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播磨国

索引 播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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疾風の軍師 -黒田官兵衛-義民が駆ける義教真島郡真念庵真田信安真殿 (赤穂市)猪子兵助猪早太県民性絶海中津瑤泉院生谷温泉生野の変生野奉行生野県産経新聞大阪本社田原藩田安徳川家田捨女田村建顕田沼意知甲州屋忠右衛門申年がしん町田久倍熊野三山本願所熊沢蕃山畠山義堯畠山義就畠山高政畠山持国畠山政国畿内畿内・近国の戦国時代牧尚春片栗粉片桐且元片桐貞隆牛尾幸清牛尾梅吉牛頭天王狭井檳榔益田兼堯益田正親益田持正盤珪永琢直心影流剣術相伴衆相生市相良長頼瀬川合戦瀬川正長瀬戸内地方瀬戸内海瀬戸内海式気候白河藩白洲次郎白旗城百済王敬福隠山惟えん芦屋河原の合戦花山院師賢花岳寺花畠教場芳村正秉銅鐸音水ちくさ県立自然公園蟹坊主鎌倉文化鞆の浦遠阪峠聖徳太子道の駅杉原紙の里・多可道会道摩法師荘園 (日本)荒木又右衛門荒木村重荒木政羽鍋島茂綱鍛冶華族ゆかりの人物・団体菅原峯嗣菅原道真菅原淳茂菅原是善菅屋長頼菅正利萬勝寺萱野重実青垣町青山幸利青山忠成青山・土器山の戦い青木一矩青木重兼預地須磨区須磨浦山上遊園須磨浦公園駅須恵器衣笠景延行基願譜代顕如顕宗天皇衛府の七忍飯山藩飯豊青皇女飯舘村飾磨県飾磨郡飾西郡飾東郡装束司西尾忠受西尾忠尚西尾忠雅西区 (神戸市)西園寺実顕西光寺 (竹田市)西光寺山西国三十三所西郷近房西脇市西脇市図書館西脇都市圏西条藩西条陣屋西村真太郎西播丘陵県立自然公園西播磨饗応役馬憑き観応観応の擾乱香川修徳香西元載香西元成香林院角川源義駒ケ根駅駅家調田坐一事尼古神社調略誉津別命諸国牧諸国百物語高句麗五部高家寺高尾太夫高山右近高屋城の戦い高島正澄高師冬高井几董高知県の文学史高石左馬助高砂 (相撲)高砂国高田城高田吉次高田藩高畑城高顕寺高槻藩高橋赳太郎高橋殿高木正府請西藩鬼邑山城魚吹八幡神社魚住景固魚住景貞魚町 (姫路市)讀賣テレビ放送谷衛友谷衛好谷衛弼谷衛秀谷衛量谷衛憑豊地城豊前国豊竹嶋太夫豊臣秀吉豊臣秀長豊臣政権貞鏡院貫名菘翁鳥取城鳥取県鳥取県庁鳥取藩鳥居忠英鳥居忠求鳥居耀蔵鳥羽藩鳥養部賀茂 (能)賀茂郡賀茂郡 (播磨国)賀陽豊年鴨子ケ原鴨川ダム越後騒動越前家 (島津氏)越前国越前松平家鶏足寺 (姫路市)足助藩足守地域足守藩足利尊氏足利冬氏足利義尊足利義将足利義満足利義澄足利義持足利義晴足利直冬足利直義鶴見内蔵助鶴林寺 (加古川市)鷲尾義久鷹司師平鷹司冬家鷹司冬通鷹司兼平鷹司房平踊り首鹿嶋神社 (高砂市)鹿谷鹿野城鹿野藩車谷長吉軍師 黒田官兵衛伝軍師官兵衛黒田城黒田孝高黒田利則黒田利高黒田熊之助黒田直之黒田職隆黒田高政 (戦国時代)黒田重隆黒田長政黒田氏黒田治宗黒田斉隆黒田斉清黒部亨黒木実利黒手龍野藩辻密太郎辻元すう庵迦摩多追手町近代以前の日本の人口統計近代以前の日本の都市人口統計近代社格制度近国近畿地方近衛忠嗣近衛兼嗣近衛道嗣近衛道経近藤正純近江宮川藩霞城霞町茨木城茶臼山城 (播磨国)蜂屋頼隆蜂須賀家政蜂須賀正勝茅野常成郡寺郡山藩都道府県舞子六神社鈴木練三郎鈴木重秀船坂峠船尾昭直船岡山合戦船上城船越景直興良親王阪神地区公共図書館協議会防長三白阿仏尼阿知使主阿部正由阿部正能阿部正耆阿部正桓阿閉貞征阿波藍阿曇百足蘇我馬子赤埴重賢赤井家清赤井忠家赤穂市赤穂事件赤穂事件の人物一覧赤穂御崎温泉赤穂郡赤穂藩赤穂鉄道鵤荘赤松則尚赤松則祐赤松則繁赤松則村赤松則房赤松祐高赤松範資赤松義則赤松義祐赤松義雅赤松義村赤松町 (神戸市)赤松直頼赤松貞範赤松村秀赤松正満赤松正澄赤松氏赤松氏範赤松満則赤松満祐赤松満直赤松満政赤松滄洲赤松持貞赤松朝範赤松政之赤松政元赤松政則赤松政秀赤松政範赤松政直赤松政茂赤松教康赤松教政赤松晴政鵜崎庚午郎関口氏暁関ヶ原の戦いの戦後処理関西テレビ放送関西独立リーグ関長道関成煥関政富間光興門部王 (天武天皇裔)藍村藤原基経藤原定家藤原定能藤原家成藤原仲実藤原伊周藤原俊成女藤原忠隆藤原忠通藤原園人藤原公房 (小野宮流)藤原純友藤原経季藤原経家 (権中納言)藤原経輔藤原経通藤原為輔藤原為時藤原盛兼藤原盛重藤原登任藤原隆信藤原道明藤原頼通藤原行成藤原顕隆藤原高藤藤原邦綱藤原量子藤原長実藤原長房藤原良基藤原泰憲藤原朝忠藤原朝隆藤原惺窩藤原文脩藤原懐平藤井高雅藤井茂太藤井松平家藩札鑓場の戦い蒲田神社 (大阪市)股野琢那須資親那波活所肥塚龍肥後の駒下駄肥後国肥前国邑久郡蓬莱氏脇坂安坦脇坂安実脇坂安宅脇坂安弘脇坂安利脇坂安利 (旗本)脇坂安元脇坂安種脇坂安照脇坂安親脇坂安興脇坂安董脇坂安村脇坂安治脇坂安清脇坂安斐脇坂安政脇坂安教脇坂氏脇屋義治野口城野口一成野口幽香野口冬長野尻精一野中兼山野々山氏野田文一郎野見宿禰野間城重兵衛茶屋重源釣り針里見忠義金姫金子家忠金屋子神金剛證寺金甲山送信所長吏 (賎民)長壁神社長井基孝長井貞頼長倉氏長谷川秀一長船町福岡長門国長門警固番役長沼流酒井忠学酒井忠実酒井忠宝 (姫路藩主)酒井忠宜酒井忠交酒井忠以酒井忠仰酒井忠得酒井忠全酒井忠節酒井忠績酒井忠直酒井忠道酒井忠顕酒井忠香酒井忠質酒井忠興酒井忠邦酒井忠恭酒井忠惇酒井忠敬酒井氏酒井文子酔いどれ小籐次留書鉢伏山 (兵庫県神戸市)良如良岑衆樹英賀城英賀合戦英賀神社苅萱雨月物語雪村友梅雷獣雑戸雄略天皇速鳥進士氏院政期文化陣屋陰山豊洲陰陽師の一覧陰陽連絡路線陳和卿陸上交通事業調整法JR西日本キハ189系気動車SHOCK EYE柏原長宅柏原新之丞柳生家厳柳生心眼流柳沢安弘柳沢淇園柳本賢治柴原亀二柴原和柴任三左衛門柴田鳩翁柿本神社 (明石市)染井霊園枝吉城林一吉林忠旭林元善林神社 (明石市)林秀貞林為忠林田林田藩林直利掛川藩恵慶恋ひうた 和泉式部異聞揖保川町揖保乃糸揖保郡揖西郡揖東郡東のエデン東大寺大仏殿の戦い東寺文書東巌慧安東勝寺合戦東西遊記東条城 (曖昧さ回避)東海道本線優等列車沿革東播磨南北道路松原忠司松原氏松右衛門帆松居久次郎松岡青蘿松岡鼎松岡映丘松平宗矩松平康英松平康映松平庸直松平忠弘松平忠和 (上田藩嫡子)松平忠固松平忠国松平忠国 (播磨国明石藩主)松平忠栄 (亀山藩嫡子)松平忠明松平信之松平信重松平光重 (戸田松平家)松平光長松平直基松平直きよ松平直常松平直之 (明石藩主)松平直徳松平直周松平直矩松平直純松平直静松平直致松平直泰松平直明松平直方 (母里藩主)松平頼幸松平頼策松平頼縄松平頼隆松平頼説松平頼永松平頼済松平頼明 (常陸府中藩主)松平近栄松平氏松平清道松平朝矩松平明矩松平斉宣松平斉善松平斉典松平斉韶松平慶憲松囃子松田元成松村介石松殿師家松永市松江藩松本荘一郎松本藩板宿八幡神社杜氏村山藩村上市村上備中入道村上藩村国志我麻呂村米制度村松茂清杉原家次杉原紙栗山利安桐山信行桃山文化桃井直常桑名城桑名藩桂蔵坊梶原景時梶原景時の変梶井基次郎梅嶺院梛神社棚倉藩森可敦森三信森三隆森一鳳森俊韶森俊滋森俊春森忠徳森忠哲森忠儀森忠典森忠貫森忠賛森忠興森忠洪森忠政森忠敬森快温森長孝森長俊森長国森長篤森長継森長義森長生森長直森長記森氏森政房植村家壷植木屋曽吉楠葉牧楠木正成楠木氏榊原康政榊原伊織榊原忠次榊原氏榊原政岑榊原政倫榊原政祐榊原政純榊原政邦榊原政房横山義祐横川景三横田孝史横河民輔樽屋樽屋与左衛門橘徳子橘入居橘公頼橘澄清橋本家橋本関雪櫻井治男櫛橋伊定櫛橋伊家櫛橋伊光櫛橋伊範櫛橋伊高櫛橋伊朝櫛橋光櫛橋則伊櫛橋貞伊櫛橋氏櫛橋政伊正保郷帳正福寺 (兵庫県新温泉町)正親町実連正楽寺武市瑞山武内維積武田元光武田政義武蔵の里武蔵坊弁慶段ヶ峰母里友信毛屋武久毛利元就 誓いの三矢毛利元秋毛利元氏毛利煕元毛利高政毛利氏 (藤原氏)水田氏水無月祓 (能)水谷勝隆水谷氏水野忠之永井直幹永井直亮永井直養永井直敬永谷天満宮永正の錯乱江原親次江南道江〜姫たちの戦国〜江村専斎江戸時代の日本の人口統計池田徳潤池田忠継池田忠雄池田利隆池田利政池田喜生池田喜長池田喜通池田光仲池田光政池田勝正池田由之池田頼方池田輝興池田輝澄池田輝政池田薫彰池田邦照池田重利池田重政池田長明池田長政池田長教池田恒元池田恒行池田武憲池田氏池田政周池田政種池田政綱池田政直池田政直 (福本藩主)池田政親池田政貞 (利隆三男)池田政武池田政済池氏決戦III河原城河合宗元河合道臣河合耆三郎河崎祐長河内国司河童の妙薬河西郡河野神社河野教通河東郡油仕法油問屋治承・寿永の乱沼本房家泊神社棟札波多野宗長波多野秀治波賀城史跡公園法如法美郡法道法華寺 (姫路市御国野町御着)法輪寺 (姫路市)洞松院津山藩津軽信政淡路国淡路瓦淡路洲本藩淡河城淡河定範淡河町 (神戸市)淤宇宿禰深井信恭渡辺氏清原夏野清光院清玄町清閑寺清水徳川家清水行宗渋川春海減封湊川の戦い湯原温泉湛如源平討魔伝源伊陟源俊実源光 (公卿)源義仲源義経源義朝源頼季源頼俊源頼義源頼治源頼朝源行家源顕親源良清源雅信源通親源満季源時中溝口直信溝口直治溝口直溥滝山城 (摂津国)滝川忠征滝川具挙滝川元長滝野瓢水濱本八治郎服部武雄朝鮮通信使朝来市朝来群山県立自然公園朝来町木嶋坐天照御魂神社木下家定木下延俊木下延重木下勝俊木下重堅木下氏木鼠吉五郎木梨元次木津の磨崖仏木曾三社神社木曾氏末期養子本多忠可本多忠堯本多忠孝本多忠居本多忠刻本多忠国本多忠義本多忠辰本多忠肇本多忠鄰本多忠良本多忠英本多忠明本多忠方本多忠政本多忠敬 (山崎藩主)本多勝行本多重貞本多正重本多氏本多日生本多政均本多政信本多政利本多政勝本多政長 (郡山藩主)本多政朝本太城本禅寺本貫本郷義則本能寺の変本間宗久月照寺 (明石市)月百姿挑文師按察使有職読み有馬元家有馬光隆有馬則頼有馬則氏有馬義祐有馬道純有馬豊氏有馬重則有馬氏久有馬持家惣年寄成功 (任官)成田氏戦国大名戦国大名 (ゲーム)戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜戸川安清戸倉峠戸田忠寛戸田忠昌戸田氏戸田氏定戸沢光盛戸沢氏明徳の乱明和の法論明石明石 (曖昧さ回避)明石の御方明石レッドソルジャーズ明石入道明石則実明石国明石町 (東京都中央区)明石焼明石覚一明石郡明石藩明石正風明珍火箸明泉寺 (神戸市)明済明智光秀流 (博多)流罪浦上浦上宗景浦上久松丸浦上則宗浦上則景浦上国秀浦上玉堂浦上誠宗浦上村宗浦上氏浦上政宗海城 (城郭)海老名氏浜田彦蔵浜田藩浜言葉浜松藩浄土寺 (小野市)浄運寺 (たつの市)浄教寺 (岡山市)浅川陣屋浅井政貞浅見又蔵浅野長友浅野長矩浅野長祚浅野長照浅野長直浅野長賢 (旗本)浅野長恒浅野長武浅野長治浅野長澄浅野長政浅野氏斎藤一斎藤鎮実斎村政広新城藩新史太閤記新宮町 (兵庫県)新宮藩新田分知新田義貞新田貞時施福寺斑鳩寺 (兵庫県太子町)文石小麻呂文観日向国日岡神社日岡陵古墳日中関係史日勇日笠頼房日置忠俊日田藩日本の合成地名一覧日本の合戦一覧日本の地名の略表記一覧日本の華族一覧日本の貿易史日本一周 (田山花袋)日本ダム史年表日本遺産日本語の方言日本酒の歴史日本陸軍の管区と部隊旧国郡別石高の変遷旧高旧領取調帳早田宮早水満尭旗本寄合席旗本札旗振り通信摩氣神社摂津国摂津有馬氏摂播五泊播州の秋まつりシリーズ播州の秋祭り播州三木打刃物播州弁播州ラーメン播州赤穂駅播州薬師霊場播但図書館連絡協議会播但鉄道播但連絡道路播磨播磨の国一揆播磨十水播磨中部丘陵県立自然公園播磨平野播磨広域連携協議会播磨八薬師霊場播磨国の式内社一覧播磨国地震播磨国分寺播磨国内鎮守大小明神社記播磨国風土記播磨灘播磨灘物語播磨科学公園都市播磨稲日大郎姫播磨町播磨道交法播磨西国三十三箇所播磨鑑播磨臨海工業地帯播磨自動車道播磨新宮藩播磨拳児播竜山孝晴悪党支藩改野耕三改易攻殻機動隊愚堂東寔愛知県出身の人物一覧敵討教信慶円 (天台宗)承平天慶の乱承保打出浜の戦い曽根天満宮曾我蕭白性空性海寺 (姫路市)怪火景徳館景光智徳法師智福寺智暹智洞10世紀1187年11月14日 (旧暦)1350年1415年1427年1521年1531年1597年1610年1613年1647年1656年1659年1667年1668年1680年1694年16世紀17世紀18世紀2月2日3月20日832年868年 インデックスを展開 (2050 もっと) »

功名が辻 (NHK大河ドラマ)

『功名が辻』(こうみょうがつじ)は、2006年1月8日から12月10日に放送された45作目のNHK大河ドラマである。.

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加古川7人殺害事件

加古川7人殺害事件(かこがわ 7にんさつがいじけん)とは、2004年(平成16年)8月2日、兵庫県加古川市西神吉町大国で、無職の男F(犯行当時47歳)に、両隣に住む親類ら、2家族の男女8人が刺され、7人が死亡した大量殺人事件『朝日新聞』2004年8月2日夕刊1面「民家2軒で7人殺害 親類の男に殺人容疑で逮捕状 兵庫・加古川」『朝日新聞』2004年8月2日夕刊13面「7人殺害容疑の男、近所トラブル重ね 兵庫・加古川【大阪】」『朝日新聞』2004年8月2日夕刊15面「親類・近所とトラブル 容疑者、刃物持つ姿も 兵庫の7人殺害」。.

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加古川城

加古川城(かこがわじょう)は播磨国印南郡加古川村(兵庫県加古川市加古川町本町)にあった日本の城(平城)である。現在、城跡は称名寺となっている。.

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加古川市

加古川市(かこがわし)は、兵庫県の市。特例市に指定されており、東播磨地方の中核都市として機能している。兵庫県東播磨県民局に区分される。.

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加古郡

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加納藩

加納藩(かのうはん)は、江戸時代の日本で、美濃国厚見郡加納(現在:岐阜県岐阜市加納)を本拠地にして、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)を領土とした藩である。藩庁は加納城。.

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加美町 (兵庫県)

加美町(かみちょう)は、兵庫県中部にかつて存在した町。 2005年11月1日、中町・加美町・八千代町の3町が合併し、多可町となったため消滅した。 多可町において、旧加美町域に地域自治区として「加美区」が設置された。.

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加西市

加西市(かさいし)は、兵庫県の南部に位置する市。 地域的には東播磨(東播)または北播磨(北播)であるが、兵庫県北播磨県民局に区分されている。 キャッチコピーは、「花、ゆめ、根日女(ねひめ)」。.

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加西郡

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加藤光泰

加藤 光泰(かとう みつやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。.

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加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。.

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加藤政貞

加藤 政貞(かとう まささだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。尼子氏の家臣。.

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加東市

加東市(かとうし)は、兵庫県の播磨地方の東側に位置する市で、兵庫県北播磨県民局に区分されている。.

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加東郡

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城山城 (播磨国)

城山城(きのやまじょう)は、正平7年/文和元年(1352年)に赤松則祐が築城した播磨国の山城である。兵庫県たつの市の亀山(きのやま)(標高458m)の山頂にあった。 元々この山には663年の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて築城した古代山城があった。.

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城主大名

城主大名(じょうしゅだいみょう)とは、近世江戸時代における大名の格式の一つであり、大名家をその居地・居城で区別する国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)の5階級のうち、国許の屋敷に城が認められている大名をいう。その他、大名統制には、並大名が諸大夫(従五位下)である官位が四品(従四位下)以上に叙任される家格であったり、伺候席によって区別されていた。慶応3年(1867年)で151家。 享保2年(1717年)の『武家諸法度』によると、城主は櫓・塀・門以下は届出をし許可を得たうえで補修することが可能で、石塁・石壁が壊れたときは奉行に報告し、その差図を受けることとなっていた。このことから徳川幕藩体制下における城の定義は石垣の上に塀と櫓を有しているものとされていた。城主の領知の居地を居城といい、陣屋に居地を置く在所と区別して表現した。.

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垂井式アクセント

垂井式アクセント(たるいしきアクセント)は、近畿地方周縁部や福井県の一部、富山県などに分布する日本語のアクセントの総称。服部四郎が岐阜県垂井町で発見し、このように命名した。 ただ、「垂井式」という名称は十分に定着したものではなく、学者によって異なる呼称が使われることがある。金田一春彦は「京阪式アクセント(ちがう方向に変化している)」や「型の区別の少い京阪式アクセント」と呼んでおり、京阪式アクセントの変種として扱っている。.

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垂水区

垂水区(たるみく)は、神戸市を構成する9行政区の一つで、同市の南西部に位置する。明石海峡大橋の起点がある。 西区と同様に全域が播磨国明石郡に属していた。須磨区との境を流れる小川は元来摂津国との国境であることから「境川」と呼ばれる。ただし、須磨区須磨ニュータウン西部は垂水区から割譲された地域で播磨国に含まれる。.

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垂水牧

垂水牧(たるみのまき).

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お夏清十郎

『お夏清十郎』(おなつ せいじゅうろう)は、寛文2年 (1662年) に播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品の通称・総称。『お夏狂乱』(おなつ きょうらん)ともいう。.

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たたら製鉄

たたら製鉄(たたらせいてつ、英:Tatara)とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った清永 1994, p. 1453.

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たつの市

たつの市(たつのし)は、兵庫県の南西(西播磨県民局)に位置する市である。龍野市に旧揖保郡3町が合併。.

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たつの市立新宮中学校

たつの市立新宮中学校(たつのしりつ しんぐうちゅうがっこう)は、兵庫県たつの市新宮町にある公立中学校。西播学区に属す。略称は「新中」(しんちゅう)など。.

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ため池

ため池(ためいけ、溜池、溜め池)とは主に農業(灌漑)用水を確保するために水を貯え、取水設備を備えた人工の池のことである。その目的のために新設したり、天然の池沼を改築した池を指す。.

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のん (女優)

のん(1993年7月13日 - )は、日本の女優、ファッションモデル、芸術家、歌手。本名および旧芸名、能年 玲奈(のうねん れな)。 兵庫県神崎郡神河町出身。身長166cm。 デビューからレプロエンタテインメントに所属し本名の能年 玲奈(のうねん れな)で活動、2016年7月より独立しのんの芸名で活動する。.

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はりま酒文化ツーリズム

はりま酒文化ツーリズム(はりまさけぶんかつーりずむ)とは平成24年5月29日に播磨地域の7市8町が対等協力の立場で団結し発足し、同年8月30日には北播磨5市1町が加わり、また2014年4月22日の総会で明石市の加盟が承認され、旧来の播磨国をほぼ網羅する13市9町で構成される播磨広域連携協議会が、「播磨は日本酒のふるさと」を地域ブランドとして播磨の魅力を世界に発信するため、播磨地域4酒造組合と連携して日帰りバスツアーや滞在型ツアーの実施等に取り組む活動である。.

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みなと銀行

株式会社みなと銀行(みなとぎんこう、英称:The Minato Bank, Ltd.)は、兵庫県神戸市に本店を置く第二地方銀行。兵庫県下で最大規模の店舗網を有する地域金融機関である。関西みらいフィナンシャルグループの子会社。.

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みのり

みのりとは、.

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がまかつ

GAMAKATSU PTE LTD(がまかつ)はシンガポールに本店を置く、釣り竿、釣り針や専用ウェアなどを中心とした釣具の開発・製造・販売を行う会社である。1955年創業。.

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がんばれゴエモン2

『がんばれゴエモン2』(がんばれゴエモンツー)は、1989年(昭和64年)1月4日にコナミから発売されたファミリーコンピュータ用アクションアドベンチャーゲーム。『がんばれゴエモン』シリーズの第2弾で、『がんばれゴエモン!からくり道中』の続編。 2012年1月24日にはWiiのバーチャルコンソールで、2014年1月8日にはニンテンドー3DSのバーチャルコンソールで、2015年3月11日にはWii Uのバーチャルコンソールで、それぞれ配信された。.

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がんばれゴエモン〜ゆき姫救出絵巻〜

『がんばれゴエモン ゆき姫救出絵巻』(がんばれゴエモン ゆきひめきゅうしゅつえまき、英題:The Legend of the Mystical Ninja)は、1991年7月19日にコナミから発売されたスーパーファミコン用ゲームソフト。スーパーファミコン版の『がんばれゴエモン』シリーズ第1弾。.

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ふとん太鼓

堺型ふとん太鼓(写真は大阪府堺市堺区 西湊太鼓台 約1.7トン)。布団の頂上四隅にある縛り紐は湧き立つ雲を表すというhttp://www.kobe-du.ac.jp/wp-content/uploads/2009/11/003.pdf 太鼓台でアジアを結ぶ杉浦康平、神戸芸術工科大学、2008 難波神社の布団太鼓。摂津名所図会(18世紀)より。太鼓の叩き手となった子供は投げ頭巾をかぶり、商家の軒先では担ぎ手に西瓜をふるまっている。ト書きには、太鼓の音は雷のように大きく、周に伝わるという韓人(中国人)太鼓も及ばないだろうとある ふとん太鼓(ふとんだいこ)とは大阪府河内・泉州地方や、兵庫県播磨・淡路その周辺で担がれる大型の太鼓台のことである。祭りの飾り山車の一種であり、形状的な最大の特徴は、正方形の巨大な布団を屋根にあたる部分に逆ピラミッド型に積む点にある。布団だんじり、布団神輿、布団屋台などとも呼ばれる。 重さは1.0t~2.0tあり、約50~70人ほどで毎年各神社の祭礼で派手な演出と共にいきおいよく担がれている。現在では少なくなったが戦前は一カ所の神社で約10台以上、宮入されていた所(開口神社、菅原神社)もある。.

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いとうみき

記載なし。

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いなみ野ため池ミュージアム

いなみ野ため池ミュージアム(いなみのためいけミュージアム)とは全国で21万箇所あるため池の中で、全国で一番ため池の多い兵庫県(約5万弱)の、東播地方のため池を1つの展示物としてみたてたため池郡全体を範囲として見立てたユニークな博物館である。 ため池の環境を保存すべく以下に述べる広域的な協議会により積極的な活動を行い親水や保全・研究活動が行われている。2010年(平成22年)3月25日いなみ野ため池ミュージアムとして農林水産省のため池百選に選定されるとともに、文化庁の「文化的景観180カ所」や地球環境関西フォーラムの「関西自然に親しむ風景100選」、「疏水百選」に選定、「近代化産業遺産」にも認定されている。.

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いまいち萌えない娘

いまいち萌えない娘(いまいちもえないむすめ / いまいちもえないこ)は、神戸新聞社がアルバイトの募集を行った際に求人広告の問題として掲載された図を初出とする、あひる座りでツインテール、セーラー服とおぼしき衣装、ニーソックスを特徴とするキャラクターの通称。.

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うちのトコでは

『うちのトコでは』は、もぐらによる日本の漫画作品。略称は「うちトコ」。県民性を題材とした漫画。著者のサイト内で描かれている『四国四兄弟』が始まり。単行本は飛鳥新社から出版された。 本項では基となったwebコミック『四国四兄弟』および本書に登場するキャラクターを使用した同じ作者によって描かれた書籍『見とこ、行っとこ、トコトコシリーズ』についても扱う。.

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さくら銀行

株式会社 さくら銀行(The Sakura Bank, Limited)は、かつて存在した都市銀行である。三井銀行が太陽神戸銀行を合併し、さくら銀行への商号変更を前提に1990年4月1日に発足した太陽神戸三井銀行(たいようこうべみついぎんこう)を経て、1992年4月1日にさくら銀行に商号変更した。 行章は桜の花びらをモチーフにし、1990年4月1日から2001年3月31日まで使用された。 2001年4月1日に住友銀行に吸収合併され解散。住友銀行は株式会社 三井住友銀行に商号変更した。.

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かつめし

かつめし(「りんどう」加古川) かつめしは、洋皿に盛ったご飯の上にビフカツ(または豚カツ)をのせ、たれ(主にドミグラスソースをベースとしたもの)をかけ、ゆでたキャベツを添えた料理で、兵庫県加古川市の郷土料理・ご当地グルメである。かつめしの呼称が定着しているが、カツライスと呼ばれることもある。.

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かご坂皇子

関係略系図(表記・記載は『日本書紀』による) 麛坂皇子(かごさかのみこ/かごさかのおうじ、生年不詳 - 神功皇后元年2月)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「麛坂皇子」や「麛坂王」、『古事記』では「香坂王」と表記される。 第14代仲哀天皇皇子で、応神天皇との間での対立伝承で知られる。.

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十市遠清

十市 遠清(とおち/とおいち とおきよ、生年不詳 - 明応4年10月13日(1495年11月8日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。十市遠栄の子。八田遠勝の兄。子に遠相、遠為等。孫に遠治。大和十市城主。幼名は加賀寿丸。官位は播磨守。 永享12年(1440年)に父が自殺し、嘉吉2年(1442年)、室町幕府管領畠山持国の取りなしで十市氏の家督を継いで遠清と名乗った。遠清は播磨守を称し、興福寺に重用され寛正2年(1461年)には羽津黒井・草川両庄の検断職に任じられ、弟の遠勝を八田氏の養子に入れる等着実に勢力を拡大していった。独自の立場を維持する目的から当時の大乗院門跡経覚と筒井氏の内乱及び畠山氏のお家騒動には中立の立場を取っていた(持病説もあり)。 文正元年(1466年)11月、成身院光宣・筒井順永と越智家栄の対立を和解させたが、翌年に応仁の乱が勃発した。 遠清は筒井氏らと共に京都で東軍に属して行動したが、大和に転戦して越智家栄、古市澄胤らと戦った。文明3年(1471年)、楊本城を攻めて楊本範満父子を殺害すると楊本庄を押領、後に龍王山城を築く元を作った。同年8月、嫡男の遠相に家督を譲る。 ところが、文明9年(1477年)9月に畠山義就が河内に侵攻、越智氏も大和を制圧した為、遠清父子は筒井順尊・箸尾為国らが大和から逃れた後も十市城に留まったが、文明11年(1479年)、次男の遠為が西軍に通じたことから遠為を討ったが、やはり大和を去っていった。 以後、勢力回復を試みたが、筒井氏と共に逼塞する事態が続き、延徳3年(1491年)に遠相に先立たれ、4年後に自身も世を去った。後は孫の遠治(遠相の遺児)が継いだ。 Category:室町時代の人物 Category:戦国武将 Category:大和国の人物 とおきよ Category:生年不明 Category:1495年没.

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十三人の合議制

十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)は、源頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制である。嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の原型とされる。 正治元年(1199年)正月13日に源頼朝が急逝すると、嫡子の源頼家は20日に左中将に任じられ、26日には朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第二代鎌倉殿として頼朝の地位を継承した。頼家は大江広元らの補佐を受けて政務を行うが、4月12日に頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった。『吾妻鏡』には頼家が従来の慣例を無視して恣意的判断を行ったという挿話が並べられているが、真偽は不明である。頼家を立てることで政治を主導しようとする頼朝側近(大江広元・中原親能・梶原景時)に対する他の有力御家人の不満・反発も要因として考えられる。なお、この合議制導入は頼家独裁の抑制とするのが一般的な解釈であるが、13人全員で合議された例はなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もある(川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年)。 正治元年(1199年)に梶原景時が失脚、正治2年(1200年)に安達盛長と三浦義澄が病死したことで合議制は解体し、頼家政権も権力抗争の果てに崩壊することになる。.

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十三人の刺客 (小説)

『十三人の刺客』(じゅうさんにんのしかく)は、谺雄一郎作・池宮彰一郎原案の日本の書き下ろし時代小説。.

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十八松平

十八松平(じゅうはちまつだいら)は、松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。徳川宗家を含める場合もある。家康の祖父・松平清康までの庶家に限定する場合もある。また、十四松平ともいわれる。 「十八松平」は、「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたという説があり、十八という数は実数ではないとも指摘される。.

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十六夜日記

『十六夜日記』(いざよいにっき)は、藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記。中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『東関紀行』)のうちの一つ。内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書くなど他の女流日記とは大きく趣きを異としている。鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重である。一巻。大別すると鎌倉への道中記と鎌倉滞在期の二部構成。弘安6年(1283年)ころ成立か。 阿仏尼自筆の原本は下冷泉家(安土桃山時代まで播磨国細川庄を伝領していた公家)に伝来していた。 成立当初、作者はこの日記に名前をつけておらず、単に『阿仏日記』などと呼ばれていたが、日記が10月16日に始まっていることを由来として後世に現在の名前が付けられた。.

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印南郡

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卜部兵吉

卜部 兵吉(うらべ へいきち、嘉永6年(1853年) - 昭和元年(1926年)12月30日)は、明治・大正期の日本の商人、江井ヶ嶋酒造株式会社創業者。.

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千姫

千姫(せんひめ)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。.

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千馬光忠

『義士四十七図 千馬三郎兵衛光忠』(尾形月耕画) 千馬 光忠(せんば みつただ、承応2年(1653年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は、三郎兵衛(さぶろべえ)。.

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千葉県知事一覧

千葉県知事一覧(ちばけんちじいちらん)は、千葉県の知事を務めた人物の一覧。.

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千早城

千早城と周辺地域の空中写真/国土航空写真 千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にある日本の城。国の史跡に指定されている。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。楠木七城の一つ。.

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千早城の戦い

千早城の戦い(ちはやじょうのたたかい)は、1333年(元弘3年、正慶2年)に後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦。千早城は上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城である。.

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南部信鄰

南部 信鄰(なんぶ のぶちか)は、江戸時代後期の旗本、のち陸奥国七戸藩(盛岡新田藩)の初代藩主。.

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南条宗勝

南条 宗勝(なんじょう そうしょう)は、戦国時代の武将。伯耆羽衣石城主。なお宗勝は入道号である。実名については宗元あるいは宗光とも伝えられていたが、近年の研究により、実名は国清といい、のちに元清と改めていたことが判明した。.

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古市胤子

古市 胤子(ふるいち たねこ、天正11年(1583年) - 万治1年(1658年)6月27日 )は江戸時代初期の女官。本姓は清原氏。幼名はおちやちや。従三位。 父は大和国の武将駒崎城主播磨守古市胤栄で、母は関白近衛前久の娘桂光院(渓江院)殿。初め、室町幕府15代将軍義昭の子義尋(高山、義広)に嫁し、以下二子を儲けた。.

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古代山城

古代山城(こだいさんじょう)は、古代日本の山城。九州地方北部から瀬戸内地方・近畿地方にかけて分布する。 従来に「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」・「神籠石(こうごいし)」と呼び分けられてきた2種類の遺跡群の総称として、近年使用される考古学用語である。.

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古田重然

織部作と伝わる南宗寺庭園(国の名勝) 古田 重然(ふるた しげなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。.

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古河藩

古河藩(こがはん)は、下総(現在の茨城県古河市)に存在した藩。藩庁は古河城。.

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司馬達等

司馬 達等(しば だっと・しば たちと・しば の たちと・しめ たちと、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。氏姓は鞍部村主(くらつくりのすぐり)あるいは鞍師首。子に鞍作多須奈(くらつくりたすな)、孫に仏師鞍作止利がいる。.

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取揚島

取揚島(とりあげじま)は日生諸島に属する無人島。 兵庫県赤穂市と岡山県備前市との境界にまたがり、県境が島内にある。赤穂港の沖合わずか500mに位置し、島の西方ではノリの養殖が行われている。.

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受領功過定

受領功過定(ずりょうこうかさだめ)とは、平安時代中期に太政官において行われた任期を終えた受領に対する成績審査。除目や叙位の際に参考資料とされた。.

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名和神社

名和神社(なわじんじゃ)は、鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社で、名和長年を祭る。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社である。社紋は、名和氏の家紋の帆懸船である。 鳥居 楼.

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名神大社

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.

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名谷町

名谷町(みょうだにちょう)は、兵庫県神戸市垂水区にある町名。郵便番号は655-0852。平成17年10月1日現在の世帯数は4,008、人口は男性4,149、女性4,515で合計8,664。.

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吉川友兼

吉川 友兼(きっかわ ともかね)は、鎌倉時代の武士、御家人。吉川氏2代当主。.

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吉川元春

吉川 元春(きっかわ もとはる) / 毛利 元春(もうり もとはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利元就の次男。母は吉川国経の娘・妙玖。同母の兄弟に兄の毛利隆元、弟の小早川隆景、その他異母の兄弟が多くいる。 父・元就によって藤原南家の流れを汲む安芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で相続した。以後、毛利両川の一人として、弟の隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げ、主に山陰地方の司令官として貢献した。.

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吉川経基

吉川 経基(きっかわ つねもと)は、戦国時代の武将。安芸国の国人・吉川氏11代当主。.

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吉川経光

吉川 経光(きっかわ つねみつ)は、鎌倉時代中期の武士、御家人。吉川氏4代当主。 仁治元年(1240年)に父吉川朝経が死去。この時の経光の年齢は49歳であり、それ以前に家督を相続していたと思われる。事実、経光は承久3年(1221年)の承久の乱でも鎌倉幕府側として参戦しており、京都の宇治橋の戦いにて戦功を挙げ、本領の駿河国吉河荘、播磨国揖保郡福井荘に加えて、安芸国大朝荘の地頭職に任ぜられた。 経光の子らが安芸吉川氏、石見吉川氏、播磨吉川氏、駿河吉川氏、境吉川氏の祖となった。.

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吉川経高

吉川 経高(きっかわ つねたか)は、鎌倉時代末期の武士、御家人。吉川氏5代当主。事実上の安芸吉川氏の祖である。安芸国駿河丸城主。.

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吉川氏

吉川氏(きっかわし)は、藤原南家工藤流の流れを汲む日本の氏族。.

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吉川温泉

吉川温泉(よかわおんせん)は、兵庫県三木市吉川町吉安(旧国播磨国)にある温泉。地下1500mより湧出する温泉は炭酸含有量日本一である神戸新聞読者クラブ「奥様手帳」2009年12月号P14。.

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吉川朝経

吉川 朝経(きっかわ ともつね)は、鎌倉時代の武士、御家人。吉川氏3代当主。.

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吉備品遅部雄鯽

吉備 品遅部 雄鯽 (きび の ほむちべ の おふな)は、日本古代の豪族。仁徳天皇の舎人(とねり)であろうと想定される。.

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吉備国

吉備国(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な勢力の一つだった。 別名は、吉備道(きびのみち、きびどう)、備州(びしゅう)。.

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吉備津彦命

吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。.

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吉美侯部

吉美侯部(きみこべ)または吉弥侯部(きみこべ)、は古代日本における部民およびその氏である。 『六国史』(『類聚国史』の補分を含む)には吉弥侯部や吉弥侯を氏とする人物の記述が時折見られる。『続日本紀』では公民や官人としての君子氏や君子部氏、吉弥侯部氏、吉弥侯氏が記載されているが、類聚国史の「俘囚」の項には多くの吉弥侯部氏や吉弥侯氏が俘囚として記録されており、『続日本後紀』以降では俘囚以外にも賊首や賊主としての吉弥侯部氏、吉弥侯氏の記録がある。これら六国史の実際の記載としては「陸奥国俘囚」「陸奥国賊首」「出羽国俘囚」「常陸国俘囚」「甲斐国俘囚」「甲斐国賊主」「越中国俘囚」「摂津国俘囚」「播磨国俘囚」「伊予国俘囚」「安芸国俘囚長」「因幡国俘囚」「出雲国俘囚」「豊前国俘囚」「豊後国俘囚」とされているが、その殆どは何らかの功を挙げ位階を賜った記事となっている。これらの人物の中には、尾張国、駿河国、阿波国へ移配された者もあった。 また「陸奥国人」「出羽国人」「常陸国人」「下野国人」「伊予国人」「豊後国人」「肥前国人」ほか「吉弥侯何某の女」などとされる「吉弥侯部氏」「吉弥侯氏」については、吉弥侯部氏や吉弥侯氏出自の人物を高評し(「女」の場合は夫への貞節を尽くしたことを礼賛し)、勲等や姓を賜わったり課税を免除されるなどの記事が見られる。 陸奥国の吉弥侯部氏や吉弥侯氏出自の人物が「上毛野公」や「下毛野公」、「物部連」の賜姓を受けたという記事も見られるが、これは天皇より出兵の勅を受け自ら兵を率い陸奥国や出羽国の平定に携わることが多かった「上毛野朝臣」(上野国国造家)や「下毛野朝臣」(下毛野国国造家)、「物部朝臣」(軍事氏族)などに投降した蝦夷の俘囚が多くおり、俘囚を管理する官人の奏上により俘囚であっても人物には天皇より姓が与えられていたことが分かる。.

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吉田城 (三河国)

吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。 戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。.

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吉田兼亮

『義士四十七図 吉田忠左衛門兼亮』(尾形月耕画) 吉田 兼亮(よしだ かねすけ、寛永17年(1640年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は忠左衛門(ちゅうざえもん)。吉田之貫の子。本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。.

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吉田郡山城の戦い

吉田郡山城跡の遠景。合戦時はまだ小規模な旧城(写真右の尾根)であった。 吉田郡山城の戦い(よしだこおりやまじょうのたたかい)は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)まで安芸国吉田の吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、大内氏に従属していた毛利氏当主・毛利元就と尼子詮久(後の尼子晴久)との戦い。実際は城外での戦闘が主で、いわゆる籠城戦ではなかったため、郡山合戦(こおりやまかっせん)とも呼ばれる。.

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吉野郡 (岡山県)

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吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

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坊門忠清

坊門 忠清(ぼうもん ただきよ)は、鎌倉時代前期の公家。内大臣・坊門信清の子。母は権大納言・藤原定能の娘。官位は従四位上・近衛中将。妻は北条時政の娘。.

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坊門信清

坊門 信清(ぼうもん のぶきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。修理大夫・藤原信隆の子。同母姉に高倉天皇妃の殖子(七条院)がおり、後鳥羽天皇の外叔父にあたる。四条壬生と三条坊門にそれぞれ邸宅を所有していた。また、京都の太秦にも山荘があったことから、太秦内府と称した。.

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坪内利定

坪内 利定(つぼうち としさだ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大身旗本。尾張国松倉城主。『系図纂要』に記載の坪内利之と同一人と思われる。.

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坂本城 (播磨国)

坂本城(さかもとじょう)は、現在の兵庫県姫路市書写にあった日本の城。南北朝時代に赤松円心によって築かれたとされる。北は圓教寺のある書写山、西は天神山に挟まれた平地にあった。.

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堺公方

堺公方(さかいくぼう)は、大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけての足利義維に対する呼称である。堺大樹(さかいたいじゅ)とも呼ばれた(大樹は将軍の意)。義維はこの時期和泉国堺にあって、異母兄の将軍足利義晴と対峙した。堺公方の奉行人はほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を堺幕府と呼ぶ研究者もいる。 永正5年(1508年)以来曲がりなりにも室町幕府を担ってきた管領細川高国の陣営に内紛が起こり、それをきっかけに長らく阿波国に逼塞していた対立陣営の義維・細川晴元・三好元長らが堺に進出し、そこを拠点に将軍・細川管領家(京兆家)家督の座や畿内の支配を目指した。その活動期間中、将軍義晴はほぼ近江国内に亡命しており、江州大樹(ごうしゅうたいじゅ)などと呼ばれていた。巻き返しを図って奔走した高国は享禄4年(1531年)に敗れて(大物崩れ)自害したが、堺公方側は間もなく内訌を始め、将軍への接近を試みる細川晴元が三好元長を滅ぼすと、義維も阿波へ没落し、その活動に幕が下ろされた。 明応の政変以降、足利将軍家は将軍とその対抗者の両流に分かれたが、永正の錯乱・等持院の戦いと時に立場を入れ替え、やはり分裂していた京兆家の一方とそれぞれが結び付きながら相克を繰り返した。堺公方と幕府の両陣営が覇権を争って拮抗したのも、その流れの末に生じた事態であった。この時の堺公方陣営は、幕府並みの体制を敷いて畿内を勢力範囲に収め、しかも幕府側の中核であった細川高国を倒しながら、幕府(義晴政権)に取って代わる前に、あっけなく自壊したのであった。.

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堀尾吉晴

堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。豊臣政権三中老の1人。.

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堀将俊

堀 将俊(ほり まさとし、元和6年1月16日(1620年2月19日) - 延宝7年9月2日(1679年10月6日))は小千谷縮の祖とされる人物。 明石次郎、明石様とも呼ばれる。.

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堀田正信

堀田 正信(ほった まさのぶ)は、江戸時代前期の大名。下総佐倉藩第2代藩主。堀田家宗家2代。堀田正盛の長男。.

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堀田正直

堀田 正直(ほった まさなお、元禄2(1689年) - 享保2年8月9日(1717年9月13日))は、出羽山形藩の嫡子。近江宮川藩主・堀田正休の五男。母は板倉重郷の娘。幼名、林之助。通称、内記。官位は従五位下、播磨守。子に正春(長男)。 堀田正休の五男として生まれ、分家筋である山形藩主・堀田正虎の養子となる。宝永6年(1709年)、徳川家宣に拝謁し叙任するも、家督相続前の享保2年(1717年)に早世した。代わって、長男・正春が嫡子となった。 戒名は頓與眞圓正明院。墓所は東京都台東区浅草金蔵寺。 まさなお Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:山形藩の人物 Category:1689年生 Category:1717年没.

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堀田正盛

堀田 正盛(ほった まさもり)は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、大政参与(御側)。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。 堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。 母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。稲葉正勝は母方の叔父にあたる。.

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堀田正賓

堀田 正賓(ほった まさざね)は、江戸時代中期の大名。近江堅田藩4代藩主。佐倉藩堀田家分家4代。.

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堀部金丸

堀部 金丸(ほりべ かなまる(あきざね)、寛永4年(1627年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥兵衛(やへえ/やひょうえ)。堀部勝綱の子。本姓は源氏(近江源氏)。家紋は四ツ目結二ツ。.

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塩冶高貞

花輪違(七宝に花角) 塩冶 高貞(えんや たかさだ、旧字体:鹽冶 髙貞、生年不詳 -1341年(興国2年/暦応4年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。出雲守護として、後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献する。建武の新政ののちは、足利尊氏に味方し、南朝方制圧に力を奮ったが、1341年3月に京都を出奔すると謀反として北朝に追討され、同年翌月出雲国で自害した。 江戸時代に『仮名手本忠臣蔵』に引用されたことで有名。通称が大夫判官だったことから、物語では塩谷「や」の漢字表記は冶ではなく谷となっている。判官(えんや はんがん)として広く知られた。家紋は「花輪違」。.

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塩問屋

塩問屋(しおどいや/しおどんや)は、塩の生産地・消費地において塩を取り扱った問屋。 江戸時代、十州塩田などの生産地では浜人(生産者)による直接販売が禁じられていたため、必ず塩問屋が流通に関与することになった。塩廻船は塩の買付の際に直師(ねし)と買主と間で売買俵数・値段の斡旋を行ったのが塩問屋であった。塩問屋はこの合意に基づいて浜人に対して売買価格を通知し、これに対して浜人は売出可能な俵数を申出、塩問屋は必要に応じて過不足の調整を行った。塩問屋は口銭として販売額の3-5%を買主から徴収した。 生産地の塩問屋には領外との取引を許された大問屋(大塩問屋・大俵塩問屋)と領内のみの取引が許された小問屋(小塩問屋・小俵塩問屋)が設置されたが独占販売であるため、領内に生産地を持つ藩は会所を設置して監督したり、塩問屋から販売に関して一定の規則を遵守させる起請文を得たりするなど暴利の問題に目を光らせた。 江戸などの消費地においては塩廻船の荷主と塩仲買の間を仲介して口銭を得る塩問屋が成立した。江戸では寛永年間に十州塩田など西国からの塩を扱う下り塩問屋が成立し、後に4軒(秋田屋・長島屋・渡辺屋・松本屋)に限定されるようになった。下り塩問屋は行徳塩田など関東の塩を扱う地廻り塩問屋や塩仲買とともに享保年間に江戸幕府の公認を得て株仲間を組織した。大坂でも取り扱う塩の産地によって小豆島などの塩を扱う島塩問屋、赤穂の塩を扱う赤穂問屋、上灘目(灘から播磨東部)の塩を扱う灘塩問屋に分かれて仲間を組織していた。京都でも元塩屋・他所買塩屋仲間が組織されていた。 こうした塩問屋は明治以後、組合形式・会社形式の新組織に改組されていったが、1905年(明治38年)に国家による塩の専売制が本格化されると、販売の権利は政府が掌握するようになっていった。.

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塩田

塩田(えんでん)は、大量の海水から水分を蒸発させ、塩だけを取り出すために用いられる場所および施設。狭義には後述の天日塩田を指すが、この項では海水を用いた製塩技術全般について記述する。.

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塩田温泉

塩田温泉郷(しおたおんせんごう)は、兵庫県姫路市夢前町(旧国播磨国)にある温泉。薬湯として知られてきた塩田温泉(湯元上山旅館)と2006年(平成18年)に源泉をボーリングした姫路ゆめさき川温泉(夢乃井)の2つのスポットで形成されている。.

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塩田流

塩田流(しおたりゅう)は、宮本無二助と宮本武蔵に師事した塩田浜之助が開いた柔術と棒術の流派。塩田流小具足という。棒術は武蔵流とも呼ばれた。熊本藩で伝承された。 塩田浜之助は播州の出身で、宮本無二助に当理流を学んだ。細川忠興に仕え、細川家中で棒術と捕手術の師範であったが、宮本武蔵と立ち会って敗れ、弟子入りしたという。 宮本武蔵は塩田の棒術に自らの工夫を加え、塩田ら弟子に教えたという。このため当流の棒術は「武蔵流」とも呼ばれた。 幕末から明治の伝承者・野々口常人は1902年(明治35年)、星野九門の呼びかけに応え肥後流体術に加わった。 category:柔術 category:棒術 category:熊本藩.

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墨滴会

墨滴会(ぼくてきかい)は、播磨の老舗書道研究団体。初代会長廣津雲仙が1954年(昭和29年)に競書雑誌「墨滴」を刊行したのを機会に設立した。会員は、関西と九州全土を中心とし全国に広がり、日展、読売書法展、日本書芸院展で活動する。会は、廣津雲仙の書作理念を反映して、最初は師風を学ぶが、次第に時代の風潮を反映した古典を加え、一人一様の書風を探究する。.

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増位山 (兵庫県)

増位山(ますいやま)は、兵庫県姫路市中部に位置する山で西播丘陵県立自然公園に含まれている。.

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壬生藩

壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)。.

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壬申戸籍

壬申戸籍(じんしんこせき)は、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼び慣わす。.

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多可郡

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多井畑厄除八幡宮

多井畑厄除八幡宮(たいのはたやくよけはちまんぐう)とは、兵庫県神戸市須磨区多井畑字宮脇に鎮座する神社。通称、多井畑厄神。.

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多々良浜の戦い

多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、南北朝時代の1336年(建武3年)に行われた合戦である。.

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多田行綱

多田 行綱(ただ ゆきつな/源 行綱、みなもと の ゆきつな)は、平安時代末期の武将。摂津源氏の流れを汲む多田源氏の多田頼盛の長男。官位は従五位下・伯耆守。 摂津国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)より数えて八代目に当たる多田源氏の嫡流。.

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多治比縣守

多治比 縣守(たじひ の あがたもり)は、奈良時代の貴族。左大臣・多治比嶋の子。 養老の遣唐使(717年-718年)で遣唐押使として渡唐を果たしたのち、按察使・征夷将軍などを歴任して地方行政に従事する。 神亀6年(729年)の長屋王の変に際して臨時の参議になると、藤原四子政権で昇進し正三位・中納言に至った。.

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夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。 その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。 夏目漱石誕生之地碑.

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大原のしだれ桜

大原のしだれ桜(おおはらのしだれざくら)は、大分県日田市田島の大原八幡宮近くにあるシダレザクラの巨木である。大原の大しだれ桜、大原大しだれ桜とも呼ばれる。.

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大原内親王

大原内親王(おおはらないしんのう、生年不詳 - 貞観5年1月19日(863年2月10日))は、平安時代前期の皇族。平城天皇の第3皇女。母は宮人の贈従三位・伊勢継子(正四位下木工頭・伊勢老人の娘)。同母兄弟に高岳親王、巨勢親王、上毛野内親王、石上内親王がいた。伊勢斎宮。 大同元年(806年)11月13日、平城天皇の斎宮に卜定され、同2年(807年)8月24日に野宮入り、同3年(808年)9月4日に伊勢に群行したが、翌4年(809年)4月1日には、平城天皇の譲位により半年余りで退下した。弘仁元年(810年)叔父・嵯峨天皇から、近江国・播磨国・備前国の穀800斛を賜る。同年、薬子の変により同母兄弟の高岳親王が皇太子を廃された。清和天皇(嵯峨天皇の曾孫)の治世になった貞観5年(863年)正月19日、無品のまま死去した。.

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大原町 (岡山県)

大原町(おおはらちょう)は、岡山県の北東部に位置し兵庫県と境を接していた町である。現在は合併により美作市となり、旧町役場は美作市役所大原総合支所となっている。.

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大垣藩

大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。 江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。.

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大坂城代

大坂城代(おおさかじょうだい)は、江戸幕府の役職の一つ。将軍直属で有力な譜代大名が任じられ、大坂城主である将軍に代わり大坂城を預かった。.

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大坂屋久左衛門

大坂屋久左衛門(おおざかやきゅうざえもん) 大坂屋は慶長元年(1596年)頃から幕末の慶応4年(1867年)にかけて存在した銅商の屋号であり、久左衛門は当主が代々使用した名前(名跡)である。.

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大坂町奉行

大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)は、江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の1つ。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取り、東西の奉行所はそれぞれ「東の御番所」「西の御番所」と呼ばれていた。初名は大坂郡代(おさかぐんだい)。老中支配下で大坂城下(大坂三郷)及び摂津・河内の支配を目的としていた。.

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大塚徹 (詩人)

播磨国総社にある『北海の蟹』歌碑 大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8日 - 1976年(昭和51年)12月2日)は、日本の詩人。 脊椎カリエスを患いながらも、叙情詩の発表を続け、播磨地域を中心とする多くの文学人に影響を与えた神戸新聞 2015/03/26 木曜日 地方版 『<はりまカルチャー>昭和初期~戦後に活躍野里出身・大塚徹 叙情的な詩 評価再び 地元住民や母校が顕彰』。また、ハーモニカ演奏や民謡、歌謡、学校歌の作詞等に多芸に活躍した大塚徹・あき詩集。.

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大多府島

大多府島(おおたぶじま)は岡山県備前市にある島。日生諸島の一つで同諸島の最南部、日生港から南に6kmに位置する。古くは大漂(おおたぶ)とも書かれた。 島の北側は天然の良港となっており、海水浴場もある。港には元禄時代に岡山藩の土木技術者・津田永忠の指揮で築かれたといわれる元禄防波堤があり、石垣状の往年の姿で残っている。1998年に防波堤として初めて国の登録有形文化財に登録された。また2006年には未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選に選ばれた。一方、南側は奇岩などが建ち並び洞窟も存在する。.

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大多喜藩

大多喜藩(おおたきはん)は、上総国に存在した藩。藩庁を大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に置いた。.

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大多和就重

大多和 就重(おおたわ なりしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣で、毛利水軍の将の一人として活躍した。.

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大宝寺 (五島市)

大宝寺(だいほうじ)は、長崎県五島市玉之浦町にある高野山真言宗の寺院である。山号は弥勒山。所在地の玉之浦町は五島列島(五島)・福江島の南西端にあたり、遣唐使が唐へ向かう際の最終寄港地であった。創建は元年(701年)と伝えられ、遣唐使に随行した空海が講釈を開いた逸話が残り「西の高野山」の異名で知られる。.

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大宮季衡

大宮 季衡(おおみや すえひら、正応2年(1289年) - 興国7年/貞和2年5月25日(1346年6月15日))は、鎌倉時代後期の公卿。西園寺公衡の長男、母は左馬頭藤原光保女。法名は空勝。子に大宮氏衡、大宮公名がいる。従一位・右大臣。 侍従、左近衛少将、上野介、播磨介等を経て延慶元年(1308年)に従三位に叙せられ、公卿に列する。延慶2年(1309年)に正三位・左近衛中将。延慶3年(1310年)には従二位・参議、まもなく権中納言。正和2年(1312年)には正二位、文保2年(1318年)には権大納言となる。さらに妹・西園寺寧子の産んだ量仁親王が後醍醐天皇の皇太子となった嘉暦元年(1326年)には大納言となり、元徳2年(1330年)には従一位。量仁親王が即位(光厳天皇)した翌元徳3年(1331年)には天皇の外叔父として内大臣、次いで正慶元年(1332年)には右大臣となる。官位・官職共に異母弟の実衡を越すが、まもなく鎌倉幕府滅亡直前の正慶2年(1333年)3月に出家した。.

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大山崎町

天王山からの景色、大阪方面 宝寺、殉国十七烈士墓 宝寺、羽柴秀吉出世石 大山崎瓦窯跡 農作業用モノレール、天王山ハイキング道 大山崎町(おおやまざきちょう)は、京都府乙訓郡の町。大阪府三島郡島本町との府境に位置する。京都府下で最も面積の小さい町である。旧山城国乙訓郡。河の南という意味で「河陽(かや、かよう)」の別名がある。.

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大山崎油座

大山崎油座(おおやまざき あぶらざ)は、日本の鎌倉時代前期頃から戦国時代末期にかけて、京都の南西にある大山崎郷一帯(現在の京都府乙訓郡大山崎町および大阪府三島郡島本町)を本拠に、荏胡麻から作製した油を広範囲に渡って独占販売した特権商人から構成された座である。座の構成員は主として離宮八幡宮の神人であり、石清水八幡宮内殿への灯油貢納を本務とした。幕府や朝廷の庇護を受け、原料の仕入れから製油・販売に至るまで独占的な特権を得て、塩や染料・麹など油以外の商品も扱った。その販売対象地域は畿内を中心に広範囲に及び、筑前国博多筥崎宮の油座や大和国符坂油座などをしのぐ、中世日本最大規模の油座であった。.

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大岡忠與

大岡 忠與(おおおか ただとも)は、三河西大平藩第4代藩主。大岡忠世家6代当主。 宝暦9年(1759年)、播磨安志藩第2代藩主・小笠原長逵の四男として生まれる。 西大平藩第3代藩主・大岡忠恒の養女を娶り、その養子として迎えられ、天明4年(1784年)に忠恒の隠居により家督を譲られる。同年、10代将軍徳川家治に御目見して従五位下越前守に叙任するが、その2年後の天明6年(1786年)に死去した。享年29。 忠與には男児がおらず、家督は忠恒の次男・忠移が養子として継いだ。.

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大岡忠恒

大岡 忠恒(おおおか ただつね)は、三河国西大平藩第3代藩主。大岡忠相の孫。大岡忠宜の次男。大岡忠世家5代藩主。.

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大岡忠恒 (旗本)

大岡 忠恒(おおおか ただつね)は、江戸時代中期の旗本。大岡忠行家5代当主。旗奉行などを務める。孫に大岡忠慎。 1700石を知行する旗本の大岡美濃守忠高の六男として生まれる。一族の相模高座郡堤村を領する旗本・大岡忠種の養子となり、元禄10年(1697年)に養父が亡くなったためその遺跡を継ぐ。 宝永3年(1706年)に書院番に就任。宝永6年(1709年)、東叡山からの還御の時、供奉の期日を間違えたため咎められそうになったが、5代将軍徳川綱吉の四十九日であったのと、その法要に参列したため、咎めを免れる。 享保4年(1719年)、組頭、享保12年(1727年)、新番頭、寛延2年(1749年)、江戸城西の丸留守居を歴任し、同年、従五位下播磨守に叙任された。宝暦9年(1759年)には旗奉行に就任するが、宝暦11年(1761年)に死去した。享年78。.

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大岡氏

大岡氏(おおおかし)は、日本の氏族。家紋は大岡七宝(剣輪違)。.

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大三輪大友主

大友主命 (おおともぬし の みこと)あるいは大三輪 大友主 (おおみわ の おおともぬし、生没年不詳)は『日本書紀』等に伝わる古代日本の豪族。大御気持命と出雲鞍山祇姫(いずものくらやまつみひめ)の子。三輪氏の祖。『古事記』に記載はない。.

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大久保忠増

大久保 忠増(おおくぼ ただます、明暦2年(1656年) - 正徳3年7月25日(1713年9月14日))は、江戸時代の大名、老中。相模国小田原藩第2代藩主。小田原藩大久保家4代。 初代藩主大久保忠朝の長男。正室は松平忠弘の娘(寿昌院慈岳元長尼)。子に大久保忠方(六男)、石川総陽(七男)、宇津教保(八男)、宇津教逵(十男)、岩姫(松平定逵正室)ら。寺社奉行、若年寄を経て、老中となる。.

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大久保忠鎮

大久保 忠鎮(おおくぼ ただしげ、寛永15年(1638年) - 正徳元年9月20日(1711年10月31日))は、江戸幕府の旗本。幕府目付。通称は権左衛門(ごんざえもん)。浅野長矩の刃傷の際に吉良義央への取調べにあたり、また長矩の切腹の副検死役をつとめた。.

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大久保忠職

大久保 忠職(おおくぼ ただもと)は、江戸時代前期の大名。武蔵騎西藩第2代藩主、美濃加納藩、播磨明石藩、肥前唐津藩の初代藩主。相模小田原藩大久保家2代。 大久保忠常の長男。母は奥平信昌と亀姫(徳川家康の長女)の娘。大久保忠隣の嫡孫に当たる。.

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大久保藩

大久保藩(おおくぼはん)は、陸奥国(後の岩代国、現在の福島県須賀川市大久保)に存在した藩。別名は岩瀬藩(いわせはん)。.

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大久保長安

大久保 長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。.

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大伴犬養

大伴 犬養(おおとも の いぬかい、生年不詳 - 天平宝字6年10月9日(762年10月30日))は、奈良時代の貴族。姓(カバネ)は宿禰。官位は従四位下・右大弁。.

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大徳寺

大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。.

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大嘗祭

大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じたが、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。.

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大和川

大和川河口付近の航空写真 大和川(やまとがわ)は、奈良県および大阪府を流れ、大阪湾に注ぐ一級水系の本流。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大入道

斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「大入道」 pages.

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大国 (令制国)

大国(たいこく、たいごく)とは、律令国の等級区分の一つである。.

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大国隆正

大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日(1793年1月11日) - 明治4年8月17日(1871年10月1日))は、幕末・明治維新期の国学者・神道家。別姓は野之口。名に一造、匠作、仲衛など、諱に秀文、秀清、隆正、字に子蝶、号は葵園、佐紀乃屋「大国隆正」『朝日日本歴史人物事典』。。.

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大矢知素麺

大矢知素麵(おおやちそうめん)は、 江戸時代の幕末期から「三重の糸」、「伊勢そうめん」として知られ、農家の副業として生産されるようになった三重県四日市市大矢知地区の特産品の素麵である。太麺であることと、コシの強さを特徴とする。.

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大石信興

大石 信興(おおいし のぶおき)は、江戸時代前期から中期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。赤穂浪士四十七士の一人である大石信清の兄にあたる。 延宝2年(1674年)、赤穂藩士大石信澄(知行450石)の長男として生まれる。元禄2年(1689年)12月、父の死去により家督を相続。孫四郎の通称も受け継いだ。また450石のうち150石を弟信清に分け与えている。赤穂藩改易後、弟とともに遠縁にあたる大石良雄の盟約に名を連ねたが、元禄15年(1702年)閏8月の神文返しの際に12日付けで脱盟した。この脱盟は兄弟のどちらかが生母の面倒を見るためであり、信清とくじで脱盟を決めたという逸話がある。しかし実際には弟から義絶されている。 その後は母とともに讃岐国高松へ住み、やがて関白近衛家熙に仕えた。母も近衛家に出仕し、外山局と称した。信興は討ち入りに加わらなかった赤穂藩士で再仕官が叶った人物だが、従兄弟の大石良穀も近衛家に仕えていたので、その縁故を頼ったとも考えられる。その後浪人したが、天皇家の廷臣となって禁裏御使番などを務めた。元文2年(1737年)7月に隠居し、道入と称した。 寛保元年(1741年)9月6日に死去、享年68。紫野瑞光院に葬られた。家督は次男の良実が継いだ。.

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大石内蔵助 冬の決戦

大石内蔵助 冬の決戦(おおいしくらのすけ ふゆのけっせん)は、1991年1月1日にNHKで正月スペシャル時代劇として放送されたテレビドラマ。前編(85分)を21:00〜22:25、途中5分間のミニ番組を挟んで後編(95分)を22:30〜0:05に放送した。.

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大石良金

『義士四十七図 大石主税吉金』(尾形月耕画) 大石主税藤原良金 大石 良金(おおいし よしかね、元禄元年(1688年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進、大石大三郎。また妹に大石くうと大石るりがいる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。.

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大石良雄

大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。.

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大物崩れ

大物崩れ(だいもつくずれ)は、戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531年7月17日)、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で行われた合戦。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦い。大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。.

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大道寺直秀

大道寺 直秀(だいどうじ なおひで、慶長11年(1606年) - 寛永13年9月24日(1636年10月22日))は、江戸時代の人物。.

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大西慎也

大西慎也(おおにし しんや 1975年6月26日-)は、兵庫県出身の実業家。播州地方中心に兵庫県下に「らーめん八角」、居酒屋「昭和お好み焼き劇場うまいもん横丁」、「食堂 銀シャリ ぱっぱ屋」、「浪速大だこ たこの壺」など4業種34店舗を運営する株式会社八角の経営者『The Human 2013年1月号 「一度行きたいお薦めの逸店」』(現代画報社)。.

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大高忠兵衛

大高忠兵衛(おおたかちゅうべえ、文政6年3月1日(1823年4月11日) - 元治元年7月4日(1864年8月5日))は、江戸時代末期(幕末)の勤王の志士。播磨国揖東郡林田村・常城広介の次男で林田藩郷士。 14歳のときに甲冑職人・大高義郷の養子となる(六八郎の次子、又次郎の養子との説もある)。のち姫路城下に移り、志士と交流が始まる。嘉永元年(1848年)、梅田雲浜のすすめで上洛。衣棚押小路入下妙覚寺町で甲冑商「大鷹屋」を営みつつ、義兄又次郎とともに、諸藩の藩邸に出入りして情報収集をするなどの政治活動に奔走する。安政の大獄の際に一時京を離れたが、潜伏し志士の武器・甲冑調達にも貢献。元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件に居合わせ、新選組によって捕縛され、7月4日に六角牢で獄死。享年42。墓は梅田雲浜と同じ安祥院。贈従五位下。 なお、赤穂浪士の一人大高忠雄の末裔と称していたとされるが、自身は常城家の出であるので、血統のつながりはないと思われる。 Category:幕末林田藩の人物 Category:獄死した人物 Category:1823年生 Category:1864年没.

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大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。.

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大鳥圭介

大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官。正二位勲一等男爵。家紋は鶴の丸。.

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大鳴戸灘之助

大鳴戸 灘之助(おおなると なだのすけ、生年不明 - 1817年9月29日〈文化14年8月19日〉http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r.

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大輪田泊

大輪田泊の石椋 大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた。.

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大阪日日新聞

大阪日日新聞(おおさかにちにちしんぶん)は大阪府の地方新聞(朝刊専売)。発行部数は6,849部(日本ABC協会調べ。2017年上半期)。現在は鳥取県に本社を置く新日本海新聞社の大阪本社から発行されている。.

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大蔵氏

#古代氏族。本項で詳述。.

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大野知房

大野 知房(おおの ともふさ、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩浅野家の末席家老650石。『忠臣蔵』における不忠臣の代表格。一方で優秀な経済官僚であったといわれる。通称は九郎兵衛(くろべえ)。.

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大野藩

大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。.

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大野治房

大野 治房(おおの はるふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。.

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大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.

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大村由己

大村 由己(おおむら ゆうこ、天文7年(1536年)? - 慶長元年5月7日(1596年6月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての学者・著述家。播磨国三木の出身。号は藻虫斎梅庵。初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。秀吉の伝記である『天正記』の著者として知られる。.

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大橋俊雄

大橋 俊雄(おおはし しゅんのう、1925年9月1日 - 2001年12月26日)は、中世日本仏教史学者。初名は「登志夫」、のち「俊雄」、(としお→しゅんのう、「しゅんゆう」ではない)。.

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大歳金刀比羅神社

大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は、兵庫県多可郡多可町中区にある神社。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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大江音人

大江 音人(おおえ の おとんど /おとひと、弘仁2年(811年) - 元慶元年11月3日(877年12月15日))は、平安時代の貴族・学者。備中権介・大枝本主の嫡男。大枝諸上の孫。官位は従三位・参議。江相公と号する。.

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大河内町

峰山高原 太田池 大河内町中部、長谷から寺前に向かう市川の渓流 大河内町(おおかわちちょう)は、かつて兵庫県中央部に存在した町。町名はこの地域がかつて「大河内庄」と称されていたことに由来している。 2005年11月7日、神崎町と合併して神河町となり、消滅した。.

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大日本史

『大日本史』(だいにほんし)は、日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。 『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳5年)、藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。.

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大日本地名辞書

『大日本地名辞書』(だいにほんちめいじしょ)は明治時代後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として、在野の歴史家吉田東伍個人によって13年をかけて編纂された。 戦後により大部の類書角川書店『角川日本地名大辞典』、平凡社『日本歴史地名大系』が出た後も、冨山房により文語体、旧仮名遣のまま版を重ねている。.

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大日本国一宮記

大日本国一宮記(だいにほんこくいちのみやき)は群書類従 第二輯 神祇部 巻第二十三 に編纂されている日本国内の一宮一覧で、室町時代の成立とされる。 諸国一宮の社名、祭神、鎮座地を記した史料は「一宮記」と呼ばれ同種の本が多数存在するが、『大日本国一宮記』はその内の一つである。『大日本国一宮記』自体にも写本が多数存在する。一宮の研究における重要な資料であり、現代においても巡拝や取材する一宮の選定基準とされることがある。大林太良 『私の一宮巡詣記』 青土社 2001年9月 出版 では論社を整理するためと前置し、巡詣する一宮の条件として以下2つを上げている。①『大日本国一宮記』や橘三喜の『諸国一宮巡詣記』で一宮として取り上げられていること。②『延喜式神名帳』に記載されていること。.

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天下台山

天下台山(てんがだいやま)は、兵庫県播磨地方の山である。相生市とたつの市との境にあり、山頂は相生市に位置する。.

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天円山

天円山(あまがつぶやま)は、徳島県鳴門市にある山である。別名は天ヶ津峰(あまがつみね)、天ヶ円。地元民からは「あまがっつぁん」と呼ばれている。標高434.3m。.

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天神山城 (備前国)

天神山城(てんじんやまじょう)は、岡山県和気郡和気町田土にある日本の城跡、備前国和気郡にあった城郭である。岡山県指定史跡。 なお、同国御野郡、現在の岡山市北区にあった同名の城郭については、岡山城#南北朝時代 - 安土桃山時代を参照のこと。.

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天神山城の戦い

天神山城の戦い(てんじんやまじょうのたたかい)は、天正2年(1574年)4月から天正3年(1575年)9月にかけての期間行われた浦上宗景・三浦貞広と宇喜多直家との間の戦い。 最終的に雌雄を決した戦いは天神山城を巡る攻防であったが、それに至るまでの停戦期間を挟みつつも1年以上の期間に渡って備前国・美作国に跨る広範囲で両陣営の武力衝突があった。.

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天竺徳兵衛

天竺 徳兵衛(てんじく とくべえ、慶長17年(1612年)- 没年不詳)は、江戸時代前期の商人、探検家。.

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天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天満大池公園

天満大池公園(てんまおおいけこうえん)は、兵庫県加古郡稲美町六分一1179にある天満大池を整備した公園。農業用ため池としての機能も残している。 天満池は2010年(平成22年)3月25日に農林水産省のため池百選に選定された。.

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太子町 (兵庫県)

太子町(たいしちょう)は、兵庫県南西部(西播磨地域)に位置する町で、唯一揖保郡に属する。西播磨県民局管轄区域。 江戸時代の地誌『播磨鑑』により、町内宮本は宮本武蔵出生地として有力な候補の一つとされている。.

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太山寺 (神戸市)

境内風景、手水舎、阿弥陀堂(奥) 太山寺(たいさんじ)は、兵庫県神戸市西区にある天台宗の仏教寺院。山号を三身山(さんしんざん)と称する。本尊は薬師如来と十一面観音、開基(創立者)は藤原宇合と伝える。.

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太山寺温泉

太山寺温泉(たいさんじおんせん)は兵庫県神戸市西区(旧国播磨国)にある温泉。名称は徒歩5分の位置にある奈良時代創建の名刹、太山寺に由来する。.

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太田垣氏

太田垣氏(おおたがきし)は、但馬国に栄えた日下部氏の一族の国人。竹田城主。.

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太田荘

太田荘/大田荘(おおたのしょう).

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外神田

外神田(そとかんだ)は、東京都千代田区の地名。住居表示は実施済み。現行行政地名は外神田一丁目から外神田六丁目。郵便番号は101-0021。.

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夙(しゅく、夙の者、宿の者)は、中世から近世にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民。中世の非人身分が分解する際に生じ、被差別部落の起源の多くであったかわたよりも下位でありながら、その差別はそれほど強烈ではなかったといわれる。.

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奥平氏

奥平氏(おくだいらし)は、戦国時代に三河北東部の作手地方(現・新城市)を中心に活動した日本の氏族の一つ。.

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奥野定良

奥野 定良(おくの さだよし)、正保4年(1647年) - 享保12年5月22日(1727年7月10日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。組頭1000石。通称は将監(しょうげん)。 父は家老奥野定次。母は大石信云の娘奈津。赤穂浪士四十七士の大石信清とは従兄弟の関係である。 元禄14年(1701年)3月、江戸城松之大廊下で主君浅野長矩が吉良義央に刃傷におよび、浅野長矩は切腹。赤穂藩は改易となった。赤穂城明け渡しに際して、家老大野知房が逐電したために、代わりに大石良雄を補佐して明け渡しを行った。奥野は大石良雄の義盟に加わり、御家再興運動でも引き続き大石を補佐した。しかし、元禄15年(1702年)7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的になると、京都円山の会議で大石は吉良義央への仇討ちを決定するが、その直後に奥野は脱盟した。 奥野は一党の中では大石に次いで禄が高く、討ち入り後に細川家にお預けとなった大石は奥野の脱盟を大変に残念がっている。この脱盟については大石が吉良を打ち洩らした際に備えた二番手だったとも、浅野長矩の隠し子の姫を育てるためだったともいわれるが、真相は不明である。 その後は播磨国に戻って、一女が嫁いでいた加西の下道山の磯崎神社神宮寺秀経に身を寄せて、名も右衛門と改めて新田開発に尽力した。晩年には播磨国多可郡中村の延明寺に移り隠棲したといわれ、その地の糀屋村に奥野のものといわれる墓が存在する。この墓によれば、法号玄徳院節厳禅義居士。この法号は磯崎神社に残る神宮寺過去帳と一致し、これによると1727年(享保12年)5月22日に死去したとある。享年81。 なお、奥野の組に属していた藩士のうちからは潮田高教・木村貞行が吉良邸討ち入りに加わった。 司馬遼太郎の短編小説「池田屋異聞」(『新選組血風録』収録)では、新選組隊士山崎烝を奥野定良の子孫として描いているが、これは創作である。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:1647年生 Category:1727年没.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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妖の忍法帖

『妖の忍法帖』(ようのにんぽうちょう)は、山田風太郎の時代小説。1969年に発表された忍法帖シリーズの連作長編で、『小説宝石』(光文社)にて、1969年1月号から同年8月号まで掲載された。角川文庫版では『忍法双頭の鷲』に改題。.

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妙寿尼

妙寿尼(みょうじゅに、天文14年2月5日(1545年3月27日)-慶長18年11月19日(1613年12月30日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。播磨国佐用郡(兵庫県佐用郡佐用町)上月城主・上月景貞(景高・定之)の正室で、平岡頼勝室と黒田正好の母。実名は不詳。院号は遍照院(へんしょういん)。.

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姫路

*姫路市 - 兵庫県にある市(中核市)。.

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姫路城

代表紋章:揚羽蝶 姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県の姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。坂東三津五郎 (10代目)『三津五郎城めぐり』(三月書房2010年11月)では数多くの城の最初に紹介している。。.

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姫路市

姫路市(ひめじし)は、近畿地方西部、兵庫県の南西部(播磨地方)に位置する市。 中核市に指定されており、周辺自治体を含めて約74万人の姫路都市圏を形成する。中播磨県民センターの管轄。.

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姫路市立図書館

姫路市立図書館(ひめじしりつとしょかん、Himeji City Library)は、日本の兵庫県姫路市が設置している公立図書館の総称。 姫路公園(姫路市本町68番地)の日本城郭研究センターに併設されている姫路市立城内図書館を本館とし、市内に14の分館が設置されている。2014年(平成26年)時点での蔵書数は本館・分館合わせて1,281,484冊。また、移動図書館として自動車文庫「しろかげ号」が月1回のペースで市内を巡回している。 兵庫県の播磨・但馬地域の公立図書館で構成される播但図書館連絡協議会では1970年(昭和45年)の創立時から中核メンバーとなっており、1987年(昭和62年)からは参加館間の協力貸し出し体制を構築している。.

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姫路市書写の里・美術工芸館

本館 上空の書写ロープウェイから撮影 姫路市書写の里 美術工芸館(ひめじししょしゃのさと びじゅつこうげいかん)は兵庫県姫路市書写山の麓、夢前川の畔にある美術館。.

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姫路ラーメン

姫路ラーメンとは、兵庫県姫路市を中心に加古川市、播磨地域のご当地ラーメンである神戸新聞2012年1月13日号。.

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姫路ゆかたまつり

ゆかたまつり野外ステージ 姫路ゆかたまつり(ひめじゆかたまつり)は、姫路城の守護神である長壁神社の例祭にちなむ夏祭り。姫路市の初夏の風物詩で毎年6月22日 - 24日に開催される。2006年(平成18年)から2009年(平成21年)までは22日・23日の2日間の短縮開催だった。.

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姫路都市圏

姫路都市圏(ひめじとしけん)は、兵庫県姫路市を中心とする都市圏である。域内総生産は約2兆9482億円。.

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姫路藩

姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田氏で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。.

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姫路殿

姫路殿(ひめじどの、生年不詳 - 寛永18年5月8日(1641年6月16日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀吉の側室。.

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姫路新田藩

姫路新田藩(ひめじしんでんはん)は、播磨姫路藩の新田支藩だった藩。歴代藩主の多くが部屋住みか、短命な藩主が多かったため、かつ内分分知であったために、具体的な領地についてはほとんど不明であり、大名に列するも江戸定府で居所はなく、そのため便宜上「新田藩」と呼称される。.

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姫路文学館

姫路文学館(ひめじぶんがくかん)は、兵庫県姫路市にある姫路市立の文学館。.

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姶良市

姶良市(あいらし)は、鹿児島県中央部に位置する人口約7万5000人の市。鹿児島市のベッドタウンとして発展している。.

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季瓊真蘂

季瓊 真蘂(きけい しんずい、応永8年(1401年) - 文明元年8月11日(1469年9月16日))は、室町時代の臨済宗の僧、相国寺塔頭鹿苑院内の蔭涼軒主(蔭涼職)。蔭涼軒真蘂とも。播磨の赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。 雲頂院の叔英宗播に師事、永享7年(1435年)に将軍と鹿苑院主(僧録)の連絡役である蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。嘉吉元年(1441年)に赤松満祐らが6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の首級を受け取っている。直後に引退するが、長禄2年(1458年)に8代将軍足利義政の引き立てで復帰、伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり、京都五山の人事権を握り幕政に影響力を持つ。 同年、赤松氏遺臣が長禄の変で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、赤松政則を当主として再興させた。寛正6年(1465年)に義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、三管領の1つの斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入し(一時的に当事者の1人、松王丸を稚児として預かっていた)、文正元年(1466年)に対立する細川勝元・山名宗全らによる文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らと共に失脚した。応仁元年(1467年)からの応仁の乱で近江へ逃れ、応仁2年(1468年)に義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま翌文明元年(1469年)に死去。享年69。 『応仁記』などでは否定的評価で書かれている一方、政則の家臣浦上則宗や宗湛らと交流があり、失脚前の文正元年2月から閏2月に休暇で彼らと侍所所司代多賀高忠を交えて有馬温泉に滞在したことを書き残した。また、公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。.

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宍粟

宍粟.

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宍粟市

宍粟市(しそうし)は、兵庫県の中西部に位置する市である。西播磨県民局管轄区域。 2005年(平成17年)4月1日に宍粟郡の4町(山崎町、一宮町、波賀町、千種町)が合併して誕生した。人口は県内41自治体中第25位、面積は豊岡市に次ぎ県内第2位である。.

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宍粟郡

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宝永地震

井(1982), p42-43.。 宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度 - 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。)を震源域として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている宇佐美(2003), p75-90.『理科年表』, p737, 767.。世にいう宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)、あるいは宝永大地震(ほうえいおおじしん)とも呼ばれ、亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる。地震の49日後に起きた宝永大噴火は亥の砂降り(いのすなふり)と呼ばれる。.

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室山の戦い

室山の戦い(むろやまのたたかい)は、寿永2年(1183年)11月29日、播磨国室山(現兵庫県たつの市御津町室津港の背後にある丘陵)に陣を構える平氏軍を、源行家軍が攻撃して敗れた戦い。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。.

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宮田光次

宮田 光次(みやた みつつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。羽柴氏の家臣。.

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宮本三木之助

宮本 三木之助(みやもと みきのすけ、慶長9年(1604年) - 寛永3年5月14日(1626年7月7日))は、江戸時代初期の武士。剣豪宮本武蔵の最初の養子である。.

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宮本伊織

宮本 伊織(みやもと いおり 慶長17年10月21日(1612年11月13日) - 延宝6年3月28日(1678年5月18日)、)は、江戸時代初期の武士。諱は貞次(さだつぐ)。剣豪宮本武蔵の養子として知られるが、出自や養子の経緯に関しては諸説ある。.

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宮本武蔵

宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。 京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。著書『五輪書』は外国語にも翻訳され出版されている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。.

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宮本武蔵顕彰武蔵武道館

宮本武蔵顕彰 武蔵武道館(みやもとむさしけんしょう むさしぶどうかん、Musashi Budokan)は岡山県美作市の武蔵の里にある武道館。.

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家島十景

監館眺望 家島十景(いえしまじっけい)は、瀬戸内海の家島諸島(兵庫県姫路市)にある10の景勝地の総称である。 播磨国の史家平野庸脩が1762年に著した地誌『播磨鑑』において、七言絶句の漢詩を付して記した家島諸島の旧跡群に基づいて定められたとされる。.

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容眞御流

容真御流(ようしんごりゅう)とは、櫻居成龍斎一如を開祖とする華道流派。 一如は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶で、姫路景福寺長老を経て播州加西仏名寺や同多聞寺の住職を務めた後、諸国を行脚して華道を教授した。御室御所仁和寺に花を献じた際に花務職に任じられ、「その容(すがた)、真(まこと)なるによって容真と名づけるべし」との沙汰を受けて『容真御流』を興したとされる。 ただし、仁和寺には一如参殿以前に未生流が伝えられ、すでに御室御所伝来の華道の基盤と『容真』の名が確立されていたとする説もあり、確かに容真御流は未生流系統との類似点が多い。 現在、一如の末裔である櫻居家を家元とする流派は『容真流』を名乗っているが、正式名称は『華道御室宮容真御流』であるとし、流紋として仁和寺の紋である「桜に二引」を使用している。 また、矢田寺大門坊を家元とする『容真御流』は、一如の養子である二代櫻居成龍斎一間が、矢田寺に入って仏門の修行を行うとともに、華道を教授したことにより伝わった流派である。 他にも、一如の流れを汲む流派が多数がある。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護所

守護所(しゅごしょ)とは、中世日本において守護が居住した館の所在地のこと。守護の政治的権限の拡大とともに政庁所在地としての機能が国衙より移されていった。.

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宗峰妙超

宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、弘安5年(1282年) - 延元2年/建武4年12月22日(1338年1月13日))は、鎌倉時代末期の臨済宗の僧。一般には大燈国師の名で知られている。 諱は妙超、道号は宗峰。播磨(兵庫県)の出身。同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)の子として生まれた。朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられた。京都の大徳寺の開山。 .

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宗康親王

宗康親王(むねやすしんのう、天長5年(828年) - 貞観10年6月11日(868年7月4日))は、平安時代前期の皇族。仁明天皇の第二皇子。母は贈皇太后・藤原沢子(藤原総継の娘)。光孝天皇の同母兄。官位は四品・中務卿。.

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宗佐厄神八幡神社

宗佐厄神八幡神社(そうさやくじんはちまんじんじゃ)は、兵庫県加古川市八幡町野村にある神社である。正式名称は八幡神社。通称は宗佐の厄神さん。厄除の大神として広く知られる。旧社格は郷社。.

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宗玄寺

宗玄寺(そうげんじ)は、篠山市古市にある真宗大谷派の寺院。赤穂浪士ゆかりの寺として知られる。古市はかつては交通の要衝として宿場が形成され、同時に物流の拠点として多くの問屋が栄えていた。今も、往時を偲ばせる催しのいくつかが伝承されている。.

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宗義和

宗 義和(そう よしより)は、対馬府中藩の第15代藩主。.

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宗義真

宗 義真(そう よしざね)は、対馬府中藩の第3代藩主。.

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宇喜多忠家

宇喜多 忠家(うきた ただいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。宇喜多興家の子で、宇喜多直家の異母弟(母は阿部善定娘、または阿部善定の下女湯浅常山の著書『常山紀談』)。乳母は戸川秀安の母。.

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宇喜多四郎

宇喜多 四郎(うきた しろう)は、戦国時代の武将。宇喜多能家の次男。諱は義家とも。 幼い頃より利発であり、能家も愚鈍な興家より四郎に家督を継がせたいという考えもあったという。 大永3年(1523年)、赤松政村(後の晴政)を擁立した浦上村国と小寺則職は浦上村宗の居城・三石城に攻め入る気配を見せたため、村宗は先手を打って四郎を先陣とする軍勢を播磨国へ派遣し、四郎ら宇喜多勢は村国勢と戦闘になる。浦上村国は宇喜多勢を抗禦しつつ戦線を後退させ、懐深くまで四郎を誘い込むと伏兵によって退路を遮断。四郎は討ち死にを遂げた。 この四郎の死に深く落胆した能家は、この戦の後すぐに薙髪し隠居している。 なお、大永4年(1524年)に書かれた「宇喜多和泉守能家入道常玖画像賛」には四郎の諱は書かれておらず元服前であった可能性も高い。 しろう Category:戦国武将 Category:備前国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1523年没.

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宇喜多秀家

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.

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宇喜多直家

宇喜多 直家(うきた なおいえ)は、戦国時代の武将。備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。官位は従五位下。宇喜多興家の子。子に秀家など。室は中山信正の娘、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とされる円融院。.

