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コンスタンス1世

索引 コンスタンス1世

コンスタンス1世 コンスタンス1世(Constans I, 320年/323年頃 - 350年)は、ローマ帝国の共同皇帝(在位:337年 - 350年)。全名は、カエサル・フラウィウス・ユリウス・コンスタンス・アウグストゥス。 コンスタンティヌス1世とファウスタ(マクシミアヌス帝の娘)の間に三男として生まれるが、母親は不義密通の罪で処刑された。宦官が取り仕切る宮廷内で2人の兄とともに育てられ、337年に死去した父親の葬儀はコンスタンティノポリスで行われたが、滞在地の距離から参加しなかった。葬儀のしばらく後で、コンスタンティノポリスにいる親族は粛清されることとなる(首謀者はおそらく次男コンスタンティウス2世)。この後、3人の息子は会談を行い、揃って即位した。主にイタリア本土、パンノニア、ダキア、北アフリカなどを統治していたが、後に長兄のコンスタンティヌス2世から北アフリカの割譲を求められる。しかし340年、侵攻してきたコンスタンティヌス2世をアクィレイア近くで打ち破る。 コンスタンティヌス2世が統治していたブリタンニア、ガリア、ヒスパニアなどを引き継ぐが、自身も、配下の将軍、マグネンティウスに反旗を翻され、350年、捕われ殺害される。没年齢は30歳前後とされる。 コンスタンス1世はオリュンピアス(Olympias、325年 - 361年)と結婚。子供はいない。オリュンピアスはFlavius Ablabiusの娘。Ablabiusの妻(オリュンピアスの母、310年生誕)はコンスタンティウス1世の娘の一人(コンスタンティヌス1世の異母妹の一人)アナスタシア(293年頃から314年までは存命)とその夫バッシアヌス(316年没)の娘である。Ablabiusの妻には姉が一人いる(名はファウスタ?、307年生誕。オリュンピアスの伯母)。つまり、オリュンピアスはコンスタンティウス1世の曽孫でコンスタンティヌス1世の従姪孫、コンスタンス1世の従姪でもある。コンスタンス1世の死後、アルメニア王アルサケス2世と再婚したが、子供はいない。 オリュンピアスの伯母ファウスタ?は大グラティアヌス(290年 - 367年)と結婚。ウァレンティニアヌス1世・ウァレンス兄弟の母となり、この兄弟からウァレンティニアヌス朝が始まる。ウァレンスの子孫は皇妃アルビア・ドミニカとの1男2女(ウァレンティニアヌス・ガラテス(366年 - 370年)、アナスタシア、カロサ)しか確認できないが、ウァレンティニアヌス1世の子孫は少なくとも6世紀の終わりから7世紀初めまで存続した。 Category:ローマ皇帝 Category:コンスタンティヌス家 Category:4世紀の古代ローマ人 Category:イタリアの幼君 Category:320年代生 Category:350年没 Category:暗殺された人物.

34 関係: マグネンティウスローマ帝国ブリタンニアパンノニアヒスパニアダキアアルビア・ドミニカアクイレイアウァレンティニアヌス1世ウァレンティニアヌス朝ウァレンスガリアコンスタンティノープルコンスタンティヌス1世コンスタンティヌス2世コンスタンティウス2世コンスタンティウス・クロルス290年293年307年310年314年316年320年323年325年337年350年361年366年367年370年6世紀7世紀

