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食養会

索引 食養会

食養会(しょくようかい)とは、石塚左玄が提唱した玄米を基本とした食養を普及・実践する団体である。左玄の食養を実践する団体としては「帝国食育会」という団体が先にあったが、食養会は会長に石塚左玄を迎えて1907年(明治40年)に創設された。設立は、内務省の意向でもあった (YOMIURI ONLINE)(読売新聞、2006年2月27日)。食事療法や書籍の刊行、会の趣旨に適う健康食品の販売などを通じて、食事で健康を養うための理論を展開した。 1943年頃、機関誌『食養雑誌』は国民食協会に統合され、後に国民栄養協会発行となったが内容は食養ではなくなった。 後に林仁一郎が『食養雑誌』を復刊させたこともあり、完全食連盟、二木の養生会の再建、日本総合医学会の設立、食養会出版事業としてのいくつかの出版を果たした。食養会の会長も務めた桜沢如一によるマクロビオティックは世界に普及した。.

19 関係: 平塚らいてう久邇宮二木謙三マクロビオティック内務省 (日本)石塚左玄社団法人第二次世界大戦華族食養会食育身土不二連合国軍最高司令官総司令部陸軍桜沢如一1907年1937年1940年1942年

平塚らいてう

平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、本名:平塚 明(ひらつか はる)、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後に亘(わた)る女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部卒「」、2005年に同大学は平塚らいてう賞を創設した平塚の卒業100年を記念して創設された賞『』参照。 平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られる。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった。しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。 なお、氏名表記は、漢字で「平塚 雷鳥」と書く場合もあり、さらに「平塚 明子(らいてう)」の表記で評論の俎上に上がることもある。また、1908年(明治41年)3月、平塚22歳の時、塩原で、森田草平と心中未遂事件(塩原事件)を起こし、自らの名が広く知られると、本名の「平塚 明(はる)」の名で活動するなど、時期によっても平塚の氏名表記は異なる。.

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久邇宮

久邇宮(くにのみや)は、明治時代前期に伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家。.

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二木謙三

二木 謙三(ふたき けんぞう、1873年(明治6年)1月10日 - 1966年(昭和41年)4月27日)は、日本の細菌学者、医師。.

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マクロビオティック

マクロビオティック (Macrobiotic) は、従来の食養に、桜沢如一による陰陽の理論を交えた食事法ないし思想である。長寿法を意味する。玄米、全粒粉を主食とし、主に豆類、野菜、海草類から組み立てられた食事である。身土不二、陰陽調和、一物全体といった独自の哲学を持つ。運動創始者の桜沢如一は、石塚左玄の玄米を主食とした食事法のための食養会に所属し会長も務めた後、思想を発展させ、また民間運動として世界に普及させた。他の呼称に玄米菜食、穀物菜食、自然食、食養、正食食養の意味で石塚左玄が用いた。、マクロビ、マクロ、マクロバイオティックがある。 マクロビオティックの運動の始まりとしては、1928年に桜沢如一が行った講習会であると桜沢の夫人が述べている。現在ではさまざまな分派が存在するが、桜沢如一に端を発した食に関する哲学や独自の宇宙感に関してほぼ同じ考えを保っており、また各集団も連携している。2010年代には、マクロビオティックの健康効果の推定と、乳がんや糖尿病にて臨床試験を実施した医学論文が出されており、日本でも栄養学者等を招いたシンポジウムが開催されている。.

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内務省 (日本)

内務省(ないむしょう、Home Ministry)は、1873年(明治6年)11月10日に設置され、1947年(昭和22年)12月31日に廃止された日本の中央官庁。地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政の大半を担った。初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初から国民生活全般への強度の監視を課題としており、行政事務の枠にとどまらなかった。.

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石塚左玄

石塚左玄 石塚 左玄(いしづか さげん、嘉永4年2月4日(1851年3月6日) - 明治42年(1909年)10月17日)は、明治時代の日本の医師・薬剤師、であり陸軍で薬剤監、軍医を勤めた。玄米・食養の元祖で、その食養は食養会につながり普及活動を行った。 福井藩(現福井県)出身。陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱する。「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。食育食養を国民に普及することに努めた。 栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのではと述べ、その言葉で寄付が集まったという沼田勇 『日本人の正しい食事-現代に生きる石塚左玄の食養・食育論』 農山漁村文化協会〈健康双書〉、2005年3月。ISBN 978-4540042959。219頁。。しかし、研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかった。天皇家の献立は食養学に基づいている。.