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宇喜多能家

宇喜多 能家(うきた よしいえ)は、戦国時代の武将。浦上氏の家臣。宇喜多久家の子。備前国豊原荘砥石城主。.

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宇喜多氏

宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。.

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宇都宮大潔

宇都宮 大潔(うつのみや おおきよ、文化元年8月(1804年) - 明治8年1月18日(1875年))は、江戸時代末期から明治時代初期の土御門家の陰陽師、歌人。播磨飾磨英賀(現在の姫路市飾磨区)の生まれ。大潔は諱であり、名は昌斎、字を大進、号は鐸綱、隠居後に鍬斎とした。 若い頃より国学・和歌に興味を持ち、大江広海に師事して万葉集を学んだ。本居宣長を独学したが、のちに加茂季鷹に和歌・国学・書などの教えを受ける。宇都宮家は高持百姓として石高を得ていたが、それ以外に家相の診断や和歌の指導などで収入を得ていた。 『菅野屋集』・『青藍集』・『鰒玉集』などに和歌が載せられている。学問は博識で郷土史研究に貴重な研究を遺している。 教育熱心な姿勢を貫き、明治維新の後、70歳の高齢で小学校の教師をしている。 享年72。その死を悼み、多くの門弟が墓碑を建立している。.

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宇野政秀

宇野 政秀(うの まさひで)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の一族で赤松則祐の6世の孫。高枕軒性喜(こうちんけんしょうき)と号する。塩屋城主。 赤松政秀ともいい、玄孫が同名・同官途である。政秀は赤松姓を名乗るもその出自には不明な点が多く、宇野と書かれることもあり、本姓はこちらの可能性もあるという。.

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安島氏

安島氏(あじまし)は、姓氏のひとつ。安島、または安嶋とも記す。常陸国及び東北地方における武家のひとつ。また越前国や近江国にも見られる。.

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安井氏

安井氏(やすいし)は、日本の氏族。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む足利氏の一門、畠山氏の庶流にあたる。.

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安保実員

安保 実員(あぼ /あぶ さねかず、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。名字は阿保とも。通称は七郎。官位は左衛門尉。武蔵七党の一つで丹治比真人姓を称し、武蔵国安保(現埼玉県児玉郡神川町元阿保)を拠点とした丹党の一族、安保氏の2代目。父は承久の乱の宇治川の戦いで溺死した刑部丞安保実光(丹党系安保氏祖)で、実員は七男にあたる。兄は、阿保実房と安保光重がいる。子は安保泰実。 承久の乱の恩賞として播磨国の守護に任じられる。実員の娘は鎌倉幕府3代執権である北条泰時の継室となって次男時実を産むが、時実は16歳で死去している。これ以外の孫として阿保頼泰がいる。実員の一族は本来分家の流れだが、鎌倉幕府が崩壊し、宗家が滅ぶと、代わりに惣領家を継ぐ事となる。頼泰の子孫は室町時代を生き抜いて、のちに後北条氏に属する武将として、上野国内の要衝を支えることとなる。 Category:鎌倉幕府御家人 Category:武蔵国の人物 Category:丹党.

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安志藩

旧安志藩陣屋表門 安志藩(あんじはん)は、播磨国宍粟郡周辺を領有した譜代大名の藩。藩庁として安志(兵庫県姫路市安富町安志)に安志陣屋が置かれた。.

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安国寺利生塔

安国寺(あんこくじ)と利生塔(りしょうとう)は、南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が、北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院と仏塔。.

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安倍晴明

安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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安芸福原氏

安芸福原氏(あきふくばらし、あきふくばらうじ)は、日本の氏族の一つ。 安芸国の国人領主であった毛利元春の五男広世が、縁戚の備後長井氏へ養子に入り、後に内部荘福原を所領としたことか ら福原を名字とした。なお、福原は「ふくはら」ではなく「ふくばら」と読む。また他の福原氏との区別のため、毛利福原氏・安芸福原氏と称される。.

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安部信峯

安部 信峯(あんべ のぶみね、万治2年(1659年) - 宝永3年5月21日(1706年7月1日))は、武蔵岡部藩の第4代藩主。 第3代藩主安部信友の長男として生まれる。母は内藤忠政の娘。正室は秋月種信の娘。子は安部信賢(次男)、内藤長頼(三男)、安部信政(四男)、安部信昌(五男)、娘(松平忠盈継室)。官位は従五位下、丹波守。 延宝2年(1674年)に初めて将軍徳川家綱に御目見する。貞享3年(1686年)10月に従五位下丹波守に叙任された。播磨国赤穂藩主の浅野長矩とは、ともに母が内藤忠政の娘、つまり母方の従兄弟の関係にあるため元禄14年(1701年)3月14日に起こった浅野長矩による吉良義央への刃傷事件の際には、一族連座して一時出仕をとめられた。しかし5月にはまず出仕が許され、6月には将軍拝謁も許されるようになった。なおこの際に、同じく従兄弟にあたる戸田氏定(美濃国大垣藩主)も一緒に出仕をとめられていた。6月29日に家督相続したが、この際に弟安部信方に2,000石を分知している。8月に初めて領地入りした。宝永2年(1705年)に岡部村に陣屋を移した。正確にはこのときから岡部藩は始まった。宝永3年(1706年)に死去した。次男・信賢が跡を継いだ。 のふみね *04 Category:赤穂事件関係人物 Category:1659年生 Category:1706年没.

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安閑天皇

安閑天皇(あんかんてんのう、雄略天皇10年?(466年?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))は、第27代天皇(在位:継体天皇25年2月7日(531年3月10日?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))。.

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安藤守就

安藤 守就(あんどう もりなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国北方城主。西美濃三人衆の一人。姓は安東とも表記される。.

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安東蓮聖

安東 蓮聖(あんどう れんしょう)は、鎌倉時代中期から末期にかけての武士。北条氏得宗家被官である御内人佐藤和夫「」『弘前大学國史研究 84』1988 pp.28。蓮聖は律僧としての法名で蓮性と表記することもある。安東平右衛門入道と呼ばれたことから平姓と考えられている。 本貫地については諸説あり、駿河国北安東荘(静岡県静岡市)、陸奥国津軽十三湊(青森県五所川原市)、豊後国佐賀郷(大分県大分市)などが候補として挙げられている。摂津国、和泉国を中心とした瀬戸内海沿岸一帯に所領をもち、主に西国の得宗領の管理や海運、金融に携わった。御内人が有徳人化した代表的な例とされている。 北条時頼の被官として、弘長2年(1262年)に西大寺叡尊への使者となり、翌3年(1263年)には信濃国善光寺に時頼が不断経衆の免田を寄附した際の沙汰をしている。一方で文永年間には京で山門の僧と結び借上を営んでおり、文永8年(1271年)には幕府の禁制を犯し近江国堅田浦で仁和寺の年貢運上船を差し押さえ、醍醐寺領越中国石黒荘山田郷の雑掌から訴えられるなど御内人でありながら悪党の側面も持っている。 文永10年(1273年)摂津多田院造営の惣奉行に就く。建治 3年(1277年)には和泉久米田寺の別当職を買得、所領を寄進し律宗の寺として再興、弘安5年(1282年)には叡尊を請じ堂供養を催行した。 弘安7年(1284年)守護北条兼時の下、摂津守護代に就任。乾元元年(1302年)には数百貫の私財を投じて播磨国福泊港を修築している。 嘉暦4年(1329年)、京五条の私邸で91歳で死去した。久米田寺に伝わっている「絹本著色安東蓮聖像」は国の重要文化財に指定されている。.

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安松金右衛門

安松 金右衛門(やすまつ きんえもん、慶長16年(1611年) - 貞享3年(1686年)10月24日)は、玉川上水・野火止用水の開削で知られる武蔵川越藩士、後に郡代。本国は河内国、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し,名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。なお分限帳等の古文書には「安松金右衛門吉實」との記録が多い。「算術の達人」と称された。.

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安政南海地震

安政南海地震(あんせい なんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生した南海地震「南海地震」とは、本来1946年南海地震を指していたが、南海トラフ沿い西側半分の南海道沖を震源域とする地震も一般的に南海道地震と呼ばれてきた。2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以来、土佐湾から紀伊水道沖を震源域として発生するとされる固有地震の名称としても使われ始め、「」(平成14年法律第92号)に明記された。である。 南海トラフ巨大地震の1つとされ、約32時間前に発生した安政東海地震と共に安政地震沢村(1959), p59-60.、安政大地震とも総称される門村(1983).。この地震は嘉永年間に起きたが、この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。.

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察斗詰

察斗詰(さっとづめ)は、江戸時代の刑法の制度の1つ。察度詰とも記述される。容疑者が自白しなくとも、証拠が明白な場合、処刑できるようにするための規定である。.

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寺坂信行

『義士四十七図 寺坂吉右衛門信行』(尾形月耕画) 寺坂 信行(てらさか のぶゆき、寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日(1747年11月8日))は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。通称は吉右衛門(きちえもん)。のち麻布山内家の家臣。.

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寺井玄渓

寺井 玄渓(てらい げんけい、元和8年(1622年) - 宝永8年2月20日(1711年4月7日))は、江戸時代前期から中期にかけての医師。 玄渓とその父はもともと播磨国明石藩主本多政利(6万石)に仕えていたという。しかし本多政利は何かと不行跡が多く、天和2年(1682年)藩政を咎められて陸奥国大久保藩主1万石に減知転封されてしまう。この大幅な減知にも玄渓は本多家に残れたが、主君政利はその後も些細なことで侍女を殺害するなどの不行跡が絶えず、ついに元禄6年(1693年)に完全に領地を召し上げられた。 主家を失った玄渓は京都で医業を開業していたが、元禄13年(1700年)、播磨国赤穂藩藩医として招かれ、浅野長矩に300石5人扶持で仕えた。元禄14年(1701年)3月14日の浅野長矩殿中刃傷(赤穂事件)時には江戸藩邸に詰めていたが、その後直ちに赤穂へ向かい、終始国家老の大石良雄に従って行動する。赤穂城開城後は京都へ移った。元禄15年(1702年)7月、浅野長広の広島藩お預かりが決まり、良雄が江戸へ下る決意をすると玄渓もお供しようとしたが、8月6日に良雄は書簡を送ってこれを制止している。玄渓は代わりに息子玄達を江戸へ送って赤穂浪士たちの医療を担当させたという。 宝永8年(1711年)2月20日に京都で死去。享年90。墓は京都の長楽寺にある。法名は桐庵玄渓居士。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:江戸時代の医師 Category:1622年生 Category:1711年没.

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寺林峻

寺林 峻(てらばやし しゅん、1939年8月8日 -2017年9月30日)は日本の歴史小説作家、ノンフィクション作家。兵庫県姫路市夢前町生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。日本文芸家協会、日本ペンクラブ会員。実家は高野山真言宗鹿谷山薬上寺で、僧侶の資格を持っている清原康正『空海秘伝』(人物文庫)解説より。.

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寿岳文章

寿岳 文章(じゅがく ぶんしょう、1900年3月28日 - 1992年1月16日)は、英文学者、随筆家、書誌・和紙研究家。民芸運動家。.

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富山円

富山 圓(とみやま まどか、1851年(嘉永4年)6月 - ?)は、日本の剣術家。流派は直心影流。称号は大日本武徳会剣道範士。.

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富井於菟

富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日(1866年7月18日) - 明治18年(1885年)12月2日)は、日本の社会運動家、教師。婦人解放運動のさきがけとしてその名を知られる。別名に富井とら(虎子)。.

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寂如

寂如(じゃくにょ、慶安4年(1651年)- 享保10年7月8日(1725年8月15日))は、江戸時代前期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第14世宗主。西本願寺住職。諱は光常。院号は信解院。法印大僧正。父は第13世良如。九条兼晴の猶子。母は近江国三井の人(揚徳院寂照)。内室は鷹司信房の娘(貞淑院如瑞)。弟は播磨国本徳寺住職寂円。子は第15世住如の妻。第16世湛如は10男。.

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寛延二年大洪水

寛延二年大洪水(かんえんにねんだいこうずい)は、1749年8月13日(寛延2年7月1日)に播磨国(現在の兵庫県姫路市)の船場川で起きた水害 - 総務省消防庁(p.104を参照)。「寛延2年の水害」「播磨大水」とも称される。 豪雨で増水した船場川の市川取水口が決壊、家屋流失161戸、溺死者402人を記録し、特に船場地区は302人の死者を出した。 後に建立された菩提碑・供養費としては、四郷町の「溺死者菩提碑」(1755年(宝暦5年)建立)、法華寺(五軒邸1丁目)の供養塔、見星寺(材木町)の菩提碑(1773年(安永2年)建立) - 姫路市教育委員会(初出は1988年)がある。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛文印知

寛文印知(かんぶんいんち)は、寛文4年4月5日(1664年4月30日)に江戸幕府が日本全国の大名に対して一斉に領知判物・領知朱印状・領知目録を交付した法律。また、翌寛文5年(1665年)には、公家・門跡・寺社などに対しても同様の措置が取られ、江戸幕府の大名領知権と日本全国の土地支配権を名実ともに確立した。全国の大名・公家・寺社などが持っていた朱印状が一斉に回収・再交付されたため、これを特に寛文朱印改(かんぶんのしゅいんあらため)と呼び、これに基づいて交付された朱印状を特に「寛文朱印状」と呼ぶ。.

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小千谷縮

小千谷縮(おぢやちぢみ)は、新潟県小千谷市周辺を生産地とする苧麻=からむしを使った麻織物。撚りが強い緯糸で織った布を湯もみする事で「しぼ」を出した織物である。国の重要無形文化財の指定要項にそったものが、南魚沼市を生産地とする越後上布と共に、国の重要無形文化財に指定、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。堀次郎将俊が越後麻布から改良したもので、昔は農民の副業として特に冬に生産されていた。 小千谷縮の重要無形文化財指定要件は以下のとおりである。 一 すべて苧麻を手うみした糸を使用すること。 二 絣模様を付ける場合は、手くびりによること。 三 いざり機で織ること。 四 しぼとりをする場合は、湯もみ、足ぶみによること。 五 さらしは、雪ざらしによること。.

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小墾田宮

小墾田宮見取図 小墾田宮(おはりだのみや)は飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。「小治田宮」とも書く。近年の発掘調査から、奈良県明日香村の雷丘周辺にあった可能性が高くなっている。.

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小寺則職 (戦国時代)

小寺 則職(こでら のりもと)は、戦国時代の武将。小寺氏の当主。播磨姫路城主、御着城主。.

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小寺氏

小寺氏(こでらし)は、日本の氏族の一つ。 播磨の守護大名・赤松氏一門宇野氏の庶流であり、姫路城のち御着城を本拠として勢力を伸ばした。.

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小寺氏職

小寺 氏職(こでら うじもと)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武士。筑前国福岡藩士。.

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小寺政職

小寺 政職(こでら まさもと)は、戦国時代の武将。小寺氏の当主。播磨御着城主。.

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小山田高家

小山田 高家(おやまだ たかいえ、生年不詳 - 建武3年5月25日(1336年7月4日))は、南北朝時代の武将。秩父平氏・小山田氏の出自と見られている。名は「隆家」とも。.

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小山長村

小山 長村(おやま ながむら)は鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。下野国の有力豪族・小山氏の4代当主。父は小山朝長。母は中条宗長の娘。 『吾妻鏡』での初出は安貞2年(1228年)5月10日条で流鏑馬の射手を務めた記録で、弓矢に優れており、鶴岡馬場の儀式での射手も務めている。建長から弘長年間には、将軍・宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣の供奉人を頻繁に務めている記録が見られる。建長2年(1250年)3月28日、祖父下野入道生西(小山朝政)の十三年忌供養を行う。同年12月28日、伊勢の守藤成以来、長村まで16代相伝した下野国大介職が大神宮雑掌の訴えによって改補されたが、長村の愁訴により、評議によって返却されるべきとされた。.

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小山良速

小山 良速(おやま よしずみ、正保元年(1644年) - 正徳4年8月18日(1714年9月26日))は、安芸広島藩士。通称は孫六。 播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老大石良欽の次男として生まれる。兄に大石良昭、弟に小山良師(赤穂藩足軽頭)、妹に進藤俊式の妻つうなどがいる。良速は広島浅野本家に仕えた。赤穂藩取りつぶしの際には浅野本家からの使者にも立てられた。正徳4年(1714年)8月18日に広島で死去。享年71。 なお、良速の曾孫良尚は、甥・大石良雄の三男である大石大三郎の養子となっている。 Category:広島藩の人物 Category:赤穂事件関係人物 Category:大石氏 Category:1644年生 Category:1714年没.

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小山氏

小山氏(おやまし)は、平安時代に武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族。1150年頃、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。政光は八田宗綱の娘(後に源頼朝の乳母である寒河尼)を妻とし、頼朝の信頼厚く鎌倉幕府において重用されることとなった。関東八屋形の一つ。.

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小山朝政

小山 朝政(おやま ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。小山氏2代当主。 下野国寒河御厨(小山庄)を本貫地とする。源頼朝に挙兵の頃から仕え、下野国守護の他、播磨国守護に補されたほか、晩年に下野守にも任ぜられた。.

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小山本家酒造

株式会社小山本家酒造(こやまほんけしゅぞう、Koyama Honke Syuzo co.,ltd.)は、埼玉県さいたま市西区指扇に本社を置く、清酒を中心とする酒類の製造・販売企業。世界鷹小山家グループ(せかいたかこやまやグループ)の中核企業 - 日経テレコンにて2012年3月5日閲覧。。.

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小山敬容

小山 敬容(こやま けいよう)は幕末の国学者、歌人。岡山藩番頭伊木忠哲・土肥隆平に仕え、平田鉄胤に国学を学んだ。明治維新後奈良県に勤務したが、讒言により謹慎を命じられ、切腹した。.

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小串範行

小串 範行(おぐし のりゆき)は、鎌倉時代後期の武士。六波羅探題北方を担当した北条範貞の家臣。.

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小出吉政

小出 吉政(こいで よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。但馬出石藩主のち和泉岸和田藩2代藩主。出石藩小出家2代。.

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小出兼政

小出 兼政(こいで かねまさ、寛政9年8月27日(1797年10月16日) - 慶応元年8月17日(1865年10月6日))は江戸時代後期の和算家、暦学者。徳島藩士。土御門家師範代。宮城流、関流、最上流、和田の算術4流派の他、土御門家より暦法を修め、数学、暦学、天文学に関する膨大な著作を残した。寛政暦が採用する消長法を独自に研究して誤りと断じ、また養子小出光教等と蘭書『ラランデ暦書』を一部翻訳した。.

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小出秀政

小出 秀政(こいで ひでまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。豊臣秀頼の傅役の1人。和泉岸和田藩主。出石藩小出家初代。.

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小出英発

小出 英発(こいで ふさおき)は、丹波園部藩の第8代藩主。吉親系小出家8代。.

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小出英長

小出 英長(こいで ふさなが、寛文5年(1665年)- 元禄7年12月17日(1695年1月31日))は、但馬出石藩の第8代藩主。出石藩小出家7代。 正室は半井成忠の娘。子は小出英及(長男)。官位は従五位下、播磨守。.

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小倉城

小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区に築かれた鎌倉時代または戦国時代から江戸時代の日本の城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。.

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小倉藩

小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。.

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小笠原忠幹

小笠原 忠幹(おがさわら ただよし、文政10年9月14日(1827年11月3日) - 慶応元年9月6日(1865年10月25日))は、播磨安志藩第6代藩主、のち豊前小倉藩第9代藩主。忠脩系小笠原家11代、小笠原家宗家10代。播磨安志藩第5代藩主・小笠原長武の次男。正室は小倉藩主・小笠原忠固の養女(小倉藩主・小笠原忠徴の娘)、継室は三日市藩主・柳沢里顕の娘。子に貞孚(長男)、忠忱(次男)、きん(松平忠興継室)、登代子(徳川篤守正室)。 幼名は鋭吉、豊松丸、初名は貞幹、棟幹。安志藩主時代は貞幹(さだよし)と名乗った。官位は従四位下大膳大夫、侍従。従五位下、信濃守。.

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小笠原忠固

小笠原 忠固(おがさわら ただかた、明和7年9月4日(1770年10月22日)- 天保14年5月12日(1843年6月9日))は、豊前小倉藩の第6代藩主。小笠原家宗家7代。 播磨安志藩主・小笠原長為の長男(母が側室のため次男とされる)。母は田中易信の娘・すて。正室は第4代藩主・小笠原忠総の娘(第5代藩主・小笠原忠苗の養女)・富姫。側室に神田氏。子に小笠原忠徴(次男)、娘(堀田正愛正室のち松平忠栄正室)、娘(大久保忠修室)。官位は従四位下、大膳大夫、少将。贈正四位(1916年(大正5年)11月15日)。 小倉藩の衰退につながった白黒騒動を起こした藩主として知られる。.

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小笠原忠真

小笠原 忠真(おがさわら ただざね)は、江戸時代前期の大名、茶人。信濃松本藩2代藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩の初代藩主。.

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小笠原忠苗

小笠原 忠苗(おがさわら ただみつ)は、豊前小倉藩の第5代藩主。小笠原家宗家6代。第3代藩主・小笠原忠基の孫。.

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小笠原貞孚

小笠原 貞孚(おがさわら さだざね / さだちか)は、播磨安志藩の第7代(最後)の藩主。忠脩系小笠原家12代。.

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小笠原長さと

小笠原 長邕(おがさわら ながさと)は、豊前中津藩の第5代藩主。.

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小笠原長安

小笠原 長安(おがさわら ながやす、元和4年(1618年) - 寛文7年閏2月5日(1667年3月29日))は、豊前小倉藩の世嗣。初代藩主・小笠原忠真の長男。母は本多忠政の娘・亀姫。子は娘(松平定長正室)。官位は従五位下、兵部大輔。 播磨明石藩(のち豊前小倉藩)嫡子として生まれ、寛永15年(1638年)叙任する。しかし、家督を継ぐことなく正保3年(1646年)に廃嫡された。代わって、弟の長宣が嫡子となった。 寛文7年(1667年)、50歳で没した。 なかやす Category:小倉藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:廃嫡された人物 Category:1618年生 Category:1667年没.

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小笠原長禎

小笠原 長禎(おがさわら ながよし)は、播磨安志藩の第4代藩主。忠脩系小笠原家9代。.

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小笠原長為

小笠原 長為(おがさわら ながため)は、播磨安志藩の第3代藩主。忠脩系小笠原家8代。.

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小笠原長興

小笠原 長興(おがさわら ながおき)は、播磨安志藩の初代藩主。忠脩系小笠原家6代。.

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小笠原長逵

小笠原 長逵(おがさわら ながみち)は、播磨安志藩の第2代藩主。忠脩系小笠原家7代。.

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小笠原長次

小笠原 長次(おがさわら ながつぐ)は、江戸時代初期の譜代大名。播磨龍野藩主、のち豊州中津藩初代藩主。忠脩系小笠原家初代。.

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小笠原長武

小笠原 長武(おがさわら ながたけ)は、播磨安志藩の第5代藩主。忠脩系小笠原家10代。.

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小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

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小田野氏

小田野氏(おだのし)は日本の氏族。.

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小西惟冲

小西 惟冲(こにし いちゅう、明和6年10月7日(1769年11月4日) - 嘉永7年2月16日(1854年3月14日))は江戸時代後期の儒者。名は善継または修。字は伯述。澹斎とも号する。.

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小谷城 (播磨国)

小谷城(こだにじょう)は、兵庫県加西市北条町小谷にあった日本の城。.

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小鴨元清

小鴨 元清(おがも もときよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伯耆国久米郡岩倉城主。一部で羽衣石城主とする記述が見られるが誤りである。  .

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小野千株

小野 千株(おの の ちかぶ、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。参議・小野岑守の子。官位は従五位上・播磨守。.

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小野寺又八

小野寺 又八(おのでら またはち、? - 貞享2年(1685年))は、江戸時代前期の播磨赤穂藩士。藩主浅野長直に仕えた。小野寺十太夫(浅野長重家臣)の長男。赤穂浪士の小野寺秀和の父にあたる。又八郎(またはちろう)とも記される。諱は不明。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。 浅野家重臣多川九左衛門の娘を妻に迎え、その間に長男の秀和、次男の岡野包住、長女の貞立尼(大高忠晴正室。大高忠雄の母)を儲けた。 小野寺秀和の親類書によれば貞享2年(1685年)に死去したとある。なお妻の多川家女は討ち入り直前の元禄15年(1702年)9月9日に93歳で死去している。 またはち Category:赤穂藩の人物 Category:生年不明 Category:1685年没.

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小野市

小野市の全景北播磨総合医療センターより 小野市(おのし)は、兵庫県の中南部・東播磨のほぼ中心に位置する市で、兵庫県北播磨県民局に区分されている。.

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小野藩

小野藩(おのはん)は、播磨国加東郡を領した藩。藩庁は王子村敷地(現在の兵庫県小野市)の小野陣屋にある。 外様大名の一柳氏が、江戸時代初期から廃藩置県まで治めた。.

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小野陣屋

小野陣屋(おのじんや)は兵庫県小野市西本町(播磨国加東郡)にあった小野藩の藩庁である。.

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小松藩

小松藩(こまつはん)は、伊予国東部に所在した藩。藩庁は周布郡新屋敷村(現・愛媛県西条市小松町)の小松陣屋に置かれた。 石高1万石の小藩で、江戸時代初期の1636年から廃藩置県まで、外様大名の一柳氏が9代約230年にわたって治めた。.

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小河良利

小河 良利(おごう よしとし)は、戦国時代の武将。.

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小泉藩

小泉藩(こいずみはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は小泉陣屋(現在の奈良県大和郡山市小泉町)。.

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小早川秀秋

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.

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尼子勝久

尼子 勝久(あまご かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。.

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尼子義久

尼子 義久(あまご よしひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名、武将。尼子晴久の嫡男。.

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尼子経久

尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代の武将・大名。出雲守護代。 下記の事から十一ヶ国太守と言われる。.

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尼子氏

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.

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尼子氏久

尼子 氏久(あまご うじひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。尼子氏の家臣。.

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尼子晴久

尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。.

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尼崎藩

尼崎藩(あまがさきはん)は、摂津国川辺郡・武庫郡・菟原郡・八部郡(現在の兵庫県尼崎市・宝塚市・西宮市・芦屋市・神戸市南部・伊丹市の一部・川西市・猪名川町)を領した藩。藩庁は尼崎城。.

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尾崎貞兼

尾崎 貞兼(おざき さだかね、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。今川了俊の四男。貞臣、名和貞継、言世は兄、満範は弟。官位は播磨守。.

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尾藤知宣

尾藤 知宣(びとう とものぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。通称は甚右衛門、後に左衛門尉と称す。諱は重直、知定、知重、光房ともいう。.

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射楯兵主神社

射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は、兵庫県姫路市にある神社。播磨国総社で、播磨地域では濁らずに「そうしゃ」、「そうしゃさん」と呼ばれる。社格は、式内小社、県社。姫路城の中曲輪内に位置する。60年に1度の一ツ山大祭、20年に1度の三ツ山大祭が有名。.

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履中天皇

履中天皇(りちゅうてんのう、仁徳天皇24年? - 履中天皇6年3月15日)は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見え、これが正しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆算して369年という事になるが、定かではない。.

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山城

山城(やまじろ、やまじょう)は、険阻な山を利用して築かれた城の一種。日本においては、江戸時代の軍学者によって分類された地形による城の分類法の一つ。 ヨーロッパの山城(ドイツ・マルクスブルク城).

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山名堯熙

山名 堯熙(やまな あきひろ / たかひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。.

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山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

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山名誠豊

山名 誠豊(やまな のぶとよ、明応2年(1493年) - 大永8年3月14日(1528年4月3日))は戦国時代の武将、大名。但馬・備後守護。父は山名政豊。兄に常豊、俊豊、致豊。養子に兄・致豊の子で甥にあたる祐豊。法名は光明院殿玄峰大通大居士。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山名氏冬

山名 氏冬(やまな うじふゆ)は、南北朝時代の武将。因幡国守護。.

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山名満幸

山名 満幸(やまな みつゆき、生年不詳 - 応永2年3月10日(1395年3月31日))は、室町時代の武将、守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆守護。山名師義の4男で、義幸、氏之、義熙の弟。妻は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い満幸と名乗る。.

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山名是豊

山名 是豊(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。 父とは不仲であり、寛正元年(1460年)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462年)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464年)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。 猛将として知られる吉川経基や毛利豊元を従え上洛、応仁2年(1468年)に備後へ戻り西軍勢力と交戦、翌文明元年(1469年)に再上洛して摂津で大内政弘軍を迎撃し破り、西軍の拠点の1つ船岡山を攻撃し奪取、摂津神呪寺や山城西岡・勝竜寺城で西軍と戦うなど在京中の戦いにおいては活躍するが、文明2年(1470年)に備後に西軍が乱入したため12月23日に再度備後に戻り西軍と戦う。文明7年(1475年)に東軍である小早川煕平が篭もる高山城への援護にむかったものの遅参し、備後に到着時には既に東西両軍が和睦をした後であるなど失態を演じ人望を失い、備後を追放された。以後の消息は不明、甥とも弟ともされる山名政豊が備後・安芸・山城守護となった。 備後山名氏は政豊の子である山名俊豊が継承するも、俊豊は父と対立し、度重なる内訌を見た傘下の国人領主は続々と山名氏から離反、備後における山名氏の力はその後急速に衰退した。戦国時代、山名理興に滅ぼされたとされる山名忠勝(氏政)は備後山名氏の末裔とされるがその系譜ははっきりとはしない。.

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山名政実

山名 政実(やまな まさざね、? - 延徳元年(1489年)11月)は室町時代の人物で因幡守護。実父は山名政康。『山名系図』によると伯父である山名熈成の養子となったという。通称・孫次郎、官位は治部少輔。.

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山名政豊

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.

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山名教豊

山名 教豊(やまな のりとよ)は、室町時代後期の守護大名。但馬・播磨・備後・安芸守護。山名宗全(持豊)の嫡男。 応永31年(1424年)、山名宗全の嫡男として生まれる。室町幕府第6代将軍・足利義教と父・宗全(持豊)より1字ずつ賜り教豊と名乗る。嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると父と共に播磨へ侵攻(嘉吉の乱)、文安4年(1447年)に将軍家の椀飯を務めた。 享徳3年(1454年)、父が第8代将軍・足利義政の怒りを買い但馬へ下向し隠居した為、家督を譲られて山名氏当主となり、但馬・播磨・備後・安芸4ヶ国の守護となる。翌康正元年(1455年)5月、父が失脚した際に赤松則尚が播磨奪回をはかり山名領へ侵攻すると、父と共に赤松軍を備前へ追い払った。以後、長禄2年(1458年)に父が赦免されるまで京都へ向かい、幕府に出仕した。 畠山氏の内紛に際しては、畠山義就を支持する父に難色を示しており、寛正元年(1460年)に父と仲違いして播磨へ下向した。その後対立は解消したが、弟の是豊が父に不満を抱き、山名氏の対立も応仁の乱へ影響した。 応仁元年(1467年)9月9日、父に先立って陣没。享年44。父が一旦当主に復帰した後に、家督を嫡男(弟とも)の政豊が継いだ。.

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山名時氏

山名 時氏(やまな ときうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、引付頭人。伯耆国・出雲国・隠岐国・因幡国・若狭国・丹波国・丹後国守護。足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子は母方の従姉妹に当たる。.

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山家昌治

山家 昌治(やまべ まさはる)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏、甲斐武田氏の家臣。信濃国山家城主。当初は折野氏で、後に山家氏に改めた。 折野氏は信濃守護職小笠原氏の支流。山家氏は元々は諏訪氏の流れを汲む一族であったが、文明12年(1481年)に小笠原長朝に攻められ没落した。 山家城跡にある案内板によると、昌治は永正2年(1505年)頃に播磨国から来訪し入城したとされる。その後、山家氏に改姓した昌治は当初は小笠原長時に従っていたが、天文19年(1550年)、武田信玄の信濃府中(現 長野県松本市)侵攻の際、寝返り武田氏に従属した。 以降は信玄・勝頼の2代に仕えた。.

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山崎 - 三ノ宮線

山崎 - 三ノ宮線(やまさき - さんのみやせん)は、神姫バスの子会社ウエスト神姫によって運行される兵庫県神戸市と三木市・加東市・加西市・姫路市・宍粟市を結ぶ中国自動車道経由の昼行高速バス路線である。 座席は全便自由席。.

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山崎城 (播磨国)

山崎城(やまざきじょう)は、播磨国宍粟郡山崎(現在の兵庫県宍粟市)にあった日本の城(平山城)。別名:鹿沢城・山崎陣屋。 中世後期の山崎の地には赤松氏傘下の釜内氏が篠の丸山に築いた篠の丸城があったが、1580年(天正8年)に羽柴秀吉によって攻め落とされた。その後、神子田正治・黒田孝高・木下勝俊が城主となった。木下勝俊時代の1587年(天正15年)に篠の丸城の南側、現在の山崎城の場所である鹿沢の地に城を築いたとされているが、鹿沢には羽柴氏以前より城砦があったとする説もある。 本格的な城郭が建築されたのは、1615年(元和元年)に池田輝政の子輝澄が山崎3万8千石で入封した後である。揖保川と菅野川に挟まれた鹿沢と呼ばれる河岸段丘の南半分に築城した。川に面した崖の部分には石垣を築き、その南端に本丸を設置、続いて北側に東西に広がる形で二の丸・三の丸を設置し、その境目には揖保川から引いて構築した堀が巡らされた。更にその北側には武家屋敷、外堀を挟んだ北側には城下町が広がっていた。ただし、城は未完成のまま終わり、本丸に代替となる陣屋の設置が許されたのも本多氏が藩主となった1679年(延宝7年)以後のことであった。 池田輝澄が1代で改易された後、松井康映が入るもこれも移封となり、輝澄の甥にあたる池田恒元が入り以後3代続いたが無嗣断絶した。その後、本多忠英が1万石で入り、廃藩置県まで本多氏9代の藩主が入った。 廃藩置県後は跡地に学校施設などが設置されたものの、幕末期の設置とされる表門の紙屋門など一部が本多公園として保存の対象になっている。.

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山崎町 (兵庫県)

山崎町(やまさきちょう)は、兵庫県中西部(西播磨地区)にかつて存在した町。宍粟郡に属した。 2005年、山崎町・一宮町・波賀町・千種町が4町合併して宍粟市となったため、地方自治体として消滅した。現在、旧町域は「宍粟市山崎町○○」の町丁名になっている。.

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山崎藩

山崎藩(やまさきはん)は、播磨国宍粟郡周辺を知行した藩。藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれた。宍粟藩(しそうはん)とも呼ばれる。.

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山中幸盛

山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。通称は鹿介(しかのすけ)。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。幼名は甚次郎(じんじろう)。尼子三傑の1人。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。 尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。.

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山形藩

山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。.

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山内一豊

山内 一豊(やまうち かつとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。 父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の長男・忠義(第2代藩主)を養子とした。豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。.

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山内直通

山内 直通(やまのうち なおみち)は、戦国時代の武将。備後国甲山城主。 直通は出雲国の尼子氏、周防国の大内氏、安芸国の毛利氏との間で独立を保った。直通の妹婿である塩冶興久や渡辺通など、近隣諸国からの亡命者の多くが直通の下で保護されている。.

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山田孝堂

山田 孝堂(やまだ こうどう、文化13年(1816年) - 明治27年(1894年)11月14日)は幕末・明治の儒医。懐徳堂中井碩果門下。小野藩医兼帰正館教授、飾磨県学務総宰。.

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山田氏

山田氏(やまだし/やまだうじ)は、日本の氏族。.

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山片蟠桃

山片 蟠桃(やまがた ばんとう、延享5年/寛延元年(1748年) - 文政4年2月28日(1821年3月31日))は、江戸時代後期の商人であり学者「山片蟠桃」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。。名前は、升屋の番頭をしていたことからもじったもので、本名は長谷川芳秀、通称升屋小右衛門。.

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山鹿素行

赤穂城二の丸門跡そばにある素行の胸像 山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。.

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山辺大鶙

山辺大鶙(やまのべ の おおたか)とは、『古事記』に伝わる古代日本の豪族。『日本書紀』等に登場する「天湯河板挙」(あめのゆかわたな)と同一人物と思われる。.

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山部大楯

山部 大楯 (やまべ の おおたて、生年不詳 - 仁徳天皇40年11月)は、日本古代の豪族。姓は「連」(むらじ)。.

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山陰地方

山陰地方(さんいんちほう)は、日本の地域の一つであり、本州西部のうち日本海に面する地方である。名称は五畿七道の山陰道に因む。.

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山陽塩屋駅

山陽塩屋駅(さんようしおやえき)は、兵庫県神戸市垂水区塩屋町一丁目にある、山陽電気鉄道本線の駅。駅番号はSY 08。.

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山陽地方

山陽地方(さんようちほう)は、日本の地域の一つであり、本州の瀬戸内海側に位置する地方である。名称は五畿七道の山陽道に因む。.

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山陽道

山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、.

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山陽電気鉄道

山陽電気鉄道株式会社(さんようでんきてつどう、英称:Sanyo Electric Railway Co., Ltd.)は、兵庫県神戸市長田区御屋敷通3丁目1番1号に本社を置き、兵庫県南部で鉄道・索道・不動産事業を経営している会社である。 通称は「山陽電鉄(さんようでんてつ)」で、略称は「山陽(さんよう)」「山電(さんでん)」。乗車券では「サンヨー」の表記事例もある。鉄道事業は「山陽電車」の名称で展開している。東京証券取引所(上場時大証)1部に上場している(証券コード:9052)。旅客輸送人キロは780百万人キロ(2005年度)となっている。準大手私鉄に分類されている。 かつては直営で神戸市垂水区を中心に沿線都市で路線バスや、沿線都市と他都市を結ぶ高速バスも運行していたが、2011年3月1日に子会社の山陽バスに全面移管された(バス事業については同記事を参照)。 スルッとKANSAIでカードに印字される符号はSYである。.

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岡城 (豊後国)

岡城(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。.

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岡山県

岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面する県。県庁所在地は岡山市である。.

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岡山藩藩学

岡山藩藩学(おかやまはんはんがく)は、江戸時代前期に岡山藩によって他藩に先駆けて開かれた最古の藩校である。所在地は岡山県岡山市北区蕃山町。国学、岡山学校と呼ばれた。国の史跡。.

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岡島常樹

『義士四十七図 岡島八十右衛門常樹』(尾形月耕画) 岡島 常樹 (おかじま つねしげ、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は八十右衛門(やそえもん)。.

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岡崎神社

岡崎神社(おかざきじんじゃ)は、京都市左京区岡崎東天王町にある神社である。別名「東天王」とも言われる。 かつて付近一帯が野兎の生息地であったことから、兎が氏神様の神使とされる。.

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岡崎町

岡崎町(おかざきちょう)は、兵庫県西脇市の大字。郵便番号は677-0065.

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岡田半江

岡田半江(おかた はんこう、天明2年(1782年) - 弘化3年2月8日(1846年3月5日))は江戸時代後期の 文人画家。岡田米山人の子。大坂の出身。 幼名を常吉、諱は粛、字を士羽。半江は画号。俗称を卯左衛門(宇左衛門)、のちに吉継。.

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岡田俊陳

岡田 俊陳(おかだ としのぶ、寛永19年(1642年) - 享保11年10月18日(1726年11月11日))は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本。通称は庄大夫(しょうだゆう)。 岡田俊矩の次男として誕生。母は神尾忠次の娘。延宝8年(1680年)には館林藩主徳川徳松(徳川綱吉の子)の家臣となり、また幕府御家人に列して、切米100俵を支給された。徳松が西の丸に移ると、岡田もそれに従って西の丸で勤務するようになる。この時に旗本に昇格したと思われる。天和3年(1683年)に徳松が死去すると勘定方に転じた。貞享4年(1687年)に50俵を加増された。元禄2年には材木の問題で信濃国へ派遣された。元禄8年(1695年)2月15日、代官に就任し、各地の天領に派遣されてその統治にあたった。 元禄14年(1701年)3月14日には播磨国赤穂藩主・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだため、赤穂藩は改易となり、藩の領地もしばらく天領となった。そのため幕府は3月18日に岡田と石原正氏の両名を赤穂の代官に任命し、岡田らは4月17日に赤穂入りする(なお収城目付の荒木政羽と榊原政殊は4月15日には赤穂入りしている)。赤穂藩国家老大石良雄はその日のうちに岡田らの宿泊する宿を訪れて面会している。翌日4月18日、荒木・榊原・石原とともに大石や奥野定良らの案内で赤穂城を検分した。 その後、岡田は玉虫七郎右衛門の屋敷を代官屋敷として赤穂の統治にあたり、大石ら遠林寺で藩政残務処理にあたった者達には関所手形や仮宿証文を支給して労をねぎらっている。元禄15年(1702年)9月に永井直敬(下野国烏山藩主3万石)が赤穂藩に移されることが決まったため、岡田は10月21日をもって赤穂での役目を終えて退去した。 以後も幕府代官として各地に転々と派遣された岡田は、享保11年(1726年)10月18日に死去した。享年75。浅草の龍宝寺に葬られた。法名は求道。妻は千種勝重の娘。.

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岡田米山人

岡田 米山人(おかだ べいさんじん、延享元年(1744年) - 文政3年8月9日(1820年9月15日))は、江戸時代後期の大坂を代表する文人画家。岡田半江はその子(養子説有り)である。 通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛(よねやひこべえ)と称し一説には彦吉とも称したという。名を国、字は士彦(しげん)、画号を米山人、米翁といった。.

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岡豊前守

岡豊前守(おかぶぜんのかみ).

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岡部宣勝

岡部 宣勝(おかべ のぶかつ、慶長2年(1597年) - 寛文8年10月19日(1668年11月23日))は、美濃大垣藩の第2代藩主、播磨龍野藩主、摂津高槻藩主、和泉岸和田藩の初代藩主。岸和田藩岡部家2代。.

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岡藩

岡藩(おかはん)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった藩。藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の大野郡・直入郡・大分郡にまたがり、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。.

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岡野包住

岡野 包住(おかの かねずみ、明暦元年(1655年) - 元禄15年9月5日(1702年10月25日))は、江戸時代前期から中期の武士。播磨国赤穂藩士。通称は、金右衛門(きんえもん)。.

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岩屋城 (淡路国)

岩屋城(いわやじょう)は、淡路国津名郡(現在の兵庫県淡路市)にあった日本の城跡。別名俎板山城。.

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岩屋神社 (明石市)

岩屋神社(いわやじんじゃ)とは兵庫県明石市材木町に鎮座する神社。海上神事である「おしゃたか祭」で知られる。『延喜式神名帳』播磨国明石郡に載る伊和都比売神社の論社のひとつ。.

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岩倉城 (伯耆国)

岩倉城(いわくらじょう)は、鳥取県倉吉市岩倉にある中世の日本の城(山城跡)跡。標高247mの岩倉山に所在し、岩倉山城とも記される。.

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岸和田藩

和泉国岸和田城絵図/国立公文書館内閣文庫所蔵 岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。.

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島津忠之

島津 忠之(しまづ ただゆき)は、戦国時代の武将。赤松氏の家臣。播磨島津氏16代当主。.

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島津忠兼 (播磨家)

島津 忠兼(しまづ ただかね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。播磨国下揖保荘地頭。.

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島津忠行

島津 忠行(しまづ ただゆき)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。島津忠綱の長男。.

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島津忠長 (播磨家)

島津 忠長(しまづ ただなが)は、戦国時代の武将。播磨島津氏15代当主。『越前島津氏正統家譜』、『越前島津家文書』(越前島津氏系図)に記載される最後の当主である。播磨国立岡山城(石蜘蛛城)主。.

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島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。朝鮮出兵では鬼島津と言われた.

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島津製作所

株式会社島津製作所(しまづせいさくしょ、)は、京都府京都市中京区に本社を置く、精密機器、計測器、医療機器、航空機器の製造をおこなう企業である。.

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嶺松院 (榊原政房の娘)

嶺松院(れいしょういん、生没不詳)は、阿波徳島藩第4代藩主・蜂須賀綱通の正室。美濃高須藩初代藩主・松平義行の継室。父は播磨姫路藩第2代藩主・榊原政房。母は継室で池尻共孝の娘。兄は榊原政倫。名は松。.

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川合定恒

川合 定恒(かわい さだつね)は、江戸時代中期の前橋藩、姫路藩家老。.

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川合宗見

川合 宗見(かわい むねみ)は、江戸時代中期の姫路藩家老。.

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川之江藩

川之江藩(かわのえはん)は、江戸時代前期、伊予国に短期間存在していた藩。川之江村(現在の愛媛県四国中央市川之江)に陣屋を置いた。.

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川副久盛

川副 久盛(かわぞえ ひさもり 生年不詳 - 永禄12年(1569年))は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。官位は美作守。美作国林野城・高田城城代。尼子経久から勝久の四代に仕え、尼子氏筆頭家老・美作方面軍司令・奉行衆として働いた。河副とも表記されており、実際にはこちらの読みの方が多い。.

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巡見使

巡見使(じゅんけんし)とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった。.

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工楽松右衛門

工楽 松右衛門(くらく まつえもん、寛保3年(1743年) - 文化9年8月21日(1812年9月26日))は、日本の江戸時代における発明家、実業家。 現在の兵庫県高砂市に生まれ、兵庫(現在の神戸市兵庫区)で廻船業を経営するかたわら、帆布(松右衛門帆)を発明し、築港工事法を考案して、択捉島の埠頭や箱館のドックを築造した。これらの業績によって、日本の海運を支えた。高砂神社に松右衛門の銅像が建てられている。.

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左義長

兵庫県でのどんとたつの市 焼いている様子 左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事。地方によって呼び方が異なる(後述)。日本全国で広く見られる習俗である。.

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左甚五郎

名誉右に敵なし左甚五郎(中央が左甚五郎。歌川国芳・画、江戸時代) 左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。 日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代 - 江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。.

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巨勢真人

巨勢 真人(こせ の まひと、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。官位は正五位下・大宰少弐。.

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上京の戦い

上京の戦い(かみぎょうのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、応仁元年(1467年)5月26日から27日にかけて現在の京都府京都市上京区で東軍と西軍が衝突した。.

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上鴨川住吉神社神事舞

上鴨川住吉神社神事舞(かみかもがわすみよしじんじゃしんじまい)は、兵庫県加東市上鴨川の住吉神社で行われる神事芸能。10月4日・5日の秋祭りで行われる。王の舞・獅子舞・田楽・能、宮座など中世の祭礼芸能の形態を留めていると言われている。1977年5月17日に重要無形民俗文化財に指定された。.

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上杉綱勝

上杉 綱勝(うえすぎ つなかつ)は、江戸時代前期の大名。出羽国米沢藩3代藩主。.

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上杉憲俊

上杉 憲俊(うえすぎ のりとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。深谷上杉家9代当主。.

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上杉憲盛

上杉 憲盛(うえすぎ のりもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。深谷上杉家7代当主。武蔵国深谷城主。.

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上洛

上洛(じょうらく)とは、主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。.

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上月城の戦い

上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦である。.

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上月町

上月町(こうづきちょう)は、兵庫県中西部にかつて存在した町。 2005年10月1日、佐用町・南光町・三日月町と合併し、新たに佐用町となったため消滅した。.

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上月景貞

上月 景貞(こうづき かげさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。宇喜多氏の家臣。播磨国佐用郡上月城主。.

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上方

上方(かみがた・かみかた)は、江戸時代に京都や大阪を初めとする畿内を呼んだ名称である。広義では、畿内を初めとする近畿地方一帯を指す語としても使われる。.

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両兵衛

両兵衛(りょうべえ)とは、豊臣秀吉に仕えた2人の軍師・竹中重治(半兵衛)と黒田孝高(官兵衛)を指した名称で、二兵衛(にへえ)とも呼ばれる。しかし、この2人が同時に秀吉に仕えた時期は播磨攻めの短い期間でしかなかったこともあったため、後世になって呼ばれた呼称といわれている。 重治は美濃出身で、近江に地縁的なつながりをもつ人物であったことから秀吉の対浅井氏との戦いで活躍した。孝高は播磨の出身で地元の有力豪族小寺氏の縁者でもあり、秀吉の播磨平定戦や毛利氏との戦いにおいて活躍した。重治は播磨平定戦の途上で病没するも、孝高はその後も大名となった秀吉の配下として活躍し、九州において大名となり秀吉没後の関ヶ原の戦いにおいても功績を挙げた。 ちなみに孝高は天正6年(1578年)の有岡城の戦いにおいて荒木村重の説得に失敗し拘束されるが、織田信長に寝返りを疑われ人質の松寿丸(黒田長政)が処刑される寸前に機転を利かせて匿ったのが重治である。自身の命や竹中家を危険に晒してまで信長の命令に逆らっている事から、同僚として過ごした期間は短くとも両者の間には親密な交友があったことが伺える。その恩に応えるためか、孝高は重治の病没後に嫡子の重門の後見役を務めた。.

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中山吉成

中山 吉成 (なかやま よしなり、1621年(元和7年) - 1684年7月14日(貞享元年6月2日))『三百藩家臣人名事典』第5巻、新人物往来社、1988年。 は江戸時代前期の槍術家。通称は源兵衛。中山家吉の子。風傳流槍術を開いた。.

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中川秀成

中川 秀成(なかがわ ひでしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊後国岡藩初代藩主。 中川清秀の次男。母は熊田宗白の娘。中川秀政の弟。正室は佐久間盛政の次女(新庄直頼の養女)・虎姫。子は中川久盛(次男)、娘(水野元綱正室)。.

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中川秀政

中川 秀政(なかがわ ひでまさ、1568年(永禄11年)- 1592年11月27日(文禄元年10月24日))は、戦国時代の武将。中川清秀の嫡男で、中川秀成の兄。妻は織田信長の娘・鶴姫。右衛門尉。 はじめ父と共に織田信長に仕えた。信長没後は羽柴秀吉に仕え、1583年に父が佐久間盛政の攻撃を受けて賤ヶ岳の戦いで戦死すると、家督を継いで摂津国茨木に5万石を領した。1584年の小牧・長久手の戦い、1585年の四国征伐で功績を挙げたため、秀吉から賞されて播磨国三木13万石に加増移封された。 1587年の九州征伐では3千(『日本戦史 九州役』参謀本部の算定)の軍勢を率いて2月5日に進発し、3月には細川忠興・堀秀政らと共に筑前方面へ展開した。 1590年の小田原征伐では2千の軍勢を動員して2月25日に進発し、3月29日からの韮山城攻撃に参加したが短期間で落とせずに持久戦となり、6月に北条氏規が降伏するまで包囲が続いた。 1592年の文禄の役では先発から外れたが8月以降に渡海。京畿道陽智の守備についていたが10月24日に水原の近くで鷹狩をしていた時に敵兵に包囲されて戦死した(『日本戦史 朝鮮役』参謀本部)。12月6日付けの秀吉朱印状によると見回り中に待ち伏せにあって討ち取られたという。享年25。 本来「無覚悟」による討ち死には家督相続を許さないところであり、中川家では事実を隠蔽し戦死と取り繕おうとしたが露見し、秀吉の怒りを買った。しかし、特に父清秀の賤ヶ岳の戦いでの武功に免じて、所領半減となったものの特別に弟秀成に相続を許し、諸将に無駄死にを注意をしている。.

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中丸精十郎

中丸 精十郎(なかまる せいじゅうろう、天保11年1月1日(1840年2月3日) - 明治28年(1895年)11月15日)は、日本の画家。明治時代前期に活躍した洋画家・日本画家。号は金峰。.

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中井竹山

中井竹山(なかい ちくざん、享保15年5月15日(1730年6月29日) - 享和4年2月5日(1804年3月16日))は江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所 懐徳堂の四代目学主として全盛期を支える。中井甃庵の長男。中井履軒は実弟。中井蕉園は子。中井碩果、並河寒泉は孫。中井桐園(履軒の孫)は碩果の養子。中井木菟麻呂は桐園の子。 名を善太、元服後に積善と改名。字は子慶。号は竹山、同関子、渫翁、雪翁など。.

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中井甃庵

中井 甃庵(なかい しゅうあん、元禄6年9月29日(1693年10月29日) - 宝暦8年6月17日(1758年7月21日))は江戸時代中期の儒学者。懐徳堂二代学主。幼名は四郎、通称は忠蔵、名は誠之(さねゆき)、字は叔貴。諡号は貽範先生。贈正四位。.

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中区 (岡山市)

中区(なかく)は、2009年(平成21年)4月1日に設置された、岡山県岡山市の4つの行政区のうちの一つ。4行政区の中で最も面積が狭く、人口密度が最も高い。区域は旭川以東から百間川以西である。 名称は「中区」であるが、広島市中区とは違いこの行政区内には行政の中心となる岡山県庁舎や岡山市役所、交通の中心となる岡山駅、大規模な繁華街・商店街は存在しない(これらの施設は全て北区に存在する)。 同じような例が堺市の中区である(堺市の主要施設は堺区に存在する)。.

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中国大返し

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。.

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中国地方

中国地方(ちゅうごくちほう)は、本州の西部に位置する、日本の地域のひとつ。 鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.730 ISBN 4-09-523101-7。なお、行政上の管轄としては気象庁は山口県を除き、海上保安庁は山口県西北部、国土交通省海事事務所は下関市を除く。.

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中国国分

中国路 中国国分(ちゅうごくくにわけ)とは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と毛利輝元の同盟関係が成立した天正11年(1583年)以降、秀吉政権によっておこなわれた、山陰道・山陽道にあたる中国路に対する大名など諸領主への領土配分のことである。.

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中国攻め

中国攻め(ちゅうごくぜめ)とは、天正5年(1577年)以降、織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じておこなった、毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦である。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する軍記物などでは「中国征伐」とも称する。。いくさは足かけ6年にもおよび、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日(西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長は横死して、そのまま未完に終わった。 ※文中の( )の年は西暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。.

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中部幾次郎

中部 幾次郎(なかべ いくじろう 1866年2月18日(旧暦慶応2年1月4日) - 1946年(昭和21年)5月19日)は、明治から昭和初期(1900年代後半~1940年代前半)の実業家。林兼商店(後の大洋漁業、現在のマルハニチロの前身の一つ)創業者。貴族院議員。.

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中部地方

中部地方(ちゅうぶちほう)は、日本の地方区分(全国八地方区分)の一つで、近代における本州中部の総称。東海地方・中央高地(東山地方)・北陸地方から成り、9つの県がある。.

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中野清茂

中野 清茂(なかの きよしげ、明和2年(1765年) - 天保13年5月12日(1842年6月20日))は、江戸時代後期の9000石旗本。播磨守。別名・中野碩翁(中野 石翁、なかの せきおう)。通称、定之助。父は300俵取りの徒頭・中野清備。正室は矢部定賢の娘。後妻に宮原義潔の娘を迎えたが、離婚している。また川田貞興の娘も妻とした。 鋭い頭脳を有し、風流と才知に通じていたとされる。幕府では御小納戸頭取、新番頭格を勤め、十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であった。また、家斉の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもある。新番頭格を最後に勤めを退いて隠居、剃髪したのちは碩翁と称した。隠居後も大御所家斉の話し相手として、随時江戸城に登城する資格を有していた。このため諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが、1841年に家斉が死去し、水野忠邦が天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に逼塞し、その翌年に死去した。戒名は高運院殿石翁日勇大居士。 漢学者・五弓久文の『文恭公実録』によると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は一橋穆翁こと徳川治済、島津栄翁こと島津重豪。一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として白河楽翁こと松平定信が挙げられている)。.

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中院通躬

中院 通躬(なかのいん みちみ)は江戸時代中期の公卿、歌人。中院家(家格は大臣家)第18代当主。.

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中条信徳

中条 信徳 (ちゅうじょう のぶのり、安永7年12月4日(1779年1月21日)- 文政13年7月23日(1830年9月9日))は、江戸時代の高家旗本。播磨明石藩主松平直泰の六男。初名は直年。通称は鶴次郎。官位は従五位下侍従、大和守。 実兄に明石藩主松平直之、出雲母里藩主松平直方、実弟に高家旗本有馬広寿らがいる。文化7年(1810年)12月9日高家旗本中条信義の養子となる。文化8年(1811年)閏2月15日将軍徳川家斉に御目見する。同年6月3日高家見習に召し出されて、7月18日従五位下侍従・大和守に叙任する。文政10年(1827年)6月3日養父信義の死去により、家督を相続する。文政12年(1829年)10月28日病気を理由に高家職を辞職する。文政13年(1830年)7月23日死去、53歳。 正妻は中条信義の娘。実子1人(中条信礼)、養子1人を確認できる。 のふのり Category:明石松平氏 Category:江戸幕府旗本 Category:1779年生 Category:1830年没.

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中条氏

中条氏は、日本の氏族の一つ。.

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中村楽天

中村 楽天(なかむら らくてん、1865年8月30日(慶応元年7月10日) - 1939年(昭和14年)9月19日は、兵庫県出身の日本の俳人、ジャーナリスト。本名は中村修一。.

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中村正辰

『義士四十七図 中村勘助正辰』(尾形月耕画) 中村 正辰(なかむら まさとき、万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘助(かんすけ)。.

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中村氏

中村氏(なかむらし)は、日本の氏族。郡や荘園の中心や地域の中心村落が中村と呼ばれた事によって、そこを領したりそこに住したりした人々が中村を号した事によって源平藤橘の出自から出自不詳まで幅広く存在している。また中村姓は現在日本全国で25万世帯以上(100万人以上)ある。 日本史上著名な一族は以下の通り。.

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中村春続

中村春続(なかむらはるつぐ、生年不詳 - 天正9年10月24日(1581年11月20日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め大炊助、後に対馬守。.

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中津藩

中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。.

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丸尾光春

丸尾 光春(まるお こうしゅん、元治2年1月16日『人事興信録 第4版』(1865年2月11日) - 大正12年(1923年)4月2日『衆議院議員名鑑』)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。医師。.

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丸山城

丸山城(まるやまじょう)は日本の城。.

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丸山城 (摂津国有馬郡)

丸山城(まるやまじょう)は、兵庫県西宮市山口町金仙寺にあった日本の城。.

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丸亀城

丸亀城(まるがめじょう)は讃岐国、現在の香川県丸亀市にあった日本の城である。別名、亀山城(かめやまじょう)、蓬莱城(ほうらいじょう)ともいう。.

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丸亀市

丸亀市(まるがめし)は、香川県中西部に位置する市。 香川県では高松市に次ぐ第二の都市であり、中・西讃地方の中心都市である。 中心には丸亀城があり、市の象徴となっている。また、丸亀うちわの製造が伝統産業で、生産量は全国の9割を占める。.

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丸亀藩

丸亀藩(まるがめはん)は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続きそれぞれ藩主独特の城下町を形成し廃藩置県を迎えた。 なお生駒氏は、高松城を本城とし讃岐一国を領したため、生駒氏が領した西讃を丸亀藩と呼ぶには適さないとも考えられるが、現在ではその頃も丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含める。.

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常陸国風土記

『常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。.

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丹羽薫氏

丹羽 薫氏(にわ しげうじ)は、江戸時代中期の大名。越後高柳藩の第2代藩主、播磨三草藩の初代藩主。氏次系丹羽家7代。 元禄8年(1695年)、先代藩主・丹羽氏音の兄・丹羽氏右の長男として生まれる。元禄15年(1702年)に美濃岩村藩主だった氏音がお家騒動により高柳藩へ減転封された後、宝永2年(1705年)に氏音の末期養子となって1万石を新たに与えられ、跡を継いだ。宝永6年(1709年)3月7日に叙任する。享保4年(1719年)に奏者番、元文4年(1739年)8月に大坂城定番に任じられ、所領を河内・播磨・美作に移される。 延享3年(1746年)、越後高柳藩から播磨三草藩に転封となる。 宝暦7年(1757年)5月22日に死去した。享年63。跡を長男の氏栄が継いだ。墓所は東京都杉並区の海雲寺。 *01 Category:越後国の藩主 しけうし Category:1695年生 Category:1757年没.

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丹羽氏

丹羽氏(にわし)は、日本の氏族。.

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丹羽氏中

丹羽 氏中(にわ うじのり)は、幕末の大名。播磨三草藩の第6代(最後)の藩主。氏次系丹羽家12代。 天保7年(1836年)2月18日、第5代藩主丹羽氏賢の弟・丹羽氏謙の三男として生まれる。嘉永6年(1853年)3月25日、伯父・氏賢の養子となる。同年10月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月8日、氏賢の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下長門守に叙任する。 文久3年(1863年)9月10日、大番頭に就任する。慶応3年3月1日、大番頭を解任される。慶応4年(1868年)2月26日、新政府に勤王誓書を提出、3月22日上洛し、恭順の姿勢を示す。戊辰戦争では新政府に軍資金を提供するなどして協力した。明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官される。明治17年(1884年)4月21日に死去した。享年49。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。 うしのり *06 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1836年生 Category:1884年没.

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丹羽氏福

丹羽 氏福(にわ うじよし)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨三草藩の第3代藩主。氏次系丹羽家9代。 宝暦12年(1762年)、初代藩主丹羽薫氏の三男巨勢利永の次男として生まれる。第2代藩主の氏栄とは従兄弟に当たり、明和元年(1764年)8月8日に氏栄の養子となる。明和8年(1771年)7月9日、氏栄の死去により跡を継いだ。安永6年5月15日、将軍徳川家治に拝謁する。安永9年(1780年)12月18日、従五位下、長門守に叙任する。 天明2年(1782年)4月、日光祭礼奉行を命じられる。天明5年4月、日光祭礼奉行を再び命じられる。寛政元年(1789年)12月27日に大番頭となる。 寛政8年(1796年)2月6日、長男の氏昭に家督を譲って隠居し、勝道と名を改めた。寛政13年1月21日、総髪の許可を得て、閑斎と称する。天保14年(1843年)閏9月21日に死去した。享年82。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。 うしよし Category:巨勢氏 *03 Category:1762年生 Category:1843年没.

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丹羽氏音

丹羽 氏音(にわ うじおと、延宝6年(1678年) - 宝永2年閏4月7日(1705年5月29日))は、美濃岩村藩第5代藩主、越後高柳藩の初代藩主。氏次系丹羽家6代。 岩村藩第2代藩主・丹羽氏定の弟・丹羽信氏の次男。正室は郡上藩主・井上正任の娘。官位は従五位下・和泉守。幼名は庄之助。 貞享3年(1686年)、第4代藩主・丹羽氏明の養子となり家督を継ぐ。その後、側用人に非門閥の山村瀬兵衛を抜擢し、財政改革に当たらせたが、山村への反対派がその排除を画策し、幕府に山村の専横を訴える騒動を起こす。裁定結果は山村の無罪となったが、氏音はその内乱を収められなかったとして9,000石没収・閉門・越後国高柳藩1万石への移封を命じられた。宝永2年(1705年)閏4月7日に子女なく没し、跡は甥で養子の薫氏が継ぎ、後に播磨三草藩主となって家は存続した。 法号は後勝院傑岑良英。墓所は東京都杉並区の海雲寺。 Category:岩村藩主 Category:越後国の藩主 うしおと Category:恵那市の歴史 Category:1678年生 Category:1705年没.

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丹羽氏賢

丹羽 氏賢(にわ うじまさ)は、江戸時代後期の大名。播磨三草藩の第5代藩主。氏次系丹羽家11代。 文化8年(1811年)11月25日、第4代藩主丹羽氏昭の長男として生まれる。文政10年(1827年)9月2日、父の死去により跡を継ぐ。12月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。12月28日、従五位下長門守に叙任する。 文政12年4月、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永6年(1853年)12月8日に婿養子の氏中に家督を譲って隠居し、翌嘉永7年(1854年)9月28日に死去した。享年44。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。 うしまさ *05 Category:幕末の大名 Category:1812年生 Category:1854年没.

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丹羽氏栄

丹羽 氏栄(にわ うじひで)は、江戸時代中期の大名。播磨三草藩の第2代藩主。氏次系丹羽家8代。 享保元年(1716年)、初代藩主丹羽薫氏の長男として生まれる。享保18年(1733年)12月18日に従五位下に叙任する。宝暦7年(1757年)の父の死去で跡を継ぐ。宝暦10年(1760年)5月11日に大番頭、明和元年(1764年)6月21日に大坂定番となる。明和8年(1771年)7月9日に死去した。享年56。跡を養子の氏福が継いだ。墓所は兵庫県加東市山国の妙仙寺。 うしひて *02 Category:1716年生 Category:1771年没.

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丹羽氏昭

丹羽 氏昭(にわ うじてる)は、江戸時代後期の大名。播磨三草藩の第4代藩主。氏次系丹羽家10代。 天明3年(1783年)7月24日、第3代藩主丹羽氏福の長男として生まれる。寛政8年(1796年)2月6日、父の隠居で家督を継ぐ。寛政10年(1798年)10月1日に将軍徳川家斉に拝謁、12月16日に叙任する。 享和元年(1801年)4月、日光祭礼奉行を命じられる。文化元年(1804年)11月19日、大番頭に就任する。文化12年1月12日、伏見奉行に就任する。文政2年8月8日、奏者番に就任する。文政10年(1827年)9月2日、父に先立って死去した。享年45。跡を長男の氏賢が継いだ。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。 うしてる *04 Category:伏見奉行 Category:1783年生 Category:1827年没.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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丹波赤井氏

赤井氏(あかいし)は、日本の氏族。中世の丹波国氷上郡に拠った武士。居城は黒井城。.

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丹波方言

丹波方言(たんばほうげん)は、京都府中部と兵庫県東部にまたがる丹波地方において話される日本語の方言である。近畿方言の一つ。方言学では、旧丹後国の舞鶴市から宮津市南東部も含む(舞鶴弁参照)。 奥村三雄による波動論的な言語区画案図。橙色が中近畿式方言、水色が北近畿式方言、茶色が西近畿式方言、黄色が東近畿式方言、緑色が南近畿式方言。濃い青色と濃い緑色は非近畿式方言。丹波はこの地図では3つの区画にまたがっている.

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七姓漢人

七姓漢人(しちしょうかんじん)とは、応神天皇の時代に阿知使主とともに日本に帰化した漢人。朱・李・多・皀郭・皀・段・高の7つの姓があった。単に七姓とも表記される。.

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帖佐宗光

帖佐 宗光(ちょうさ むねみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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世直し一揆

世直し一揆(よなおしいっき)は、江戸時代後半から明治時代初期にかけて多発した一揆。.

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市川 (兵庫県)

鉱業関係の施設を川上に望む上流部(朝来市生野) 市川の下流部 市川(いちかわ)は、兵庫県南西部を流れる二級水系の本流。「播磨五川」のうち、流路延長では加古川に次ぐ。 流域の播磨国府の市(飾磨の市)から市川と呼ばれるようになったと考えられている。.

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市磯長尾市

市磯長尾市(いちしのながおち、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。 倭直(倭氏)の遠祖である。倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)の起源譚で知られる。『古事記』に記載はない。.

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市谷亀岡八幡宮

市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)は、東京都新宿区市谷八幡町にある神社。.

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市辺押磐皇子

市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、? - 安康天皇3年10月)は、記紀・『風土記』に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。磐坂皇子(いわさかのみこ)・磐坂市辺押羽皇子・天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしはのみこと、以上『日本書紀』)・市辺之忍歯王・市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ、以上『古事記』)・市辺天皇命(いちのへのすめらみこと、『播磨国風土記』)とも。履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇(・飯豊青皇女)の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。.

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三友寺

三友寺(さんゆうじ)は、岡山県岡山市中区門田屋敷にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は鳳祥山。寺名は、池田輝政が慶雲寺の三要庵を改称したものである。.

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三好実休

三好 実休(みよし じっきゅう)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の次男。.

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三好之長

三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曽祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。.

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三好元長

三好 元長(みよし もとなが)は、戦国時代の阿波国の武将。細川晴元(六郎)に仕え、その偏諱を与えられて元長と名乗る。 父に関しては三好長秀という説が有力であるが、祖父で長秀の父・三好之長の子という説もある。本来ならば之長の後継者だった長秀が早くに戦死したため、之長が元長を長秀の養子にしたという説もある。.

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三好長逸

三好 長逸(みよし ながやす)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。.

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三好氏

三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.

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三好政長

三好 政長(みよし まさなが)は、戦国時代の武将。三好氏の一族。三好勝時の三男で新五郎、勝長の弟。子に宗渭、為三、娘(池田信正室)。宗三の名でも知られる。分家出身ながら細川晴元の側近として台頭し権勢を振るったが、後に本家と対立して敗死した。.

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三好政権

三好政権(みよしせいけん)とは、天文18年(1549年)から永禄11年(1568年)まで存在した日本の武家政権である。同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われる。そのため、織田政権の前提となる「プレ統一政権」であると評価されることもある。.

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三室戸家

三室戸家(みむろどけ、「みむろと」は誤読)は、名家の家格を有する公家。藤原北家藤原真夏流日野流柳原庶流。家業は文学・華道(竹真流)。江戸時代の家禄は130石。家紋は鶴丸(但し、先端の羽根は3本)。明治維新後、雄光が子爵に叙せられた。.

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三宅尚斎

三宅 尚斎(みやけ しょうさい、寛文2年1月4日(1662年2月22日) - 元文6年1月29日(1741年3月16日))は、江戸時代前期の儒学者。名は重固。小字は儀左衛門、後に丹治と改める。佐藤直方・浅見絅斎と共に山崎闇斎門の三傑と称せられる。.

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三宅康直

三宅 康直(みやけ やすなお、文化8年7月24日(1811年9月11日)- 明治26年(1893年)8月9日)は、江戸時代後期の大名。三河国田原藩の第11代藩主。田原藩三宅家14代。 播磨国姫路藩藩主・酒井忠実の六男。母は忠実の側室・於満寿。正室は西尾忠善の娘、継室は本庄宗秀の養女(本庄道貫の娘)。子に酒井忠顕(長男)、酒井忠敬(三男)、竹腰正旧(四男)、娘(酒井忠彰正室)、娘(三宅康保正室)、娘(水野忠幹継々室)ら。官位は従四位、土佐守。号は王春、巴翁。幼名は稲若。.

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三宅康明

三宅 康明(みやけ やすてる、寛政12年7月3日(1800年8月22日) - 文政10年7月10日(1827年8月31日))は、三河国田原藩の第10代藩主。田原藩三宅家13代。 第8代藩主・三宅康友の三男で、第9代藩主・三宅康和の弟。正室は岡部長慎の養女(土井利義の娘)。官位は従五位下、備前守。 文政6年(1823年)に兄・康和が死去したため、その跡を継いだ。しかし文政10年(1827年)7月10日、嗣子無くして病死した。藩内では康明の死を10月23日まで伏せていたという。跡継ぎとして、重臣の一人渡辺崋山は康明の弟・友信を推したが、他の重臣たちは財政窮乏のために他家から養子を迎え持参金を得ることを考え、播磨国姫路藩主・酒井忠実の六男である三宅康直を迎えて藩主とした。墓所は愛知県田原市北番場の霊巌寺。 三10 やすてる Category:1800年生 Category:1827年没.

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三宅国村

三宅 国村(みやけ くにむら)は、戦国時代の武将。摂津の有力国衆で摂津国島下郡(現、大阪府茨木市)三宅城を本拠とする。妻は摂津富田教行寺の僧下間頼広の娘。.

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三宅氏

三宅氏(みやけし)は、日本の氏族のひとつ。 三宅氏には多くの流派がある。.

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三島由紀夫

三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。血液型はA型「第一章」()。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である「第一回 三島由紀夫の誕生」()「十四 ノーベル文学賞の有力候補」()松永尚三「ヨーロッパ・フランス語圏における三島劇」()。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある「三島由紀夫」()。 満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」(新潮文庫版『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』解説、1973年12月執筆)「不思議な共感」「三島由紀夫の生まれ育った時代」()。 代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴「第六回 舞台の多彩の魅力」()「各項〈作品解説〉」()。 晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を及ぼした(詳細は三島事件を参照)。.

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三州

三州(さんしゅう).

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三上参次

三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日) - 1939年6月7日)は、日本史学者。.

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三善為長

三善 為長(みよし の ためなが、寛弘4年(1007年)- 永保元年8月3日(1081年9月8日))は、平安時代中期から後期の貴族。算博士雅頼の子。 長暦3年(1039年)に算博士となり、後に大外記・主税権助を兼ねた他、美濃・越後・越前・備前・播磨の介を兼ねた。延久元年(1062年)には、長年の労により紀伝道以外の学者ながら対策の問答博士(試験官)に任じられ、同4年(1065年)には淡路守を兼職する(『除目申文之抄』)。承暦3年(1079年)には従四位下に叙せられた。 実子三善雅仲(従五位下大外記・算博士)がいたものの、算道に通じた門人射水為康を養子に迎えて跡継ぎとした。 Category:平安時代後期の貴族 Category:和算家 ためなか Category:1007年生 Category:1081年没 Category:数学に関する記事.

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三勝寺

三勝寺(さんしょうじ)は、広島県三次市にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。.

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三国岳

三国岳(みくにだけ/さんごくだけ)は、日本各地に見られる山の名称である。例外も存在するが、三国山 (曖昧さ回避)と同様に多くが三国の国境の交点に鎮座する。山頂部が三国の国境の交点からずれる場合も少なくない。.

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三国相伝陰陽カン轄ホキ内伝金烏玉兎集

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)』は、安倍晴明が編纂したと伝承される占いの専門・実用書。実際は晴明死後(成立年代は諸説ある)に作られたものである。 『三国相伝宣明暦経註(さんごくそうでんせんみょうれきけいちゅう)』ともいい、『簠簋内伝(ほきないでん)』または『簠簋(ほき)』、または『金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』と略称される。 ちなみに「簠()簋()」とは、古代中国で用いられた祭器の名称である。.

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三国村 (岡山県)

三国村(みくにそん)は、岡山県和気郡にあった村。 現在の備前市吉永町加賀美、吉永町笹目、吉永町多麻、吉永町都留岐に当たる。美作、播磨地域に接する備前地域の村であった。.

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三石城

三石城(みついしじょう)は、岡山県備前市三石に存在した日本の城(山城)。.

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三田城

三田城(さんだじょう)は、兵庫県三田市屋敷町・天神の周辺にあった日本の城。安土桃山時代以前の三田城については不明な点が多い。江戸時代以降は、領主となった九鬼氏が無城主であったため三田陣屋と称された。しかし、藩庁である三田陣屋は、それまでの旧三田城を取り込んで構築され、櫓や石垣などは築かれなかったものの、城郭に匹敵するほどの規模であった。.

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三田尻中関港

三田尻中関港(みたじりなかのせきこう)は、山口県防府市にある山口県管理の港湾。隣接する三田尻港と中関港を総称して呼ばれる。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。.

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三田市

三田市(さんだし)は、兵庫県の市。阪神北県民局管轄区域。本項では市制前の名称である三田町(さんだちょう)についても述べる。 摂津国が丹波国・播磨国と国境を接している阪神地域の北側に位置している。「阪神地域」と称される地域のうちでは豊かな自然が残っている田園都市である。.

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三田藩

三田藩(さんだはん)は、摂津国有馬郡三田(現在の兵庫県三田市)周辺を領有した藩。藩庁は当初三田城、のち三田陣屋。.

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三草

三草(さんそう、みくさ).

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三草山の戦い

三草山の戦い(みくさやまのたたかい)は、治承8年/寿永3年2月5日(1184年3月18日)播磨国の三草山における源義経軍と平資盛軍による戦い。平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱の合戦の一つで、一ノ谷の戦いの前哨戦である。.

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三草藩

三草藩(みくさはん)は、播磨国加東郡周辺を領有した譜代大名の藩。藩庁として三草(兵庫県加東市上三草)に陣屋が置かれた。.

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三角山 (鳥取県)

三角山(三隅山、みすみやま)(別名「頭巾山・襟巾山(ときんやま、とっきんざん)」)は、鳥取県鳥取市(旧用瀬町)にある山で、中国百名山の一つ。標高516メートルの山頂には三角山神社があり、その本殿は鳥取市の指定文化財になっている。.

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三枝

三枝;さんし.

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三村包常

『三村次郎左衛門包常』(尾形月耕画) 三村 包常(みのむら かねつね、寛文7年(1667年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は次郎左衛門(じろうざえもん)。.

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三河吉田藩

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.

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三淵晴員

三淵 晴員(みつぶち はるかず)は、戦国時代の武将。室町幕府幕臣(申次衆)。細川藤孝(幽斎)の父。.

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三木 (曖昧さ回避)

三木(みき、さんぼく)とは「三本(三柱)の木」を意味する言葉。もしくは日本の地名のひとつ。あるいは、これらに由来する日本人の氏姓のひとつ。.

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三木城

三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(兵庫県三木市上の丸町)にあった日本の城。平山城。釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。.

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三木合戦

三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城した。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。 (※以後の日付は特に断りのない限り、すべて旧暦で記す).

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三木家住宅 (兵庫県姫路市)

三木家住宅(みきけじゅうたく)は、兵庫県姫路市にある歴史的建造物。林田大庄屋旧三木家住宅として一般公開されている。.

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三木屋

三木屋(みきや)は、兵庫県豊岡市の城崎温泉にある旅館。.

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三木之次

三木 之次(みき ゆきつぐ、天正3年(1575年) - 正保3年1月11日(1646年2月26日))は、江戸時代初期の武士。常陸水戸藩の家臣。通称は仁兵衛(にへえ)。.

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三木町 (兵庫県)

三木町(みきちょう)は、兵庫県美嚢郡にかつてあった町である。.

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三木郡

*.

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三木氏

三木氏(みきし、みつきし)は、日本の氏族。中世から近世まで栄えた豪族・大名の一族。.

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三木清閑

三木 清閑(みき せいかん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。播磨英賀城主三木通秋の家臣。.

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三浦芳聖

三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年(明治37年)9月17日 - 1971年(昭和46年)3月30日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人。三浦天皇、または芳聖天皇。.

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三浦貞広

三浦 貞広(みうら さだひろ、生没年不詳)は、日本の戦国時代の武将。道祖(才)五郎、次郎。能登守と称したとも考えられる。父は三浦貞久。弟に貞勝。 天文17年(1548年)9月16日の父・貞久の病死を受けて家督を相続。以降惣領として出雲尼子氏のもとにあったが、後に帰国。牧尚春等と共に、三村家親によって没落した三浦氏の再興を目指した。そして永禄9年(1566年)2月、三村家親が宇喜多直家に美作国籾村の興善寺で暗殺されたのに乗じて所領を奪回した。 しかし永禄11年(1568年)2月19日、毛利元就に攻められて叔父三浦貞盛が死去、居城である高田城も落城し所領を追われた。元亀元年(1570年)、山中幸盛の支援を得て所領を奪回した。 天正2年(1574年)に浦上宗景と宇喜多直家が対立した際には浦上氏に与同し、備中国の三村元親を同盟に引き入れた。このことから宇喜多氏と交戦、更に翌3年(1575年)には備中国を平定した毛利氏の侵攻を受けるに至って、同年9月、宇喜多直家の周旋により降伏した(天神山城の戦い)。 以降貞広は天正10年(1582年)に備中高松合戦に参陣、その後播磨国林田で病死したとされる(「高田城主次第」)。 さたひろ Category:戦国武将 Category:美作国の人物 Category:生没年不詳.

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三方領知替え

三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)とは、江戸時代に江戸幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。大名3家の領地(知行地)を互いに交換させることを言う。例えば、領地aを持っている大名家Aを領地bへ、領地bを持っている大名家Bを領地cへ、領地cを持っている大名家Cを領地aへ同時に転封すること。「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。江戸時代を通じて何回か行われている。4家が関係した「四方領知替え」の例もある。.

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三日月藩

三日月藩(みかづきはん)は播磨国佐用郡三日月(兵庫県佐用郡佐用町三日月)周辺を領した藩。藩庁は三日月陣屋。別名・乃井野藩(のいのはん)。.

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三日月陣屋

三日月陣屋(みかづきじんや)は、兵庫県佐用郡佐用町にある日本の陣屋。別名を乃井野陣屋(のいのじんや)という。.

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下田中城

下田中城(しものたなかじょう)は、兵庫県三田市下田中周辺にあった日本の城(平城)、方形居館。曲輪跡等の遺構が残っていたようだが河川改修に伴い消滅し、正確な城郭については不明である。.

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下間頼龍

下間 頼龍(しもつま らいりゅう、天文21年(1552年)- 慶長14年6月15日(1609年7月16日))は、戦国時代の武将、本願寺の僧侶。父は下間真頼、妻は池田恒興の養女で織田信時の娘。子に頼広(後の播磨播磨新宮藩主・池田重利)、宮城政次、池田輝政養女(建部光重室)、徳永昌重室、大久保長安室。幼名は松菊、通称は按察使。法名は了明。 本願寺の僧侶の中では、軍事よりも政治や文化方面に通じており、堺の商人達とも茶会などから交流があったといわれている。石山合戦においては元亀3年(1572年)に同族の下間頼資・頼純父子と共に織田信長側の細川昭元を攻めて戦功をあげている。 天正8年(1580年)に本願寺法主・顕如が信長に降伏した時、同族の下間頼廉・下間仲孝と共に和睦条約に連署した。だが、翌年に顕如の長男・教如が石山本願寺への再籠城の企てをした時、教如の側近だった頼龍は教如に従ったため顕如から叱責を受けている。文禄元年(1592年)に顕如が没し、法主となった教如に赦免され、慶長7年(1602年)の本願寺の東西分裂にも教如に従い、東本願寺の坊官となった。慶長14年(1609年)、58歳で死去。 子の頼広も教如に従ったが、やがて出奔して池田輝政に仕え、池田重利と改名して大名となった。.

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下間氏

下間氏(しもつまし)は摂津源氏を自称する一族であり、代々本願寺の坊官を務めてきた家柄で地下家である。戦国時代に一向一揆の指導者として活躍したものが一族に多い。なお加賀一向一揆の指導者の1人下間蓮崇は、蓮如から姓を下賜されたものであり、本姓も異なる。 下間氏の初代とされる源宗重は源頼政の玄孫である。承久元年(1219年)、同族の源頼茂(頼政の孫)が鎌倉幕府打倒を企てたとして討たれると、宗重も連座して処刑される事となった。だが、たまたま通りかかった親鸞が処刑する事の非を説いたため、親鸞が宗重を出家させる事を条件に助命された。宗重は親鸞に深く感謝してその弟子となって東国での伝道に随従する。親鸞が常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)に庵を構えた時にこれを記念して宗重は「下妻」を名乗り、これが変化して「下間」になったのだという。 織田信長と石山本願寺11世法主顕如が衝突した石山合戦では主に下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝らが顕如に従って織田軍と戦った。顕如の死後、東本願寺と西本願寺に分裂すると下間氏一族もまた分裂することとなり、頼廉の刑部卿家、仲孝の少進家、下間頼芸の宮内卿家が西本願寺に仕えた。頼龍・頼広父子は東本願寺に仕えたが、頼龍の死後、頼広は出奔して親族の池田輝政を頼り、のち池田姓を名乗り池田重利と改名した。池田氏の重臣としての扱いを受けていたが、池田氏に従軍した大坂の陣の戦功により徳川家康から摂津尼崎藩1万石を与えられ、独立大名待遇となった。本家格である池田氏の転封に伴い播磨鵤藩のち新宮藩1万石に移動した。重利から五代後に池田家から養子を迎え、この系譜の下間氏の血統は途絶えている。.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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一向俊聖

一向 俊聖(いっこう しゅんしょう、暦仁2年1月1日(1239年2月6日)? - 弘安10年11月18日(1287年12月24日)?)は、鎌倉時代の僧侶。伝記に謎が多く、実在が疑問視されていたが、考古遺物により、存在が証明された。.

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一宮

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.

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一宮町 (兵庫県宍粟郡)

一宮町(いちのみやちょう)は、兵庫県中西部にかつて存在した町。宍粟郡に属した。 2005年、山崎町・一宮町・波賀町・千種町が4町合併して宍粟市となったため消滅した。現在、旧町域は「宍粟市一宮町○○」の町丁名になっている。 町名は播磨国一宮・伊和神社に由来する。なお兵庫県には津名郡にも一宮町があったが(現・淡路市)、こちらは淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮にちなむ。.

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一之森城

一之森城(いちのもりじょう)は、愛媛県北宇和郡鬼北町に存在した日本の城(山城)。.

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一ノ谷の戦い

一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。.

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一王山町

一王山町(いちのうさんちょう)は神戸市灘区の町名。住居表示実施済み。丁番を持たない単独町名である。平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)における世帯数は490、人口1,015で内男性517人・女性498人。郵便番号は657-0012。.

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一遍

一遍(いっぺん、延応元年(1239年) - 正応2年(1289年))は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。.

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一色義貫

一色 義貫(いっしき よしつら)は、室町時代の武将、守護大名。丹後一色氏の当主。 室町幕府第4代将軍・足利義持より偏諱を受け、初めは父の1字と合わせて義範を名乗り、のち義貫と改名する。尚、上の「義」の字を与えられていることから、下の「持」の字を与えられた兄・持範、弟・持信に比べ、良い待遇を受けていたものと推測される。.

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一柳直家

一柳 直家(ひとつやなぎ なおいえ)は、江戸時代初期の大名。伊予川之江藩主、のち播磨小野藩初代藩主。.

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一柳直盛

一柳 直盛(ひとつやなぎ なおもり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。 一柳直末の弟。豊臣政権下で尾張黒田藩主。江戸幕府の下で伊勢神戸藩主。晩年に伊予西条藩初代藩主となったが、領地に入る前に死去した。.

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一柳直次

一柳 直次(ひとつやなぎ なおつぐ)は、江戸時代前期の大名。播磨小野藩の第2代藩主。.

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一柳直昌

一柳 直昌(ひとつやなぎ なおまさ、明暦3年(1657年) - 元禄14年6月20日(1701年7月25日))は、播磨小野藩の世嗣。 第2代藩主・一柳直次の次男。母は一柳直家の娘。正室は清閑寺煕定の娘。子は一柳末昆(長男)、娘(藤堂長熙室)。通称、縫殿。 兄で3代藩主の末礼に男子がなかったため、兄の養子となる。元禄元年(1688年)徳川綱吉に拝謁したが、家督を相続することなく元禄14年(1701年)早世した。代わって、長男・末昆が小野藩嫡子となった。 なおまさ Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1657年生 Category:1701年没.

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一柳頼親

一柳 頼親(ひとつやなぎ よりちか)は、江戸時代後期の大名。伊予小松藩の第7代藩主。.

