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ズブツォフ

索引 ズブツォフ

ブツォフの紋章 ズブツォフ(Зубцо́в, Zubtsov)は、ロシアのトヴェリ州南部にある古い町。ヴォルガ川とヴァズーザ川の合流点にあり、州都トヴェリからの距離は南へ153km、ルジェフからは南東へ18km、スターリツァからは南西へ44km。人口は2002年全ロシア国勢調査で 7,430人。.

41 関係: ネリドヴォポーランド・リトアニア共和国モスクワモスクワ大公国リガルジェフレーゼクネロシアロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)ヴァズーザ川ヴイシニー・ヴォロチョークヴェリーキエ・ルーキヴォルガ川トヴェリトヴェリ大公国トヴェリ州ドイツ国防軍アマ (植物)エカチェリーナ2世ザパドナヤ・ドヴィナスターリツァズブツォフ公国サンクトペテルブルク第二次世界大戦生神女就寝大聖堂赤軍新古典主義建築10月11日1216年1247年1485年1605年1612年1776年1801年18世紀1941年1942年19世紀2002年全ロシア国勢調査8月23日

ネリドヴォ

ネリドヴォの紋章 ネリドヴォ(Нелидово, Nelidovo)は、ロシア・トヴェリ州南西部の都市。ヴァルダイ丘陵の南部にあり、西ドヴィナ川の支流メジャ川に沿う。州都トヴェリからの距離は南西へ276km。人口は2002年全ロシア国勢調査で 26,154人(1989年の国勢調査では30,044人であった)。 現在のネリドヴォの近くには1701年ごろからイオトキノの村があった。1900年、モスクワ-ヴェリーキエ・ルーキ-リガ-ヴェンツピルス港間を結ぶ民営鉄道の建設とともにネリドヴォの集落が誕生した。ネリドヴォの名は、15世紀以来この地を拠点とした貴族ネリドフ家に由来し、この鉄道もネリドフ家の土地を通っていた。翌1901年に鉄道が開業し同名の駅ができている。この集落は1949年に市の地位を得た。 ネリドヴォ駅からモスクワのリガ駅までの距離は334kmとなっている。また街の北方には、モスクワ-ヴェリーキエ・ルーキを結びリガに至る高速道路M9が通る。 主な産業は周囲の森林地帯で生産される材木の製材で、その他機械工業、プラスチック加工、食品などの産業が周辺にある。また周囲では褐炭がとれ、市の紋章にも林業と鉱業が反映されている。.

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ポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニアきょうわこく)、正式国称ポーランド王国およびリトアニア大公国(ポーランドおうこくおよびリトアニアたいこうこく、Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie)は、ポーランド王国とリトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年から1795年まで存在した複合君主制国家。18世紀後半には対外的な国称として最も静穏なるポーランド共和国、国内ではジェチュポスポリタ(Rzeczpospolita、共和国)と呼ばれた。また、二民族の共和国という呼称もあるが、1967年のパヴェウ・ヤシェニツァによる造語である。歴史学では「貴族の共和国 (Rzeczpospolita szlachecka) 」や「第一共和国 (I Rzeczpospolita) 」という用語も用いられる。 16・17世紀のヨーロッパ世界においてオスマン帝国に次いで広大な国の1つであった. Retrieved March 19, 2006: At its apogee, the Polish-Lithuanian Commonwealth comprised some and a multi-ethnic population of 11 million. For population comparisons, see also those maps:,. 。.

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モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.

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モスクワ大公国

1390年から1525年にかけてのロシア大公国の領土の変遷 モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、ロシア語: Московское великое княжество モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。モスクワ・ルーシ(Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシ)とも呼ばれる。.

