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伏見宮治仁王

索引 伏見宮治仁王

伏見宮治仁王(ふしみのみやはるひとおう 建徳元年(1370年) - 応永24年2月12日(1417年2月28日))は、南北朝時代、室町時代の日本の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮第2代当主。.

25 関係: 南北朝時代 (日本)室町時代宮家宮家一覧崇光天皇世襲親王家三条実治建徳伏見宮伏見宮貞成親王伏見宮栄仁親王後小松天皇応永元服皇族足利義持正親町三条治子日本智久女王智観女王1370年1408年1417年2月12日 (旧暦)2月28日

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮家

宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。 宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。 宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家という。 当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。.

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宮家一覧

宮家一覧(みやけいちらん)は、宮家の一覧。.

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崇光天皇

崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。.

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世襲親王家

世襲親王家(せしゅうしんのうけ)は、江戸時代において、当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた四つの宮家をいう。定親王家ともいう。.

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三条実治

三条 実治(さんじょう さねはる、慶安3年12月6日(1651年2月6日)‐享保9年8月12日(1724年9月28日))は、江戸時代前期から中期の公卿。 おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の三代にわたり仕え、従一位左大臣まで昇る。初名は季房・実通といった。実治は元禄2年(1689年)から薨去までの名前。号は暁心院観照。父は右大臣三条公富。母は不詳。子に左近衛中将三条公兼・権大納言三条公充、娘に彦根藩主井伊直通室がいる。 明暦元年(1655年)に叙爵。清華家三条家の当主として速いスピードで昇進し、寛文8年(1668年)には従三位となり公卿に列している。権中納言、権大納言、神宮伝奏、踏歌節会外弁などを歴任。天和3年(1683年)には霊元天皇中宮鷹司房子の中宮大夫となり、貞享2年(1685年)には右近衛大将を兼務。貞享4年(1687年)に中宮大夫を辞した。元禄6年(1693年)に内大臣に就任したが、同年のうちに右近衛大将と内大臣を辞職。さらに宝永元年(1704年)には右大臣となったが、やはりすぐに辞職している。宝永2年(1705年)に従一位を授与された。正徳5年(1715年)に左大臣となったが、やはりすぐに辞職。享保9年(1724年)に薨去した。享年75。.

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建徳

建徳(けんとく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。正平の後、文中の前。1370年から1372年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後光厳天皇・後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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伏見宮

伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。 第3代貞成親王の第一王子彦仁王(後花園天皇)は嗣子のない称光天皇の猶子となって皇統を継ぎ、この系統が今日の皇室に連なっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。 昭和22年(1947年)昭和天皇の弟である直宮3家を除いたすべての傍系宮家が皇籍を離脱することになったことにともない、第26代博明王が臣籍に下って伏見博明を名乗った。このとき皇籍離脱した11宮家(旧皇族)はいずれもこの伏見宮の系統である。.

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伏見宮貞成親王

伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう、応安5年3月5日(1372年4月9日) - 康正2年8月29日(1456年9月28日))は、室町時代の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮3代目当主。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどう しんのう)。太上法皇としての院号は後崇光院(ごすこう いん)。 現在の皇室と旧皇族11宮家の最後の共通の男系祖先として知られる。著作に『看聞日記』『椿葉記』がある。.

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伏見宮栄仁親王

伏見宮栄仁親王(ふしみのみや よしひとしんのう・榮仁親王、 正平6年(1351年) - 応永23年11月20日(1416年12月9日))は、南北朝時代、室町時代の日本の皇族。崇光天皇の皇子。読み方は「なかひと」とも。 世襲親王家、伏見宮初代当主。伏見殿、有栖川殿などと称する。.

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後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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正親町三条治子

正親町三条 治子(おおぎまちさんじょう はるこ、生年不詳 - 応永5年12月10日(1399年1月25日))は室町時代の女性。伏見宮栄仁親王の御息所で、治仁王(第二代伏見宮)、貞成親王(第三代伏見宮・後崇光院)らの母。後花園天皇の祖母。父は権中納言三条実治。西御方とも。号は陽照院。 はるこ Category:室町・安土桃山時代の女性皇族 はるこ Category:1399年没.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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智久女王

智久女王(ちくじょうおう/にょおう、1417年3月5日〈応永24年2月17日〉 - ?)は室町時代の皇族。女王。伏見宮家第2代当主で崇光天皇の皇孫、伏見宮治仁王の第3王女。幼名ははい。 1433年(永享5年)、近江国(滋賀県)坂本の智恩寺に入室し、同年元応寺で落飾した。1434年(永享6年)、動乱の坂本をさけて京都の大慈院に逃げた。 Category:日本の女王 (皇族) Category:伏見宮 Category:1417年生 Category:没年不明 Category:室町・安土桃山時代の女性皇族.

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智観女王

智観女王(ちかんじょうおう/にょおう、1412年〈応永19年〉 - ?)は室町時代の皇族。女王。伏見宮家第2代当主で崇光天皇の皇孫、伏見宮治仁王の第1王女。通称は鳴滝殿。 1425年(応永32年)、門跡寺院の仁和寺十地院に降嫁し、3年後の1429年(正長2年)に得度する。1431年(永享3年)、十地院主の死によりその所領をついだ。 Category:日本の女王 (皇族) Category:伏見宮 Category:1412年生 Category:没年不明 Category:室町・安土桃山時代の女性皇族.

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1370年

記載なし。

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1408年

記載なし。

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1417年

記載なし。

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2月12日 (旧暦)

旧暦2月12日(きゅうれき 2がつ12にち)、は旧暦2月の12日目である。六曜は先勝である。.

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2月28日

2月28日(にがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦においては年始から59日目にあたり、年末まであと306日(閏年では307日)ある。平年では、この日が2月の末日になる。 日本においては冬であり、本朝七十二候においては多く「霞始めてたなびく」(「かすみが たなびき始める」)に当たる。誕生花はフリージア(アヤメ水仙)とされる。.

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