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一柳氏

一柳氏(ひとつやなぎし)は、日本の氏族(武家)。本姓は越智氏。伊予国(現在の愛媛県)の河野氏の庶流。家紋は一柳釘抜など。.

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一柳満喜子

一柳 満喜子(ひとつやなぎ まきこ、1884年(明治17年)3月18日 - 1969年(昭和44年)9月7日)はキリスト教教育者。近江兄弟社で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻で、近江兄弟社学園の学園長を務めた。.

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一柳末延

一柳 末延(ひとつやなぎ すえのぶ、文化11年8月10日(1814年9月23日) - 安政2年3月27日(1855年5月13日))は、播磨小野藩の第9代藩主。 第8代藩主・一柳末周の長男。母は藤堂高嶷の娘。正室は秋月種任の娘。子に一柳末彦(長男)、娘(高木正坦正室、のち朽木之綱正室、のち斯波喜氏室)、娘(青木某室)。官位は従五位下。土佐守。 江戸にて生まれる。天保2年(1831年)11月23日、父が病気を理由に隠居したため跡を継いだ。しかし天保4年(1833年)には加古川で世直し一揆が起こるなどの災難に遭う。天保7年(1836年)には国学者の大国隆正を招聘して藩校・帰正館を創設した。 安政2年(1855年)3月27日、小野にて死去し、跡を長男・末彦が継いだ。墓所は小野市垂井町の光明寺。 すえのふ *09 Category:幕末の大名 Category:1814年生 Category:1855年没.

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一柳末彦

一柳 末彦(ひとつやなぎ すえよし、天保14年6月4日(1843年7月1日) - 明治14年(1881年)6月28日)は、播磨小野藩の第10代藩主。 第9代藩主・一柳末延の長男。生涯独身のため、正室・側室ともになし。官位は従五位下、対馬守、土佐守。 小野で生まれる。安政2年(1855年)、父の死去により跡を継ぐが、文久3年(1863年)6月9日に養嗣子の末徳に家督を譲って隠居し、明治14年(1881年)6月28日に39歳で死去した。 すえよし *10 Category:幕末の大名 Category:1843年生 Category:1881年没.

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一柳末徳

一柳 末徳(ひとつやなぎ すえのり、嘉永3年7月19日(1850年8月26日) - 大正11年(1922年)3月7日)は、播磨小野藩の第11代(最後)の藩主。 丹波綾部藩主・九鬼隆都の五男。正室は栄子(一柳頼紹の娘)。継室志乃。妾蓉子他。子は長男一柳譲二、次男広岡恵三(加島銀行、大同生命、大阪電気軌道。広岡浅子の女婿)、三男一柳剛、長女(大井光衛室)、次女喜久子(森忠恕室)、三女満喜子(ウィリアム・メレル・ヴォーリズ夫人)、四女(筏井寿夫室)ほか。官位は従二位、対馬守。幼名は包五郎。.

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一柳末周

一柳 末周(ひとつやなぎ すえちか、寛政3年8月8日(1791年9月5日) - 嘉永5年11月23日(1853年1月2日))は、播磨小野藩の第8代藩主。 第6代藩主・一柳末英の三男。正室は藤堂高嶷の娘。子は一柳末延(長男)、娘(一柳直方正室)、娘(青木能次室)、一柳末清(四男、金森近典養子)。官位は従五位下、対馬守。 江戸にて生まれる。初名は英同。文化9年(1812年)12月8日、先代藩主で兄の末昭が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。文化10年10月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下対馬守に叙任する。 天保2年(1831年)11月23日、病気を理由に家督を長男・末延に譲って隠居し、嘉永5年(1852年)11月23日に江戸にて死去した。享年62。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 すえちか *08 Category:1791年生 Category:1853年没.

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一柳末礼

一柳 末礼(ひとつやなぎ すえひろ)は、江戸時代前期の大名。播磨小野藩の第3代藩主。.

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一柳末英

一柳 末英(ひとつやなぎ すえふさ、宝暦8年(1758年) - 文化7年7月14日(1810年8月13日))は、播磨小野藩の第6代藩主。 第5代藩主・一柳末栄の長男。母は真田信弘の娘。正室は板倉勝承の娘(板倉勝任の養女)。子に一柳末昭(次男)、一柳末周(三男)。官位は従五位下、土佐守、左京亮。 江戸で生まれる。安永4年(1775年)8月15日、将軍徳川家治にお目見えする。安永8年(1779年)9月16日、父の隠居で家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下土佐守に叙任する。安永9年4月18日、初入国する許可を得る。駿府加番となった。 文化元年(1804年)7月5日、病を理由に次男・末昭に家督を譲って隠居し、文化7年(1810年)7月14日に53歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 すえふさ *06 Category:1758年生 Category:1810年没.

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一柳末栄

一柳 末栄(ひとつやなぎ すえなが、享保10年(1725年) - 寛政11年5月10日(1799年6月13日))は、播磨小野藩の第5代藩主。 第4代藩主・一柳末昆の長男。母は一柳直長の娘。正室は稲葉菫通の娘、継室は真田信弘の娘。子に一柳末英(長男)、座光寺為賢(次男)、石尾氏紹(三男)、一柳栄武(四男)、娘(織田信浮正室のち秋田季済正室)、娘(山口弘道正室)、娘(吉川経倫正室)、娘(琴松院、松平康盛正室のち一柳頼欽継室)。官位は従五位下、左京亮、土佐守、対馬守。 播磨小野にて生まれる。通称は隼人。元文2年(1737年)10月18日、父の死去で跡を継ぐ。寛保元年(1741年)4月1日、将軍徳川吉宗にお目見えする。寛保3年12月21日、従五位下左京亮に叙任する。後に土佐守に改める。寛延元年(1748年)4月15日、初入国の許可を得る。藩主としては有能で、破綻しかけていた藩財政再建のために倹約や経費節減などを行なって藩財政を再建した。 安永8年(1779年)9月16日、病気を理由に長男・末英に家督を譲って隠居した。同年11月18日、通称を対馬守に改める。寛政11年(1799年)5月10日に75歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 すえなか *05 Category:1725年生 Category:1799年没.

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一柳末昭

一柳 末昭(ひとつやなぎ すえあきら、寛政2年5月7日(1790年6月19日) - 文化9年10月17日(1812年11月20日))は、播磨小野藩の第7代藩主。 第6代藩主・一柳末英の次男。母は板倉勝承の娘。正室は稲葉弘通の娘。官位は従五位下、土佐守。 江戸にて生まれる。文化元年(1804年)7月5日、父が病を理由に隠居したため、その跡を継いだ。文化9年(1812年)10月17日に死去し、跡を弟の末周が継いだ。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 すえあきら *07 Category:1790年生 Category:1812年没.

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一柳末昆

一柳 末昆(ひとつやなぎ すえひで、元禄12年(1699年) - 元文2年8月12日(1737年9月6日))は、播磨小野藩の第4代藩主。 第2代藩主・直次の次男で第3代藩主・末礼の弟かつ養嗣子であった直昌の長男。母は清閑寺熙定の娘。正室は一柳直長の娘。子に一柳末栄(長男)、娘(朽木紀綱正室のち山口弘長継室)。官位は従五位下。対馬守。土佐守。 江戸にて生まれる。通称は民部。父の直昌は先代藩主・末礼の養嗣子であったが、末礼より先に早世したため、正徳元年(1711年)6月6日に直昌の長男である末昆が末礼の嫡孫となった。正徳2年(1712年)4月5日、祖父末礼の死去により跡を継いだ。同年4月15日、将軍徳川家宣にお目見えした。正徳3年3月7日、従五位下対馬守に叙任する。享保3年(1718年)4月15日、初入国の許可を得る。駿府加番となる。 元文2年(1737年)8月12日に39歳で死去し、跡を長男・末栄が継いだ。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 すえひて *04 Category:1699年生 Category:1737年没.

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一条実経

一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政 関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。 九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。.

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一橋徳川家

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に一橋家ともいう。.

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九州平定 (日本史)

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、九州地方における敵対勢力を討って服属させること、あるいは、それにより平和な状態をつくりだすこと。九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)とも称する。日本の歴史においては、九州停戦命令(惣無事令)にもとづいた豊臣秀吉による九州の役(九州平定)が特に有名である。.

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九州王朝説

九州周辺の地形図 九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ、「大宰府」とも表記する。)がその首都であったとする説である。 邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から太平洋戦争後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴がある。当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。 本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國(邪馬臺國)」は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。 現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書最新の邪馬台国論争史研究書である『邪馬台国論争』(佐伯有清、岩波書店、2006年)にも片言も掲載されていない。においては記載されていない古田武彦は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「これに対する学会の応答欠乏し」と述べている。。 歌手の武田鉄矢は、古田武彦著の『「邪馬台国」はなかった』に触発されて『倭人傳』を作曲している。.

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九鬼隆寛

九鬼 隆寛(くき たかのぶ、元禄13年(1700年) - 天明6年5月23日(1786年6月19日))は、丹波綾部藩の第4代藩主。 播磨国林田藩主・建部政周の三男。母は河野通房の娘。正室は黒田直邦の娘。子に九鬼隆恭(長男)、九鬼隆由(次男)、九鬼隆邑(三男)、九鬼隆貞(四男)、九鬼隆許(五男)、娘(永井直行正室のち浅野長寿正室)、娘(諏訪頼寿室)、娘(花房職雍継室)。養子に九鬼隆英。官位は従五位下、備前守、大隅守。 正徳2年(1712年)に先代藩主・九鬼隆直の養嗣子となる。正徳3年(1713年)1月30日、養父の隠居により家督を継いだ。正徳5年(1715年)、藩校である進徳館を創設する。しかし享保年間には天災が相次いだため、藩札の発行や上米制度、御用金賦課などの藩政改革を行なった。明和3年(1766年)3月8日、家督を四男の隆貞に譲って隠居し、天明6年(1786年)5月23日に87歳で死去した。法号は休翁隆山泰岳院。 次代の隆貞は隆寛に先立って死去したが、その婿養子の隆棋を除いて、綾部藩九鬼家は隆寛の血筋で続いた。また隆寛は、九鬼家宗家である三田藩九鬼家に隆貞の兄の隆由、次いで隆邑を養子に出しており、幕末に養子入りした隆義以後も含めて、こちらも隆寛の血筋で続くことになった。 *04 たかのふ Category:建部氏 Category:林田藩の人物 Category:1700年生 Category:1786年没.

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九鬼氏

九鬼氏(くきし)は、南北朝時代から江戸末期まで活躍した一族。江戸時代に作成した家系図には藤原氏の末裔と記したが、明確にはわかっていない。.

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九条良平

九条 良平(くじょう よしひら、元暦元年4月19日(1184年5月30日) - 延応2年3月17日(1240年4月10日))は、鎌倉時代の公卿。九条兼実の三男で、母は藤原頼輔の女。兄九条良経の養子となり、醍醐太政大臣と呼ばれる。 侍従、右少将、左中将などを経て、元久元年(1204年)に参議となり、その後権中納言、権大納言、大納言と歴任。元仁元年(1224年)、内大臣に就任。安貞元年(1227年)には、左大臣となったが、病のため辞任。しかし、暦仁元年(1238年)太政大臣として官界に復帰した。暦仁2年(1239年)再び病を得て出家。翌年播磨で没した。 よしひら Category:1184年生 Category:1240年没 Category:鎌倉時代の公家.

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九条良経

九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。従一位、摂政、太政大臣。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。摂政関白・九条兼実の次男。 小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」。 「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ.

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九条教嗣

九條 教嗣(くじょう のりつぐ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。.

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平家没官領

平家没官領(へいけもっかんりょう)とは、平家が没落・滅亡した際に朝廷によって没官された所領のこと。その多くが後に源頼朝に与えられ、鎌倉幕府の関東御領の主要部分を構成した。.

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平岡なつ

平岡定太郎となつ 平岡 なつ(ひらおか なつ、明治9年(1876年)6月27日 - 昭和14年(1939年)1月18日は、内務官僚・平岡定太郎の妻。通称名は夏子、または夏。戸籍名はなつ。東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女。作家・三島由紀夫(本名:平岡公威)の祖母にあたる。幼年時代の公威に影響を与えた。.

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平岡太吉

平岡 太吉(ひらおか たきち、天保4年10月18日(1833年11月29日) - 明治29年(1896年)6月3日)は、日本の農民、金融業者。 弁護士、政治家・平岡萬次郎、内務官僚・平岡定太郎兄弟の父。農商務官僚・平岡梓の祖父。作家・三島由紀夫の曾祖父。.

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平岡定太郎

平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日(1863年7月19日) - 昭和17年(1942年)8月26日)は、日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。兵庫県平民『人事興信録.

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平岡萬次郎

平岡 萬次郎(ひらおか まんじろう、万延元年3月8日(1860年3月29日) - 大正12年(1923年)12月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。兵庫県平民『人事興信録.

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平師盛

平 師盛(たいら の もろもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の五男、ただし『平家物語』では末子とある。母は重盛の正室の藤原経子。.

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平徳子

水野年方筆「寂光院」徳子を描いた錦絵 平 徳子(たいら の とくし/とくこ/のりこ、久寿2年(1155年) - 建保元年12月13日(1214年1月25日))は、高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、基盛。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。院号は建礼門院(けんれいもんいん)。 清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。 『平家物語』「灌頂巻」では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。.

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平忠盛

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。.

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平福 (曖昧さ回避)

平福(ひらふく、Bình Phước);地名.

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平福藩

平福藩(ひらふくはん)は、播磨国佐用郡(兵庫県佐用郡佐用町)に江戸時代初期に存在した外様大名の藩。藩庁は利神城。.

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平群広成

平群 広成(へぐり の ひろなり)は、奈良時代の貴族。讃岐守・平群豊麻呂の子。 遣唐使の判官として唐に渡るが、帰国の途中難船。はるか崑崙国(チャンパ王国、現在のベトナム中部沿海地方)にまで漂流したが、無事日本へ帰りついた。古代の日本人の中で最も広い世界を見たとされる人物である。.

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平生昌

平 生昌(たいら の なりまさ、生没年不詳)は、日本の平安時代中期の公家。桓武平氏高棟王流、贈従三位美作介・平珍材の次男。官位は正四位下・播磨守。.

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平頼盛

平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。.

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平行盛

平 行盛(たいら の ゆきもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男である平基盛の長男。.

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平資盛

赤間神宮の七盛塚。前列右から三番目が資盛の墓石 平 資盛(たいら の すけもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡男である平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。 和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。.

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平氏政権

平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)に登場した平清盛を中心とする伊勢平氏による政権。清盛の館が京都六波羅にあったことから、六波羅政権ともいう。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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平惟範

平 惟範(たいら の これのり、斉衡2年(855年) - 延喜9年9月18日(909年11月3日))は、平安時代前期の貴族。平高棟(高棟王)の三男で、桓武天皇の曾孫にあたる。母は、贈太政大臣藤原長良の娘で従四位上典侍従藤原有子。妻は人康親王の娘。子に時望、伊望がいる。.

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乾宣光

乾 宣光(いぬい のぶみつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。赤松氏、後に山内氏の家臣。山内一豊の影武者同装束六人衆の一人。.

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乾和三

乾 和三(いぬい かずみつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐藩家老。家格は知行4,500石。.

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乾和信

乾 和信(いぬい かずのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。山内一豊の家臣。のち山内姓を賜り山内彦作と名乗る。.

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乾氏

乾氏(いぬいし)は日本の氏族のひとつ。.

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幕府陸軍

幕府陸軍(ばくふりくぐん)は、幕末に江戸幕府が整備した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の陸軍である。文久2年(1862年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。長州征討や天狗党の乱などで実戦を経験し、大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。簡略化して単に幕府軍と呼称される場合もある。.

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幕末期の文化

---- 開国当時の攘夷の気分が絵画にも現れている。 幕末期の文化(ばくまつきのぶんか)または開国期の文化(かいこくきのぶんか)とは、江戸幕府が開国に踏み切った1854年ころから大政奉還によって幕府が倒壊、明治維新をむかえる1868年ころまでの日本の文化。日本史の時代区分では江戸時代末期にあたり、当時使用された元号は旧い順に嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応である。本格的に西洋文明との接触が始まったことで、その受容と対応のあり方が問われる一方、政治的激動の時代であり、文化の様態もまた強い政治性・軍事性を帯びている。.

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久下時重

久下 時重(くげ ときしげ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期の武士。通称は弥三郎。玉巻城主。久下重継の嫡男。弟に中村長重、新屋長之。子に貞重、池谷頼直、中村重基、幸興、岡本基行がいる。 元弘3年(1333年)、足利尊氏が丹波篠村八幡宮で鎌倉幕府へ反旗を翻し挙兵すると、時重は250騎を率いて真っ先に馳せ参じる。(「太平記 巻九 足利殿着御篠村則国人馳参事」) 幕府滅亡、建武の新政を経て、南北朝の動乱が勃発した際も、時重は尊氏に属し北朝方として行動する。時重は建武3年(1336年)1月8日、法華山寺に布陣し、西北の山陰道方面の守りを担う南朝方の二条師基を打ち破り大枝山を占拠するも、新田一族の江田行義勢の攻撃を受け撤退した。 同年1月30日、尊氏が北畠顕家や楠木正成、新田義貞勢に敗北し篠村八幡宮に撤退し味方の敗残兵を集めた際、時重も駆け付け警固を行う。正平6年/観応2年(1351年)、弟・足利直義と対立した尊氏が足利義詮と共に丹波へ逃れた際も、時重は良く警固した。尊氏が義詮を留めて、九州へ下向するため播磨へ向かった後は、義詮を井原庄石龕寺で護りその危難を払っている。 これらの功により時重は、井原荘牧山村や沼貫庄佐野村の地頭職を与えられた。.

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久美浜県

旧久美浜縣庁舎・玄関棟(現:参考館) 久美浜県(くみはまけん)は、1868年(慶応4年)に丹後国、丹波国、但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は、当初は現在の京都府北部、兵庫県西部、岡山県東北部、のちに京都府北部に分布していた。.

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久留島通用

久留島 通用(くるしま みちもち)は、江戸時代中期の武士。豊後国森藩の世嗣。.

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久野重勝

久野 重勝(ひさの/くの しげかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。黒田氏の家臣。黒田二十四騎の一人。曽孫に筑前国福岡藩大老の黒田一貫がいる。.

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交代寄合

交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。.

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交響詩ひめじ

『交響詩ひめじ』(こうきょうしひめじ)は、川口汐子作詞、池辺晋一郎作曲の合唱組曲。.

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京街道

京街道(きょうかいどう).

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京都町奉行

京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)は、江戸幕府が京都に設置した遠国奉行の1つ。老中支配であるが、任地の関係で実際には京都所司代の指揮下で職務を行った。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取った(ただし、奉行所の名称は江戸・大坂とは違い、「東御役所」・「西御役所」と呼ばれていた)。京都郡代から分離する形で寛文8年12月8日(1669年1月10日)に設置された。.

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京阪式アクセント

京阪式アクセント(けいはんしきアクセント)または甲種アクセント(こうしゅアクセント)、第一種アクセント(だいいっしゅアクセント)とは、京都市・大阪市を中心に近畿地方や四国地方などに分布する日本語のアクセントである。.

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京極忠高

京極 忠高(きょうごく ただたか)は、江戸時代前期の大名。若狭小浜藩第2代藩主、出雲松江藩主。高次流京極家2代。 初代藩主京極高次の長男。母は側室。正室は江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の四女・初姫(高次正室・常高院の養女).

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京極高和

京極 高和(きょうごく たかかず)は、江戸時代前期の大名。播磨龍野藩主、讃岐丸亀藩初代藩主。丸亀藩京極家3代。.

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京極高豊

京極 高豊(きょうごく たかとよ)は、江戸時代前期から中期の大名。讃岐丸亀藩2代藩主。丸亀藩京極家4代。.

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.

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康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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人形峠

人形峠(にんぎょうとうげ、英:Ningyo Pass)は、岡山県苫田郡鏡野町上齋原と鳥取県東伯郡三朝町木地山との間に位置し、両県の県境を成す峠。峠付近に設置されている四等三角点「人形峠」の標高は740.20mである。.

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二の丸殿

二之丸殿(にのまるどの、生没年不詳)は、上野七日市藩第2代藩主・前田利意の正室。父は戸田松平家で信濃国松本藩主・松平康長の嗣子である松平忠光。母は蜂須賀家政の四女・実相院。兄弟には松平光重がいる。.

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二天流

#二天一流の事。(二天一流の項を参照).

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二上山 (鳥取県)

二上山(ふたがみやま、ふたかみやま)は、鳥取県岩美郡岩美町にある山。標高330m。中国百名山の一つ。 かつて式内社の「二上神社」があったとされる。中世には二上山城が築かれ、因幡国守護の山名氏の本拠地だった。 山頂付近は「一の平(なる)」と称する平地になっているが、これは築城の際に山頂が削られたためである。一の平の周囲を囲む石垣が遺されているほか、山中には曲輪や「壇」「二の平」など城の遺構が散在し、「二上山城跡」として鳥取県が史跡に指定している。 山裾からは30件余りの古墳が見つかっており、このうち「高野坂古墳」が保存のため移設されて公園になっている。中腹を走る広域農道から登山道が整備されており、往路1時間弱で山頂に至る。.

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府中

府中(ふちゅう).

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二階町 (姫路市)

二階町商店街 西二階町商店街 二階町(にかいまち)は、兵庫県姫路市の地名。または同町内にある商店街。全域が住居表示未実施地区である。.

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府藩県三治制

府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。.

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府藩県三治制下の日本の人口統計

府藩県三治制下の日本の人口統計は、明治維新から廃藩置県までの府藩県三治制下の明治元年(1868年)~明治4年(1871年)までの日本の人口調査をまとめたものである。.

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二連木城

二連木城(にれんぎじょう)は、朝倉川南岸の三河国渥美郡の北の端に有った戦国時代の日本の城(現、愛知県豊橋市仁連木町)である。「楡(にれ)の木」から名が付いたと言われ、仁連木城とも書く。.

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二条師嗣

二條 師嗣(にじょう もろつぐ)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての公卿。.

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二条師良

二条 師良(にじょう もろよし、貞和元年(1345年)- 永徳2年/弘和2年5月1日(1382年6月12日))は、南北朝時代の公卿。従一位。関白。左大臣。二条良基の嫡男。 北朝の後光厳天皇、後円融天皇の2代にわたって関白を務める。晩年に発狂した。.

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二条為氏

二条 為氏(にじょう ためうじ)は、鎌倉時代中期の公卿・歌人。藤原北家御子左家の嫡流で、権大納言藤原為家の長男。和歌の家である二条家(二条派)の祖。.

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二条良実

二条 良実(にじょう よしざね)は、鎌倉時代中期の公卿。通称は福光園関白(ふっこうえん かんぱく)。極位極官は従一位関白左大臣。 摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経、子に左大臣二条道良、権大納言二条教良、関白左大臣二条師忠、非参議二条経通、摂政左大臣二条兼基がいる。.

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二流の人 (小説)

『二流の人』(にりゅうのひと)は、坂口安吾の中編小説。黒田官兵衛(黒田如水)を主人公とした歴史小説である。「第一話 小田原にて」「第二話 朝鮮で」「第三話 関ヶ原 」の全3章から成る。権謀術数にかけては人に譲らないほど秀でていたが、二流の武将に甘んじた黒田如水を独自の目線で捉えた作品で、その後に書かれた他の安吾の歴史小説の根幹をなす作品ともなっている三枝康高「作品解説」(文庫版『白痴・二流の人』)(角川文庫、1970年。改版1989年、2008年、2012年)。 豊臣秀吉、徳川家康、石田三成ら、四囲の情況が自然に天下を望む自分の姿を見出すまでは野望を持たず、自己を突き放したところに自己の創造の発見を賭けた「芸術家」としての天下人と、戦略にたけた野心児であったが時代に取り残され、どさくさに紛れて天下を望む「二流の人」として人生を終えた黒田如水とが対比的に描かれ住友直子「坂口安吾作品ガイド100『二流の人』」(『KAWADE夢ムック文藝別冊 坂口安吾―風と光と戦争と』)(河出書房新社、2013年)、戦国の英雄たちの個性が、戯作的な文体と講談風の語り口で表現されている。.

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広岡恵三

広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年) - 1953年(昭和28年))は、日本の実業家。大同生命第2代社長。.

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広峯神社

廣峯神社(ひろみねじんじゃ、略体など: 広峯神社、広峰神社)は、兵庫県姫路市の広峰山山頂にある神社である。 全国にある牛頭天王の総本宮(ただし、八坂神社も牛頭天王総本宮を主張している)。 旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。別称広峯牛頭天王。天平の昔から名の見える古社である。.

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広島かき

広島かき(ひろしまかき)は、広島県で生産されているかき。県シンボルの一つである広島県の魚。広島県漁業協同組合連合会が管理する地域団体商標。商標では平仮名であるが、以下片仮名のカキでも表記する。.

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広島県出身の人物一覧

広島県出身の人物一覧(ひろしまけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する広島県出身の人物の一覧表である。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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広瀬城

広瀬城(廣瀬城)は、日本の城。.

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庵戸宮

庵戸宮(廬戸宮)(いおとのみや)は、『古事記』『日本書紀』に伝わる古代日本(大和政権初期)の首都として営まれた皇宮(皇居)。.

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五条為学

五条 為学(ごじょう ためざね、文明4年(1472年) - 天文12年6月30日(1543年7月31日)は、室町・戦国時代の公卿。五条為親の子。幼名は文地丸。日記『拾芥記』で知られている。.

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庄氏

庄氏(しょうし)は、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国に割拠していた武士団のひとつで、武蔵七党の一角を占める児玉党を構成した氏族である。鎌倉時代初期に惣領家は西遷し、備中国の有力な国人となった。.

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井上之房

井上 之房(いのうえ ゆきふさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。黒田氏の家臣。黒田二十四騎、黒田八虎の一人。主な通称は九郎右衛門(くろうえもん)。.

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井上通泰

井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2年旧暦12月21日) - 1941年(昭和16年)8月15日)は、主に明治時代に活躍した桂園派の歌人・国文学者、また眼科を専門とする医師でもあった。名は故実読みでツウタイともいう。幼名は松岡泰蔵。雅号に南天荘。 実弟の一人に民俗学を大成した柳田國男がいる。.

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井関三神社

井関三神社(いせきさんじんじゃ)は兵庫県たつの市揖西町中垣内に鎮座する神社。旧郷社、旧神饌幣帛料供進指定神社。大庄屋八瀬氏の氏神・瀬織津姫命と龍野藩主脇坂氏の氏神・建御名方命を合祀する。.

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亀山本徳寺

亀山本徳寺(かめやまほんとくじ)は、兵庫県姫路市亀山にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は「霊亀山」(れいきざん)。本尊は阿弥陀如来。「亀山御坊」・「亀山御堂」とも。.

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亀井茲矩

亀井 茲矩(かめい これのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。因幡鹿野藩初代藩主。.

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亀井政矩

亀井 政矩(かめい まさのり)は、江戸時代前期の大名。因幡鹿野藩第2代藩主、のち石見津和野藩初代藩主。津和野藩亀井家2代。 鹿野藩初代藩主・亀井茲矩の次男。山中幸盛の義理の孫にあたる(血のつながりはない)。.

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仁寿山黌

仁寿山黌(じんじゅさんこう、じんじゅざんこう 旧字体: 仁壽山黌)は、江戸時代後期に姫路藩領の播磨国飾東郡奥山村(現:兵庫県姫路市奥山)にあった私塾・学問所。姫路藩家老を務めた河合道臣(寸翁)が後進を指導した。現地には土塀が残っており、北原と兼田の境には河合家墓所が残っている。仁寿山校とも表記される。.

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仁賢天皇

仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、古墳時代の第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。.

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代官

代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。.

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廣畑天満宮

廣畑天満宮(ひろはたてんまんぐう、広畑天満宮)は、兵庫県姫路市広畑区北野町に鎮座する神社。旧社格は村社。現在は廣畑天満宮と称するが、創建当初は「天満社」といい、その後「天満神社」と改称した。.

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令制国

北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.

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令制国一覧

大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.

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延原景光

延原 景光(のぶはら かげみつ)は、戦国時代の武将。浦上氏、宇喜多氏の家臣。美作国英田郡上勝田郡勝間二城の城主。.

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延元の乱

延元の乱(えんげんのらん)は、足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に対して反旗を翻した挙兵のこと。 「延元」はこの挙兵の最中の建武3年2月29日(ユリウス暦1336年4月11日)に建武政権によって行われた改元によるもので、当時既に持明院統(後の北朝)の光厳上皇を擁していた尊氏はこれを認めず、建武政権崩壊後も引き続き「建武」の元号を用いた。また、「乱」という呼称も尊氏を逆賊(反逆者)とみなした建武政権→南朝の見解に基づくものである。従って、「南朝正統論」が強かった時期に用いられた用語であるとされ、今日ではほとんど用いられない呼称である。また、建武の乱(けんむのらん)を採用する論者(森茂暁・楠木武)もいる。.

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建久七年の政変

建久七年の政変(けんきゅうしちねんのせいへん)は、建久7年(1196年)11月、九条兼実が関白を罷免され失脚した事件。.

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建部光平

建部 光平(たけべ みつひら、安永3年(1774年) - 寛政3年7月23日(1791年8月22日))は、播磨林田藩の世嗣。第7代藩主・建部政賢の長男。通称、久五郎・織部・訢次郎・新二郎。 安永3年(1774年)、建部政賢の長男として林田に生まれる。寛政3年(1791年)3月18日に嫡子となるが、家督を継ぐことなく同年7月23日(あるいは8月11日)に18歳で早世した。戒名は戒順院本覺玄理。代わって、弟の建部政醇が嫡子となった。 みつひら Category:林田藩の人物 Category:1774年生 Category:1791年没.

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建部光重

建部 光重(たけべ みつしげ、天正6年(1578年) - 慶長15年5月27日(1610年7月17日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。通称、弥作。官途は従五位下、内匠頭。父は建部寿徳(高光)、母は山村甚右衛門娘。室は下間頼龍の娘(池田輝政養女)。子に吉政、重政、政長、光延。 父の寿徳の摂津尼崎郡代を継ぎ、豊臣秀吉・秀頼父子に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、長宗我部盛親、毛利秀元らと富田信高の守る伊勢安濃津城攻めに加わり、所領(700石)を一時没収されたが、義父池田輝政の取り成しで赦された。慶長9年(1604年)、秀頼の命により奉行として吉野水分神社を完成させた。慶長15年(1610年)、33歳で没した。徳川家康の特別の計らいにより、僅か8歳の政長が郡代を継いだ。政長は大坂の役の功により1万石に加増され尼崎藩主となり、後に播磨林田藩に転封されそのまま建部氏は林田藩主として明治維新まで存続した。.

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建部長教

建部 長教(たけべ ながのり、享保9年(1724年)- 明和元年7月10日(1764年8月7日))は、播磨国林田藩の第6代藩主。 第5代藩主・建部政民の長男。母は板倉重同の娘。正室は戸田光慈の娘。側室もいる。官位は従五位下、近江守。幼名は庄九郎、内膳。 宝暦12年(1762年)6月24日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月18日に叙任する。しかし2年後の明和元年(1764年)7月10日に41歳で死去し、跡を弟の政賢が継いだ。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 なかのり *06 Category:1724年生 Category:1764年没.

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建部氏

建部氏(たけべうじ)は、「建部」を氏の名とする氏族。.

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建部政宇

建部 政宇(たけべ まさのき、正保4年3月17日(1647年4月21日)- 正徳5年1月26日(1715年3月1日))は、播磨国林田藩の第3代藩主。 初代藩主・建部政長の五男。正室は板倉重形の娘。子に建部政辰(長男)、建部政周(次男)、娘(内藤忠種正室)、娘(猪飼晴光室)、娘(有馬氏倫正室)。官位は従五位下、内匠頭。幼名は三十郎。主水。政吉。 寛文9年(1669年)12月の先代藩主で兄の政明の死去により、その養嗣子となって寛文10年(1670年)2月27日に跡を継いだ。同年12月28日に叙任する。禁裏造営奉行や寺社奉行などを務めた。絵画の才能にも優れ、狩野常信の門人となる。正徳5年(1715年)1月26日、69歳で死去し、跡を次男・政周が継いだ。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 まさのき Category:江戸幕府寺社奉行 *03 Category:伏見奉行 Category:1647年生 Category:1715年没.

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建部政世

建部 政世(たけべ まさよ、安政元年12月10日(1855年1月27日) - 明治10年(1877年)6月16日)は、播磨国林田藩の第10代(最後の)藩主。 第9代藩主・建部政和の長男だが、祖父の第8代藩主・建部政醇の三男とされた。官位は従五位下、内匠頭。幼名は三二郎。 文久3年(1863年)4月18日、父政和の死去により、家督を継いだ。慶応3年(1867年)12月20日、上洛する。明治元年(1868年)1月15日、新政府から華頂宮博経親王などの警備を命じられる。また、戊辰戦争では新政府側に与して、姫路藩征伐に参加した。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還で藩知事に就任した。明治4年(1871年)8月18日、廃藩置県により免官となる。明治5年7月3日、叔父揆に家督を譲った。明治10年(1877年)6月16日、24歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 まさよ *10 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1855年生 Category:1877年没.

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建部政周

建部 政周(たけべ まさちか、延宝2年(1674年) - 宝暦7年11月20日(1757年12月30日))は、播磨国林田藩の第4代藩主。 第3代藩主・建部政宇の次男。正室は建部光成の養女(河野通房の娘)。子に建部政民(長男)、九鬼隆寛(三男)、建部光之(六男)、有馬光隆(十一男)。官位は従五位下、丹波守。幼名は庄九郎。又右衛門。主計。 はじめは建部光成の養嗣子となり、その養女と結婚していた。しかし元禄16年(1703年)2月29日に兄の政辰が病弱により廃嫡されたため、本家に戻って世子となる。正徳5年(1715年)、父の死去により跡を継いだ。享保17年(1732年)9月23日、長男・政民に家督を譲って隠居し、勝隠と号した。宝暦7年(1757年)11月20日、84歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 まさちか *04 Category:1674年生 Category:1757年没.

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建部政和

建部 政和(たけべ まさより、天保4年3月23日(1833年5月12日) - 文久3年2月2日(1863年3月20日))は、播磨国林田藩の第9代藩主。 第8代藩主・建部政醇の長男。正室は松平正義の娘。継室は朽木綱張の養女(朽木綱條の娘)。子は建部政世(長男)。官位は従五位下、内匠頭。 幼少から聡明であるとされた。嘉永2年(1849年)2月(または4月)8日、父の隠居により家督を継いだ。嘉永3年12月16日、従五位下内匠頭に叙任された。嘉永5年(1852年)、藩校敬業館の教授として漢詩人で儒学者の河野鉄兜を招き、鉄兜より尊皇攘夷を説かれる。安政3年(1857年)2月20日、大番頭に就任する。文久3年(1863年)2月2日、大番頭として詰めていた二条城にて31歳で没した。跡を長男・政世が継いだ。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 まさより *09 Category:幕末の大名 Category:1833年生 Category:1863年没.

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建部政賢

建部 政賢(たけべ まさかた、延享4年9月26日(1747年10月29日) - 文政元年5月24日(1818年6月27日))は、播磨林田藩の第7代藩主。 第5代藩主・建部政民の四男。母は板倉重同の娘。正室は真田信安の娘。子に建部光平(長男)、建部政醇(四男)、建部政儀(五男)、娘(三宅康邦正室)、娘(松平康任の養女)。官位は従五位下、内匠頭。幼名は留之助。 明和元年(1764年)、兄で先代藩主の長教が死去したため、その養嗣子として跡を継いだ。同年11月13日に叙任する。 藩政においては生田維直や小島省吾らを用いて藩校・敬業館を創設して藩士子弟の教育化に努めた。天明7年(1787年)6月、参勤交代中に留守の藩内で、天明の大飢饉による物価変動などを理由にして百姓一揆が起こった。一揆が大規模だったため、他の藩の援助を得てようやく鎮圧している。 文化9年(1812年)9月、四男・政醇に家督を譲って隠居し、文政元年(1818年)5月24日に72歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 まさかた *07 Category:1747年生 Category:1818年没.

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建部政辰

建部 政辰(たけべ まさとき、延宝元年(1673年) - 享保14年7月23日(1729年8月17日))は、播磨国林田藩の世嗣。3代藩主・建部政宇の長男。通称、主水。 林田藩嫡子として生まれ、貞享2年(1685年)徳川綱吉に拝謁する。しかし、家督を継ぐことなく元禄16年(1703年)に病弱を理由に廃嫡される。代わって、一族他家の養子となっていた弟の政周が嫡子となった。享保14年(1729年)、57歳で没した。 まさとき Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:林田藩の人物 Category:1673年生 Category:1729年没.

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建部政醇

建部 政醇(たけべ まさあつ、寛政7年11月15日(1795年12月25日) - 明治8年(1875年)1月6日)は、播磨国林田藩の第8代藩主。.

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建部政長

建部 政長(たけべ まさなが、慶長8年(1603年) - 寛文12年4月18日(1672年5月15日))は、摂津尼崎藩主、のち播磨林田藩初代藩主。 建部光重の三男。母は池田輝政の養女(下間頼龍の娘)。正室は酒井忠勝の娘。子に建部政勝(長男)、建部政明(三男)、建部政忠(四男)、建部政宇(五男)、娘(藤掛永俊正室)、娘(小堀正之正室)、娘(松平康紀正室)、娘(高木正次室)、娘(川合宗賀室)、娘(大嶋義近正室)、娘(人見宜郷室)。官位は従五位下、丹波守。幼名は三十郎。内匠。 慶長15年(1610年)、豊臣政権下で尼崎郡代700石であった父の死去により家督を継ぐ。慶長19年(1614年)からの大坂の陣においては、池田利隆・忠継兄弟の幕下で戦功を挙げ、元和元年(1615年)7月21日、伯父の池田重利とともに摂津川辺郡・西成郡尼崎藩1万石を与えられ大名に取り立てられた。元和3年(1617年)9月11日、宗主である姫路藩主池田氏の転封により播磨林田へ移封となる。 元和4年(1618年)、明石城普請手伝、元和5年(1619年)の福島正則改易の城受け取り、寛永17年(1640年)の池田輝澄改易の城受け取りを務めた。藩政では、林田川の治水工事や民政などに尽力した。寛文元年(1661年)12月28日、丹波守に叙任する。 寛文7年(1667年)8月28日、家督を三男・政明に譲って隠居し、寛文12年(1672年)4月18日に70歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 まさなか Category:外様大名 Category:尼崎藩主 *01 Category:1603年生 Category:1672年没.

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建部政民

建部 政民(たけべ まさたみ、元禄11年(1698年) - 安永8年8月18日(1779年9月27日))は、播磨国林田藩の第5代藩主。 第4代藩主・建部政周の長男。母は建部光成の養女(河野通房の娘)。正室は板倉重同の娘。子に建部長教(長男)、建部政賢(四男)、娘(米津政崇正室のち秋田季道正室)、娘(板倉勝該室)、娘(本多政寛正室)、娘(本多紀智正室)、娘(大嶋義勝室)。官位は従五位下、丹波守。幼名は久米之助。内膳。初名は政就。 享保17年(1732年)9月23日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月16日、叙任する。 宝暦12年(1762年)6月24日、長男・長教に家督を譲って隠居し、安永8年(1779年)8月18日に82歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 まさたみ *05 Category:1698年生 Category:1779年没.

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建部政明

建部 政明(たけべ まさあき、寛永15年(1638年) - 寛文9年12月23日(1670年2月13日))は、播磨国林田藩の第2代藩主。 初代藩主・建部政長の三男。母は酒井忠勝の娘。正室は牧野親成の娘。子に娘(九鬼隆常継々室)。官位は従五位下、丹波守。 幼名は織部。初名は光政。寛文7年(1667年)8月28日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月28日に叙任する。寛文9年(1669年)12月23日に32歳で死去し、跡を弟で養嗣子の政宇が継いだ。墓所は和歌山県伊都郡高野町金剛峯寺の東南院。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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廿日市市

弥山からみた厳島神社および対岸の阿品・地御前 廿日市市(はつかいちし) は、広島県西部にある市。 郵便番号の上3桁は738、739。市外局番は、0829(一部地域を除く)。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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仇討 (1964年の映画)

『仇討』(あだうち)は、1964年の日本映画。 脚本家・橋本忍のオリジナル脚本を今井正監督が映画化した時代劇である。.

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仙石久道

仙石 久道(せんごく ひさみち)は、但馬出石藩の第5代藩主。出石藩仙石家8代。.

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伊丹康勝

伊丹 康勝(いたみ やすかつ)は、江戸時代前期の旗本、大名、勘定奉行。甲斐徳美藩の初代藩主。.

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伊丹勝長

伊丹 勝長(いたみ かつなが)は、甲斐徳美藩の第2代藩主。.

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伊予八藩

伊予八藩 (いよはっぱん、いよはちはん)は、江戸時代に現在の愛媛県に置かれた8つの藩をまとめて指す言葉である。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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伊予来目部小楯

伊予 来目部 小楯 (いよ の くめべ の おだて)または 山部 小楯 (やまべ の おだて)は、日本古代の官吏。豪族。.

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伊和員経

伊和 員経(伊和員經・いわ の かずつね 生没年不詳)は、平安時代中期の武将平将門の従者。『将門記』には「内竪伊和員経」とある。「内竪」とは「小姓」のことである。.

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伊和神社

参道 伊和神社(いわじんじゃ)は、兵庫県宍粟市にある神社。式内社(名神大社)、播磨国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 海神社・粒坐天照神社とともに播磨三大社の一社。.

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伊和神社 (松本市)

伊和神社(いわじんじゃ)は、長野県松本市にある神社。信濃国総社と推定され、旧社格は村社。 正式名称は「伊和社(いわしゃ)」であるが、一般には「伊和神社」と表記される。.

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伊和神社 (曖昧さ回避)

伊和神社(いわじんじゃ).

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伊和都比売神社

海に面する鳥居 鳥居越しに海を望む 伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)は兵庫県赤穂市御崎の赤穂御崎温泉街にある神社である。海に向かって鎮座する。式内社。航海安全や縁結びの神様として信仰を集めている。.

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伊勢崎陣屋

同聚院武家門 伊勢崎陣屋(いせさきじんや)は、群馬県伊勢崎市にあった陣屋。伊勢崎藩の藩庁が置かれた。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊福部

伊福部(いおきべ/いふくべ/いふきべ)とは、古代日本の職業部。あるいは名代の民。 五百木部、廬城部、伊福吉部とも表記する。.

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伊達神社 (色麻町)

伊達神社(いだてじんじゃ)は、宮城県加美郡色麻町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。 鳴瀬川の支流・花川の左岸にある円墳「御山古墳」の上に鎮座する。.

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伊達郡

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伊達村年

四代藩主 伊達村年の墓 (龍華山等覚寺西墓所) 伊達 村年(だて むらとし、宝永2年1月16日(1705年2月9日宇神『シリーズ藩物語 宇和島藩』、P110)- 享保20年5月28日(1735年7月18日宇神『シリーズ藩物語 宇和島藩』、P110))は、伊予宇和島藩の第4代藩主。.

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伊達村豊

伊達 宗春(だて むねはる) / 伊達 村豊(だて むらとよ、天和2年11月8日(1682年12月6日) - 元文2年6月30日(1737年7月27日))は、江戸時代中期の外様大名。伊予吉田藩第3代藩主。.

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伊賀国

伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊藤五右衛門

伊藤五右衛門(いとう ごえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩浅野家の家臣。家老に次ぐ番頭の地位にあり、430石取りであった。末席家老大野知房の弟(一説に甥)という。 元禄14年3月25日(1701年5月1日)に大石良雄の指示を受けて吉良義央の生死の確認のため、親戚の藩の三次藩へ派遣されている。しかし実際は大野知房が三次藩の支持を得ようと弟の五右衛門に密命を与えて三次藩に派遣したものといわれる。同年、4月12日(5月19日)に大野知房は赤穂藩を逐電していたが、五右衛門はその後も赤穂城開城まで赤穂藩に残った。赤穂城開城では藩邸の開城を担当している。しかしそれ以降は盟約に加わることもなく、赤穂から去っていった。 その後の消息ははっきりしないが、伊藤東涯(大野知房や五右衛門の親戚か)が、元禄16年(1703年)4月に並河千左衛門へ送った書状には大野知房と五右衛門についての記述があり、それによれば五右衛門は「伴宗寿」と改名して京都で医者になったという。 神崎則休によれば「侫姦」な人物であったという。 伊藤五右衛門の組に所属する藩士からは、近松行重・大石信清・早水満尭・千馬光忠の4名が討ち入りに加わった。 Category:赤穂藩の人物 Category:赤穂事件関係人物 Category:生没年不詳.

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伊東祐兵

伊東 祐兵(いとう すけたけ/いとう すけたか)は、安土桃山時代の武将・大名。日向伊東氏12代(伊東氏18代)当主。日向飫肥藩の初代藩主。『南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)』や『伊東氏系図』では、伊東氏中興の祖と書かれている。.

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伊東祐立

伊東 祐立(いとう すけはる)は、室町時代の武士。日向伊東氏5代(伊東氏10代)当主。都於郡城主。 父・伊東祐安に従って日向国守護の島津氏の度重なる攻勢に対抗した。応永20年(1413年)、島津氏との戦いで日向曽井城(現在の宮崎県宮崎市恒久)に籠城して抗戦し、島津方の樺山教宗・北郷知久を破り撤退させた。 応永32年(1425年)、姉婿・島津久豊が没すと、守護を継承した島津忠国と親交を深めるため鹿児島に赴くが、宴席で祐立の毒殺の企てがあり、これは主膳役の密告によって辛くも脱出した。応永34年(1427年)、父の隠居に伴い家督を相続。 永享6年(1434年)、父・祐安が死去すると、またしても島津氏の攻撃を受けるが、妻の実家である土持氏の助力もあり辛うじて防戦し、和睦に至った。これにて島津氏の脅威は一旦終わり、伊東氏は約50年間に渡る勢力拡大期に入った。 文安元年(1444年)、上洛途中の播磨国疣河(いぼかわ)の渡しで落馬死。享年58。 家督は子の祐堯が継いだが、系図の混乱もありはっきりしない(一説によれば、間に祐武という男子がおり、その子(すなわち祐立の孫)が祐堯であったともされる)。 すけはる Category:室町時代の人物 Category:落馬事故死した人物 Category:1385年生 Category:1444年没.

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伊東義祐

伊東 義祐(いとう よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充・祐吉は同母兄弟。.

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伊東長とし

伊東 長(いとう ながとし、「とし」の表記は下記の特記事項参照)は、備中岡田藩の第10代(最後)の藩主。第8代藩主・伊東長寛の十五男・伊東長生の次男。 万延元年(1860年)12月18日、従兄で第9代藩主の長裕が死去したため、その養子となって家督を継いだ。文久元年(1861年)10月1日、将軍徳川家茂に拝謁した。同年12月16日、従五位下播磨守に叙任した。 慶応4年(1868年)1月23日、上洛し、新政府支持の姿勢を示す。戊辰戦争では岡山藩と共に新政府軍に与して、幕府軍に与した備中松山藩の討伐を担当する。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により岡田藩知事となる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により藩知事を免官となり、東京に移った。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 明治33年(1900年)12月21日に死去した。享年57。.

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伊東長寛

伊東 長寛(いとう ながとも)は、備中岡田藩の第8代藩主。第7代藩主・伊東長詮の長男。 安永7年(1778年)閏7月24日、父長詮の死去により家督を継いだ。天明2年(1782年)2月18日、将軍徳川家治に拝謁する。天明3年12月18日、従五位下播磨守に叙任する。 父の才を受け継いだ人物で、重臣の浦池九淵を重用して藩政改革を行なった。その結果、財政は再建され、寛政6年(1794年)には演武場、寛政7年(1795年)には藩校である敬学館を創設するなど、大いなる成功を収めた。 はじめ五男・長禎(早世)、のち十一男・長之を世子としていたが、長之は病弱だったために廃嫡し、長禎の長男・長裕を世子とした。 嘉永3年(1850年)6月11日に死去した。享年87。跡を長裕が継いだ。 なかとも *08 Category:1764年生 Category:1850年没.

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伊東長救

伊東 長救(いとう ながひら)は、備中岡田藩の第5代藩主。第4代藩主・伊東長貞の長男。 元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継いだ。享保2年(1717年)、税や賦役の負担軽減を求めての新本義民騒動が起こった。長救はこの訴えを聞き入れる代わりに、騒動の指導者4人を処刑している。そして、自身もこの騒動で失意のうちに、享保8年(1723年)3月5日に家督を長男・長丘に譲って隠居し、浄山と号した。 延享2年(1745年)9月20日に死去した。享年84。 なかひら *05 Category:1662年生 Category:1745年没.

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伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

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伊木忠澄

少林寺) 伊木 忠澄(いぎ ただずみ)は、幕末の岡山藩筆頭家老、茶人。第14代伊木家当主。通称は若狭、のち長門と改める。号の三猿斎(さんえんさい)で呼称されることが多い。.

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弁財天宮

弁財天宮(べんざいてんぐう)は、長崎県新上五島町有川郷に鎮座する神社である。 また、当社に関連した『弁財天(めーざいてん)祭り』も記す。.

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弥勒寺 (姫路市)

本堂(国の重要文化財) 弥勒寺(みろくじ)は、兵庫県姫路市夢前町にある天台宗の寺院。山号は通宝山。本尊は弥勒仏。書写山圓教寺の奥の院と呼ばれ圓教寺と密接な関係にある。境内には日本一を誇る布袋像があり、夢前七福神の一番霊場にもなっている。.

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弥生 (文京区)

弥生(やよい)は、東京都文京区の町名。現行行政地名は弥生一丁目及び弥生二丁目。郵便番号は113-0032。.

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弘和

弘和(こうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。天授の後、元中の前。1381年から1384年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇・後亀山天皇、北朝方が後円融天皇・後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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弓削氏

弓削氏(ゆげうじ)は、「弓削」を氏の名とする氏族。 古代の日本で弓を製作する弓削部を統率した氏族で、祖先伝承や根拠地域が異なる複数系統がある。物部氏と関係が深く、一部の系統はその傍系とも称した。.

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弓削是雄

弓削 是雄(ゆげ の これお)は、平安時代前期の貴族・陰陽師。姓は連のち宿禰。正六位上・弓削安人の子。官位は従五位下・陰陽頭。.

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住吉大社

住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。.

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住吉神社 (加西市)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は兵庫県加西市北条町北条にある神社。住吉酒見社、住吉酒見神社とも。祭神は酒見神・底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后。播磨国三の宮、旧社格は県社。.

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住吉神社 (福岡市)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、福岡県福岡市博多区住吉にある神社。式内社(名神大社)、筑前国一宮。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。 大阪の住吉大社・下関の住吉神社とともに「三大住吉」の1つに数えられるほか、全ての住吉神社の始源とする説がある。.

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佐伯直

佐伯直(さえきのあたい)は古代日本の氏族の佐伯連が賜った姓。 『日本書紀』によれば、部民としての佐伯部は、もともと東国人の捕虜であったが騒がしいことを理由に景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとの起源を伝える。これらを統率したのが佐伯直である。従って、佐伯直(佐伯連) ― 佐伯氏 ― 佐伯部 という階層関係がある。 古墳時代の中頃(5-6世紀)には、東国人の捕虜を上記5ヶ国に移住させ、佐伯部として設定・編成したのは事実のようで、「佐伯直」や「佐伯造」といった在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、これら地方豪族が更に畿内の中央豪族佐伯連(後に宿祢に改賜姓された)に管掌されたため、佐伯部は間接的に中央佐伯氏の部民とされ、その中からは宮廷警衛の任務に上番させられた者もいたと見られている。.

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佐伯部

佐伯部(さえきべ)は古代日本における品部の1つであるが、ヤマト王権の拡大過程において、中部地方以東の東日本を侵攻する際、捕虜となった現地人(ヤマト王権側からは「蝦夷・毛人」と呼ばれていた)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したもの。.

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佐伯阿俄能胡

播磨佐伯 阿俄能胡(はりま の さえき の あがのこ)あるいは佐伯阿俄能胡 (さえき の あがのこ)は、日本古代の豪族。姓は「直」(あたい)。.

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佐々木道誉

佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.

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佐々成政

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。.

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佐竹義つま

佐竹 義諶(さたけ よしつま(よしみち)、 天保8年1月5日(1837年2月9日)- 明治3年4月16日(1870年5月16日))は、出羽秋田新田藩(岩崎藩)の第8代藩主。陸奥相馬中村藩主・相馬益胤の四男。通称は東直五郎、求馬。官位は従五位下壱岐守、播磨守。正室は熊川氏(秋田藩士・佐竹義茂の養女)。子は長男佐竹義脩(久保田藩主・佐竹義堯養子)ら三男一女がある。養子に佐竹義理。.

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佐竹義忠

佐竹 義忠(さたけ よしただ、享保15年9月15日(1730年10月26日) - 天明7年9月24日(1787年11月3日))は、出羽秋田新田藩(岩崎藩)の第3代藩主。第2代藩主・佐竹義道の三男。母は初代藩主・佐竹義長の娘・明鏡院。幼名は富之助。通称は多宮。官位は従五位下壱岐守、播磨守。正室はいない。子に長男・佐竹義恭(よしゆき、6代藩主義純の父)と娘(青木一貞正室)がある。 長兄の義明が本家の藩主となり、次兄の義敏は早世したため、宝暦13年(1763年)3月29日に父・義道の嫡子になった。同年4月15日、将軍徳川家治に御目見した。同年5月14日、父の隠居により跡を継いだ。同年12月9日、従五位下壱岐守に叙任された。隠居後、播磨守に遷任された。安永9年(1780年)11月7日、養嗣子の義祇(義敏の子で甥にあたる)に家督を譲って隠居し、天明7年(1787年)9月24日に死去した。法号は観量院法性賢融。墓所は東京都板橋区小豆沢の総泉寺。 よしたた *03 Category:1730年生 Category:1787年没.

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佐用範家

佐用 範家(さよう のりいえ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期の武将。通称は三郎。佐用為範の三男。佐用城主。兄に為信、為貞。子に則貞、家久、定道。 佐用氏は播磨の赤松氏の一族。赤松氏初代の赤松家範の叔父・佐用頼景が播磨佐用郡西山城を築城し佐用氏を称した。頼景の曾孫が範家の父・為範である。 佐用氏5代・範家は、弓の名手であり武勇の誉れ高く、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵した赤松則村に従い各地を転戦、赤松氏範・妻鹿長宗・粟生師時・田中盛兼・田中盛泰・頓宮入道・頓宮員利と共に「赤松八大力」の一人に数えられる。 『太平記』によると、同年4月27日、久我畷の戦い(京都市伏見区)で寄せ手の鎌倉方の大将・名越高家をその強弓で討ち取った。(『太平記』巻九「山崎攻事付久我畷合戦事」) また、建武年間(1334年~1338年)に佐用城を築城した。.

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佐用町

平福宿 佐用町(さようちょう)は、兵庫県の南西部に位置する町。西播磨県民局管轄区域。2005年(平成17年)10月1日、佐用郡の佐用町・上月町・南光町・三日月町が合併し、新たに佐用町(三代目)として発足した。本項では町制前の名称である佐用村(さよむら)についても述べる。 人口は県内41自治体中第36位、面積は県内第10位。 町づくりの合言葉は「ひと まち 自然がきらめく共生の郷 佐用」(佐用町総合計画より)。.

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佐用郡

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佐田彦四郎

佐田 彦四郎(さだ ひこしろう、生没年不詳)は、安土桃山時代の忍者。.

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彦根市

彦根市(ひこねし)は、滋賀県の北東部に所在する市である。滋賀県北部、東部の中心となる都市である。 旧坂田郡鳥居本村と旧愛知郡稲枝町を除き、かつては犬上郡に属していた。.

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当麻皇子

当麻皇子(たいまのみこ、敏達天皇3年(574年?)以降用明天皇元年(586年?)以前 - 没年不詳)は、古墳時代後期から飛鳥時代前期にかけての皇族。麻呂子皇子ともいう。用明天皇の第三皇子。.

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但馬山岳県立自然公園

但馬山岳県立自然公園(たじまさんがくけんりつしぜんこうえん)とは、兵庫県北部にある兵庫県立の自然公園である。.

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但馬信用金庫

但馬信用金庫(たじましんようきんこ)は、兵庫県豊岡市に本店を置く信用金庫。統一金融機関コードは1692。営業エリアは、兵庫県但馬地区ならびに播磨地区の一部、京都府京丹後市、福知山市地域。経営ビジョンは、「原点回帰 新たな飛躍を目指して~共に生きるこの街を元気に~」、愛称・略称は「たんしん」。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御坂神社

御坂神社(みさかじんじゃ)は、兵庫県三木市志染町御坂243に鎮座する神社。『延喜式神名帳』に「播磨国美囊(みなぎ)郡一座 御坂神社」と記載された式内社で、旧社格は郷社。志染の氏神。.

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御着城

御着城(ごちゃくじょう)は、兵庫県姫路市御国野町御着(旧・播磨国飾東郡)にあった日本の城。別名は茶臼山城、天川城。城内に山陽道や城下町をとり込んだ惣構えの平城だった。赤松氏の一族小寺氏の居城で、1519年(永正16年)に小寺政隆(まさたか)が築城したと言われる。1579年(天正7年)に羽柴秀吉に攻められ落城、城割が行われ廃城となった。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。.

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御陵衛士

京都 御陵衛士屯所跡 御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織。高台寺党とも(高台寺塔頭の月真院を屯所としたため)。.

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徳大寺実盛

徳大寺 実盛(とくだいじ さねもり、応永7年8月5日(1400年8月24日) - 応永35年4月23日(1428年6月6日))は、室町時代の公卿。主に後小松天皇(100代)・称光天皇(101代)の二帝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで進んだ。父は太政大臣徳大寺公俊。室は右兵衛督持明院基親の娘。子に右大臣徳大寺公有、教覚(天台座主)、尊任(仁和寺大僧正)。 応永11年(1404年)叙爵。以降累進して、侍従・右近衛少将・加賀介・右近衛中将・播磨介となり、応永21年(1414年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言をへて、応永28年(1421年)に権大納言に任じられる。応永35年(1428年)に踏歌節会内弁をつとめたが、同年に薨去。享年29。.

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徳島藩

徳島藩(とくしまはん)は、阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島)の2国を領有した藩。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名の蜂須賀氏。支藩として一時、富田藩があった。.

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徳川おんな絵巻 (テレビドラマ)

徳川おんな絵巻(とくがわおんなえまき)は、江戸時代、徳川幕政下における全国の諸藩の奥向き(各藩の大奥にあたる)にまつわるストーリーを綴る連続時代劇テレビドラマ。 1話2回で完結が基本構成(1回で完結も若干あり)。各話とも時代の藩主や藩主交代・国替などを背景にした話が殆んどだが、必ずしも藩主とその相手の女性や奥向きの話が中心ではなく、また藩主クラスでも実在しない人物の登場や、関係した実在人物の生没時期が史実と異るなど、史実の一部に逸話や創作部分を絡めた設定構成になっている。語り役は前半39回分が杉村春子、後半13回が村松英子。 フジテレビ系列で1970年10月~1971年9月に60分枠(本編+予告編部約48分)全52話で放映。「大奥(1968年版)」、「大坂城の女」に引き続き、大奥シリーズ3部作の最後の作品として関西テレビ・東映で製作された。.

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徳川重好

徳川 重好(とくがわ しげよし)は、徳川御三卿の一つ、清水徳川家の初代当主。清水 重好とも。.

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徳永恕

徳永 恕(とくなが ゆき、1887年(明治20年)11月21日 - 1973年(昭和48年)1月11日、女性)は、日本の幼児教育者、社会事業家。 保育園の源流のひとつとされる二葉幼稚園(のちに二葉保育園と改称)の保母、園長、理事長として幼児教育・社会福祉に貢献し、女性初の名誉都民となった。 「二葉の大黒柱」(野口幽香による評)として幼児教育に携わる傍ら、小学部、少年少女クラブ、日曜学校、夜間診療部、廉売部、五銭食堂、母子寮等を通じて、底辺社会の人々のために尽力した。.

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徳源院

徳源院(とくげんいん)は、滋賀県米原市にある京極氏の菩提寺。清瀧寺(せいりゅうじ、または、きよたきでら)とも呼ばれる。山号を霊通山と称する。宗派は天台宗。境内にある京極家墓所は国の史跡に指定されている。.

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徹心寺

山門 福本藩池田家歴代墓所 徹心寺(てっしんじ)は兵庫県神崎郡神河町福本にある法華宗陣門流の仏教寺院。福本藩池田家当主歴代の菩提寺である。山号は一関山、開基は池田(松平)政直。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後鳥羽院尊儀

後鳥羽院尊儀とは、広島県三次市作木町香淀に存在する墓碑である。.

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後藤基次

後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。.

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後藤基清

後藤 基清(ごとう もときよ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。讃岐国・播磨国守護。.

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後藤恕作

後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4月19日) - 昭和4年(1929年)4月)は播磨国(兵庫県)生まれの実業家。後藤毛織製造所(後に東京毛織)の創立者であり、明治から昭和初期にかけて活躍した『後藤恕作履歴書』(『公文雑纂』),『東洋経済新報』91,92,150号。 播磨国揖東郡網干村(現・兵庫県姫路市)生まれ。明治8年(1875年)に清国公使として赴任した森有礼に随行し、北京で毛織染色法を学んだ。日本に帰国後、明治12年(1879年)本郷で小工場を設立しなめし革、毛糸紡績を行ったがこれは失敗し、じゅうたんなどの製造を始めた。明治13年(1880年)芝区白金台(現東京都港区)に民間としては日本初の毛織物工場である後藤毛織製造所を設立、明治25年(1892年)には大井町(現品川区)にも工場を進出させて生産基盤を強化し、日清戦争、日露戦争期には業績を躍進させた。 明治33年(1900年)の過剰恐慌により、後藤毛織製造所を三井に売却したが、その後中島銀行の援助を受けて、島田毛織製造所を設立、明治40年(1907年)、同社は後藤毛織と改称、第一次世界大戦期に東京毛織物、東京製絨と合併し、東京毛織となった。 昭和3年(1928年)、緑綬褒章を受章した。岐阜県各務原市、岐阜市に別荘を建設したが昭和7年(1932年)に後藤毛織が倒産した後、手放している。 長谷川栄作によって大正9年(1920年)、後藤恕作立像が作られている。.

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後藤氏

後藤氏(ごとうし、ごとううじ)は、日本の氏族の一つ。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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待賢門

待賢門(たいけんもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。左衛門府が警固を担当した。.

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忍熊皇子

関係略系図(表記・記載は『日本書紀』による) 忍熊皇子(おしくまのみこ/おしくまのおうじ、生年不詳 - 神功皇后元年3月)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「忍熊皇子」や「忍熊王」、『古事記』では「忍熊王」、他文献では「忍熊別皇子」とも表記される。 第14代仲哀天皇皇子で、応神天皇との間での対立伝承で知られる。.

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忍術学園

忍術学園(にんじゅつがくえん)は、漫画『落第忍者乱太郎』およびそれを原作としたテレビアニメ『忍たま乱太郎』に登場する忍者の学校である。生徒・教職員の親族に関しては落第忍者乱太郎の登場人物を参照のこと。.

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忍藩

忍藩(おしはん)は、武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)に置かれた。.

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忠臣蔵1/47

『忠臣蔵1/47』(ちゅうしんぐらよんじゅうななぶんのいち)は、2001年12月28日にフジテレビで放映された時代劇ドラマ。 赤穂浪士四十七士のうち、唯一人を斬った経験のある男といわれ、その名を日本中に知られた剣豪・堀部安兵衛に木村拓哉が挑戦したテレビドラマスペシャル。タイトルの1/47もその意味である。.

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信濃飯田藩

飯田藩(いいだはん、信濃飯田藩)は、信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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志引峠

志引峠(しびきとうげ)は、岡山県美作市と兵庫県宍粟市の境にある峠。北の後山(1344.4m)と南の日名倉山(1047.1m)とを結ぶ稜線上にあり、氷ノ山後山那岐山国定公園内にある。国道429号が通る。;地理 近隣で兵庫県と岡山県を結ぶ峠としては、志引峠の北側にある「上乢」(739m)が後山と日名倉山のあいだにあり、「奥海越(おねこし)」、「千合地峠」が日名倉山と船越山のあいだにある。このほか、志引峠の西1kmほどの地点には「奥海乢(おねみたわ)」があり、美作市と佐用町を結んでいる。 峠は兵庫県側で千種川の上流域の支流である西山川、岡山県側からは吉井川水系・吉野川の支流である後山川のが迫っている。;歴史 志引峠の兵庫県側にあたる日名倉山の北東麓には、風化の進んだ石英閃緑岩の露頭が多い。石英閃緑岩が風化すると砂鉄を多く産出するようになり、このあたりは高品質の砂鉄の産地だった。このあたりで産する鉄は千種鉄(千種鋼とも)と呼ばれ、日本刀の原料として古くから珍重され、明治期まで生産されていた。備前の長船勝光・長船宗光らが用いたものも千種鉄である。志引峠は播磨国と美作国を結ぶ峠の中で、この千種鉄の輸送路として重要視されてきた。.

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志染町三津田

志染町三津田(しじみちょうみつだ)は、兵庫県三木市にある大字。旧・美嚢郡志染村三津田。郵便番号は673-0515.

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志方城

志方城(しかたじょう)は播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった日本の城(平城)である。現在、本丸跡は宝積山観音寺の境内、二の丸跡は加古川市立志方小学校になっている。また西の丸跡は旧志方町役場であった。.

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志方町

志方町(しかたちょう)は、兵庫県加古川市北西部の地域である。本項では、かつて存在した印南郡志方町についても述べる。.

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志摩荘

志摩荘(しまのしょう)は、甲斐国の荘園。山梨県甲府市西部・甲斐市島上条一帯の荒川沿いに位置する。.

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俄 浪華遊侠伝

『俄 浪華遊侠伝』(にわか なにわゆうきょうでん)は、司馬遼太郎の歴史小説。幕末の俠客・明石屋万吉を主人公に、主に大坂を舞台に庶民からの視線で幕末史を描く。 1965年(昭和40年)5月から1966年(昭和41年)4月まで「報知新聞」紙上で連載された。.

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土井利教

土井 利教(どい としのり)は、三河刈谷藩の第9代(最後)の藩主。刈谷藩土井家12代。.

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土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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土方雄豊

土方 雄豊(ひじかた かつとよ、寛永15年11月19日(1638年12月24日) - 宝永2年7月1日(1705年8月19日))は、伊勢菰野藩の第3代藩主。 土方氏久(初代菰野藩主・土方雄氏の次男)の三男。母は松本藩主・水野忠清の娘。子は豊高(長男)、久長(次男)。通称は清十郎、主殿助、杢助。官位は従五位下・備中守、市正。 京都に生まれる。慶安3年(1650年)5月11日、伯父にあたる第2代藩主・雄高の娘と結婚してその養子に入った。慶安4年(1651年)9月に雄高が死去したため、翌承応元年(1652年)2月8日に15歳で家督を相続した。寛文元年(1661年)12月13日、将軍・徳川家綱に初御目見し、28日に従五位下・備中守に叙任された。寛文2年(1662年)4月に初めて菰野に入った。寛文3年(1663年)12月には江戸で火消し大名として活躍し、将軍・家綱からも表彰された。延宝7年(1679年)、官職を市正に改めた。延宝8年(1680年)に志摩鳥羽藩主・内藤忠勝が刃傷事件のために改易に処された際には、雄豊が鳥羽城受け取り役に命じられ、志摩国鳥羽へ赴いた。 天和3年(1683年)に院使饗応役を命じられているが、このとき播磨赤穂藩主・浅野長矩が相方の勅使饗応役を勤めていた。指南役は吉良義央であった。この時に浅野と土方は親しくなったようで、長矩の養子長広(長矩の実弟)は、雄豊の養女(長男・豊高の娘)と縁組することになる。 宝永2年(1705年)7月31日に死去した。享年68。菰野の見性寺に葬られた。法名は通霄院殿玄峯孤順大居士。家督は長男・豊高が父に先立って死んでいたため、孫(豊高の長男)の豊義が継いだ。 かつとよ *03 Category:1638年生 Category:1705年没.

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在原友于

在原友于(ありわら の ともゆき、承和10年(843年) - 延喜10年4月20日(910年5月31日))は、平安時代前期の公卿。.

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地名集

地名集 (ちめいしゅう、gazetteer) は地名の辞書やデータベースを指す。地名とその場所に関する情報を提供する役割を果たし(地名学を参照)、地図や地図帳と同時に使用されることも多いAurousseau, 61.

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化け猫

pages.

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北はり磨聖也

北磻磨 聖也(きたはりま せいや、1986年7月28日 - )は、兵庫県龍野市(現:たつの市)揖保町出身で山響部屋(入門時は北の湖部屋)所属の大相撲力士。本名は嶋田 聖也(しまだ せいや)。身長182cm、体重124kg、血液型O型、得意技は押し、突き。最高位は 東前頭15枚目(2016年7月場所)。同部屋の龍野湖は実弟(2013年1月場所初土俵)。いわゆる「花のロクイチ組」の1人大空出版『相撲ファン』vol.06 p68-71。.

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北前船

北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称コトバンク。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。.

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北白川の戦い

北白川の戦い(きたしらかわのたたかい)は、永禄元年6月9日(1558年7月4日)に現在の京都府京都市左京区の北白川周辺で行われた戦い。戦闘自体は小競り合いに過ぎなかったが、その後の和睦で政治体制に大きな変化をもたらした。この戦闘前後に近郊の東山にそびえる将軍山城及び如意ヶ嶽で繰り広げられた争奪戦についても記述する。.

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北条兼時

北条 兼時(ほうじょう かねとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は第8代執権・北条時宗の異母弟である北条宗頼。.

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北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.

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北条時輔

北条 時輔(ほうじょう ときすけ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の長男で庶長子。8代執権・北条時宗の異母兄。 第6代将軍・宗尊親王の側近として将軍御所に仕え、上洛して六波羅探題南方を務めるが、二月騒動で謀反の疑いを受け、異母弟・時宗の命により誅殺された。.

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北条時治 (佐介流)

北条 時治(ほうじょう ときはる)は、鎌倉時代中期から末期にかけての武将。北条氏の一門。佐介流北条氏。鎌倉幕府の初代連署・北条時盛の子。佐介 時治(さすけ ときはる)とも呼ばれる。また、播磨国美嚢郡淡河庄(現兵庫県神戸市淡河町)を領したことから淡河 時治(おうご ときはる)とも呼ばれる。越前国大野郡牛原(福井県大野市)の地頭でもあった『太平記』巻十一「越前牛原地頭自害事」。.

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北条時敦

北条 時敦(ほうじょう ときあつ)は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。北条氏政村流。父は北条政長。母は長井時秀の娘。 正安元年(1299年)6月に従五位下、修理権亮に叙爵され、嘉元元年(1303年)には左近将監、弾正少弼を兼任した上で、延慶3年(1310年)従五位上に昇叙。同年から文保元年(1317年)まで越後守の官途にあった。 徳治元年(1306年)、引付衆の一員として幕政に参画し、延慶3年(1310年)には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、正和4年(1315年)、北方に転任した。この頃持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝して問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に佐藤進一の指摘によれば加賀国の守護職も担当していた。 元応2年(1320年)5月24日、京都にて40歳で死去した。 『玉葉和歌集』『続千載和歌集』にそれぞれ4首の歌が収録されている。.

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北播磨

北播磨(きたはりま).

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圓教寺

圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん)に位置する寺院で、天台宗の別格本山である古寺を巡る24 (2007)、2頁。山号は書寫山(書写山)書写山 (1991)、1頁。西国三十三所第27番古寺を巡る24 (2007)、2・7頁書写山 (1991)、9頁。現住職は第140世。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。.

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マルアイ (食品スーパー)

株式会社 マルアイは兵庫県加古川市に本社を置く流通企業である。1953年創業。.

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チャーシューおにぎり

チャーシューおにぎりは、さまざまなラーメン屋のサイドメニューとして販売されている食べ物である。薄切りのチャーシューをご飯に巻いたもの、刻んだチャーシューの混ぜご飯をおにぎりにしたものなどがある。.

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バンデット -偽伝太平記-

『バンデット -偽伝太平記-』(バンデット ぎでんたいへいき)は、河部真道による日本の漫画作品。南北朝時代(鎌倉時代後期から室町時代初期)の騒乱を記した『太平記』を題材にした漫画で、講談社の『モーニング』にて2016年45号(2016年10月6日発売)から2017年48号(2017年10月26日発売)まで連載していた(全52話)。題字は平田弘史による。なお、バンデット (bandit) は山賊の意味だが、本作では『太平記』の時代に見られる悪党を指している。.

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ポストガール

ポストガールは、全4巻からなるライトノベル作品。作者は増子二郎、イラストはGASHIN。1巻に収録されている「ポストガール」は第一回電撃hp短編小説賞を受賞している。全ての話は一話完結の形をとっている。.

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モモキュンソード

『モモキュンソード』は、キビダンゴプロジェクトが制作するデジタルライトノベルを中心としたコンテンツ。Webサイトで、声優が1人から数人でライトノベルの朗読を行う。.

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ヤマト運輸

ヤマト運輸株式会社(ヤマトうんゆ、)は、日本の宅配便事業を行う企業である。ヤマトホールディングス株式会社の中核事業会社で、100%出資子会社。.

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ヤマサ蒲鉾

ヤマサ蒲鉾株式会社(ヤマサかまぼこ)は兵庫県姫路市に本社を置く食品メーカー。兵庫県南西部(播磨地方)では老舗で、近畿地方を代表する魚肉練り製品(蒲鉾・竹輪)メーカーの一つ。社紋「山(ヘの字)にサ」を、そのまま社名とする。ちなみに愛知県豊橋市のヤマサちくわは当社と同じく主に魚肉練り製品を扱い、同じ社紋でもあるが全くの無関係である。千葉県に本社のあるヤマサ醤油も無関係である。 創業時は姫路市域の白浜町に本社があり、1989年に夢前町に移転したが、2006年3月27日に同町が姫路市へ編入合併されたため、再び姫路市の企業となった。.

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ヤヱガキ酒造

ヤヱガキ酒造株式会社(やゑがきしゅぞう)は兵庫県姫路市に本社を置く酒類製造企業である。.

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ロバート・デイヴィッドスン

バート・ヤング・デイヴィドスン(Robert Young Davidson、1846年5月9日 - 1909年3月11日)は明治時代に来日した、スコットランド一致長老教会の宣教師である。.

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ヘラオモダカ

ヘラオモダカ (Alisma canaliculatum) は、オモダカ科サジオモダカ属の植物。和名は、葉の形がへらに似ていることによる。.

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ブンセン

ブンセン株式会社(BUNSEN CO.,LTD.)は、兵庫県たつの市新宮町に本社を置く、醤油を中心に海苔佃煮やもろみ、惣菜、煮豆、米飯、生菓子などを扱う食品メーカーである。 コーポレート・メッセージは「おいしいが喜び」。.

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プライメイトシティ

プライメイトシティ(primate city)とは、地域の中で最も大きく、規模において2番目の都市を大きく引き離している都市を指す。一極集中型となっているため、影響力も大きい。首位都市(しゅいとし)や首座都市(しゅざとし)と訳される。.

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ヒメヒコ制

ヒメヒコ制とは、弥生時代後期から古墳時代前期(紀元前1世紀から紀元後4世紀)にかけて日本各地で成立した男女別集団の共立的統治形態をいう。農耕的女子集団の長を主にヒメ、軍事的男子集団の長を主にヒコといったことからヒメヒコ制と名づけられた。.

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ヒュー・ジェームス・フォス

ヒュー・ジェームス・フォス(Hugh James Foss、1848年6月25日 - 1932年3月21日)はイギリス人宣教師、日本聖公会神戸教区初代主教、日本聖公会聖ミカエル教会初代牧師、松蔭女子学院創立者、日本語での聖歌集、祈祷書、聖書作成の功労者でもある。 ケント州カンタベリー近郊の生まれ、ケンブリッジ大学卒。明治9年(1876年)聖公会系の福音宣布協会の宣教師として来日して大正12年(1923年)の帰国までの47年間、大阪・神戸を中心に淡路・播州方面の開拓伝道に努めた。また、聖バルナバ教会(聖ミカエル教会)や乾行義塾(聖ミカエル国際学校)も設立している。明治32年(1899年)に大阪地方部(大阪・神戸両教区)主教となった。 日本語が堪能であり、日本文化への造詣が深く、聖歌数編を作った。その他、編集・出版に『賛美之歌』『基督公会之歌』『聖公会賛美歌』『古今聖歌集』などがある。また、松山高吉との共訳『ヨハネ伝福音書』は名訳として有名。.

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ヒガシマル醤油

ヒガシマル醤油株式会社(ヒガシマルしょうゆ)は、兵庫県のたつの市に本社を置く調味料を主とする日本の食品メーカーである。 うすくち醤油の代名詞とも言える企業としてその名を知られる。社紋のデザイン「東に丸」を社名とする。工場は3か所とも、たつの市の市街地に位置する。.

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別表神社

別表神社(べっぴょうじんじゃ)とは、神社本庁が定めた、神社本庁が包括している一部の神社のことである。.

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別所友之

別所 友之(べっしょ ともゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。別所氏の家臣。.

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別所吉親

別所 吉親(べっしょ よしちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。鷹尾山城主。 兄・別所安治が亡くなった後は、弟・重宗と共に、甥(安治の子)・長治の後見を務めた。播磨国に織田信長の部将・羽柴秀吉が進出して来ると、長治は信長に従属したが、吉親は加古川城での会談で秀吉と衝突、長治を説得して信長に反乱を起こした。親織田派であった重宗は浪人となっている。 天正8年(1580年)、秀吉から長治に降伏の引き換えに長治とその弟・友之、そして吉親ら3人の切腹で城兵を助けるという旨を伝えられた。しかし、吉親は反対し、あくまで城に火をつけて信長に首を渡さずに自らの体を灰にしてしまうと言い、自分の家を放火してしまった。これを見て激怒した城兵に殺されて、首は安土に運ばれてしまった。吉親の妻、別所波は3人の子(男子2人・女子1人)を次々と刺殺し、最後は自分の喉元を刺して自害した。享年23という。 子・吉成は生き延び孫の成忠(なりただ)を経て、曾孫の成光(なりみつ)の時に磯野姓を名乗った。 ちなみに鷹尾山城を守ったのは友之とする記述は大きな誤りと思われる。.

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別所安治

別所 安治(べっしょ やすはる)は、戦国時代の武将。 弘治2年(1556年)、父・別所就治から家督を継ぐ。父に劣らず武勇に優れ、播磨国東部に勢力を張り、三好氏の侵攻を撃退した。赤松義祐が子と争った際は、一時義祐を居城の三木城に保護した。織田信長が上洛してくるとそれに通じて弟・重宗を派遣、三好氏と戦った。 足利義昭が三好三人衆に襲撃された際は応援を出しこれを信長に賞された。.

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別所就治

別所 就治(べっしょ なりはる)は、戦国時代の武将。播磨国・国人別所氏当主。別所則治の孫。 別所氏は赤松氏の一族とされるが、則治の代になって赤松政則の重臣として突然登場するなど、その経歴は謎が多い。則治は東播磨の守護代に大抜擢され、それまで赤松家中で勢力を持っていた依藤氏と争った。就治は則治の子とも、則治の子の別所則定(早逝)の子ともいわれる。 当初は赤松氏の傘下として三木城を領していたが、主家の衰退に伴って勢力を拡大し、戦国大名として独立した。同じく赤松氏から独立した浦上村宗が細川高国と結び東播磨に迫ると、柳本賢治と結びこれに対抗し、浦上氏方の依藤氏と戦ったが、賢治が陣没(暗殺?)したため浦上氏に敗れ三木城を失ったが、大物崩れにより高国と村宗が滅びると復帰している。その後も尼子晴久の侵攻を退けたが、有馬重則と結んだ三好長慶に圧倒され、和睦を結んだ。晩年には依藤氏を圧倒しつつ東播磨の覇権を確保し、別所氏の最盛期を築き上げることになる。 弘治2年(1556年)に家督を長男・安治に譲った。永禄6年(1563年)没。享年62。.

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別所則治

別所 則治(べっしょ のりはる)は、室町時代 から 戦国時代初期にかけての武将。.

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別所長治

別所長治夫妻の首塚 / 雲龍寺 別所 長治(べっしょ ながはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。別所安治の嫡男。通称は小三郎。正室の照子(てるこ)は波多野秀治の妹(娘とも)。.

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別所氏

別所氏(べっしょし)は、播磨の戦国大名を輩出した氏族。 播磨の守護大名・赤松氏の庶流であり、三木城を本拠とした。.

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利神城

利神城(りかんじょう)は、播磨国佐用郡平福(現在の兵庫県佐用郡佐用町平福)に存在した日本の城(山城)。平福は朝霧の名所であり、江戸時代初期には天守がありその姿が霧の上に浮かんだ偉容から雲突城とも呼ばれた。.

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嘉吉

嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.

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嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.

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善防山城

善防山城 (ぜんぼうさんじょう)は、室町時代に現在の兵庫県加西市三口町の善防山(標高251m)にあった日本の城(山城)。.

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周布元兼

周布 元兼(すふ もとかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏、毛利氏の家臣。.

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周布氏

周布氏(すふし)は、石見国の周布郷を本拠としていた武家。本姓は藤原北家の一族で、石見国の大族である関白藤原忠平の後裔国兼を祖とする御神本氏といわれる。.

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呉 (姓)

呉(ご、くれ)は、漢姓の一つ。.

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和紙

和紙(わし/わがみ)は、日本古来の紙。欧米から伝わった洋紙(西洋紙)に対して日本製の紙のことをさす。日本紙と同義。.

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和田寧

和田 寧(わだ ねい、天明7年(1787年) - 天保11年9月18日(1840年10月13日))は、江戸時代の和算家・武士。前名は香山政明、字は子永、通称は直五郎、豊之進。号は算学、円象。.

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和田正信

和田 正信(わだ まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。備前国岡山藩家老。.

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和田惟政

足利義昭を救出する惟政(歌川豊宣画) 惟政の供養墓(大阪府茨木市) 和田 惟政(わだ これまさ)は、戦国時代の武将。室町幕府末期の幕臣。父は和田宗立(惟助)。.

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和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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和漢三才図会

アシカ(右)とオットセイ、38巻72頁明治17年翻刻の中近堂版 『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)は、寺島良安により江戸時代中期に編纂された日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。.

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アメノヒボコ

アメノヒボコは、記紀等に伝わる古代朝鮮からの渡来人または渡来神。 『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。 『日本神話』・『古事記』等では新羅王子、『播磨国風土記』では神と位置づけて記述される。.

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アメノウズメ

天鈿女命像 天岩戸神社東本宮 アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する神。「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。 一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)『お伊勢さん125社めぐり』別冊『伊勢人』、伊勢文化舎、2008年、p.113。。大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもある。.

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アスパ高砂

アスパ高砂(アスパたかさご)は、兵庫県高砂市にある、イオンリテール株式会社が運営するショッピングセンター(SC)である。 中核店舗はイオン高砂店(イオンたかさごてん)。.

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イオン明石ショッピングセンター

イオン明石ショッピングセンター(イオンあかしショッピングセンター)は、兵庫県明石市大久保町にあるショッピングセンター。 イオンモールにより運営・管理されており、イオン明石店と明石ビブレと専門店で構成されている。 旧名称マイカル明石。.

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イカナゴ

イカナゴ(玉筋魚、鮊子 Ammodytes personatus)は、スズキ目 ワニギス亜目イカナゴ科の魚類。様々な地方名があり、稚魚は東日本で「コウナゴ(小女子)」、西日本で「シンコ(新子)」。成長したものは北海道で「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、「カナギ(金釘)」などと呼ばれる。イワシなどと並んで沿岸における食物連鎖の底辺を支える重要な魚種である。季語、晩春。.

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カイコ

イコ(蚕、蠶)はチョウ目(鱗翅目)・カイコガ科に属する昆虫の一種。正式和名はカイコガで、カイコは本来この幼虫の名称だが、一般的にはこの種全般をも指す。クワ(桑)を食餌とし、絹を産生して蛹(さなぎ)の繭(まゆ)を作る。有史以来養蚕の歴史と共に各国の文化と共に生きてきた昆虫。 学名(ラテン語名)は「(仮名転写の一例:ボムビークス・モリー)」。.

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催馬楽

鍋島本「催馬楽曲譜」 催馬楽(さいばら)とは、平安時代に隆盛した古代歌謡。元来存在した各地の民謡・風俗歌に外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡である秋澤(2010)p.65。管絃の楽器と笏拍子で伴奏しながら歌われた「歌いもの」の一つであり、多くの場合遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われた増本(1990)p.108多田(2004)。語源については馬子唄や唐楽からきたとする説などもあるが定かではない。.

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ジャコウアゲハ

ャコウアゲハ(麝香鳳蝶、麝香揚羽、学名: または )は、チョウ目アゲハチョウ科のチョウの一種。 和名は、雄成虫が腹端から麝香のような匂いをさせることに由来する(成分はフェニルアセトアルデヒドであることが判明している)。.

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スピルオーバー

ピルオーバー(spill-over.

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センゴク

『センゴク』は、宮下英樹による漫画作品。講談社刊『週刊ヤングマガジン』に2004年から掲載され、第2部を『センゴク 天正記』、第3部を『センゴク 一統記』として連載。2015年50号から第4部にして最終章『センゴク権兵衛』が連載中。2007年2月より番外編として『センゴク外伝 桶狭間戦記』(全5巻)が連載され、累計発行部数は連載11年目となる2015年3月時点で累計750万部。.

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セイバン

株式会社 セイバン(SEIBAN COMPANY LIMITED)は、兵庫県たつの市揖保川町に本社を置く各種鞄の製造・販売をおこなう企業である。社名は「カバンの製造=製カバン」を縮めたのと、同社が本社を置く兵庫県のたつの市が西播磨地域であり「西播=セイバン」と呼ぶことなどのダブル・ミーニングから来ている。.

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ソボロ助広

ソボロ助広(ソボロすけひろ)は、江戸時代の摂津国の刀工。播州津田出身。通称「弥兵衛尉」。新刀上々作にして最上大業物。 大阪にでて初代河内守国助門人となる。作柄としてはそり浅く、地金小杢目、刃文は丁子刃、互の目乱れなどを焼く。 「ソボロ」とは、服装にかまわずいつもボロをまとっていたためとか諸説あるが、真実は定かではない。 すけひろ.