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リガ

リガ、またはリーガ( 、、、Ryga、英語、)は、ラトビア共和国の首都で、同国最大の人口を擁する都市。人口は69万9,203人(2012年時点)。「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町で、その旧市街はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

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ルジェフ

ルジェフ市の紋章 ロシア革命の前のルジェフとヴォルガ川 ルジェフとヴォルガ川 ルジェフ(ロシア語:Ржев;Rzhev)はロシアのトヴェリ州中部の都市。ヴォルガ川の最も上流に位置する街でもある。スターリツァからは南西へ49km、トヴェリからは126km。モスクワとリガを結ぶ鉄道および国道の途中にある。人口は63,729人(2002年国勢調査)で、トヴェリ州では2番目に大きい。 ルジェフはこの地方でもトロペツと並んで古い都市であり、ルジェフは歴史記録(ノヴゴロド法)への初出を1019年であると主張する一方、トロペツ側はルジェフの名がはっきりと記録に登場するのは、有名なトロペツ公でアレクサンドル・ネフスキーの祖父でもあるムスティスラフ・ムスティスラヴィチがルジェフを領地としていた時代(1216年)にすぎないと主張する。どちらにせよ、中世のルジェフはノヴゴロド公国、スモレンスク公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国という三大国の争奪する土地として重要だった。 モンゴルの襲来の後、ルジェフはスモレンスク公の傍系の家系に譲られ(ルジェフ公国)、その都となった。ルジェフ公は後に町を二分した。現在でもルジェフの町は「ドミトリー公側」と「フョードル公側」と呼ばれている。14世紀半ば、ルジェフは西のリトアニア大公国と東のトヴェリ大公国の両方から何度も攻められ、ルジェフ公らは周囲の村をすべて失った。最後には公らはモスクワへ逃れた。その子孫であるルジェフスキー家はロシアのアネクドートでよく取り上げられる滑稽なキャラクターとなっている。ルジェフは一時トヴェリ領となったものの、後にポーランド・リトアニア共和国に占領され、最終的にモスクワ大公国の領地となった。 18世紀には主に古儀式派の信者である地元の商人たちが町の不動産のほとんどを買い取った。彼らは後にロシア革命が起こると攻撃の的となった。第二次世界大戦では、1942年、モスクワ近郊へ追いつめられた赤軍がドイツ軍に対して反攻に出、ルジェフとヴャジマへ向かって進軍を始めた(ルジェフの戦い)。この戦いでルジェフ付近のみを残してソ連軍が前線を西へ押し返し、さらにルジェフに残ったドイツ軍の突出部に対して再度攻撃が行われた(第二次ルジェフ会戦)。激しい戦いでルジェフの建物は全て消滅した。大戦中、市の人口の6分の1以上がドイツに送られ強制労働をさせられ、その他の市民のうち9,000人は射殺されたり拷問を受けたり市の中心に設けられた収容所で飢えたりして死んでいった。これらの戦いのため、古い建物は何も残っていない。.

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レーゼクネ

中世の古城跡 レーゼクネ駅 レーゼクネ(Rēzekne)はラトヴィアの都市。人口は約3万6千人(2006年)。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)

ア・ポーランド戦争 (Polish-Muscovite War) は17世紀初頭(1605年から1618年)にロシア(モスクワ国家、ロシア・ツァーリ国)で起こった一連の戦争である。 モスクワ国家が「動乱時代」(大動乱、スムータ)と呼ばれる無政府状態に陥り内戦で引き裂かれた時期、ポーランド・リトアニア共和国(国王の軍ではなく、貴族階級であるマグナートたちが率いる私兵と傭兵)がロシアに東進し、内戦に介入し始めた。 その戦況や、ポーランド・ロシア双方の戦争目的は何度も変化した。当初、1609年までポーランド・リトアニア共和国はロシアと公式な戦争状態になっておらず、ロシア内部のさまざまな武装勢力がポーランドやその他の国の軍を味方につけながら相互に戦っている状態であった。スウェーデン(ヴァーサ朝)も大動乱に介入し、ロシアとの間で(1610年 - 1617年)を戦い、ロシアの味方に回ったり敵に回ったりした。戦争目的も、小規模な国境争いから、ロシアの正統なツァーリを僭称する者をポーランドが後押ししてロシアのツァーリに即位させようとする画策、ポーランド・リトアニアとロシアの連合国家を作ろうという野望まで様々に変わった。.