マグネンティウス

マグネンティウス フラウィウス・マグヌス・マグネンティウス(Flavius Magnus Magnentius, 303年 - 353年8月11日)は、ローマ帝国の帝位簒奪者(350年 - 353年)である。弟にデケンティウスがいる。 コンスタンス1世を殺害し帝位に就く。弟デケンティウスを副帝(カエサル)に任命し、自らは正帝を名乗った。しかしコンスタンス1世の共同皇帝コンスタンティウス2世と対立し、351年にコンスタンティウス軍とムルサの戦いで敗れ、イタリアへ敗走し、353年8月11日リヨンで自殺した。そしてそれを告げられたデケンティウスも翌朝8月12日、首を吊った姿で発見された。 コンスタンティウス2世・コンスタンス1世兄弟の父コンスタンティヌス1世の異母弟フラウィウス・ユリウス・コンスタンティウスと最初の妻ガッラ(ガラ)の娘の一人とユストゥスという男性との間に生まれたユスティナを妻としていた。マグネンティウスとユスティナの間には子供は無く、ユスティナはマグネンティウスの死後、ウァレンティニアヌス1世と再婚。ウァレンティニアヌス2世、グラタ、ユスタ、ガッラ(ガラ)の1男3女を儲け、ウァレンティニアヌス朝の一員となる。子女のうち、ガッラはテオドシウス1世の後妻となり、グラティアヌス、ガッラ・プラキディア、ヨハネスの2男1女の母となる。ガッラ・プラチディアの子にウァレンティニアヌス3世がおり、テオドシウス朝の一部を形成した。この血筋は少なくとも6世紀の終わりまで存続している。 Category:4世紀の古代ローマ人 Category:自殺した人物 Category:303年生 Category:353年没.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ブリタンニア

茶色がブリタニアの領域 ブリタンニア(Britannia)は、古代ローマが現在のイギリス南部に設置した属州の一つ。また属州の置かれた島(現在のグレートブリテン島)とその周辺の小群島をも指す。住民は主にケルト系ブリトン人で、属州化以降ローマ人やガリア人、ゲルマン人が主に兵士として渡来した。ローマの支配は40年から410年まで及び、現在のイングランド南部を中心にローマ化が進んだ。五賢帝の一人ハドリアヌスが北部からの蛮族の侵攻を食い止めるために築いたハドリアヌスの長城が有名である。.

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パンノニア

パンノニア(Pannonia)は、古代に存在した地方名。ローマ帝国の時代には皇帝属州であった。北と東はドナウ川に接し、西はノリクムと上イタリア、南はダルマティアと上モエシアに接した。パンノニアの領域は現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがる。 今日では、パンノニアという地名は、ハンガリーのトランスダニュービア地方(Transdanubia、ハンガリー語:Dunántúl)およびセルビア等に広がるパンノニア平原を指して使われる。.

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ヒスパニア

ーマ帝国初期の行政区分 ヒスパニア(Hispania)は、イベリア半島(現在のスペインとポルトガルや、アンドラ・ジブラルタルの領域)の古名である。なお、スペインの現代語での名称(España、Espanha、Espagne、Spagna、Spain、Spanien、Испания、إسبانياなど)は全てこのヒスパニアを語源とする。.

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ダキア

ダキア(ラテン語:Dacia)は、古代中央ヨーロッパの一地域で、ダキア人とゲタエ人が居住していた地域を指す。ほぼ現在のルーマニアの国土(より正確には「大ルーマニア」と呼ばれた時代の国土)にあたり、東はティサ川、西はハンガリー、南はドナウ川、北はカルパチア山脈の森林地帯までの地域となる。ルーマニアでは同様の表記で「ダチア」と読む。.

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アルビア・ドミニカ

アルビア・ドミニカ(Albia Dominica, 337年頃 - 378年以降)は、ローマ皇帝ウァレンスの皇妃。.

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アクイレイア

アクイレイア(Aquileia、Acuilee)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約3500人の基礎自治体(コムーネ)。 ローマ時代に建設された古代都市を起源とし、中世初期まではイタリア北東部の中心都市であった。繁栄を極めた当時の遺跡は、世界遺産「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」として登録されている。.

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ウァレンティニアヌス1世

ウァレンティニアヌス1世(Valentinianus I, 321年 - 375年11月17日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:364年 - 375年)でウァレンティニアヌス朝の創始者。またウァレンティニアヌス大帝とも。.