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サンテレビジョン

株式会社 サンテレビジョンは、兵庫県を放送対象地域としたテレビジョン放送事業を行っている、特定地上基幹放送事業者である。略称はSUN(サン)。通称はサンテレビ(SUN-TV)。 コールサインはJOUH-DTV(神戸 26ch)、リモコンキーIDは局名と同じ「3」。.

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サジオモダカ属

モダカ属(サジオモダカぞく、Alisma)は、オモダカ科の属。約10種類の湿性植物で構成されている。葉の形がさじ(スプーン)に似ていることから、サジオモダカという和名がある。オモダカ科の模式属で、世界中に広く分布する属である。.

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らーめん八角

らーめん八角(ラーメンはっかく)は、日本のラーメンチェーン店。加古川市を中心に、兵庫県の西エリアで展開している。運営母体は兵庫県加古川市加古川町の株式会社八角『飲食店経営』2013年11月号(商業界)P.44。.

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備中高松城の戦い

備中高松城の戦い(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、日本の戦国時代におきた戦い。天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城を攻略した戦いである。秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。 水攻めの最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返した。.

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備中手延べ麺

備中手延麺(びっちゅうてのべめん)とは、岡山県浅口市鴨方町(旧備中国)およびその周辺部で手延べ方式で生産される麺の事である。主にうどん・そうめん・ひやむぎが有名。 また「かも川」の商標も有名である。.

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備後福山藩

福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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員外官

員外官(いんがいん)とは、古代日本において、朝廷の官職について、令(りょう)に定められた正規の定員数を越えて任命する官職。奈良時代に主として見られる。平安時代には権官(ごんかん)が任命された。.

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唐津城

唐津城(からつじょう)は、佐賀県唐津市東城内にあった日本の城である。別名は、舞鶴城(まいづるじょう)。.

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唐津市

虹の松原(国の特別名勝) 唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置し玄界灘に面する市。福岡都市圏(福岡相対都市圏)を形成する都市の一部である。.

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唐津藩

唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。.

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冷泉家

冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家。家格は羽林家。代々近衛中将に任官された。家名は冷泉小路に由来する。歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承している。.

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冷泉為純

冷泉 為純(れいぜい ためずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿・武将。歌人。細川庄を領したので細川 為純(ほそかわ ためずみ)と呼ばれることもあるが、室町幕府管領の細川氏との関係はない。.

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冷泉為相

冷泉 為相(れいぜい ためすけ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿・歌人。冷泉家の祖。権大納言民部卿・藤原為家の晩年の子。母は『十六夜日記』作者として知られる阿仏尼(安嘉門院四条)。官位は正二位・権中納言。.

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円山川

円山川(まるやまがわ)は、兵庫県北東部を流れる一級水系の本流。朝来川(あさごがわ)とも呼ばれる。2012年(平成24年)7月3日、「円山川下流域・周辺水田」がラムサール条約に登録された。.

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円行

円行(えんぎょう、延暦18年(799年)- 仁寿2年3月6日(852年3月29日))は、平安時代の真言宗の僧。出身は京都。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。.

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内藤忠勝

内藤 忠勝(ないとう ただかつ)は、志摩鳥羽藩の第3代藩主。第2代藩主内藤忠政の次男。.

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内藤波知

内藤 波知(ないとう はち、? - 寛文12年12月20日(1673年2月6日))は、播磨赤穂藩主・浅野長友の正室。志摩鳥羽藩主・内藤忠政の娘。母は板倉重宗の娘。弟に内藤忠勝。姉妹に安部信友室、戸田氏西室、岩城秀隆室などがいる。 長友に正室として嫁ぎ、寛文7年(1667年)8月11日に長男・長矩、寛文10年(1670年)10月29日に次男・長広を出産したが、寛文12年(1672年)12月20日に浅野家の江戸藩邸において死去した。赤穂の照満山大蓮寺に葬られた。戒珠院殿理庵栄智大姉。 ちなみに長友も延宝3年(1675年)に死没したため、長矩・長広兄弟は幼少にして父母を失うことになった。 はち Category:浅野氏 Category:江戸時代の大名の正室 Category:赤穂藩の人物 Category:鳥羽藩の人物 Category:17世紀生 Category:1673年没.

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内藤政環

内藤 政環(ないとう まさあきら)は、江戸時代の大名。陸奥湯長谷藩の第9代藩主。 天明5年(1785年)10月17日、肥前唐津藩主・水野忠鼎の十男として生まれる。寛政11年(1799年)に第8代藩主・内藤政偏が若死にしたため、養子として跡を継いだ。同時に叙任している。しかし藩政においては文政3年(1820年)に水害、翌文政4年(1821年)には旱魃と、多難を極めた。このような中で文政7年(1824年)8月23日、家督を養子・政民に譲って隠居した。天保7年(1836年)8月23日に死去した。享年52。.

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内藤政醇

内藤 政醇(ないとう まさあつ)は、江戸時代の大名。陸奥・湯長谷藩の第4代藩主。 正徳元年(1711年)、第3代藩主・政貞の長男として生まれる。享保7年(1722年)、父の死去により跡を継ぎ、享保10年(1725年)に将軍・徳川吉宗に御目見する。享保12年(1727年)12月に叙任する。 「忠孝・倹約・扶助」を旨とする藩法を定めた。 寛保元年9月5日(1741年10月14日)、帰国直後に死去した。享年31。跡を長男・政業が継いだ。.

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内藤政恒

内藤 政恒(ないとう まさつね)は、陸奥湯長谷藩の第11代藩主。 天保7年(1836年)、信濃松本藩主・松平光庸の三男として生まれる。安政2年(1855年)、第10代藩主の政民が死去したため、その婿養子として跡を継ぐ。 安政6年(1859年)に死去、享年24。跡を養子の政敏が継いだ。.

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内藤政業

内藤 政業(ないとう まさのぶ)は、江戸時代の大名。陸奥湯長谷藩の第5代藩主。 元文5年(1740年)、第4代藩主・内藤政醇の長男として生まれる。寛保元年(1741年)、父の死去により2歳で跡を継ぐ。宝暦5年(1755年)11月に徳川家重に御目見し、宝暦6年(1756年)12月に叙任する。しかし宝暦11年(1761年)11月14日、養子の貞幹に家督を譲って隠居した。隠居した理由は不明である。明和6年(1769年)に死去したとも、文化8年(1811年)まで生存したともされる。.

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凡河内国造

凡河内国造(おおしこうちのくにのみやつこ・おおしこうちこくぞう・おおしかわちのみやつこ・おおしかわちのこくぞう)は、河内国・摂津国・和泉国を支配した国造。凡川内国造・大河内国造とも。.

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出石神社

出石神社(いずしじんじゃ)は、兵庫県豊岡市出石町宮内にある神社。式内社(名神大社)、但馬国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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出雲国

出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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出雲街道

出雲街道(いずもかいどう)は、播磨国姫路(兵庫県姫路市)を始点として、出雲国松江(島根県松江市)に至る街道。出雲往来、雲州街道などともいう。.

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問田弘胤

問田 弘胤(といだ ひろたね)は、室町時代の末期から戦国時代にかけての武将。周防国を本拠とする守護大名大内氏の家臣で、その庶流問田氏当主。石見国守護代。.

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児島高徳

児島 高徳(兒嶋 髙德、こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。備前国児島郡林村出身。従五位下・備後守を賜る。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。 元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。 江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師(1374年没)と同一人物とする説や、地元の勢力がある山伏出身、あるいは悪党出身と見る説もある。.

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児玉元良

児玉 元良(こだま もとよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣で、五奉行の一人。.

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全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方

全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)は1873年(明治6年)1月14日に明治政府において太政官から陸軍省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」の件および同じく大蔵省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」の件の総称。陸軍が軍用として使用する城郭陣屋と、大蔵省に引渡し売却用財産として処分する城郭陣屋に区分された。単に「廃城令」、「城郭取壊令」または「存城廃城令」と略されて使用されている場合が多い。.

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全国総合開発計画

全国総合開発計画(ぜんこくそうごうかいはつけいかく)は、日本国土の利用、開発及び保全に関する総合的かつ基本的な計画であり、住宅、都市、道路その他の交通基盤の社会資本の整備のあり方などを長期的に方向付けるものである。国土総合開発法に基づき、内閣総理大臣が関係行政機関の長の意見を聞いて、国土審議会の調査審議を経て、策定される。 そのうち、地域間の均衡ある発展を目指して1962年(昭和37年)に策定されたのが、第一次の全国総合開発計画で、それ以降の総合開発計画においてもそれぞれ略称があることから、単に「全国総合開発計画」(略称:全総(ぜんそう))と呼ぶ場合、第一次の計画を指すこともある。この場合、一全総(いちぜんそう)とも略す。 第一次の計画を手始めに、これまでに、5次にわたる計画が策定されているが、時代の要請をうけてそのねらいや計画項目は移り変わってきた。全国総合開発の歴史は国の地域政策の変遷の歴史でもある。(新全総、三全総、四全総、五全総) なお、2005年に国土総合開発法が国土形成計画法へと抜本改正され、これまでの全国総合開発計画に代わり、新たに国土形成計画を策定することになった。.

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八千代太夫

八千代太夫(やちよたゆう、寛永12年5月1日(1635年6月15日)- 没年不詳)は島原太夫。播州姫路の出身で名は尊子。幼名は石。波多野氏。 正保2年(1645年)、11歳の時に伏見柳町(中書島)福田家に預けられ、慶安元年(1648年) 14歳で「囲(鹿恋)」となり名は「千戸」。 のちに島原の奥村家に移り、慶安2年(1649年)3月7日、 15歳で太夫となる。当初の名は「小太夫」のちに「八千代」となる。 大変な才女であったという。特に書は「一流の祖」と言われるほどの能書家であった。また三味線、琴、胡弓、尺八、小歌、茶の湯、和歌、俳諧、連歌、 全てに秀でていた。 承応3年(1654年)から京の町中より講師を呼んで「伊勢物語」、「徒然草」、「古今和歌集」、「源氏物語」等講義を受けたが、明暦4年(1658年)に講師の病の為、半ばとなった。 八千代の家紋「花輪に桐」を八千代に憧れた中国の人が金襴地に織り上げて長崎にもたらし、朝鮮では茶碗の模様にして日本に輸出したといい、その名は海外にも知られていたという。 万治元年(1658年)12月29日、24歳で廓を離れた。 現在、島原の角屋で太夫の姿でお茶のお点前や舞の披露をする女性が「八千代太夫」と名乗っている。.

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八坂神社

八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。.

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八塔寺

八塔寺(はっとうじ)は、岡山県備前市吉永町加賀美にある天台宗の寺院。山号は照鏡山、本尊は十一面観音。.

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八代道慶

八代 道慶(やしろ どうけい / みちよし)は、戦国時代の武将。.

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八百屋町 (徳島市)

八百屋町(やおやまち)は、徳島県徳島市の町名。内町地区に属している。八百屋町一丁目から八百屋町三丁目まである。 郵便番号は〒770-0841。 やおや「まち」という読みは、江戸時代に町人の町家だったことを示している。.

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八橋城

八橋城(やばせじょう)は、鳥取県東伯郡琴浦町に所在した日本の城。城跡はJR八橋駅のすぐ横にあり、線路によって二分される。大江城とも呼ばれる。.

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六十余州名所図会

『六十余州名所図会』(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)は、歌川広重による日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作である。 1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけて制作された広重晩年の作で、五畿七道の68ヶ国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる名所図会である。 全図とも画面は縦長で、前景を大きく描き遠近を協調したり、大胆なトリミングを施すなど、斬新な構図がとられている。.

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六人部王

六人部王(むとべおう、生年不詳 - 神亀6年1月11日(729年2月13日))は、奈良時代の皇族。身人部王とも記される。系譜は明らかでないが、太政大臣・高市皇子の子の可能性があるとする指摘もある宝賀。位階は正四位上。.

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六角家

六角家(ろっかくけ)は、藤原北家中御門流の公家。江戸時代に成立した家系。また系統は異なるが、江戸幕府の高家となった藤原北家日野流の武家についても本項で扱う。.

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六角広胖

六角 広胖(ろっかく ひろやす)は、江戸時代中期から後期にかけての高家旗本。.

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兼明親王

兼明親王(かねあきらしんのう)は、平安時代中期の公卿、皇族。 醍醐天皇の第十六皇子。朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟にあたる。一時期臣籍降下して源 兼明(みなもと の かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し中務卿となったことから中書王(ちゅうしょおう)あるいは前中書王(さきの ちゅうしょおう)と呼ばれる。「後中書王」と呼ばれた甥の具平親王と共に並び称される博学多才の主で、藤原佐理・藤原行成と共に三蹟の一人に数えられる場合もある。.

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元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

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元禄文化

尾形光琳筆 「燕子花図屏風」 元禄文化(げんろくぶんか)とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。 17世紀中ごろ以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた深井(2012)pp.12-15高埜「元禄の社会と文化」(2003)pp.85-90。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした深谷(2000)pp.80-89。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった尾藤『元禄時代』(1975)pp.16-25。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった原田 他(1981)p.247。 元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる尾藤『元禄時代』(1975)pp.26-51小澤(1993)pp.60-69。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間(社会)の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。とりわけ、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は日本文学史上に燦然と輝く存在である。また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられた。さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に姿がととのえられた。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである。 なお、日本における1960年代の高度経済成長期の文化隆盛を指すものとして、「昭和元禄」(しょうわげんろく)という言葉が生まれている1964年に政治家福田赳夫が言いだした、経済成長下での天下泰平・奢侈安逸の風潮を評した言葉。。.

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兵主神社 (西脇市)

兵主神社 (ひょうすじんじゃ)は、兵庫県西脇市黒田庄町岡にある神社。天平勝宝6年(754年)に創建された式内社で、大志郷の氏神。地元では「ひょうすさん」とよばれる。.

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兵庫縣姫路護國神社

兵庫縣姫路護國神社(ひょうごけんひめじごこくじんじゃ)は、兵庫県姫路市にある神社(護国神社)である。兵庫県西部地区出身(播州・但馬地区十二市十五郡)の戦没者56988柱を祀る。姫路城の中曲輪内の敷地に当たり(現:姫路公園)、かつては武家屋敷だった。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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兵庫県の図書館一覧

兵庫県の図書館一覧(ひょうごけんのとしょかんいちらん)は兵庫県の図書館の一覧である。.

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兵庫県出身の人物一覧

兵庫県出身の人物一覧(ひょうごけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する兵庫県出身の人物の一覧表である。.

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兵庫県知事一覧

井戸敏三兵庫県知事 兵庫県知事一覧(ひょうごけんちじいちらん)は、日本の都道府県の一つである兵庫県の知事を務めた人物の一覧。.

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兵庫県立小野高等学校

兵庫県立小野高等学校(ひょうごけんりつ おのこうとうがっこう)は、兵庫県小野市西本町にある県立高等学校。.

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兵庫県道38号三木三田線

兵庫県道38号三木三田線(ひょうごけんどう38ごう みきさんだせん)は、兵庫県三木市本町と同県三田市を結ぶ主要地方道である。.

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光源氏

光源氏(ひかるげんじ)は、紫式部の物語『源氏物語』の主人公。平安時代の公卿。一世源氏。近衛中将、大将、大納言、内大臣、太政大臣、准太上天皇を歴任。広大な四町の邸宅を造営し六条院と呼ばれる。『源氏物語』五十四帖中第一帖「桐壺」から第四十帖「幻」まで登場する。 なお「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称で、本名が「光」というわけではない。.

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前田利家

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。.

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前田黙鳳

前田 黙鳳(まえだ もくほう、嘉永6年(1853年)3月 - 大正7年(1918年)11月19日)は、播州龍野(兵庫県たつの市)生まれの書家。名は圓、字は士方、黙鳳は号で、別号に龍野人がある。.

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前田重次郎

前田 重次郎(まえだ じゅうじろう、安政6年(1859年)11月29日 - 昭和4年(1929年)2月26日)は日本の教育者。.

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前野長康

前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。.

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前橋城

前橋城(まえばしじょう)は、上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった日本の城。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くはと呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。 利根川と広瀬川を外堀とする渦郭式の平城。周囲に城下町が発展し、今日の前橋市中心街となった。前橋城は江戸時代には前橋藩の藩庁ともなったが、その一方で、暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に始終翻弄された。.

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前橋藩

前橋藩(まえばしはん)は、上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩。はじめ厩橋藩(うまやばし/まやばし はん)といい、藩庁は厩橋城に置かれた。後に酒井家第5代藩主・酒井忠挙の時代に地名・藩名・城名を一括して前橋・前橋藩・前橋城と改めた。.

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前方後方墳

江戸時代に領主である徳川光圀の命により行われた保全整備により原型を今に伝え「日本で一番美しい古墳」森浩一著『古墳の発掘』中公新書(65)(中央公論社 1965年(昭和40年)4月発行)よりといわれている下侍塚古墳 前方後方墳 前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)は、古墳の墳形の一種であり、特に東日本の前期古墳に多く存在する。また、中国・四国地方にも多く存在し、中でも出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて築かれていた。その起源は、方形の墳丘墓への通路が変化し、突出部へと代わっていき成立したと推測されている。東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきた。.

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勝瑞城

勝瑞城(しょうずいじょう)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった日本の城(平城)。平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている。.

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勧進相撲

勧進相撲(かんじんすもう)とは、相撲の形態の一つ。現在の大相撲の源流となる。.

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因州和紙

因州和紙(いんしゅうわし)は鳥取県東部(旧因幡国)特産の和紙である。 旧青谷町と旧佐治村(いずれも現在は鳥取市に編入)が生産地で、特に書道や書画・水墨画に用いる画仙紙(因州画仙紙)の生産量は日本全国の6 - 7割を占め、日本一である。ほかにも近年は建材や工芸材料など多用途に用いられている。 和紙としては日本で初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されたほか、生産地の紙漉きの風景は日本の音風景100選(環境庁)に選ばれている。また、「因州佐治みつまた紙」と「因州青谷こうぞ紙」は鳥取県の無形文化財に指定されている。.

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因幡国

因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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因幡街道

因幡街道(いなばかいどう)は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、播磨国姫路(兵庫県姫路市)を始点として、因幡国鳥取(鳥取県鳥取市)に至る路線である。 現在の国道2号、国道29号、国道179号、国道373号、兵庫県道724号姫路新宮線にほぼ対応している。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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国安氏

国安氏(くにやすし)は、日本の氏族のひとつ。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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国府

国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐や対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。 律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市・姫路市・岡山市・大分市など大きな都市として発展している。.

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国府八幡宮

武蔵国府八幡宮 石碑 国府八幡宮(こくぶはちまんぐう)とは、令制国の国府(府中)の近くに創建された八幡宮である。「府中八幡宮(ふちゅうはちまんぐう)」と称されたり「国分八幡宮」と表記されることもある。また単に「八幡宮」「八幡神社」としたり、地名を冠する神社もある。 国府八幡宮には神社によって、国衙の鎮守であると伝えるものと、国分寺の鎮守と伝えるものとがある。一般に国府と国分寺は近くにあることが多く、両者が混同されたものもあると見られている。総国分寺である奈良の東大寺の鎮守社が手向山八幡宮であることから、各地の国府・国分寺でも八幡宮を鎮守としたとも考えられる。これらの国府八幡宮は国府の近くにあることから、後に総社の機能を持つようになったものもある。 「一国一社の八幡宮」「一道一社の八幡宮」「総社八幡宮」と称する八幡宮も、国府八幡宮に由来するものとされるが、例外もある。例として、武蔵国では総社八幡宮として磐井神社が、国府八幡宮として武蔵国府八幡宮が鎮座しており、また国分寺市西元町の八幡神社が国分寺の鎮守であったとする説もあり、分立している。また、上野国は国府比定地に近い前橋八幡宮が国府八幡宮とする説があるが、国府比定地から離れた場所に一国一社八幡宮として上野國一社八幡宮が鎮座している。.

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国地頭

国地頭(くにじとう)は、文治元年(1185年)に出された文治の勅許によって設置された地頭の一形態。古くは地頭は荘園・公領単位にのみ設置されていたとするのが通説であったが、1960年に石母田正が「一国地頭職」の概念を提唱して以来、注目されるようになった。 国地頭の原型・先行形態としては、平氏政権が丹波に設置した「諸荘園惣下司」(平盛俊)、木曾義仲滅亡後に北陸道に置かれた「鎌倉殿勧農使」(比企朝宗)、鎌倉に対して挙兵した源義経と源行家が補任された「九国・四国地頭」などの存在が挙げられる。 文治元年(1185年)11月、北条時政の奏請により、義経・行家の追討を目的として五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に設置することが勅許された。平氏滅亡後に一旦停止された諸国惣追捕使に代わり令制国単位で設置され、荘園・公領からの段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限を保持していたとされる。時政が七ヶ国地頭となったのをはじめ、梶原景時が播磨・美作、土肥実平が備前・備中・備後、天野遠景が九州諸国の国地頭であったと推測されている。だが、兵糧米の獲得や国務への関与を巡り荘園領主・国司の反発を受けた結果、翌年3月に時政は七ヶ国地頭を辞任し、軍事・検断関係を職務とする惣追捕使の地位のみ保持した。 設置期間が短期間に留まり記録が乏しいことから、具体的な内容などについては不明な点が多く、少数説であるが国地頭の存在自体を否定する見解(三田武繁)もある。.

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国勢調査以前の日本の人口統計

国勢調査以前の日本の人口統計は、国勢調査開始以前の日本の明治・大正期の人口調査および推定人口をまとめたものである。.

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国道175号

国道175号(こくどう175ごう)は、兵庫県明石市から京都府舞鶴市に至る一般国道である。.

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国道312号

国道312号(こくどう312ごう)は、京都府宮津市から兵庫県姫路市に至る一般国道である。.

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国道427号

国道427号(こくどう427ごう)は、兵庫県明石市を起点とし兵庫県朝来市を終点とする一般国道。 西脇市以南の地域は国道175号との重複となっており、事実上は、西脇市と朝来市を結ぶ国道となっている。.

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国道53号

岡山市北区磨屋町付近から南方向を見る 岡山市北区磨屋町付近から北方向、柳川交差点を見る 岡山市北区の万町跨線橋付近 国道53号(こくどう53ごう)は、岡山県岡山市北区から鳥取県鳥取市に至る一般国道である。.

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国阿

国阿(こくあ、正和3年(1314年)- 応永12年9月11日(1405年10月4日))は、南北朝時代から室町時代中期にかけての時宗の僧。時宗国阿派・霊山派の祖。.

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国造

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。.

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国恩

国恩(こくおん).

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四十曲峠

四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)は、岡山県真庭郡新庄村と鳥取県日野郡日野町との間に位置し、両県の県境を成す峠。標高780メートル。.

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四国中央市

四国中央市(しこくちゅうおうし)は、愛媛県の東端に位置する市。四国の他の3県(香川県、高知県、徳島県)に接している。.

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四国国分

豊臣(羽柴)秀吉 四国国分(しこくくにわけ)とは、豊臣秀吉による四国攻めが終わった後、天正13年(1585年)8月からその戦後処理として豊臣政権によっておこなわれた、四国地方に対する大名など諸領主の領土配分のことである。.

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犬食文化

ベトナム・ハノイ近郊の市場で販売される犬肉 東南アジアの犬鍋 犬食文化(けんしょくぶんか、食犬とも)とは、食用として犬を飼育してその肉を食べる習慣、及び犬肉料理の文化の事である。 中国、朝鮮半島、日本を含めた東アジア、東南アジア及びハワイ、ポリネシア、ミクロネシア、オセアニアなどの島嶼に於いて存在した。 中国の一部の地域、ベトナム地域、朝鮮半島地域などの市場では、内臓を除去しただけのそのままの姿のものや小さく解体した形状などで犬肉が販売されている。調理方法は国によって様々である。 一方、犬食を忌む地域もある。これには牧畜社会、遊牧社会、狩猟採集社会の支配的な地域と、西アジアのように食用動物に関する宗教上の忌避が存在する地域がある。また、19世紀以降は世界的に動物愛護の考え方が広まり、現代では伝統的に犬を食す地域での犬食に対し、外国等から批判が向けられることも見られる。.

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皿屋敷

皿屋敷(さらやしき)は、お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「いちまーい、にまーい...

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矢頭教兼

頭 教兼(やとう のりかね、貞享3年(1686年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は右衛門七(えもしち)。四十七士の中では大石良金に次いで若年であり、母妹の世話に苦難したことで知られる。『仮名手本忠臣蔵』の佐藤与茂七(さとう よもしち)のモデルとなった。.

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矢部家定

部 家定(やべ いえさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。.

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矢部暉種

部暉種(やべあきたね、生没年不詳)は鎌倉時代頃の人物で因幡国八東郡の国人・矢部氏の始祖。通称・十郎、父は平次為定。.

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矢部氏

部氏(やべし)は、日本の氏族のひとつで因幡国八東郡若桜鬼ヶ城を拠点とする国人領主の一族。.

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矢野荘

野荘(やののしょう)は、播磨国赤穂郡(現在の兵庫県相生市)に存在していた荘園。.

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矢野恒太

野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月18日) - 昭和26年(1951年)9月23日)は、明治期から大正期に生命保険業界の基礎を築いた実業家。第一生命保険創業者。医師。日本アクチュアリー会初代代表。「相互会社の産みの親」と呼ばれ、「蒼梧」と号した。.

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矢野氏

野氏(やのし)は、日本の氏族。.

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知足院宗省

知足院宗省(ちそくいん そうしょう、生没年不詳)は安土桃山時代の僧。伯耆国久米郡知足院住持。.

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石原正氏

石原 正氏 (いしはら まさうじ、生年不詳 - 宝永7年9月14日(1710年11月4日))は、江戸時代中期の武士。江戸幕府の旗本。通称は新左衛門(しんざえもん)。.

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石の宝殿

石の宝殿(いしのほうでん、石宝殿)は、人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称。兵庫県と大阪府に5ヵ所ある。.

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石塔頼房

石塔 頼房(いしどう よりふさ)は、南北朝時代の武将。足利氏支流・石塔氏の第3代当主。石塔義房の次子。兄・範家の死後に嫡子か。苗字は「石堂」とも表記される。.

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石山合戦

石山本願寺推定地の石碑 石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。.

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石川光忠

石川 光忠(いしかわ みつただ)は、尾張藩家臣、石川(石河)家初代当主。.

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石川王 (吉備大宰)

石川王(いしかわのおおきみ、生年不詳 - 天武天皇8年3月9日(679年4月24日))は、日本の飛鳥時代の皇族。系譜は明らかでないが、敏達天皇皇子の難波皇子の子とする系図がある鈴木真年『百家系図』巻59 路真人。天武天皇の治下で吉備大宰を務めた。.

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石川総長

石川 総長(いしかわ ふさなが)は、伊勢神戸藩の初代藩主。伊勢亀山藩石川家支藩初代。.

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石川総陽

石川 総陽(いしかわ ふさはる)は、常陸下館藩の第2代藩主。伊勢亀山藩石川家支藩4代。.

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石川総承

石川 総承(いしかわ ふさつぐ)は、常陸下館藩の第7代藩主。伊勢亀山藩石川家支藩9代。 正室は。子は。通称は重之助。官位は従五位下、播磨守、中務少輔。.

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石川頼明

石川 頼明(いしかわ よりあき)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣氏の家臣。初名は一宗(かずむね)。通称は掃部頭。江戸時代の書物に忍術の達人とするものがあるが、忍者説については下掲。.

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石井氏

石井氏(いしいし)は日本の氏族太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年)314頁参照。。.

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石廊崎権現の帆柱

石廊崎権現の帆柱(いろうざきごんげんのほばしら)とは、伊豆七不思議のひとつで伊豆半島先端の石室神社に、江戸時代から伝わる伝説である。海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に、石室神社の社殿が千石船の帆柱を枕に建てられており、これにまつわる不思議な伝説が江戸時代からある。 昔、播州濱田港から塩を運んでいた千石船が石廊崎の沖で嵐に遭い、その帆柱を石廊権現に奉納すると誓って祈ったところ、無事に江戸に到着することができた。その帰途、帆柱奉納のことをすっかり忘れていると、何故か石廊崎の沖で船が進まなくなり、天候が急変して暴風雨となった。往路に誓いを立てたことを思い出した船主が千石船の帆柱を斧で切り倒すと、帆柱はひとりでに波に乗り、断崖絶壁(およそ30メートル)を石廊権現の社殿あたりまで、まるで供えたかのように打ち上げられた。同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたという。 帆柱は明治34年(1901年)に再建した社殿の基礎として使用され今も残っている。材質は檜で長さは約12メートル、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができるようになっている。.

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石田幽汀

石田 幽汀(いしだ ゆうてい、享保6年(1721年 - 天明6年5月25日(1786年6月21日))は、江戸時代中期の鶴澤派(狩野派の一派)の絵師。幽汀は号で、名は守直。円山応挙、田中訥言、原在中らの師として知られる。.

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石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

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石谷帯刀

石谷 帯刀(いしがや たてわき。生没年不詳)は、江戸時代の旗本。.

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石棺仏

山伏峠石棺仏」長持型石棺を用いた 4本の突き出た縄掛け突起が特徴、鎌倉時代 加西市 「玉野石仏」阿弥陀を彫った典型的な石棺仏。家型石棺の蓋を使用、鎌倉時代 南北朝時代、左は室町時代 南北朝時代 姫路市 「福円寺の不動三尊石仏」珍しい不動明王の石棺仏、室町時代 石棺仏(せきかんぶつ)とは、古墳から出土した石棺に、仏像やその仏を表す梵字を刻んだ石仏。.

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石河陣屋

石河陣屋(いしかわじんや)は、江戸時代に美濃国に存在した陣屋。.

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玄要寺

要寺(げんようじ)は、香川県丸亀市南条町にある寺院。臨済宗妙心寺派に属する。山号は泰雲山。本尊は釈迦牟尼仏。 近江国を出身とする京極家が万治元年(1658年)に丸亀藩に転封された際に菩提寺として建立したものである。寺内の墓所には、丸亀藩第6代藩主・京極高朗と、支藩である多度津藩京極家の墓や、丸亀藩士、多度津藩士、若江薫子の墓がある。.

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玉田黙翁

玉田 黙翁(たまだ もくおう, 元禄10年(1697年) - 天明5年(1785年))は、江戸時代中期の儒学者。名を信成、通称記内、別号適山、また虎渓庵とも称した。播磨国印南郡東志方村細工所の生まれで大庄屋柔庵玉田義道の嫡子である。母は播磨細工所陣屋(一橋徳川家)代官・宮永氏の出身。 山崎闇斎門下の三宅尚斉の門人で程朱の儒学に於いて一家をなしていたうえに医学にも造詣が深く、弓馬槍剣の術にも秀で、産業経済についても見識を持っていた。しかし名声を求めることはせず、自ら天地一閑人と称し播州の僻地に住み天命を楽しみながら質素な生活を送っていた。ところが領主である大久保侯が、黙翁の晩年にこれを聞き是非所説を拝聴したいと招請したが固く辞退していた。度重なる熱心な懇請に折れて74歳の時に二回、78歳の時一度江戸へ出て大久保侯に講義をした。以後は相模国小田原藩大久保家の客将として史学編纂や儒学の研究に貢献。画家の浦上玉堂などに講義を行った。 Category:江戸時代の儒学者 Category:18世紀の学者 Category:播磨国の人物 Category:小田原藩の人物 Category:1697年生 Category:1785年没.

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玉鋼

玉鋼(たまはがね)とは、日本の古式製鉄法であるたたら製鉄の一方法、「鉧押し(けらおし)」によって直接製錬された鋼のうち、良質なものに対して付けられた明治期以降の呼称。時代によってその定義や等級分けが異なるが、現代では最上質の鋼として日本刀の製作には欠かせない物だとされている小塚 1966, p. 37.

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火の車

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火車 (妖怪)

鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「火車」 火車/化車(かしゃ)は、悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪である。.

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破損奉行

損奉行(はそんぶぎょう)は、江戸幕府における職名の1つ。駿府に置かれた駿府破損奉行(すんぷはそんぶぎょう)と、大坂城の大坂破損奉行(おおさかはそんぶぎょう)の2つがあった。.

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砂越氏

越氏(さごしし)は、日本の氏族のひとつ。出羽国飽海郡砂越邑発祥の出羽国の豪族。本姓は不明。確認されているだけで2度再興されている。.

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神埼郡

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神吉

吉(かんき、かみよし).

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神吉城

吉城(かんきじょう)は播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった日本の城。平城。別名、真名井城(まないじょう)、奈幸子城(なこしじょう)とも呼ばれる。一部遺構として土塁、空堀が残る。.

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神奈川区

奈川区(かながわく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつ。横浜市で初めにできた区の一つで、9番目に大きい区である。 東海道の宿場町、「神奈川宿」から区名が取られた。県名も同源である。.

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神姫バス

姫バス株式会社(しんきバス)は、兵庫県を中心に大阪府・岡山県にもエリアを持つ日本の路線バス事業者である。 バス事業の子会社として、神姫グリーンバス(神崎・西脇・篠山方面の路線バス)、ウエスト神姫(相生・赤穂・山崎方面の路線バス)、神姫ゾーンバス(西神方面の路線バス)、神姫観光バス(貸切バス)がある。またICカード乗車券のNicoPaを発行している(回数券機能もある。また定期券機能の付加も可)。 2006年4月1日より、神戸市交通局(神戸市バス)から落合・西神の2営業所の運行管理業務を、姫路市から書写山ロープウェイの運行業務を受託している。.

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神子田正治

子田 正治(みこだ まさはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。備中庭瀬城主。通称は半右衛門、半左衛門、半左衛門尉。姓の漢字は、御子田(みこだ)とも表記する。 『続武家閑談』によれば、武勇・軍学に優れていたが、己の武功を誇って秀吉を蔑み、悪口雑言で疎まれたという。.

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神崎町 (兵庫県)

崎町(かんざきちょう)は、かつて兵庫県のほぼ中央部に存在した町。兵庫県中播磨県民局の管轄だった。 2005年11月7日、大河内町と合併して神河町となり、消滅した。.

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神崎郡

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神崎郡 (滋賀県)

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神社一覧

この神社一覧(じんじゃいちらん)では、日本全国的に著名な神社を掲載している。.

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神西元通

西 元通(じんざい もとみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。尼子氏の家臣。尼子十旗神西城主。.

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神西郡

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神東郡

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神戸市

戸市(こうべし)は、兵庫県南部に位置する兵庫県の県庁所在地である。垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区から構成される政令指定都市である。日本の市で6番目の人口を有する。.

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神戸平兵衛

戸 平兵衛(かんべ へいべえ、? - 元和4年(1618年))は、江戸時代初期の池田家家臣。 池田利隆、池田光政に仕えて大小姓を務める。禄高は300石。長く江戸詰めであったため、帰国の人数に加えて欲しいと家老の池田由之に訴えたが、代わりの者が国許から来るまで待つようにと断られた。ところが江戸からの帰途の道中、平兵衛が朋輩に紛れ帰国の伴に紛れていたのを知り由之は激怒した。それを恨んだ平兵衛は、元和4年(1618年)閏3月10日播磨正条川(中村川とも)の船場で由之を脇差で刺し、翌日由之は死去した。平兵衛は切腹、その子供も死罪となった。.

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神戸弁

戸弁(こうべべん)は、兵庫県の南東部、神戸市周辺で用いられる日本語の方言で、近畿方言のうちの一つである。京阪式アクセント(標準的な甲種アクセント)。摂津方言とは異なるいくつかの特徴があり、播磨方言に属する。.

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神戸医療福祉大学

2013年4月に校名を近畿医療福祉大学から神戸医療福祉大学に改称。.

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神戸新聞

戸新聞(こうべしんぶん)は、本社が兵庫県神戸市中央区に所在する神戸新聞社が発行する新聞である。.

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祐尊

尊(ゆうそん、元徳元年(1329年)-応永19年10月5日(1412年11月9日) )は、室町時代の真言宗の僧。俗姓は高井と伝えられ、上総と称した。.

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祝重正

祝 重正(はふり しげまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。.

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祥福寺 (神戸市)

祥福寺(しょうふくじ)は兵庫県神戸市兵庫区五宮町にある臨済宗の仏教寺院。.

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祥雲寺 (渋谷区)

祥雲寺(しょううんじ)は、東京都渋谷区広尾五丁目にある、臨済宗大徳寺派の寺院。山号は瑞泉山(ずいせんざん)東京メトロ日比谷線広尾駅至近、広尾商店街突き当りに位置する。 渋谷区第一の巨刹であり『渋谷区史』、江戸時代初期に筑前福岡藩主・黒田忠之が、黒田藩赤坂江戸中屋敷内に父の黒田長政を弔うために建立したのが始まり。以後、広尾に寺地を移転する。 福岡藩や黒田氏に縁のある数々の大名家や武家の墓所となっていることで知られる。.

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祇園祭

祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。 祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。 宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。 祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。.

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福原京

福原雪見御所碑 福原京(ふくはらきょう)は、平安時代末期の治承4年(1180年)、計画のみに終った和田京に続いて、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。.

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福原長堯

福原 長堯(ふくはら ながたか)は、安土桃山時代の武将、大名。正室は石田正継の娘で、石田三成の妹婿。豊後国府内城(荷揚城)主としては、初名の直高(なおたか)の方が有名である。.

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福原氏

福原氏.

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福山城 (備中国)

福山城(ふくやまじょう)は日本の城。国の史跡。所在地は岡山県総社市清音三因(きよねみより)。.

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福島藩

福島藩(ふくしまはん)は、陸奥国南部(岩代国信夫郡)、現在の福島県福島市にあった藩である。居城は福島城。藩主は本多氏、堀田氏、板倉氏の3氏で、いずれも譜代大名であった。.

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福島正則

福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。.

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福崎町

福崎町(ふくさきちょう)は、兵庫県の南西部、播磨(中播磨)に位置する町である。面積は45.82km2で、東西は10.1km、南北は11.5km。町章は、カタカナの「ク」を二つ組み合わせて「フク」とし図案化したもの(1957年7月制定)。町花はサルビア、町木はクロガネモチ(共に1972年12月に制定)。本項では町制前の名称である福崎村(ふくざきむら)についても述べる。.

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福王流

福王流(ふくおう-りゅう)は能楽ワキ方の一流派。江戸時代には主に観世流の座付として活動し、現在でも芸系が近い。現宗家は十六世福王茂十郎。.

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福田氏

福田氏(ふくだし、ふくだうじ)は、日本の氏族。日本全国に分布している一族である。 主なものとして下記の流れがある。.

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福本藩

福本陣屋跡の回遊式庭園遺構 福本藩(ふくもとはん)は、播磨国神東郡の福本陣屋(現在の兵庫県神崎郡神河町福本)に藩庁を置いた藩。ただし、藩(大名の所領)であったのは江戸時代初期および明治維新期のごく短期間であり、その間は交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)池田家の知行地であった。 鳥取藩に預けられた池田輝澄を祖に持つ経緯から、鳥取藩との関係が強く、その支藩的立場であった。1870年、鳥取藩に吸収された。.

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禅幢寺

禅幢寺(ぜんとうじ)は岐阜県不破郡垂井町岩手の菩提山山麓にある曹洞宗の寺院。この地方の領主であった竹中重治の菩提寺として知られる。また、西美濃三十三霊場16番札所としても知られる。 室町時代の明応3年(1494年)に岩手の領主であった岩手典長が薩摩国金幢寺の住職であった盛庵正蹟を招聘して開いた。永禄元年(1558年)に岩手忠誠を竹中重元が滅ぼすと新たに領主となった竹中氏の保護を受けるようになる。天正15年(1587年)に竹中重門が父の竹中重治の墓を病没した播磨国三木から改葬した。寛文3年(1663年)、竹中重門の子である竹中重常により本堂が建立された。本堂及び所蔵する竹中重治画像が垂井町の文化財に指定されている。.

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秦桐若丸

桐若丸(はたの/はだの きりわかまる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。黒田氏の家臣。.

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秋元安民

秋元 安民(あきもと やすたみ、1823年2月11日(文政6年1月1日) - 1862年9月22日(文久2年8月29日))は播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)藩士、国学者。名は正一郎、正蔭、御民、逸民とも称した。字は正朔、号は空室。.

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稲美町

美町(いなみちょう)は、兵庫県中南部、加古郡の町。.

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稲田植元

植元(いなだ たねもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。蜂須賀氏の家臣。洲本城代稲田家の祖とされる。.

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稲葉良通

葉 良通 / 稲葉 一鉄(いなば よしみち / いなば いってつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称され、特に稲葉良通は三人衆筆頭とされた。 号は一鉄(いってつ)。これが「一徹」という言葉の語源である説が有力。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。.

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稲葉正盛

葉 正盛(いなば まさもり)は、安房館山藩の第3代藩主。.

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稲葉正武

葉 正武(いなば まさたけ)は、江戸時代中期の大名。安房館山藩の第2代藩主。.

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穂積以貫

積 以貫(ほづみ いかん/これつら、元禄5年(1692年) - 明和6年9月22日(1769年10月21日))は、江戸時代の儒学者。播州姫路に、和算家穂積与信の子として生まれる。通称伊助、号は能戒斎。 京の伊藤東涯に師事し、古学派堀川学派に属する。はじめ柳原家に仕え、のち大坂で学塾を開いた。竹本座との関係が深く、その著「浄瑠璃文句評注難波土産」に、近松門左衛門の「虚実皮膜論」が記してあることで知られる。そのためか、次男は近松に私淑して近松半二を名乗る浄瑠璃作者となった。著に『論語国字解』などがある。.

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穂積男麻呂

積 男麻呂(ほづみ の おまろ、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。姓は臣。穂積祖足の子である穂積古閉の子。官職は中衛将曹。 父の穂積古閉は針間国に住していた。天武朝において男麻呂は摂津職に任じられて摂津国嶋上郡野身里に移り住んだ後、藤原京へ遷都後に中衛将曹を務めた。.

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竹垣直温

竹垣 直温(たけがき なおひろ/なおあつ、寛保元年12月21日(1742年2月1日)-文化11年11月8日(1814年12月19日))は、江戸時代後期の江戸幕府代官。使番丹羽長利の三男で代官竹垣直照の養子。通称は登、三右衛門。生年については元文3年(1738年)説もある。.

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竹中重矩

竹中 重矩(たけなか しげのり、天文15年(1546年) - 天正10年6月6日(1582年6月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃斎藤氏、織田氏の家臣。竹中重元の子。通称は彦作、久作。妻は中川重政の姉妹。.

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竹中重治

岐阜県垂井町にある銅像 竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。.

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竹内久盛

竹内 久盛(たけのうち ひさもり、文亀3年(1503年) - 文禄4年6月6日(1595年7月12日)?)は、日本の戦国時代の武将、兵法家。古武道竹内流の開祖。中務太夫。前名、垪和久幸。.

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竹田城

竹田城(たけだじょう)は、現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった日本の城(山城)。.

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竹森次貞

竹森 次貞(たけのもり つぐさだ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。筑前国福岡藩士。黒田二十四騎の一人。.

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竜田藩

藩(たつたはん)は、大和国(現在の奈良県生駒郡斑鳩町竜田)に存在した藩。.

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立岡山

立岡山(たつおかやま)は、兵庫県揖保郡太子町の山(104m)。太子町の中心部に位置する単山で、山頂からは付近の平野の四方を見渡すことができる。 立岡山は、『播磨国風土記』における「御立の阜」に比定されており、品太天皇(応神天皇)がこの山に登り、四方の地を眺め、国見をしたことから名づけられたとされている。.

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立石領

立石領(たていしりょう)は、江戸時代に豊後国にあった交代寄合領のひとつで、現在の大分県杵築市山香町立石に相当する。陣屋は立石。領主は木下氏。禄石は5000石。.

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立花峯均

立花 峯均(たちばな みねひら、寛文11年(1671年)- 延享2年12月19日(1746年1月10日)は、江戸中期の南坊流の茶人。宮本武蔵の流れを汲む筑前二天流第5代の兵法家。初名は久太郎、のち専太夫。諱は峯均。号は宗樸、無華、寧拙など、晩年の道号は廓巖。また、宮本武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』の奥書に「丹治峯均入道廓巖翁」と記したことから、丹治 峯均(たんじ ほうきん)の名でも知られる。.

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笠形山千ヶ峰県立自然公園

形山千ヶ峰県立自然公園(かさがたやませんがみねけんりつしぜんこうえん)とは、兵庫県中部にある兵庫県立の自然公園である。 兵庫県の播磨地方中部の多可郡多可町、神崎郡神河町、同郡市川町に広がる。千ヶ峰、笠形山などの山岳高原地帯を公園域として、1965年(昭和40年)6月1日に指定された。総面積は6,150ヘクタールで、うち特別地域が2,064ヘクタールとなっている。.

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笠間藩

間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.

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第10師管

10師管(だいじゅうしかん)は、1896年から1940年まであった日本陸軍の管区で、時期により12から18置かれた師管の一つである。兵庫県の姫路に司令部を置いた第10師団が管轄し、近畿地方西部から中国地方東部を占めた。1940年に姫路師管に改称した。.

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筑紫大道

筑紫大道 (つくしおおみち)は、日本の中世における山陽道。元寇に備えて、博多湾岸の石築地(いしついじ)とともに設置された軍用道路。筑紫大道は、京都六波羅探題から博多まで約600kmに及んだと考えられている。 法隆寺にある『法隆寺領斑鳩荘絵図』(1329年(嘉暦4年)、斑鳩荘(鵤荘)は播磨国に所在)によれば、斑鳩荘は北から一条・二条と区画されており、現行の国道179号の一部に比定されるように、十条と十一条の間に朱色で東西に走る太い線が引かれ、「筑紫大道」「大道」と記されている。1983年、太子・龍野バイパス道路の工事に先駆けた発掘調査で、表土を百mにわたって掘りおこしたところ、数十cm下から約6メートル幅の道路敷きが発見された。砂と土に大小河原石を混ぜて突き固めた構造で、両側に40-60cmの側溝が設置されていた。文永の役では、元の来襲が六波羅探題に届くのに10日要したが、弘安の役では6日と短縮されている。このことから、この間に急造されたと推測されている。 また、京都と博多を結ぶ筑紫大道は、都の文化、宋の文化の流入伝来に大きな影響を与えたとされている。 Category:街道 Category:元寇 道つくしおおみち Category:西海道.

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筒井年峰

井 年峰(つつい としみね、文久3年〈1863年〉7月 ‐ 昭和9年(1934年)頃)とは、明治時代の浮世絵師。.

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筒井順慶

井 順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。得度して順慶と称する前は、室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和郡山城主。事績については『多聞院日記』に詳らかに記述されている。.

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等持院の戦い

等持院の戦い(とうじいんのたたかい)は、戦国時代の永正17年(1520年)5月5日に山城国等持院(現在の京都府京都市北区)で細川高国軍と三好之長軍との間で行われた戦い。この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。.

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管理教育

管理教育(かんりきょういく).

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篠原長房

原 長房(しのはら ながふさ)は戦国時代の武将。三好氏の家臣で阿波国麻植郡上桜城主。篠原長政の子。 三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐し阿波において三好家中をまとめた。三好氏の分国法である新加制式の編纂にあたるなど、能吏として知られる一方で、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵した。.

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篠山藩

再建された篠山城篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。.

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節談説教

談説教(ふしだんせっきょう)とは、日本の仏教布教手段を指す「説教」のうち、浄土真宗に固有の言葉である。また、一般には仏教全体の「節付説教」を表す言葉としても用いられる。仏教に馴染みのない聴衆に伝わりやすくするために、話す文句(説教)に抑揚(フシ)が付き(多くは七五調である)、人びとの情念に訴えかけるように工夫されたものである。現代の法話とは異なる。説経節のように歌って踊るパフォーマンスはなく、楽器なしの素語りである。賽銭を投げ銭方式でもらうため、実力差も出やすい。その芸能性により、浪曲、講談、落語などそれぞれの話芸の母体となった。これを行う説教師は、昭和期においてなお、寺をめぐり旅をしながら浄土真宗の教えを説いて回った。.

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節麺

麺(ふしめん)は、手延べ麺(うどん・素麺・冷麦など)を作る際に出来る副産物で、棒で伸ばしてから、吊して乾燥する時に棒にかかっていた曲線部分を、乾燥後に切り分けたもの。形状から曲がりと呼ばれたり、想起させるものの名からかんざし、バチなどとも呼ばれる。.

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米子市

米子市(よなごし)は、鳥取県の西部に位置する都市である。.

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米子藩

米子城址 米子藩(よなごはん)は、伯耆国会見郡に存在した藩。藩庁は米子城(現在の鳥取県米子市久米町)。江戸時代初期の短期間のみ存続した。.

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粒坐天照神社

境内 粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)は兵庫県たつの市の日山(白鷺山)に鎮座する神社。伊和神社、海神社とともに播磨三大社とされる。旧県社。現在、鎮座する天神山が「龍が坐った形に似ている」ことからついた旧称の龍座神社として地域で広く親しまれている。.

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糟屋武則

糟屋 武則(かすや たけのり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 姓は他に糟谷、粕屋、加須屋、賀須屋などとも記され、有名な名乗りとしては加須屋 真雄(かすや さねお/さねかつ)がある。他にも、数政、宗重、真安、宗孝など武則の別名として伝わっているが、年代によって違うことから、本人の名なのか子なのか混乱もある署名では晩年まで真雄が用いられている。。.

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糸魚川藩

糸魚川藩(いといがわはん)は、越後国(現在の新潟県糸魚川市)に存在した藩。糸魚川陣屋に藩庁が置かれた。別称として清崎藩(きよさきはん)。.

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素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)

素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市新市町大字戸手にある神社。式内社で、備後国一宮を称する。旧社格は県社。.

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細川元常

細川 元常(ほそかわ もとつね)は、戦国時代の和泉上半国守護・山城国勝龍寺城城主。.

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細川勝久

細川 勝久(ほそかわ かつひさ)、は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。備中守護。細川氏一門である備中守護家出身で細川氏久(うじひさ)の子。養子に義春(之勝)。官位は兵部少輔、後に兵部大輔。また上総介を称した。 応仁の乱では細川氏一門として本家の京兆家当主で管領・細川勝元の下で東軍として戦う。しかし後に勝元の子細川政元と対立するようになり、備中に在国し領国統制に苦闘することになる。 「勝」の字は勝元と同様、将軍・足利義勝から偏諱を賜ったものと思われ、この頃に元服を済ませたと考えられる(「久」は父・氏久から1字を取ったもの)。.

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細川高国

細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.

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細川興祥

細川 興祥(ほそかわ おきさき、天明7年5月20日(1787年7月5日) - 文政11年11月11日(1828年12月17日))は、常陸谷田部藩の嫡子。播磨国三草藩主・丹羽氏福の次男。母は細川興文の娘。正室は細川興徳の娘。.

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細川通薫

細川 通薫(ほそかわ みちただ)は、戦国時代の武将。諱は通重(みちしげ)、通頼(みちより)とも。細川氏野州家の細川晴国が実父である。晴国は一時期管領細川高国および稙国の後継者と目されていたが、通薫は叔父である輝政(通政)の猶子となり、戦国時代に在地領主としての自立を目指した。通薫も下野守を称した。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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細川澄元

細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代の武将・守護大名。第30代室町幕府管領。丹波・摂津・讃岐・土佐守護。第14代細川京兆家当主。 細川高国と争い(両細川の乱)管領に就任し一時的に政権を樹立するも短期間で崩壊、管領の座も高国に奪われる形で解任。養父の細川政元には嫡子として認められていたものの、管領としての力は無きに等しかった。.

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細川持常

細川 持常(ほそかわ もちつね)は、室町時代の守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河守護。細川氏の分家・阿波細川家の当主。父は、細川満之の子・細川満久(みつひさ)。弟に教祐(のりすけ)、その子の成之は持常の養子となる。官位は従五位下、兵部少輔、讃岐守。.

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細川教春 (和泉上守護家)

細川 教春(ほそかわ のりはる、応永30年(1423年) - 宝徳2年4月27日(1450年6月7日))は、室町時代の武将、守護大名。細川和泉上守護家当主。父は細川持有(もちあり)。母は最勝院。弟に常有(つねあり、元有の父)。仮名は九郎。和泉上守護家の通字により、教有(のりあり)ともいう。教春、教有いずれも「教」の字は将軍足利義教から偏諱の授与を受けたものである。等観院と号す。刑部大輔。.

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細川晴元

細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。.

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紀州征伐

紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。 信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。.

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綾部山

綾部山(あやべやま)は、兵庫県たつの市御津町にある山である。標高144.5m。綾部山梅林は、西日本を代表する梅林の一つとして知られる。.

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総社

備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.

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総領

総領(そうりょう・惣領)とは、律令制が完成する前の7世紀後半に諸国に置かれていた地方官のこと。ただし、『日本書紀』・『続日本紀』に記された名称は統一されておらず、惣領・総令など複数の表現がある。.

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繊維ニュース

繊維ニュース(せんいニュース)は、1950年(昭和25年)創刊の日刊繊維・ファッション専門紙。紡績や合成繊維メーカーなどの素材メーカー、総合・専門商社、繊維産地からアパレル、小売業まで繊維産業全体の情報を扱う。発行元は、ダイセン株式会社(2005年10月、大阪繊維研究社より社名変更)。 財団法人日本繊維経済研究所の関西総局が発行した「繊研相場速報」が前身。1954年(昭和29年)「大阪繊研速報」と改題し、1992年(平成4年)に現題に改題した。発行部数は、公称68000部。 創刊当初から綿糸の相場情報を中心に扱ってきた関係で綿紡績を中心とした素材メーカーやそれを扱う商社、繊維産地の情報は充実している。とくに岡山県や広島県を中心とした三備産地のデニムやユニフォーム、学生服、兵庫県西脇市を中心とした播州の播州織、滋賀県高島市の綿クレープ、静岡県浜松市を中心にした遠州の綿織物・短繊維染色、大阪南部や愛媛県今治市などのタオルの情報は、頻繁に紙面に載る。 また、日本の繊維産業が輸出全盛だった頃より、輸出促進媒体としての色彩が強く、現在でも繊維製品の輸出入に関する情報や、東南アジアなど海外の繊維事情についての報道は充実している。 2003年(平成15年)には上海にオフィスを開設、2006年(平成18年)10月に上海オフィスを上海支局に改称し、上海に駐在員を置きながら、など中国の繊維産業や日本企業の中国ビジネスに関する情報にも力を入れる。 名物コラム「ごえんぼう」は、繊維産業関係者に愛読者が多い。 本社は大阪市中央区備後町にあり、東京支社、東海支局(静岡県浜松市)、北陸支局(福井県福井市)、上海支局を置く。また、2009年(平成21年)5月には中国支局(岡山県岡山市)、7月には中部支局(愛知県名古屋市)を置き、地元密着の取材活動を強めている。読売新聞の販売網と提携しているため、購読者には読売新聞販売店から宅配される。 2016年(平成28年)12月には中国支局を中国・四国支社、中部支局を北陸支局と統合した上で中部・北陸支社に格上げし、より地域に密着した取材活動を進めている.

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織田信奈の野望

『織田信奈の野望』(おだのぶなのやぼう)は、春日みかげ・著、みやま零・画のライトノベル作品。ソフトバンククリエイティブ・GA文庫刊。11巻からは富士見ファンタジア文庫から『織田信奈の野望 全国版』(おだのぶなのやぼう ぜんこくばん)と改題して刊行。.

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織田信孝

織田 信孝(おだ のぶたか / のぶのり『』には「ノブノリ」との読み仮名がある。)は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。.

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織田信忠

織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代~安土桃山時代の武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ織田家当主となったが、本能寺の変で自刃した。岐阜城主。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.

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織田信時

織田 信時(おだ のぶとき、? - 弘治2年(1556年)6月)は、戦国時代の武将。信長の弟と伝えられるが、一説には異母兄とも言われる。また織田秀俊と同一人物とも考えられている。.

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織田成純

織田 成純(おだ なりとし(しげずみ、しげとし)、延宝4年6月5日(1676年7月15日) - 享保14年11月2日(1729年12月21日))は、大和柳本藩の第5代藩主。尚長流織田家5代。 第3代藩主・織田秀一の次男。母は小出有棟の娘。正室は土方豊高の娘(慈福院)。子はなし。通称は源三郎、右京、左京。初名は秀将、長教、秀俊、成純、信紀。官位は従五位下豊後守、播磨守。.

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纒向型前方後円墳

纒向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)とは、弥生時代末葉の弥生墳丘墓と古墳時代初頭の出現期古墳の発掘調査や研究・検討の結果、従来は弥生墳丘墓とみられてきた前方後円形をなす墳墓を、古墳として積極的に評価しようという観点から提唱された概念、およびその墳墓。提唱者は寺沢薫である。.

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置塩城

置塩城(おきしおじょう、おじおじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城(山城)。国の史跡に指定されている。.

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美嚢郡

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美作後藤氏

美作後藤氏(みまさかごとうし)は、美作国の戦国大名。利仁流の播磨後藤氏の系統という。ただし家系図は同じ魚名流の一派である秀郷流の末裔となっている。.

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美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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義経 (NHK大河ドラマ)

『義経』(よしつね)は、2005年1月9日から12月11日に放送された44作目のNHK大河ドラマである。原作は宮尾登美子で、脚本は金子成人が手掛けた。.

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義風堂々!! 疾風の軍師 -黒田官兵衛-

『義風堂々!! 疾風の軍師 -黒田官兵衛-』(ぎふうどうどう かぜのぐんし くろだかんべえ)は、原哲夫・堀江信彦原作、八津弘幸脚本、山田俊明作画による日本の漫画である。『月刊コミックゼノン』(徳間書店)にて、2013年11月号から2017年2月号まで連載。.

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義民が駆ける

『義民が駆ける』(ぎみんがかける)は、天保義民事件に材をとった、藤沢周平の時代小説。1976年から1977年にかけて、中央公論社の雑誌『歴史と人物』に連載された。.

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義教

義教(ぎきょう、1694年(元禄7年) - 1768年7月19日(明和5年6月6日))は、江戸時代中期の浄土真宗本願寺派の学僧。西本願寺第5代能化。俗姓は小原、字は了翁で、易往閣と号し、後に「大心海主」と称したと伝えられている。諡は泰通院。.

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真島郡

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真念庵

真念庵(しんねんあん)は高知県土佐清水市に所在する仏堂である。本尊は地蔵菩薩。四国八十八箇所霊場番外札所。.

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真田信安

真田 信安(さなだ のぶやす)は、江戸時代中期の大名。信濃松代藩の第5代藩主。第4代藩主・真田信弘の三男(四男とも)。.

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真殿 (赤穂市)

真殿(まとの)は、兵庫県赤穂市の地名。郵便番号は678-0166。当地域の人口は101世帯・315人(2010年10月1日現在、国勢調査による)。.

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猪子兵助

子 兵助(いのこ ひょうすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。諱は高就(たかなり)で、『寛政重修諸家譜』では一俊(かずとし)とする。.

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猪早太

早太(いの はやた、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。井 早太、猪 隼太あるいは猪野 早太などとも表記する。源頼政に郎党として仕えた。遠江国猪鼻湖西岸(現在の静岡県浜松市北区三ヶ日町)、または近江国猪鼻(現在の滋賀県甲賀市土山町猪鼻)を領したことから猪鼻を苗字としたという。また、多田源氏で父は太田伊豆八郎広政(廣政)といい、名は高直であったともされる。(後年の浮世絵などでは名を広直(廣直)あるいは忠澄とするものも見られる。)『播磨鑑』では、頼政の知行地であった播磨国野村の産とされる、2013年10月11日閲覧。。 『平家物語』等にみえる、仁平年間(1151-54、近衛天皇治世)における頼政の鵺(鵼)退治の際にただ一人随行し、頼政が射落とした鵺にとどめを刺した、という伝説で著名。 『源平盛衰記』によると、このとき早太が用いた刀は、頼政が彼に預けた短刀「骨食」である。また、とどめを刺すに当たっては「喉を一突きにした」、「九回刺した」など異同がある。 なお、江戸時代後期の儒者・志賀理斎(忍)は著書『理斎随筆』において、鵺退治伝説は頼政がまじないのため四方に鏑矢を放ったのが実態である(いわゆる奉射神事)とした上で、猪早太の名と鵺のいわゆる“頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎(異同もある)”という奇怪な姿とを関連付け、それぞれ「頭が猿=未申(南西)」「尾が蛇=辰巳(南東)」「手足が虎=丑寅(北東)」「猪早太=戌亥(北西)」を意味するとし、方角を埋め合わせるため彼の名を入れた、という推察を行っている。 事跡については上記の鵺退治伝説のほかは特に記載されたものはなく、実在を疑う見方もある。 なお、治承4年(1180年)以仁王の挙兵敗退をもって頼政が自害した後の猪早太の動向については、以下のように全国各地に伝承がある。.

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県民性

民性(けんみんせい)とは、日本の各都道府県ごとの、県民の性質や行動についての、なんらかの傾向を指す言葉である。県民性という言葉が指しているのは、考え方や気質だけでなく、摂食するものの傾向、住宅や自動車などの購買金額の差、預貯金の金額の差などの、きわめて具体的で統計的・科学的にも正確に把握しやすいものまで含んでいる概念である。要素ごとに、それがはっきりと現れる県と、漠然としてあまり明確には現れない県がある祖父江、p.14。地域ごとの気質や文化の違いは古くから人々の関心を集め、調査の対象とされてきた(調査の節を参照)。.

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絶海中津

絶海 中津(ぜっかい ちゅうしん、建武元年11月13日(1334年12月9日) - 応永12年4月5日(1405年5月3日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数ある。中津は諱。義堂周信と共に「五山文学の双璧」と併称されてきたが入谷, 1990.

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瑤泉院

泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。 夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。「ようぜいいん」と読まれることが多いが、これは冷泉家の「泉」を「ぜい」と読むことにつられた読み癖(誤読)で、正しくは「ようぜんいん」と読む。.

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生谷温泉

生谷温泉(いぎだにおんせん)は、兵庫県宍粟市山崎町生谷(旧国播磨国)にある温泉。.

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生野の変

生野の変(いくののへん)は、幕末の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(現在の兵庫県朝来市生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件である。生野の乱、生野義挙とも言う。.

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生野奉行

生野奉行(いくのぶぎょう)は、織田信長、豊臣秀吉および江戸幕府により置かれ、生野銀山を管理した。1716年(享保元年)、生野銀山の産出量減少のため、生野代官(いくのだいかん)に組織変更された。 奉行所・代官所は、現在の兵庫県朝来市生野町口銀谷の生野小学校付近にあった。 江戸時代の生野奉行は11代、代官に改組後は28人が勤めた。代官には旗本が任命され、生野銀山の後背地となっていた但馬国、播磨国、美作国の天領も統治した。なお、統治規模は但馬国最大の藩である出石藩よりも大きく、江戸時代初期は5万2千石、江戸時代末期には8万2千石に達していた。 江戸時代後期の1863年(文久3年)10月には生野の変での挙兵によって代官所が占領されてしまっている。生野の変は、天誅組の変とともに明治維新の導火線となったと評価されている。 明治維新後の生野代官所支配地は、府中裁判所、久美浜県、生野県となった後、豊岡県、姫路県、北条県に分割・編入された。現在は、兵庫県および岡山県の一部となっている。.

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生野県

生野県(いくのけん)は、1869年(明治2年)に但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の兵庫県北部、岡山県北東部に分布していた。本項では前身である府中裁判所についても記す。.

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産経新聞大阪本社

産経新聞大阪本社(さんけいしんぶんおおさかほんしゃ)は、京阪神など近畿地方と北陸地方、東海3県、中国地方(山口県は除く)並びに四国地方を対象地域とした、産業経済新聞社(産経新聞)の地域本社である。正式名称は「株式会社 産業経済新聞社 大阪本社」。.

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田原藩

原藩(たはらはん)は、三河国田原(現在の愛知県東部・渥美半島)にあった譜代大名の藩である。本拠は室町時代末期に築かれた田原城。.

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田安徳川家

安徳川家(たやすとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿の一つ。単に田安家とも言う。.

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田捨女

捨女または、田 ステ女(でん すてじょ/すてめ、1634年(寛永11年) – 1698年9月13日(元禄11年8月10日))は、江戸時代の女流歌人・俳人。貞門派の女流六歌仙(六俳仙)の1人。 氏名は田ステで、「女」は名の一部ではなく女流歌人の名に添える接尾辞である。法名は貞閑で、貞閑尼とも呼ぶ。.

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田村建顕

村 建顕(たむら たつあき)は、江戸時代前期の大名。陸奥岩沼藩第2代藩主、のち田村氏一関藩初代藩主。.

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田沼意知

沼 意知(たぬま おきとも、1749年(寛延2年) - 1784年5月20日(天明4年4月2日))は、江戸幕府の若年寄。老中を務めた遠江国相良藩主田沼意次の嫡男。母は黒沢定紀の娘。正室は松井松平康福の娘。子に田沼意明(長男)、田沼意壱(次男)、田沼意信(四男)。官位は従五位下、大和守、播磨守、山城守。.

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甲州屋忠右衛門

州屋忠右衛門(こうしゅうや ちゅうえもん、文化6年(1809年 - 明治24年(1891年)12月24日)は、江戸時代後期・明治初期の実業家。号は可雲。篠原忠右衛門とも横浜市、1978年、p15。横浜商人のさきがけの一人。.

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申年がしん

申年がしん(さるどしがしん)は、鳥取藩における天保の大飢饉の呼称。その悲惨さは近年まで恐怖の伝説として語り継がれていた。「がしん」とは、各地の方言で「餓死」が転訛した飢饉を表す言葉で、鳥取藩内における飢饉がいよいよ本格化した1836年(天保7年)が申年であったことから、この名で呼ばれた。.

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町田久倍

久倍(まちだ ひさます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の家老。町田氏18代当主。.

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熊野三山本願所

野那智大社拝殿。寺社の壮麗な社頭の維持には多額の費用を要する。 熊野三山本願所(くまのさんざんほんがんじょ)は、15世紀末以降における熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智)の造営・修造のための勧進を担った組織の総称である。 熊野三山を含めて、日本に於ける古代から中世前半にかけての寺社の造営は、寺社領経営のような恒常的財源、幕府や朝廷などからの一時的な造営料所の寄進、あるいは公権力からの臨時の保護によって行われていた。しかしながら、熊野三山では、これらの財源はすべて15世紀半ばまでに実効性を失った(→#前史)。 それらに替わる財源を確保し、熊野三山の造営・修造に寄与したのが、15世紀後半以降に成立した熊野三山本願所で、類似する他の寺社の本願所と比べて際立って規模が大きく、一山ごとに独自の性格を持っていた(→#熊野三山本願所の成立)。熊野三山本願所は、各地に送り出した一部の熊野山伏・熊野比丘尼が募った勧進奉加を熊野へ送り届けさせること、また、熊野への巡礼者からの散銭を得ることを通じて財源を調達し、堂舎の建立・再興・修復を行う造営役としての役目を果たした。近世初期には新宮を首座として熊野本願九ヶ寺と称する本願仲間を形成し、連携して職務の遂行にあたった(→#活動と組織)。 15世紀後半以降、本願所は造営・修造を担う組織として機能していたが、熊野三山では本来衆徒が独占していた社寺の縁起や仏事・神事といった社役にも深く関与する様になり、三山の運営に大きな役割を担うようになっていった。しかしながら、他の寺社と同じく本願と社家の間には緊張関係があった。17世紀以降には、造営・修造と社役との聖俗両面における本願の役割を否定し、社内における主導権を奪い返そうとする社家と、一山に於ける地位を守ろうとする本願との間で相論が繰り返された。18世紀半ばには、近世以降の社家の経済的再建と江戸幕府・紀州藩の宗教統制を背景にした社家の反撃により、本願の退勢は決定付けられるに至った。しかしながら、単なる造営役を越えて年中行事や祈祷に関する役目を担っていた本願を、社家は完全に排除することは出来ず、明治の神仏分離まで存続した(→#衰退と終焉)。.

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熊沢蕃山

沢 蕃山(くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) - 元禄4年8月17日(1691年9月9日))は江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。.

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畠山義堯

山 義堯(はたけやま よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名。河内・山城の守護で室町幕府管領。畠山総州家5代目。.

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畠山義就

山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って、従兄弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。.

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畠山高政

山 高政(はたけやま たかまさ)は、戦国時代の紀伊・河内国の守護大名・戦国大名。畠山尾州家(畠山政長流)の当主。.

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畠山持国

山 持国(はたけやま もちくに)は、室町時代の守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。畠山満家の嫡男。義就の父。 危機的状況を脱して管領に就任、勢力拡大を目指すも晩年にお家騒動を発生させ、畠山氏衰退の元を生み出してしまった。.

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畠山政国

山 政国(はたけやま まさくに)は戦国時代の武将。紀伊・河内・越中の守護大名、戦国大名。畠山尾州家の出身。.

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畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

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畿内・近国の戦国時代

畿内・近国の戦国時代では畿内とその近国、おおよそ現在の近畿地方の戦国時代について記す。 戦国時代の区分については諸説あるが、この項では狭義の戦国時代の始まりとされる明応の政変が起きた明応2年(1493年)から小谷利明・弓倉弘年(編) 『南近畿の戦国時代』 戎光祥出版、2017年、p.1。、戦国時代の下限とされる天正元年(1573年)までを戦国時代として扱う。.

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牧尚春

牧 尚春(まき なおはる)は 戦国時代から安土桃山時代にかけての美作国の武将。.

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片栗粉

片栗粉(かたくりこ、 )は、精製したデンプン(澱粉)の粉のこと。元来は、その名の通り、カタクリから作られていたが、近年ではジャガイモから製造される事が多くなっている。主に調理用粉・和菓子材料として使用する。.

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片桐且元

片桐 且元(かたぎり かつもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降も、傅役として豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場で、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。.

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片桐貞隆

片桐 貞隆(かたぎり さだたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。大和国小泉藩の初代藩主。 片桐直貞の次男で、片桐且元は兄である。21歳の時に兄と共に豊臣秀吉に仕え、播磨国に150石の所領を与えられた。その後、小田原征伐、文禄の役などに従軍したことから、播磨国内に1万石余の所領を与えられる。秀吉没後は兄と共にその子豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に就いて大津城の戦いに加わったが、所領は安堵された。慶長19年(1614年)6月、大野治長と共に徳川家康の口添えで五千石を秀頼より加増され、その礼として治長と駿府にいる大御所家康、次いで江戸の将軍徳川秀忠を訪ねる。だが、大坂に戻ってくるなり方広寺鐘銘問題が噴出し、これを契機に家康との内通を疑われるようになり、兄と共に豊臣氏の下を去って家康に仕えるようになり、大坂夏の陣の後、1615年、大和国小泉に1万6千石を知行された。 兄より遥かに激しい気性の持ち主であったと言われている。.

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牛尾幸清

牛尾 幸清(うしお よしきよ)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。尼子十旗の一角である出雲国牛尾城主。 幸清は諏訪神社神主家 諏訪氏の傍流・中澤氏の末裔。元は湯原氏の出身で湯原次郎左衛門尉幸清と称した山下晃誉「天文前期の播磨における尼子氏勢力の動向」(『年報赤松氏研究』創刊号、2008年)。.

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牛尾梅吉

牛尾 梅吉(うしお うめきち、1864年12月17日(元治元年11月19日)1298頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月6日閲覧。 - 1934年(昭和9年)5月4日)は、日本の政治家・姫路市会議員、相場師、実業家、資産家。姫路商工会議所会頭ウ41頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。。姫路水力電気、姫路信託各社長。姫路銀行頭取ウ47-48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。。牛尾合資会社代表社員。仲介業。山陽商事代表取締役。兵庫県多額納税者。族籍は兵庫県平民ウ42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。。神戸銀行副頭取、中国合同電気社長牛尾健治の父。ウシオ工業社長牛尾吉朗、ウシオ電機会長牛尾治朗の祖父。.

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牛頭天王

牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた塩入法道 (1997) p.63。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない。.

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狭井檳榔

狭井 檳榔(さい の あじまさ、生没年不詳)は飛鳥時代の豪族。姓は連。.

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益田兼堯

兼堯(ますだ かねたか)は石見の国人領主。益田氏当主で第15代七尾城(益田城)城主。.

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益田正親

正親(ますだ まさちか、天文11年(1542年) - 慶長16年10月15日(1611年11月19日))は戦国時代から江戸時代の武将、福岡藩士。通称は与助(よすけ)、与九郎(よくろう)。初名は宗清。妻は糟屋武則の次男・加藤権左衛門の娘。子に与市、二郎兵衛、助二郎、養子に縫殿介(栗山利安の子)がいる。黒田二十四騎の一人。 播磨国姫路近郊の貧農の出で、黒田孝高に取り立てられ、下僕、薙刀持ち、徒侍を経て士分となり、83石を拝領する。それに当たって姓が必要となった際、黒田長政の正室・糸姫の義母・大匠院が益田氏の出であったことから、それにちなんで「益田」と名乗ることとなる。また、別の説として、毛利氏重臣の益田氏にちなむとするものもある。 天正15年(1587年)の城井鎮房の反乱において、長政が城井谷を攻めて敗北した際、兄の与六郎が討死。文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役を前に500石に加増され、足軽大将となる。文禄4年(1595年)に698石に加増される。慶長5年(1600年)の木曽川・合渡川の戦い及び関ヶ原の戦いでは敵3人を討ち取った。 慶長6年(1601年)、黒田氏が筑前国に入国した後に3,000石を与えられ、鉄砲組頭となった。また、福岡城の石垣普請奉行を野口一成と共に務めている。 慶長16年(1611年)10月15日死去。享年70。遺領は、養子の縫殿介が2,500石を、実子の与市、二郎兵衛、助二郎の三人が各150石ずつを継いだ。.

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益田持正

持正(ますだ もちまさ)は、戦国時代の武将。尾張国出身。阿波一宮城主。官位は宮内少輔。別名は太郎右衛門。 息子に益田一正(一宮城・海部城主)と益田正忠(撫養城主)がいる。また、蜂須賀正勝の正室である大匠院(まつ)を娘とする説もある。.

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盤珪永琢

永琢(ばんけい ようたく/えいたく、元和8年3月8日(1622年4月18日) - 元禄6年9月3日(1693年10月2日))は、江戸時代前期の臨済宗の僧。不生禅を唱え、やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた。法名を授けられ弟子の礼をとった者五万人あまり。.

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直心影流剣術

心影流剣術(じきしんかげりゅうけんじゅつ)は、日本の剣術の流派。正式名称は鹿島神傳直心影流(かじましんでんじきしんかげりゅう)。薩摩藩では「真影流」「薩摩影之流」と呼ばれることもある。.

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相伴衆

伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府における役職的な身分の一つ。将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった(ただし、三管領家も社会的身分としては相伴衆中の上位に位置づけられていたとする見方もある木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」木下 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-192-9)。.

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相生市

北部より見た相生市街。 相生市(あいおいし)は、兵庫県の島嶼部を除いた地域の南西部に位置する市である。西播磨県民局管轄地域。旧赤穂郡。本項では発足時の名称である相生村(あうむら)、市制前の名称である相生町(あうちょう、あいおいちょう)についても述べる。.

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相良長頼

良 長頼(さがら ながより)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。相良氏の初代当主。相良頼景の第一子というのが定説だが、弟、或いは甥とする異説もある。通称は三郎。.

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瀬川合戦

川合戦(せがわがっせん)は、元弘3年(1333年)に行われた赤松則村(円心)を総大将とする後醍醐天皇軍と鎌倉幕府六波羅探題軍との戦い。.

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瀬川正長

川 正長(せがわ まさなが、承応3年(1654年) - 享保13年1月6日(1728年2月15日))は、備中国足守藩の家老。足守杉原家2代当主。 3代藩主木下利当の次男。通称は半平・玄蕃。石也と号す。子に杉原正忠。 寛文2年(1662年)春に家老並瀬川正方の養子となり、瀬川半平と名乗って150石を給わる。同6年(1666年)7月、家督を相続し、400石を給わる。延宝2年(1674年)に家老となり、同7年(1679年)1月には木下姓を名乗ることが許され、木下玄蕃と改名する。天和元年(1681年)8月、加増されて500石となる。元禄14年(1701年)4月、播州赤穂城の受け取り役となった藩主木下公定に従って赤穂へ出向いた。 享保5年(1720年)6月に隠居し、石也と号した。同13年(1728年)1月6日に75歳で病死。法号は青雲院月山石也。 子孫は代々家老を勤め、藩主の旧姓である「杉原」を名乗った。また、杉原家の屋敷は岡山県重要文化財に指定され、「旧足守藩侍屋敷遺構」として一般公開されている。.

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瀬戸内地方

戸内地方 (せとうちちほう)は日本の地域を指す通称の一つである。本州西部・四国・九州に囲まれた瀬戸内海の沿岸地域を指す。通称、瀬戸内(せとうち)。.

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瀬戸内海

戸内海(せとないかい)は、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、徳島県、香川県、愛媛県、大分県、福岡県がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。 古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。.

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瀬戸内海式気候

戸内海式気候(せとないかいしききこう)とは、日本の気候区分の一つである。瀬戸内式気候(せとうちしききこう)や瀬戸内海型気候とも呼ばれることがある。主に瀬戸内地方で見られる。.

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白河藩

白河藩(しらかわはん)は、江戸時代に陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した藩。藩庁は白河城。支藩として、一時期存在した白河新田藩がある。.

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白洲次郎

白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本の実業家。兵庫県芦屋市出身。 連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど、多くの日本企業の役員を歴任した。 一時は忘れられた存在であったが、1990年代前半頃から少しずつ再評価され各種メディアで取り上げられることが増え、21世紀に入ってからは多くの書籍が刊行されている。.

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白旗城

白旗城(しろはたじょう、しらはたじょう)は、現在の兵庫県赤穂郡上郡町赤松に存在していた日本の城(山城)。「赤松氏城跡」の1つとして国の史跡に指定されている。室町時代に播磨国白旗山(標高440m)に築かれ、播磨守護赤松氏の居城となる。.

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百済王敬福

済王 敬福(くだらのこにきし きょうふく、文武天皇元年(697年) - 天平神護2年6月28日(766年8月8日))は、奈良時代の貴族。摂津亮・百済王郎虞の三男。官位は従三位・刑部卿。 天平21年(749年)陸奥守在任時に陸奥国小田郡から黄金を献上したことで知られる。また橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱でも功績があった。.

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隠山惟えん

山 惟琰(いんざん いえん、1751年(宝暦元年) - 1814年6月17日(文化11年4月29日))は、江戸時代後期の臨済宗妙心寺派の僧。峨山慈棹の法嗣で白隠慧鶴の法孫にあたる。卓洲胡僊と並び、現在の臨済禅の二つの法系のうち隠山系の祖となった。その禅風は峻厳と評される。.

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芦屋河原の合戦

芦屋河原の合戦(あしやがわらのかっせん)は、戦国時代初期の永正8年(1511年)7月26日から8月10日まで摂津国鷹尾城と芦屋河原周辺で行われた合戦。細川澄元軍は軍勢を二分して進軍、一隊が阿波国より堺に上陸、7月13日に深井城の合戦となり、もう一隊が兵庫に上陸、芦屋河原の合戦となった。別名葦屋河原の戦いや鷹の尾城の戦いとも呼ばれている。.

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花山院師賢

花山院 師賢(かざんいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣花山院師信の二男で、母は僧恵一(五辻忠継の子)の女である。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総で没した。.

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花岳寺

花岳寺(かがくじ)は、兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗の寺院で、歴代赤穂藩主の菩提寺。山号は台雲山(たいうんざん)。 現在の住職はパーリ仏教研究者で駒澤大学仏教学部教授の片山一良。.

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花畠教場

花畠教場(はなばたけきょうじょう)は、岡山藩の藩主、池田光政が寛永年間に岡山城下に建てたとされる学校。.

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芳村正秉

芳村 正秉(よしむら まさもち、天保10年9月19日(1839年10月25日) - 大正4年(1915年)1月21日)は、美作国上福田(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)出身の勤王の志士で神道家。号は「陽洲」(ようしゅう)。字は「均卿」(きんけい)。神習教初代管長。.

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銅鐸

袈裟襷文銅鐸 静岡県出土(パリ、ギメ美術館蔵) 銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。.

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音水ちくさ県立自然公園

音水渓谷 音水ちくさ県立自然公園(おんずいちくさけんりつしぜんこうえん)とは、兵庫県中西部にある兵庫県立の自然公園である。.

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蟹坊主

蟹坊主(かにぼうず)は、日本各地の寺院などに伝えられているカニの妖怪。「化け蟹」ともいう。無人の寺に旅の僧が泊まると、何者かが現れて問答を仕掛け、僧がその者をカニの妖怪だと正体を暴いて退治する、といった伝説や昔話として知られる。.

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鎌倉文化

運慶作「世親像」 「六道絵」(聖衆来迎寺蔵) 鎌倉文化(かまくらぶんか)は、鎌倉幕府の成立した12世紀末から幕府が滅亡した14世紀前半にかけての日本の文化。王朝国家からの自立を指向する本格的な武家政権が東国に開かれた時代であり、各方面で新しい文化的所産が生まれた。.

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鞆の浦

鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域。 現在は鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も「鞆の浦」と呼ぶことも多いが、本来「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味であり鞆港を中心とした海域のことである。 沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として国の名勝および国立公園に指定されている。 医王寺太子殿から望む鞆の浦 瀬戸内海国立公園指定時に発行された記念郵便切手(1939年).

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遠阪峠

遠阪峠(とおざかとうげ)は、兵庫県中北部にある峠。.

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聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。.

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道の駅杉原紙の里・多可

道の駅杉原紙の里・多可(みちのえき すぎはらがみのさと・たか)は、兵庫県多可郡多可町にある国道427号の道の駅である。 東播磨・北播磨地域では初めて設置された道の駅。周辺は古くから伝わる和紙・杉原紙の産地で、北方3kmに迫る播州峠を越えると、播磨国から丹波国(兵庫県丹波市)に入る。 2016年7月23日まで道の駅R427かみの名称であった。.

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道会

道会(どうかい)とは、松村介石(1859年 - 1939年)によって、今後万人に通じる宗教をとの祈りから、キリスト教、儒教、老荘思想、日本古来の思想などを融合して創設された、独特の新宗教。教義は「信神」「修徳」「愛隣」「永生」を四綱領とする。 プロテスタントキリスト教と儒教の流れに分類されることが多く、1970年代の調べによると、世界規模での信徒は約2343人。.

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道摩法師

道摩法師(どうまほうし)は、平安時代の呪術師、官人の陰陽師。生没年不詳。一般的には、蘆屋道満あるいは芦屋道満として知られるが、活躍したとされる時代の文献ではその名が不詳である。。 江戸時代の地誌『播磨鑑』によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とある。また播磨国の民間陰陽師集団出身とも伝えられている。 江戸時代までの文献では、ほとんどにおいて安倍晴明のライバルとして登場し、「正義の晴明」に対して「悪の道満」という扱いをされる。安倍晴明が伝説化されるのと軌を一にして、道満の伝説も拡散し、日本各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の類が数多く残っている。.

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荘園 (日本)

ここでは日本の荘園(にほんのしょうえん)について扱う。.

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荒木又右衛門

荒木 又右衛門(あらき またえもん、慶長4年(1599年) - 寛永15年8月28日(1638年10月5日))は、江戸時代初期の武士、剣客。名は保知(やすとも)、保和とも。鍵屋の辻の決闘での活躍で名高い。.

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荒木村重

荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。.

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荒木政羽

荒木 政羽(あらき まさはね / あらき まさは『寛政重修諸家譜』第十三 より。、寛文2年(1662年) - 享保17年2月14日(1732年3月10日))は、江戸時代前期の武士。江戸幕府の旗本。通称は與十郎・内蔵助・十左衛門。官位は従五位下・志摩守。.

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鍋島茂綱

鍋島 茂綱(なべしま しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。龍造寺氏、鍋島氏の家臣。21代佐賀藩武雄領主(武雄領は佐賀藩の自治領)。文献では鍋島若狭の名で呼ばれることが多い。後藤家信の子で、鍋島姓を賜るまでは、後藤姓、龍造寺姓、武雄姓を名乗っていた時期もある。.

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鍛冶

鍛冶(かじ、たんや)は、金属を鍛錬して製品を製造すること。「かじ」は、「金打ち」(かねうち)に由来し、「かぬち」、「かんぢ」、「かじ」と変化した。この鍛冶を業とする職人や店は鍛冶屋ともいう。 刀を作る職人は「刀鍛冶」「刀工」などと呼ばれる。.

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華族ゆかりの人物・団体

華族ゆかりの人物・団体(かぞくゆかりのじんぶつ・だんたい)では、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した日本近代の貴族階級である華族にゆかりをもつ著名人と団体・会社について解説する。.

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菅原峯嗣

菅原 峯嗣(すがわら の みねつぐ、延暦12年(793年) - 貞観12年3月30日(870年5月4日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族・医師。名は岑継とも記される。氏姓は出雲朝臣のち菅原朝臣。信濃権守・出雲広貞の子。官位は従五位上・典薬頭。.

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菅原道真

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.

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菅原淳茂

菅原 淳茂(すがわら の あつしげ)は平安時代初期から中期にかけての貴族、漢詩人、学者。官位は正五位下・右中弁。.

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菅原是善

菅原是善邸跡、道真の産湯井戸と言われている井戸が現存する、京都市上京区 菅原 是善(すがわら の これよし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・文人。従三位・菅原清公の四男。官位は従三位・参議。.

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菅屋長頼

菅屋 長頼(すがや ながより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信長の側近として仕えた。姓は「菅谷」と書かれる事も。.

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菅正利

菅 正利(かん まさとし)は、戦国時代から江戸時代の武将、福岡藩士。黒田二十四騎の一人。通称は孫次、後に故あって六之助(ろくのすけ)と改めた。官途は和泉守。名は忠利(ただとし)であったが、後年、将軍・徳川秀忠の諱を憚って正利と改めた。号は松隠宗泉。妻は手塚元直の娘。子に菅重利がいる。.

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萬勝寺

萬勝寺(まんしょうじ)は、真言宗大覚寺派の寺院である。山号は畋川山である。播磨八薬師霊場の7番札所である。.

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萱野重実

萱野 重実(かやの しげざね、延宝3年(1675年)- 元禄15年1月14日(1702年2月10日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称三平(さんぺい)。討ち入り前に忠孝のはざまで自刃した赤穂藩士として有名。俳人としても知られ、俳号は涓泉(けんせん)。父は萱野重利。.

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青垣町

青垣町(あおがきちょう)は、かつて兵庫県中東部に存在した町。旧氷上郡。 2004年(平成16年)11月1日に氷上郡6町が合併して丹波市が誕生したことにより消滅、旧町域は丹波市青垣町となった。.