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ヴァズーザ川

ヴァズーザ川(ヴァズザ川、Вазу́за, ラテン文字表記: Vazuza)は、ロシアのスモレンスク州からトヴェリ州へ流れる河川で、ヴォルガ川上流の右支流である。長さ162キロメートル、流域面積は7,120平方キロメートル。 スモレンスク高地の北を水源としており、下流にはダムが設けられ、77キロメートルにわたり広がるヴァズーザ貯水湖になっている。川沿いの主な町にはスモレンスク州のスィチョーフカ、トヴェリ州のズブツォフがある。ズブツォフでヴォルガ川とヴァズーザ川は合流している。 Category:ロシアの河川 Category:ヴォルガ川水系 Category:トヴェリ州 Category:スモレンスク州.

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ヴイシニー・ヴォロチョーク

ヴイシニー・ヴォロチョークの紋章 ヴイシニー・ヴォロチョーク(ヴイシニー・ヴォロチェク、;Vyshny Volochyok)はロシアのトヴェリ州の都市。1471年の文献には登場している古い街である。またモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道や国道が通る。人口は56,405人(2002年国勢調査)。 ヴイシニー・ヴォロチョークは州都トヴェリの北西119kmにある。ヴァルダイ丘陵の南東側に位置し、ムスタ川を経てイリメニ湖へと流れるが流れる。近くにはヴォルガ川の支流でトヴェリへ流れるトヴェルツァ川の源流があり、バルト海水系とヴォルガ川水系の接点となっている。 ヴイシニー・ヴォロチョークの町並み 街の名前はロシア語で「上流部の」を意味する。バルト海方面からツナ川を遡ってきた船乗りは、ここで船と荷物を陸に揚げて歩いて運び、トヴェルツァ川で下ろしてヴォルガ川流域へと進んでいた。こうした交易路は、ヴァリャーグ(ヴァイキング)たちの時代にはスカンジナビアとビザンチン帝国とを結ぶ毛皮などの貿易経路であった。 モスクワからサンクトペテルブルクへ遷都したピョートル1世は、新首都や西ヨーロッパとロシア内陸部とを結ぶため1703年からこの地で運河建設を行い、繊維産業が集積するなど街の発展につながった(→ヴォルガ・バルト水路)。この運河は19世紀初頭まではロシアの二大都市を結ぶ主要な水運路となっていた。 19世紀半ばにはモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が通り、ヴイシニー・ヴォロチョークは両都市の間の主要駅として繁栄した。.

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ヴェリーキエ・ルーキ

ヴェリーキエ・ルーキ(ヴェリキエ・ルキ、ロシア語:Великие Луки;ラテン文字表記の例:Velikiye Luki、Velikie Luki)は、ロシア連邦のプスコフ州南部の町。蛇行しながら流れるロヴァチ川の河畔にある。街の名は、「大きな蛇行」という意味。人口は104,979人(2002年国勢調査)で、プスコフ州では2番目に大きな都市であり、ヴェリーキエ・ルーキ空港もある。南にはロシアとベラルーシの国境がある。.

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ヴォルガ川

最上流の町・ルジェフ周辺(1909年から1915年頃のカラー写真) ヴォルガ川流域 ヴォルガ川(ヴォルガがわ、 ヴォールガ)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部(ヨーロッパ・ロシア中心部)を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。.

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トヴェリ

トヴェリ(p)はヴォルガ川に面するロシア連邦の都市。トヴェリ州の州都。人口は376,400人(2004年)。ロシア有数の古い歴史を持つ都市。ヴォルガ川とトヴェルツァ川との合流点にある。モスクワより北西に170km。モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道、および高速道路M10が通る。 1931年から1990年までは、革命家ミハイル・カリーニンに因んでカリーニン(Калинин, Kalinin)と呼ばれていた。.