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社団法人

団法人(しゃだんほうじん)とは、一定の目的で構成員(社員)が結合した団体(社団)のうち、法律により法人格が認められ権利義務の主体となるもの(法人)をいう。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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食養会

食養会(しょくようかい)とは、石塚左玄が提唱した玄米を基本とした食養を普及・実践する団体である。左玄の食養を実践する団体としては「帝国食育会」という団体が先にあったが、食養会は会長に石塚左玄を迎えて1907年(明治40年)に創設された。設立は、内務省の意向でもあった (YOMIURI ONLINE)(読売新聞、2006年2月27日)。食事療法や書籍の刊行、会の趣旨に適う健康食品の販売などを通じて、食事で健康を養うための理論を展開した。 1943年頃、機関誌『食養雑誌』は国民食協会に統合され、後に国民栄養協会発行となったが内容は食養ではなくなった。 後に林仁一郎が『食養雑誌』を復刊させたこともあり、完全食連盟、二木の養生会の再建、日本総合医学会の設立、食養会出版事業としてのいくつかの出版を果たした。食養会の会長も務めた桜沢如一によるマクロビオティックは世界に普及した。.

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食育

食育(しょくいく)とは、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てることである。2005年に成立した食育基本法においては、生きるための基本的な知識であり、知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの、と位置づけられている。単なる料理教育ではなく、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化についての総合的な教育のことである。 この言葉を造語した石塚左玄は、食品の与える影響に関する独自の説によって、子どもに食べさせる食品の影響によって子どもの心身を養うという意味で用いた。.

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身土不二

身土不二.

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連合国軍最高司令官総司令部

連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)とは、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部とも。職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人が多数で、他にイギリス軍人やオーストラリア軍人らで構成されていた。 極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官(連合国最高司令官 Supreme Commander for the Allied Powers; SCAP)。日本では、総司令部 (General Headquarters) の頭字語であるGHQや進駐軍という通称が用いられた。支配ではなくポツダム宣言の執行が本来の役目である。結果として、連合国軍占領下の日本は対外関係を一切遼断され、日本と外国との間の人・物資・資本の移動はSCAP の許可によってのみ行われた。.

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陸軍

軍(りくぐん、army, ground force)は、主に陸上において軍事作戦を遂行する軍隊の一種である。.

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桜沢如一

桜沢如一。1920年(28歳前後)、パリにて。 櫻澤 如一(さくらざわ ゆきかず、若き日はじょいち、1893年10月18日 - 1966年4月24日)は、日本の思想家、マクロビオティック(食養)の提唱者。海外ではジョージ・オーサワ(George Osawa)の名で知られている。マクロビオティックを日本、北米、中南米、欧州、インド、アフリカ、ベトナムに広めた。 如一は京都市東山区で生誕する。少年の頃は病弱であり誌歌に触れ女子のような10代を過ごしたが、苦学を重ね商業高校、仏語学校を卒業し貿易商となる。苦学の時期より石塚左玄の食養にて健康を回復し、貿易事業と並行して、大和言葉のよみがえり運動の一環でシャルル・ボードレールの『NAYAMI NO HANA』(悪の華)などを翻訳した。カメラや撮影機、映写機、放送機など電子機器を扱った商売からは1924年には手を引き、左玄の食養会の活動に尽力し数十の書籍を出版した。またその成果をフランスのパリで試しに無銭武者旅行に出発し、フランスでも著作活動を開始する。同時並行で日本に帰った時には反戦運動を行い、その目くらましとして健康指導、翻訳活動に身を投じ、岩波文庫からのカレルの『人間』も当時の活動である。1937年には食養会の会長に就任するがその2年後には脱会した。 1940年には滋賀県大津市にその食養の理論を東洋思想の易を交えて独自展開する無双原理講究所を開設。次第に再び反戦活動へと傾倒していき、戦争がはじまると軍部や右翼から暴力を受けるが、1945年に日本が敗戦すると世界政府協会を作って、世界連邦運動に取り組み平和を追求することになる。その思想の根本には食による健康があった。再び、欧州やアフリカなど世界旅行によってマクロビオティックの普及につとめ、各地に団体や食品店が生まれ、1960年には訪米し普及に努める。日本での団体は、メゾン・イノグラムスと経て、日本CI協会となる。後継者にはアメリカでの普及に尽力した久司道夫、日本では大森英桜、岡田周三といった人物がいる。.

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1907年

記載なし。

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1937年

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1940年

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1942年

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