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青山幸利

青山 幸利(あおやま よしとし)は、江戸時代前期の大名。摂津国尼崎藩2代藩主。.

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青山忠成

青山 忠成(あおやま ただなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府町奉行、老中。常陸国江戸崎藩初代藩主。青山家宗家初代。.

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青山・土器山の戦い

青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)は、永禄12年(1569年)、播磨国で行われた西播磨守護代赤松政秀と姫路城主黒田氏との間に起きた戦いである。.

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青木一矩

青木 一矩(あおき かずのり)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の従兄弟。豊臣家の一門衆。越前大野城、府中城、次いで北ノ庄城の城主。千利休に師事した茶人としても知られ、名物の所持者でもあった。.

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青木重兼

青木 重兼(あおき しげかね)は、江戸時代前期の大名。摂津国麻田藩の第2代藩主。諱は重壽(しげなか)とも言う。.

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預地

地(あずかりち / あずけち)とは、他者から預かって管理を委託された土地のこと。.

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須磨区

人口が集中する須磨ニュータウン 北区と西区の境目に残る農村地帯白川字下測地で撮影 須磨区(すまく)は、神戸市を構成する9区のうちのひとつで、同市の西部に位置する。南部の板宿を中心とする旧市街地、北部の妙法寺や名谷を中心とする新興市街地など様々な街の景色を持つ。 平安時代末期に起きた一ノ谷の戦いの舞台でもある。また、須磨海岸は古来より白砂青松の美しい砂浜を持つ海岸として有名で、近年は京阪神地域随一の海水浴場でもある。 2014年(平成26年)5月8日に「日本創成会議人口減少問題検討分科会」が発表した2040年人口推計結果で、20歳から39歳までの若年女性の減少率が2010年(平成22年)比で51.4%となり、「消滅可能性都市」の1つとされた久保聡、神足俊輔、丸井康充(2014年5月9日).

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須磨浦山上遊園

浦山上遊園(すまうらさんじょうゆうえん)は兵庫県神戸市須磨区の鉢伏山と旗振山の山頂一帯に広がる須磨浦公園内の植物園・遊園地を含む緑ゆたかな公園である。山陽電気鉄道の子会社「須磨浦遊園株式会社」が運営する。1959年に開園した。 山陽須磨浦公園駅に直結する須磨浦ロープウェイとカーレーター(勾配25度のゴンドラ)を乗り継ぐと山頂エリアに着く。山頂エリアには須磨海岸~紀淡海峡から六甲山地まで360度のパノラマを楽しめる回転展望閣や林間の散策路があり、さらに観光リフトで谷を渡ったところにはふんすいランド、サイクルモノレール等が設置された遊園地がある。施設の殆どは開園時(1959年)からのもので、レトロ感を楽しむことができる。その西に、名所として知られる梅林、ハマナス園、フジの園といった植物園が広がる。 また園内には六甲全山縦走路が通っており、ハイキングする人のための登山道や周遊路も整備されている。 なお、以前は同地に「ドレミファ噴水パレス」という、噴水・光線・音響効果をミックスさせて観客を楽しませたホールがあったが、老朽化や利用者の減少で1987年11月に閉館し、建物も既に解体されている。.

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須磨浦公園駅

| 須磨浦公園駅(すまうらこうえんえき)は、兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町五丁目にある、山陽電気鉄道本線・須磨浦ロープウェイの駅。駅番号はSY 07。 阪神電鉄の大阪方面からの特急終着駅。かつては阪急電鉄神戸線の列車(主に特急)も当駅まで乗り入れていた。.

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須恵器

恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。 日下部遺跡(兵庫県神戸市)から出土した飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館蔵).

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衣笠景延

衣笠 景延(きぬがさ かげのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。福岡藩士。端谷城主。黒田二十四騎の一人。.

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行基

行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)『大僧正舎利瓶記』、奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。.

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願譜代

譜代(ねがいふだい)は、江戸時代に外様大名のうちで願い出て譜代大名の扱いとなった者をいう。主に譜代大名の血筋の者が外様大名の家を継ぎ、幕閣において長年の功績を立てるなどした場合、もしくは外様大名が幕政に参画しようとして譜代への格上げを望んだ時にこの扱いとなった。願い譜代とも記され、譜代格、御譜代に準ずる大名という場合もある。後世には準(准)譜代大名の呼称も使用されるが、歴史学的な用語である。.

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顕如

顕如(けんにょ、顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣九条稙通の猶子。室は左大臣三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。 神仏をないがしろにし武力による天下統一を狙う織田信長を仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて決戦を挑んだ。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。.

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顕宗天皇

顕宗天皇(けんぞうてんのう、正字体:顯宗天皇、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、記紀・『播磨国風土記』に伝えられる第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。.

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衛府の七忍

『衛府の七忍』(えふのしちにん)は、山口貴由による日本の漫画。.

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飯山藩

飯山藩(いいやまはん)は、信濃国(現在の長野県飯山市飯山)を支配した藩。藩庁は飯山城。.

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飯豊青皇女

飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ、允恭天皇29年? - 清寧天皇5年11月?)は、記紀に伝えられる5世紀末の皇族(王族)。履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女。 第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。.

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飯舘村

飯舘村(いいたてむら)は、福島県浜通りの北部に位置する村の一つ。相馬郡に属するが、1896年以前は行方郡に属した地域である。.

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飾磨県

飾磨県庁舎 飾磨県(しかまけん)は、1871年(明治4年)に播磨国を管轄するために設置された県。現在の兵庫県南西部にあたる。本項では前身の姫路県(ひめじけん。第1次府県統合後)についても記す。.

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飾磨郡

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飾西郡

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飾東郡

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装束司

装束司(しょうぞくし)とは、朝廷の儀式や天皇の行幸の際に、その衣装や設備の設営を担当する役人のこと。 神亀3年(726年)の聖武天皇の播磨国行幸の際に任じられたのが最初の例とされる。 後に長官(三位・1名)・次官(2名)・判官(3名)・主典(3名)の制度が導入され、斎宮の伊勢神宮下向や皇族・大臣の葬儀の際にも任命されるようになった。 Category:令外官.

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西尾忠受

西尾 忠受(にしお たださか)は、遠江横須賀藩の第7代藩主。横須賀藩西尾家10代。 文政4年(1821年)に生まれる。播磨姫路藩主酒井忠実の三男で、酒井忠学の養弟にあたるとされている。天保13年(1842年)10月16日、母、隆姫の実家である横須賀藩の第6代藩主西尾忠固の養子となる。同年12月22日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月22日、従五位下式部少輔に叙位・任官する。天保14年(1843年)8月7日、忠固の隠居により家督を継ぎ、隠岐守に転任する。 弘化3年(1846年)6月18日、奏者番に任じられる。藩政においては茶や樹木の栽培に尽力し、藩財政再建を目指した。また自ら絵画に造詣が深く、華渓と号した。 文久元年(1861年)7月26日、江戸の外桜田屋敷で死去した。享年41。跡を長男の忠篤が継いだ。 たたさか Category:酒井氏 category:横須賀藩主 Category:幕末の大名 Category:1821年生 Category:1861年没.

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西尾忠尚

西尾 忠尚(にしお ただなお)は、江戸時代中期の大名。遠江横須賀藩の第2代藩主。横須賀藩西尾家5代。.

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西尾忠雅

西尾 忠雅(にしお ただまさ、元文4年(1739年) - 明和2年10月18日(1765年11月30日))は、遠江横須賀藩の嫡子。3代藩主西尾忠需の長男。正室は丹羽高寛の娘。官位は従五位下、播磨守。 忠需が藩主に就く以前に生まれる。宝暦5年(1755年)将軍徳川家重に拝謁する。同10年(1760年)叙任するが、家督相続前の明和2年(1765年)に早世した。代わって、弟の忠移が嫡子となった。 法名は青靈蒼龍徳雲院。 Category:江戸時代の大名の嫡男 たたまさ Category:1739年生 Category:1765年没.

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西区 (神戸市)

西区(にしく)は、兵庫県神戸市を構成する9行政区の一つである。.

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西園寺実顕

西園寺 実顕(さいおんじ さねあき、生年不詳 - 文永9年12月2日(1272年12月23日))は、鎌倉時代の公卿。太政大臣・西園寺公相の三男『尊卑分脈』。母は藤原定家の娘。室に西園寺公基の娘がいる。官位は正三位・参議。.

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西光寺 (竹田市)

西光寺(さいこうじ)は、大分県竹田市大字会々にある浄土宗西山派の寺院である。山号は天嶽山(てんがくさん)。本尊は阿弥陀如来。.

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西光寺山

西光寺山(さいこうじやま)は、兵庫県西脇市と篠山市とにまたがる標高712.9mの山である。山頂の三角点は西脇市に置かれる。.

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西国三十三所

西国三十三所札所(京都府に所在するものを除く) 西国三十三所札所(京都府に所在するもの) 西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。 「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。.

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西郷近房

西郷 近房(さいごう ちかふさ、寛永14年(1637年) - 元禄16年3月15日(1703年) )は、江戸時代の会津藩家老であり、会津藩内での西郷氏の初代。母は会津藩家老保科正近の長女。幼名:吉十郎(きちじゅうろう)。通称:頼母(たのも)。正室は母方の従姉妹である沼沢氏。播磨国明石生まれ。.

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西脇市

西脇市(にしわきし)は、兵庫県の中央やや東に位置する市である。加古川、杉原川、野間川の3つの河川を持ち染色に不可欠の水資源に恵まれた地であったことから、200年以上の歴史を持つ播州織の繁栄でかつては全国に名を馳せ、また芸術家の横尾忠則を輩出したことで知られる。.

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西脇市図書館

西脇市図書館(にしわきしとしょかん、Nishiwiaki City Library)は、日本の兵庫県西脇市が市内に設置している公立図書館である。.

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西脇都市圏

西脇都市圏(にしわきとしけん)は、兵庫県西脇市を中心とする都市圏である。.

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西条藩

西条藩(さいじょうはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩。藩庁は伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)の西条陣屋。 江戸時代初期には外様大名の一柳氏が治めたが3代約30年で改易。その後徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。.

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西条陣屋

大手門(現県立西条高等学校正門) 西条陣屋(さいじょうじんや)は、愛媛県西条市明屋敷(伊予国新居郡西条)にあった西条藩の藩庁である。.

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西村真太郎

西村 真太郎(にしむら しんたろう、1859年12月12日(安政6年11月19日『人事興信録』初版、166頁。)- 1922年(大正11年)9月13日『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』482頁。)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。.

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西播丘陵県立自然公園

龍野公園紅葉谷 西播丘陵県立自然公園(せいばんきゅうりょうけんりつしぜんこうえん)とは、兵庫県中西部にある兵庫県立の自然公園である。.

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西播磨

西播磨(にしはりま)は、兵庫県の播磨地方西部または西播磨県民局が管轄する地域。西播(せいばん)。範囲として旧揖保郡(姫路市域を除く)・旧赤穂郡・旧佐用郡・旧宍粟郡(姫路市域を除く)に相当する。.

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饗応役

饗応役(きょうおうやく)とは、江戸時代に天皇・上皇・女院より派遣されて江戸に下向してきた使者(それぞれ勅使・院使・女院使)を接待するために江戸幕府が設けた役職である。主に外様大名が任命された。御馳走役・接待役・館伴役ともいう。『忠臣蔵』で有名な浅野長矩は吉良義央への刃傷の際に勅使饗応役を務めたことで知られる。 毎年正月には幕府将軍は、高家という旗本たちを派遣して京都の天皇と上皇に対して年賀を奏上する。これに対して天皇と上皇は、答礼として2月下旬から3月半ばにかけて勅使と院使を江戸へ派遣する。これが江戸時代の毎年の恒例行事であった。江戸へ下向した勅使と院使は江戸にいる間は幕府の伝奏屋敷に滞在するのだが、ここで御馳走をふるまったり、高価な進物を献上したり、勅使院使の行く先のインテリアを良くしたり、お話し相手になったりなどの諸々の応待をするのが饗応役である。 勅使饗応役に就任するのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。勅使と院使の饗応には莫大な予算がかかることから、幕府は余計な蓄財をさせない意味で外様大名ばかりを任命したのだが、武骨な大名が一人でつとめて天皇や上皇の使者に対して無礼があったりしてもいけないので、饗応役の大名には朝廷への礼儀作法に通じた高家肝煎が指南役(口添え役とも)につくのが決まりであった。饗応役の大名はこの高家に対しても指南料として高価な進物を贈らねばならなかった。こうした勅使が下向・大名が饗応という一連の慣例が確立したのは『徳川実紀』で見たところ寛永9年(1632年)の時のようである。 またこの行事以外にも必要に応じて勅使や院使が江戸や日光へ送られることがあるので、そのたび饗応役は選任された。.

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馬憑き

憑き(うまつき)は、死んだ馬の霊が人に取り憑いて苦しめるという日本の怪異。.

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観応

観応(かんのう、かんおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方が使用した。貞和の後、文和の前。1350年から1352年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が崇光天皇・後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。正平一統による4か月間の中断を経たのち復活している。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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香川修徳

香川 修徳(かがわ しゅうとく)または香川 修庵(かがわ しゅうあん、天和3年7月1日(1683年8月22日) - 宝暦5年2月13日(1755年3月25日))は、江戸時代中期の医師(漢方医、古方派)、儒学者。字は太仲、号は修庵(しゅうあん)、通称は修徳(のぶのり)。一本堂。播磨国姫路(兵庫県姫路市)出身。精神疾患の書の記述は当時としては世界最高水準と評価されている。.

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香西元載

香西 元載(こうざい もととし)は、戦国時代の武将。讃岐国勝賀城主。香西元政の子。.

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香西元成

香西 元成(こうざい もとなり)は、戦国時代の武将。細川氏の家臣。讃岐国勝賀城主。 細川氏の忠実な家臣で、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いに参戦、内藤氏や三宅氏と共に軍を率いて功績を挙げた。天文18年(1549年)の江口の戦いにおいては摂津国三宅城を守り三好政長を救援して三好長慶と戦ったが、政長は敗死し、主君の細川晴元も長慶に京から近江国へ追われることになる。それからは三好政長の子・政康・為三兄弟と行動を共にして丹波国を拠点に長慶への抵抗を始め、天文20年(1551年)3月に為三と共に丹波から下向して京都を襲撃、一旦引き上げた後7月に再び入京して相国寺へ立て籠もるが、長慶が派遣した松永久秀・長頼兄弟に敗れ逃亡した(相国寺の戦い)。 天文22年(1553年)、室町幕府13代将軍・足利義輝が細川晴元支持を表明すると7月に京都へ進み義輝・晴元と合流、8月に霊山城が落とされ義輝らが近江へ逃れた後も反長慶の姿勢を崩さず、9月に三好為三・波多野晴通と組んで丹波守護代・内藤国貞を討ち取り八木城を奪ったが、松永長頼に奪い返された。播磨国国人の明石氏と結託したが、こちらも天文24年(1555年)に長慶に降伏、かえって長慶の勢力拡大に繋がった。その後も長慶に徹底して対立・抵抗したが、永禄3年(1560年)、山城国炭山城で三好氏と戦い討死した。 三好宗渭、為三らと共に織田信長と戦い、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いで降伏した後、再び本願寺に味方して天正3年(1575年)に堺の近辺の新堀の出城に籠城して織田軍に捕えられ誅殺された「香西越後守」は、名乗りから考えて元成の後継者と考えられるが、その素性は明らかでない。.

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香林院

大石りく遺髪塚(正福寺) 香林院(こうりんいん)、りく(理玖とも)(寛文9年(1669年) - 元文元年11月19日(1736年12月10日))は、江戸時代前期の女性。赤穂藩家老大石良雄の妻。当時用いられた名乗りではないが、現代では大石りくとも呼ばれることもある。.

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角川源義

角川 源義(かどかわ げんよし、1917年(大正6年)10月9日 - 1975年(昭和50年)10月27日)は、日本の実業家、国文学者、俳人。角川書店(現・KADOKAWA)の創立者。俳号は源義(げんぎ)、水羊(すいよう)。 辺見じゅん(作家、幻戯書房代表)、角川春樹(俳人、角川春樹事務所会長兼社長、幻戯書房会長)、角川歴彦(KADOKAWA会長)の父。.

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駒ケ根駅

駒ケ根駅(こまがねえき)は、長野県駒ヶ根市東町にある、東海旅客鉄道(JR東海)飯田線の駅である。 下りの快速「みすず」はこの先各駅に停車する。「みすず」とは別にである岡谷行き快速列車(当駅の始発列車)が1本のみ設定されており、停車駅は飯田線の全区間で快速運転を行う上りの「みすず」とほぼ同じである。.

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駅家

駅家(えきか/うまや)とは、古代日本の五畿七道の駅路沿いに整備された施設。単に駅(えき)とも称する。.

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調田坐一事尼古神社

調田坐一事尼古神社(つくだにいますひとことねこじんじゃ)は奈良県葛城市にある神社。別名疋田神社(ひきだじんじゃ)。式内大社で、旧社格は村社。.

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調略

調略(ちょうりゃく)は、主に政治的工作の総称を指す。.

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誉津別命

誉津別命(ほむつわけのみこと、生没年未詳)は、記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の狭穂姫命(さほひめのみこと。彦坐王の女)。.

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諸国牧

諸国牧(しょこくまき)は、古代の日本において、兵部省により開発・管轄された牧場であり、主に軍馬や貴族への貢馬、駅伝馬などの供給源とされた。また、諸国牧から集められた馬牛を放し飼いにするため、近都牧(きんとまき)と呼ばれる牧が九州や畿内周辺に設置された。本稿では、諸国牧と近都牧について記す。.

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諸国百物語

遠江の国堀越と云ふ人婦に執心せし事」 『諸国百物語』(しょこくひゃくものがたり)は、延宝5年(1677年)4月に刊行された日本の怪談集。全5巻、各巻20話構成で、全百話。著者、編者ともに不詳。江戸時代に流行した百物語怪談本の先駆けといえる書物であり、その後に刊行された多くの同系統の怪談本にも大きな影響を与えたといわれる。.

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高句麗五部

句麗五部(こうくりごぶ)は、高句麗において5つに編成された部族である。.

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高家寺

家寺(こうけじ)は、岐阜県各務原市那加北洞にある高野山真言宗の密教寺院。.

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高尾太夫

尾太夫(たかおだゆう)は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名。高尾太夫は、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。三浦屋に伝わる大名跡であった。何代目まで続いたかは、諸説があって判然としておらず、6代説・7代説・9代説・11代説の4説がある。.

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高山右近

山 右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。カトリック教会の福者。 父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。.

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高屋城の戦い

屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)は、天正3年(1575年)4月8日から21日まで河内高屋城、新堀城、石山本願寺一帯で行われた戦い。石山合戦の一部で、別名「第二次石山合戦」や、もう一つの主戦場でもあった新堀城を併せて「高屋・新堀城の戦い」と呼ばれることもある。.

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高島正澄

島 正澄(たかしま まさずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。播磨国高野須城主。.

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高師冬

師冬(こう の もろふゆ、生年不詳 - 正平6年/観応2年1月17日(1351年2月13日))は、南北朝時代の武将、守護大名。関東執事、武蔵・伊賀守護。高師行(もろゆき)の子で兄弟に高師秋、三戸師澄(もろずみ)。高師直の従兄弟にあたる(後に師直の猶子となる)。妻は高師泰の娘明阿。甥(弟・師澄の子)にあたる師親(もろちか)を猶子としている。官位は播磨守、三河守。 従兄弟の師直と同じく足利尊氏に仕えた。尊氏の命を受けて延元3年/暦応元年(1338年)から関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房・小田治久と戦い、興国4年/康永2年(1343年)冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている。興国5年/康永3年(1344年)に関東執事職を従兄弟の高重茂に交代、翌興国6年/貞和元年(1345年)の天龍寺供養においても尽力した。 正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏の次男基氏が鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏の補佐に当たる。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は正平5年/観応元年(1350年)末に鎌倉から没落して甲斐国の須沢城(山梨県南アルプス市大嵐)に逃れたが、そこも諏訪氏(直義派の諏訪直頼)の軍勢に包囲されることとなり、翌年1月17日、逃げ切れないことを悟り、同地で自害して果てた。享年は30代か。.

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高井几董

井 几董(たかい きとう、 寛保元年(1741年) - 寛政元年10月23日(1789年12月9日))は、江戸時代中期の俳諧師。夜半亭三世。別号に晋明、高子舎、春夜楼、塩山亭。.

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高知県の文学史

知県の文学史(こうちけんのぶんがくし)では、高知県における文学の歴史、すなわち高知の人々、あるいは高知を訪れた人々の手になる文学作品を通史的に解説する。.

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高石左馬助

石 左馬助(たかいし さまのすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の地侍。滝山一揆(本山一揆)の首謀者。実名不詳。.

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高砂 (相撲)

(たかさご)とは、日本相撲協会の年寄名跡のひとつで、その名は播磨国高砂(兵庫県高砂市)の海岸に由来し、代々「浦五郎」が通り名として使われる。.

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高砂国

国(たかさごこく)は、16世紀から19世紀頃の日本で用いられていた台湾の別名。.

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高田城

城の航空写真(1975年度撮影・国土航空写真) 高田城(たかだじょう)は、現在の新潟県上越市本城(もとしろ)町にあった日本の城である。 2017年には続日本100名城に選定された。.

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高田吉次

吉次(たかた よしつぐ、1590年(天正18年) - 1671年3月4日(寛文11年1月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、槍術家。宝蔵院流高田派槍術の祖。小倉藩士。名字は高田、通称は又兵衛。号は祟白。高田吉春の子。赤穂事件に関与した高田郡兵衛は孫に当たる。.

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高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

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高畑城

畑城(たかはたけ・たかはた・たかばたけじょう).

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高顕寺

顕寺(こうけんじ)は、岡山県備前市吉永町八塔寺ふるさと村にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は恵日山(えにちさん)。本尊は定朝作と伝えられる不動明王(秘仏) 前立の本尊は愛染明王像。.

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高槻藩

槻藩(たかつきはん)は、摂津国に存在した藩の一つ。藩庁は高槻城(現在の大阪府高槻市)。本項目では関係のある山城長岡藩についても記述する。.

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高橋赳太郎

橋 赳太郎(たかはし きゅうたろう、1859年(安政6年)7月 - 1940年(昭和15年)12月21日)は、日本の剣道家。流派は無外流剣術、津田一伝流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。職業は警察官。諱は高運。.

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高橋殿

橋殿(たかはしどの、? - 永享元年(1429年))は、室町時代前期の女性で室町幕府第3代将軍足利義満の側室。実名は不詳。義満の存命中は「西御所」と称され、義満の没後に京都の北野高橋の邸宅に住んだことから、「高橋殿」「北野殿」と呼ばれた。.

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高木正府

高木 正府(たかぎ まさもと/まさくら、元禄9年(1696年) - 享保4年10月5日(1719年11月16日))は、河内丹南藩の世嗣。 第6代藩主・高木正陳の長男。母は本多正永の娘。正室は内藤清枚の娘。官位は従五位下、播磨守。 丹南藩嫡子として生まれ、宝永5年(1708年)徳川綱吉に拝謁。正徳元年(1711年)叙任するが、家督相続前の享保4年(1719年)に24歳で早世した。代わって、従弟にあたる正恒が養子に迎えられ嫡子となった。 まさもと Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1696年生 Category:1719年没.

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請西藩

請西藩庁が置かれた真武根陣屋遺址 請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代後期に上総国に所在した藩。石高は1万石で、藩庁は上総国望陀郡請西村(現在の千葉県木更津市請西)の真武根陣屋(まふねじんや。請西陣屋とも)に置かれた。戊辰戦争によって改易された唯一の藩として知られる。当初藩庁は望陀郡貝淵村(現在の木更津市貝渕)の貝淵陣屋に置かれていたために貝淵藩(かいふちはん)とも呼ばれる。 明治維新後、名義上は望陀郡桜井村を藩庁所在地として桜井藩(さくらいはん)が設置されたが、この藩庁(桜井陣屋)は貝淵陣屋を転用したものである。実質は貝淵藩と同一とみなすことができるため、本項では同藩についても併せて解説する。 ちなみに貝淵・桜井・請西村は隣接関係にあり、貝淵(桜井)陣屋は貝淵・桜井両村の境界線に沿った貝淵村側にあった。藩士の邸宅は3村内に点在していたようである。.

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鬼邑山城

邑山城(きむらさんじょう)は、日本の城。岡山県総社市八代の木村山にあった日本の城(山城)である。別名、喜村山城、木村山城。.

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魚吹八幡神社

魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)は、兵庫県姫路市網干区宮内193にある神社。「津の宮」とも呼ばれている。神功皇后の三韓征伐のおり、神託により創建されたと伝わる。延喜式神名帳の名神大社である中臣印達神社の比定社の一つ。 三ノ宮卯之助(江戸時代の力持ち・曲持ち)が持ち上げたという力石が残っており卯之助の像も建立されている。.

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魚住景固

魚住 景固(うおずみ かげかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏、後に織田氏の家臣。魚住景貞は曽祖父。.

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魚住景貞

魚住景貞(うおずみ かげさだ)は、室町時代後期から末期にかけての武将。赤松氏、朝倉氏の家臣。魚住景固の曽祖父。 魚住氏は播磨国赤松氏の庶流。 赤松氏の被官であったが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で主家が没落すると、流浪の末、越前国の朝倉孝景(英林孝景)に仕官する。 応仁元年(1467年)からの応仁の乱では、景貞は外交において活躍し、旧主である東軍の赤松氏の浦上則宗及びその被官中村三郎と交渉を重ね、朝倉氏の東軍寝返りを実現する。 Category:室町時代の人物 Category:越前国の人物 Category:生没年不詳.

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魚町 (姫路市)

魚町(うおまち)は兵庫県姫路市の町名。郵便番号670-0905。.

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讀賣テレビ放送

讀賣テレビ放送株式会社(よみうりテレビほうそう、英称:YOMIURI TELECASTING CORPORATION)は、近畿地方広域圏を放送対象地域とするテレビジョン放送事業を行っている特定地上基幹放送事業者である。 通称は読売テレビ、略称はytv。日本テレビ系列(NNN・NNS)の準キー局である。 コールサインはJOIX-DTV(大阪 14ch)、リモコンキーIDは、日本テレビ系列で唯一の「10」。 キャッチフレーズは「GO!GO!happiness」と「ゴー!ゴー!10ch」。.

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谷衛友

谷 衛友(たに もりとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹波山家藩の初代藩主。.

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谷衛好

谷 衛好(たに もりよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。.

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谷衛弼

谷 衛弼(たに もりのり)は、丹波山家藩の第12代藩主。.

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谷衛秀

谷 衛秀(たに もりひで)は、丹波山家藩の第7代藩主。.

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谷衛量

谷 衛量(たに もりかず)は、丹波山家藩の第8代藩主。.

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谷衛憑

谷 衛憑(たに もりより)は、丹波国山家藩の第4代藩主。.

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豊地城

豊地城(といちじょう)は、兵庫県小野市中谷町にあった日本の城(平城)。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊竹嶋太夫

豊竹 嶋大夫(とよたけ しまたゆう)は、義太夫節の太夫。しまの漢字表記は「島大夫」とも。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.

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豊臣政権

豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。また羽柴氏政権とも言われる。.

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貞鏡院

貞鏡院(ていきょういん、天保5年(1834年) - 明治18年(1885年)1月25日)は、近江彦根藩主・井伊直弼の正室。.

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貫名菘翁

貫名菘翁(ぬきな すうおう、安永7年3月(1778年) - 文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者、書家、文人画家。江戸後期の文人画家の巨匠で、とりわけ書は幕末の三筆として称揚される。 姓は吉井、後に家祖の旧姓貫名に復する。名は直知・直友・苞(しげる)。字は君茂(くんも)・子善。通称は政三郎、のちに省吾さらに泰次郎と改める。号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。笑青園などと名のっている。海屋・菘翁が一般に知られている。.

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鳥取城

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。別名、久松山城。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ細田隆博「烏取城」、学習研究社編『【決定版】図説 厳選 日本名城探訪ガイド』学習研究社、2009年、ISBN 978-4-05-605328-9 。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残る。城址から望む市街.

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鳥取県

鳥取県(とっとりけん)は、日本の県の一つである。中国地方の日本海側、いわゆる山陰地方の東側を占め、東は兵庫県、西は島根県、南は中国山地を挟んで岡山県・広島県に隣接し、西日本または中国地方有数の豪雪地帯でもある。また鳥取県は全国47都道府県中面積は7番目に小さく、人口は最も少ない。市の数も最も少なく、4市である。県庁所在地は県東部の鳥取市である。.

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鳥取県庁

鳥取県庁(とっとりけんちょう)は地方公共団体である鳥取県の行政機関(役所)である。.

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鳥取藩

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。.

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鳥居忠英

鳥居 忠英(とりい ただてる)は、江戸時代中期の大名。能登下村藩主、近江水口藩主、下野壬生藩の初代藩主。壬生藩鳥居家5代。.

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鳥居忠求

鳥居 忠求(とりい ただもと、元文3年(1738年) - 寛政元年9月18日(1789年11月5日))は、下野壬生藩の嫡子。第3代藩主鳥居忠意の長男。正室は溝口直温の娘。子は鳥居忠貴(長男)、竹村嘉道(次男)、娘(加藤泰賢継々室)、娘(松平正卜室)、娘(五井松平忠元正室)。官位は従五位下、播磨守。 鳥居忠意の嫡子として生まれ、宝暦5年(1755年)に徳川家重に初御目見・叙任する。父が老中など幕閣の要職にあった関係上、長く嫡子の座にとどまった。寛政元年(1789年)、家督を相続する前に没した。没後は長男の忠貴が代わって嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 たたもと Category:壬生藩の人物 Category:1738年生 Category:1789年没.

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鳥居耀蔵

鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)は、江戸時代の幕臣、旗本。耀蔵は通称、諱は忠耀(ただてる)。.

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鳥羽藩

鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。.

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鳥養部

鳥養部(とりかいべ)とは、大化の改新以前に、朝廷の求めに応じて、鳥類の捕獲・献上、飼育・養育に従事した職業部(品部)。「鳥飼部」・「鳥甘部」とも書く。「鳥取部」(ととりべ)とほぼ同義。.

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賀茂 (能)

『賀茂』(かも)は、能楽作品のひとつ。別表記加茂、古称は矢立鴨。賀茂神社の縁起を気品高く、また勇壮に表現した能である。作者は金春禅竹ともいわれるが、不詳。戦国末期の素人能役者下間少進の演能記録「能之留帖」に頻出し、また、豊臣秀吉の命をうけて山科言経らが注釈をするなど、その当時からよく好まれた能である。.

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賀茂郡

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賀茂郡 (播磨国)

賀茂郡(かもぐん・かものこおり)は、播磨国にあった郡。 郡域は現在の小野市・加西市・加東市および西脇市・多可郡多可町の各一部にあたる。 後に加東郡と加西郡に分かれた。.

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賀陽豊年

賀陽 豊年(かや の とよとし、天平勝宝3年(751年) - 弘仁6年6月27日(815年8月5日))は、平安時代初期の貴族・文人・漢学者。姓は朝臣。官位は従四位下・播磨守、贈正四位下。.

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鴨子ケ原

子ケ原(かもこがはら)は、兵庫県神戸市東灘区の町名の一つで、昭和51年(1976年)に阪急神戸線以北の旧・住吉村域(住吉地区;現・住吉台除く)と旧・御影町域(御影地区)とを住居表示実施した際に、旧住吉村域西部付近に誕生した。元は住吉鴨子ケ原町と住吉町赤塚山・御影町西平野の各一部。昭和55年(1980年)には渦森台の一部が編入されている。平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)における世帯数は1,458、人口3,639で内男性1,662人・女性1,977人。.

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鴨川ダム

川ダム(かもがわダム)は兵庫県加東市黒谷、一級河川・加古川水系鴨川に建設されたダムである。 農林水産省近畿農政局が管理する農林水産省直轄ダムで、高さ43.5メートルの重力式コンクリートダム。旧農林省によって手掛けられた国営東条川農業水利事業の中心施設として建設され、播磨平野中部の灌漑を目的としている。完成後も農林水産省による直轄管理が行われる数少ないダムの一つで、加古川水系に建設された他の直轄ダムと総合的に管理されている。ダムによって形成された人造湖は地元の名称を採って東条湖(とうじょうこ)と命名されたが、関西地方有数の観光地として多くの観光客が訪れるスポットとなっている。.

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越後騒動

越後騒動(えちごそうどう)は、江戸時代前期に越後国高田藩で起こったお家騒動。藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対するお為方を称する一族重臣とが争い、将軍徳川綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩は改易となった。.

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越前家 (島津氏)

越前家(えちぜんけ、越前島津氏)は薩摩国島津氏の支族。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

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鶏足寺 (姫路市)

鶏足寺(けいそくじ)は、播磨国にかつて存在した寺院。.

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足助藩

足助藩(あすけはん)は、三河国加茂郡足助村(現在の愛知県豊田市)に存在した藩。藩庁は足助陣屋。.

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足守地域

足守(あしもり)は岡山県岡山市北区西部に位置する広域地区である。かつての吉備郡足守町(あしもりちょう)に相当し、現在の岡山市北区役所足守地域センターが管轄する地域。本項では賀陽郡・吉備郡足守町、同町の町制前の名称である賀陽郡足守村(あしもりそん)についても述べる。.

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足守藩

陣屋遺構 藩主庭園・近水園(おみずえん) 足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。一時は領地の大半が陸奥国に移された。藩庁を足守陣屋(岡山県岡山市北区足守)に置いた。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利冬氏

足利 冬氏(あしかが ふゆうじ、生没年不明)は室町時代初期の人物。足利直冬の嫡男と伝わる。この説が正しければ、初代将軍・足利尊氏の孫で、第2代将軍・足利義詮の甥、第3代将軍・足利義満は従兄弟となる。.

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足利義尊

足利 義尊(あしかが よしたか)は室町時代の人物。足利氏の一族。.

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足利義将

足利 義将(あしかが よしまさ)は室町時代の人物。足利直冬の孫と言われ、足利冬氏の次男に位置付けられる。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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足利義晴

足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.

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足利直冬

足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。 室町幕府将軍・足利尊氏の落胤尊氏の庶長子(長男)とする説もあるが、竹若丸に次いで次男であったとされる。。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、消息不明となった。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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鶴見内蔵助

鶴見内蔵助(つるみ くらのすけ、生年不詳‐元禄7年(1694年))は、江戸時代中期の武士。備中松山藩水谷家の国家老。 鶴見氏は常陸下館藩主時代から水谷家に仕えた家柄。水谷家のもとで代々鶴見家の当主は1,000石の知行と内蔵助の通称を受け継いだ。元禄6年(1693年)に水谷家が無嗣で改易となると、備中松山城を収城使の播磨赤穂藩主浅野長矩に城明け渡しを行うこととなった。この城明け渡しに際に赤穂藩国家老大石良雄(内蔵助)が単身で備中松山城内に入り、鶴見内蔵助と話し合って開城へこぎつけたという(両内蔵助の対談)。 元禄7年(1694年)に死去。鶴見家はその後、備中国川上郡布賀村を所領とする旗本となった水谷家に召しだされ、布賀村代官を代々つとめて明治時代を迎えた。昭和期の評論家・政治家である鶴見祐輔はその末裔である。 Category:江戸時代の武士 Category:備中松山藩の人物 Category:生年不明 Category:1694年没.

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鶴林寺 (加古川市)

林寺(かくりんじ)は兵庫県加古川市にある仏教寺院。山号を刀田山(とたさん)と称する。宗派は天台宗、本尊は薬師如来である。.

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鷲尾義久

鷲尾 義久(わしお よしひさ、生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年5月17日)?)は、平安時代末期の武士。源義経の郎党。通称は三郎。諱は経春とも伝わる。 『平家物語』の「老馬」の段に登場する(覚一本)。元は播磨山中にて猟師をしていたという。寿永3年(1184年)、三草山の戦いで平資盛軍を破った義経軍は、山中を更に進軍していくにあたって、土地勘のある者としてこの義久を召し出し、道案内役として使ったという。義経一行が鵯越にたどりつき、一ノ谷の戦いにおいて大勝を収めることができたのは、彼のこの働きによるところが大きく、「義久」という名はその褒賞として義経が自らの一字を与えてつけたものだと言われている。 以降、忠実な義経の郎党として付き従い、最後は衣川館にて主君と命運をともにしたという。 なお、義久の存在が書かれているのは『平家物語』のみであり、同時代の史料や鎌倉幕府編纂の史書『吾妻鏡』などには見られない。 Category:平安時代の武士 臣わしお Category:1189年没.

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鷹司師平

鷹司師平(たかつかさ もろひら)は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿。.

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鷹司冬家

鷹司 冬家(たかつかさ ふゆいえ)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての公卿。.

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鷹司冬通

鷹司冬通(たかつかさ ふゆみち)は、日本の南北朝時代の公卿。.

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鷹司兼平

鷹司 兼平(たかつかさ かねひら)は、鎌倉時代中期の公卿。従一位、関白、太政大臣。鷹司家の祖。通称は照念院関白(しょうねんいん かんぱく)。関白近衛家実の四男。 暦仁元年(1238年)従二位権大納言兼右近衛大将となる。その後右大臣、左大臣を歴任。建長4年(1252年)摂政・藤氏長者宣下を賜り、太政大臣に任じられた。同6年(1254年)関白となる。一旦辞任するが建治元年(1275年)に再度摂政・藤氏長者となった。正応3年(1290年)出家し、覚理と号する。永仁2年(1294年)に智恵光院を開山するが、間もなく薨去。兼平は前後23年の長きにわたって摂関の任にあった。 能書家としても著名。日記に『称念院関白記(兼平公記)』、有職故実書に『照念院殿装束抄』がある。勅撰和歌集には4首入集している。 後深草院二条が綴った『とはずがたり』に登場する「近衛大殿」はこの兼平のことだと考えられている。.

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鷹司房平

鷹司 房平(たかつかさ ふさひら)は、日本の室町時代の公卿。.

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踊り首

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鹿嶋神社 (高砂市)

鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は、兵庫県高砂市にある神社である。 一願成就・合格祈願の神として信仰されている。拝殿で参り、本殿裏を回って竹の棒を置く、これを年の数だけ繰り返す願掛が行われる。神社ではあるが、香を焚き灯明をあげる風習がある。 参道の両脇には名物のかしわもちの店が並んでいる。平成10年(1998年)にチタンの大鳥居が造られた。.

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鹿谷

鹿谷(しかたに、しかだに、ろくたに、ろくや、かや).

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鹿野城

鹿野城(しかのじょう)は鳥取県鳥取市鹿野町鹿野(旧・因幡国気多郡)にある日本の城(平山城跡)跡。.

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鹿野藩

鹿野藩(しかのはん)は、因幡国気多郡内において江戸時代初頭に存在した藩。鹿野城(現在の鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)が政庁となっていた。.

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車谷長吉

車谷 長吉(くるまたに ちょうきつ、1945年7月1日 - 2015年5月17日)は日本の作家、随筆家、俳人。本名、車谷 嘉彦(くるまたにhttps://kotobank.jp/word/%E8%BB%8A%E8%B0%B7%E9%95%B7%E5%90%89-486537--> よしひこ)。出生時は「くるまたに」だったが、祖父の一存で「しゃたに」と役所に登録されていた時期が長く、2007年、正式に「くるまたに」に戻した。兵庫県飾磨市(現・姫路市飾磨区)出身。筆名の「長吉」は唐代の詩人李賀にちなむ。妻は詩人の高橋順子、2017年に回想記『夫・車谷長吉』(文藝春秋)を刊行した。 かつては「反時代的毒虫」としての「私小説作家」を標榜しており、播州地方の方言を使った民衆言語で下層民の泥臭さを執拗に描き、近代と自己に疑問を投げかけるような苛烈な私小説において評価を受けた。.

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軍師 黒田官兵衛伝

『軍師 黒田官兵衛伝』(ぐんし くろだかんべえでん)は、重野なおきによる日本の4コマ漫画。『ヤングアニマルDensi』を経て『マンガPark』(白泉社)にて、2013年4月26日よりウェブ配信されている。.

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軍師官兵衛

『軍師官兵衛』(ぐんしかんべえ)は、2014年1月5日から12月21日まで放送されたNHK大河ドラマ第53作である。.

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黒田城

黒田城(くろだじょう).

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黒田孝高

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。.

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黒田利則

黒田 利則(くろだ としのり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。黒田氏の家臣で、黒田二十四騎、黒田八虎の一人。.

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黒田利高

黒田 利高(くろだ としたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。黒田氏の家臣。黒田二十四騎、黒田八虎の筆頭。.

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黒田熊之助

黒田 熊之助(くろだ くまのすけ)は、安土桃山時代の人物。黒田孝高の次男。.

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黒田直之

黒田 直之(くろだ なおゆき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。黒田氏の家臣で、黒田二十四騎、黒田八虎の一人。.

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黒田職隆

姫路市妻鹿にある黒田職隆の墓 黒田職隆の墓所全景 黒田 職隆(くろだ もとたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。黒田重隆の子。子に黒田孝高などがいる。.

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黒田高政 (戦国時代)

黒田 高政(くろだ たかまさ、生年不詳 - 大永3年(1523年)?)は、戦国時代の武将。黒田高宗の子。子に重隆がいる。 永正8年(1511年)の船岡山合戦に六角方として参戦したが、六角高頼の命に背いて抜け駆けしたことから将軍足利義稙の怒りを買って追放され、親族を頼って備前国邑久郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に流れてきたとされる。 ただし、高政は内容に疑問のある『江源武鑑』やそれを元にした貝原益軒編纂の『黒田家譜』などには記述があるが、信頼性の高い史料には登場しておらず、『寛永諸家系図伝』では高宗と重隆の間を「此間中絶」としていたり、『寛政重修諸家譜』では高宗と重隆の間の代数に疑問があるとしていることから、高政は架空の人物であるとの説もある。 子孫は播磨の赤松氏・小寺氏の重臣、姫路城代を務め、後世に福岡藩祖、黒田孝高。安土桃山時代に豊臣氏、江戸時代に徳川氏に仕えた。 墓所は岡山県瀬戸内市長船町の妙興寺。.

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黒田重隆

黒田 重隆(くろだ しげたか)は、戦国時代の武将。小寺氏の家臣。.

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黒田長政

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。 戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。.

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黒田氏

黒田氏(くろだし)は、日本の氏族のひとつ。 江戸時代の大名家となった黒田氏には次の2氏がある。.

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黒田治宗

黒田治宗(くろだ はるむね、生没年不詳)は、日本の戦国時代の武将。赤松氏の家臣黒田宗政の長男。通称などは不詳。子は黒田治重(長男)、不詳(次男)、山中貞幸(三男)。出雲の戦国武将山中幸盛の曾祖父。墓所・法号についても不詳である。.

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黒田斉隆

黒田 斉隆(くろだ なりたか)は、江戸時代後期の大名。筑前福岡藩第9代藩主。.

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黒田斉清

黒田 斉清(くろだ なりきよ)は、筑前福岡藩の第10代藩主。蘭癖大名のひとりとして知られる。.

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黒部亨

黒部 亨(くろべ とおる、1929年1月27日 - 2014年5月26日)は、日本の作家。 鳥取県生まれ。鳥取師範学校卒業。元明石市教育委員長。.

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黒木実利

黒木 実利(くろき さねとし、生没年不詳)は、戦国時代の武将。島津氏家臣。.

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黒手

絵本小夜時雨 黒手(くろて)は能登(現在の石川県)戸板村に現れたとされる妖怪。浅香山井による江戸時代の随筆『四不語録』6巻「黒手切り」(くろてぎり)に記述がある。.

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龍野藩

龍野藩(たつのはん)は、播磨国龍野周辺を領有した藩。藩庁は龍野城(現兵庫県たつの市)に置かれた。.

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辻密太郎

辻 密太郎(つじ みつたろう、1860年12月28日(万延元年11月17日) - 1945年(昭和20年)12月21日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活動した日本基督組合教会の牧師。.

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辻元すう庵

辻元 崧庵(つじもと すうあん、安永6年(1777年) - 安政4年3月6日(1857年3月31日))は、江戸時代末期の幕府医官。名は昌道、号は冬嶺(とうれい)、通称は崧庵(すうあん)。幕府医学館考証派の有力な儒医。.

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迦摩多

迦摩多(かまた、生没年不詳)は『日本書紀』などに伝わる古代朝鮮の間諜(スパイ)。.

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追手町

追手町(おうてまち、おうてちょう)は、日本の城郭の追手門付近にある地名である。.

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近代以前の日本の人口統計

近代以前の日本の人口統計は、先史時代、古代、中世の日本の人口調査および推定人口をまとめたものである。.

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近代以前の日本の都市人口統計

近代以前の日本の都市人口統計は、西南戦争前の日本の都市人口調査および推定人口をまとめたものである。.

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近代社格制度

近代社格制度(きんだいしゃかくせいど)とは、明治維新以降、『延喜式』に倣って、新たに神社を等級化した制度である。第二次世界大戦後に廃止されたが、今日でも「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされる。.

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近国

近国(きんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 律令制のもとで国家体制を整えていた古代の日本において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「近い位置にある国」が近国とされた(畿内の国は分類されない)。.

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近畿地方

近畿地方の地形図 近畿地方(きんきちほう)は、本州中西部に位置する日本の地域である。かつての畿内とその周辺地域から構成される。難波宮、平城宮、平安宮、以降東京遷都までの王城の地で、現在は関東地方に次ぐ日本第二の都市圏・経済圏であり、西日本の中核である。 近畿地方の範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・三重県・滋賀県・和歌山県の2府5県(7府県)を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.408 ISBN 4-09-523101-7。構成府県については範囲節も参照。.

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近衛忠嗣

近衞 忠嗣(このえ ただつぐ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。初名は良嗣(忠嗣への改名は関白任官直前の応永15年(1408年)3月)。.

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近衛兼嗣

近衞 兼嗣(このえ かねつぐ)は、日本の南北朝時代(北朝)の公卿。.

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近衛道嗣

近衛道嗣(このえ みちつぐ)は、日本の南北朝時代の公卿。.

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近衛道経

近衞 道經(このえ みちつね)は、日本の平安時代から鎌倉時代にかけての公卿。.

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近藤正純

近藤 正純(こんどう まさずみ、慶長9年(1604年) - 寛文2年1月2日(1662年2月20日))は、赤穂藩浅野家の家臣。甲州流軍学者の小幡景憲の弟子であり、北条氏長・富永勝由・梶定良とともに「小幡門四哲同学」の一人に数えられている。通称は三郎左衛門。 赤穂の花岳寺所蔵の「愛宕岩山縁起」によると、11歳の時に当時常陸真壁藩の大名だった浅野家に仕えたとされる。浅野家仕官は慶長18年(1613年)頃と推測されている。 正保2年(1645年)、浅野長直の時代に浅野家は播磨赤穂藩へ転封し、慶安元年(1648年)に幕府から築城の許可を得て、翌年から近藤の指揮の下、赤穂城の築城が開始された。承応2年(1653年)からは師の一人である山鹿素行も赤穂城築城に参加している。赤穂城は故に、山鹿流軍学の影響を受けているとされる。寛文元年(1661年)に城が完成し、翌年の寛文2年(1662年)に正純は死去した。享年59。 浅野家から支給されていた近藤家の1000石の家禄は養子の近藤正憲が継いた。正憲も甲州流兵学を受け継いで赤穂藩士に進講し、また藩の組頭などを勤めたが、長直の次の藩主である浅野長矩によって解任されている。 『忠臣蔵』で有名な赤穂藩首席家老大石良雄(大石内蔵助)は近藤正純から甲州流兵学を教授されたと伝えられているが、大石は万治2年(1659年)の生まれであるから年齢が合わない。このため、正純の養子の近藤正憲から教授を受けたものが誤伝したのであろうとする説がある。.

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近江宮川藩

近江宮川藩(おうみみやがわはん)は、近江国坂田郡宮川(現在の滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩。藩庁は宮川陣屋。.

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霞城

霞城(かすみじょう、かじょう)は日本の城。.

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霞町

霞町(かすみちょう)は、かつて東京都港区麻布にあった町である。.

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茨木城

茨木城(いばらきじょう)は大阪府茨木市にあった日本の城である。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。.

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茶臼山城 (播磨国)

茶臼山城(ちゃうすやまじょう)は、播磨国赤穂郡宝珠山(現在の兵庫県赤穂市坂越宝珠山)にあった日本の城(山城)である茶臼山城跡説明碑さこし歴史と自然の森 ウォーキングマップ。別名は茶臼山砦(ちゃうすやまとりで)。.

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蜂屋頼隆

蜂屋 頼隆(はちや よりたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。敦賀城主。.

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蜂須賀家政

蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。蜂須賀正勝の子。父の代わりに阿波国の大名に任じられて徳島藩祖となる。.

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蜂須賀正勝

蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の家祖。 初名は利政。通称は小六(ころく)もしくは小六郎(ころくろう)で、特に前者は広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名している。官位は従四位下修理大夫。.

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茅野常成

『義士四十七図 茅野和助常成』(尾形月耕画) 茅野 常成(かやの つねなり、寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は和助(わすけ)。.

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郡寺

郡寺論の端緒となったのは、1946年に発表された田中重久の「郡名寺院」論である 。郡名寺院とは、郡名で呼ばれる地方寺院のことである。その後、山中敏史は、郡衙の周辺に寺院が多数存在することに着目し、これらの寺院を考古学の見地から「評・郡衙周辺寺院」と呼んだ。また、櫻井真也は、日本史学の見地から「評・郡衙隣接寺院」と呼んだ。 こうした郡寺は各地の郡司層の関与のもとで造営されたと考えられるが、これらの寺院が公的な色彩を持っていたとする議論には批判もある。 郡寺の主要な諸説は以下のようなものがあるという。.

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郡山藩

郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.

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都道府県

都道府県(とどうふけん)は、日本の広域普通地方公共団体である「都」、「道」、「府」、「県」の総称である。現在では、都が東京都の1、道が北海道の1、府が京都府および大阪府の2、県が43で、「1都1道2府43県」、総数は「47都道府県」である。市町村とともに普通地方公共団体(ふつうちほうこうきょうだんたい)の一種で、包括的地方公共団体(ほうかつてきちほうこうきょうだんたい)、広域的地方公共団体(こういきてきちほうこうきょうだんたい)ともいう。.

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舞子六神社

舞子六神社(まいころくじんじゃ)は、兵庫県神戸市垂水区にある神社である。境内にある戎、大黒社の石像は日本一とされている。.

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鈴木練三郎

鈴木 練三郎(すずき れんざぶろう、嘉永元年(1848年) - 慶応4年8月21日(1868年10月6日))は、播磨国姫路出身の新選組隊士。歩兵差図役下役。 慶応3年(1867年)、新選組に入隊。局長近藤勇の側近を務める。 戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いを経て会津戦争に参戦。母成峠の戦いで戦死した。享年21。 Category:新選組隊士 Category:戊辰戦争で戦死した人物 Category:1848年生 Category:1868年没.

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鈴木重秀

鈴木 重秀(すずき しげひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての紀伊国の国人。雑賀党鈴木氏の一族で、鉄砲傭兵集団雑賀衆の有力者。通称は孫一(重秀本人の自著による)。.

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船坂峠

船坂峠.

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船尾昭直

船尾 昭直(ふなお あきなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。佐竹氏の家臣。.

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船岡山合戦

船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)は、永正8年(1511年)8月23日、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いである。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。.

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船上城

船上城(ふなげじょう)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市新明町)にあった日本の城で、明石川河口の西側、明石海峡に面した部分と明石川の湿地帯に築城された平城、水城でもある。.

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船越景直

船越 景直(ふなこし かげなお、天文9年(1540年) - 慶長16年3月10日(1611年4月22日))は、戦国時代から江戸時代初期の武将で江戸幕府の旗本。父は船越景綸。子に永景、北条氏盛室。通称は五郎右衛門。官途は左衛門尉。 船越氏は藤原氏の流れを汲んだ淡路の国人で、鎌倉時代より戦国時代まで三原郡倭文の庄田を中心に支配し、室町時代には細川氏の被官となって活動していた。 景直は初め淡路庄田城主として、細川氏の重臣だった三好長慶の弟、安宅冬康に水軍を従えて仕えた。後に三好氏が滅んだことから織田信長に帰属し、天正9年(1581年)には淡路を攻めた羽柴秀吉から本領安堵を受ける。本能寺の変の後も秀吉の直臣として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参陣。後に淡路から播磨明石郡へと移され、4000石を受けて弓組と鉄砲組を率いた。その後も秀吉の家臣として小田原征伐や文禄の役にも従軍している。 ところが、文禄4年(1595年)に秀次事件に関わって秀吉から勘気を蒙り、陸奥の南部信直に預けられる。秀吉の没後、徳川家康の求めから摂津や河内に所領をあてがわれて復し、関ヶ原の戦いには東軍に加わった。その功から大和宇智郡にも1,500石を加増され、6000石あまりを知行する江戸幕府の旗本に列す。翌年には、家康に請われて堀尾吉晴や猪子一時、大島光義らと共に関ヶ原の戦いの話に興じている。慶長16年(1611年)に死去。享年72。 景直は子の永景と共に茶人として知られ、古田織部、小堀遠州らに師事した。茶道具に用いられる織物、名物裂にある船越間道は景直が用いたことに由来する。 Category:戦国武将 Category:江戸幕府旗本 Category:1540年生 Category:1611年没.

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興良親王

興良親王(おきよししんのう / おきなが - 、嘉暦元年(1326年)? - 没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の王子。母は権大納言北畠師重の女(親房の妹)である。南朝から征夷大将軍に任じられ、大塔若宮・兵部卿若宮・宮将軍・赤松宮と号した。名は陸良とも。 名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子名の読みを参照。.

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阪神地区公共図書館協議会

阪神地区公共図書館協議会(はんしんちくこうきょうとしょかんきょうぎかい)は日本の兵庫県南東部、阪神間(大阪市と神戸市の間)に位置する自治体の公立図書館で構成される連携組織。この協議会での連携により、他市町立図書館と図書館資料の相互貸借や広域利用が実施されている。.

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防長三白

防長三白(ぼうちょうさんぱく)とは、江戸時代に長州藩(萩藩)が主な産物として、生産を奨励した米・紙・塩のこと。いずれも白いことからこのように呼ばれた。また、これらの生産を奨励した殖産政策は三白政策と呼ばれる。さらに、後代には蝋も加えて防長四白(ぼうちょうしはく)・四白政策とされる。.

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阿仏尼

阿仏尼(あぶつに、阿佛尼, 貞応元年(1222年)? - 弘安6年4月8日(1283年5月6日))は鎌倉時代中期の女流歌人。女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)。実父母は不明。奥山度繁(おくやまのりしげ)の養女となる(ただし奥山度繁の養女ではなく実の娘であるとする見解もある)。.

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阿知使主

阿知使主(あちのおみ、3世紀 - 4世紀頃、または5世紀前半朝日日本歴史人物事典、kotobank「'阿知使主」鈴木靖民筆)は、応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる。 阿智使主、阿知王、阿知吉師ともいう。.

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阿部正由

阿部 正由(あべ まさよし)は、江戸時代中期から後期の大名。武蔵忍藩第8代藩主。寺社奉行、大坂城代、京都所司代。忠秋系阿部家8代。紀州藩主徳川宗将の子で、はじめは松平頼朴(よりなお)と名乗った。.

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阿部正能

阿部 正能(あべ まさよし、寛永4年(1627年) - 貞享2年4月13日(1685年5月15日))は、江戸時代前期の老中。上総国大多喜藩主、武蔵国忍藩主。忠秋系阿部家2代。官位は従四位下、播磨守。.

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阿部正耆

阿部 正耆(あべ まさひさ)は、江戸時代後期の大名。陸奥白河藩の第6代藩主。忠秋系阿部家14代。 文政10年(1827年)10月24日、備後福山藩主・阿部正寧の兄・阿部正粹の次男として生まれる。嘉永元年(1848年)に先代藩主・阿部正定が若死にしたため、養子となってその跡を継いだ。嘉永2年(1849年)6月に奏者番となるが、文久の改革で奏者番制度が廃止されたため、文久3年(1863年)4月から江戸、5月には大坂、8月には京都守護職となった松平容保の補佐として、それぞれ警備を務めるなど、佐幕派として行動した。しかし同年12月に病に倒れ、翌元治元年(1864年)3月2日に死去した。享年38。 次男の正功は幼少だったため、養子の正外が跡を継いだ。 Category:白河藩主 Category:譜代大名 Category:幕末の大名 まさひさ Category:備後福山藩の人物 Category:1827年生 Category:1864年没.

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阿部正桓

阿部 正桓(あべ まさたけ、嘉永4年12月29日(1852年1月20日) - 大正3年(1914年)8月19日)は、備後福山藩の第10代(最後の)藩主。阿部家宗家14代。 浅野懋昭(安芸広島藩主・浅野重晟の孫)の三男。官位は従二位、爵位は伯爵。.

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阿閉貞征

阿閉 貞征(あつじ さだゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏、織田氏の家臣。近江国山本山城主。.

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阿波藍

阿波藍(あわあい)は、徳島県(阿波国)で行なわれる藍染め、またはその材料となるタデアイ(アイ)や、すくも(藍玉)。徳島藩の保護奨励策によって隆盛し、日本の藍染め市場を席巻した。明治後期以降、輸入品に押されて衰退した。.

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阿曇百足

阿曇 百足(あずみ の ももたり、生没年不詳)は『風土記』に伝わる古代日本の豪族。『記紀』には彼に関する記載は存在しない。姓は連。.

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蘇我馬子

各人物記事へのリンク表示) 蘇我 馬子(そが の うまこ)名に「子」の字が付くが男性である(当時は「子」が男女問わず用いられた)。子 (人名)を参照のこと。は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。.

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赤埴重賢

『義士四十七図 赤垣源蔵重賢』(尾形月耕図) 赤埴 重賢(あかばね/あかはに しげかた、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は源蔵(げんぞう)。後年語られる「忠臣蔵」の物語の中では「赤垣源蔵」(あかがき げんぞう)の名でも呼ばれる。.

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赤井家清

赤井 家清(あかい いえきよ)は、戦国時代の武将。.

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赤井忠家

赤井 忠家(あかい ただいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。.

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赤穂市

赤穂市(あこうし)は、兵庫県の南西部、岡山県との県境に位置する市。瀬戸内海国立公園の一部を成す。西播磨県民局の管轄。旧赤穂郡。.

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赤穂事件

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。 この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。 なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。.

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赤穂事件の人物一覧

赤穂事件の人物一覧(あこうじけんのじんぶついちらん)では、赤穂浪士(あこうろうし)をはじめとした、赤穂事件に関連する人物に関して記載する。.

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赤穂御崎温泉

赤穂御崎温泉(あこうみさきおんせん)は、兵庫県赤穂市(旧国播磨国)にある温泉。 近年では赤穂温泉と呼ばれることが多い。名湯百選。.

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赤穂郡

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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赤穂鉄道

| 赤穂鉄道(あこうてつどう)は、かつて国鉄山陽本線の有年駅から播州赤穂駅(現在の播州赤穂駅とは別駅)間の鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。 本項では、主に運営していた鉄道路線について記述する。.

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鵤荘

荘(いかるがのしょう)は播磨国揖保郡に存在した荘園。現在の兵庫県太子町・姫路市・たつの市付近にあった。法隆寺創建時からの同寺の所領とされ、荘名も法隆寺があった大和国の斑鳩に由来している。.

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赤松則尚

赤松 則尚(あかまつ のりなお(のりひさ))は、室町時代中期の武将。父は赤松祐尚(祐之)。嘉吉の乱の首謀者である赤松満祐は伯父に当たる。.

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赤松則祐

赤松 則祐(あかまつ のりすけ/そくゆう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。室町幕府禅律方、播磨国・備前国・摂津国守護。赤松氏6代当主。.

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赤松則繁

赤松 則繁(あかまつ のりしげ)は、室町時代中期の武将。赤松満祐の実弟。.

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赤松則村

赤松 則村(あかまつ のりむら)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。.

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赤松則房

赤松 則房(あかまつ のりふさ)は、戦国時代から安土桃山時代かけての武将。赤松氏13代当主。.

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赤松祐高

赤松 祐高(あかまつ すけたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。.

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赤松範資

赤松 範資(あかまつ のりすけ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。摂津国・播磨国守護。赤松氏5代当主。.

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赤松義則

赤松 義則(あかまつ よしのり)は、室町時代前期の守護大名。赤松則祐の嫡男で、赤松満祐の父。.

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赤松義祐

義祐の戒名が刻まれた墓石 赤松家菩提寺松安寺(廃寺)に残る赤松義祐の墓 赤松 義祐(あかまつ よしすけ)は、播磨国の戦国大名。赤松氏の第12代当主。播磨置塩城城主。赤松晴政の嫡男として生まれる。元服に際して、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝より偏諱(「義」の1字)を受け、父・晴政の初名「政祐」の1字と合わせて義祐と名乗る。.

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赤松義雅

赤松 義雅(あかまつ よしまさ)は、室町時代中期の武将。赤松満祐の実弟。.

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赤松義村

赤松 義村(あかまつ よしむら)は戦国時代前期(室町時代後期)の播磨の守護大名・戦国大名。赤松家の第10代当主(当主在職:明応4年(1496年)4月 - 永正17年(1520年))。 播磨・備前・美作の3国を支配した戦国大名で、赤松家中興の第9代当主・赤松政則の婿養子に当たる。義村の家系は第5代当主・範資から始まる七条家の家系で、義村は範資の6代孫に当たる。父は七条政資(まさすけ)で、以後の赤松宗家は江戸時代直前に滅亡するまで義村の家系が家督を相続した。 義村は政則の代から行われていた赤松家の戦国大名化をさらに推し進めるべく大名権力の強化を図ったが、守護代の浦上村宗がそれに反発して対立。播磨など赤松領で内紛となる。義村は村宗に敗れ、家督を嫡子の才松丸(のちの晴政)に譲って隠居したが、復権を図って再度村宗と対立したため、村宗により暗殺されて赤松家は没落した。.

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赤松町 (神戸市)

赤松町(あかまつちょう)は神戸市灘区の町名の一つで、昭和7年(1932年)9月に八幡字岨・勘太郎・西ノ川・山田、高羽字楠岡を併せて成立した。神戸大学南の住宅地である。一~三丁目まである。 北は六甲台町、東は寺口町、南は曽和町、東は篠原北町。郵便番号657-0061。 平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)における世帯数は276、人口599で内男性290人・女性309人。.

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赤松直頼

赤松 直頼(あかまつ なおより)は、南北朝時代の武将。 赤松範資の子として生まれ、叔父・則祐の猶子となる。足利尊氏に臣従し、その弟・足利直義より偏諱(「直」の1字)を賜ったようであるが、尊氏・直義兄弟が対立して観応の擾乱が起こると、父と共に尊氏派に与した。正平6年/観応2年(1351年)2月に摂津兵庫で足利直義軍と戦うも敗れた。4月に父が急死したため、以後は叔父の則祐に従った。正平10年/文和4年(1355年)2月の摂津神南の合戦では尊氏の嫡男・足利義詮に与し、その庶兄で直義の養子である足利直冬と戦う。正平14年/延文4年(1359年)12月、足利義詮に従い南朝方の尼崎を攻め、正平16年/康安元年(1361年)に山名時氏が播磨に攻め込んだときには叔父の則祐ら一族と共に山名軍を撃退。正平17年/康安2年(1362年)11月に時氏が播磨に侵攻したときも撃退した。.

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赤松貞範

赤松 貞範(あかまつ さだのり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美作国守護。.

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赤松村秀

赤松 村秀(あかまつ むらひで)は、戦国時代の武将。播磨国龍野鶏籠山城主である。 出自に関しては2通りの説がある。まず1つ目は明応2年(1493年)、播磨の守護大名である赤松政則の子として生まれるが、庶子であったために一族の支持を得られず家督相続することができなかったため、赤松家は娘婿の赤松義村が継ぐこととなり、塩屋城主・宇野政秀の養子となり、後に政秀が龍野城を築城すると、その城主となったという物である。尚、義村からは偏諱(「村」の字)を賜っている。 2つ目は政則の子ではなく、龍野赤松氏の赤松則貞の実の孫であるという説で大永5年(1525年)には祖父の則貞を自ら龍野城内で殺害して龍野赤松氏を継承したという。 村秀は、赤松本家の補佐に努め、小寺氏や宇野氏と協力し浦上氏との抗争に貢献し、天文9年(1540年)に死去。享年48。跡を子の赤松政秀が継いだ。.

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赤松正満

赤松 正満(あかまつ まさみつ)は、戦国時代の武将。播磨国鞍掛山城主。 赤松政元の長男として誕生。播磨鞍掛山城を築城したと思われる(金鑵城主・中村正満と同一人物という説もある)。 早くから弟・政範が家督を継いでいたために、架空の人物とする説や弘治から永禄年間の間に死亡したとする説もある。 まさみつ Category:戦国武将 Category:播磨国の人物 Category:生没年不詳.

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赤松正澄

赤松 正澄(あかまつ まさずみ)は、安土桃山時代の武将。播磨国丸山城主。.

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赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

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赤松氏範

赤松 氏範(あかまつ うじのり)は、南北朝時代の武将。.

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赤松満則

赤松 満則(あかまつ みつのり)は、室町時代前期の武将。赤松大河内流の祖。 赤松則祐の子で義則の実弟。元中8年/明徳2年12月30日、明徳の乱で山名氏清と山名満幸が京都に攻め込んできた際、兄と共に二条猪熊において奮戦して山名軍に勝利するも、自身は戦死した。享年26。 兄は弟の奮戦に感謝し、幼い遺児の満政を引き取って養育した。また将軍・足利義満も満則の奮戦を大として摂津中島郡をその勲功に報いて義則に与えた。なお、満則は父より播磨大河内庄を所領として与えられていたため、彼の系統は赤松大河内家として続き、嘉吉の乱ののちに満政が惣領家になっている。.

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赤松満祐

赤松 満祐(あかまつ みつすけ/まんゆう)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。.

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赤松満直

赤松 満直(あかまつ みつなお)は、室町時代中期の武将。 赤松満政の子。赤松系図では赤松教政の弟とされる。嘉吉3年(1443年)6月に管領の畠山持国より赤松家惣領に任命された。しかし播磨は嘉吉の乱で山名宗全の領国となっていたため、その播磨を奪回するため父と共に京都から播磨へ下向した。 しかし宗全も但馬に下向して赤松・山名は東播磨で合戦に及んだ。しかし文安2年(1445年)1月20日に山名軍に敗れて父と共に一族の有馬持家を頼って落ち延びた。だが持家は丹波守護の細川勝元に大敗。保身のため持家は満政と満直らの殺害を決意し、親子は家臣124名ほどと共に4月24日に暗殺されて晒し首にされた。.

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赤松満政

赤松 満政(あかまつ みつまさ)は、室町時代の武将。室町幕府6代将軍足利義教の近習として権勢を振るった。播磨・備前・美作守護で赤松氏惣領であった赤松満祐と分家の有馬氏出身の有馬持家は従兄弟にあたる。.

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赤松滄洲

赤松 滄洲(あかまつ そうしゅう、享保6年(1721年) - 寛政13年1月8日(1801年2月20日))は、江戸時代中期の儒学者。名は鴻、字は国鸞。沿洲・静思翁と号す。通称は大川良平。父は舟曳通益。.

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赤松持貞

赤松 持貞(あかまつ もちさだ)は、室町時代前期の武士。赤松氏庶流・春日部家3代当主。足利将軍家の近習。.

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赤松朝範

赤松 朝範(あかまつ とものり)は、南北朝時代の武将。 父は赤松範資。ただし『太平記』では範資の弟・則祐が父とされている。観応の擾乱や南北朝の動乱では一貫して祖父の赤松則村や父、叔父らと共に足利尊氏に従い、正平6年/観応2年(1351年)2月には則祐と共に高師直に従い、播磨光明寺にいた足利直義に与する石堂頼房を攻めた。文和4年/正平10年(1355年)には足利義詮に従って南朝の足利直冬や山名時氏らと摂津神南で戦った。朝範は武勇の士で、神南合戦では敗戦が濃厚だったが敵将の山名師氏を狙って突進して敵軍を蹴散らした。このとき自らも重傷を負ったが九死に一生を得たという。.

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赤松政之

赤松 政之(あかまつ まさゆき)は、安土桃山時代の武将。赤松政元の五男という。 天正5年(1577年)、羽柴秀吉が播磨国上月城に攻め寄せた時、兄・政範に味方した。落城寸前の時、密かに兄達の遺児を引き連れて落ち延び隠棲、山下影五郎と変名し、織田家を討とうとしたという。その後、宇喜多直家に仕えるも、死後は浪人となる。 再び織田家打倒を目論み、播磨で挙兵を図ろうとするも本能寺の変が起こり状況は一変。仇敵・羽柴秀吉につき、山崎の戦いに出陣する。しかし、その直後重病で死去したという。またはそのまま生きながらえたともいわれる。なお、実在の人物かは不明である。 まさゆき Category:戦国武将 Category:播磨国の人物 Category:日本の伝説の人物 Category:生没年不詳.

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赤松政元

赤松 政元(あかまつ まさもと)は、戦国時代の武将。赤松氏の御一家衆七条殿の当主。播磨国上月城主。.

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赤松政則

赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。.

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赤松政秀

赤松 政秀(あかまつ まさひで)は、戦国時代の武将。播磨国龍野城主。祖父と同様、宇野下野守とも称される。.

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赤松政範

赤松 政範(あかまつ まさのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。七条赤松氏。播磨国上月城主。 赤松政元の次男として誕生。父同様、西播磨殿と呼ばれており、武勇も優れていた。思慮分別もある城主ではあったが、物静かな一面も持っていたという。毛利家と織田家との去就に数年かかるほど、先見の明を持ち家臣のことに思いやりを持つ責任感ある武将であると同時に、優柔不断なところもあった。 天正5年(1577年)、羽柴秀吉が約3万の兵で上月城を攻めた時、宇喜多直家の舎弟で沼城主の宇喜多広維の援軍3千と赤松家本隊7千、合計1万の兵で迎え撃った。しかし、織田軍の猛攻凄まじく敗色濃厚となり、先に妻を刺殺し一族郎党と共に自害した。このとき政範に殉じた将士は高島正澄、早瀬正義、宇喜多広維、国府寺入道、中村伊勢入道らであった。 一説に、介錯する家臣に、「わしの首を持って織田方に降伏致せ。されど、筑前(秀吉)殿が降伏を許さないならば、謀略をもって即刻首を討つべし」と言ったという。降将らは政範の首を持参して秀吉及び黒田官兵衛に助命を乞うたが、秀吉軍はこれを拒否し、官兵衛の命により籠城方は皆殺しにされたと伝わる。 まさのり Category:戦国武将 Category:播磨国の人物 Category:切腹した人物 Category:生年不明 Category:1578年没.

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赤松政直

赤松 政直(あかまつ まさなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。播磨国早瀬城主。 赤松政元の三男として誕生。 天正5年(1577年)、羽柴秀吉が播磨上月城に攻め寄せた時、兄・政範に味方した。評定時に「上月城で籠城し、たとえ勝利しても兵力の損害が大きく(次に攻められた時には)不利になり我が家は滅亡してしまうのが明白である。姫路まで進軍し、秀吉軍と決戦を臨むべきであると思う。そうすれば、東播磨の諸友たちも加勢して局面は新たな方向に向かうだろう」と籠城策よりも姫路まで打って出ての野戦を主張した。織田軍に敗北後、兄・政範ら一族と共に自害した。一説には城を脱出し、行方不明になったともいわれている。.

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赤松政茂

赤松 政茂(あかまつ まさしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。と表記されることもある。播磨国佐用城主。 赤松政元の四男として誕生。 天正5年(1577年)、織田氏家臣羽柴秀吉が播磨上月城に攻め寄せた際、上月城主である次兄・政範に味方するも織田軍に敗北。政範らと共に自害、または討死した。 まさしけ Category:戦国武将 Category:播磨国の人物 Category:安土桃山時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1578年没.

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赤松教康

赤松 教康(あかまつ のりやす)は、室町時代中期の武将。嘉吉の乱で有名な赤松満祐の子。.

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赤松教政

赤松 教政(あかまつ のりまさ)は、室町時代中期の武将。 赤松満政の子。赤松系図では嘉吉の乱ののちに赤松家惣領に任命された満直の兄とされているが、弟とする説もある。嘉吉3年(1443年)7月28日、赤松家残党に奉じられて山名宗全の守護国となっていた播磨で挙兵したが、宗全により討伐された。教政は摂津に逃亡して自殺した。 ただし、父の満政と共に殺害されたともされている。.

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赤松晴政

赤松 晴政(あかまつ はるまさ)は、日本の戦国時代の武将、大名。赤松氏の第11代当主。赤松義村の子。播磨・備前・美作の守護。播磨置塩城城主。 幼名は才松丸。通称は次郎。初名は政村(まさむら)、次いで政祐(まさすけ)と改名。本項目では便宜上「晴政」で統一表記する。従五位下左京大夫。生年には明応4年(1495年)説もある。.

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鵜崎庚午郎

崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(1870年4月17日) - 昭和5年(1930年)4月3日)は明治時代から昭和時代前期の日本の牧師である。 1870年に播磨国(現・兵庫県)に生まれる。1887年、アメリカ南メソヂスト監督教会宣教師のウォルター・R・ランバスから洗礼をうける。献身して関西学院に入学してJ.C.C.ニュートン宣教師に育てられる。メソジストの神戸・広島・大阪・京都で伝道をする。日本人で初めて日本メソジスト監督教会の監督に就任する。 第三高等学校教授、関西学院教授になり、1912年に日本メソジスト教会機関誌「護教」主筆。1914年には長崎鎮西学院の院長に就任して。1920年に日本メソジスト教会の第3代監督となった。1930年に死去するまで監督を務めた。.

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関口氏暁

関口 氏暁(せきぐち うじとき''関口氏暁''、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年7月24日閲覧。、1640年 - 1729年12月2日/享保14年10月12日)は、江戸時代前・中期の日本の武士、柔術家である。関口新心流四代目宗家。通称は関口 弥太郎(せきぐち やたろう)、号は蟻楼(ぎろう)、関口新心流、2012年7月24日閲覧。。「氏暁」の読みは「うじあき」とも。「剣の達人」として知られた。実在の人物であるが、講談や映画などにも取り上げられ、経歴についての異説や、史実とは異なる描写も多く流布されている。.

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関ヶ原の戦いの戦後処理

関ヶ原の戦いの戦後処理(せきがはらのたたかいのせんごしょり)では、1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いの後の、東軍・徳川家康方に加担した武将の論功行賞と、西軍・石田三成方へ加担した武将への戦後処理についてまとめた。 各武将の動向は主に『戦国人名辞典』『日本史総覧』に典拠するものである。また、表は五十音順である。.

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関西テレビ放送

関西テレビ放送株式会社(かんさいテレビほうそう、Kansai Telecasting Corporation)は、近畿広域圏を放送対象地域とするテレビジョン放送の特定地上基幹放送事業者であり、扇町スクエアと扇町公園を業務区域とするエリア放送の地上一般放送事業者でもある。 通称は関西テレビ、略称はそれを縮めてKTV(Kansai TV)。愛称はかつての日本語略称「関テレ」をカタカナ表記にした『カンテレ』。コールサインはJODX-DTV(大阪 17ch)。 フジテレビ系列(FNN・FNS)の準キー局で、リモコンキーIDはキー局のフジテレビ共々アナログ放送の親局8chから「8」である。 フジ・メディア・ホールディングスと阪急阪神ホールディングスの持分法適用会社であり、阪急阪神東宝グループ及びフジ・メディア・ホールディングスの放送グループに属しているが、フジサンケイグループには属していない。 コーポレート・スローガンは「超えろ。カンテレ」。ステーション・キャッチコピーは「8ppy(ハッピー)!?カンテレ」。.

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関西独立リーグ

関西独立リーグ(かんさい どくりつ リーグ)は、かつて日本の近畿地方(関西)を活動地域としていたプロ野球独立リーグ。2009年発足。2010年よりKANDOK(カンドク)という愛称が付けられていた。 2013年シーズンをもって事実上活動を停止した。リーグ発足当時は株式会社による運営であったが、初年度での運営会社の変更を経て、2011年以降は特定非営利活動法人(NPO)「和歌山野球振興協会・夢クラブ」が運営母体であった。.

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関長道

関 長道(せき ながみち)は、備中国新見藩の第8代藩主。新見藩関家9代。 文化12年(1815年)1月15日、第5代藩主・関長誠の次男である播磨国三日月藩主・森長義の次男(四男との説もある)として生まれる。幼名は亀寿。通称は主計。 天保9年(1838年)8月16日、第7代藩主・成煥の養子となる。天保11年10月1日、将軍徳川家慶に拝謁する。天保12年(1841年)閏1月20日、養父成煥の隠居により、家督を継いだ。天保13年10月29日、従五位下備前守に叙任する。 藩政に見るところはないが、家庭的に不幸だった。長男千菊ら4人いた男児はいずれも早世したため、先代・成煥の甥にあたる一門の長克に長女の亭以を娶わせることで跡継ぎとした。 安政5年(1858年)8月13日に死去した。享年44。跡を婿養子の長克が継いだ。 なかみち なかみち *08 Category:幕末の大名 Category:1815年生 Category:1858年没.

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関成煥

関 成煥(せき しげあきら)は、備中国新見藩の第7代藩主。新見藩関家8代。 寛政10年(1798年)10月18日、第6代藩主・関長輝の長男として生まれる(次男との説もある)。文化11年(1814年)2月28日、将軍徳川家斉に拝謁する。文政2年(1819年)11月21日、父長輝の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下備前守に叙任する。 天保7年(1836年)7月5日、次男長発が早世する。そのため、播磨国三日月藩から従弟の長道を養子に迎えた。天保12年(1841年)閏1月20日、隠居し、養子長道に家督を譲った。その後は東翁と名乗って俳諧の研究に専念したといわれている。安政2年(1855年)11月21日に死去した。享年58。 しけあきら *07 Category:1798年生 Category:1855年没.

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関政富

関 政富(せき まさとみ)は、備中新見藩の第3代藩主。新見藩関家4代。 公式には第2代藩主・関長広の長男となっているが、初代藩主・関長治の子とも言われており、定かではない。生年も享保8年(1723年)3月22日といわれているが、享保3年(1718年)生まれとも言われており、これも定かではない。 享保17年(1732年)、長広の死去により家督を継いだ。長広は病弱の上に暗愚であったため、藩政を混乱させたが、この政富は英邁で、自ら藩政を執った。そして藩校・思誠館を創設して庶民にも文武を奨励し、あるいは学資を補助するほどであった。また刑罰制度の整備を行なうなど、この治世期に新見藩は小藩ながら有能な人材を多く輩出し、全盛期を迎えた。政富自身も文化的に優れた人物であった。 宝暦10年(1760年)6月4日に死去した。享年38。跡を次男・政辰が継いだ。 まさとみ *03 Category:1723年生 Category:1760年没.

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間光興

『義士四十七図 間光興十次郎』(尾形月耕画) 間 光興(はざま みつおき、延宝6年(1678年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十次郎もしくは重次郎(じゅうじろう)。.

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門部王 (天武天皇裔)

部王(かどべおう、生没年不詳)は、奈良時代の皇族。太政大臣・高市皇子の子。官位は従四位上・治部卿。.

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藍村

藍村(あいむら)は、兵庫県有馬郡に存在した村。.

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藤原基経

藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。.

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藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.

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藤原定能

藤原 定能(ふじわら の さだよし)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家道綱流、藤原季行の次男。官位は正二位・権大納言。樋口または二条と号す。琵琶で名高い。また、孫の資季は『徒然草』第135段での登場で知られる。.

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藤原家成

藤原 家成(ふじわら の いえなり)は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。.

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藤原仲実

藤原 仲実(ふじわら の なかざね、康平7年(1064年) - 保安2年12月23日(1122年2月1日))は、平安時代後期の公卿。大納言藤原実季の三男。桟敷または高松を号す。官位は正二位・権大納言。.

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藤原伊周

藤原 伊周(ふじわらの これちか)は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。.

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藤原俊成女

皇太后宮大夫俊成女 - 嘉永四年版女百人一首 藤原俊成女(ふじわら-の-としなり/しゅんぜい-の-むすめ、生没年不詳:1171年(承安元年)頃 - 1251年(建長3年)以後)は、鎌倉時代前期の歌人である。新三十六歌仙及び女房三十六歌仙の一人。実父は藤原北家末茂流(善勝寺流)出身の尾張守藤原盛頼。実母は藤原俊成の娘、八条院三条。祖父俊成の養女となった。堀川大納言源通具の妻。皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍、後には侍従具定母、三位侍従母、晩年出家してからは嵯峨禅尼、越部禅尼と呼ばれた。また、藤原定家の明月記においては、後鳥羽院出仕以降出家までは、俊成女の住んだ押小路万里小路宅から押小路女房と記されている。.

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藤原忠隆

藤原 忠隆(ふじわら の ただたか)は、平安時代後期の公卿。藤原基隆(藤原家範の子、師家の孫)の長男。.

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藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.

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藤原園人

藤原 園人(ふじわら の そのひと)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈正一位・左大臣。前山科大臣(さきのやましなのおとど)とも称された。.

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藤原公房 (小野宮流)

藤原公房(ふじわら の きみふさ)は、日本の平安時代中期から後期にかけての公卿。.

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藤原純友

藤原 純友(ふじわら の すみとも)は、平安時代中期の貴族・海賊。藤原北家、右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐・藤原良範の三男。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下実際に、天慶3年(940年)2月、反乱を起こした純友を懐柔するために、朝廷は純友を従五位下に叙したとされる。・伊予掾。 瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。.

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藤原経季

藤原 経季(ふじわら の つねすえ)は平安時代中期から後期にかけての公卿。権中納言・藤原経通の次男。.

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藤原経家 (権中納言)

藤原経家(ふじわら の つねいえ)は、日本の平安時代の公卿。.

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藤原経輔

藤原 経輔(ふじわら の つねすけ)は、平安時代中期から後期の公卿。中納言・藤原隆家の次男。.

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藤原経通

藤原 経通(ふじわら の つねみち)は、平安時代の公卿。藤原懐平の長男。土御門帥と号す。.

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藤原為輔

藤原 為輔(ふじわら の ためすけ)は平安時代中期の公卿。右大臣・藤原定方の孫で、左兵衛督・藤原朝頼の長男。甘露寺中納言『公卿補任』または松崎帥と号す。.

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藤原為時

藤原 為時(ふじわら の ためとき)は平安時代中期、一条朝の貴族、歌人、漢詩人。藤原北家良門流、中納言・藤原兼輔の孫で、刑部大輔・藤原雅正の三男。紫式部の父。官位は正五位下・左少弁。.

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藤原盛兼

藤原 盛兼(ふじわら の もりかね、建久2年(1191年) - 寛元3年1月5日(1245年2月3日))は、鎌倉時代の公卿。父は藤原盛能、母は藤原季佐の娘。.

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藤原盛重

藤原 盛重(ふじわら の もりしげ、生没不詳)は、平安時代後期の武士。藤原北家良門流。藤原国仲(平国仲)の子。兄弟に盛仲、定重、隆仲、国盛、念尊らがあり、子に盛俊、盛道、盛賢、盛宗、盛成、盛綱、盛景、重舜などがある。従五位上、検非違使。相模守、信濃守。近藤右衛門尉と号す。 周防国の出身で幼名を今犬丸(あるいは千寿丸)といい、初め東大寺に侍童として仕えていたが、白河院が南都御幸の際にその眉目秀麗なるを見初め、寵童(男色相手)として召し出したという。以後白河院に近侍し、元服して後は高階経敏に家人として仕える。北面武士としては寛治2年(1088年)『白河上皇高野御幸記』にその名が見え、『中右記』では康和4年(1102年)4月25日以降、検非違使在職が確認できる。 嘉承3年(1108年)には、藤原佐実が源仲政との乱闘の末に髻を切られるという事件に際し、白河院の意を受けた摂政藤原忠実の命により、犯人を逮捕して名を挙げた。永久元年(1113年)、いわゆる「永久の強訴」に当たっては、平正盛、平忠盛、源為義、源光国らとともに興福寺大衆の鎮圧に派遣され、また同年、いわゆる「永久の変」に当たっては、鳥羽天皇呪詛の罪状を得た醍醐寺の僧仁寛の逮捕にも当たっている。この功績により、検非違使尉の地位を嫡男の盛道に譲ることを許されている。.

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藤原登任

藤原 登任(ふじわら の なりとう、永延元年(987年) - 没年不詳)は、平安時代の貴族。藤原南家真作流、常陸守・藤原師長の子。官位は従四位下・大和守。.

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藤原隆信

藤原 隆信(ふじわら の たかのぶ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族・歌人・画家。藤原北家長良流、長門守・藤原為経(寂超)の子。官位は正四位下・左京権大夫。母・美福門院加賀の再婚相手である藤原俊成に育てられる(歌人・藤原定家は異父弟にあたる)。.

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藤原道明

藤原 道明(ふじわら の みちあき、斉衡3年(856年) - 延喜20年6月17日(920年7月5日))は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原南家、相模介・藤原保蔭の長男。官位は正三位・大納言。字は藤階。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原行成

藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.

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藤原顕隆

藤原 顕隆(ふじわら の あきたか)は、平安時代末期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)。参議・藤原為房の次男。葉室家の祖。正三位・権中納言。葉室中納言と号す。.

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藤原高藤

藤原 高藤(ふじわら の たかふじ)は、平安時代前期の公家。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の孫。内舎人・藤原良門の次男。官位は正三位・内大臣、贈正一位・太政大臣。小一条内大臣、勧修寺内大臣と号した。.

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藤原邦綱

藤原 邦綱(ふじわら の くにつな)は、平安時代後期の公卿。右馬権助・藤原盛国の子。官位は正二位・権大納言。五条大納言と号す。.

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藤原量子

藤原 量子(ふじわら の かずこ、応安2年/正平24年(1369年) - 応永13年5月15日(1406年6月1日)は、室町時代前期の女性。室町幕府第3代将軍・足利義満の側室。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの叔母 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.239。.

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藤原長実

藤原 長実(ふじわら の ながざね)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、修理大夫・藤原顕季の長男。官位は正三位・権中納言、贈正一位・左大臣。八条を号した。.

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藤原長房

藤原長房(ふじわら の ながふさ)は、日本の平安時代の公卿。.

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藤原良基

藤原良基(ふじわら の よしもと)は、日本の平安時代中期から後期にかけての公卿。.

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藤原泰憲

藤原 泰憲(ふじわら の やすのり)は、日本の平安時代の公卿。.