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トヴェリ大公国

トヴェリ公国 / トヴェリ大公国(Тверское княжество / Великое княжество Тверское)はトヴェリを首都として成立した、ルーシの諸公国の一つである。1247年に分領公国として成立し、のちに大公国を称した。1485年にモスクワ大公国に組み込まれて消滅した。.

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トヴェリ州

トヴェリ州(Тверская область)は、モスクワの北西にある中央連邦管区を構成する州(オーブラスチ)のひとつで、人口147万人。中堅都市トヴェリを州都とする。その他の都市にはトルジョーク、オスタシコフ、カシンなどがある。.

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ドイツ国防軍

ヘルメットにデカールされていた紋章 1941年、国防軍の陸軍歩兵下士官 ドイツ国防軍(ドイツこくぼうぐん、Wehrmacht)は、1935年から1945年にかけて存在したドイツの武力組織である陸軍、海軍、空軍の三軍の総体を指す。国家唯一の武装者(独:Waffenträger der Nation)と定義される存在であったが、当時のドイツにはナチス党の組織である武装親衛隊など管轄外の武装組織も存在していた。 1935年の再軍備宣言後は徴兵制が復活し総兵力が50万人になり、ポーランド侵攻直前の兵力は318万人と世界でも屈指の規模であった。.

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アマ (植物)

アマ『ケーラーの薬用植物』から アマ(亜麻、学名:Linum usitatissimum)は、アマ科の一年草。ヌメゴマ(滑胡麻)、一年亜麻、アカゴマなどの異称もある。その栽培の歴史は古い(リネン#歴史も参照)。日本では江戸時代に種を薬として使うために限られた範囲で栽培され、明治から昭和初期にかけて繊維用に北海道で広く生産された。 茎の繊維は、衣類などリネン製品となる。種子からは亜麻仁油(あまにゆ、リンシードオイル、フラックスシードオイル)が採れ、これは食用や塗料、油彩に用いられる。.

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エカチェリーナ2世

チェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、、1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(在位:1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))。夫はピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン(秘密結婚)、子はパーヴェル1世ほか。 プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝 (ヴェリーカヤ)(Вели́кая)と称される。 帝政時代にが発行していた100ルーブル紙幣の肖像に描かれていたほか、沿ドニエストル共和国のが発行する500沿ドニエストル・ルーブルにも描かれていた。 日本では従来「エカテリーナ」の表記が多かったが、近年は原音により忠実な「エカチェリーナ」の表記が普及してきた。また、ドイツ語や英語由来の「カタリーナ」(Katharina II.)、「カザリン」、「キャサリン」などの表記も散見する。.

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ザパドナヤ・ドヴィナ

パドナヤ・ドヴィナ(За́падная Двина́, Zapadnaya Dvina)は、ロシアのトヴェリ州西部にある町。ヴァルダイ丘陵の南西の縁、ダウガヴァ川(西ドヴィナ川)の上流の右岸にあり、町の名も「西ドヴィナ」にちなむ。 州都トヴェリからの距離は南西へ321km。人口は2002年全ロシア国勢調査で 10,212人。 1900年、モスクワ-リガ-ヴェンツピルス港間を結ぶ民営鉄道の建設にともない集落が誕生した。西ドヴィナ川を鉄道が渡ることから、駅名と集落の名は「西ドヴィナ」(ザーパドナヤ・ドヴィナー)となった。この集落は1927年に都市型集落となり、1937年に市の地位を得た。 第二次世界大戦では1941年10月6日からドイツ国防軍に占領されたが、赤軍のトロペツ=ホルム反攻により、1942年1月21日に赤軍北西戦線が奪還した。 モスクワのリガ駅からの距離は378kmである。またモスクワ-ヴェリーキエ・ルーキを結びリガに至る高速道路M9が街を通る。主な産業は林業、製材、食品などとなっている。.

