都合上や古楽の様式に則らない近代的な楽団による演奏では、旋律楽器のみで和音を伴わない楽譜どおりの演奏がなされることもあるが、これは本来の通奏低音の形態からすれば不完全なものといえる。 このような通奏低音という形態は、バロック音楽の根幹をなす要素であり、バロック時代を指して「通奏低音の時代」と称することがある。また、ポピュラー音楽における「コードネーム」の概念にも通じる原理がある。.
枝の主日
ナツメヤシ(聖書の本来の記述は同種) 枝の主日(えだのしゅじつ)は、キリスト教の移動祝日で、復活祭の一週間前の日曜日にあたる。聖週間の初日となる。「枝の主日」はカトリック教会・ルーテル教会での呼び名であるが、正教会でもこの名称を用いることがある。 教派によって呼び方が異なる。正教会での聖枝祭(花の主日)、プロテスタントでの棕櫚の主日に相当する。日本聖公会では「復活前主日」に同様の記念がなされており、これを「棕櫚の主日」と呼ぶこともある。 復活祭に連動して日付が決まるため、復活祭の日付の計算方法が異なる東方教会と西方教会の間で、日付が異なることもあれば、同日になることもある。西方教会では、グレゴリオ暦3月中旬から4月中旬に来ることとなる。東方教会のうち、エパクト計算上ユリウス暦を用いる諸教会では、グレゴリオ暦にすると、西方教会より約1ヶ月(朔望月1回分)遅れる場合(と遅れない場合)があって、3月末から5月上旬となる。 この祝日は、イエス・キリストがロバに跨り、エルサレムに入城したときを記念するものである。ヨハネ福音書では、エルサレムに来たイエスを、群衆がナツメヤシの枝を手に持ち「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13、新共同訳)と叫んで迎えた(フランシスコ会訳では「ホザンナ。ほめ賛えられるように、主の名によって来られる方、イスラエルの王。」)。 そこでこの祝日では、ナツメヤシなどのヤシ科の植物の枝(植物学的には葉)が祝別(聖別)される。しかし、キリスト教会は、ナツメヤシの生育地をはるかに超えて世界的に広がっているため、地方ごとに、ふさわしいとされる、さまざまな樹種の枝葉が用いられている。アルプス以北の西ヨーロッパでは、自生する数少ない常緑樹であるツゲが用いられることが多く、更に寒冷な北ヨーロッパや東ヨーロッパでは、早春に真っ先に芽吹くネコヤナギが用いられる地域が多い。日本でも、温暖な西南日本のカトリック教会では、葉の形状がナツメヤシと似ており、かつよく生育するソテツの葉を用いるところが多い。ソテツの生育できない北日本では、北欧の教会や、東欧の正教会などと同様に、ネコヤナギを用いるところもある。 また、祝別される枝の使用方法は地域によって様々で、美しく編まれて使用されることもある。.
新約聖書
『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。「旧約聖書」「新約聖書」は、新旧の別による「旧いから無視してよい・誤っている、新しいから正しい」といった錯誤を避けるため、旧約聖書を『ヘブライ語聖書』、新約聖書を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはキリストが生まれる前までを旧約聖書、キリスト生誕後を新約聖書がまとめている。.
斉唱
斉唱(せいしょう、英語: Unison)は西洋音楽で用いられる用語で、複数の人が同じ旋律を歌うことをいう。伴奏を伴う場合を含む。これに対し、一人だけが歌う場合を独唱、複数の人がそれぞれ別のパートを歌うことを重唱、複数のパートをそれぞれ複数の人が歌う場合を合唱という。オクターブが異なる場合でも、同じ音を出していれば斉唱とみなされる(女声と男声で同じ音を歌うときなど)。 なお、器楽の場合は斉奏(せいそう)という。 Category:歌 Category:声楽.
10世紀
江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.
1254年
記載なし。
12世紀
アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.
1348年
記載なし。
13世紀
チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.
1400年
14世紀の最後でもある。.
1430年
記載なし。
1440年
記載なし。
1444年
記載なし。
1460年
記載なし。
1465年
記載なし。
1470年
記載なし。
1480年
記載なし。
1483年
記載なし。
1490年
記載なし。
1496年
記載なし。
1497年
記載なし。
1498年
記載なし。
14世紀
ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.
1502年
土曜日から始まる。.
1507年
記載なし。
1510年
記載なし。
1516年
記載なし。
1517年
記載なし。
1522年
記載なし。
1525年
記載なし。
1526年
記載なし。
1528年
記載なし。
1532年
記載なし。
1534年
記載なし。
1538年
記載なし。
1540年
記載なし。
1545年
記載なし。
1548年
記載なし。
1550年
記載なし。
1553年
記載なし。
1559年
記載なし。
1560年
記載なし。
1561年
記載なし。
1562年
記載なし。
1563年
記載なし。
1565年
記載なし。
1567年
記載なし。
1570年
記載なし。
1571年
記載なし。
1575年
記載なし。
1580年
金曜日から始まる。.
1582年
記載なし。
1585年
記載なし。
1589年
記載なし。
1591年
記載なし。
1592年
記載なし。
1594年
記載なし。
1599年
記載なし。
15世紀
大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.
1606年
記載なし。
1611年
記載なし。
1620年
記載なし。
1622年
記載なし。
1636年
記載なし。
1641年
記載なし。
1643年
記載なし。
1646年
記載なし。
1649年
記載なし。
1663年
記載なし。
1666年
記載なし。
1672年
記載なし。
1674年
記載なし。
1681年
記載なし。
1683年
記載なし。
1685年
記載なし。
16世紀
16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.
1703年
記載なし。
1704年
記載なし。
1714年
記載なし。
1716年
記載なし。
1719年
記載なし。
1724年
記載なし。
1739年
記載なし。
1750年
記載なし。
1759年
記載なし。
1767年
記載なし。
1770年
記載なし。
1785年
記載なし。
1788年
記載なし。
17世紀
ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.
1827年
記載なし。
1843年
記載なし。
1872年
記載なし。
18世紀
Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.
1900年
19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.
1933年
記載なし。
1935年
記載なし。
1956年
記載なし。
19世紀
19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.
381年
記載なし。
384年
記載なし。