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藤原朝忠

藤原 朝忠(ふじわら の あさただ、延喜10年(910年) - 康保3年12月2日(967年1月15日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、三条右大臣・藤原定方の五男。三十六歌仙の一人。官位は従三位・中納言。土御門中納言または堤中納言と号する。小倉百人一首では中納言朝忠。.

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藤原朝隆

藤原 朝隆(ふじわら の ともたか)は、平安時代末期の公卿。参議・藤原為房の六男。冷泉中納言と号す。.

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藤原惺窩

藤原惺窩像( 『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』より) 藤原 惺窩(ふじわら せいか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原および籐(とう)を公称した。.

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藤原文脩

藤原 文脩(ふじわら の ふみなが)は、平安時代中期の軍事貴族。名は文條(文条)、文修とも。鎮守府将軍・藤原千常の子。藤原秀郷の孫。佐藤氏・小山氏・足利氏を始めとする秀郷流藤原氏の祖系に属する人物の一人。.

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藤原懐平

藤原 懐平(ふじわら の かねひら)は、平安時代中期の公卿。参議・藤原斉敏の三男。.

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藤井高雅

藤井 高雅(ふじい たかつね)は幕末の備中国吉備津宮祠官、国学者、歌人、海防論者。大坂湾防衛のため紀淡海峡を塞ぐ大暗礁の建設を唱え、各方面に働きかけたが、幕府と通じて詐欺を働いていると誤解され、尊王攘夷派に暗殺された。.

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藤井茂太

藤井 茂太(ふじい しげた、万延元年 9月21日(1860年11月3日) - 昭和20年(1945年)1月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。.

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藤井松平家

藤井松平家(ふじいまつだいらけ)は、松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。十八松平のひとつ。.

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藩札

備後福山藩が享保15年に発行した藩札。額面は銀1匁、発行元の「濱口屋」の名称も見える。 藩札(はんさつ)は、江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣である。.

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鑓場の戦い

鑓場の戦い(やりばのたたかい)は、戦国時代に阿波国の名東郡黒田鑓場における三好実休と久米義広の戦闘。 鑓場の合戦『徳島市史』1巻ともいい、久米義広らによる細川持隆の仇討ちという側面から鑓場の義戦、あるいは三好氏に対する久米義広らの反乱という意味で久米の乱とも記される。.

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蒲田神社 (大阪市)

蒲田神社(かまたじんじゃ)は大阪市淀川区東三国に鎮座する神社。.

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股野琢

股野 琢(またの たく、天保9年8月21日(1838年10月9日) – 大正10年(1921年)10月13日)は、日本の宮内官僚。漢学者。字は子玉、号は藍田。.

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那須資親

那須 資親(なす すけちか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。那須氏(上那須家)15代当主。 那須氏13代当主・那須氏資の子として誕生。 下野国の大半及び常陸国の一部を領している戦国大名・下野宇都宮氏17代当主・宇都宮成綱と婚姻関係を結び、また陸奥国南部の白河結城氏8代当主・結城政朝(義永)の次男・資永を養子に迎え、後継者とすることで上那須家の地位の安泰化を図った。 しかし、晩年に実子・山田資久が誕生したことを契機に後継者争いが勃発、資親の死後まもなく上那須家は断絶、滅亡することになる。.

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那波活所

那波 活所(なば かっしょ、文禄4年(1595年) - 正保5年1月3日(1648年1月27日))は、江戸時代初期の儒学者。名は信吉・方・觚。字は道円。通称は平八。 播磨国姫路の豪農の家に生まれ、儒学と医術とを学んだ後、京都に出て藤原惺窩に師事した。林羅山・松永尺五・堀杏庵とともに「惺窩門四天王」の一人と称される。1623年(元和9年)肥後国熊本藩主加藤忠広に仕え、1635年(寛永12年)から紀伊国和歌山藩主徳川頼宣に儒臣として仕えた。活字による『和名抄』の刊行にかかわっている。 著書に『人君明暗図』『活所遺稿』がある。『桜譜』は桜の専門書の先駆けであるばかりでなく、桜の品種を記載したものとして貴重。 『学問源流』などを著した那波師曾(魯堂)は玄孫にあたる。後世の孫には、京都大学教授で東洋史学者の那波利貞がある。 Category:江戸時代の儒学者 Category:17世紀の学者 Category:紀州藩の人物 Category:播磨国の人物 Category:1595年生 Category:1648年没.

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肥塚龍

肥塚 龍(こいづか りゅう、嘉永元年1月10日(1848年2月14日) - 大正9年(1920年)12月3日)は、東京府知事、新聞記者の民権活動家。 自由民権運動に関し、大胆で新しい言論活動で注目を集めていた。.

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肥後の駒下駄

肥後の駒下駄(ひごのこまげた)は、江戸時代の忠孝美談、敵討ちである。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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邑久郡

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蓬莱氏

蓬莱氏(ほうらいし)は伊勢神宮内宮の社家。伊勢国宇治中之切町(三重県伊勢市宇治中之切町)長之世古奧に屋敷を構え、蓬莱大夫と称して御師業を営み、会合年寄役、内宮権祢宜兼副物忌父を世襲した。なお、大物忌父(おおものいみのちち)とは子良(こら)と呼ばれる神官の童女を補佐する役職。.

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脇坂安坦

脇坂 安坦(わきさか やすひら)は、江戸時代後期の武士。播磨国龍野藩の世嗣。.

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脇坂安実

脇坂 安実(わきさか やすざね)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩6代藩主。龍野藩脇坂家8代。.

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脇坂安宅

脇坂 安宅(わきさか やすおり)は、江戸時代後期の大名・老中。播磨国龍野藩9代藩主。龍野藩脇坂家11代。.

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脇坂安弘

脇坂 安弘(わきさか やすひろ)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩5代藩主。龍野藩脇坂家7代。.

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脇坂安利

脇坂 安利(わきざか やすとし).

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脇坂安利 (旗本)

脇坂 安利(わきざか やすとし)は、江戸時代中期の旗本。.

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脇坂安元

脇坂 安元(わきざか やすもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名・歌人。伊予国大洲藩2代藩主、のち信濃国飯田藩初代藩主。播磨国龍野藩脇坂家2代。 当時の将軍徳川家光の信任が厚い下総国佐倉藩主・堀田正盛の次男・安政を養子とすることを願い出て許されたことにより、外様の小藩であった脇坂家は譜代大名となることができた。なお、安元は2代・安政より以前に、実弟・安経、次いで堀田正盛の弟・安利を養子としていたが、いずれも早世した。.

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脇坂安種

脇坂 安種(わきざか やすたね)は、江戸時代中期の旗本。.

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脇坂安照

脇坂 安照(わきさか やすてる)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩2代藩主。龍野藩脇坂家4代。.

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脇坂安親

脇坂 安親(わきさか やすちか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。播磨国龍野藩7代藩主。龍野藩脇坂家9代。.

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脇坂安興

脇坂 安興(わきさか やすおき)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩4代藩主。龍野藩脇坂家6代。.

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脇坂安董

脇坂 安董(わきさか やすただ) は、江戸時代中期から後期にかけての大名・寺社奉行・老中。播磨国龍野藩8代藩主。龍野藩脇坂家10代。.

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脇坂安村

脇坂 安村(わきざか やすむら)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。播磨国龍野藩の世嗣。.

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脇坂安治

脇坂 安治(わきざか やすはる)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路国洲本藩主。後に伊予国大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は「輪違い」。.

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脇坂安清

脇坂 安清(わきさか やすずみ)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩3代藩主。龍野藩脇坂家5代。.

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脇坂安斐

脇坂 安斐(わきさか やすあや)は、江戸時代後期の大名。播磨国龍野藩10代(最後の)藩主。龍野藩脇坂家12代。維新後藩知事・子爵。.

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脇坂安政

脇坂 安政(わきざか やすまさ)は、江戸時代前期の大名。後にその出自により譜代大名(願譜代)となる(後述)。脇坂氏が現在に至るまで「龍野の殿様」として慕われる土台を作った人物である。信濃国飯田藩2代藩主、後に播磨国龍野藩初代藩主。龍野藩脇坂家3代。.

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脇坂安教

脇坂 安教(わきざか やすのり)は、江戸時代中期の武士。播磨国龍野藩の世嗣。.

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脇坂氏

脇坂氏(わきざかし/わきさかし)は、日本の氏族。.

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脇屋義治

脇屋 義治(わきや よしはる)は、南北朝時代の武将。脇屋義助の子。新田義貞の甥。.

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野口城

野口城(のぐちじょう).

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野口一成

野口 一成(のぐち かずしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、筑前国福岡藩士。黒田二十四騎の一人。通称は左助、藤九郎。 永禄2年(1559年)、播磨国加古郡野口で、教信寺の僧・浄金の子として生まれる。浄金は黒田孝高と親しく、囲碁仲間でもあった。天正3年(1575年)、元服して黒田氏の家臣となる。天正5年(1577年)の高倉山城攻めでは、神吉小伝次を討ち取った。 天正8年(1580年)の三木合戦、天正15年(1587年)の財部城攻めなどでも戦功を挙げる。天正16年(1588年)の城井鎮房暗殺の際にはその家臣を7人斬り伏せており、その功績から黒田長政から短刀を賜り、その後630石を拝領した。小田原征伐、文禄・慶長の役、木曽川・合渡川の戦い、関ヶ原の戦いにも参戦。関ヶ原では身体の左側ばかりに傷を負いながら奮闘したため、通称を「左助」(さすけ)と改めることとなった。 慶長6年(1601年)、黒田氏が筑前国に入国した後、鉄砲大頭に任命されて2,500石を拝領。また、益田正親と共に福岡城の石垣普請奉行も務めた。慶長11年(1606年)の江戸城天下普請の際には、母里友信と共に天守台の石垣を担当した。 元和9年(1623年)、長政が没し黒田忠之が跡を継ぐと、3,000石に加増されている。寛永7年(1630年)、福岡城南二の丸城番となる。寛永14年(1637年)に始まる島原の乱では、忠之の呼び出しを受け、側に控えた。この際、次男の万右衛門が討死している。この後、家督を孫の吉波(長男・一吉の子)に譲り、隠居して卜庵と号した。 寛永20年(1643年)4月8日死去。享年85。.

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野口幽香

野口 幽香(のぐち ゆか、慶応2年2月1日(1866年3月17日) - 昭和25年(1950年)1月27日、女性)は、日本の幼児教育者、社会事業家。本名は野口 ゆか。.

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野口冬長

野口 冬長(のぐち ふゆなが)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。.

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野尻精一

野尻 精一(のじり せいいち、1860年4月3日(安政7年3月13日) - 1932年(昭和7年)3月14日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、文部官僚。.

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野中兼山

野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老・儒学者。谷時中に朱子学を学び、南学による封建道徳の実践に努めた。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。 諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。 灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。.

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野々山氏

野々山氏(ののやまし)は、日本の氏族。三河地方に移った薩摩国島津氏の庶流で、江戸時代には旗本家が出る。通字は三河野々山氏で「兼」、信濃野々山氏で「義」及び「吉」。.

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野田文一郎

野田 文一郎(のだ ぶんいちろう、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1960年(昭和35年)3月9日)は、広島県三次町(後の三次市)出身の裁判官、政治家。関西法律学校(後の関西大学)卒業。正四位勲二等旭日重光章。.

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野見宿禰

野見宿禰像(荒川亀斎作) 野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する人物である。阿陀勝、来日田維穂命の父。.

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野間城

野間城(のまじょう).

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重兵衛茶屋

重兵衛茶屋(じゅうべえちゃや)は、兵庫県篠山市八上にある江戸時代の茶屋跡。篠山市指定の文化財になっており、その建築の一部が現存する。.

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重源

俊乗房重源上人坐像のレプリカ(大阪府立狭山池博物館所蔵。原品は新大仏寺所蔵で重要文化財) 重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。.

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釣り針

釣り針(つりばり)は、魚釣りに用いる針。多くの場合J字型に彎曲させてある。一般的には釣用の針は「鈎」と表記されることが多い。また、「鉤」の字が用いられることもある。.

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里見忠義

里見 忠義(さとみ ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。安房館山藩2代藩主。安房里見氏の当主里見義康の長男。徳川秀忠より偏諱を受け、忠義と名乗った。.

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金姫

金姫(きんひめ、生年不詳 - 元禄16年(1703年))は、阿波徳島藩第3代藩主・蜂須賀光隆の正室。父は播磨龍野藩主・小笠原長次。母は側室の利相院。兄弟には小笠原長章、小笠原長勝などがいる。阿波徳島藩第2代藩主・蜂須賀忠英の正室・齢昭院は叔母にあたる。.

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金子家忠

金子 家忠(かねこ いえただ)は、平安時代末期・鎌倉時代初期の武蔵国入間郡の武将である。武蔵七党村山党・金子氏の一族。父は金子家範。兄弟に金子親範がいる。.

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金屋子神

金屋子神(かなやごかみ、かなやこかみ、等)とは、中国地方を中心に、鍛冶屋に信仰される神。一般には女神であるとされるが、男神とする説もある。金山彦・金山媛や天目一箇神と同一、もしくは何らかの関係がある神とされるが、全く別神とする説もある。 金屋子神社には神仏習合した火の神として三宝荒神の姿で描かれた掛け軸も残されている。 金屋子神の総本社とされる島根県安来市広瀬町西比田にある金屋子神社には、以下の伝説がある。 高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋(現在の兵庫県宍粟市千種町岩野邊)にまず天降った。しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、桂の木にて羽を休めていたところを宮司の祖先である安倍正重が発見し、長田兵部朝日長者が桂の木の横に神殿を建立したという(途中、吉備国中山にも立寄ったとの伝説がある)。各地で金屋子神は自ら村下(むらげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行ったとされる。 金屋子神の特徴としては、.

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金剛證寺

金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市朝熊町岳にある臨済宗南禅寺派の寺院である。山号は勝峰山、院号は兜率院と称する。本尊は虚空蔵菩薩である。朝熊山(あさまやま)南峰(経ヶ峯)東腹にあり、「朝熊山」と呼ばれる場合がある。.

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金甲山送信所

金甲山送信所(きんこうざんそうしんしょ)は岡山県玉野市と岡山市南区にまたがる金甲山の山頂に位置する、テレビ放送及びFM放送の送信所。設置されている送信所のうちJモバ(NOTTV)、山陽放送ラジオ(RSKラジオ)FM補完中継局と、区域外のNHK高松以外は全てが親局であり、岡山・香川両県の放送の中心となる重要な送信所である。 受信世帯数は約75万世帯、送信局数は9局12波といずれも中国・四国地方最大規模。中四国第2位は広島局であるが、広島局が広島県1県のみを対象としているのに対し、この金甲山は岡山県・香川県の2県を対象とし、かつ双方の県庁所在地の大部分を放送区域としている。.

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長吏 (賎民)

長吏(ちょうり)とは日本における賎民の呼称の一つで、中世には穢多(かわた)・非人の頭目を指したが、江戸時代には穢多または非人・非人頭を指してその範囲は地域によって差異があった。.

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長壁神社

長壁神社(おさかべじんじゃ)は、兵庫県姫路市立町に鎮座する神社。播磨国大社二十四社の1つ。 毎年6月22日から24日にかけて行われるゆかたまつりが有名。.

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長井基孝

長井 基孝(ながい もとたか、生没年不詳)は、『赤蝦夷風説考』の筆者工藤平助の実父で紀州藩江戸詰の藩医。平助の娘工藤あや子(只野真葛)の著作『むかしばなし』には長井大庵の名で記される。「基孝」は平助の墓誌による。『伊達世臣家譜』には「長井常安某」と記載される。丈庵、大雲、高基、孝基などとも記される。.

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長井貞頼

長井 貞頼(ながい さだより)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。備後国人長井氏4代当主。.

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長倉氏

長倉氏とは日本の氏族のひとつ太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第3巻』(角川書店、1934年)4160頁参照。。.

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長谷川秀一

長谷川 秀一(はせがわ ひでかず)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。.

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長船町福岡

長船町福岡(おさふねちょう ふくおか)は、岡山県瀬戸内市の旧長船町域にある大字。 郵便番号は、701-4265である。.

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長門国

長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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長門警固番役

長門警固番役(ながとけいごばんやく)とは、鎌倉幕府が元軍の襲来に備えて長門国(特に関門海峡とその周辺の沿岸部)の警固をさせるための命じた番役のこと。九州に置かれた異国警固番役と同様の役割を果たした。 文永の役を受けて鎌倉幕府は長門国の御家人に警固番役を命じていたが、建治元年5月12日(1275年6月7日)に長門の御家人のみでは不足として同じ山陽道に属する近隣の周防国・安芸国の御家人にも長門警固の命が下され、更に8日後には備後国に対しても同様の命令が下された。彼らは長門探題などの統轄下に置かれ、結番を編成して交替で海岸などの要地の警固にあたった。更に建治2年8月24日(1276年10月3日)には山陽道に属する残り4ヶ国(播磨国・備前国・備中国・美作国)及び南海道に属する全6か国に対しても長門警固の命令が出され、更に既に動員されていた長門国などを含めた対象国に所在する公家領や寺社領などいわゆる「本所領」に属している非御家人の武士たちに対しても動員が命じられたのである。この命令については、既に御家人が動員されていた安芸国の守護・武田信時に対する御教書が残されており、更に出雲大社ゆかりの『出雲大社千家文書』にも出雲大社に属する人々が長門における石築地構築に動員されたことが記されている。 こうした措置は弘安の役以後も継続され、一部は鎌倉幕府滅亡後も継続された。.

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長沼流

長沼流(ながぬまりゅう) は、長沼澹斎によって編み出された兵法・軍学の流派。.

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酒井忠学

酒井 忠学(さかい ただのり)は、江戸時代後期の大名。播磨姫路藩第5代藩主。雅楽頭系酒井家宗家13代。.

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酒井忠実

酒井 忠実(さかい ただみつ)は、江戸時代後期の大名。播磨国姫路藩酒井家第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家12代。.

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酒井忠宝 (姫路藩主)

酒井 忠宝(さかい ただとみ)は、江戸時代後期から末期の大名。播磨姫路藩第6代藩主。雅楽頭系酒井家宗家14代。 旗本・酒井忠讜(ただなお:「言に黨」、第4代藩主酒井忠実の五男)の長男。本家に男子がなく、先々代忠実の孫にあたることから、第5代藩主忠学(忠讜の従兄弟にあたる)の婿養子となる。弘化元年(1844年)、忠学の死去に伴い家督を継ぐ。嘉永6年(1853年)、25歳で死去し、跡を従弟で養子の忠顕が継いだ。.

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酒井忠宜

酒井 忠宜(さかい ただよし、元文5年(1740年) - 宝暦11年7月2日(1761年8月2日))は、播磨姫路藩の世嗣。姫路初代藩主・酒井忠恭の三男。母は榊原政邦の娘。正室は前田吉徳の娘。官位は従四位下、阿波守。 忠恭が上野前橋藩主だった時代に生まれる。宝暦5年(1755年)、忠恭の嫡子だった兄の忠得が早世したため、代わって嫡子となる。同年徳川家重に御目見し、従四位下阿波守に叙任されたが、忠得と同様に家督を継ぐことなく宝暦11年(1761年)に22歳で早世した。代わって、庶兄の忠仰が嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:前橋藩の人物 Category:姫路藩の人物 たたよし Category:1740年生 Category:1761年没.

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酒井忠交

酒井 忠交(さかい ただかた)は、播磨姫路新田藩の初代藩主。 宝暦4年(1754年)2月22日、酒井家姫路藩の初代藩主・酒井忠恭の八男として生まれる。 明和7年(1770年)4月18日に元服する。閏6月23日に1万石を分与されて姫路新田藩を立藩し、帝鑑詰めとなった。その後、日光祭礼奉行や駿府加番などを務めた。大坂加番も務めている。 享和4年(1804年)1月20日に死去した。享年51。跡を次男の忠質が継いだ。 たたかた Category:姫路新田藩主 Category:1754年生 Category:1804年没.

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酒井忠以

酒井 忠以(さかい ただざね)は、江戸時代中期から後期の播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家宗家10代。.

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酒井忠仰

酒井 忠仰(さかい ただもち、享保20年(1735年) - 明和4年8月20日(1767年9月12日))は、播磨姫路藩の世嗣。姫路初代藩主・酒井忠恭の長男。母は側室・石原氏。正室は松平乗佑の娘。子は酒井忠以(長男)、酒井忠因(次男、酒井抱一)、娘(戸沢正良正室)。官位は従五位下、従四位下、備前守。 当時上野前橋藩主だった忠恭の長男として生まれる。庶子だったため、ただちに嫡子となることはできなかった。寛延元年(1748年)に小姓となって3000俵の新封を受け、翌寛延2年(1748年)に叙任する。その後、嫡子だった次弟の忠得、三弟の忠宜が相次いで早世したため、宝暦11年(1761年)に嫡子となる。しかし、忠仰も弟たち同様に家督相続を果たせず、明和4年(1767年)に早世した。代わって忠仰の長男の忠以が忠恭の嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:前橋藩の人物 Category:姫路藩の人物 たたもち Category:1735年生 Category:1767年没.

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酒井忠得

酒井 忠得(さかい ただえ、元文3年(1738年) - 宝暦5年2月19日(1755年3月31日))は、上野前橋藩(のち播磨姫路藩)の世嗣。前橋藩9代藩主(のち姫路初代藩主)・酒井忠恭の次男。母は榊原政邦の娘。官位は従四位下、河内守。 当時上野前橋藩主だった忠恭の嫡子として生まれ、延享4年(1747年)に徳川家重に御目見する。宝暦2年(1752年)には叙任されたが、家督を継ぐことなく宝暦5年(1755年)に18歳で早世した。代わって、弟の忠宜が嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:前橋藩の人物 Category:姫路藩の人物 たたえ Category:1738年生 Category:1755年没.

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酒井忠全

酒井 忠全(さかい ただやす)は、播磨姫路新田藩の第3代(最後)の藩主。 文化12年(1815年)、第2代藩主・酒井忠質の子として生まれる。翌文化13年(1816年)、父が死去したため家督を継いだ。しかし文化14年(1817年)11月3日に死去した。享年3。嗣子がいるはずもなく、ここに姫路新田藩は完全に廃藩となった(幕末の動乱関連(反逆勢力への加担行為)で取り潰された2藩を除けば、最後の大名の改易となった)。 たたやす Category:姫路新田藩主 Category:1815年生 Category:1817年没.

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酒井忠節

酒井 忠節(さかい ただたか、寛保2年(1742年)- 寛政8年5月26日(1796年7月1日))は、越前敦賀藩4代藩主・酒井忠香の次男。母は水野忠定の娘。正室は酒井忠恭の娘、継室は土井利信の娘。播磨守。 兄・忠恕が夭逝したため、藩主忠香の嫡子となる。宝暦7年(1757年)、9代将軍徳川家重に御目見する。安永3年(1774年)、病弱を理由に廃嫡された。代わって、弟の忠言が嫡子となった。寛政8年(1796年)に没した。 Category:江戸時代の大名の嫡男 たたたか Category:廃嫡された人物 Category:1742年生 Category:1796年没.

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酒井忠績

酒井 忠績(さかい ただしげ)は、江戸時代末期の大名、老中、大老。播磨姫路藩第8代藩主。雅楽頭系酒井氏宗家16代。江戸幕府最後の大老である。.

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酒井忠直

酒井 忠直(さかい ただなお)は、若狭小浜藩の第2代藩主。小浜藩酒井家3代。.

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酒井忠道

酒井 忠道(さかい ただひろ / ただみち)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨姫路藩第3代藩主。雅楽頭系酒井家宗家11代。若狭小浜藩十四代藩主酒井忠禄の子で明治維新後伯爵となった酒井忠道とは別人。.

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酒井忠顕

酒井 忠顕(さかい ただてる)は、江戸時代末期の大名。播磨姫路藩第7代藩主。雅楽頭系酒井家宗家15代。.

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酒井忠香

酒井 忠香(さかい ただか、1715年(正徳5年) - 1791年12月3日(寛政3年11月8日))は、越前敦賀藩の第4代藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家4代。享保4年(1719年)9月5日生まれとも。第2代藩主・酒井忠菊の八男。正室は水野忠定の娘。子に酒井忠恕(長男)、酒井忠節(次男)、水谷勝政(三男)、酒井忠言(四男)、山名豊磐(五男)、酒井忠貞(六男)、酒井忠進(七男)、娘(内藤正弼正室)、娘(水野忠敞正室)、娘(浅野長富正室)、娘(酒井忠記正室、のち小出英敦室)、娘(滝川利雍正室)、娘(酒井忠貞室)。官位は従五位下、播磨守、飛騨守。.

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酒井忠質

酒井 忠質(さかい ただたか)は、播磨姫路新田藩の第2代藩主。 安永9年(1780年)、初代藩主・酒井忠交の次男として生まれる。庶子であったが、正室の阿部氏との間に生まれていた嫡男が早くに死んだため、享和4年(1804年)に父が死去すると、その跡を継いだ。文化13年(1816年)10月23日に死去した。享年37。跡を子の忠全が継いだ。 たたたか Category:姫路新田藩主 Category:1780年生 Category:1816年没.

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酒井忠興

酒井 忠興(さかい ただおき、1879年(明治12年)6月6日 - 1919年(大正8年)9月22日)は、日本の植物研究家、従三位伯爵。雅楽頭系酒井家宗家20代当主で、播磨姫路藩の第10代藩主の酒井忠邦の長男。.

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酒井忠邦

酒井 忠邦(さかい ただくに)は、播磨姫路藩の第10代(最後の)藩主。雅楽頭系酒井家宗家18代当主。.

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酒井忠恭

酒井 忠恭(さかい ただずみ)は、江戸時代中期の大名、老中首座。上野前橋藩第9代藩主。のち播磨姫路藩初代藩主。雅楽頭系酒井家宗家9代。.

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酒井忠惇

酒井 忠惇(さかい ただとし/ただとう)は、江戸時代末期から明治時代の旗本、大名、華族。播磨姫路藩第9代藩主。雅楽頭系酒井家宗家17代。江戸幕府の老中でもあった。幕府最後の大老で先代藩主酒井忠績は兄。.

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酒井忠敬

酒井 忠敬(さかい ただゆき、嘉永元年(1848年)12月 - 元治元年4月8日(1864年5月13日))は、播磨姫路藩の世嗣。三河国田原藩主・三宅康直の三男。河内守。 7代藩主・酒井忠顕の実弟で、4代藩主・忠実の孫にあたることから、8代藩主・忠績の養子に迎えられた。しかし家督相続前の元治元年(1864年)に17歳で早世した。代わって、忠績の実弟である忠惇が養子となった。 Category:幕末姫路藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 たたゆき Category:三宅氏 Category:1848年生 Category:1864年没.

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酒井氏

酒井氏(さかいし)は、日本の氏族のひとつ。三河国の在地領主から、徳川政権下で譜代大名となった氏族である。.

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酒井文子

酒井 文子(さかい あやこ、 天保15年6月24日(1844年8月7日) - 1908年3月16日『平成新修旧華族家系大成』上p.639)は、幕末から明治時代にかけての大名家・大名華族の女性で、雅楽頭系酒井家宗家の人物。播磨姫路藩5代藩主・酒井家宗家13代当主酒井忠学の六女で、7代藩主・15代当主酒井忠顕の正室となった。最後の藩主で忠顕の娘婿であった18代当主酒井忠邦の早世後、忠邦の遺児忠興が満8歳となるまで19代当主を務めた。.

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酔いどれ小籐次留書

『酔いどれ小籐次留書』(よいどれことうじとめがき)は、佐伯泰英による書き下ろし時代小説シリーズ。幻冬舎文庫から刊行されている。文春文庫から刊行されている続編の『新・酔いどれ小籐次留書』(しん・よいどれことうじとめがき)についても、本項で扱う。.

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鉢伏山 (兵庫県神戸市)

山頂の回転展望閣から須磨浦を望む 鉢伏山(はちぶせやま)は、兵庫県神戸市須磨区、六甲山系の西南端にある山。.

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良如

良如(りょうにょ、慶長17年12月7日(1613年1月27日)- 寛文2年9月7日(1662年10月18日))は、江戸時代前期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第13世宗主。西本願寺住職。諱は光円。院号は教興院。法印大僧正。父は第12世准如。九条幸家の猶子。母は祇園宝光院(宝寿院 (祇園社の社家)参照)の息女、寿光院准勝。内室は九条幸家の娘。継室は八条宮智仁親王の娘殊光院、近江国三井の人(揚徳院寂照)。第14世寂如は子。播磨国本徳寺住職寂円は10男。.

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良岑衆樹

良岑 衆樹(よしみね の もろき)は、平安時代前期の貴族。良岑安世の孫で、左中弁良岑晨直『公卿補任』による。(または農直『尊卑分脈』、『良峰氏系図』(『続群書類従』所収)による。)の次男。従四位上・参議。.

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英賀城

英賀城(あがじょう)は、播磨国英賀(兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)にあった日本の城。別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城と称された。.

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英賀合戦

英賀合戦(あが かっせん)/英賀の戦い(あがのたたかい)は、天正5年(1577年)『黒田家譜』では前年にあたる天正4年(1576年)とされている。5月に、小早川隆景の水軍の将である浦宗勝(乃美宗勝)の軍勢が、姫路を目指すため、毛利と同盟する播磨国(現・兵庫県)の三木通秋の所領である英賀の地に上陸し、小寺政職との間で行われた合戦である。 この当時の播磨国は、東から織田氏(織田信長)、西から毛利氏(毛利輝元)と大勢力が迫り、いずれにつくかという緊迫した状況にあり、親織田派であった小寺氏に対し、毛利氏はその10倍の数となる5,000の兵を送り込んだが、対する小寺側は、家臣・小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)の奇策により毛利軍を撃退した。.

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英賀神社

英賀神社(あがじんじゃ)は、兵庫県姫路市飾磨区にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。.

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苅萱

苅萱(かるかや)とは、出家した武士、苅萱道心とその息子石道丸にまつわる物語。説経節、浄瑠璃、歌舞伎、読本などで作品化されている。説教節では「五説教」のひとつであり、代表的な演目のひとつとして扱われてきた。近年では教育まんがなどでも作品化が試みられている。主人公の名を付し、石童丸(いしどうまる)と称されることがある苅萱物語は出典によって「石塔丸」「石道丸」「石堂丸」「加藤重氏」「刈萱」など表記ゆれがみられる。。.

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雨月物語

『雨月物語』(うげつものがたり)は、上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)作品。 5巻5冊。明和5年(1768年)序、安永5年(1776年)刊。日本・中国の古典から脱化した怪異小説9篇から成る。近世日本文学の代表作で、現代でも引用されることが多い(→#派生作品)。.

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雪村友梅

雪村友梅(せっそんゆうばい、正応3年(1290年) - 貞和2年12月2日(1347年1月14日))は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての臨済宗の禅僧である。.

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雷獣

竹原春泉画『絵本百物語』に「かみなり」の題で描かれた雷獣 雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には『平家物語』において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる。.

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雑戸

雑戸(ざっこ)とは、日本の律令制において特定の官司に隷属していた大化前代の職業部に由来する手工業を中心とした技術を持つ集団のこと。.

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雄略天皇

略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。 また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。 『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。.

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速鳥

速鳥(はやとり)は、日本の伝説上の船の名である。 仁徳天皇の時代、明石駅にクスノキの巨木があり、日の出の際は淡路島をおおい、日の入りではなにわの高津宮をかげにしたが、これを伐り倒し、船を造った。 その船はひと楫で7つの波浪をこえ、その速さから「速鳥」と名づけられた。 明石から水を高津宮に運んだが、次第に速力を減じ、とりやめになった。 『播磨国風土記』明石駅に「仍伐其楠造舟、其迅如飛、一檝去越七浪、仍号速鳥」とある。 巨木伝承自体は誇張ではあるが、『続日本紀』には播磨国の船として、同名の船名の記述がみられる(巨樹の項目も参照)。.

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進士氏

進士氏(しんじし、しんしし、にいがたし)は、日本の氏族のひとつ。.

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院政期文化

『'''普賢菩薩像'''』(東京国立博物館蔵)普賢菩薩は法華経信者を守護するため白い象に乗って東方より現れると説かれていた。彩色や截金の美麗さに加え余白の情感が幻想的で優美だとされる。銀泥も素材の仲間入りをするが、酸化して黒ずんで見える。国宝。12世紀制作。 院政期文化(いんせいきぶんか)または平安末期文化(へいあんまっきぶんか)とは、平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化。院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きがみられた。.

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陣屋

復元された兵庫県佐用郡佐用町乃井野の旧三日月藩政庁三日月陣屋 兵庫陣屋絵図/神戸市立博物館蔵 陣屋(じんや)は、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のことである。.

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陰山豊洲

山 豊洲(かげやま ほうしゅう、寛延3年(1750年) - 文化5年11月29日(1809年1月14日))は江戸時代の漢学者。河内狭山藩藩儒。名は雍、字は文煕、通称は忠右衛門。松桂園とも号した。古文辞学派に属する。 荻生徂徠を尊び、文は先秦、詩は盛唐李攀竜を規範とした。時の佐伯藩主毛利高標の賞賛を受けた。弟子山梨稲川を輩出した。.

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陰陽師の一覧

陽師の一覧(おんみょうじのいちらん、おんようじのいちらん)は、歴史上に見られる著名な陰陽師の一覧である。.

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陰陽連絡路線

陽連絡路線(いんようれんらくろせん)は、本州を横断して山陽地方と山陰地方を結ぶ路線の総称。.

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陳和卿

陳和卿(ちん わけい / ちん なけい、生没年未詳)は、鎌倉時代の日本で活動した中国・南宋出身の工人。.

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陸上交通事業調整法

上交通事業調整法(りくじょうこうつうじぎょうちょうせいほう、昭和13年法律第71号)は、日中戦争が拡大し戦時体制が色濃くなった1938年(昭和13年)8月に施行された、鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るための法律である。最終改正は、平成18年6月7日法律第53号。.

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JR西日本キハ189系気動車

ハ189系気動車(キハ189けいきどうしゃ)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の特急形気動車である。.

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SHOCK EYE

SHOCK EYE(ショック アイ、本名:植村 家浩、1976年12月14日 - )は、レゲエグループ・湘南乃風のメンバーであるレゲエミュージシャン。 また、ポルノグラフィティの新藤晴一らと結成したTHE 野党のボーカルでもある。 神奈川県鎌倉市出身。血液型A型。.

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柏原長宅

柏原 長宅(かしわばら ながいえ、生年不詳 - 1621年(元和7年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐藩上士。播州赤松流柏原氏。通称は半右衛門。家紋は「左三つ巴」。.

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柏原新之丞

柏原 新之丞(かしわばら しんのじょう、生年不詳 - 1612年8月21日(慶長17年7月25日))は、安土桃山時代後期・江戸時代初期の武士。山内一豊の家臣。土佐藩内須崎村の代官。.

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柳生家厳

柳生 家厳(やぎゅう いえよし、明応6年(1497年) - 天正13年(1585年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大和国柳生荘の主、大和柳生城主とも伝わる。柳生宗厳の父。柳生重永の子。 柳生氏は大和国の土豪。多くの剣豪を輩出し、菅原氏一門(播磨国の赤松氏と同族ともされる)と自称した。柳生氏の事項が明らかになるのは南北朝時代で、柳生永珍(ながよし)が元弘の変の時に笠置山に篭った後醍醐天皇を助けた(笠置山の戦い)ため、鎌倉幕府から所領を没収。幕府滅亡後、実弟で笠置寺衆徒の中坊源専が恩賞として柳生荘を返還された。以後、柳生の国人として根を下ろす。 応仁の乱により室町幕府が衰退すると、天文5年(1536年)、畠山氏重臣の木沢長政が信貴山に城を構え、大和国攻略に乗り出す。家厳は長政に従い、筒井氏や二木氏らと戦った。しかし、木沢長政は管領細川晴元、三好長慶と対立し、天文11年(1542年)に河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭は木沢残党を次々と攻略し、柳生氏の居城である子柳生城も攻められた。家厳は筒井氏に降伏、臣従し家名の存続を図った。その後大和に三好長慶の重臣松永久秀が進出すると松永久秀に寝返り、大和攻略戦で活躍する。 その後、三好長慶が死去すると松永久秀と対立した三好一族や筒井順昭らが衝突し、合戦となる(東大寺大仏殿の戦い)。家厳は久秀方に付き、東大寺大仏殿もこの時焼け落ちた。松永久秀が織田信長に従属し大和に攻めこんだときにも久秀に属して筒井順慶を攻めた。後に筒井氏も信長に降り、大和の戦乱は収まった。家厳はこの直後、家督を宗厳に譲り、隠遁した。 ちなみに、子の柳生宗厳は家厳が31歳を数えたときの子と伝わっている。この時、家厳はすでに壮齢の年代であったが、この時期の動静は不明である。 いえよし Category:戦国武将 Category:1497年生 Category:1585年没.

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柳生心眼流

柳生心眼流(やぎゅうしんがんりゅう)は、日本の伝統武術の流派とされている。.

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柳沢安弘

柳沢 安弘(やなぎさわ やすひろ、元禄7年(1694年)‐安永8年11月13日(1779年12月20日))は、江戸幕府旗本。武蔵国川越藩士(のち大和国郡山藩士)・柳沢保教(柳沢吉保の姉婿である柳沢信花の養子)の2男。母は播磨国林田藩士・田中小右衛門の娘。柳沢時附の養子。通称は内記、源七郎。号は弘運。 子に柳沢安長、娘(有馬尚久のち日下部定経、妻)らがいる。妻は、時附の娘。 安弘の致仕後、嫡男の安長が家督を継いだ。.

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柳沢淇園

柳沢 淇園(やなぎさわ きえん、元禄16年7月18日(1703年8月30日) - 宝暦8年9月5日(1758年10月6日))は、江戸時代中期の武士、文人画家、漢詩人。服部南郭、祇園南海、彭城百川らとともに日本文人画の先駆とされる。 幼名は権之助、名ははじめ貞貴、元服後は里恭(さととも)と名乗る。後に中国風に修して柳里恭(りゅうりきょう)と名乗ることを好んだ。代々権太夫と称し、字は広美(こうび)もしくは公美、淇園と号し、ほかに竹渓、玉桂の別号がある。よく知られた淇園の号は、40歳頃から使用したと推測される。.

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柳本賢治

柳本 賢治(やなぎもと かたはる)は、戦国時代の武将。.

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柴原亀二

柴原 亀二(しばはら かめじ、慶応3年(1867年) - 昭和10年(1935年)は、明治から昭和にかけての官僚・翻訳家・弁護士。父は龍野藩士で明治維新後千葉県令・貴族院議員などを務めた柴原和。号は楫川。.

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柴原和

兵庫県たつの市小宅寺にある柴原和の墓 柴原 和(しばはら やわら、天保3年2月7日(1832年3月9日)- 明治38年(1905年)11月29日)は、幕末期播磨国龍野藩出身の志士。明治維新後は新政府に出仕して、初代の千葉県令や貴族院勅選議員などを務める。字は士節。幼名は宗吉、後に順治。雅号は靖盧・此木山。子に翻訳家・弁護士の柴原亀二がいる。.

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柴任三左衛門

柴任 三左衛門(しばとう さんざえもん、寛永3年(1626年)- 宝永7年閏8月20日(1710年10月12日))は、江戸時代前期の武士、剣豪、兵法家。剣豪宮本武蔵の二天一流兵法第3代師範で、武蔵の兵法と『五輪書』を肥後国を出て江戸、筑前国、播磨国などへ伝えた。柴任が福岡黒田藩に伝えた武蔵の逸話は、後に最古の武蔵伝記『武州伝来記』として著されることとなった。 本姓本庄、改姓して柴任三左衛門、後に助右衛門、諱は重斎、秀正、美矩、最後は重矩、号は固学道随、また一鑑道随。.

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柴田鳩翁

柴田 鳩翁(しばた きゅうおう、天明3年5月5日(1783年6月4日) - 天保10年5月3日(1839年6月13日))は、江戸時代後期の町人、心学者である。通称は謙蔵。名は享。字は陽方。号は鳩翁のほかに眉山、維鳩庵など。身近なエピソードを絡めて口語体で分かりやすく人倫を説いた道徳書『鳩翁道話』などで知られる。.

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柿本神社 (明石市)

柿本神社(かきのもとじんじゃ)は兵庫県明石市人丸町にある神社。人丸山の頂上に鎮座するが、山名も当神社に因むものである。旧社格は県社。旧くは「人丸神社」と称し、地元では「人丸さん」とも呼ばれる。.

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染井霊園

染井霊園(そめいれいえん)は東京都豊島区駒込にある都営霊園。旧称の染井墓地で呼ばれることも多い。水戸徳川家墓所。水戸徳川公爵家や府中松平家の江戸期の墓。徳川斉昭の生母や徳川昭武の生母、側室高橋悦子の墓がある。面積は67,911平方メートル、およそ5,500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では最も規模が小さい。 園内には約100本のソメイヨシノ(染井の地が発祥といわれる。ソメイヨシノ#起源についての諸説を参照)が植えられ、遊歩道の一部は桜並木になっており桜の名所として親しまれている。.

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枝吉城

枝吉城(えだよしじょう または しきつじょう)は、兵庫県神戸市西区枝吉4丁目付近にあった、日本の城(平山城、丘城)。.

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林一吉

林 一吉(はやし かつよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐藩家老。土佐国高岡郡窪川城主。家禄は5,000石。.

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林忠旭

林 忠旭(はやし ただあきら)は、上総貝淵藩の第2代藩主、上総請西藩の初代藩主。.

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林元善

林 元善(はやし もとよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。牛の皮城主。父は林就長。.

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林神社 (明石市)

林神社(はやしじんじゃ)は、兵庫県明石市に鎮座する神社。明石という地名の由来になったとされる旧県社。秋祭りの一枚の布団太鼓が有名。.

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林秀貞

林 秀貞(はやし ひでさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新五郎、壮年期以降は佐渡守の受領名を名乗る。父に林通安(八郎左衛門)、弟に林通具(美作守)、子(あるいは娘婿)に林通政(新次郎)・林一吉がいる。 長年「通勝(みちかつ)」と伝えられてきたが、正しくは秀貞であり(『言継卿記』等)、松永久秀の家臣の林通勝と混同されたと考えられている。.

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林為忠

林 為忠(はやし ためただ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。.

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林田

林田(はやしだ、はいだ).

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林田藩

林田藩(はやしだはん)は、江戸時代、播磨国揖東郡にあった藩。藩庁として林田(現・兵庫県姫路市林田町聖岡)に林田陣屋が置かれた。表高は1万石。.

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林直利

林 直利(はやし なおとし)は戦国時代から江戸時代の武将、福岡藩士。黒田二十四騎の一人。通称は太郎右衛門(たろうえもん)、掃部亮。幼名は吉六。先妻は黒田武俊の娘、後妻は永見貞親(永見貞愛叔父)の娘。子に正利、直道、養子に平八がいる。 永禄12年(1569年)、松本直光の次男として信濃国佐久郡軽井沢で生まれる。武田氏の家臣であったが、長篠の戦いでの敗戦後に一家で伊勢国山田に移住。そこから角屋七郎次郎の船で播磨国姫路に寄った際、黒田孝高に小姓として出仕することとなる。その後、孝高の命で播磨国明石の住人林大学の姓を貰い受け、林太郎右衛門と名乗った。 天正12年(1584年)3月、岸和田合戦で初陣。天正14年(1586年)の宇留津城攻めでは母里友信と共に一番乗りを果たした。天正16年(1588年)、514石を拝領。文禄・慶長の役では鉄砲大頭を務め、そのさなかの文禄3年(1594年)2月には史上唯一の槍による虎狩りを行っている。槍は虎がもがいたため、塩首が曲がったという。黒田長政はそれを賞して槍に『』という名を与え、鞘は見事な大鳥毛だったため、黒田家の槍印に採用した。また、この戦乱で両親や縁者を亡くした女児を日本に連れ帰り、里と名付けて自分の娘のように養育したという(後に里は金龍寺に入って剃髪し、妙清尼と名乗った)。この頃、伏見城建築にも従事している。 慶長3年(1598年)に903石に加増される。慶長5年(1600年)の木曽川・合渡川の戦い、関ヶ原の戦いでは黒田長政に従って参戦し、戦功を挙げた。名島城受け取りの際にはその使者を務め、やがて名島城が廃城されることになると、城門の一つを拝領して自宅の門とした。二階建ての門が許されたのは黒田家中でも林家のみである。 慶長6年(1601年)、筑前国嘉穂郡土師村一円の3,000石を拝領。慶長15年(1610年)、名古屋城築城の際には福岡藩担当区のひとつ、東大手門及び石垣(通称、清正石の場所)の建築に当たった。慶長19年(1614年)頃より「掃部亮」を称した。 寛永6年(1629年)11月30日、福岡の自邸において死去。享年61。 『虎衝』の槍は永らく行方不明となっていたが、アメリカから里帰りして現在福岡市の個人が所蔵している。山城信国作の大身槍で『日本号』よりやや短い樋が一本通った素槍である。.

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掛川藩

掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。.

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恵慶

恵慶(えぎょう、生没年不明)は平安時代中期の日本の僧、歌人。恵慶法師とも。中古三十六歌仙の一。 出自・経歴は不詳。播磨国分寺の講師をつとめ、国分寺へ下向する際に天台座主尋禅から歌を送られた。歌人としては『拾遺和歌集』に初出する。962年(応和2年)ごろより歌合などで活動し、986年花山院の熊野行幸に供奉した記録がある。また、大中臣能宣・紀時文・清原元輔など中級の公家歌人と交流していた。 小倉百人一首にも歌が取られている。家集に『恵慶法師集』がある。.

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恋ひうた 和泉式部異聞

『恋ひうた 和泉式部異聞』(こいうた いずみしきぶいぶん)は、江平洋巳による日本の漫画作品。 『月刊フラワーズ』(小学館)にて、2008年2月号から2009年6月号まで連載されていた。単行本は全3巻。.

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揖保川町

揖保川町(いぼがわちょう)は、かつて兵庫県南西部(西播磨地区)に存在した町。旧揖保郡。 2005年10月1日に、龍野市・新宮町・揖保川町・御津町の1市3町で合併し、たつの市となったため消滅した。「揖保川町」の地名は「たつの市揖保川町○○」として残る。 には○○○があり、○○○する。 気候は○○○の影響によりには○○○である。-->.

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揖保乃糸

揖保乃糸(いぼのいと)は、兵庫県手延素麺協同組合が有する手延素麺の商標。主に揖保川中流域のたつの市、揖保郡太子町、宍粟市、姫路市林田、安富地区で生産される。.

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揖保郡

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揖西郡

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揖東郡

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東のエデン

『東のエデン』(ひがしのエデン、Eden of The East)は、2009年4月より6月までフジテレビ『ノイタミナ』枠で放送されたテレビアニメ。.

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東大寺大仏殿の戦い

東大寺大仏殿の戦い(とうだいじだいぶつでんのたたかい)は、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦。松永久秀の居城であった多聞山城の周辺でも戦闘があったため「多聞山城の戦い」とも呼ばれている。.

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東寺文書

東寺文書(とうじもんじょ)とは、京都市の東寺(教王護国寺)に伝来した文書の総称。.

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東巌慧安

東巌慧安(とうがんえあん、嘉禄元年(1225年)- 建治3年11月3日(1277年12月29日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。諱は慧安。道号は東巌。諡号は宏覚禅師。播磨国の出身。 初め書写山で出家受戒して天台教学を学び、泉涌寺でも学び、中国の宋へ渡ろうと1257年(正嘉元年)博多へ下ったが、悟空敬念にあい心服して臨済宗に改宗した。悟空に従って鎌倉にくだり、寿福寺に参禅した。一旦悟空とともに京都に帰京したが、鎌倉に戻り建長寺の兀庵普寧に参禅した。のち京都の吉田と中山に住したが、兀庵が帰国のおり鳥羽に見送り、法衣・頂相・語録を授かった。聖護院執事の静心により1268年(文永5年)京都一条今出川に正伝寺を開き、元寇に際しては祈祷を行っている。比叡山衆徒の恨みを買って正伝寺を破棄されたことから、鎌倉に下って寿福寺の大休正念の紹介により幕府の重臣安達泰盛の帰依を得、鎌倉和賀江に福光山聖海寺を開創した。.

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東勝寺合戦

東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。.

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東西遊記

江戸時代後期の京の儒医である橘南谿が日本の諸地方を巡遊し、現地で見聞した奇事異聞を基に編纂して出板した紀行、『西遊記(せいゆうき)』と『東遊記(とうゆうき)』を併せて東西遊記と称す(以下、両書を併称する場合は「両遊記」と記す)。 両遊記は南谿が天明2年(1782年)から同8年までに断続して日本各地を巡歴した際の記録を編述したもので、寛政7年(1795年)から同10年にかけて出板され、また板本以外に自筆稿本やその写本も現存しており、板行以前から両遊記は併せて「東西遊記」や「西東遊記(せいとうゆうき)」と称されていた。なお、細かく見ると『西遊記』、『西遊記続編』、『東遊記』、『東遊記後編』となるが、前2者を併せて『西遊記』と、後2者を併せて『東遊記』と称するのが一般的である(以下、区別する際には「『西遊記』(正編)」「『西遊記続編』」等と記す)。また、南谿自身は板行された両遊記を後に『東西遊記』として統合する意図を有していたという鈴木前掲「解題」。。 医家である南谿は『傷寒論』に関するもの等複数の医書も著しているが、本両遊記や随筆である『北窓瑣談』といった文人としての著作もあり、『北窓瑣談』は当代の名随筆と評され、両遊記も江戸時代後期を通じてたびたび版を重ねる等、むしろ本業よりも後者としての活動の方が著名であったと言え宗政五十緒「東西遊記 解説」(東洋文庫本『東西遊記 1』所収)。、とりわけ両遊記は延宝期から元禄期(17世紀後期)に著された貝原益軒による一連の紀行と並んで江戸時代を代表する紀行とされる。.

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東条城 (曖昧さ回避)

東条城は日本の城。.

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東海道本線優等列車沿革

東海道本線優等列車沿革(とうかいどうほんせんゆうとうれっしゃえんかく)では、東海道本線が開業した時以来に運行された、特急列車・急行列車・準急列車の運行を主に記載する。なお、以下のものについてはそれぞれ別項とする。; 除外される主な系統.

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東播磨南北道路

東播磨南北道路(ひがしはりまなんぼくどうろ)は、兵庫県加古川市の加古川中央JCTから兵庫県小野市に至る地域高規格道路(自動車専用道路)である。1998年6月16日計画路線に指定された。東播磨南北道路整備事業として事業化されている。2014年3月23日現在、加古川中央JCT - 八幡稲美ランプ間が開通している。略称は東播磨道(ひがしはりまどう)。.

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松原忠司

松原 忠司(まつばら ちゅうじ、生年不詳 - 慶応元年9月1日(1865年10月20日))は、新選組隊士(四番隊組長、柔術師範)。号は柳趙斎と思われる。.

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松原氏

松原氏(まつばらうじ)は、日本の氏族の一つ。 本姓は源氏。村上源氏の流れを汲む赤松氏の一門であり、本貫は播磨国松原荘。.

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松右衛門帆

松右衛門帆(まつえもんほ)は、日本の帆布の一種。 この項では、江戸時代に帆船のために生産されたものおよび、その歴史にちなんで平成時代より兵庫県高砂市の観光振興のために発売された帆布製品のブランドについて記述する。.

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松居久次郎

松居 久次郎(まつい きゅうじろう、元和5年(1619年) - 貞享元年8月7日(1684年9月16日))は、江戸時代前期の近江商人、松居久右衛門家の初代。.

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松岡青蘿

松岡 青蘿(まつおか せいら、元文5年(1740年) - 寛政3年6月17日(1791年7月17日))は、江戸生れの俳人で、のちに加古川に庵を結ぶ。山李坊令茶、幽松庵、三眺庵、栗庵、栗之本などの別号を持つ。本名、松岡鍋五郎。.

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松岡鼎

松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年10月3日) - 1934年(昭和9年)1月28日)は、松岡5兄弟(柳田國男、井上通泰、松岡静雄、松岡映丘)の長男で医師。父は儒者松岡操(約斉)。.

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松岡映丘

松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年7月9日 - 1938年3月2日)は、大正・昭和初期にかけ活動した日本画家。本名は輝夫。.

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松平宗矩

松平 宗矩(まつだいら むねのり)は、越前福井藩の第10代藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第8代となる。。.

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松平康英

松平 康英(まつだいら やすひで)は、江戸時代末期(幕末)の旗本、大名。江戸幕府外国奉行、神奈川奉行、大目付、勘定奉行、南町奉行を歴任した後に本家の大名家を相続、奏者番兼寺社奉行、老中となった。陸奥棚倉藩第4代藩主、武蔵川越藩藩主。松井松平家12代。川越においては、城下宮下町に藩校長善館を開いた人物として知られる。旗本時代は松平 康直(まつだいら やすなお)で、本家相続後に康英と改名し、明治維新後に松井 康英と改名した。.

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松平康映

松平 康映(まつだいら やすてる)は、和泉岸和田藩の第2代藩主。後に播磨山崎藩主を経て、石見浜田藩の初代藩主となった。松井松平家2代。.

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松平庸直

松平 庸直(まつだいら やすなお、元和3年(1617年) - 寛永11年5月12日(1634年6月7日))は、江戸時代前期の大名。信濃松本藩主、播磨明石藩主。戸田松平家2代。 戸田氏嫡流である松平康長の三男。子は養女(松平忠光の娘、前田利意正室)。官位は従五位下、佐渡守、丹波守。名は康直とも。.

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松平忠弘

松平 忠弘(まつだいら ただひろ)は、江戸時代前期から中期の大名。播磨姫路藩主、出羽山形藩主、下野宇都宮藩主、陸奥白河藩主。奥平松平家2代。.

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松平忠和 (上田藩嫡子)

松平 忠和(まつだいら ただかず、寛政3年(1791年) - 文政11年4月10日(1828年5月23日))は、信濃上田藩の嫡子。官位は左衛門佐。 4代藩主・藤井松平忠済の四男として生まれる。正室は秋田孝季の娘。長兄・忠英が夭逝した後の嫡子をめぐり、御家騒動となったため、父・忠済の跡は分家からの養子・忠学が継いだ。 忠和は忠学の養子となったが、文政11年(1828年)、家督を継ぐことなく早世した。代わって、播磨国姫路藩酒井家から忠固が養子に迎えられた。 たたかす Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:上田藩の人物 Category:1791年生 Category:1828年没.

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松平忠固

松平 忠固(まつだいら ただかた)は、幕末の譜代大名、老中。信濃上田藩の第6代藩主。伊賀守系藤井松平家第8代当主。嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約という2度の条約の調印時にいずれも老中を務めた。徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して開国を主張し、幕府の開国論を牽引した支柱的存在であった。 最初の老中就任時は松平 忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物である。.

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松平忠国

松平 忠国(まつだいら ただくに)は、江戸時代の大名。.

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松平忠国 (播磨国明石藩主)

松平 忠国(まつだいら ただくに)は、江戸時代前期の大名。丹波篠山藩主、播磨明石藩主。藤井松平家嫡流第4代当主。松平信吉の長男。.

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松平忠栄 (亀山藩嫡子)

松平 忠栄(まつだいら ただひで、寛永17年(1640年) - ?)は、丹波亀山藩の嫡子。 播磨国明石藩主・松平忠国の五男。母は戸田氏鉄の娘。娘は加藤明治室。官位は従五位下、図書頭。 従兄弟の忠俊が早世したため、万治2年(1659年)に叔父の亀山藩主・松平忠晴の養子となり徳川家綱に初御目見するが、寛文6年(1666年)に廃嫡された。代わって、忠晴の次男・忠昭が嫡子となり、のち家督を継いだ。 たたひて Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:丹波亀山藩の人物 Category:1640年生 Category:没年不明.

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松平忠明

松平 忠明(まつだいら ただあきらデジタル版 日本人名大辞典+Plus)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。江戸幕府大政参与。奥平松平家の祖。三河国作手藩、伊勢国亀山藩、摂津国大坂藩、大和国郡山藩、播磨国姫路藩主。 同名の人物に、小姓組番頭・書院番頭・日光奉行・蝦夷地見分隊長などを務めた江戸時代の旗本(1765年 - 1805年)がいる。.

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松平信之

松平 信之(まつだいら のぶゆき)は、江戸時代前期の大名、老中。播磨明石藩主、大和郡山藩主、下総古河藩主。藤井松平家嫡流5代。.

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松平信重

松平 信重(まつだいら のぶしげ、寛永9年(1632年) - 正徳4年11月11日(1714年12月17日))は、江戸時代の旗本寄合。 播磨明石藩主・藤井松平家嫡流の松平忠国の三男として生まれる。万治2年(1659年)、父の死去により次兄・信之が家督を相続した際に5000石を分与される。延宝7年(1679年)、次兄が明石から大和郡山へ転封されるとこれに随従し、大和国では生駒に5000石を拝領した。貞享2年(1685年)、老中となった次兄が下総古河へ転封されるが、信重は生駒に留まり、旗本として独立した。家督は子の信周が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 のふゆき Category:1632年生 Category:1714年没.

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松平光重 (戸田松平家)

松平 光重(まつだいら みつしげ)は、江戸時代前期の大名。播磨明石藩第2代藩主、美濃加納藩初代藩主。戸田氏の嫡流にあたる戸田宗家(仁連木戸田家)18代当主。戸田松平家3代。松平忠光の長男。.

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松平光長

松平 光長(まつだいら みつなが)は、越後高田藩の藩主。越前北ノ荘藩主・松平忠直の長男で、結城秀康の孫。徳川家康の曾孫、徳川秀忠の外孫に当たる。.

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松平直基

松平 直基(まつだいら なおもと)は、江戸時代前期の大名。直基系越前松平家初代。.

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松平直きよ

松平 直暠(まつだいら なおきよ)は、出雲母里藩の第6代藩主。直政系越前松平家母里藩分家6代。 安永5年(1776年)12月12日、播磨明石藩主・松平直泰の四男として生まれる。寛政3年(1791年)4月16日、母里藩の第5代藩主・松平直行の婿養子として迎えられ、寛政4年(1792年)10月27日の直行の隠居により家督を継ぐ。 寛政8年(1796年)7月27日に死去した。享年21。跡を実弟で養子の直方が継いだ。 *06 なおきよ なおきよ Category:1777年生 Category:1796年没.

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松平直常

松平 直常(まつだいら なおつね)は、江戸時代中期の大名。播磨明石藩第2代藩主。直良系越前松平家3代。.

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松平直之 (明石藩主)

松平 直之(まつだいら なおゆき)は、江戸時代中期の大名。播磨明石藩第5代藩主。直良系越前松平家6代。.

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松平直徳

松平 直徳(まつだいら なおのり、1869年8月30日(明治2年7月23日『平成新修旧華族家系大成』下巻、605-606頁。)- 1931年(昭和6年)12月24日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』42頁。)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・祥次郎『大日本華族大鑑』177頁。。.

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松平直周

松平 直周(まつだいら なおちか)は、江戸時代後期の大名。播磨明石藩第6代藩主。直良系越前松平家7代。.

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松平直矩

松平 直矩(まつだいら なおのり)は、江戸時代前期の大名。直基系越前松平家2代。.

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松平直純

松平 直純(まつだいら なおすみ)は、江戸時代中期の大名。播磨明石藩第3代藩主。直良系越前松平家4代。.

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松平直静

松平 直静(まつだいら なおやす)は、幕末の大名、明治時代の華族。越後糸魚川藩の第8代(最後)の藩主。福井藩越前松平家分家10代。子爵。.

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松平直致

松平 直致(まつだいら なおむね、嘉永2年8月4日(1849年9月20日) - 明治17年(1884年)6月28日)は、明治時代初期の知藩事。播磨国明石藩第10代(最後)の藩主。直良系越前松平家11代。 正室は岸和田藩12代藩主岡部長寛の娘・鎮姫。官位官職は従四位上のち従四位、侍従、左兵衛督。.

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松平直泰

松平 直泰(まつだいら なおひろ)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨明石藩第4代藩主。直良系越前松平家5代。.

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松平直明

松平 直明(まつだいら なおあきら)は、江戸時代中期の大名。越前大野藩第2代藩主、播磨明石藩初代藩主。直良系越前松平家2代。.

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松平直方 (母里藩主)

松平 直方(まつだいら なおかた)は、出雲母里藩の第7代藩主。直政系越前松平家母里藩分家7代。 安永8年(1779年)11月6日、播磨明石藩主・松平直泰の九男として生まれる。寛政8年(1796年)に実兄で母里藩の第6代藩主である直暠が死去すると、兄の養女と結婚して婿養子となった上で家督を相続した。 文化14年(1817年)3月25日、家督を長男・直興に譲って隠居し、看雲と号した。天保13年(1842年)7月21日に死去した。享年64。 *07 なおかた なおかた Category:1779年生 Category:1842年没.

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松平頼幸

松平 頼幸(まつだいら よりとみ、享保4年9月29日(1719年11月10日) - 寛保2年6月28日(1742年7月29日))は、常陸府中藩の第5代藩主。第3代藩主・松平頼明の四男。母は久野氏。第4代藩主・松平頼永の異母弟。幼名は源吉。諱は頼時から頼幸に改める。 享保20年(1735年)、異母兄で先代藩主の頼永が嗣子なくして早世したため、その養嗣子として跡を継いだ。元文4年(1739年)、浅野吉長や松平頼貞と共に尾張藩主・徳川宗春に対して廃立を伝える使者を務めた。寛保2年(1742年)6月28日、24歳で死去した。頼幸にも嗣子がなく、養嗣子の頼済が跡を継いだ。.

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松平頼策

松平 頼策(まつだいら よりふみ、嘉永元年9月3日(1848年9月29日) - 明治20年(1887年)9月10日)は、常陸府中藩の第10代(最後)の藩主。第9代藩主・松平頼縄の三男。正室は松平頼胤の娘、継室は松平頼升の娘。子に頼孝(長男)、頼忠(次男)。官位は従四位下、播磨守。幼名は勇次郎。.

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松平頼縄

松平 頼縄(まつだいら よりつぐ)は、常陸府中藩の第9代藩主。.

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松平頼隆

松平 頼隆(まつだいら よりたか、寛永6年11月29日(1630年1月12日) - 宝永4年11月30日(1707年12月23日))は、江戸時代の大名。常陸保内藩主、常陸府中藩の初代藩主。 常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の五男。徳川光圀の弟。母は興正寺18世・准尊(藤原昭玄)の娘。側室に高橋氏。片岡氏。子に頼方(長男)、頼寧(次男)、頼如(三男)、娘(水谷勝美正室のち毛利元次継室)、娘(池田仲澄正室)。官位は従四位下、侍従、播磨守。母方の祖父は石山戦争で知られる本願寺門主・顕如の孫にあたる。叙位任官前は、右近また、頼母を称し、諱は頼安から頼隆に改める。 寛永6年(1629年)11月29日生まれ。寛文元年(1661年)9月、兄・光圀より保内郷33ヶ村、およそ2万石を分与されて水戸藩の支藩である保内藩を立藩した。元禄13年(1700年)9月幕府によって所領を吹上から府中に移されたため、常陸府中藩を立藩する。宝永2年(1705年)9月28日、三男の頼如に家督を譲って隠居し、宝永4年(1707年)11月30日に79歳で死去した。.

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松平頼説

松平 頼説(まつだいら よりひさ、安永7年2月27日(1778年3月25日) - 天保4年9月13日(1833年10月25日))は、常陸府中藩の第8代藩主。 松平頼陽(第6代藩主・松平頼済の次男)の長男。母は鈴木氏。正室は熊本藩主・細川治年の娘・寧子。側室に鈴木氏、曾我氏、石川氏、大庭氏など。子に頼縄(長男)、中山信守(次男)、頼功(三男)、有馬広衆(四男)、谷衛滋(五男)、知久頼匡(六男)、信(水戸支流松平頼誠正室)、娘(松平頼善室のち畠山義宣継々々室)、娘(本堂親道正室のち鈴木重矩室)などがいる。官位は従四位下、兵部大輔、侍従、播磨守。幼名は兼太郎、弁次郎。 寛政5年(1793年)11月、先代藩主の松平頼前の養嗣子となる。寛政7年(1795年)9月10日、頼前の隠居で跡を継いだ。藩校の創設や新田開発に尽力し、自身も教養に優れていたことから文学を奨励している。また、蹴鞠を趣味としており、飛鳥井雅威の門下として紫組の冠懸を許された。天保4年(1833年)9月13日、56歳で死去し、跡を長男の頼縄が継いだ。.

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松平頼永

松平 頼永(まつだいら よりなが、正徳3年11月27日(1714年1月13日) - 享保20年8月25日(1735年10月11日))は、常陸府中藩の第4代藩主。第3代藩主・松平頼明の長男。母は林氏。正室は磐城平藩主・内藤政樹の妹で、内藤義英の娘・菊姫。任官叙位前は、織部を称する。 享保18年(1733年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし2年後の享保20年(1735年)8月25日に23歳で死去した。嗣子がなく、跡を異母弟の頼幸が継いだ。.

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松平頼済

松平 頼済(まつだいら よりすみ、享保5年11月29日(1720年12月28日) - 天明4年5月29日(1784年7月16日))は、常陸府中藩の第6代藩主。 陸奥守山藩主・松平頼貞の七男。母は松本氏。正室は亀山藩主・石川総慶の娘・愛姫、継室は徳川宗直の六女・賢姫。子に頼前(長男)、頼陽(次男)、頼贇(三男)。幼名は貞五郎。 寛保2年(1742年)、先代藩主の松平頼幸が嗣子なくして早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。同じ支藩の守山藩主・松平頼寛(頼済の実兄)とともに老中堀田正亮の役邸に呼び出しを受けて水戸藩の財政改革を行うことを直接命じられ、これが水戸藩の宝暦の改革となった。天明4年(1784年)5月29日に65歳で死去し、跡を長男の頼前が継いだ。.

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松平頼明 (常陸府中藩主)

松平 頼明(まつだいら よりあき、元禄4年5月11日(1691年6月7日) - 享保18年9月6日(1733年10月13日))は、常陸府中藩の第3代藩主。松平頼福(徳川頼房の八男・松平頼泰の子)の長男。母は進藤氏。正室は右大臣・今出川公規の娘で、徳川綱條の養女となった益姫。側室に久野氏、林氏。子に頼永(長男)、武元(次男)、遠山友明(三男)、頼幸(四男)、亀井茲胤(五男)、娘(織田信右正室)、娘(松平信友正室)。幼名は源三郎。任官叙位前は通称を掃部を称した。 宝永4年(1707年)12月、先代藩主の松平頼如(頼房の五男で初代藩主・松平頼隆の子)が嗣子なくして死去したため、その養嗣子として翌年の閏正月5日に家督を継いだ。享保18年(1733年)9月6日、43歳で死去し、跡を長男の頼永が継いだ。.

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松平近栄

松平 近栄(まつだいら ちかよし、寛永9年9月28日(1632年11月10日) - 享保2年9月19日(1717年10月23日))は、出雲広瀬藩の初代藩主。直政系越前松平家広瀬藩分家初代。 松江藩初代藩主・松平直政の次男。母は久松松平忠良の娘。兄に松江藩第2代藩主となった松平綱隆がいる。正室は大野藩主・松平直良の娘・了達院(満姫)。子に近時(長男)、繁姫(田村建顕正室)、娘(戸田光正継室)。官位は従五位下、上野介。諱の「近」の字は、甥(綱隆の子)で松江藩第3代藩主となった松平綱近から偏諱を賜ったものと考えられるが確証はない。.

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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松平清道

松平 清道(まつだいら きよみち)は、播磨姫路新田藩の藩主。.

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松平朝矩

松平 朝矩(まつだいら とものり)は、江戸時代中期の大名。はじめ播磨姫路藩主、ついで上野前橋藩主、さらに武蔵川越藩主。直基系越前松平家5代。松平明矩の長男。.

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松平明矩

松平 明矩(まつだいら あきのり)は、江戸時代中期の大名。直基系越前松平家4代。.

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松平斉宣

松平 斉宣(まつだいら なりこと)は、播磨明石藩第8代藩主。直良系越前松平家9代。 11代将軍・徳川家斉の二十六男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。家斉の末息子であり、甥にあたる13代将軍・徳川家定よりも年下である。同母兄に越前福井藩主となった松平斉善、武蔵川越藩の嫡子である松平斉省がいる。.

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松平斉善

松平 斉善(まつだいら なりさわ)は、江戸時代後期の大名。福井藩の第15代藩主一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第13代となる。。江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の二十二男。第12代将軍・徳川家慶の異母弟であり、同父の兄弟は多数。同母弟に越前松平家の分家筋の直基系の武蔵川越藩養子松平斉省(家斉二十五男)、同じく直良系にあたる播磨明石藩主の松平斉宣(家斉二十六男)。.

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松平斉典

松平 斉典(まつだいら なりつね)は、武蔵国川越藩の第4代藩主。直基系越前松平家8代。第2代藩主松平直恒の四男。.

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松平斉韶

松平 斉韶(まつだいら なりつぐ)は、江戸時代後期の大名。播磨明石藩第7代藩主。直良系越前松平家8代。.

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松平慶憲

松平 慶憲(まつだいら よしのり)は、江戸時代後期から末期の大名。播磨明石藩第9代藩主。直良系越前松平家10代。.

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松囃子

松囃子(まつばやし、まつはやし)は年頭に福を祝って行う芸事のこと。松の内におこなう囃子の意。松拍子・松拍とも。室町時代に盛んに行われていた。1月の季語。 足利義満が都落ちして播磨国の赤松氏の白旗城に居していた折に義満を慰めるため披露した芸事を、義満が上洛してのちに正月13日に赤松家によっておこなうのを習慣とした旨の記述が『満済准后日記』にある。この習慣が京都から全国各地へと広まったのが起源とされる。 松囃子では、唱門師や散所などの芸能専業者のみならず村民や町人など各階層の人間が着飾り仮装し、京都においては室町御所へ、地方においては守護など各地の権力者の邸宅へ参向し、舞や囃子が披露され、祝辞が述べられる。その返礼として禄物が授けられる。『看聞日記』には、永享9年(1437年)に下京の町人の女房らが室町御所に参向して囃子を披露した「女松囃子」についての記述がある。また大名らも家来を率いて幕府政庁を訪れ将軍に舞を披露していた。 松囃子はその様相から、人家の門前で音曲を奏し金品を貰う「門付け」や、念仏踊りや獅子舞の起源である中世芸能の「風流」の一種とも言える。 江戸時代になると、江戸城内に正月2日(のちには3日)の夜に大名らを集めておこなう謡初を松囃子と呼ぶようになり、町人にもこの慣わしが広まったとされる。 菊池市の菊池神社の秋の例祭でとりおこなわれる重要無形民俗文化財の「松囃子御能」は、室町時代の形態が良く保存されており、観世宗家に伝わる松囃子と共通する部分があって深い関連が考えられている。また博多どんたくの起源である博多松囃子も、松囃子の形態を残している。.

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松田元成

松田 元成(まつだ もとなり)は、室町時代後期の武将。.

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松村介石

松村 介石(まつむら かいせき(本名読み:すけいし)、1859年11月9日(安政6年10月15日) - 1939年(昭和14年)11月29日)は、日本のプロテスタント系新宗教の指導者。植村正久、内村鑑三、田村直臣と共に、キリスト教界の四村と呼ばれた。昆虫学者松村松年の実兄。道会の創設者。.

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松殿師家

松殿 師家(まつどの もろいえ)は、平安時代末期の貴族。松殿基房の三男。位階は正二位、官職は内大臣。摂政を務めた。.

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松永市

松永市(まつながし)は、かつて広島県に存在した市である。 1966年5月1日、福山市と合併(新設合併)し、新たに福山市となった。ちなみに福山・松永両市の合併は中国地方では初めての市同士の合併であった。.

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松江藩

藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。.

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松本荘一郎

松本 荘一郎(まつもと そういちろう、嘉永元年5月23日(1848年6月23日) - 明治36年(1903年)3月19日)は、日本の鉄道官僚、技術者。工学博士。幼名は泰蔵。松本烝治の父。.

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松本藩

松本城(現存天守) 松本藩(まつもとはん)は、江戸時代に信濃国に存在した藩。藩庁は松本城。延宝年間の人口は90,000人。.

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板宿八幡神社

板宿八幡神社(いたやどやはたじんじゃ、いたやどはちまんじんじゃ)は、兵庫県神戸市須磨区板宿町にある神社。.

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杜氏

杜氏(とうじ、とじ)とは、日本酒の醸造工程を行う職人集団、すなわち蔵人の監督者であり、なおかつ酒蔵の最高製造責任者をいう。.

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村山藩

村山藩(むらやまはん)は、江戸時代中期に出羽国(後の羽前国)村山郡(現在の山形県村山市)に存在した藩。.

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村上市

村上市(むらかみし)は、新潟県の北部、日本海に面した市である。.

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村上備中入道

村上備中入道(むらかみびっちゅうにゅうどう)は、室町時代の武将。海賊衆・警固衆因島村上氏の初代当主。村上吉豊(むらかみよしとよ)または村上顕長(むらかみあきなが)とも。左衛門大夫。備中守。備中入道。村上顕成の次男。村上吉資の父。.

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村上藩

村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.

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村国志我麻呂

村国 志我麻呂(むらくに の しがまろ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。名は志賀麻呂とも記される。姓(カバネ)は連。贈外小紫・村国男依の子。位階は従五位上。.

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村米制度

村米制度(むらまいせいど)は、播磨地方の酒米産地と灘五郷をはじめ特定の蔵元との間で結ばれる、酒米取引制度(現:酒造業者)のことを言う。.

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村松茂清

村松 茂清(むらまつ しげきよ、通称:九太夫、1608年(慶長13年)? - 1695年(元禄8年))は、江戸時代の数学者、和算家である。 常陸国那珂郡出身で、1663年に全3巻からなる球の体積について記載のある『算爼』を著し、同年に日本で初めて円周率を小数第7桁まで数学的に計算した数学者として知られる。また、今村知商と並んで円理の研究に於ける先駆者だった。 のちに赤穂藩浅野家に仕え、養子の村松秀直は赤穂浪士のひとりとなっている。弟子には矢部定玄、樋口兼次、片岡豊忠、湯浅得之、野村政茂らがいる - コトバンク、2012年9月25日閲覧。。.

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杉原家次

杉原 家次(すぎはら いえつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。羽柴秀吉の家臣。丹波福知山城および近江坂本城主。.

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杉原紙

1970年代に再興された杉原紙 杉原紙(すぎはらがみ、すいばらがみ、椙原紙)は、和紙の一種である。 杉原紙、椙原紙、のほか、歴史的には単に「杉原」とするほか、「すいば」「すいはらがみ」「すいはら」「すい」や「水原」「水原紙」の表記もみられる。 九州から東北の各地で生産され、中世には日本で最も多く流通し、特に武士階級が特権的に用いる紙としてステータスシンボルとなった。近世には庶民にまで普及したが、明治に入ると急速に需給が失われ、姿を消した。 その後「幻の紙」とされていたが、近年になって、原産地が兵庫県であると考えられるようになり、現地で和紙の生産が再開された。再興後は「杉原紙」の名称で兵庫県の伝統工芸品とされている。.

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栗山利安

栗山 利安(くりやま としやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。 黒田氏の筆頭家老で、黒田二十四騎、黒田八虎の1人である。黒田孝高の股肱の家臣として厚い信任を受ける。家臣の中では序列第1位であって一老と称された。子に黒田騒動を起こした事で有名な利章がいる。通称は善助(ぜんすけ)。.

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桐山信行

桐山 信行(きりやま のぶゆき/のぶつら)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。福岡藩士。黒田二十四騎の一人。.

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桃山文化

武田(1969)p.135。昭和天皇崩御後は御物(皇室所有品)ではなく国有(三の丸尚蔵館保管)となっている。) 桃山文化(ももやまぶんか)または安土桃山文化(あづちももやまぶんか)は、織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められていた安土桃山時代の日本の文化である尾藤(2000)pp.150-151。この時代、戦乱の世の終結と天下統一の気運、新興大名・豪商の出現、さかんな海外交渉などを背景とした、豪壮・華麗な文化が花ひらいた。 なお、「桃山文化」の呼称は、主として美術史の分野において多用される時期区分であり、その場合は徳川家康による江戸幕府開幕後の17世紀初頭も含めることが多い家永三郎は、文化史のうえでは、寛永年間(1624年-1644年)ころまでを桃山時代として扱うのが適切であるとしている。家永(1982)pp.163-164。本項でも、この時期区分に準じ、16世紀後半から17世紀初めにかけての文化事象について、その概略を述べる。.

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桃井直常

桃井 直常(もものい ただつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。足利氏一門で家臣。父は桃井貞頼。弟に直信、直弘。子に直和、直知、橋本直安、直久、直政、康儀、直藤、正雲禅師(高岡国泰寺住持)、養子:直弘 桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村、旧名桃井村)を苗字の地とする。.

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桑名城

桑名城(くわなじょう)は、三重県桑名市にあった日本の城である。江戸時代は伊勢桑名藩の藩庁が置かれた。.

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桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。.

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桂蔵坊

桂蔵坊(けいぞうぼう)は、鳥取県東部に伝わる伝説。経蔵坊狐(きょうぞうぼうぎつね)、飛脚狐(ひきゃくぎつね)とも呼ばれる。.

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梶原景時

梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。.

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梶原景時の変

梶原景時の変(かじわらかげときのへん)は、鎌倉時代初期の正治元年10月25日から翌正治2年1月20日(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件である。頼朝死後に続く幕府内部における権力闘争の最初の事件であった。.

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梶井基次郎

梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年(明治34年)2月17日 - 1932年(昭和7年)3月24日)は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した「生い立ち」()「文章読本――短篇小説の文章」(婦人公論 1959年1月号付録)。、に所収高橋英夫「存在の一元性を凝視する」()。 死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている平田次三郎「解説」(『現代文学代表作全集第1巻』万里閣、1948年6月)。「III 反響と残映――資料編」()。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している。 梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石や森鴎外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、中村光夫、川端康成、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。.

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梅嶺院

梅嶺院(ばいれいいん、寛永20年6月11日(1643年7月26日) - 宝永元年8月8日(1704年9月20日))は、江戸時代中期の女性。高家・吉良義央の正室。俗名上杉富子。.

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梛神社

梛神社(なぎじんじゃ)は、京都府京都市中京区壬生にある神社。通称は「元祇園社」。 境内には大正期に遷座した式内大社の隼神社(はやぶさじんじゃ)が鎮座する。.

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棚倉藩

棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。.

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森可敦

森 可敦(もり よしあつ、享保元年(1716年) - 安永5年10月4日(1776年11月14日))は、播磨国三日月藩の世嗣。2代藩主・森長記の長男。子は娘(船越景順正室)、娘(滝川利広正室のち松平定寅正室)、娘(平岡良寛養女)。通称、左京。 三日月藩嫡子として育ち、享保15年(1730年)に徳川吉宗に拝謁する。しかし病弱を理由に元文元年(1736年)に廃嫡され、代わって弟の俊春が嫡子となった。安永5年(1776年)、61歳で死去した。法名は盛徳院可敦棄雲。 よしあつ Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1716年生 Category:1776年没.

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森三信

森 三信(もり みつのぶ、元和6年(1620年) - 貞享元年8月7日(1684年9月16日))は、美作津山藩家老。 旗本森可澄の次男。津山藩家老森可春の養子。祖父は森可政。正室は関成次の娘於長(津山藩2代藩主森長継の妹)。子は森包一(病弱のため部屋住)、森三隆、関衆令室於美貴、湯浅武朝室於蘭。孫は播磨赤穂藩の第2代藩主森長孝。初名は可則。通称は宗兵衛。 寛永11年(1634年)叔父可春の養子となり家督相続。禄高7000石。祖父可政の通称宗兵衛を名乗った。正保2年(1645年)森可成室妙向禅尼50回忌に、藩主長継の代香として京都西本願寺に遣わされる。万治2年(1659年)4月11日江戸城本丸、二の丸の石垣普請の勤労に対し時服と白銀を賜る。延宝2年(1674年)5月26日藩主長武の家督相続の御礼言上の際に、森家家老・長尾隼人共一、神尾蔵人正勝、百々玄蕃一信とともに将軍家綱に拝謁する。貞享元年(1684年)8月7日没。享年65。家督は嫡男可雄(三隆)が相続した。.

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森三隆

森 三隆(もり みつたか、万治元年12月23日(1659年1月15日) - 享保15年12月28日(1731年2月4日))は、美作津山藩家老。後に備中西江原藩及び播磨赤穂藩家老を歴任。 森家家臣森三信の嫡男。母は関成次の娘於長(津山藩2代藩主森長継の妹)。正室は森長継の娘兼。子は森正典室於力、赤穂藩第2代藩主森長孝(可豊)。養子に後に第3代藩主となる森長生、森正典後室於梅(森正紹娘)。曽祖父に森可政。初名は可雄。通称は百助、采女。 天和3年(1683年)藩主森長継の娘兼と結婚。貞享元年(1684年)家督相続し采女と名乗る。禄高は家臣筆頭の7000石(但し筆頭家老は長尾勝明)。貞享3年(1686年)7月、藩主長成の家督相続の御礼言上の際に、森家家老・長尾隼人勝明、森所左衛門正方、各務三右衛門糺英(正直)とともに将軍綱吉に拝謁する。元禄10年(1697年)8月津山藩が改易となる。同年10月於長との間に嫡子九一郎(長孝)が誕生(幕府には生年を元禄7年(1694年)と届けている)。津山城を引き渡し、引き続き森本家の家老として西江原藩、更に赤穂藩に移る。享保4年(1719年)長孝が藩主森長直の婿養子となったため、養嫡子として各務利直の長男長生を養子に迎える。享保7年(1723年)12月隠居し長生に家督を譲る。同年10月に藩主長孝が重態となり、長生がその末期養子に迎えられ、同年12月に3代藩主となる。享保15年12月28日没。享年73。家督は享保19年(1734年)本多家家臣林直道の子可直が養子入りし相続するも森家を退身して一時断絶。後に明石藩士小泉長如の子可賛(後に三益)が養子入りして名跡を継いだ。.

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森一鳳

森 一鳳(もり いっぽう、寛政10年(1798年) - 明治4年11月21日(1872年1月1日)は、江戸時代後期に大坂で活躍した絵師。森狙仙、森徹山、一鳳と続く森派の絵師。名は敬之、字は子交・子孝、通称は文平。.

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森俊韶

森 俊韶(もり としつぐ、寛延3年7月18日(1750年8月19日)- 寛政9年2月4日(1797年3月2日))は、播磨三日月藩の第4代藩主。 第3代藩主・森俊春の長男。母は関長広の娘。正室は阿部正敏の娘。官位は従五位下、対馬守、河内守。幼名は達五郎。 乃井野にて生まれる。安永3年(1774年)5月29日、父の隠居で跡を継いだ。長男と次男が早世していたため、寛政5年(1793年)11月10日に妹婿で養嗣子の快温に家督を譲って隠居し、寛政9年(1797年)2月4日に江戸で死去した。享年48。法号は俊韶院殿勇道日義大居士。墓所は東京都大田区池上の本行寺。 としつく としつく Category:1750年生 Category:1797年没.

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森俊滋

森 俊滋(もり とししげ、天保4年(1833年)? - 明治12年(1879年)6月9日)は、播磨国三日月藩の第9代(最後)の藩主。 第8代藩主・森長国の次男。母は側室林氏。子に森長祥(長男)、伊代子(大田原一清正室)、娘(藤堂高義正室)。官位は従五位下、伊豆守、対馬守。幼名は松之助。 天保4年(1833年)、もしくは天保6年(1835年)5月生まれと言われている。妾腹の息子であったが、正室との間に生まれていた虎松丸が早世したため、天保14年(1843年)に世子となった。弘化4年(1847年)2月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。嘉永元年(1848年)9月10日、父長国の隠居により跡を継ぐ。同年12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。 慶応4年(1868年)1月18日、上洛し、新政府支持の姿勢を示す。同年2月4日、新政府から二条城の守備を命じられる。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。明治12年(1879年)6月9日、三日月で死去した。法号は俊滋院殿光山日明大居士。墓所は兵庫県佐用郡佐用町東大畑の常勝院。.

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森俊春

森 俊春(もり としのぶ、享保11年2月5日(1726年3月8日) - 文化3年6月4日(1806年7月19日))は、播磨国三日月藩の第3代藩主。 第2代藩主・森長記の五男。母は井波氏の娘の重。正室は関長広の娘類。子に森俊韶(長男)、娘(池田政香継室)、娘(長谷川正満正室)、娘(林正周養女)、曾代(森快温正室)。養女に上田義茂室(実父は、関政富の四男関富昌)。官位は従五位下、対馬守、安芸守、佐渡守。 江戸で生まれる。幼名は勝五郎。元文元年(1736年)、兄の可敦が病弱を理由に廃嫡されたため、世子となる。元文4年(1739年)6月26日、父の隠居で家督を継いだ。延享2年4月、幕府より美作国および播磨国において5万4430石の幕領を預かる。家臣深沢君山に命じて、祖先の逸話を著した「森氏雑話」を編纂させた。安永3年(1774年)5月29日、長男・俊韶に家督を譲って隠居した。 文化3年(1806年)6月4日に江戸で死去した。享年81。法号は俊晴院殿智道日覚大居士。墓所は東京都大田区池上の本光寺。 としのふ としのふ Category:1726年生 Category:1806年没.

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森忠徳

森 忠徳(もり ただのり)は、播磨赤穂藩の第10代藩主。赤穂藩森家16代。 文化15年(1818年)3月24日、第9代藩主・森忠敬の三男として生まれる。父の死後、家督は兄の忠貫が継いでいたが、文政10年(1827年)5月に早世した。忠貫には嗣子が無く、藩では改易や減封を恐れて6月に忠徳を忠貫の替え玉(表向きは同一人物)として擁立した。そのため記録上では、文政7年(1824年)8月5日に家督を継いだことにされている。 天保3年(1832年)12月26日、従五位下・信濃守に叙位・任官する。若年のため、分家の森主税家出身の家老・森可真が藩政を行い、緊縮財政政策を採用して藩財政の再建を目指した。しかし、天保の大飢饉でさらなる被害を受け、窮した可真は借金返済の繰り延べを商人に求めたが、逆にその商人らに大坂城代に訴えられるほどで、結局のところ天保9年(1838年)に失脚する。 代わって藩主一門の森采女家出身の家老・森三勝が実権を握り、倹約を中心とした5ヵ年計画を行ったが、嘉永2年(1849年)に借金が27万両になるなどして効果がなく、失敗して失脚する。今度は、藩主一門の森続之丞家出身の家老・森可則と勘定奉行・鞍懸寅次郎による改革が行われる。この間、忠徳は病弱で藩政を執ることもできず、長男・忠弘が名代として藩政を行っていたが、この改革も忠弘の急死によって失敗し、可則らは可真によって追放・蟄居に処せられ、以後は可真によって赤穂藩は専横されることとなる。 忠徳は文久2年(1862年)1月21日、次男・忠典に家督を譲って隠居する。明治14年(1881年)12月27日に死去した。享年64。.