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スターリツァ

ターリツァの紋章 スターリツァ(ロシア語: Старица; Staritsa)はロシアのトヴェリ州の都市。ヴァルダイ丘陵の東部に位置し、ヴォルガ川の上流にスターリツァ川が合流する街で、トヴェリからは南西へ77km。人口は9,125人(2002年国勢調査)。最寄りの鉄道駅は12km離れたところにあり、モスクワ・サンクトペテルブルク間の幹線からリホスラヴリで分かれトルジョーク=ルジェフ=ヴャジマを結ぶ支線上にある。.

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ズブツォフ公国

ブツォフ公国(Зубцовское княжество)は、トヴェリ大公国に属した分領公国である。首都はズブツォフであり、途中の断絶を含めて1319年から1460年の間に存在した。 公国は1319年、トヴェリ公ミハイルの遺言に従って形成された。すなわち、1318年にミハイルがジョチ・ウルスにおいて刑死したのち、トヴェリ公国領がその息子たちに分割継承されたうちの1つがズブツォフ公国である。ミハイルの子の1人であるアレクサンドルが、ズブツォフ、ゴロドク、ホルム、ミクリン等の諸都市を含むトヴェリ公国の南西部を受領し、首都をズブツォフに置いたのが公国の始まりである。 1339年、アレクサンドルがジョチ・ウルスにおいて息子のフョードルと共に処刑されると、ズブツォフ公国は未亡人となったアナスタシヤと、残りの息子たちに受け継がれた。後に最年長のフセヴォロド(ru)が治める、ホルムとゴロドクを有するホルム公国と、次いで年長のミハイルが治める、ミクリンを首都とするミクリン公国が分離した。ズブツォフ公国は、アナスタシヤと年少者であったウラジーミル、アンドレイ兄弟によって引き続き統治された。また、ズブツォフ公国は1360年に、カシン公系統のトヴェリ大公ヴァシリーと和平条約を締結した(一方、ミクリン公国のミハイルはヴァシリーとの政権闘争を繰り広げた)。 1364年から1365年にかけてトヴェリ地方を襲ったペストによって、アナスタシヤをはじめ、ウラジーミル、アンドレイ、ホルム公位にあったフセヴォロドが相次いで死亡した。唯一生き残ったミハイルがこれらの遺領を相続し、ズブツォフ公国をトヴェリ大公国へ組み込んだため(この時期、ミハイルはトヴェリ大公ヴァシリーとの権力闘争を制し、トヴェリ大公位を有していた。)、ズブツォフ公国は一時消滅した。なおホルム公国はフセヴォロドの子が相続・存続している。 1426年、トヴェリ大公ユーリー(上記のミハイルの曾孫)が死亡した後に、ズブツォフ公国が再び分離した。それはユーリーの後を継いだボリス(ru)が、ユーリーの子・イヴァンに継がせたものと考えられているТверские (великие и удельные князья) // Русский биографический словарь: в 25 томах.

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サンクトペテルブルク

'''サンクトペテルブルク周辺の人工衛星写真'''ラドガ湖から南西に流れ出したネヴァ川は北西に流路を変え、フィンランド湾最深部に流れ込む。サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した。 サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург,, IPA: )は、バルト海東部のフィンランド湾最東端に面するネヴァ川河口デルタに位置するロシア西部の都市、レニングラード州の州都。1917年までロシア帝国の首都であった。 都市建設ののち、第一次世界大戦まで(1703年 - 1914年)はペテルブルク(Петербург)、第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)はペトログラード(Петроград)、ソビエト連邦時代(1924 - 91年)はレニングラード(Ленинград)と呼ばれた。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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生神女就寝大聖堂