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ウァレンティニアヌス朝

ウァレンティニアヌス朝は、ウァレンティニアヌス1世、ウァレンス、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス2世の4人、もしくはこれに379年から東方正帝となったテオドシウス1世を含め5人のローマ皇帝から成る364年から392年のローマ帝国の王朝である。王朝の創始者であるウァレンティニアヌス1世・ウァレンス兄弟の母(名はファウスタとされる)はコンスタンティヌス朝に属するコンスタンティウス1世とその後妻テオドラの孫娘(2人の娘の1人アナスタシアの子)である為、コンスタンティヌス朝とは女系という形で血縁関係がある。故に兄弟はコンスタンティウス1世・テオドラ夫妻の曾孫で、コンスタンティヌス1世の大甥、クリスプスやコンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世、コンスタンティウス・ガッルス、フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスの従兄弟甥にあたる。.

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ウァレンス

フラウィウス・ユリウス・ウァレンス(Flavius Iulius Valens, 328年 - 378年8月9日)は、ローマ帝国の皇帝(在位364年 - 378年)。兄ウァレンティニアヌス1世より帝国東部を任されて、共同統治した。ハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死した。.

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ガリア

リア()とは、ガリア人(ケルト人の一派)が居住した地域の古代ローマ人による呼称。古典ラテン語での正確な発音は「ガッリア」。フランス語では (ゴール)。 具体的には現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたる。元来の「ガリア」はイタリア半島北部であったため、地域(地理上の概念)としての「ガリア」とローマの属州(行政区画)としての「ガリア」とは同一ではない。 近代にはフランスの雅称として使われるようになる。現代ギリシャ語の「ガリア」(Γαλλία) は、フランスのことである。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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コンスタンティヌス1世

アヤソフィアのモザイク画:聖母子にコンスタンティノポリスの街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大) ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語:、272年2月27日 - 337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年 - 337年)。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。 ミラノ勅令を発布したことでキリスト教を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会では、聖人とされている。記憶日は、その母太后聖ヘレナと共に6月3日。日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称される。 1950年にギリシャで発行された旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。.

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コンスタンティヌス2世

ンスタンティヌス2世 コンスタンティヌス2世(Constantin II, 316年 - 340年)は、ローマ帝国の共同皇帝(在位:337年 - 340年)。全名はカエサル・フラウィウス・クラウディウス・コンスタンティヌス・アウグストゥス。.

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コンスタンティウス2世

ンスタンティウス2世(Constantius II, 317年8月7日 - 361年11月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:337年 - 361年)。当初は帝国を3分割して東方を担当したが、353年に単独の統治者になった。キリスト教を優遇し、猜疑心の強さから粛清をたびたび行なった。父帝コンスタンティヌス1世と同様、熱心なキリスト教徒であったが、父帝とは反対にアリウス派を支持し、司教アタナシウスを迫害した。.

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コンスタンティウス・クロルス

フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス(Flavius Valerius Constantius、250年3月31日 - 306年7月25日)は、ローマ帝国の皇帝(305年 - 306年)。コンスタンティウス1世とも。一般に χλωρός, Chloros(Chlorus)クロロス(クロルス、「青白い」という意味のギリシア語)と呼ばれているが、これは後の東ローマ帝国時代の歴史家たちが付けたあだ名である。コンスタンティヌス1世の父で、コンスタンティヌス朝の創始者である。 "Marcus Flavius Valerius Constantius", "Valerius Constantius", "Gaius Valerius Constantius", and "Gaius Fabius Constantius" have been found on inscriptions (March 31 c. 250–July 25 306) was an emperor of the Western Roman Empire (305–306).

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290年

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293年

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307年

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310年

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314年

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316年

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320年

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323年

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325年

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337年

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350年

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361年

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366年

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367年

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370年

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6世紀

地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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