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森忠哲

森 忠哲(もり ただあきら)は、播磨赤穂藩の第8代藩主。赤穂藩森家14代。 天明8年(1788年)1月4日、第7代藩主・森忠賛の四男として生まれる。享和元年(1801年)5月23日、父の隠居で家督を継ぎ、12月に従五位下・和泉守に叙位・任官する。 文化3年(1806年)に江戸藩邸が類焼するなど、藩財政が悪化するなどの中で、文学の発展に尽力したが、文化4年(1807年)5月25日に死去した。享年20。跡を弟で養子の可睦(後に改名して忠敬)が継いだ。 文学を好んだ忠哲は、森家累代の事績を明らかにするため、森家に残る書状や家臣の家に伝わる書状などを集めた書を『森家先代実録』と銘打ち、その編纂を意欲的に行っていたが志半ばで倒れ、完成には至らなかった。しかし、弟の可睦が忠哲の遺志を継いで文化6年(1809年)完成に至った。そのため、実録には「森忠賛閲・森忠哲纂輯・森可睦追考」と記されている。 この『先代実録』は、伝承レベルの記述も若干含むものの、戦国時代に活躍した森可成の頃からの森家の業績が、他の歴史書では伺いしれないような出来事まで仔細に調べられており、現在でも森家の事績を解き明かす上で史料価値の高い書となっている。 たたあきら 森08 Category:1788年生 Category:1807年没.

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森忠儀

森 忠儀(もり ただのり)は、播磨赤穂藩の第12代(最後)の藩主。赤穂藩森家19代。 嘉永3年(1850年)4月24日、第10代藩主・森忠徳の三男として生まれる。慶応4年(1868年)3月19日、同母兄で第11代藩主の忠典が隠居したため、その養子として家督を継ぎ、従五位下・越後守に叙位・任官する。戊辰戦争では新政府に与して姫路藩攻撃に参加した。 明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により赤穂藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で藩知事を免官された。明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵に叙せられた。明治18年(1885年)10月15日に死去した。享年36。 たたのり 森13 Category:幕末の大名 Category:日本の子爵 Category:1850年生 Category:1885年没.

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森忠典

森 忠典(もり ただつね)は、播磨赤穂藩の第11代藩主。赤穂藩森家18代。 弘化4年(1847年)12月23日、第10代藩主・森忠徳の次男として生まれる。万治元年(1860年)12月16日、従五位下・美作守に叙位・任官する。文久2年(1862年)1月21日、父の隠居により家督を継ぐ。12月9日には保守派で権勢を振るっていた森主税と村上真輔が攘夷派の下級藩士によって暗殺され、その後は森続之丞が若年の忠典に代わって藩政を執ったが、このために赤穂藩は尊王派・佐幕派で分裂して藩論がまとまらずに混乱した。 元治元年(1864年)の第1次長州征伐、慶応2年(1866年)に第2次長州征伐では幕府方として大坂警備を務めた。 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れた後の1月12日に新政府に与した。直後の3月19日に家督を同母弟で養子の忠儀に家督を譲って隠居した。明治16年(1883年)7月8日に死去した。享年37。 たたつね 森12 Category:幕末の大名 Category:1848年生 Category:1883年没.

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森忠貫

森 忠貫(もり ただつら、文化13年閏8月13日(1816年10月4日) - 文政10年5月28日(1827年6月22日))は、江戸時代後期の播磨国赤穂藩の実質的な第10代藩主だった人物である。赤穂藩森家実質16代。 文化13年(1816年)閏8月13日、第9代藩主・森忠敬の長男として生まれる。幼名は勝蔵。父が文政7年(1824年)6月4日に死去したため、8月5日に家督を継いだ。文政9年(1826年)4月19日に江戸本所の御蔵火番に任じられた。 文政10年(1827年)5月28日に死去した。享年12。戒名は顕良院殿鶴山伯一童子。墓所は東京都港区東麻生の瑠璃光寺。 忠貫には継嗣が無く、改易や減封を恐れた藩では、弟の忠徳を身代わりにして立て、忠貫没後の6月に家督を継がせたとある。このため、忠貫は歴代藩主として数えられず、後に忠貫が忠徳と改名したとされているため、第10代藩主の忠貫と忠徳は同一人物とされている(森家譜より)。.

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森忠賛

森 忠賛(もり ただすけ)は、播磨赤穂藩の第7代藩主。赤穂藩森家13代。 宝暦8年(1758年)、第5代藩主・森忠洪の三男として生まれる(生年は宝暦10年(1760年)4月12日とも)。 安永9年(1780年)4月29日、兄で第6代藩主の忠興から世子に指名され、8月6日の兄の隠居で家督を継ぎ、12月18日に従五位下・伊予守に叙位・任官する。 藩政では父・兄の学問振興的な政治路線から一変し、質素倹約や塩田開発、御用金調達、「国産塩専売仕法」による塩の専売など、現実的な藩政改革を行なって財政の引き締めを行なっている。ただし学問的な素養はあったようで、俳諧の道に進んで文学の発展にも尽くしている。 享和元年(1801年)5月23日、家督を四男・忠哲に譲って隠居する。後に美濃守に遷任する。天保8年(1837年)7月19日(7月17日とも)に死去した。享年80。 たたすけ 森07 Category:1758年生 Category:1837年没.

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森忠興

森 忠興(もり ただおき)は、播磨赤穂藩の第6代藩主。赤穂藩森家12代。 宝暦2年(1752年)1月3日、第5代藩主・森忠洪の長男として生まれる。明和5年(1768年)2月15日に第10代将軍・徳川家治と拝謁し、12月18日に従五位下・山城守に叙位・任官する。明和6年(1769年)7月23日、父の隠居で家督を継ぐ。 藩政では父の政治路線を受け継ぎ、文学の発展に尽くした。しかし明和・安永期の飢饉などで塩田が大被害を受け、藩財政は悪化した。安永9年(1780年)8月6日、家督を弟で養子の忠賛に譲って隠居する。天明元年(1781年)に出雲守に遷任する。天明4年(1784年)1月30日(1月29日とも)に死去した。享年33。 たたおき 森06 Category:1752年生 Category:1784年没.

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森忠洪

森 忠洪(もり ただひろ)は、播磨赤穂藩の第5代藩主。 享保13年(1728年)、藩主森家の家老・森正典の子として生まれる(生年は享保16年(1731年)10月23日とも、また各務利直の七男ともいわれる)。 延享3年(1746年)12月8日に第4代藩主・森政房が死去したため、その養子となる。延享4年(1747年)2月6日に家督を継ぎ、12月15日に従五位下・和泉守に叙位・任官する。生来から学問好きだったため、藩財政難打開を目指して文人を数多く登用し、その文人による学問的な藩政改革を行なった。主に塩田開発を行なったが、この改革は一時的に成功し、後に「大盛院(忠洪の戒名)時代」と称されている。 明和6年(1769年)7月23日、長男・忠興に家督を譲って隠居し、以後は秋香亭傘路と号して俳諧の道を歩み、「秋香亭句集」を残している。安永5年(1776年)6月2日に死去した。享年49。 たたひろ 森05 Category:1728年生 Category:1776年没.

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森忠政

森 忠政(もり ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃川中島藩主、後に美作津山藩の初代藩主。.

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森忠敬

森 忠敬(もり ただよし)は、播磨赤穂藩の第9代藩主。赤穂藩森家15代。 寛政6年(1794年)6月20日、第7代藩主・森忠賛の十男として生まれる。文化4年(1807年)に兄で第8代藩主の忠哲が死去したため、その養子として家督を継いだ。文化5年(1808年)8月15日に第11代将軍・徳川家斉と拝謁し、12月16日に従五位下・美作守に叙位・任官する。 文政面では、兄の忠哲が先代の事績を明らかにすべく編集していた『森家先代実録』の制作を引き継ぎ、儒学者の村上中所の監修で制作を進め、文化6年(1809年)に28巻からなる『実録』を完成させた。また忠敬は、さらに補遺の作成を命じ、文化8年(1811年)に補遺2巻も完成した。全30巻からなるこの『実録』は、戦国時代からの森家の事績を仔細に調べ上げており、現在に至っても森家のことを調べる上で重要な書となっている。 藩政においては、文化8年(1811年)と文化14年(1817年)に塩田開発を積極的に行い、塩問屋との関係強化に努めて藩財政再建を目指した。また、藩校の博文館をさらに拡張した。文化10年(1813年)に越中守に遷任し、後に肥後守に遷任する。文政7年(1824年)6月8日(異説として6月4日)に死去した。享年31。 森家譜によると、跡を長男・忠貫が継いでいる。ただし忠貫は早世したため、三男・忠徳が替え玉(表向き同一人物)として擁立され、忠貫は歴代藩主に数えられていない。 たたよし 森09 Category:1794年生 Category:1824年没.

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森快温

森 快温(もり はやあつ、明和6年10月18日(1769年11月15日)- 享和元年9月27日(1801年11月3日))は、播磨三日月藩の第5代藩主。 安芸広島藩主・浅野重晟の三男。正室は森俊韶の養女・曽代(森俊春の娘で俊韶の妹)。官位は従五位下、下野守。 広島城で生まれる。幼名は木工之丞。初名は長従。寛政5年(1793年)5月、嗣子のない先代藩主俊韶の養嗣子となる。同年8月11日、将軍徳川家斉に拝謁した。同年11月10日、養父俊韶の隠居により跡を継いだ。同年12月、従五位下下野守に叙任した。藩政においては藩校・広業館を創設して、藩士子弟の教育化に努めた。享和元年(1801年)9月27日、33歳で死去し、跡を養嗣子の長義が継いだ。法号は快温院殿野州刺史鷲峯宗雲大居士。墓所は佐用郡佐用町の高蔵寺。 はやあつ Category:浅野氏 はやあつ Category:1769年生 Category:1801年没.

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森長孝

森 長孝(もり ながたか、元禄7年(1694年)- 享保8年10月30日(1723年11月27日))は、播磨赤穂藩の第2代藩主。赤穂藩森家8代。 藩主森家の家老森三隆の三男。母は先代藩主の父森長継の七女で、先代藩主森長直の甥に当たる。正室は森長直の娘。官位は従五位下。志摩守。 元禄7年(1694年)、森家の津山藩時代に津山にて生まれる。幼名は九一郎。帯刀。享保4年(1719年)、先代藩主・長直の婿養子となる。享保7年(1722年)、長直の死去により跡を継いだが、翌年10月30日に30歳で死去し、跡を養嗣子の長生が継いだ。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 なかたか 森02 Category:1694年生 Category:1723年没.

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森長俊

森 長俊(もり ながとし、慶安2年9月8日(1649年10月13日)- 享保20年6月4日(1735年7月23日))は、美作津山新田藩主、のち播磨三日月藩初代藩主。 美作津山藩主森長継の五男。母は側室で湯浅丹後の娘の継光院。正室は永井尚政の娘。子に長記(長男)、長広(次男)、光照。官位は従五位下、対馬守。幼名は松之助。 美作の鶴山城にて生まれる。延宝4年(1676年)4月、1万5000石を父より与えられる。しかし幕府からは津山新田藩はただちには藩として公認されず、正式に公認されたのは貞享元年(1684年)10月21日であった。元禄10年(1697年)8月、本家の津山藩森家が改易されると、同年10月19日に三日月藩に移封された。正徳5年(1715年)7月27日、長男の長記に家督を譲って隠居し、快翁と号した。享保20年(1735年)6月4日、江戸大崎邸にて病死した。享年87。法号は長俊院殿前対州刺史快翁日好大居士。墓所は東京都大田区池上の本行寺。 藩主としては有能な人物だったといわれている。 なかとし なかとし Category:美作国の藩主 Category:津山藩の人物 Category:1649年生 Category:1735年没.

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森長国

森 長国(もり ながくに、文化7年(1810年)- 安政4年11月8日(1857年12月23日))は、播磨国三日月藩の第8代藩主。 第6代藩主・森長義の長男。母は側室某氏。正室は小笠原長貴の娘。子は森俊滋(次男)、於城(平野長発正室)。官位は従五位下、佐渡守。幼名、芝二郎。 父が隠居した翌年に江戸で生まれた。文化13年(1816年)10月16日、養父長篤の死去により、末期養子として家督を継いだ。文政9年(1826年)10月15日、将軍徳川家斉に拝謁した。同年12月16日、従五位下佐渡守に叙任した。嘉永元年(1848年)9月10日、隠居し、次男俊滋に家督を譲った。安政4年(1857年)11月8日に48歳で死去した。法号は長国院殿寿山日行大居士。墓所は東京都大田区池上の本行寺。 なかくに なかくに Category:1810年生 Category:1857年没.

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森長篤

森 長篤(もり ながあつ、寛政7年(1795年)- 文化13年8月23日(1816年9月14日))は、播磨三日月藩の第7代藩主。 播磨赤穂藩主・森忠賛の十一男。森忠哲、森忠敬の弟。官位は従五位下。対馬守。幼名は猪松。内記。 江戸で生まれる。文化5年(1808年)8月27日、先代藩主長義の養嗣子となる。文化6年(1809年)4月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年5月20日、養父長義の隠居で跡を継いだ。文化9年12月16日、従五位下対馬守に叙任する。文化13年(1816年)閏8月23日、22歳の若さで江戸で死去し、跡を養嗣子の長国が継いだ。法号は長篤院殿鶴林日山大居士。墓所は東京都大田区池上の本光寺。 なかあつ なかあつ Category:1795年生 Category:1816年没.

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森長継

森 長継(もり ながつぐ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。美作津山藩の第2代藩主。後に備中西江原藩の初代藩主となる。.

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森長義

森 長義(もり ながよし)は、播磨三日月藩の第6代藩主。 備中新見藩主・関長誠の次男として江戸で生まれる。享和元年(1801年)12月4日、先代藩主快温の死去により、その末期養子として跡を継いだ。同年12月15日、将軍徳川家斉に拝謁した。同年12月28日、従五位下河内守に叙任した。文化6年(1809年)5月20日、養嗣子長篤に家督を譲って若くして隠居した。天保8年(1837年)8月20日に51歳で死去した。 なかよし なかよし なかよし Category:1787年生 Category:1837年没.

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森長生

森 長生(もり ながなり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。 元禄11年(1698年)、赤穂藩重臣の各務利直の長男として生まれる(生年は元禄4年(1691年)閏8月13日、または元禄7年(1694年)とも)。 享保8年(1723年)に第2代藩主・長孝が死去したため、その養子として家督を継いだ。そして12月28日に従五位下・越中守に叙位・任官する。 享保16年(1731年)6月26日に死去した。享年34。跡を弟で養子の政房が継いだ。 なかなり Category:加賀美氏 森03 Category:1698年生 Category:1731年没.

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森長直

森 長直(もり ながなお)は、備中西江原藩の第2代藩主、後に播磨赤穂藩の初代藩主となる。 寛文12年(1672年)11月22日、美作津山藩第2代藩主(後に西江原藩初代藩主)森長継の八男として生まれる。父は延宝2年(1674年)に隠居し、兄の長武が跡を継いだ。長武も貞享3年(1686年)に隠居し、長武と長直の甥である長成が跡を継いだ。長直は元禄7年(1694年)に長成から1500俵を分与されている。長成は生来虚弱であったが、中野村(現東京都中野区)の犬屋敷お手伝い普請に伴う、多大な借財が原因の藩内の混乱に心労を深め元禄10年(1697年)に死去した。しかし、嗣子がなかった。 隠居の長継は長直の弟である関衆利(森衆利)を長成の継嗣として認めてもらうよう幕府に訴え、幕府もこれを承諾した。しかし、衆利が継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で乱心したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)8月2日に領地を召し上げ、津山藩森家は改易された。 ただし、幕府は長継に与えていた隠居料である美作国内の2万石を改めて安堵することで、森家の存続を許した。こうして長継は新たに西江原藩を立藩し、長直は8月26日に世子として指名された。そして元禄11年(1698年)に父が死去すると、家督を継いで西江原藩主となった。西江原では新田開発を積極的に行った。 宝永3年(1706年)1月28日、播磨赤穂藩に同じく2万石で移封される。藩財政が早くから悪化したため、長直は今度は塩田開発に積極的に取り組んだ。享保7年(1722年)8月24日に死去した。享年51。跡を婿養子の長孝が継いだ。 なかなお Category:外様大名 森01 Category:備中国の藩主 Category:1672年生 Category:1722年没.

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森長記

森 長記(もり ながのり、貞享4年6月16日(1687年7月24日) - 明和4年5月4日(1767年5月31日))は、播磨国三日月藩の第2代藩主。 初代藩主・森長俊の長男。母は側室布宇(浄心院)。子は森可敦(長男)、森俊春(五男)。官位は従五位下、安芸守。 作州にて生まれる。正徳5年(1715年)7月27日、父の隠居により跡を継いだ。藩政に見るところはない。しかし性格的に面白い藩主であった。 長記は泰平の世の中では珍しいほど自由奔放に振舞う藩主であった。だからといって暗愚とか馬鹿殿だったわけではない。いわゆる藩とか体制に縛られるのが大嫌いな性格であった。そのため藩政は重臣に任せて、長記は供を連れることもほとんどせずに、まるで無頼のように山や川を駆け回っては狩猟を行って獲物を狩り、屋敷に帰還するのはいつも明朝頃だったと言われている。このため、世間からは「森の夜鷲」とまで称された。また、参勤交代の途上、箱根の関所を午前2時に無理やり通させたこともある(播陽政実録)。しかしこのように無頼な生活を遂げたことが、逆に領民などの下情に通じることにもなり、当時の諸大名の中では最も下情に通じた大名とも言われた。 元文4年(1739年)6月26日、五男・俊春に家督を譲って隠居し、明和4年(1767年)5月4日に81歳で死去した。墓所は東京都大田区池上の本行寺。 なかのり なかのり Category:1687年生 Category:1767年没.

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森氏

森氏(もりし)は清和源氏の一流、河内源氏の流れを汲む武家である。八幡太郎源義家の七男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄の領主となって、森冠者と名乗った。その三男、源頼隆は後に若槻を号するが、出家の後は森蔵人入道西阿と称した。本格的に森を名字としたのは、宝治合戦後に頼隆の次男であるとされる森頼定が森姓を称したことによるとされる。遠祖陸奥七郎義隆の長男・義広(頼定の伯父)にはじまる源姓毛利氏とは、名字に多少の差異はあるものの、「名字の地」即ち名字発祥の地を同じくするされる。森忠政を祖とする近世大名の家系はこの子孫である(ただし、仮冒という説もある)。.

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森政房

森 政房(もり まさふさ)は、播磨赤穂藩の第4代藩主。赤穂藩森家10代。 宝永7年(1710年)、各務利直の六男として生まれる(生年は正徳4年(1714年)11月5日ともいう)。 享保16年(1731年)、同母兄で第3代藩主の長生が死去したため、その養子として家督を継ぎ、12月23日に従五位下・伊勢守に叙位・任官する。 延享3年(1746年)12月8日に死去した。享年37。跡を養子の忠洪が継いだ。 まさふさ Category:加賀美氏 森04 Category:1710年生 Category:1746年没.

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植村家壷

植村 家壷(うえむら いえひろ)は、大和高取藩の第14代(最後)の藩主。 弘化4年(1847年)10月15日、播磨山崎藩主・本多忠鄰の六男として生まれる。慶応3年(1867年)12月5日、第13代高取藩主・植村家保の養子となる。明治元年(1868年)閏4月14日、家保の隠居にともない家督を継いだ。明治2年(1869年)2月から藩政改革に着手する。6月17日に版籍奉還により、植村藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免職され、9月に東京へ移った。明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵となる。明治25年(1892年)9月、御陵墓守長となる。 大正9年(1920年)6月29日に死去した。享年74。.

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植木屋曽吉

植木屋 曽吉(うえきや そきち?、安永3年3月4日(1774年4月14日) - 慶応元年6月15日(1865年8月6日))は江戸時代の尾張国名古屋の植木屋。尾張藩薬園掛。小栗曽吉、花戸曽吉としても知られる。 各地に採薬に出かけて嘗百社中に植物見本を提供し、尾張本草学の発展に貢献した。テガタチドリは曽吉が駒ヶ岳で採集し、命名したもの。.

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楠葉牧

楠葉牧(くすはのまき/くずはのまき)は、河内国交野郡楠葉(現在の大阪府枚方市楠葉)に存在した牧。藤氏長者に属する殿下渡領の1つで、摂関家の牧場があったが、後に荘園化した。.

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楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

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楠木氏

楠木氏(くすのきし)は、河内国の豪族で、南北朝時代に活躍した南朝方の武家。「楠氏」と表記される事もある。.

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榊原康政

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。.

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榊原伊織

# 時代劇『大岡越前』に登場する架空の医師。TBSの『大岡越前』では竹脇無我が、NHKの『大岡越前』では勝村政信が演じた。.

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榊原忠次

榊原 忠次(さかきばら ただつぐ)または大須賀 忠次(おおすか ただつぐ)は、江戸時代前期の譜代大名、大政参与。はじめ大須賀家を継ぎ、後に榊原氏を継いだ。遠江横須賀藩主、上野館林藩主、陸奥白河藩主、播磨姫路藩主。榊原家3代当主。従四位下式部大輔、侍従。.

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榊原氏

榊原氏(さかきばらし)は、日本の氏族のひとつ。.

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榊原政岑

榊原 政岑(さかきばら まさみね)は、江戸時代中期の旗本、大名。播磨姫路藩の第3代藩主。榊原家宗家の8代当主。.

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榊原政倫

榊原 政倫(さかきばら まさみち)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩第3代藩主、越後村上藩初代藩主。榊原家5代当主。 父・政房の急逝により、当時熊之助と名乗っていた政倫が3歳で家督を継いだが、播磨姫路藩は西国を抑える要地ということで幼少の大名には不適と判断され、越後村上藩に転封を命じられ、同地で子がないまま没する。家督は一門榊原勝直の子・政邦が継ぐ。 武蔵国岩槻藩主阿部正邦の娘と婚約していたが、娘が早世したため婚姻には至っていない。.

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榊原政祐

榊原 政祐(さかきばら まさすけ、宝永2年5月21日(1705年7月11日) - 享保17年8月29日(1732年10月17日))は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第2代藩主。榊原家7代当主。 榊原政祐の墓(圓教寺).

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榊原政純

榊原 政純(さかきばら まさずみ)は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第4代藩主、越後高田藩初代藩主、榊原家9代当主。ただし、早世後に異母弟の榊原政永が身代わりで擁立され、公式には同一人物とされた。.

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榊原政邦

榊原 政邦(さかきばら まさくに)は、江戸時代中期の大名。越後村上藩第2代藩主。播磨姫路藩初代藩主。榊原家6代当主。 分家の旗本榊原家の榊原勝政(榊原康勝の庶子。1,000俵)の子の榊原勝直(1,000石)の長男として誕生する。若くして嗣子なく没した榊原本家の政倫の養嗣子となり、越後村上藩を相続、その後に姫路藩に転封となる。.

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榊原政房

榊原 政房(さかきばら まさふさ)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩第2代藩主。榊原家4代当主。.

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横山義祐

横山 義祐(よこやま よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。播磨国室山城主。.

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横川景三

横川景三(おうせんけいさん、永享元年(1429年) - 明応2年11月17日(1493年12月25日))は、室町時代中期から後期にかけての禅僧(臨済宗)。後期五山文学の代表的人物。室町幕府8代将軍足利義政の側近、外交・文芸顧問。横川は道号で、法諱が景三。他に金華、小補、補庵、万年村僧などとも号する。.

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横田孝史

横田 孝史(よこた こうし、安政3年7月21日『人事興信録』(1856年8月21日) - 昭和9年(1934年)12月6日『衆議院議員略歴』)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。薬剤師。.

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横河民輔

横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治元年9月28日) - 1945年(昭和20年)6月26日)は、明治・大正・昭和期の建築家・実業家。横河グループ創業者。日本の鉄骨建築の先駆者。アメリカの雑誌で鉄骨構造を知ったという。.

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樽屋

樽屋(たるや)は、江戸の町政を司る町年寄三家の1つ「樽屋藤左衛門」『国史大辞典』第9巻 吉川弘文館、320頁。吉原健一郎著 『江戸の町役人』 吉川弘文館、(20 - 23頁)。。家紋は桔梗。江戸草創期以来の旧家で、町年寄を世襲で勤め、当主は樽屋藤左衛門と名乗った。 三家に順位をつけると、奈良屋・樽屋・喜多村家ということになり、町年寄の家格としては第2位となる。 樽屋の拝領屋敷は本町二丁目にあり、場所は江戸城の常盤橋御門を出た本町通りに面した角地であった吉原健一郎著 『江戸の町役人』 吉川弘文館、(136-138頁)。。160坪ある屋敷地の表側は他の町人に貸し、それぞれ横町から長屋門を入って屋敷に達するようになっていた。樽屋は4人の町人に屋敷を貸しており、その分の年収は明治2年の記録では87両余であった「町年寄の収入(寛政元年)」 吉原健一郎著 『江戸の町役人』吉川弘文館 (138-141頁)。。拝領屋敷の間口13間(京間)のうち東側の5間を享保16年(1731年)に呉服問屋の富山(とみやま)に売却している。この拝領屋敷は武家や他の町年寄と同様、役宅を兼ねており、これがいわゆる町年寄役所である。樽屋の居宅は拝領地の南側にあった本革屋町の自己所有地にあったようである。.

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樽屋与左衛門

樽屋与左衛門(たるや よざえもん)は、江戸町年寄三家の1つ樽屋の当主「樽屋藤左衛門」『国史大辞典』第9巻 吉川弘文館、320頁。。樽屋は代々藤左衛門を名乗ったが、後見役となった9代目・11代目・12代目の3名は与左衛門を名乗った。この項では、主に樽屋12代目当主の与左衛門のことを扱う。 生没年は、延享3年(1746年) - 文化11年(1814年)。5代前の樽屋藤左衛門の実弟で播州の郷士岩崎家へ養子に行った武左衛門の孫である。その当時は善右衛門という名であったが、天明5年(1785年)12月、40歳の時に当時幼少だった吉五郎(樽屋13代目の忠義)の後見役として樽屋12代目となり、その時より与左衛門と名乗ることとなった吉原健一郎著 『江戸の町役人』吉川弘文館 (154-156頁)。。 寛政の改革において、老中松平定信に重用され、札差仕法改革に参与して様々な献策をしており、棄捐令の作成にもその意見の多くが取り入れられている。寛政元年(1789年)の棄捐令の発令後も、札差仕法の専任担当者に選ばれ、さらに猿屋町貸金会所の運営も任され、会所の建物が竣工されるまで樽屋の役宅を札差掛の役所として使うこととなった。 寛政2年(1790年)には猿屋町会所勤務中の帯刀を許可される。会所勤務中のみであり彼一代に許されたことであるが、天和3年(1683年)2月に町年寄が帯刀を禁止されてから、107年ぶりに帯刀の特権を取り戻したのである。また、同年4月には札差仕法改正の勤務に努力したとして樽という苗字を称することが許され、以後樽屋は「樽」姓を名乗ることとなる。 退役後も大阪屋茂十郎とともに文化年間の株仲間政策を推進し、三橋会所の取締となったが、文化11年に不慮の死をとげた。自殺だったとも言われている。 十八大通の1人とされる樽屋万山は、12代目樽屋与左衛門の子である。.

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橘徳子

橘 徳子(たちばな の とくし、生没年不詳)は平安中期の女官で、一条・後一条二代の乳母。播磨守仲遠の女。藤原有国の室、資業の母。典侍を務め従三位に至り、「橘三位」と称された。 およそ天徳年間(957年-960年)の生まれか。天元3年(980年)前後に懐仁親王(のちの一条天皇)の乳母となる。長徳元年(995年)10月、大宰大弐に任じた有国と共に任地へ下向、その時の威勢は『栄花物語』に描かれている。長保3年(1001年)任果てた夫とともに帰京。寛弘2年(1005年)3月、第一皇女脩子内親王著裳に際して理髪役を奉仕。寛弘5年(1008年)9月、第二皇子敦成親王(のちの後一条天皇)誕生に際して乳付役を奉仕、七夜産養には中宮彰子から贈り物を受けた。寛弘8年(1011年)夫と死別。治安2年(1022年)7月、後一条天皇法成寺行幸に供奉したのを最後に、その後の消息は不明。.

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橘入居

橘 入居(たちばな の いりい、生年不詳 - 延暦19年2月10日(800年3月8日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。参議・橘奈良麻呂の子。官位は従四位下・右中弁。.

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橘公頼

橘 公頼(たちばな の きみより、元慶元年(877年) - 天慶4年2月20日(941年3月25日))は、平安時代の貴族。贈中納言・橘広相の子。官位は従三位・中納言。.

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橘澄清

橘 澄清(たちばな の すみきよ、貞観元年(859年) - 延長3年5月6日(925年5月30日)または同年9月3日(同年9月23日))は、平安時代前期の公卿。参議・橘常主の孫である信濃守・橘良基の五男。橘氏是定。官位は従三位・中納言。.

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橋本家

橋本家(はしもとけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流。西園寺分家。江戸時代の家禄は500石。明治維新後、伯爵。家業は笛。家紋は尾長巴。.

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橋本関雪

橋本 関雪(はしもと かんせつ、1883年(明治16年)11月10日 - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本画家。本名は貫一。.

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櫻井治男

櫻井 治男(さくらい はるお、1949年 - )は、日本の宗教学者。皇學館大学特別教授。博士(宗教学)。日本宗教学会常務理事、財団法人国際宗教研究所理事等を務める。.

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櫛橋伊定

櫛橋 伊定(くしはし これさだ)は、戦国時代の武将。播磨国志方城主。.

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櫛橋伊家

櫛橋 伊家(くしはし これいえ)は、戦国時代の播磨国の武将。播磨志方城主。.

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櫛橋伊光

櫛橋 伊光(くしはし これみつ)は、南北朝時代の武将。赤松氏の家臣。.

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櫛橋伊範

櫛橋 伊範(くしはし これのり)は、室町時代の播磨国の武将。赤松氏の家臣。.

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櫛橋伊高

櫛橋 伊高(くしはし これたか)は、室町時代の播磨国の武将。赤松氏の家臣。.

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櫛橋伊朝

櫛橋 伊朝(くしはし これとも)は、南北朝時代の武将。赤松氏の家臣。.

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櫛橋光

櫛橋 光(くしはし てる(みつ))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。播磨国印南郡(現在の兵庫県加古川市志方町)の志方城主・櫛橋伊定の娘。小寺政職の従姪であり養女。筑前福岡藩祖・黒田孝高(官兵衛・如水)の正室。院号は照福院(しょうふくいん)。雅号に幸圓(こうえん)がある。.

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櫛橋則伊

櫛橋 則伊(くしはし のりこれ)は、室町時代の播磨国の武将。赤松氏の家臣。.

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櫛橋貞伊

櫛橋 貞伊(くしはし さだこれ)は、室町時代の播磨国の武将。赤松氏の家臣。.

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櫛橋氏

櫛橋氏(くしはしし)は、日本の氏族の一つ。 室町時代に播磨国守護を務めた赤松氏に古くから重臣として仕え、往時は東播磨の目代として活動した。戦国時代には志方城に割拠する豪族の一つだったが、織田信長の勢力伸長によって滅ぼされた。子孫は福岡藩士となった。歴代当主は「豊後守」「左京亮」の名を多く用い、「伊」の字を通字とした。.

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櫛橋政伊

櫛橋 政伊(くしはし まさこれ)は、戦国時代の武将。播磨国志方城主。異説もあるが(後述)、同城の最後の城主である。.

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正保郷帳

正保郷帳(しょうほうごうちょう)は、日本の江戸幕府が諸大名に命じて国単位で作らせた郷帳で、村の名と村高(村の生産力)をまとめた統計書である。1644年に作成が命じられ、それから数年がかりで国ごとに提出された。このときには国絵図(正保国絵図)、城絵図(正保城絵図)、城模型、街道の帳簿もあわせて作られた。.

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正福寺 (兵庫県新温泉町)

正福寺(しょうふくじ)は兵庫県新温泉町の湯村温泉郷にある天台宗の仏教寺院。平安時代前期の僧円仁(慈覚大師)の創建と伝わる。山号は天竜山、本尊は不動明王。桜の固有種である正福寺桜で知られる。.

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正親町実連

正親町 実連(おおぎまち さねつら、享保5年7月23日(1720年8月26日) - 享和2年9月29日(1802年10月25日))は、江戸時代中期の公家。主に桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)の二代に仕えた。孝明天皇の高祖父。 権大納言の正親町公通の末子であるが、兄達が若くして死んだり、他の公家に養子に入るなどしたため、正親町家の家督を継いだ。享保17年(1732年)に叙任し、侍従となる。享保20年(1735年)に従五位上に昇進するとともに元服。その後、逐次昇進して、左近衛少将、右近衛中将、丹波介、播磨権介、蔵人頭などを歴任して、寛延3年(1750年)に従三位参議となり、公卿に列した。また同年、踏歌節会外弁をつとめている。宝暦3年(1753年)権中納言に叙任し、翌年には正三位となった。さらに宝暦6年(1756年)に権大納言となり、宝暦12年(1762年)までつとめた。安永8年(1779年)に従一位に昇る。享和2年(1802年)に薨去。享年83。家督は子の正親町公明が継いだ。父公通同様、狂歌を好んだ人物だった。 Category:江戸時代の公家 さねつら Category:1720年生 Category:1802年没.

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正楽寺

正楽寺(しょうらくじ)は岡山県備前市蕃山に所在する高野山真言宗準別格本山の寺。山号は日光山。詳しくは日光山 千手院 正楽寺と号する。本尊は十一面観世音菩薩。中国三十三観音霊場第三番札所、百八観音霊場第四番札所。宗教法人としての名称は「千手院」。.

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武市瑞山

武市邸と道場跡の碑(高知市桜井町) 武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日(1829年10月24日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。 土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。.

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武内維積

武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年2月25日) - 1903年(明治36年)11月7日『兵庫県人物事典』下巻、94頁。)は、明治期の検察官、内務官僚。官選佐賀県知事。幼名・検一郎。.

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武田元光

武田 元光(たけだ もとみつ)は、戦国時代の大名。若狭武田氏の第6代当主。第5代武田元信の次男。幼名は彦次郎。出家して宗勝。.

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武田政義

武田 政義(たけだ まさよし、生年不詳 - 興国4年/康永2年(1343年))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。甲斐国守護。甲斐源氏の惣領武田氏のうち、安芸守護職を継承し安芸へ移った信時流武田氏とは異なり、甲斐国へ在留し山梨郡石和(山梨県笛吹市石和町)を本拠地とした石和流武田氏の出自。尊卑分脈所載「武田氏系図」に拠れば父は貞信、弟に貞政。子に福寿丸がいる。.

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武蔵の里

武蔵の里(むさしのさと)は岡山県美作市宮本の宮本武蔵生誕伝承地として近年開発が進むエリアの名称。宮本武蔵ゆかりという伝承があるとされる旧跡、名所、顕彰施設が多数建設されていることで知られる。 武蔵の里五輪坊門前 武蔵の生家跡の隣の水車小屋.

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武蔵坊弁慶

『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)五条大橋での戦いを描いた江戸時代の浮世絵 武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい、武藏坊辨慶、? - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉?)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高く、ほか創作の世界でも義経と並んで主役格の人気があり、怪力の者や豪傑の代名詞としても広く用いられている。.

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段ヶ峰

段ヶ峰(だるがみね・だんがみね)は、兵庫県朝来市生野町栃原と宍粟市一宮町千町の境に位置する標高1103.41mの山である。播但国境に位置する生野高原にある草原状のなだらかな山容を持つ山として知られており、関西百名山、ふるさと兵庫50山にも指定されている。また、希少種でもあるイヌワシの西日本では数少ない生息地でもある。また、山頂には二等三角点が設置されている。.

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母里友信

母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛(たへえ)、多兵衛(たひょうえ)。幼名は万助。但馬守を称す。 槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。 「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある。.

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毛屋武久

毛屋 武久(けや たけひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。黒田二十四騎の一人。.

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毛利元就 誓いの三矢

『毛利元就 誓いの三矢』(もうりもとなり・ちかいのさんし)は、1997年5月23日に光栄(現・コーエーテクモゲームス)から発売されたコンピュータゲームのシミュレーションRPG。「英傑伝シリーズ」の第3作である。当時放送されていたNHK大河ドラマ『毛利元就』に合わせて発売され、中国地方の覇者である戦国大名毛利家の発展を一部フィクションを交えながら描いている。.

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毛利元秋

毛利 元秋(もうり もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。毛利元就の五男。通称は少輔十郎。官途は刑部大輔。.

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毛利元氏

毛利 元氏(もうり もとうじ)/ 繁沢 元氏(はんざわ もとうじ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。毛利氏の家臣。吉川元春の次男。.

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毛利煕元

毛利 煕元(もうり ひろもと)は、室町時代の武将。安芸国の国人・毛利氏当主。父は毛利光房。 幼名は少輔太郎。初めは父の1字を受けて煕房(ひろふさ)と名乗り、のち煕元に改名(「元」は祖先の大江広元や曽祖父・毛利元春の偏諱に由来するもので、煕元以降の当主も代々通字として使用することとなる)。なお、「煕」の字は当時毛利氏が従属していた安芸・備後守護・山名時熙の偏諱を受けたものである。 永享8年(1436年)、父の死去により家督を継承する。翌永享9年(1437年)に第6代将軍・足利義教より上京の命を受け畿内へと出陣することとなった。嘉吉2年(1442年)の嘉吉の乱に際しても、謀反を起こした赤松満祐を討つためにわざわざ播磨まで出陣している。長禄元年(1457年)、周防を本拠とする大内教弘が安芸分郡守護武田信繁・信賢父子の居城・佐東銀山城に進攻した際にも、幕府の命令により吉川之経らと共に武田氏への支援に当たった。 このように幕府への忠勤を励んだ煕元であったが、寛正4年(1463年)に毛利氏庶家の反抗を受けることとなり、諸家の中に幕府に対して讒言する者があり、結果として領地の一部を関所として召し上げられた。 翌寛正5年(1464年)、嫡男の豊元に知行を取り戻すように遺言して死去。所領奪回は豊元へ引き継がれることとなる。.

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毛利高政

毛利 高政(もうり たかまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。キリシタン大名。豊後佐伯藩の初代藩主。 通称は勘八または勘八郎。受領名は民部大輔で、従五位下に叙された時に官位としても正式に受領した。さらにのちに伊勢守も受領している。初名は友重で、のちに高政に改名した。当初は森姓を名乗って森友重を称し、後に毛利輝元より毛利姓を賜って改姓して毛利友重となるが、諱を高政と改名したのは徳川の世になってからである。書籍では森高政とするものがあるが、実際には改姓前に高政名は用いておらず、一次史料にこの署名は見られない。.

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毛利氏 (藤原氏)

毛利氏(もうりし)は、宇多源氏(佐々木氏嫡流六角氏流)であるが、養家の姓により藤原姓を称する。後に織田家の家臣となり豊後国に2万石で入封した。.

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水田氏

水田氏(みずたし)は、日本の氏族。.

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水無月祓 (能)

『水無月祓』(みなづきばらい)は、能の演目である。作者は世阿弥とされることが多い。お互いに恋慕しながら別離した男女が、下鴨神社の夏越の祓で再会するというハッピーエンドの作品である。 作者については、世阿弥の著書『五音』に世阿弥作の扱いで書かれており、またこの曲に比定される「ミソギ川」の名が、同じく世阿弥の『五音曲条々』に見える。ただし『二百十番謡目録』には日吉安清の作とされている。 江戸時代には、数少ない例外を除いて上演が途絶えていたが、江戸末期に復曲され、2006年現在では観世流でのみ上演されている。 播州室津の遊女と京都下京に住む男との恋を主題に、下賀茂神社の故事をとりいれ、物狂いの見せ場もある夏の能である。.

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水谷勝隆

水谷 勝隆(みずのや かつたか、慶長2年(1597年) - 寛文4年閏5月3日(1664年6月26日))は、常陸下館藩の第2代藩主。備中成羽藩主。備中松山藩の初代藩主。水谷勝俊の長男。母は堀田正吉の娘。正室は酒井家次の娘、継室は寺沢広高の娘。子に水谷勝宗(長男)、水谷勝能(次男)、娘(仙石政俊正室)、娘(一柳直照正室)、娘(水野忠久正室)。官位は従五位下、伊勢守。水谷正村は伯父にあたる。 幼名は弥太郎。慶長11年(1606年)、父の死去により後を継いだ。寛永16年(1639年)6月に備中成羽藩5万石へ移封され、寛永19年(1642年)7月に備中松山5万石へ移封された。有能な人物で、藩政においては交通路や水路の整備、玉島新田などの新田開発や検地政策、砂鉄採取による鉄産業の奨励と振興、神社仏閣の造営などに努めて藩政の基礎を固めた。また、池田輝興改易時の播磨赤穂城在番や寺沢堅高改易時の唐津城在番を務めるなど、幕府からは譜代格に準ずる信頼と地位を得ていたようである。寛文4年(1664年)閏5月3日、松山にて死去し、跡を長男の勝宗が継いだ。享年68。法号は大竜寺殿鉄山全性居士。墓所は岡山県高梁市和田町の定林寺。 なお、戦国時代には隣国陸奥国磐城(福島県浜通り)に同字の水谷氏(水谷胤重など)が存在したが、こちらの読みは「みずがい」で、別家である。 かつたか Category:外様大名 Category:備中松山藩主 Category:成羽藩主 Category:下館藩主 Category:1597年生 Category:1664年没.

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水谷氏

水谷氏(みずのやし)は、藤原北家秀郷流近藤氏の氏族。日本の戦国時代から江戸時代初期の結城氏の重臣、特に結城四天王として数えられる水谷勝俊の一族がある。江戸時代には結城氏から独立して大名となるが、嗣子がなく廃絶。庶子が旗本として家名を残した。.

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水野忠之

水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。.

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永井直幹

永井 直幹(ながい なおもと)は、江戸時代後期の大名。大和新庄藩の第7代藩主。永井家宗家11代。 文政12年(1829年)7月3日、美濃加納藩主永井尚佐の七男として生まれる。嘉永3年(1850年)10月、第6代藩主の永井直養の隠居の後、その養子として跡を継いだ。嘉永4年(1851年)に日光祭祀奉行、嘉永6年(1853年)に大坂加番、安政5年(1858年)に大番頭などを歴任した。文久3年(1863年)12月、家督を養子の直壮に譲って隠居し、明治15年(1882年)9月6日に死去した。享年54。 なおもと Category:大和新庄藩主 Category:譜代大名 Category:幕末の大名 Category:1829年生 Category:1882年没.

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永井直亮

永井 直亮(ながい なおすけ)は、江戸時代中期の大名。大和新庄藩の第2代藩主。永井家宗家6代。 元禄6年(1693年)、初代藩主永井直圓の次男として生まれる。長兄の直達が伯父である摂津高槻藩主永井直種の婿養子となったため、宝永7年(1710年)11月3日の父の隠居により家督を継いだ。同時に従五位下、播磨守に叙任された。享保8年(1723年)3月1日に大番頭となったが、病のため享保13年(1728年)6月11日に辞した。享保17年(1732年)閏5月4日に大坂定番となる。 前年に死去した父の後を追うように、元文2年(1737年)6月27日に死去した。享年45。跡を次男の直国が継いだ。 なおすけ Category:大和新庄藩主 Category:譜代大名 Category:1693年生 Category:1737年没.

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永井直養

永井 直養(ながい なおのぶ)は、江戸時代後期の大名。大和新庄藩の第6代藩主。永井家宗家10代。 享和3年(1803年)6月11日、第5代藩主永井直方の長男として生まれる。文政8年(1825年)4月10日、父の隠居により家督を継いだ。文政10年(1827年)と嘉永元年(1848年)に日光祭祀奉行となる。天保の大飢饉においては倹約を率先して行い、領民に対しては出稼ぎを禁止するなどした。嘉永3年(1850年)10月、養子の直幹に家督を譲って隠居し、嘉永7年(1854年)閏7月14日に死去した。享年52。 なおのふ Category:大和新庄藩主 Category:譜代大名 Category:1803年生 Category:1854年没.

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永井直敬

永井 直敬(ながい なおひろ)は、江戸時代中期の譜代大名。下野烏山藩主、播磨赤穂藩主、信濃飯山藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。尚庸系永井家2代。.

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永谷天満宮

永谷天満宮(ながやてんまんぐう)は、神奈川県横浜市港南区にある菅原道真を祭神とする神社(天満宮)。 大宰府に左遷された道真が自身を鏡に映して自ら彫ったと伝わる高さ1寸8分(6cm弱)の道真像3体のうち1体を神体として安置する。他の2体のうち1体は道真の墓がある太宰府の安楽寺(廃仏毀釈による廃絶後は太宰府天満宮)、もう1体は出生地である河内国土師郷の先祖代々の菩提寺である道明寺(神仏分離後は道明寺天満宮)に安置されている。これらを「日本三躰天神」と称する。.

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永正の錯乱

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。.

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江原親次

江原 親次(えばら ちかつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。宇喜多氏の家臣。一万石を領した。甥に江原親家。美作国常山城主。.

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江南道

江南道(こうなん-どう)は唐朝により貞観年間に設置された道。長江南岸地域であることから命名された。開元年間に江南東西道及び黔中道に分割されている。.

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江〜姫たちの戦国〜

『江〜姫たちの戦国〜』(ごう ひめたちのせんごく)は、2011年1月9日から同年11月27日まで放送された、NHK大河ドラマ第50作。原作・脚本・田渕久美子、チーフ演出・伊勢田雅也、音楽・吉俣良。全46回。.

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江村専斎

江村 専斎(えむら せんさい、永禄8年(1565年) - 寛文4年9月26日(1664年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての京都の医師、儒学者。名は宗具、字は専斎、倚松庵と号した。.

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江戸時代の日本の人口統計

江戸時代の日本の人口統計は、江戸時代の人口統計、人口調査および推定人口をまとめたものである。.

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池田徳潤

池田 喜延(いけだ よしのぶ)または池田 徳潤(いけだ のります)は、幕末維新期の大名。播磨福本藩主。維新後は男爵。.

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池田忠継

池田忠継廟 池田 忠継(いけだ ただつぐ)は、備前岡山藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家初代。播磨姫路藩主・池田輝政の次男(実は五男)。母は徳川家康の次女・督姫。.

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池田忠雄

忠雄墓碑(通称・芋墓) 池田 忠雄(いけだ ただかつ)は、江戸時代前期の大名。淡路国洲本藩主、のち備前国岡山藩第2代藩主。鳥取藩池田家宗家2代。播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)。母は徳川家康の次女・督姫。岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。.

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池田利隆

和意谷池田家墓所二のお山、池田利隆夫妻の墓所。左が利隆の墓。 池田 利隆(いけだ としたか)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家2代。.

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池田利政

池田 利政(いけだ としまさ、文禄3年(1594年) - 寛永16年8月11日(1639年9月8日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士。池田輝政の九男(実は四男)。母は側室の安藤氏。通称は初め左近、後に摂津守と改める。子に池田政信、池田知利、池田長泰室、日置忠治室(池田光政養女)らがいる。 文禄3年(1594年)、三河国吉田に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、父・輝政が播磨姫路藩に移封されると、利政は船上城の城代となり、4170石(後に加増され5000石)を知行した。また、長兄の利隆に従い大坂の陣に参戦した。元和3年(1617年)、甥の光政の因幡鳥取藩への移封に伴い、汗入郡逢坂に移住した。さらに、寛永9年(1632年)の光政の備前岡山藩への移封で岡山に移った。同16年(1639年)8月11日、京都で死去した。46歳。法号・法清院殿月桂浄秋大居士。墓所は岡山県備前市にある和意谷池田家墓所。.

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池田喜生

池田 喜生(いけだ よししげ、延享2年(1745年) - 文化10年7月24日(1813年8月19日))は、江戸時代の旗本。幼名は保次郎。官位は従五位下、但馬守。.

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池田喜長

池田 喜長(いけだ よしなが、? - 天保7年7月18日(1836年8月29日))は、江戸時代後期の旗本。 旗本・池田喜生の養嫡子・池田輝名の嫡男。正室は若桜藩主・池田定保の娘。子は喜通、政和。幼名は久五郎。通称は松平弾正。 父・輝名が享和3年(1803年)家督相続前に没したため、文化10年(1813年)養祖父・喜生の家督を嫡孫承祖し、知行6,000石を相続する。天保7年(1836年)7月18日没。家督は嫡男・喜通が継ぎ、慶応4年(1868年)石高直しにより播磨福本藩を立藩することとなる。 墓所は兵庫県神河町福本の徹心寺。 Category:江戸幕府旗本 よしなが Category:1836年没.

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池田喜通

池田 喜通(いけだ よしみち)は、江戸時代後期から末期の寄合旗本、大名。播磨福本藩主。.

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池田光仲

池田 光仲(いけだ みつなか)は、因幡鳥取藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家3代。幼名は勝五郎。徳川家康の外曾孫であり、別姓は松平氏。.

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池田光政

池田光政夫妻墓所 池田 光政(いけだ みつまさ)は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田宗家3代。.

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池田勝正

池田 勝正(いけだ かつまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。摂津池田氏当主、池田城主。.

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池田由之

池田 由之(いけだ よしゆき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。天城池田家初代。.

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池田頼方

池田 頼方(いけだ よりかた/よりまさ、享和元年(1801年) - 明治9年(1876年)2月17日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、旗本。 池田頼功の子。官位は従五位下、播磨守。安政の大獄における江戸南町奉行で、後に勘定奉行も兼帯。寺社奉行松平宗秀、北町奉行石谷穆清、大目付久貝正典、目付神保長興らと共に志士の裁断を担当した現場の指揮官。妻は摂津三田藩主九鬼隆国の娘。養子に頼誠。 遠祖下間頼龍は下間氏出身だが、その子・頼広は縁戚の池田輝政に従軍して池田重利と改名、徳川家康より播磨新宮藩1万石を賜るものの、子孫邦照が夭折し改易。邦照の弟重教に3000石が下され、以後、寄合として家名継承し、頼方の代に至る。.

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池田輝興

池田 輝興(いけだ てるおき)は、江戸時代初期の大名。播磨平福藩主、のち播磨赤穂藩の第2代藩主。輝興系池田家初代。 慶長16年(1611年)1月15日、姫路藩主・池田輝政の六男として姫路城で生まれる。母は徳川家康の次女・督姫であるから、輝興は家康の外孫に当たるため、松平姓を与えられた。元和元年(1615年)に備前岡山藩主だった兄の忠継が死去したため、その遺領から佐用郡など2万5,000石を分与されて、平福藩主となった。しかし幼少だったため、実際の藩政は家臣団によって行なわれた。 寛永3年(1626年)8月19日、従五位下、右近大夫に叙任する。正室には黒田長政の息女亀姫を迎え子女を儲ける。輝興は、様々な法令を出して民政安定化に尽力するなど、藩政に手腕を見せた。寛永8年(1631年)、赤穂藩主だった兄の政綱が継嗣無くして死去すると、赤穂藩の池田氏は一時的に改易されたが、家康の外孫に当たるということから、幕命で特別に輝興が1万石加増の3万5,000石で赤穂藩主となることを許された。 赤穂藩の藩政においては、検地や城下町の開発などを行なったが、特に上水道の開発に功績を挙げている。ちなみに輝興が行なった上水道開発は、日本初の水道工事とまで言われており、これは後の浅野氏時代に完成することとなった。寛永11年(1634年)には従四位下を叙任する。 ところが正保2年(1645年)3月15日、事件が起きる。突如として発狂した輝興は、正室亀子姫をはじめ侍女数人を斬り殺すという騒動を起こしたため、3月20日に改易された。その身柄は甥で岡山藩主だった池田光政預かりとなった。その他子女は母方の黒田家に引取られるなどした。そして正保4年(1647年)5月17日、罪人のまま岡山で死去した。享年37。なお、正室亀子の墓所は東京都渋谷区祥雲寺にある。.

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池田輝澄

池田 輝澄(いけだ てるずみ)は、江戸時代前期の大名。輝澄系池田家初代。徳川家康の外孫にあたる。.

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池田輝政

池田 輝政(いけだ てるまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。.

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池田薫彰

池田 薫彰(いけだ てるあき)は、江戸時代前期の大名。播磨新宮藩の第3代藩主。下間系池田家3代。.

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池田邦照

池田 邦照(いけだ くにてる、万治元年(1658年) - 寛文10年1月28日(1670年3月19日))は、江戸時代前期の大名。播磨国播磨新宮藩の第4代(最後)の藩主。下間系池田家4代。.

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池田重利

池田 重利(いけだ しげとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての僧・大名。播磨新宮藩初代藩主。元は本願寺の坊官であり、下間 頼広(しもつま らいこう)と名乗った。下間系池田家初代。.

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池田重政

池田 重政(いけだ しげまさ)は、江戸時代前期の大名。播磨新宮藩の第2代藩主。下間系池田家2代。.

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池田長明

池田 長明(いけだ ながあき、慶長11年(1606年)- 延宝7年3月7日(1679年4月17日))は、岡山藩の家老。片桐池田家第2代当主。 父は岡山藩家老池田長政。母は加藤嘉明の娘。子は池田長重、池田長久。幼名新吉。通称は河内、伊賀。.

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池田長政

池田 長政(いけだ ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。片桐池田家初代。.

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池田長教

池田 長教(いけだ ながのり、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。播磨龍野藩士池田家の祖。 父は備中松山藩主池田長幸。池田長常の弟。正室は脇坂安信の娘。子は長広。通称三之助。諱は長純、長氏とも。 寛永9年(1632年)4月4日、父長幸の病が重く、親族が集まり後嗣について評議した。嫡男長常は病弱のため、次男長教(長純)と分割相続する案に、叔父長頼が一人反対し、評議の場からはずされてしまう。怒った長頼は、長教とその親族の脇坂安信、脇坂安経に斬りかかり、長教と安信を負傷させ、安経を殺害する事件を起こす。 長教の子の池田外記長広は縁戚の脇坂家に仕え、江戸家老を務めた。 なかのり Category:備中松山藩の人物 Category:17世紀生 Category:没年不明.

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池田恒元

池田 恒元(いけだ つねもと、慶長16年(1611年) - 寛文11年9月4日(1671年10月6日))は、備前児島藩主、のち播磨山崎藩の初代藩主。恒元系池田家初代。 播磨姫路藩主・池田利隆の次男で、備前岡山藩主・池田光政の弟である。母は榊原康政の娘(徳川秀忠の養女)・鶴姫。正室は桑名藩主・久松松平定勝の娘・玉子。子に政周(長男)、娘(板倉重良正室)、蕃子(池田重教正室)、娘(竹中重長正室のち池田政弘室)。官位は従五位下、備後守。幼名は三五郎。 慶安元年(1648年)、2万石を与えられて児島藩を立藩したが、慶安2年(1649年)から山崎藩主となる。翌年から検地や治水工事、山林の保護、交通路の整備、村落制度の制定などを行なって藩政の確立に尽力した。承応元年(1652年)から城下町で火事が起こり、さらに疫病が流行するなどしたが、このときも万全の対応を行って領民を救う手腕を見せた、兄に劣らぬ名君であった。寛文11年(1671年)9月4日、61歳で死去し、跡を長男の政周が継いだ。墓所は和意谷池田家墓所。法号は盛徳院殿鉄岩玄心大居士。 つねもと Category:外様大名 Category:山崎藩主 Category:備前国の藩主 Category:岡山藩の人物 Category:1611年生 Category:1671年没.

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池田恒行

池田 恒行(いけだ つねゆき、寛文12年(1672年) - 延宝6年12月27日(1679年2月8日))は、播磨山崎藩の第3代藩主。恒元系池田家3代。 備前岡山藩主池田綱政の六男。夭折のために官位官職なし。幼名は二郎。次郎丸。数馬。 先代藩主の政周が延宝5年(1677年)に嗣子なくして早世したため、その跡を継いだが、翌年12月27日に江戸にて7歳で死去した。嗣子がいるはずもなく、こうして播磨山崎における池田氏は断絶した。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。 つねゆき Category:外様大名 Category:山崎藩主 Category:1672年生 Category:1679年没.

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池田武憲

池田 武憲(いけだ たけのり、正保2年(1645年) - 元禄8年7月22日(1695年8月31日))は、岡山藩士。番頭、中老、仕置家老。 元山崎藩主池田輝澄の八男。正室は熊沢蕃山の次女厚子。幼名万千代。通称三郎左衛門、兵庫、内膳。 正保2年(1645年)、因幡鹿野に池田輝澄の八男として生まれる。父輝澄は播磨山崎藩主であったが、寛永17年(1640年)お家騒動のため改易となり、甥の鳥取藩主池田光仲に預けられ、鹿野に堪忍料1万石を与えられていた。武憲は父の死後、寛文3年(1663年)に従兄の岡山藩主池田光政に仕え知行1000石。寛文9年に1000石加増され番頭。天和3年(1683年)に1000石加増、元禄2年7月(1689年)にも1000石加増され、合わせて知行高4000石。仕置家老となる。任期中は対立する津田永忠の追放を画策した。元禄8年(1695年)7月22日没。享年51。 家督を継ぐ男子が居ないため、元禄9年(1696年)に旗本池田政武の四男政矩が養子入りし名跡を継ぐも、宝永2年(1705年)池田政因に養子入りのため離籍した。その後に養子入りした善太郎(池田軌隆長男)、豊次郎(池田綱政五男)、亀治郎(軌隆次男)も相次いで他家に養子入りのために離籍した。享保3年(1718年)家老日置忠明の子森臻(勘解由)が養子入りして名跡を継ぐこととなった。 なお、武憲五女通子は番頭土肥貞平に嫁ぎ、有職故実家の土肥経平を産んでいる。.

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池田氏

池田氏(いけだし)は、日本の氏族の一つ。諸国の「池田」の地名(池田荘・池田郷など)を発祥とする氏族。.

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池田政周

池田 政周(いけだ まさちか、明暦2年(1656年) - 延宝5年1月8日(1677年2月9日))は、播磨山崎藩の第2代藩主。恒元系池田家2代。 初代藩主・池田恒元の長男。母は上田氏。養母は松平定勝の娘。正室は板倉重大の娘・遊子。官位は従五位下、豊前守。幼名は鍋之助。名は政元とも言う。 寛文11年(1671年)、父の死去により跡を継ぐが、延宝5年(1677年)正月8日に早世した。嗣子がなく、跡を池田綱政(従兄にあたる)の次男・恒行が継いだ。法号は智光院殿義峯崇俊大居士。墓所は岡山県備前市吉永町の和意谷池田家墓所。 まさちか Category:外様大名 Category:山崎藩主 Category:1656年生 Category:1677年没.

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池田政種

池田 政種(いけだ まさたね、寛永14年(1637年) - 天和3年3月9日(1683年4月5日))は、江戸時代中期の旗本。旧播磨赤穂藩主・池田輝興の長男。母は黒田長政の娘・亀子。幼名は五郎八。通称は求馬。子に政弘がいる。 寛永14年(1637年)生まれる。正保2年(1645年)3月20日、父と共に池田光政に預けられる。寛文4年(1664年)7月24日、赦され、12月27日、廩米3,000俵を賜わり、寄合に列する。従兄である福岡藩主・黒田光之が金銀を贈り、祝った記録が残る。天和3年(1683年)3月9日、47歳で死去。跡を子の政弘が継いだ。 まさたね Category:江戸幕府旗本 Category:1637年生 Category:1683年没.

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池田政綱

池田 政綱(いけだ まさつな)は、江戸時代初期の大名。播磨赤穂藩の初代藩主。 慶長10年(1605年)、播磨姫路藩主・池田輝政の五男として姫路城で生まれる。母は徳川家康の次女・督姫であるから、家康の外孫に当たる。そのため、慶長16年(1611年)には家康から松平姓を下賜された。元和元年(1615年)、備前岡山藩主だった兄の池田忠継が死去すると、その遺領から赤穂郡3万5,000石を分与されて、赤穂藩を立藩した。 元和9年(1623年)7月19日に従五位下、右京大夫に叙任する。寛永3年(1626年)には従四位下に昇進する。藩政においても藩の基礎を固めるなど、若くして手腕を見せていたが、元和4年(1618年)には本多忠政の家臣・稲垣平馬事件も起こるなど、世情不安の中で寛永8年(1631年)7月29日に死去した。享年27。 継嗣がいなかったため、赤穂藩は一旦は無嗣改易となるが、弟の輝興が家督を継ぐことを許された。 まさつな 池01 Category:1605年生 Category:1631年没.

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池田政直

池田 政直(いけだ まさなお)は、江戸時代の大名。.

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池田政直 (福本藩主)

池田 政直(いけだ まさなお、寛永11年(1634年) - 寛文5年12月6日(1666年1月11日))は、江戸時代前期の大名。輝澄系池田家2代。 播磨福本藩初代藩主。官位は従五位下、能登守。祖父母は池田輝政、徳川家康の娘・督姫。父は池田輝澄(政直は四男)。母は生駒正俊の娘。正室は姉小路公景の娘。子に娘(久松松平勝以正室)、娘(水野忠位正室)。 家康の曾孫にあたるため松平姓を与えられた。父が改易されたものの、寛文3年(1663年)に1万石を与えられ立藩した。寛文5年(1665年)没。嗣子がなかったため、領地は弟の政武に7,000石、政済に3,000石が分与されて交代寄合となり、福本藩は消滅した(明治元年1868年に藩に復帰)。 墓所は兵庫県神河町福本の徹心寺。 まさなお まさなお Category:1634年生 Category:1666年没.

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池田政親

池田 政親(いけだ まさちか、天和4年・貞享元年(1684年) - 寛延3年12月5日(1751年1月2日))は、江戸時代中期の旗本。池田政武の子。母は赤羽氏。池田政森の弟。子に池田政朝(早世)、池田政勝、娘(中根正義の妻、後、離縁)らがいる。 天和4年・貞享元年(1684年)生まれる。貞享4年(1687年)7月11日、父の遺領の内播磨国神崎郡において1000石を分与され寄合に列する。元禄15年(1702年)6月21日、小姓となり、宝永2年(1705年)12月28日、小普請となった。寛延3年(1750年)12月5日、死去。67歳。跡を子の政勝が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 まさちか Category:1684年生 Category:1751年没.

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池田政貞 (利隆三男)

池田 政貞(いけだ まささだ、慶長18年(1613年) - 寛永10年7月25日(1633年8月29日))は、江戸時代初期の武士。 慶長18年(1613年)、播磨姫路藩主池田利隆の三男として生まれるが、寛永10年(1633年)7月25日、数え21歳で死去した。長兄の池田光政(政貞の死の前年に国替えで備前岡山藩主となった)が造営した和意谷池田家墓所(岡山県備前市)に葬られている。 まささた Category:姫路藩の人物 Category:鳥取藩の人物 Category:岡山藩の人物 Category:1613年生 Category:1633年没.

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池田政武

池田 政武(いけだ まさたけ)は、播磨福本の第2代当主。7,000石の交代寄合である。 慶安2年(1649年)、池田輝澄の五男として生まれる。寛文5年(1665年)に福本藩主だった兄・政直が死去すると、寛文6年(1666年)3月15日に家督は弟の政武が継ぐこととなったが、このときに政武に7,000石、弟・政済に3,000石(屋形池田家)を分与したため、交代寄合となった。 貞享4年(1687年)5月7日に死去。享年39。跡を長男の政森が幼少の為6,000石、次男の政親に1,000石を分与した(吉富池田家)。その後、喜以(よしもち)、喜生(よししげ)、喜長と続き、慶応4年(1868年)に喜通が、1万573石となり再び大名となった。 まさたけ Category:江戸幕府旗本 Category:1649年生 Category:1687年没.

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池田政済

池田 政済(いけだ まさなり、寛永18年(1641年) - 元禄10年11月11日(1697年12月23日))は、江戸時代前期の旗本。3千石の寄合。池田輝澄の七男。母は生駒正俊の娘。妻は小出有棟の娘。子に池田政因、勝吉郎(早世)、娘(宮城和堅の妻)、娘(酒井忠穏妻)、娘(駒井政周の妻)、娘(兄・池田政因の養女となり松下重長の妻となったが、離縁し池田政職の妻となった)がいる。 寛永18年(1641年)、池田輝澄の七男として生まれる。寛文6年(1666年)3月15日、兄・池田政直の遺領1万石のうち、播磨国神崎郡において3千石を分与され寄合に列する。元禄10年(1697年)11月11日、死去。57歳。跡を子の政因が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 まさなり Category:1641年生 Category:1697年没.

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池氏

池(いけ)氏は、日本の姓氏のひとつ。.

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決戦III

『決戦III』(けっせんスリー)は、2004年12月22日にコーエー(現・コーエーテクモゲームス)から発売されたPlayStation 2用シミュレーションゲーム。「決戦シリーズ」の第3作。舞台は戦国時代の日本、主人公の織田信長やその周りの家臣たちを操作し、ストーリーを進めていくゲームである。.

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河原城

河原城(かわはらじょう)は、鳥取県鳥取市河原町谷一木にかつて存在した日本の城。この城の正式名称は「丸山城」であるが、鳥取市内には丸山城という名の城跡がこの城を含めて3つあり、旧邑美郡に限ってもこの城を含めて2つある。河原城は、後述する天守風建造物が建てられて以後の名称であるが、他2城との混同を避けるため、ここでは河原城と呼称する。.

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河合宗元

---- 河合 宗元(かわい むねもと)は江戸時代後期から幕末の武士、姫路藩士、尊王攘夷派志士である。初名は宗邦(むねくに)。惣兵衛、また勸次郎と称し、姫路藩尊攘派の首魁と目された。号は松塢。贈従四位。家紋は違い鷹の羽。替紋は銀杏打違。俸禄は250石。.

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河合道臣

河合 道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)は、江戸時代後期の姫路藩家老。一般には晩年の号の寸翁(すんのう)で知られる。酒井氏4代に50年余にわたって仕え、姫路藩の財政再建に貢献した。.

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河合耆三郎

河合 耆三郎(かわい きさぶろう、天保9年(1838年) - 慶応2年2月12日(1866年3月28日))は、新選組隊士。勘定方。.

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河崎祐長

河崎 祐長(かわさき すけなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。日向伊東氏の家臣。.

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河内国司

河内国司(かわちこくし)は河内国の国司で、大国であるため、養老律令の職員令にて守・介・大掾・少掾・大目・少目の各1名が定員とされたが、それぞれの権官が置かれることもあった。官位相当は守(従五位上)、介(正六位下)、大掾(正七位下)、少掾(従七位上)、大目(従八位上)、少目(従八位下)。このほか、官位相当外の下級官人として史生3名が定められた。 河内国は藤原京、平城京、長岡京、平安京などの各時代の都の隣国という位置にあり、都と海を繋ぐ要衝の地であったために重要視され、都に近いことから権力の中枢にある権力者の与党が任命されたり兼務することが多かった。.

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河童の妙薬

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河西郡

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河野神社

河野神社(こうのじんじゃ)は鳥取県八頭郡智頭町にある神社。因幡若一宮、通称「にゃくいちさん」と呼ばれる。祭神は須佐男命、忍穂耳命、大己貴命、彦火々出見命、大山祇命、火産霊命、宇賀魂命の7柱。.

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河野教通

河野 教通(こうの のりみち/かわの のりみち)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。伊予守護。河野通久の嫡男。 父・通久(初め持通)が足利将軍家(足利義持)から偏諱の授与を受けたのに倣い、室町幕府第6代将軍・足利義教(義持の弟)から「教」の1を受けて教通と名乗るが、嘉吉元年(1441年)の義教の死後は通直(みちなお)に改名した。 永享7年(1435年)、大友持直征伐のさなかに父通久が戦死したため、家督を継ぐ。永享11年(1439年)、将軍義教の命を受け永享の乱・大和永享の乱に出陣、嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると(嘉吉の乱)、満祐討伐のため播磨に遠征した。前述の通り、同年中には「通直」に改名している。しかし、文安3年(1449年)に守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に交替させられ、幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返した。教通を守護から解任した幕府が教通を再起を助けると言う矛盾した方針は、教通を支持する足利義政・畠山徳本と通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立があったとみられている。 勝元が管領に在任中の享徳2年(1453年)に守護職を再度通春に替えられるが、実は勝元が管領の職権を利用して御教書・奉書が偽造した上での任命であり、義政に叱責された勝元が辞意を表明するものの、最終的に慰留されて守護の交替が認められた。その後、享徳4年(1455年)には勝元に、長禄3年(1459年)に通春に戻され、教通は守護職奪還のため通春と争った。ところが、勝元と通春が対立して勝元が一族の細川賢氏(土佐守護代家庶流上野家出身)を伊予守護に任命すると、大内教弘・政弘父子が通春を支持して、細川・大内両軍が伊予に侵攻したため、どちらにも与し得ない教通は蚊帳の外に置かれる形になった。 応仁元年(1467年)の応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友であった通春は西軍の一員として上洛した。教通は当初は静観していたものの、西軍が通春を伊予守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍について通春に対抗している。文明5年(1473年)に勝元が亡くなった後の伊予守護に任命され、文明11年(1479年)には阿波守護・細川成之の次男・義春が伊予に攻め寄せてきたが、通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退した。文明14年(1482年)に通春が没して子の通篤と争ったが、伊予の主導権を掌握して予州家を圧倒した。後に出家し道治、道基と改名した。 明応9年(1500年)に湯築城で没し、子の通宣が跡を継いだ。.

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河東郡

; 河東郡.

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油仕法

油仕法(あぶらしほう)とは、江戸時代中期以降に江戸幕府によって行われた油の製造・販売に関する統制政策のこと。 代表的なものとして、明和3年(1766年)に実施されて同7年(1770年)に改正された「明和の仕法」と天保3年(1832年)に実施されて同5年(1834年)に改正された「天保の改正仕法」が知られている。.

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油問屋

油問屋(あぶらどんや)とは、江戸時代に燈油を中心とした油の販売を取り扱った問屋のこと。関連する問屋として、油の原材料を扱う種物問屋(菜種問屋・綿実問屋)がある。.

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治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.

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沼本房家

沼本 房家(ぬもと ふさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。.

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泊神社棟札

泊神社棟札(とまりじんじゃむねふだ)とは、宮本伊織が1653年(承応2年)に泊神社(兵庫県加古川市加古川町木村)に奉納した棟札。.

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波多野宗長

波多野 宗長(はたの むねなが、?-天正7年(1579年)5月5日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。波多野氏の家臣。波多野宗高の子。子に波多野宗貞。.

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波多野秀治

波多野 秀治(はたの ひではる)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての丹波国の大名。波多野氏最後の当主。.

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波賀城史跡公園

波賀城史跡公園 (はがじょうしせきこうえん)は、兵庫県宍粟市波賀町上野にある公園(日本の城跡)。.

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法如

法如(ほうにょ、宝永4年1月9日(1707年2月11日) - 寛政元年10月24日(1789年12月10日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第17世宗主。西本願寺住職。諱は光闡。院号は信慧院。法印大僧正。父は第13世良如の10男寂円。九条稙基の猶子。母は円成院(法寿)。妻は如教(誠心院)。第18世文如は長男。.

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法美郡

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法道

法道(ほうどう)は、インドの仙人。鉄の宝鉢を持っていたことから、空鉢(くはつ-)、空鉢仙人(からはちせんにん)とも呼ばれる。 6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされる。播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺す、数多くの勅願寺を含む所縁の寺がみられる。 また、日本に渡るときに牛頭天王と共に渡ったとされその牛頭天王は姫路市にある広峰神社に祭られ、その後現在は八坂神社中の座に祭られたとされている。 法道仙人が六甲山雲ヶ岩(紫雲賀岩)で修業中、紫雲に乗って出現した毘沙門天を感得する。雲ヶ岩、六甲比命大善神、心経岩を奥ノ院とする吉祥院多聞寺(神戸市北区唐櫃)を創建する。 関東でも鉢山町や神泉町など地名が法道由来とされる。.

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法華寺 (姫路市御国野町御着)

法華寺(ほっけじ)は、兵庫県姫路市御国野町御着にある日蓮宗の寺院で山号は大乗山である。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)、達師法縁(繁珠会)。市内には同名寺院がある。付近には黒田官兵衛ゆかりの御着城跡、播磨国分寺、播磨国分尼寺の徳証寺などがある。.

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法輪寺 (姫路市)

佛日山法輪寺(ほうりんじ)は、兵庫県姫路市井ノ口にある臨済宗妙心寺派の寺院。本尊は薬師如来。豊臣秀吉にまつわる伝承から「湯沢山茶くれん寺」の通称を持つ。.

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洞松院

洞松院(とうしょういん、寛正元年(1460年)、2年(1461年)、もしくは4年(1463年) - 没年不詳)は、戦国時代の女性。細川勝元の娘。細川政元の異母姉。赤松政則の妻(後室)。名は「めし」。「めし殿」「局(つぼね)殿」「赤松うばの局」などと呼ばれた。義子・赤松義村の後見人として赤松家を支えた女戦国大名。.

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津山藩

津山城古写真(撮影:松平国忠) 津山藩(つやまはん)は、美作国の大半を領有した藩。藩庁は津山城(岡山県津山市)に置かれた。.

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津軽信政

津軽 信政(つがる のぶまさ)は、陸奥国弘前藩の第4代藩主。.

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淡路国

淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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淡路瓦

淡路瓦(あわじがわら)は、兵庫県の淡路地方(淡路島)で生産される粘土瓦。三州瓦、石州瓦と並ぶ日本三大瓦の一つ。.

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淡路洲本藩

洲本藩(すもとはん)は、淡路国に存在した藩(現在の兵庫県洲本市)。藩庁は洲本城、由良城。.

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淡河城

淡河城(おうごじょう)は、兵庫県神戸市北区にあった日本の城。現在は丘の上に田畑となっている本丸址と櫓があり公園になっている。.

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淡河定範

淡河 定範(おうご さだのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。播磨国淡河城主。「淡河」の読みは、あわが、おごうなどの説もある。.

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淡河町 (神戸市)

淡河町(おうごちょう)は、兵庫県神戸市北区の一地区(広域町名)。神戸市北区の北西部に位置し、三木市に接する。令制国では播磨国美嚢郡に属した(神戸市北区では淡河町のみ播磨国でそれ以外は摂津国)。.

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淤宇宿禰

淤宇 宿禰(おう の すくね、生没年不詳)は『日本書紀』等に伝わる古代日本の豪族。『古事記』には彼に関する記載は存在しない。.

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深井信恭

深井 信恭(ふかい のぶやす)は、三河吉田藩第3代藩主・松平信明の九男。.

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渡辺氏

渡辺氏(わたなべし/わたべし).

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清原夏野

清原 夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の宗室・貴族・政治家。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。.

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清光院

清光院(せいこういん、生没年不詳)は、戦国時代の前期の女性。室町幕府第12代将軍足利義晴に近侍した。通称は佐子局(さこのつぼね)、出家後は清光院とも称したが八瀬に隠居したことから八瀬局とも呼ばれた設楽、2017年、P148。山科言継の『言継卿記』天文13年7月20日条によれば、「三淵掃部」すなわち三淵晴員の姉と記載されているが、晴員自身が細川元有の実子で三淵晴恒の養子と伝えられているため、彼女の実父が元有か晴恒かを確定することができない設楽、2017年、P162。 足利将軍家に仕えていた女房は、奉公衆・奉行衆の特定の家から出されて同じ名乗りをもって将軍に仕えることが多く、摂津氏では「左京大夫局」「左衛門督局」を名乗った後に「春日局」と称するのが慣例となっていた。また、「宮内卿局」は春日部赤松家(赤松貞範の子孫)に由来し、その後も赤松氏一族出身の女性に引き継がれた。また、大舘持房の娘で足利義政の側室に取り立てられた佐子(陽西院)の「佐子」も名ではなく女房名であったとされる。このため、同じように「佐子局」は大舘氏出身の女房の名前と考えられ、晴員の姉である佐子局も事情があって大舘氏の養女になって将軍家に仕えたと推定されている設楽、2017年、P153-154。 三淵晴員が明応9年(1500年)生まれ(足利義晴より11歳年長)であるため、佐子局はそれより年長である事から、義晴の側室ではなく養育係の1人であったと推定される設楽、2017年、P156-157。当時、足利義澄・義晴父子と足利義稙の間で将軍の地位を巡る争いを繰り広げており、義晴も播磨国の赤松氏の下で成長した。このため、幕臣のみならず、女房の間でも義澄派と義材派に分かれていたとみられ、細川元常(晴員の実兄)・三淵晴員・大舘常興はいずれも義澄派であったこと、三淵氏が播磨国印南郡に所領を有していたことから、晴員・佐子局は義稙政権時には義晴と共に播磨国に下っていたとみられる設楽、2017年、P160-164。その後、永正18年(1521年)に義晴が上洛して11歳で将軍に就任して以降、小上臈と呼ばれる地位にあった設楽、2017年、P148。 義晴の将軍就任以降、晴員と佐子局が記録上に登場するようになる。佐子局の記録上の初出は『尚通公記』大永3年(1523年)正月16日条で、以降幼少の義晴に近侍して諸事の取次を務め、仮名書きの奉書や御内書の添状を発給している(なお、同記の同月5日条が三淵晴員の記録上の初出にあたる設楽、2017年、P162)。また、天文5年(1536年)の内談衆の結成にも関わり(『大舘常興日記』天文8年12月5日条)、義晴の政務全般に影響を及ぼしていた設楽、2017年、P155-156。その後、義晴が近衛家から正室を迎えたのを機に、天文3年(1534年)11月に隠退して八瀬に居を構えたが、その後も政務に関与している。 ところが、天文6年(1537年)に義晴が日吉十禅院新礼拝講の要脚を本願寺に対して賦課し、これに対して本願寺の証如が佐子局と晴員を通じてその免除を求めたところ、かねてより一向一揆が支配する加賀国にある奉公衆の所領の扱いに不満を抱いていた義晴がこれに激怒して佐子局に怒りをぶつけ、彼女も一時隠居を考えている設楽、2017年、P157-158。そうした確執の影響もあり、天文7年(1538年)2月頃に出家をして「清光院」と名乗るようになる。ただし、その後も義晴の子(後の足利義輝)の「乳人」として清光院の名前が登場している。また、清光院の同僚に「御佐子」と呼ばれる女性も登場するが、そちらは大舘常興の実娘で後に義晴の側室となった女性とみられている設楽、2017年、P154。.

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清玄町

清玄町(せいげんちょう)は、兵庫県神戸市垂水区の町名。郵便番号は655-0865。平成17年10月1日現在の世帯数は406、人口は男性586、女性602で合計1,188。.

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清閑寺

清閑寺(せいかんじ、旧字体:淸閑寺)は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院。山号は歌中山(うたのなかやま)。本尊は十一面千手観音、開基(創立者)は紹継。『平家物語』の悲恋で知られる高倉天皇と小督局ゆかりの寺院である。.

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清水徳川家

清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に清水家とも言う。.

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清水行宗

清水 行宗(しみず ゆきむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備中国の国人である備中清水氏に生まれ、小早川隆景に仕える。父は清水宗治の兄である清水宗知(月清入道)。子に清水元親。.

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渋川春海

渋川 春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい、寛永16年閏11月3日(1639年12月27日) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日))は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。幼名は六蔵、諱は都翁(つつち)、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井、さらに渋川と改姓した。.

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減封

減封(げんぽう)は、江戸時代においては大名、旗本などの武士に課せられた刑罰を意味し、武士の身分を剥奪して所領と城・屋敷の一部を削減することをいう。また所領を分割相続することを分封、所領を没収されることを改易という。以下、江戸時代の減封について叙述する。.

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湊川の戦い

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。.

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湯原温泉

湯原温泉(ゆばらおんせん)は、岡山県県北の真庭市湯原温泉・豊栄(旧:湯原町)にある温泉。温泉指南役や環境問題、まちづくりに地域として力を注いでいる。野口冬人による諸国露天風呂番付で西の横綱にランクされた「砂湯」で知られる。また南にある下湯原温泉・足温泉・真賀温泉・郷緑温泉との5つを総称して「湯原温泉郷」とも称される。湯郷温泉、奥津温泉とともに美作三湯と呼ばれている。.

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湛如

湛如(たんにょ、享保元年6月28日(1716年8月15日) - 寛保元年6月8日(1741年7月20日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第16世宗主。西本願寺住職。諱は光啓。院号は信曉院。法印大僧正。実父は第14世寂如。養父は第15世住如。母は竹中氏。妻は閑院宮直仁親王の長女始宮(治子女王)。第17世法如は従兄弟。.

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源平討魔伝

『源平討魔伝』(げんぺいとうまでん)は、1986年10月、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)が開発したアーケードゲーム。.

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源伊陟

源 伊陟(みなもと の これただ)は、平安時代の日本の公卿。.

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源俊実

源俊実(みなもと の としさね)は、日本の平安時代中期から後期にかけての公卿。.

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源光 (公卿)

源 光(みなもと の ひかる、承和12年6月2日(845年7月9日) - 延喜13年3月12日(913年4月21日))は、平安時代の公卿。仁明天皇の皇子(第三源氏)。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条右大臣を号す。.

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源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

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源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源頼季

源 頼季(みなもと の よりすえ)は、平安時代中期の武将。信濃源氏・井上氏の祖。.

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源頼俊

源 頼俊(みなもと の よりとし、生没年不詳)は、平安時代後期の武将・歌人。加賀守源頼房の長男。.

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源頼義

源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。.

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源頼治

源頼治(みなもと の よりはる、生没年不詳)は平安時代後期の武将。大和源氏源頼俊の次男。母は播磨守藤原定輔女。通称宇野冠者。中務丞。子に頼隆、頼賢、親弘、親通らがある。宇野氏の祖。 嘉保2年(1095年)に延暦寺の僧兵が源義綱の配流を要求して強訴を起こした際に、関白藤原師通の命により賀茂川原の守備に就き、これを撃退する。しかしその際、頼治の手勢が日吉神社の神輿を射たことが、さらなる延暦寺側の態度の硬化を招くこととなった。降って4年後の承徳3年(1099年)には、師通が38歳にして急死。これを神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決断し、佐渡国(一説には土佐国)への配流とした。 曾祖父頼親、祖父頼房に次ぐ頼治の失脚は、大和源氏の勢力衰退に一層拍車をかけることとなった。 Category:平安時代の武士 よりはる.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源行家

行家が大敗を喫した墨俣川の戦いの碑(岐阜県安八郡墨俣町) 源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。.

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源顕親

源顕親(みなもとのあきちか、寛治2年(1088年)- 永暦元年(1160年))は、平安時代後期の官人。村上源氏顕房流。権大納言源雅俊の子。母は備中守高階為家の娘の掌侍高階業子。同母兄弟に顕重・顕俊・俊頼がいた。子に雅範・俊光・俊長・藤原公行室らがいた。 右京権大夫・侍従・播磨守・皇后宮(藤原泰子)亮などを歴任。天養元年(1144年)昇殿を許された。久寿2年(1155年)の高陽院(藤原泰子)の葬送に際しては奉行を務めた。最終位階は正四位下だった。晩年出家し、永暦元年に73歳で卒去。梅津殿と呼ばれる山荘を所有し、彼の没後は藤原忠通の持ち家になった。 Category:平安時代後期の貴族 あきちか Category:1088年生 Category:1160年没.

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源良清

源良清(みなもとのよしきよ)とは、源氏物語に登場する架空の人物。.

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源雅信

源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.

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源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

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源満季

源 満季(みなもと の みつすえ)は、平安時代中期の武将。清和源氏の初代・源経基の三男。満仲・満政の同母弟。兄満仲・満政らと同様に、武力をもって朝廷・上級貴族に仕えた「武勇輩」であった。.

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源時中

源 時中(みなもと の ときなか)は平安時代中期の公卿。左大臣・源雅信の長男。致仕大納言と号す。.

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溝口直信

溝口 直信(みぞぐち なおのぶ、宝暦6年3月12日(1756年4月11日) - 天明6年7月12日(1786年8月5日))は、江戸時代の大名世子。越後国新発田藩の7代藩主溝口直温の六男。兄である8代藩主溝口直養の養子となるが、家督を継ぐ以前に没した。幼名は恵三郎。諱ははじめ直堅、のち直信と改める。官位は従五位下伯耆守。母は遠江浜松藩主・大河内松平信祝の娘・留姫(清涼院)。正室は上野館林藩主・越智松平武元の娘・侶姫(観如院)。.

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溝口直治

溝口 直治(みぞぐち なおはる、宝永4年7月26日(1707年8月23日) - 享保17年閏5月11日(1732年7月7日))は、越後国新発田藩の6代藩主。5代藩主溝口重元の次男。初め重貞(しげさだ)と称し、のち直治と改める(将軍世子徳川家重の「重」を憚ったため)。幼名は虎之助、のち久三郎。官位は従五位下。信濃守。母は重元の側室で藩士山崎定右衛門の娘・角(信号院)。 江戸において生まれる。享保元年(1716年)徳川吉宗に初御目見する。同3年11月21日(1719年1月11日)、父・重元の死去により家督を継ぎ、翌享保4年(1719年)に家督の礼として重元の遺品である青江助次の太刀を将軍家に献上する。同年、従五位下信濃守に叙任する。 享保9年(1724年)、越後国蒲原郡の幕府領4万3000石を預けられ、同14年(1729年)にはさらに2万石を預けられた。同15年(1730年)には叔父逸見元長に年々蔵米1000石を与え、幕臣とすることを願って許された。 享保17年(1732年)、江戸において26歳で死去した。法号は天真全用大機院(大機院殿前信州大守天真全用大居士とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬る。直治は播磨姫路藩主榊原政邦の娘と結納まで交わしていたが、婚儀を行う前に病に倒れ、縁談は解消された。嗣子はなく、一族の旗本・溝口直道の四男・亀之助(溝口直温)を急養子に迎えて家督を継がせた。 直治の治世は財政窮乏がひとつの頂点に達した時期であり、新発田藩では下級藩士の召し放ちや、藩士からの知行・俸禄の借り上げを行うのやむなきに至った。ことに国元において例年のように繰り返される水害は、藩財政に大きな打撃を与えた。このために加治川や阿賀野川の水系において大規模な治水工事が行われたのも、またこの時期の特徴であった。.

