14 関係: 南部信義、南部信直、南部氏、南部政康、大浦光信、嘉吉、石川高信、田子館、阿部猛、文亀、12月3日 (旧暦)、1442年、1502年、1月11日。
南部信義
南部 信義(なんぶ のぶよし、1462年(寛正3年)阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)、P591 - 1503年6月18日(文亀3年5月24日))は、陸奥の戦国大名南部氏の第21代当主。第20代当主・南部信時の嫡男。官位は修理大夫。子に北致愛がいる阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)、P589。.
南部信直
南部 信直(なんぶ のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての陸奥国の武将、戦国大名。南部氏第26代当主で中興の祖といわれる。.
南部氏
南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.
南部政康
南部 政康(なんぶ まさやす、1461年(寛正2年) - 1507年3月23日(永正4年2月10日)?)は陸奥の戦国大名南部氏の第22代当主阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)、P591。第20代当主・南部信時の次男で、第21代当主・南部信義の兄(弟とも)。官位は右馬頭。通称は彦四郎。.
大浦光信
大浦 光信(おおうら みつのぶ)は、戦国時代の武将。陸奥国種里城主。 延徳3年(1491年)、南部信時は南部久慈氏の一族・南部光信を津軽西浜の種里城(西津軽郡鰺ヶ沢町)に配置し安東氏への押さえとした『弘前市史』。文亀2年(1502年)、光信は大浦城を築き養子・大浦盛信に守らせた。 大永6年(1526年)、種里城で死去。享年67(51とも)。 死後、盛信によって長勝寺に祭られた。なお、遺言として「死後も西の備えたらん」と述べたため、盛信によって甲冑姿のままで埋葬されたと伝えられている。 実子との説もある大浦政信は、津軽家の公称系図では孫(光信の長女・阿久と津軽に来た近衛尚通の間に生まれた)にあたる。.
嘉吉
嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.
石川高信
石川 高信(いしかわ たかのぶ)は、戦国時代の武将。.
田子館
子館(たっこだて)は、青森県三戸郡田子町に存在した日本の城。別称、牛尾館。 東西200m南北120mの規模の平山城。佐々木惣右衛門の居館の佐々木館と、南部一族の居館の前館の二館を総称する。 現在跡地は、佐々木館は畑地、前館は田子中学校の敷地として整地されている。.
阿部猛
阿部 猛(あべ たけし、1928年8月15日-2016年5月27日 )は、日本の歴史学者、元・東京学芸大学学長。.
文亀
文亀(ぶんき)は、日本の元号の一つ。明応の後、永正の前。1501年から1503年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄。.
12月3日 (旧暦)
旧暦12月3日(きゅうれきじゅうにがつみっか)は旧暦12月の3日目である。六曜は友引である。.
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1442年
記載なし。
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1502年
土曜日から始まる。.
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1月11日
1月11日(いちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から11日目に当たり、年末まであと354日(閏年では355日)ある。誕生花はミスミソウ、セリ。.
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