ラー写真。 生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう、Dormition Cathedral)は、生神女就寝祭を記憶する正教会の大聖堂。ロシア語 Успенский Собор (ウスピェーンスキー・サボール) の前半部のカタカナによる転写からウスペンスキー大聖堂あるいはウスペンスキー寺院とも呼ばれる。これは「永眠」を意味するロシア語 успение, Успение (ウスピェーニエ) に由来する。従って、ロシア語に代表されるスラヴ語圏とは別の言語系統圏に属する正教会であるグルジア正教会、ルーマニア正教会、ギリシャ正教会などでは生神女就寝大聖堂のことを「ウスペンスキー大聖堂」とは呼ばす「生神女就寝」を表す各々の国語での表記を用いる。 世界各地に存在する同名の大聖堂を下記の一覧に挙げる。大聖堂以外の修道院や通常の聖堂で生神女就寝を記憶するもののごく一部も下記の一覧に若干掲載する。.

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赤軍

赤軍(せきぐん、ロシア語:Красная армия クラースナヤ アールミヤ)は、1918年から1946年にかけてロシアおよびソビエト連邦に存在した軍隊。1917年より始まったロシア内戦の最中に労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん、Рабоче-крестьянская Красная армия ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ、略称:労農赤軍、РККА エールカーカーアー)として設立され、1937年に海軍が赤軍から独立した後はソ連の地上軍(陸軍)を指す呼称となった。.

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新古典主義建築

新古典主義建築(しんこてんしゅぎけんちく、Neoclassical Architecture)は、18世紀後期に、啓蒙思想や革命精神を背景として、フランスで興った建築様式。ロココ芸術の過剰な装飾性や軽薄さに対する反動として荘厳さや崇高美を備えた建築が模索されたが、やがて19世紀の歴史主義、様式濫用の中に埋没した。 パンテオン たんなる古代の復興にとどまらず、当時の政治情況とも関連していた。ルイ15世の時代を中心に展開したロココ様式の官能性や通俗性に対し、論理的で厳粛な、啓蒙的性格をもつ様式におきかえようとする動きが広がっていった。その後、革命運動をへてフランスとアメリカに共和国が樹立されると、古代ギリシャや共和政時代の古代ローマ民主主義との結び付きから、新政府の指導者たちは公式の美術として新古典主義を採用した。しかしナポレオンがフランスで権力の座につくと、この様式はナポレオンの宣伝効果をあげるためのものに変質する。またロマン主義の台頭にともない、個人的な表現に対する好みが固定的な理想的価値観にもとづく美術にとってかわることになった。 新古典主義という名称は、その格式ばった様式に対する蔑称として19世紀に考案された呼び方である。また、ナチスやファシスト党において、国家的モニュメントに新古典主義が採用されたため、その歴史的意義について否定的な見方をされることもある。 しかし、18世紀にこの様式が勃興した当初は「真の様式」と呼ばれ、古代または始源に存在したとされる真理を再生・復興することを目的とした画期的な建築運動であった。美を具現する唯一の様式としてイギリス、ドイツ諸国に波及したという意味で一種の普遍性があり、その建築思想はモダニズム建築にも受け継がれている。.

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10月11日

10月11日(じゅうがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から284日目(閏年では285日目)にあたり、年末まであと81日ある。.

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1216年

記載なし。

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1247年

記載なし。

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1485年

記載なし。

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1605年

記載なし。

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1612年

記載なし。

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1776年

記載なし。

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1801年

19世紀最初の年である。.

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18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

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1941年

記載なし。

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1942年

記載なし。

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19世紀

19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.

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2002年全ロシア国勢調査

2002年全ロシア国勢調査票(簡易調査プログラム) 2002年全ロシア国勢調査(Всеросси́йская пе́репись населе́ния 2002 го́да)は2002年10月9日から10月16日まで、ロシア連邦民およびロシア連邦内の外国人・無国籍者を対象に連邦国家統計局が行った国勢調査。 国際連合の基準では国勢調査の間隔は10年であるが、先回の国勢調査は共産党時代で、1989年1月に行われた。 この調査には48億ルーブルかかった。.

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8月23日

8月23日(はちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から235日目(閏年では236日目)にあたり、年末まであと130日ある。.

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