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溝口直溥

溝口 直溥(みぞぐち なおひろ、文政2年1月2日(1819年1月27日) - 明治7年(1874年)4月26日)は、越後新発田藩の第11代藩主。第10代藩主溝口直諒の長男。幼名は錦之助。官位は従五位下主膳正。のち従四位下。母は側室で福山氏の娘・稲美(慶寿院)。正室は石見浜田藩主・松井松平康任の娘・愛姫(死別)、継室は常陸土浦藩主・土屋彦直の娘・増姫。.

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滝山城 (摂津国)

滝山城(たきやまじょう)は、兵庫県神戸市中央区の城山にあった日本の城。山陽新幹線の新神戸駅の裏山、「布引の滝」の西に位置する。.

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滝川忠征

滝川 忠征(たきがわ ただゆき)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。後に尾張藩家老。通称を彦二郎(彦次郎)、初名は法忠(のりただ)または盛勝(もりかつ)。.

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滝川具挙

滝川 具挙(たきがわ ともあき、生年不明 - 明治14年(1881年)5月11日)は、江戸時代後期の旗本。官位は従五位下、播磨守。初名は具知。通称は三郎四郎。子に滝川具綏(充太郎)、滝川具和。.

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滝川元長

滝川 元長(たきがわ もとなが、寛文2年(1662年) - 延享4年12月2日(1748年1月2日))は、江戸時代の旗本。滝川征盛の長男。母は安藤正珍の娘。初名、征長。別名、忠隆、忠興。通称は十大夫、彦次郎。官位は従五位下、讃岐守のちに播磨守。妻は中山直守の養女。弟に須田資生(須田為春養子)。子に黒田直基(長男)。 寛文7年(1667年)7月5日に父の跡を相続する。小姓組、使番、目付、桐間番頭などを歴任する。主な略歴としては、将軍徳川吉宗の倹約令に反抗する尾張藩徳川宗春への上使として、目付の石河政朝とともに江戸藩邸を訪ねるなどした。しかし、2度自分の屋敷より火事を起こし、その都度、出仕を差し止められた。.

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滝野瓢水

滝野 瓢水(たきの ひょうすい、貞享元2年〈1684年〉 - 宝暦12年5月17日〈1762年7月8日〉)は、江戸時代中期の俳人。滝瓢水とも。.

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濱本八治郎

濱本 八治郎(はまもと はちじろう、1862年5月24日(文久2年4月26日) - 没年不明)は、日本の実業家。姫路商業銀行頭取は70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月20日閲覧。109頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月28日閲覧。。姫路瓦斯社長ハ72頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月20日閲覧。。山陽窯業代表取締役。姫路煉瓦会社・福島紡績各取締役。族籍は兵庫県平民。前名・久八郎。.

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服部武雄

服部 武雄(はっとり たけお、天保3年(1832年) - 慶応3年11月18日(1867年12月13日))は、新選組隊士・御陵衛士。通称は三郎兵衛。.

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朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

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朝来市

市川(生野町口銀谷) 朝来市(あさごし)は、兵庫県北部に位置する市。但馬県民局管轄地域。但馬地方の南端に位置する。.

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朝来群山県立自然公園

朝来郡山県立自然公園(あさごぐんざんけんりつしぜんこうえん)とは、兵庫県中部にある兵庫県立の自然公園である。.

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朝来町

朝来町(あさごちょう)は、兵庫県中北部にかつて存在した朝来郡の町。兵庫県但馬県民局管轄。 2005年4月1日に同郡山東町、和田山町、生野町と合併して朝来市(あさごし)となったため消滅した。.

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木嶋坐天照御魂神社

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ、木島坐天照御魂神社)は、京都府京都市右京区太秦森ケ東町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。 通称は「木嶋神社(このしまじんじゃ、木島神社)」や「蚕の社(かいこのやしろ、蚕ノ社)」とも。古くから祈雨の神として信仰された神社であり、境内には珍しい三柱鳥居があることで知られる。.

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木下家定

木下 家定(きのした いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名。備中足守藩初代藩主。足守木下氏初代。晩年は出家し、法名は浄英(紹英)。.

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木下延俊

木下 延俊(きのした のぶとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人。豊後日出藩初代藩主。初名は勝忠とも云う。官位は従五位下右衛門大夫で、通称も右衛門大夫。.

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木下延重

木下 延重(きのした のぶしげ)は、安土桃山時代の武将。官位は従五位下周防守。通称は与右衛門。木下雅楽助の子。.

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木下勝俊

木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名、歌人。 若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を若狭少将と言う。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。.

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木下重堅

木下 重堅(きのした しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。因幡若桜城主。官位は従五位下備中守。通称を平太夫や備中守とし、荒木重堅や木下備中守ともいった。.

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木下氏

木下氏(きのしたし)は、日本の氏族の一つ。.

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木鼠吉五郎

木鼠吉五郎(きねずみきちごろう、? - 天保7年(1836年)5月23日)は、江戸時代の窃盗犯。 『大岡政談』に登場する雲霧五人男の1人に同名の盗賊がいるが、本項では江戸時代後期に実在した吉五郎を扱う。.

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木梨元次

木梨 元次(きなし もとつぐ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。木梨氏は備後杉原氏の庶流で、備後国御調郡木梨庄現在の広島県尾道市木ノ庄町木梨。を本拠とした国人。父は毛利氏家臣の木梨元恒。.

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木津の磨崖仏

木津の磨崖仏(きづのまがいぶつ)は、神戸市西区押部谷町木津に現存する阿弥陀如来坐像と六体地蔵の磨崖仏。1999年(平成11年)2月24日に神戸市指定記念物(史跡)に指定されている。.

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木曾三社神社

木曾三社神社(きそさんじゃじんじゃ)は、群馬県渋川市北橘町下箱田甲1 にある神社である。社紋は笹竜胆。.

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木曾氏

木曾氏(きそし)は、日本の氏族の一つ。.

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末期養子

末期養子(まつごようし)は、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合も指す。.

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本多忠可

本多 忠可(ほんだ ただよし)は、播磨山崎藩の第5代藩主。政信系本多家6代。.

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本多忠堯

本多 忠堯(ほんだ ただとう、元文2年(1737年) - 宝暦11年2月25日(1761年3月31日))は、播磨山崎藩の第4代藩主。政信系本多家5代。 第3代藩主・本多忠辰の長男。母は松平乗賢の娘。正室は相良長在の娘。官位は従五位下。大和守。幼名は権次郎。 寛延3年(1750年)、父の死去により跡を継いだ。先々代藩主からの災難続きで藩財政は破綻寸前となっており、窮民は増加していたため、商人から銀90貫を借り入れて藩政改革を行なおうとしたが、筆頭家老が改革反対派から攻撃されて失脚するなどしたため、短期間で失敗に終わった。宝暦11年(1761年)2月25日、25歳の若さで死去し、跡を妹婿の忠可が継いだ。法号は広善院殿前和州宰吏定誉宗厳了演大居士。墓所は東京都江東区三好の雲光院。 Category:譜代大名 Category:山崎藩主 たたとう Category:1737年生 Category:1761年没.

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本多忠孝

本多 忠孝(ほんだ ただたか、元禄11年(1698年) - 宝永6年9月13日(1709年10月15日))は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第2代藩主、越後村上藩初代藩主。忠勝系本多家宗家7代。姫路藩主・本多忠国の三男。官位はなし。 宝永元年(1704年)5月10日に父の死により家督を相続する。しかし、姫路は西国の要となる場所であることから、幼少を理由に忠孝は5月28日に越後村上藩に移封された。 村上城に一度も入城しないまま、宝永6年(1709年)9月13日に12歳で死去した。無嗣であったため本来であれば断絶であったが、本多忠勝以来の名門の家系であったため、幕命により一族の本多忠良が家督を相続した。しかし、禄高は15万石から5万石に減封され、さらに、三河刈谷藩に移封された。 Category:譜代大名 Category:村上藩主 Category:姫路藩主 たたたか Category:1698年生 Category:1709年没.

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本多忠居

本多 忠居(ほんだ ただおき、明和8年(1771年) - 文政2年2月14日(1819年3月9日))は、播磨山崎藩の第6代藩主。政信系本多家7代。 第5代藩主・本多忠可の長男。母は本多忠辰の娘・熊姫(本多忠堯の養女で異母妹)。正室は松平乗温の娘。継室は堀直教の養女(堀直泰の娘)。子に本多忠敬(次男)、本多忠告(三男)、本多忠鄰(四男)、娘(木下某室)。官位は従五位下、大和守。幼名は権次郎。 天明8年(1788年)、父の隠居により跡を継ぐ(隠居はなかったともいわれる)が、寛政6年(1794年)に父が死去するまでは実権は父が握っていた。寛政6年(1794年)から藩政を執るが、聡明な父と違って暗愚だった。翌寛政7年(1795年)11月12日、父の時代に改革を成功させた功臣である佐藤善五右衛門を、己の面前で藩士に斬り捨てさせた。これは、佐藤が生きている限り藩政を完全に掌握できないことと、先代における佐藤の功績を嫉妬した一派が忠居に讒言し、それを受け入れたためと言われているが、佐藤はこれが原因で3日後に世を去った。その後、大番頭となったが、文化5年(1808年)に将軍・徳川家斉に対して不敬な態度を取ったため、家斉の怒りを買って奉公する必要なしとまで言われた。 このため文化9年(1812年)10月18日、病気を理由に家督を次男の忠敬に譲って隠居した。そして文政2年(1819年)2月14日に49歳で死去した。法号は憲隆院前和州宰吏誉至誠忠道大居士。墓所は東京都江東区三好の雲光院。 忠可の時代に再建された財政は、この忠居の時代に再び破綻している。 Category:山崎藩主 category:譜代大名 たたおき Category:1771年生 Category:1819年没.

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本多忠刻

本多 忠刻(ほんだ ただとき)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩の初代藩主。.

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本多忠国

本多 忠国(ほんだ ただくに)は、大和郡山藩、陸奥福島藩を経て播磨姫路藩の藩主。忠勝系本多家宗家6代。.

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本多忠義

本多 忠義(ほんだ ただよし)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩3代藩主、遠江掛川藩主、越後村上藩主、陸奥白河藩初代藩主。.

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本多忠辰

本多 忠辰(ほんだ ただとき、正徳元年(1711年) - 寛延3年11月24日(1750年12月22日))は、播磨山崎藩の第3代藩主。政信系本多家4代。 初代藩主・本多忠英の三男。母は側室・小池三平の娘。正室は松平乗賢の娘。子に本多忠堯(長男)、娘(本多忠可正室)、娘(増山正武養女)。官位は従五位下、肥後守、肥前守。幼名は八十郎。 享保16年(1731年)、先代藩主で兄の忠方が早世したため、その跡を継いだ。藩政においては兄の代から続く享保の大飢饉による農村荒廃による救済費、さらには正室が将軍徳川吉宗の側用人を務める松平乗賢の娘である上、兄の本多忠良までもが老中になったことから、その関係で出費が著しく増大して、藩財政が破綻寸前となった。このため、御用商人から莫大な献金を取り立てている。 寛延3年(1750年)11月24日、40歳で死去し、跡を長男・忠堯が継いだ。法号は諦原院殿前肥州宰吏融誉円厳利道大居士。墓所は東京都江東区三好の霊光院。 category:譜代大名 Category:山崎藩主 たたとき Category:1711年生 Category:1750年没.

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本多忠肇

本多 忠肇(ほんだ ただはつ、弘化3年(1846年) - 慶応元年10月20日(1865年12月7日))は、三河国岡崎藩の世嗣。播磨国山崎藩主・本多忠鄰の四男。 宗家である本多忠民の養子となるが、家督相続前の慶応元年(1865年)に早世した。代わって、信濃国小諸藩から本多忠直が養子に迎えられ、嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 たたはつ Category:幕末岡崎藩の人物 Category:1846年生 Category:1865年没.

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本多忠鄰

本多 忠鄰(ほんだ ただちか、文化8年(1811年) - 明治7年(1874年)1月12日)は、播磨山崎藩の第8代藩主。政信系本多家9代。 第6代藩主・本多忠居の四男。母は堀直教の養女(堀直泰の娘)。養母は本多忠顕の娘。正室は五島盛繁の娘・昌子(五島盛成の養女)。側室多数。子は本多忠明(次男)、有馬道純(三男)、本多忠肇(四男)、植村家壷(六男)、本多忠禎(八男)。官位は従五位下、肥前守、大和守、肥後守。幼名は貞之助。 文化9年(1812年)生まれとも言われている。天保5年(1834年)11月27日、先代藩主で兄の忠敬が病弱だったために隠居した後、その跡を継いだ。藩財政再建を目指して、家臣の片桐内蔵治を家老に登用して倹約、経費節減、金融改革などを行なっている。幕末においては大砲の鋳造や海防に尽力し、第一次長州征伐では参加して功を挙げた。しかし第二次長州征伐では軍費不足で出陣できなかった。 また、学問に興味を示して天保年間に堀内次右衛門や大爺円治らを登用して学問奨励を行ない、藩校である思斉館を創設した。これは現在の宍粟市立山崎小学校の基礎になったと言われている。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、はじめ幕府側に与しようとしたが、後に思い直して新政府側についた。長男の寅次郎は早世していたため、次男の忠明を世子として、明治2年(1869年)正月晦日に家督を譲って隠居した。明治7年(1874年)正月12日に死去した。享年63。法号は大誠院殿前肥州宰吏徳護念徹実道大居士。墓所は兵庫県宍粟市山崎町上寺の大雲寺。 Category:山崎藩主 category:譜代大名 Category:幕末の大名 たたちか Category:1812年生 Category:1874年没.

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本多忠良

本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人、老中を務めた。越後村上藩第2代藩主、三河刈谷藩主、下総古河藩初代藩主。忠勝系本多家宗家8代。.

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本多忠英

本多 忠英(ほんだ ただひで)は、大和郡山新田藩第2代藩主、のち播磨山崎藩初代藩主。政信系本多家2代。大和郡山藩主本多政勝の三男。初名は政貞。.

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本多忠明

本多 忠明(ほんだ ただあき、天保4年4月23日(1833年6月10日) - 明治34年(1901年)12月17日)は、播磨国山崎藩の第9代(最後)の藩主。政信系本多家10代。.

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本多忠方

本多 忠方(ほんだ ただみち)は、播磨山崎藩の第2代藩主。政信系本多家3代。初代藩主・本多忠英の次男。.

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本多忠政

本多 忠政(ほんだ ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢桑名藩第2代藩主。後に播磨姫路藩初代藩主。忠勝系本多家宗家2代。正室は家康の孫の熊姫である郡 p.20。.

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本多忠敬 (山崎藩主)

本多 忠敬(ほんだ ただたか)は、播磨山崎藩の第7代藩主。政信系本多家8代。.

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本多勝行

本多 勝行(ほんだ かつゆき)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩主、大和郡山新田藩主。本多政勝の長男。.

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本多重貞

本多 重貞(ほんだ しげさだ)は、江戸時代中期の武士。.

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本多正重

本多 正重(ほんだ まさしげ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。下総舟戸藩主。名前と経歴が良く似た本多政重は甥に当たる。.

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本多氏

本多氏(ほんだし・ほんだうじ)は、日本の氏族の一つ。本田氏と同じ氏族であり「本多氏」と「本田氏」は同じ氏族の別表記に過ぎなかったが、いつの間にか分別されたという。 江戸時代の譜代大名・旗本家となった三河の本多氏が著名である。他に、織田伊勢守家の家臣から外様大名となった本多利久・本多利朝の一族(大和高取藩家)も存在する。.

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本多日生

本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)は、日本の宗教家、僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長であり、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。.

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本多政均

本多 政均(ほんだ まさちか)は、江戸時代末期(幕末)の加賀藩の家老。.

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本多政信

本多 政信(ほんだ まさのぶ、寛永11年(1634年) - 寛文2年4月20日(1662年6月6日))は、江戸時代前期の大名。大和郡山新田藩初代藩主。政信系本多家初代。 播磨姫路藩主・本多政朝の次男。官位は従五位下出雲守。.

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本多政利

本多 政利(ほんだ まさとし)は、江戸時代前期の大名。大和郡山新田藩主、播磨明石藩主、陸奥大久保藩主。本多政勝の次男。.

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本多政勝

本多 政勝(ほんだ まさかつ)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩第3代藩主、播磨姫路藩第3代藩主。大和郡山藩初代藩主。忠勝系本多家宗家4代。本多忠朝の次男。「鬼内記」「大内記」などの異名を持つ豪勇の士であったという。.

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本多政長 (郡山藩主)

本多 政長(ほんだ まさなが、寛永10年(1633年) - 延宝7年4月24日(1679年6月2日))は、江戸時代前期の大名。大和郡山藩第2代藩主。忠勝系本多家宗家5代。 播磨姫路藩主本多政朝の長男。正室は土佐藩主山内忠豊の娘・フウ。官位は従五位下。市正、転じて中務大輔。本多中務大輔家直系で、本多忠勝の曾孫にあたる。.

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本多政朝

本多 政朝(ほんだ まさとも)は、江戸時代前期の大名。上総大多喜藩第3代藩主、播磨龍野藩主、播磨姫路藩第2代藩主。忠勝系本多家宗家3代。 慶長4年(1599年)、本多忠勝の長男本多忠政(後に姫路藩の初代藩主)の次男として生まれる。母は松平信康の娘・熊姫。 叔父である上総大多喜藩主本多忠朝が慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で討死すると、幼少である忠朝の子・本多政勝に代わって大多喜藩を相続する。元和3年(1617年)に播磨龍野藩5万石に移封される。その後、寛永3年(1626年)に兄であり本多家宗家播磨国姫路藩の嫡子である本多忠刻が病死すると、宗家の嫡子となる。 寛永8年(1631年)、父の死去により家督を相続して姫路藩主となった。なお、相続前に所有していた5万石は、弟の本多忠義に1万石、従兄弟の本多政勝に4万石を分与した。 寛永15年(1638年)死去。跡を政勝が養子となって継いだ。 まさとも Category:姫路藩主 Category:姫路新田藩主 Category:龍野藩主 Category:大多喜藩主 Category:1599年生 Category:1638年没.

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本太城

本太城(もとぶとじょう)は、現在の日本岡山県倉敷市児島本荘にある、戦国時代の日本の城跡である。.

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本禅寺

本禅寺(ほんぜんじ)は、京都府京都市上京区にある寺院。法華宗陣門流の京都本山。山号は光了山。塔頭が三院ある(心城院、詮量院、玄妙院)。.

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本貫

本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国・朝鮮半島では、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。.

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本郷義則

本郷 義則(ほんごう よしのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。宇喜多氏、島津氏の家臣。弓馬の道に優れ、特に弓術に関しては薩摩日置流の祖となったとされる。通称は本郷伊予守。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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本間宗久

本間 宗久(ほんま そうきゅう、1724年(享保九年) - 1803年(享和三年)。酒田人名録では本間古作。通称を久作。出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身。江戸時代の米商人で、酒田・大坂・江戸での米の商いで莫大な富を得たとされる。後に米沢藩の上杉鷹山を補佐した酒田の豪商本間光丘は甥。大坂・堂島の相場師牛田権三郎と並び称される。.

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月照寺 (明石市)

月照寺(げっしょうじ)は、兵庫県明石市人丸町にある曹洞宗の寺院。山号は人丸山。本尊は十一面観音。.

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月百姿

日野原、42頁。。夕顔が六条御息所の生霊に取り殺された屋敷を訪れた僧の前に、夕顔の霊が現れる。 1892年(明治25年)発売の画帖に付された目録。 『月百姿』(つきのひゃくし、つきひゃくし読みについては二通りがある。実作品に付された題名も、「つきの百姿」が12点(1・14・41・55・59・86・87・88・89・92・93・95)、「月の百姿」が1点(96)、「つき百姿」が7点(37・39・42・66・75・78・94)、残り80点と目録は「月百姿」と一定しない。『別冊太陽』138頁と『月岡芳年 血と怪奇の異才絵師』97頁では「つきのひゃくし」、『芳年妖怪百景』88頁では「つきひゃくし」とルビを付けている。)は、月岡芳年が1885年(明治18年)から1892年(明治25年)日野原、4頁。、数え47歳から54歳の時に発表した浮世絵の連作。月をテーマとした全100点揃物の大判錦絵である。のべ8年を掛けて完結し、1892年(明治25年)6月の芳年の死の直後に100作品に目録と序文を添えた画帖が発売された岩切2010、213頁。。後述するように幅広い画題と多彩な画風を駆使して描かれ、芳年の最後の大作河出書房新社、97頁。・代表作の一つ日野原、129頁。悳2001、88頁。日本経済新聞社、36頁。と評価されている。本作における画号は大蘇芳年岩切2010、206頁。。版元は日本橋の滑稽堂秋山武右衛門日野原、36頁。。 なお、本連作の各作品に元々通し番号は記されていないが、本項目では便宜上各作品に『芳年月百姿』に準拠した、発表順による1~100の番号を付して解説する。また、長大な題名の作品については、適宜目録に記載された短い題名岩切2010、225-228頁。を解説中では使用する。.

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挑文師

挑文師(あやとりのし/あやのし)とは律令制の大蔵省織部司に所属し、錦・綾・羅などの高級織物の文様作成と技術指導などを行う長上官。定員4人。.

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按察使

按察使(あぜち)とは.

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有職読み

有職読み(ゆうそくよみ)は、日本において古来からの慣例に従って、漢字で書かれた語を特別な読み方で読むこと。.

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有馬元家

有馬 元家(ありま もといえ、生年不明 - 応仁2年11月10日(1469年1月1日))は、室町時代中期の武将。通称は上総介。摂津有馬郡分郡守護。赤松氏の支流である有馬氏出身で有馬持家の子。子に則秀。 室町幕府8代将軍足利義成(後の義政)に近侍しその寵臣となったと言われ、義政の乳母今参局(御今)及び義政の母日野重子の従弟烏丸資任と共に義政側近の有力者となり「三魔」と呼ばれた(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人)。相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』康正元年1月6日(1455年1月23日)条には「政は三魔より出づ」と記されている。 文安元年(1444年)から翌2年(1445年)に同族の赤松満政が播磨守護山名宗全に反乱を起こし、父持家は一旦満政に味方したがその後幕府側に寝返って満政を討ち取り、態度を咎められて隠居したため元家が有馬郡守護職を継いだ。しかし、享徳3年(1454年)に又従兄弟の赤松則尚が赤松氏復帰を掲げて播磨で反乱を起こし、翌4年(康正元年、1455年)に宗全に討ち取られ、元家も連座して12月13日に出家遁世した。その後足利義視に仕えていたが、応仁の乱の最中に義政の命令を受けた赤松政則に殺害された。 三魔のうち有馬については長らく持家だとされていたが、持家に関しては特に専横の振る舞いは記録されていないこともあり、近年では元家が三魔の1人であると言われている。.

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有馬光隆

有馬 光隆(ありま みつたか、生没年不明)は、江戸時代中期の武士。伊勢西条藩第2代藩主・有馬氏久の養嗣子。正室は有馬氏久の娘。通称は主計、初名は泰治。.

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有馬則頼

有馬 則頼(ありま のりより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。摂津国三田藩主。有馬重則の二男『久留米人物誌』p.47。.

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有馬則氏

有馬 則氏(ありま のりうじ)は、安土桃山時代の武将。有馬則頼の長男。.

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有馬義祐

有馬 義祐(ありま よしすけ、生年不明 - 応永28年9月26日(1421年10月22日))は、室町時代の武将。摂津有馬氏の祖。父は赤松則祐。兄に義則、時則、満則、持則、義房、弟に祐秀。姉妹に細川頼元室。子は持家。 兄義則が赤松家の後を継ぎ播磨国・備前国の守護職に任命された為、義祐は播磨の守護代となる。明徳2年(1391年)の明徳の乱の戦功により摂津国有馬郡有馬荘の地頭職に任命され、その土地の名を取って姓を有馬とした(有馬郡は細川氏への牽制の為に赤松氏が分郡守護とされた)。応永15年(1408年)、兄義則が出家し、その子満祐が家督を継ぐと、義祐は守護大名同様に将軍家に仕えることとなる。 応永28年(1421年)、一族内の抗争により、2歳の孫と共に赤松家の若党に殺害される。.

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有馬道純

有馬 道純(ありま みちずみ、天保8年9月9日(1837年10月8日) - 明治36年(1903年)5月24日)は、日本の華族。子爵。江戸時代末期の大名、老中。越前丸岡藩の第8代(最後)の藩主。晴信系有馬家11代。官位は従四位下侍従、左兵衛佐、遠江守。.

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有馬豊氏

有馬 豊氏(ありま とようじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹波国福知山藩主、のち筑後国久留米藩初代藩主。久留米藩有馬家2代。.

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有馬重則

有馬 重則(ありま しげのり)は、戦国時代の武将。.

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有馬氏久

有馬 氏久(ありま うじひさ)は、江戸時代中期の大名。伊勢国西条藩2代藩主。氏倫系有馬家2代。.

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有馬持家

有馬 持家(ありま もちいえ、応永3年(1396年)? - 宝徳2年(1450年)?)は、室町時代中期の武将。摂津有馬氏の当主。通称は兵部少輔。有馬義祐の子。子に元家。赤松満祐、満政とは従兄弟。 有馬氏は摂津国有馬郡を領して将軍の近習を務め、本家の赤松氏とは別に室町幕府に直勤していた。 初名は教実(のりざね)、のち第4代将軍足利義持より偏諱を受けて持家と改名。前述の通り赤松氏の分家であることから、姓は赤松とも。 永享元年(1429年)頃から6代将軍足利義教(義持の弟)の御伴衆となる。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱直後も本家である赤松満祐方には与せず、山名宗全率いる幕府側の赤松追討軍に加わったとみられる。その後、新たに播磨守護を兼ねた宗全が持家の従兄弟・赤松満政の領する播磨東3郡を侵食すると、満政は怒り挙兵するが敗北。逃亡した満政は持家を頼る。持家は一度は満政に呼応し挙兵するが敗れ、満政父子を討ち取り幕府へ帰順するが、態度を咎められ隠居した。 8代将軍足利義成(後の義政)に近侍し、その寵臣となったと言われ、義政の乳母今参局(御今)および義政の母日野重子の従弟烏丸資任と共に義政側近の有力者として知られ、「三魔」と並び称されたという(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人)。相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』康正元年1月6日(1455年1月23日)条には「政は三魔より出づ」と記されている。 ただし、他の2人と異なり、持家に関しては特に専横の振る舞いは記録されておらず、義政側近中の「ま」がつく人ということで数合わせとして挙げられたとも考えられる(一説に持家が死去したのは宝徳2年(1450年)といい、そうなると義政将軍期としては時期が合わない)。その事から近年では子の元家が三魔の一人であると言われている。 もちいえ Category:室町・安土桃山時代の武士 Category:摂津国の人物 Category:1390年代生 Category:1450年代没.

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惣年寄

惣年寄(そうとしより)は、江戸時代に大坂・岡山・高知・堺・今井・平野・小倉・鹿児島などの町の町政を司った町役人の筆頭に位置する役職「惣年寄」『国史大辞典』第8巻 吉川弘文館、575頁「町年寄」『国史大辞典』第13巻 吉川弘文館、77頁。総年寄ともいい、江戸の町の町年寄に相当する。大坂の町にも町年寄はいるが、これは惣年寄の下に属するもので、町政の筆頭は惣年寄である。.

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成功 (任官)

成功(じょうごう)とは、朝廷の公事・行事及び殿舎の営繕、寺社の堂塔修造費用など本来、朝廷の公費で負担すべきところを、任官希望者を募って任料を納めさせるか、または自己負担でそれぞれの事業の功を成らせて、見返りに官職に叙任するという売官制度の一種である。.

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成田氏

成田氏(なりたし)は、日本の氏族の一つ。 鎌倉時代から安土桃山時代にかけて武蔵国に栄えた一族が著名である。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国大名 (ゲーム)

『戦国大名』(せんごくだいみょう)は、1986年にエポック社より販売され、2005年にはサンセットゲームズから戦国大名完全版と銘打って再発売されたボード・ゲーム。日本の戦国時代を題材とするマルチプレイヤーズゲーム(3人以上のプレイヤーが2チームに分かれるのではなく、それぞれが自陣営を率いて勝利を目指すゲーム)であるが、チュートリアル的な一人用シナリオもある。ゲームデザインはレックカンパニー(黒田幸弘・当時)が担当した。エポック版では、ゲームサークル毎あるいはプレイ数だけローカルルールが存在するといわれるほどに愛された。 本ゲームには基本キットとエクスパンションキットの2種類がある。エクスパンションキットは、基本キットで8人分しか用意されていなかった兵士・城塞ユニットを16人分まで増やすと共に、武将ユニットを追加したものだが、追加武将の中には豊臣秀吉の天下統一以降に活躍した人物が多い。 また、エキスパンションキットにおいて、ルールの追加・変更が行われており、これに伴い、基本キットに既に含まれていながら、エキスパンションキットで能力値を変更された武将もいる。.

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戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜

『戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜』(せんごくひめ3〜てんかをきりさくひかりとかげ〜)は、げーせん18より2011年6月17日に発売された18禁シミュレーションゲーム。2011年12月9日にパワーアップキット『戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜遊戯強化版-壱の巻-』が発売された。 システムソフト・アルファーより2012年3月29日にPSP版、2012年12月20日にPlayStation 3版、2013年1月31日PlayStation Vita版が発売された。.

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戸川安清

戸川 安清(とがわ やすずみ、天明7年(1787年) - 慶応4年3月4日(1868年3月27日)は、江戸時代の幕臣(旗本)500石。通称は、雄三郎。初名は安恵。字は興。雅号は蓮仙、剃髪後は蓬庵。.

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戸倉峠

戸倉峠(とくらとうげ)は、兵庫県宍粟市と鳥取県八頭郡若桜町との間に位置し、両県の県境を成す峠。標高891mで、これは兵庫県及び中国地方の分水嶺では最高地点。.

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戸田忠寛

戸田 忠寛(とだ ただとお)は、江戸時代中期から後期の大名。田原戸田家9代当主。肥前島原藩第2代藩主、下野宇都宮藩初代藩主。宇都宮藩戸田家7代。大坂城代、京都所司代といった要職を歴任した。.

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戸田忠昌

戸田 忠昌(とだ ただまさ)は、江戸時代前期の大名。奏者番兼寺社奉行、京都所司代、老中を務めた。三河田原藩第3代藩主、肥後富岡藩主、武蔵岩槻藩主、下総佐倉藩初代藩主。父は旗本小姓組番士戸田忠次、母は伴忠好の娘。『土芥寇讎記』における人物評価、特に「謳歌評説」などでは忠昌やその他大久保忠朝、阿部正武ら同僚を「善人の良将」と評している。.

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戸田氏

戸田氏(とだし)は、日本の氏族、また名字の一つ。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。 三つ葉葵(松本藩) 六星(松本藩)他 九曜(大垣藩).

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戸田氏定

戸田 氏定(とだ うじさだ、明暦3年3月30日(1657年5月13日) - (享保18年7月23日(1733年9月1日))は、江戸時代中期の大名。美濃大垣藩の第4代藩主。大垣藩戸田家5代。 第3代藩主・戸田氏西の長男。母は内藤忠政の娘。正室は藤井松平信之の娘。子に戸田氏長(次男)、戸田定浩(三男)、戸田氏房(五男)、娘(水野忠恒正室)、娘(太田資晴正室)。官位は従五位下、采女正。 明暦3年(1657年)3月30日生まれ。寛文11年(1671年)12月28日に従五位下采女正に叙任。貞享元年(1684年)6月7日父氏西の死没したため、8月に家督を継いだ。元禄元年(1688年)7月10日に弟戸田氏成に新田3000石を分知した。氏成の養父・戸田氏利の所領を合わせて1万石を超え、大名となり、分家の支藩(三河畑ヶ村藩(大垣新田藩)が誕生した。元禄7年(1694年)3月27日、飛騨国が高山藩主金森氏移封ののち幕領となったため、幕府より戸田が飛騨国検地総奉行に任じられた。 元禄14年(1701年)3月14日、母方の従弟にあたる播磨赤穂藩主浅野長矩が吉良義央に刃傷に及ぶ。実弟浅野長広は閉門となり、戸田や安部信峯ら従兄弟の大名達も連座して出仕を止められた。その後、赤穂城収城を前に浅野家筆頭家老大石良雄は、「我が藩は無骨な家臣どもばかりなので、上野介様への処断がはっきりしないと開城を納得させられない」といった、暗に吉良へのお仕置きを求める嘆願書を月岡治右衛門と多川九左衛門を使者にして幕府収城目付の荒木政羽と榊原政殊に出そうとした。しかし月岡と多川は収城目付と行き違いになったまま江戸へ到着、大石の「江戸家老には見せるな」という命令に背いて江戸家老安井彦右衛門にこれを相談してしまう。案の定、安井はすぐさま戸田にこれを報告した。驚いた戸田は「開城こそが公儀を重んじた内匠の意思のはず」といった内容の書を月岡と多川に渡して大石に届けさせた。こうして嘆願は失敗に終わる。 結局、赤穂藩内の論争はお家再興・かたき討ちを前提とした開城でまとまったため、赤穂城は無血で開城された。その後は戸田も浅野家再興のために尽力し、元禄14年(1701年)7月には大石良雄・小野寺秀和らを大垣に招いて浅野家再興について議した。しかし、功を奏せず、元禄15年(1702年)7月18日、浅野長広は安芸広島藩お預かりとなり、事実上再興の可能性はなくなった。その後、大石良雄らは吉良義央への仇討ち計画を本格化させ、年末には義央の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に捧げた後に切腹となった。 戸田自身は、その後平穏な人生を送り、享保8年(1723年)4月に次男の氏長に家督を譲って隠居し、享保18年(1733年)7月23日に死去。享年77。駒込蓮光寺に葬られた。法名は霊台院瑞誉松厳大居士。 Category:大垣藩主 Category:譜代大名 うしさた Category:赤穂事件関係人物 Category:1657年生 Category:1733年没.

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戸沢光盛

戸沢 光盛(とざわ みつもり)は、安土桃山時代の大名。戸沢氏の第19代当主。出羽角館城主。.

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戸沢氏

戸沢氏(とざわし)は、陸奥国、後に出羽国を支配した氏族。国人、のち戦国大名、江戸時代には新庄藩主となり明治維新に至る。.

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明徳の乱

明徳の乱(めいとくのらん)は、南北朝時代(室町時代)の元中8年/明徳2年(1391年)に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱である。内野合戦とも呼ばれる。.

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明和の法論

明和の法論(めいわのほうろん)は、江戸時代中期の明和年間に浄土真宗本願寺派にて発生した法論(教義論争)。当時の西本願寺学林で正統視されていた、浄土真宗の本尊にまつわる学説をめぐり、播磨の学僧・智暹と学林との間で意見が戦わされた。.

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明石

明石(あかし)とは、兵庫県南部の地名。『源氏物語』や『日本書紀』にも登場する古い地名で、語源は明石川の西にある赤石(あかいし)からとも、明るいという意味の「明し」とも言われている。 現在は兵庫県明石市を指すが、歴史的に見た場合には、次の2つの意味もある。いずれも、地理的要因から、人の流れや集落・文化の形成に反映されたものである。.

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明石 (曖昧さ回避)

明石(あかし).

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明石の御方

明石の御方(あかしのおんかた)は、紫式部の物語『源氏物語』に登場する架空の人物。「明石の方」「明石の君」とも呼ぶ。しばしば「明石の上」と誤って呼ばれるが、出自の低い側室なので、作中で「上」と呼ばれることは一切ない。.

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明石レッドソルジャーズ

明石レッドソルジャーズ(あかしレッドソルジャーズ)は、かつてプロ野球関西独立リーグに所属していた兵庫県のプロ野球チームである。2008年に発足し、2009年よりリーグに加盟した。2011年以降は活動休止となり、その状態でリーグ自体が活動を停止した。.

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明石入道

明石入道(あかしのにゅうどう)は、紫式部が著した『源氏物語』に登場する架空の人物である。明石の入道と記されることもある。.

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明石則実

明石 則実(あかし のりざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。 織田氏の家臣・羽柴秀吉が播磨国に入国して姫路城主になった際、従兄弟の黒田孝高と共に秀吉に属した。 天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いに参加し、天正13年(1585年)3月の紀州征伐では紀伊国太田城攻めで功があり1万石となる。ついで四国征伐にも参加。戦後に但馬国豊岡城において2万2,000石を領し、左近将監に叙任された。天正15年(1587年)の九州平定では兵800を率いる。翌年の聚楽第行幸では関白となった豊臣秀吉の牛車に供奉している。小田原征伐では秀吉の馬廻として従軍する。 文禄元年(1592年)の文禄の役にも兵800を率いて朝鮮へ渡海し、大邱など釜山から漢城に向かう慶尚道内の要路の防衛を担当するなどしている。しかし、文禄の役後、秀次事件に連座して切腹を命じられた。 のりさね Category:戦国武将 Category:織豊政権の大名 Category:播磨国の人物 Category:切腹した人物 Category:16世紀生 Category:1595年没.

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明石国

明石国(あかしのくに)は、現在の兵庫県に存在した律令制成立以前の国の一つ。 播磨国および兵庫県にあった明石郡、美嚢郡、加古郡、印南郡 の4郡が明石国だったとされる。 大化の改新以降に、針間鴨国とともに針間国に編入され、播磨国の一部とされた。.

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明石町 (東京都中央区)

明石町(あかしちょう)は、東京都中央区の地名で、旧京橋区にあたる京橋地域内である。「丁目」の設定のない単独町名である。郵便番号は104-0044。.

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明石焼

明石焼(あかしやき)は、兵庫県明石市を中心に焼かれる陶磁器である。明石焼の焼造は江戸時代中頃からはじまった明石藩の民窯、三島や古清水風・京焼風の色絵陶器の影響を大きく受け色絵の皿や碗などが多く焼かれた。江戸時代後半ごろが最盛期でそのころになると古京焼風の色絵の土瓶や土鍋などの高級なものが増えていった。明石・明石浦・明浦山・明石湊などの印がある。 江戸時代初頭、明石は播磨国を支配する池田氏の所領であった。しかし元和3年(1617年)姫路藩主・池田光政が鳥取藩に転封されることとなり、播磨の所領は中小の藩に分割された。光政が転封されると、明石の地には信濃国松本藩より小笠原忠真が10万石で入封し明石藩を立藩した。忠真は明石城の建設や明石の町の整備に努め、産業の発展として陶器にも尽力した。 一説によると初め忠真は京都から京焼色絵陶器の大家野々村仁清(名は清右衛門)を招いて、御庭焼と呼ばれる陶器を焼かせたという話がある。ただ詳細は不明である。ときに「明石仁清」とよばれたりするのはこのためである。元和年間になって御用窯が築かれ、鳥羽集落・赤浦にて戸田織部之助が陶器を焼き始める。これが古明石焼である。備前写しや三島写しの茶陶が焼かれ、茶人から愛されることとなる。その後、天明の一時期明石焼の製作は中断されることとなるが、明石町奉行で群奉行の手塚孫一郎が野々村仁清の流れを受け継ぐ摂津吉向焼を迎えて山田菊太郎に焼かせた。これは朝霧焼きと呼ばれ「朝霧」と印がある。文化の頃になると三国久八が大蔵口狩口谷で陶器を生産し大阪方面に売り出していた。 このようにして約300年の間生産され続けた明石焼きだが、明治末期から大正初期にかけて欧米や東南アジアへの輸出陶器が盛んとなったのち、大正年間に至っては衰微してしまった。主に日常品が多く焼かれ他、地域向けに大量に焼かれることが少なかったため明治期には交趾風の陶器も焼かれたが以降衰退していき現存する窯は少ない。日常雑器で焼かれていたものとしては焙烙(素焼きの平たい土鍋)やすり鉢などがあり、前者は藤江、後者は西島、中尾で作られていた。また瓦は江戸時代天明の頃に始まり、大久保町の海岸地帯・西八木、東江井方面で生産されている。.

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明石覚一

明石 覚一(あかし かくいち、正安元年(1299年)頃 - 応安4年/建徳2年6月29日(1371年8月10日))は、南北朝時代の平家琵琶(一方流)演奏家である。.

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明石郡

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明石藩

明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.

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明石正風

明石 正風(あかし まさかぜ)は、戦国時代の武将。赤松氏の家臣。.

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明珍火箸

明珍火箸(みょうちんひばし)とは、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)において、19世紀頃、姫路藩主である酒井家などに仕えていた明珍家(甲冑師の一族として名高い)がその技術を活かして作り始めた火箸。兵庫県指定伝統工芸品に指定されている。 火箸の型は、20種類程あり、現在代表的なものはツクシ型、ツヅミ型、ワラビ型、カワクギ型の4種類である。火箸の需要が落ちた現在では、火箸を利用して風鈴が作られている。 火箸の音に魅了された作曲家に、冨田勲とスティーヴィー・ワンダーがいる。二人とも、この音を楽曲に取り入れようとしていたが、アナログ録音ではそれが不可能であったため、一旦は使用をあきらめていたという。その後、デジタル録音が可能になったことで、冨田はこの音を再度楽曲に取り入れることにしたということで、その結果出来上がったのがNHKスペシャル『街道をゆく』のテーマ音楽である(スタジオパークからこんにちは内での冨田のコメント)。.

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明泉寺 (神戸市)

明泉寺(みょうせんじ)は兵庫県神戸市長田区明泉寺町にある臨済宗の仏教寺院。寺名よりも大日寺、大日さんで知られている。.

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明済

明済(みょうさい、?-応永20年8月11日(1413年9月6日) )は、室町時代の真言宗の僧。俗姓は松本と伝えられ、豊前と称した。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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流 (博多)

流(ながれ)とは、福岡県福岡市博多区の博多における複数の町の集合体の呼称。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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浦上

浦上(うらかみ・うらがみ).

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浦上宗景

浦上 宗景(うらがみ むねかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備前国の戦国大名。.

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浦上久松丸

浦上 久松丸(うらがみ ひさまつまる、永禄10年(1567年) - 天正3年(1575年)頃)は、戦国時代の人物。父は浦上誠宗、母は黒田職隆の娘。 守護・赤松氏の本拠である置塩城に住んだとされる(「備前軍記」など)。 9歳になった時、備前国で大叔父・浦上宗景と対立する宇喜多直家により、正統な浦上家の当主として擁立され、岡山城へ迎えられた。この際直宗という諱を名乗ったとされている。その結果、配下の国人らの相次ぐ離反によって、宗景は天神山城から播磨国に退去した。天正元年(1573年)、東播磨の三木城主・別所長治の後援を受けて、増位山にて黒田職隆配下・小寺休夢を攻撃する。職隆・休夢らは有明山城に入って交戦するが、別所勢はこれを破った。 一方で久松丸も、間もなく直家に毒殺されたとも伝えられる(美作沼本家文書、小寺家文書、「吉備前鑑」「備前記」など)。また「書写山十地坊過去帳」には、永禄10年(1567年)に父・二郎九郎と共に死亡したという記述がある。.

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浦上則宗

浦上 則宗(うらがみ のりむね)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の家臣。.

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浦上則景

浦上 則景(うらがみ のりかげ)は、室町時代後期の武将。赤松氏の家臣。.

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浦上国秀

浦上 国秀(うらがみ くにひで)は、戦国時代の武将。浦上氏の家臣。.

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浦上玉堂

浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう、延享2年(1745年) - 文政3年9月4日(1820年10月10日))は、江戸時代の文人画家、備中鴨方藩士。諱は孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得て「玉堂琴士」と号した。父は宗純。.

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浦上誠宗

浦上 誠宗(うらがみ なりむね/あきむね)は、播磨国の戦国大名。浦上政宗の三男。 父・浦上政宗と兄・清宗の死後、家臣である江見河原源五郎らに室津城主に擁立される。また兄の室になるはずだった黒田職隆の娘を娶り、久松丸を儲けた。 しかし、播磨国内での勢力拡大を恐れた、叔父・浦上宗景の意を奉じた江見河原によって暗殺され、これにより室津の浦上家は没落した。.

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浦上村宗

浦上 村宗(うらがみ むらむね)は、戦国時代の武将。備前国・美作国・播磨国の戦国大名。浦上宗助の子(一部、宗助の叔父・浦上則宗の実子とする家系図もある)。 赤松氏に臣従し、主君・赤松義村から偏諱(「村」の字)を受けて村宗と名乗るも、のちに義村から独立する姿勢を見せてこれを殺害した。その後も義村の子・政村(政祐)と抗争し一旦は和睦するが、大物崩れの際に政祐の攻撃に遭い討ち死にした。.

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浦上氏

浦上氏(うらがみし、うらかみし)は、日本の氏族。武内宿禰系紀氏の流れを汲むとされる。また、他流として有道氏の後裔である浦上氏もある。.

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浦上政宗

浦上 政宗(うらがみ まさむね)は、備前国の戦国大名。浦上村宗の長男で浦上宗景の兄。.

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海城 (城郭)

海城(うみじろ)は、水運を押さえるため海に直面して築かれ、海水を堀に用い、その一部に舟入や船着場を設置または兼用している城、あるいはその形式。河川や湖沼に隣接する城と併せ、総じて水城(みずじろ)とも呼ばれる『図説戦国武将おもしろ事典』(監修・奈良本辰也、1990年・三笠書房)(福岡県にある遺跡・水城(みずき)とは異なる)。.

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海老名氏

海老名氏(えびなし).

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浜田彦蔵

浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彦藏、天保8年8月21日(1837年9月20日) - 明治30年(1897年)12月12日)は幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。.

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浜田藩

浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城に置かれた。.

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浜言葉

浜言葉(はまことば)とは、日本の沿岸地方、港町、漁村などで話される言葉、方言の総称を言う。 青森県八戸市沿岸から岩手県三陸海岸、宮城県の女川町、千葉県の外房地方、九十九里浜、神奈川県相模湾沿い(三浦三崎~湯河原)、静岡県駿河湾沿い、愛知県三河地方の沿岸部、和歌山県、大阪府泉州、北海道 、兵庫県播州など各地に浜言葉と呼ばれる言葉、方言がある。一般的に漁師言葉とされ、威勢がいい、荒っぽい、きつい言葉などと言われる。 カテゴリ:日本語の方言 カテゴリ:日本語の言語変種.

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浜松藩

浜松藩(はままつはん)は、江戸時代の藩の一つであり、遠江国の浜松宿(現在の静岡県浜松市中区)の浜松城を居城とした。.

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浄土寺 (小野市)

浄土寺(じょうどじ)は、兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺院。山号を極楽山と称する。本尊は薬師如来と阿弥陀如来、開山は重源で、建久年間(1190年~1198年)の創建である。多数の文化財を所有する古刹として知られ、大仏様建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名である。.

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浄運寺 (たつの市)

清涼山浄運寺(じょううんじ)は、兵庫県たつの市御津町室津にある浄土宗の寺院。知恩院の末寺。法然上人霊跡の一つ。遊女の元祖とされる友君社を訪ねて P.190-192、また『お夏清十郎』ゆかりの寺としても知られているはりま伝説散歩 P.157-170。.

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浄教寺 (岡山市)

浄教寺(じょうきょうじ)は、岡山県岡山市中区御成町にある浄土真宗本願寺派の寺院。.

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浅川陣屋

浅川陣屋(あさかわじんや)は、陸奥国石川郡浅川村に置かれた越後高田藩浅川領の奉行所・幕府領の代官所である。.

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浅井政貞

浅井 政貞(あざい まささだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国中島郡苅安賀城主。.

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浅見又蔵

浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日)(1839年9月23日) - 明治33年(1900年)4月21日)は、滋賀県の実業家。太湖汽船会社社長、第21国立銀行頭取・第64国立銀行頭取等を歴任、篤志家として様々な支援活動を行い、晩年は日本赤十字社の活動に対しても積極的に関わった。.

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浅野長友

浅野 長友(あさの ながとも、寛永20年10月3日(1643年11月4日) - 延宝3年1月26日(1675年2月20日))は、播磨赤穂藩の第2代藩主。初代藩主・浅野長直の長男。母は丹羽長重の娘。正室は内藤忠政の娘波知。子には長男・浅野長矩(内匠頭)、次男・浅野長広(大学)がいる。官位は従五位下、采女正。幼名は又一郎。 浅野長友之墓(花岳寺) 明暦3年(1657年)12月17日、祖父長重と同じ従五位下采女正に任官する。寛文11年(1671年)3月5日、父の隠居により家督相続。このとき父の命で5万3000石の所領のうち、3,500石を義兄の長賢に、新田3,000石を長恒にそれぞれ分与したため、赤穂藩は5万石となる。寛文12年(1672年)10月、赤穂に初めて入り、藩政を執り始めるが、延宝3年(1675年)正月26日、33歳で早世した。墓所は赤穂市の花岳寺。 跡は赤穂事件で知られる長男の長矩が9歳で継いだ。 なかとも 浅02 Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名) Category:1643年生 Category:1675年没.

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浅野長矩

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。.

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浅野長祚

浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日(1816年7月3日) - 明治13年(1880年)2月17日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての幕臣(旗本)、蔵書家、芸術鑑定家。通称は金之丞。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。号の「梅堂」も有名。他に池香、蒋潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼などとも名乗った。娘の花子は川路寛堂に嫁いでいる。.

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浅野長照

浅野 長照(あさの ながてる、慶安5年1月17日(1652年2月26日) - 宝永2年11月15日(1705年12月30日))は、第2代備後三次藩主。通称は長蔵(ながぞう)、官位は従五位下・式部少輔(しきぶしょうゆう)。 父は安芸広島藩主浅野光晟、母は前田利常の娘・満姫。兄に浅野綱晟、浅野長尚。室は公家の広幡忠幸の娘・園姫。.

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浅野長直

浅野 長直(あさの ながなお、慶長15年(1610年) - 寛文12年7月24日(1672年9月15日))は、江戸時代前期の外様大名。浅野氏では初代の播磨赤穂藩主。.

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浅野長賢 (旗本)

浅野 長賢(あさの ながかた、寛永11年(1634年)- 貞享4年5月5日(1687年6月14日))は、江戸時代前期の幕府旗本寄合。赤穂藩浅野家の分家。 交代寄合の松平清昌の末男として生まれる。伯母(叔母)の婚家である播州赤穂藩の藩主で、従兄の浅野長直の養子に入るが、実子長友の誕生により部屋住みに落とされた。承応元年7月26日(1652年8月29日)には、将軍徳川家綱に初御目見する。寛文11年3月5日(1671年4月14日)、長友から3500石を分与されたため、旗本の寄合に列した。貞享3年12月6日(1687年1月19日)の隠居により、その家督は養子の長武(赤穂浅野家家臣大石良重の子、母が浅野長直の娘)に譲った。貞享4年(1687年)に死去した。享年54。 なかかた Category:竹谷松平氏 Category:江戸幕府旗本 Category:1634年生 Category:1687年没.

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浅野長恒

浅野 長恒 (あさの ながつね、万治元年(1658年) - 享保17年9月7日(1732年10月25日))は、江戸時代中期の武士。江戸幕府の旗本寄合。播磨国赤穂藩浅野家の分家にあたる。通称は長三郎(ちょうさぶろう)のち隼人(はやと)。官位は従五位下、美濃守・壱岐守・市正(いちのかみ)。浅野氏は土岐氏の支流と称しているので、その通りならば本姓は清和源氏。.

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浅野長武

浅野 長武(あさの ながたけ、寛文3年(1663年) - 正徳2年9月21日(1712年10月21日))は、江戸幕府の旗本。播磨赤穂藩浅野家の分家にあたる。通称は左兵衛(さへえ)。 赤穂藩浅野家の江戸家老大石良重の次男として誕生。母は赤穂藩主浅野長直の娘。兄に浅野長恒がいる。はじめ大石酒之允と名乗ったが、母方の血統ゆえに貞享元年(1684年)4月に赤穂藩浅野家の分家旗本の浅野長賢(3500石)の婿養子に迎えられ、浅野左兵衛と改名した。 貞享3年(1686年)3月1日、はじめて将軍徳川綱吉に謁見。12月6日、養父長賢の隠居で家督を相続した。元禄11年(1698年)4月1日、御書院番の組頭となり、12月29日には布衣の着用を許された。元禄14年(1701年)3月15日には宗家の浅野長矩の刃傷に連座して出仕を禁止された。5月6日に出仕が許され、6月25日になって将軍拝謁も許された。元禄15年(1702年)12月19日、又従兄弟にあたる大石良雄が吉良義央を討ち取った事件で再び出仕を止められたが、元禄16年(1703年)3月8日には許された。正徳2年(1712年)正月11日に持弓頭に就任したが、9月21日には死去。享年50。 妻は浅野長賢の娘、のちに甲斐庄正親の娘。子に浅野長時と浅野長豊に嫁いだ娘がいる。 Category:大石氏 なかたけ Category:江戸幕府旗本 category:赤穂事件関係人物 Category:1663年生 category:1712年没.

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浅野長治

浅野 長治(あさの ながはる、1614年5月4日(慶長19年3月26日) - 1675年2月13日(延宝3年1月19日))は、江戸時代前期の大名。備後三次藩初代藩主。正室は常陸笠間藩主浅野長重の娘。通称は又六郎(またろくろう)。官位は従五位下因幡守。 広島藩初代藩主浅野長晟の庶長子として山城国に生まれる。元和5年(1619年)に将軍徳川秀忠に御目見する。寛永7年(1630年)に従五位下因幡守に叙任された。 寛永9年(1632年)11月2日に父の遺領のうち備後国三次郡と恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となる。11月6日に領地三次に入った。三次藩の基礎を築いた名君であった。 男子がなかったため、本家を継いだ弟・光晟の次男長尚を明暦3年(1657年)に養子に迎え入れたが、まもなく死去したため、三男長照を新たに養子に迎えて家督を継がせた。また、娘に赤穂事件で有名な播磨赤穂藩主浅野長矩の正室・阿久里がいる。 延宝3年(1675年)1月19日に死去した。墓所は広島県三次市にある鳳源寺のある比熊山城跡山麓。法名は俊岳了英鳳源院。.

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浅野長澄

浅野 長澄(あさの ながずみ、寛文11年12月1日(1671年12月31日) - 享保3年8月4日(1718年8月29日))は、第3代備後三次藩主。 安芸広島藩主浅野綱晟の次男。母は左大臣九条道房の娘・八代姫。兄は第4代広島藩主・浅野綱長。正室は小笠原忠雄の娘。子に浅野長経(長男)、浅野長寔(次男)。通称は大助(だいすけ)、官位は従五位下・土佐守。.

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浅野長政

浅野 長政(あさの ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五奉行筆頭。浅野氏14代当主。常陸国真壁藩初代藩主。 長政は晩年の改名で、初名の長吉(ながよし)を名乗っていた時期が長い。.

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浅野氏

浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.

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斎藤一

斎藤 一(さいとう はじめ、天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年)9月28日)は、日本の武士(新撰組隊士)、警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。 幕末期に新撰組で副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務める。一時期御陵衛士に入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。明治維新後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。 退職後、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の守衛、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を務める。出自、経歴は不明な点も多い。.

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斎藤鎮実

斎藤 鎮実(さいとう しげざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。.

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斎村政広

斎村 政広(さいむら まさひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。赤松政秀の子。初名は赤松広秀(あかまつ ひろひで)。播磨龍野城、のち但馬竹田城城主。通称を弥三郎。官名は従五位下左兵衛佐。.

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新城藩

新城藩(しんしろはん)は、三河国に江戸時代前期に存在した藩。藩主は水野氏。居城は新城城(現在の愛知県新城市字東入船)。徳川家家臣の水野分長が尾張国知多より1万石にて入封。その子元綱の時に上野国安中に移封となった。かわって徳川家家臣・菅沼氏が入府した。菅沼氏は旗本(交代寄合)であったため、以後江戸時代末期までの新城村は、菅沼氏の陣屋町となった。.

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新史太閤記

『新史 太閤記』(しんし たいこうき)は、司馬遼太郎の歴史小説。尾張国の貧農から身を起こして天下人となり、「戦国一の出世頭」と呼ばれた豊臣秀吉の壮年期を扱った作品である。 『小説新潮』誌上で、1966年(昭和41年)2月号から1968年(昭和43年)3月号まで連載された。.

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新宮町 (兵庫県)

新宮町(しんぐうちょう)は、かつて兵庫県南西部(西播磨地区)に存在した町。旧揖保郡。本項では町制前の名称である新宮村(しんぐうむら)についても述べる。 2005年10月1日に、龍野市・新宮町・揖保川町・御津町の1市3町で合併し、たつの市となったため消滅した。「新宮町」の地名は「たつの市新宮町○○」として残る。.

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新宮藩

新宮藩(しんぐうはん).

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新田分知

新田分知(しんでんぶんち)は、江戸時代における武家の分家形態の一つである。分家の創設の際に、主君から与えられた領地ではなく入封後新規に開発した領地(新田)を分知する方式である。これにより、本家の表高を減少させずに分家を創設する事が出来る。大名および旗本の分家の際に多く認められる。大名家の新田分知において分家も1万石以上の石高がある場合、分家のことを○○新田藩と称することがある。以下においては、大名家の事例を中心に記述するが、特に注釈しない場合は旗本の場合も同様である。 新田分知の形態には、.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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新田貞時

新田 貞時(にった さだとき)は、江戸時代後期の高家旗本。由良氏12代当主で、明治維新以前は由良 貞時(ゆら さだとき)と名乗っていた。.

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施福寺

山門 施福寺(せふくじ)は、大阪府和泉市にある天台宗の仏教寺院。通称槇尾寺(まきおでら、まきのおでら)。山号は槇尾山(まきのおさん)。本尊は弥勒菩薩(札所本尊は千手観音)。槇尾山の山腹に位置する。西国三十三所第四番札所である。槇尾山とともに大阪みどりの百選に選定されている。.

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斑鳩寺 (兵庫県太子町)

仁王門 講堂 聖徳殿 聖徳殿奥殿 斑鳩寺(いかるがでら、はんきゅうじ)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所第32番札所。.

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文石小麻呂

文石小麻呂(あやしのおまろ、生年不詳 - 雄略天皇13年(469年)8月)は、播磨国御井隈の人物。.

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文観

文観(もんかん、弘安元年(1278年) - 正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代の僧。小野僧正。殊音上人、弘真。醍醐座主。「文観」という僧名と「殊音上人」という上人号は「文殊」菩薩と「観音」菩薩に因むものという。 正安2年(1302年)には般若寺の律宗の僧で、西大寺に属する播磨国北条常楽寺(兵庫県加古川市)、大和国笠山竹山寺(奈良県桜井市笠)などで真言律を学ぶ。正和5年(1316年)に醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。邪教とされていた真言宗立川流の僧としても知られ、円観(恵鎮)とともに遁世僧で貧民救済なども行っている。 後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。元亨4年(1324年)には般若寺に文殊菩薩像を造り、嘉暦元年(1326年)から後醍醐天皇中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、元徳2年(1331年)には逮捕され硫黄島へ流罪となる。 正慶2年 / 元弘3年(1333年)に元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り東寺長者となり、建武の新政で栄華を極めた。しかし、高野山の僧らは文観と立川流を危険視し、1335年(建武2年)に立川流の僧の多くを殺害、書物を灰燼に帰するといった大規模な弾圧を加えた。文観自身もこの時期に東寺長者の地位をはく奪され甲斐国へ流された。その後京都へ戻り、南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となる。河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で没、享年80。 、河内の悪党として知られる楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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日岡神社

日岡神社(ひおかじんじゃ)は、兵庫県加古川市加古川町大野にある神社。式内社で、旧社格は郷社。.

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日岡陵古墳

日岡陵古墳(ひおかりょうこふん)は、兵庫県加古川市加古川町大野にある古墳。形状は前方後円墳。日岡山古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「日岡陵(ひのおかのみささぎ)」として第12代景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)の陵に治定されている。名称は「日岡御陵(ひおかごりょう)」や「褶墓(ひれはか、ひれ墓)」とも。.

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日中関係史

日中関係史(にっちゅうかんけいし)においては、日本と中国大陸にあった歴代の王朝と現在、中国大陸に存在する「中華人民共和国」との関係の歴史を解説する。なお、本項では、台湾にある現在の中華民国との関係についても言及するものとする。.

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日勇

法性院日勇(ほっしょういんにちゆう、慶長9年(1604年) - 慶安3年12月23日(1651年2月13日))は江戸時代の日蓮宗の僧侶。字を天慧と号し、俗姓は平氏。京都市左京区にある本山妙傳寺第十四世、京都市山科区にある護国寺(山科檀林)の開山。勇師法縁の縁祖である。.

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日笠頼房

日笠 頼房(ひかさ よりふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浦上氏の家臣。備前国日笠青山城主。.

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日置忠俊

日置 忠俊(へき ただとし、元亀3年(1572年)- 寛永18年5月19日(1641年6月27日))は、岡山藩の家老。備前金川1万7000石の領主。 父は池田家家老日置忠勝。母は今枝忠光の娘。弟は加賀藩家老今枝直恒。正室は飯尾敏成の娘(母は池田恒興の養女七条殿)。養子は日置忠隆、日置忠治。通称左門、豊前。.

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日田藩

日田藩(ひたはん)は、日本の豊後国日田郡にあった江戸時代の藩である。永山城、日田陣屋を藩庁とする行政区分のことを特にいう。.

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日本の合成地名一覧

日本の合成地名一覧(にほんのごうせいちめいいちらん)は、日本における合成地名を種別・地域別に列挙した一覧である。 複数の地域を総称するために数を表す言葉を用いた地名も合成地名の一種としてカテゴライズされることもある。例えば上野国と下野国の領域を総称した「両毛」、陸前国・陸中国・陸奥国にまたがる「三陸海岸」、6つの大字が分立してできた「六合村」(現・中之条町)などがある。 合併時にどちらの地名を用いるか論争になった際に妥協案として実施されたものが多く、いわゆる地名研究家などから「伝統的な地名の破壊につながる」という批判が多い。一方で、両方の地名をそのまま残す、連称に関しても批判は存在するが、合成地名ほどではない。 他の同名自治体との識別などで広域地名を付した地名については、言葉の成り立ちとしては連称による合成地名の一種といえないこともないが意味合いが異なることからここでは合成地名として扱わない。市町村合併も参照されたい。.

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日本の合戦一覧

日本の合戦一覧(にほんのかっせんいちらん)は、日本の歴史上で発生した武力を以って行った主要な争いの一覧である。 概ね「戦い」や「合戦」は軍隊同士の大規模な戦闘、「乱」は国家や公的な組織に対する内戦・反乱・クーデターに当たる争い、「変」は国家や公的な組織による内戦・反乱・クーデター、「役」は外国・異民族との戦争。.

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日本の地名の略表記一覧

日本の地名の略表記一覧(にほんのちめいのりゃくひょうきいちらん)は、日本の地名を省略して表記した主なものの一覧である。.

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日本の華族一覧

日本の華族一覧(にほんのかぞくいちらん)は日本に1869年から1947年まであった華族制度の叙爵者の一覧である。 ここでは五十音順で表記する。.

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日本の貿易史

日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史を説明する。歴史的に蝦夷地や琉球等と呼ばれてきた地域の貿易についても記述する。世界各地の貿易の歴史については、貿易史を参照。.

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日本一周 (田山花袋)

『日本一周』(にほんいっしゅう)は、日本の小説家、田山花袋が1910年代に発表した紀行文集の名称である。.

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日本ダム史年表

日本ダム史年表では、日本のダム事業の歴史を年表形式として、一括して掲載する(詳細な記述に関しては日本のダムの歴史を参照)。.

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日本遺産

日本遺産(にほんいさん、Japan Heritage)は、文化庁が認定した、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーである。.

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日本語の方言

日本語の方言(にほんごのほうげん)、すなわち日本語の地域変種(地域方言)について記述する。 日本語は語彙・文法・音韻・アクセントなどあらゆる面で地方ごとの方言差が大きく、異なる地方に転居や旅行した際に、言葉が通じず苦労する場合が少なくない。日本語の方言は大きく「本土方言」と「琉球方言」に分かれ、それぞれがさらに細分化できる(区分章を参照)。明治以降、東京方言を基に標準語の確立と普及が進められ、地方の方言はそれを阻害するものとして否定的に捉えられるようになった。太平洋戦争後は標準語(「共通語」とも言い換えるようになった)と方言の共存が模索されるようになったが、実際には各地の伝統的な方言は急速に衰退・変質している(歴史・近代以降章を参照)。 日本では「方言」という語は、「めんこい」「おもろい」「ばってん」のような標準語・共通語とは異なる各地方独特の語彙や言い回し(「俚言」)あるいはアクセントや発音の違い(いわゆる「なまり」)を指す場合が多い。しかし、言語学ではアクセント・音韻・文法などを全てひっくるめ、その地域社会の言語体系全体を指すのが一般的である。すなわち、東京という一地域の日本語の体系ということで「東京方言」も当然存在する。.

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日本酒の歴史

日本酒の歴史(にほんしゅのれきし)では、日本酒の歴史について説明する。.

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日本陸軍の管区と部隊

本項目では、大日本帝国陸軍の1871年から1945年までの管区と部隊所在地を示す。本表が示す部隊所在地(営所あるいは衛戍地と呼ばれた)は、平時に部隊が常駐すると決められた場所であって、戦時の作戦や一時的な派遣での移動先は含まない。表は大きな改正があった年の状態を示す。境界線変更や部隊の移転など、小さな変更までは反映していない。.

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旧国郡別石高の変遷

旧国郡別石高の変遷(きゅうこくぐんべつこくだかのへんせん)とは、地租改正による石高制の廃止までの、安土桃山時代・江戸時代・明治時代初期の旧国別、および郡別の石高と村数の変遷をまとめたものである。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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早田宮

早田宮(はやたのみや、わさだのみや)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて円満院門跡の門主を務めた宮家。別名「円満院宮」とも『後嵯峨天皇実録 第二巻』(ゆまに書房 2009年)p.909-916。.

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早水満尭

『義士四十七図 早水藤左衛門満尭』(尾形月耕画) 早水 満尭 (はやみ みつたか、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は藤左衛門(とうざえもん)。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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旗本札

旗本札(はたもとさつ)は、江戸時代に知行地を持つ旗本が自領内において独自に発行した紙幣である。.

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旗振り通信

旗振り通信(はたふりつうしん)は、江戸時代中期から明治期にかけての日本で、米相場など米のほか油・株式・金銀の相場情報の伝達に用いられた(柴田2006、19頁。)。の情報を伝えるために活用されていた、旗などを用いた通信システム(大型手旗信号の一種)である。気色見(けしきみ)、米相場早移(こめそうばはやうつし)、遠見(とおみ)ともいう。.

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摩氣神社

摩氣神社(まけじんじゃ)は、京都府南丹市園部町竹井宮ノ谷(もと船井郡新江郷上新江村、摩気村竹井)にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は府社。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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摂津有馬氏

有馬氏(ありまし)は、日本の氏族の一つ。赤松氏(村上源氏)の庶流で、室町時代に摂津国有馬郡を拠点とした。他流の有馬氏とは区別して摂津有馬氏、赤松有馬氏とも呼ばれ、江戸時代、一族からは久留米藩主家などが出た。.

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摂播五泊

摂播五泊(せっぱんごはく)は、奈良時代の僧侶、行基が開いたとされる播磨・摂津の合わせて5箇所の港。いずれも現在の兵庫県内。.

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播州の秋まつりシリーズ

播州の秋まつりシリーズ(ばんしゅうのあきまつりしりーず)は、サンテレビジョンで例年10月中旬から11月初旬に掛けて放送される特集番組。番組制作はサンテレビとキックオフ'80が共同で行っている。.

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播州の秋祭り

のけんか祭り 播州の秋祭り(ばんしゅうのあきまつり)とは、兵庫県南西部の播磨地方一帯の神社で行われる大小様々な秋季例大祭を総じて指し示すときの呼称。多くの神社で屋台(太鼓台)の練り出しが行われる。.

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播州三木打刃物

播州三木打刃物(ばんしゅうみきうちはもの)は、兵庫県三木市で生産される刃物。1996年4月8日に、経済産業省(当時の通商産業省)から伝統的工芸品としての指定を受けた。 産地組合は三木工業協同組合。.

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播州弁

播州弁(ばんしゅうべん)または播磨弁(はりまべん)、播磨方言(はりまほうげん)は、兵庫県南西部の播磨地方(播磨国)で話される日本語の方言である。近畿方言に含まれるが、語彙では中国方言と共通するものも多い。西播方言(せいばんほうげん)と東播方言(とうばんほうげん)に二分される。 大河内町(現・神河町)にて.

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播州ラーメン

播州ラーメン 播州ラーメン(ばんしゅうラーメン)は、兵庫県西脇市を中心とした播州地方で作られ食されている醤油ラーメンで、「播州名物」とされているラーメンである。.

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播州赤穂駅

播州赤穂駅(ばんしゅうあこうえき)は、兵庫県赤穂市加里屋にある西日本旅客鉄道(JR西日本)赤穂線の駅である。.

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播州薬師霊場

播州薬師霊場(ばんしゅうやくしれいじょう)は、播州地域(兵庫県南西部)にある薬師瑠璃光如来を祀る霊場の事。全ての札所は天台宗の寺院からなる。1980年(昭和55年)結成。.

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播但図書館連絡協議会

播但図書館連絡協議会(ばんたんとしょかんれんらくきょうぎかい)は日本の兵庫県南西部、播磨地域および北部の但馬地域で域内の市町が設置している公立図書館で構成される連携組織。略称は播図協(ばんときょう)。 事務局は参加館が持ち回りで務めている。2017年(平成29年)2月現在の会員館は、12市7町の19館1室。.

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播但鉄道

| 播但鉄道(ばんたんてつどう)は、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の大部分、飾磨(のち飾磨港)-新井を建設、運営した日本の私設鉄道であった。兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設されたが、山陽鉄道に路線及び附属物件が譲渡され、山陽鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった。.

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播但連絡道路

播但連絡道路(ばんたんれんらくどうろ)は、兵庫県姫路市の姫路JCTから朝来市の和田山IC/JCTに至る延長約65.1キロメートル (km) の地域高規格道路(自動車専用道路)。一般国道312号かつ、兵庫県道路公社が管理・運営している一般有料道路である。一般には播但道という略称で呼ばれる。高速道路ナンバリング(高速道路等路線番号)では「E95」が割り振られている。.

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播磨

播磨(はりま).

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播磨の国一揆

播磨の国一揆(はりまのくにいっき)は、室町時代の1429年(正長2年)2月、前年の正長の土一揆の影響を受け起こった政治的要求に基づく一揆である。播磨の土一揆(はりまのつちいっき)とも。 播磨国(兵庫県南西部)守護・赤松満祐の配下の軍兵の国外退去、荘園代官の排除を要求して蜂起するが、赤松満祐に鎮圧される。国一揆の始まりとも言われる。 中山定親の『薩戒記』に記述がある。 「…或る人曰く播磨国の土民旧冬の京辺の如く蜂起し、国中の侍悉く攻むるの間、諸庄園代、加之守護方軍兵彼等の為に、或ひは命を失ひ、或ひは追ひ落とさる。一国の騒動希代の法なりと云々。凡そ土民、侍をして国中にあらしむべからざる所と云々。乱世の至なり。よりて赤松入道発向し了んぬ者」 Category:一揆 category:室町時代の事件 category:兵庫県の歴史 Category:播磨国 Category:1429年の日本 Category:1429年の戦闘.

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播磨十水

播磨十水は、戦国時代前期(室町時代後期)の播磨の守護大名・戦国大名赤松義村が定めた播磨国内の清水(湧き水)。.

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播磨中部丘陵県立自然公園

播磨中部丘陵県立自然公園(はりまちゅうぶきゅうりょうけんりつしぜんこうえん)とは、兵庫県中部にある兵庫県立の自然公園である。.

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播磨平野

播磨平野(はりまへいや)は、日本の近畿地方の兵庫県西部に広がる平野。姫路平野(ひめじへいや)・播州平野(ばんしゅうへいや)とも。瀬戸内海に属する播磨灘に面し、加古川、市川、夢前川、揖保川などが流れる。平野東部は、印南野(いなみの)台地と呼ばれるなだらかな河岸段丘になっており、ため池が多い。 兵庫県姫路市、たつの市、高砂市、加古川市、三木市、加西市、西脇市、加東市、小野市、明石市、神戸市(西区、垂水区)、神崎郡福崎町、加古郡(稲美町・播磨町)、揖保郡太子町などの自治体が位置する。 旧播磨国の主要部分であり、兵庫県南西部の中心的な場所を占める。.

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播磨広域連携協議会

播磨広域連携協議会(はりまこういきれんけいきょうぎかい)は、兵庫県の地方自治体からなる、観光施策における連携や広域防災などの行政課題について取り組むことを目的に発足した組織。2012年5月29日に兵庫県の東・中・西播磨各県民局管内の明石市を除く15市町で発足し、同年8月には北播磨県民局管内の6市町が加わり、構成市町は21市町となった。2014年4月22日の総会で、明石市の加盟が承認され、旧播磨国のほぼ全域が加盟したことになる。 構成市町の人口は約185万人で兵庫県の人口(約555万人)の約33%、面積は約3594km²で兵庫県の面積(約8396km²)の約43%を占める。.

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播磨八薬師霊場

播磨八薬師霊場(はりまはちやくしれいじょう)は、播磨国(兵庫県南西部)にある薬師霊場のこと。.

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播磨国の式内社一覧

播磨国の式内社一覧(はりまのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、播磨国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.

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播磨国地震

播磨国地震(はりまのくにじしん)または播磨・山城地震(はりま・やましろじしん)は、平安時代前期の貞観10年7月8日 (旧暦)(868年8月3日)、播磨国で発生した地震である。震央は現在の兵庫県姫路市付近、規模はマグニチュード 7 程度で、山崎断層の活動によるものと考えられている。播磨諸郡の官舎・諸定額寺の堂塔がことごとくくずれ倒れ、平安京内外で建造物がところどころ崩壊した。約1年後の貞観11年5月26日 (旧暦)(869年7月13日)、 陸奥国東方沖でM8.3以上と推定される貞観地震が発生している。.

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播磨国分寺

播磨国分寺(はりまこくぶんじ)は、兵庫県姫路市御国野町国分寺にある真言宗の寺院。山号は牛堂山。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、播磨国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である播磨国分寺跡(国の史跡)と、播磨国分尼寺跡(史跡指定なし)についても解説する。.

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播磨国内鎮守大小明神社記

播磨国内鎮守大小明神社記(はりまこくないちんじゅだいしょうみょうじんじゃき)は、播磨国の国内神名帳である。大小諸大明神174社を郡ごとに挙げる。.

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播磨国風土記

『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された播磨国の風土記である。平安時代末期に書写された写本が国宝に指定されている。.

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播磨灘

播磨灘(はりまなだ)は、瀬戸内海東部の海域。兵庫県南西部(旧播磨国)の南側に位置し、東は淡路島、西は小豆島、南は四国で区切られて西北部に家島諸島がある。 面積約2500 km2。深さ40 m前後であるが、海峡部では100 mを越えるところもある。近畿地方から中国地方・四国地方・九州地方方面への重要な航路が横断する。 岩礁が多く、鯛などの好漁場。イカナゴもよく獲れ、イカナゴの釘煮(佃煮)は播州の特産品であったが、海砂の採取によってイカナゴの生息地が打撃を受けたことから減産している。.

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播磨灘物語

『播磨灘物語』(はりまなだものがたり)は、司馬遼太郎の歴史小説。1973年5月から1975年2月にかけ、「読売新聞」に連載された。 初版単行本は、1975年に講談社から刊行された。現行版は講談社文庫全4巻(改版2004年)。『司馬遼太郎全集 33・34』(文藝春秋、初版1983年、全集第2期・最初の巻)にも収録されている。 豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛(孝高、如水)の生涯を描く。友人として竹中半兵衛も描かれる。.

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播磨科学公園都市

播磨科学公園都市(はりまかがくこうえんとし Harima Science Garden City)は、兵庫県南西部(播磨地方)の丘陵地帯(吉備高原の東端部)を切り開いて造成した学術公園都市。上郡町、佐用町、たつの市にまたがり、3市町の住所に光都と付く。西播磨テクノポリス計画の拠点都市である。 SPring-8付近.

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播磨稲日大郎姫

播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、生年不詳 - 景行天皇52年5月4日)は、第12代景行天皇の皇后。日本武尊(ヤマトタケル)の母。針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢とも。.

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播磨町

播磨町(はりまちょう)は、兵庫県加古郡の南に位置する町。東播磨県民局管轄区域。兵庫県下では最小の面積の自治体であり、人口密度は全国でも有数の高さである。本項では町制前の名称である阿閇村(あえむら)についても述べる。.

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播磨道交法

播磨道交法(はりまどうこうほう)とは、兵庫県播州地方における道路交通マナーの悪さおよび道路交通ローカルルールを、神戸新聞社が自紙読者投稿欄の連載上で分析したうえで法律的文体でまとめ、『神戸新聞』に掲載した文章である。また、そのローカルルール自体を指す名称でもある。.

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播磨西国三十三箇所

播磨西国三十三箇所(はりまさいごくさんじゅうさんかしょ)は、播磨国(兵庫県南西部)にある観音霊場のこと。西国観音霊場に倣ったもので、江戸時代初期に慶雲寺の南室和尚(1591年 - 1671年 大悲弘済禅師)により選定されたとされる。南室の死後に入寂地である天徳山常光寺を客番として加えて34箇所となった。 なお、播磨西国三十三箇所には、モデルとなった西国三十三所観音霊場のうち圓教寺、清水寺、一乗寺を含む。.

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播磨鑑

『播磨鑑』(はりまかがみ)は江戸時代の地誌。 著者は播磨国印南郡平津村(現・兵庫県加古川市米田町平津)の医師・暦算家の平野庸脩(ひらの ようしゅう)。.

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播磨臨海工業地帯

播磨臨海工業地域(はりまりんかいこうぎょうちいき)は、姫路市や加古川市等の播磨地方の湾岸を埋め立てて造成された工業地域。姫路港、東播磨港を有し、化学・鉄鋼等の工場、発電所などが立地。、特に高度成長期以降の日本経済の牽引車として大きな役割を果たしてきた。 姫路市・加古川市・高砂市の3市の製造品出荷額は、約2兆9000億円。事業所数は、約2000。従業者数は、約7万4千人である。(平成16年工業統計表より。).

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播磨自動車道

播磨自動車道(はりまじどうしゃどう、HARIMA EXPRESSWAY)は、兵庫県たつの市から宍粟市へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は播磨道(はりまどう、HARIMA EXPWY)。高速道路ナンバリング(高速道路等路線番号)では中国自動車道(山崎JCT(建設中) - 佐用JCT間、「E2A」と重複ナンバリング)・鳥取自動車道とともに「E29」が割り振られている。.

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播磨新宮藩

新宮藩(しんぐうはん)は、江戸時代初期に播磨揖東郡内で1万石を領有した藩。 当初は藩庁を同郡内の鵤村(いかるがむら、現在の兵庫県揖保郡太子町鵤)に置いていたが、寛永3年(1626年)に新宮陣屋(現在のたつの市新宮町新宮)へ移転させた。この移転前の藩を鵤藩とも呼ぶ。.

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播磨拳児

播磨 拳児(はりま けんじ)は、小林尽の漫画『スクールランブル』や、テレビアニメ『スクールランブル』などの派生作品に登場する架空の人物。アニメの声優は高橋広樹。その他の人物についてはスクールランブルの登場人物を参照。.

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播竜山孝晴

播竜山 孝晴(ばんりゅうやま たかはる、1951年5月4日 - )は、兵庫県龍野市(現・同県たつの市)神岡町出身で、1970年代から1980年代にかけて活躍した大相撲力士。三保ヶ関部屋に所属していた。本名は田口 孝晴(たぐち たかはる)。現役時代の体格は178cm、147kg。最高位は西小結(1978年11月場所)。得意手は右四つ、突き、押し、寄り、出し投げ。 現在は、年寄・待乳山である。.

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悪党

悪党(あくとう)は、.

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支藩

支藩(しはん)は、江戸時代の藩主家の一族が、弟や庶子など、家督相続の権利の無い者に所領を分与する(分知)などして新たに成立させた藩のことである。このほか有力家臣の所領も支藩という場合がある。 幕府からの朱印状が本家とは別に発給されている場合は、本藩-支藩関係にはないという考え方もある。.

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改野耕三

改野 耕三(かいの こうぞう、安政4年3月5日(1857年3月30日) - 昭和3年(1928年)5月19日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、南満州鉄道株式会社理事を歴任した。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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攻殻機動隊

『攻殻機動隊』(こうかくきどうたい、英語タイトル:GHOST IN THE SHELL)は、士郎正宗による漫画作品。ジャンルとしてはSF(パラレルワールド含む)に属する。 この作品を原作とする劇場用アニメ映画が1995年に公開され、またテレビアニメ作品が2002年に公開された。士郎正宗の原作版・押井守の映画版・神山健治の『S.A.C.』・黄瀬和哉と冲方丁の『ARISE』では、時代設定や主人公草薙素子のキャラクター設定、ストーリーを始め多くの相違点があり、それぞれが原作を核とした別作品といえる。その他、小説、ゲームなどの派生作品が展開されている。.

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愚堂東寔

愚堂東寔(ぐどうとうしょく、天正5年4月8日(1577年4月25日)- 寛文元年10月1日(1661年11月22日))は、禅宗の臨済宗の高僧。大本山妙心寺第百三十七世住持。父は伊藤紀内、母は斎藤氏家臣の娘とされる。諡号は大円宝鑑国師。.

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愛知県出身の人物一覧

愛知県出身の人物一覧(あいちけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する愛知県出身の人物の一覧表である。.

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敵討

敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う中世日本の制度。武士が台頭した中世期からの慣行であり、江戸期には警察権の範囲として制度化された。基本的に、子が親の仇を討つなど、血縁関係がある目上の親族のために行う復讐を指した。.

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教信

教信(きょうしん、延暦5年(786年) - 貞観8年(866年))は、奈良時代後期から平安時代にかけての僧。日本における浄土教、念仏信仰(称名念仏・専修念仏)の先駆者とも称され、後世の僧侶たちに多大な影響を与えた。また、在俗の沙弥として生活したことから「賀古の教信沙弥」、「沙弥教信」とも呼ばれた。.

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慶円 (天台宗)

慶円(けいえん/きょうえん・慶圓、天慶7年(944年) - 寛仁3年9月3日(1019年10月3日))は、平安時代中期の天台宗僧侶。天台座主を務めた。「三昧座主」と称された。 藤原南家・播磨守藤原尹文の子で藤原実資の母方の叔父とされているが、他にも尹文の父である大納言藤原道明の子説や、尾張守藤原連実の子説などがある。.

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承平天慶の乱

承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。.

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承保

承保(じょうほ、じょうほう)は、日本の元号の一つ。延久の後、承暦の前。1074年から1076年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

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打出浜の戦い

打出浜の戦い(うちではまのたたかい)は、南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。1351年(正平6年/観応2年)2月、摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)において、足利直義の軍勢と足利尊氏・高師直の軍勢の間で戦われた。.

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曽根天満宮

曽根天満宮(そねてんまんぐう)は、兵庫県高砂市曽根にある天満宮。秋祭りや天然記念物であった曽根の松で知られる。.

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曾我蕭白

曾我蕭白(そが しょうはく、 享保15年(1730年) - 天明元年1月7日(1781年1月30日))は、江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。高い水墨画の技術を誇る一方、観る者を驚かせる強烈な画風で奇想の絵師と評される。.

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性空

性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。 36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。 圓教寺には肖像彫刻・性空像(重要文化財)があり、東京大学史料編纂所は性空像の模本()を所蔵している。.

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性海寺 (姫路市)

性海寺(しょうかいじ)は、兵庫県姫路市にある天台宗の寺院である。山号は冨田山(とみたさん)。.

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怪火

怪火(かいか)は、原因不明の火が現れる怪異現象。.

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景徳館

景徳館(けいとくかん)は、明治初期に播磨国明石にあった郷学の学校。 明石藩主松平直常に招かれた儒学者(藩儒)の梁田蛻巌が自らの屋敷の中に明石藩校としての位置づけで開校。梁田蛻巌の没後は子の梁田象水が引き継ぎ、教育の普及に努めた。 ここで学んだ者に橋本関雪の父で漢学者の橋本海関などがいる。卜部兵吉もここで教えたことがある。 梁田蛻巌の墓所がある明石市の本立寺には、景徳館にちなんで景徳館文庫が1957年に設立された。 Category:日本の旧制教育機関 Category:明石市の学校 Category:明石市の歴史.

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景光

景光(かげみつ)は、鎌倉時代末期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。.

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智徳法師

智徳法師(ちとくほうし)は、平安時代、一条天皇の頃の陰陽師。.

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智福寺

智福寺(ちふくじ)は、(筑前国)福岡城および城下町の建設とほぼ同時期(1600年代初頭)に、筑前国那珂郡福岡橋口に創建された浄土宗西山派(のち真言宗)の寺院。知福寺あるいは地福寺とも表記される。開基年、山号ならびに院号は不明。初期には空与が、次いで尊秀が住持を務めた。聖福寺とならぶ200石の寺領を得ていたこと、福岡藩での宗門改が初めて行われたことなどで知られる。.

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智暹

智暹(ちせん、1702年(元禄15年) - 1768年6月28日(明和5年5月14日))は、江戸時代中期の浄土真宗本願寺派の僧。明和の法論を引き起こした。播南轍(学派)の祖。.

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智洞

智洞(ちどう、1736年(元文元年)- 1805年12月12日(文化2年10月22日))は、江戸時代中期から後期にかけての浄土真宗本願寺派の学僧。号は桃花房(桃華坊)。諡は応現院。 西本願寺第7代能化職につき、三業帰命説を説いたが、三業惑乱の論争に敗れ、江戸で獄死した。.

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10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

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1187年

記載なし。

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11月14日 (旧暦)

旧暦11月14日は旧暦11月の14日目である。六曜は赤口である。.

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1350年

記載なし。

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1415年

記載なし。

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1427年

記載なし。

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1521年

記載なし。

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1531年

記載なし。

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1597年

記載なし。

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1610年

記載なし。

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1613年

記載なし。

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1647年

記載なし。

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1656年

記載なし。

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1659年

記載なし。

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1667年

記載なし。

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1668年

記載なし。

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1680年

記載なし。

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1694年

記載なし。

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

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2月2日

2月2日(にがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から33日目に当たり、年末まであと332日(閏年では333日)ある。.

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3月20日

3月20日(さんがつはつか、さんがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から79日目 (閏年では80日目)にあたり、年末まであと286日ある。.

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832年

記載なし。

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868年

記載なし。

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