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天復 (唐)
天復(てんふく)は、中国・唐の昭宗の治世で用いられた元号。901年4月-904年閏4月,907年9月。 呉の楊行密も、建国後に天復の年号を用いている。また、前蜀の王建も907年に唐が滅亡すると、簒奪を起こした朱全忠主導下で行われた天祐改元をも遡って否定して、この年を天復7年と称した。
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宦官
宦官(かんがん)とは、去勢を施した、特に完全去勢を施された官吏をいう。古代から各文化圏に存在した。特に男性ホルモンは短命に繋がりやすく特に中国の宦官については有名で完全去勢された宦官は長寿になる傾向があった。
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崔胤
崔 胤(さい いん、854年 - 904年)は、唐代の人物。字は昌遐、または垂休。本貫は清河郡東武城県。玄祖父は崔融。高祖父は崔翹。曾祖父は崔异。祖父は崔従。父は崔慎由。
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中国の宰相
宰相(さいしょう)は歴代中国の王朝で君主を補佐した最高位の官職。およびその通称。 中国の宰相は歴代王朝によって呼称が異なる。詳細は下表を参照。 表を見れば中国の中央行政機関が六官→三公→三省→内閣→軍機処、と移り変わっていくのが分かる。特に三公の丞相(秦、漢代)は権限が強く、まさに宰相の名に相応しい。三公が有名無実化したのちの三省では尚書省が最も重要で、『周礼』の天、地、春、夏、秋、冬の六官に淵源をもつ吏、戸、礼、兵、刑、工の6官庁(=六部)を総覧した。 尚書省の長を尚書令といい、副官を僕射(ぼくや)といった。唐代、太宗が尚書令に就いてからは空席となり、左右僕射が尚書省の実質的長官となった。また各部の長官は尚書と呼ばれた。僕射はのちに丞相と改称され、尚書のうち文官の人事を統括する吏部尚書は冢宰(ちょうさい)と呼ばれた。尚書省の制は元代に廃止されるが、六部は中書省に属し、明代に中書省が廃されてのちは皇帝直属として清末まで続いた。
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唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国であり、中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。
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鳳翔府
鳳翔府(ほうしょうふ)は、中国にかつて存在した府。唐代から民国初年にかけて、現在の陝西省宝鶏市一帯に設置された。
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資治通鑑
『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂して1084年(元豊7年)に完成した、編年体の歴史書。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周の世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光が執筆に用いた史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。
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長安
長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。
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陳倉区
陳倉区(ちんそう-く)は中華人民共和国陝西省宝鶏市に位置する市轄区。
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枢密院 (中国)
枢密院(すうみついん)は、唐代中期に設置された主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが、軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、金、宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。
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李茂貞
李 茂貞(り もてい)は、唐末から五代十国時代の岐の王。もとの名は宋文通。深州博野県の出身。
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李振 (五代)
李 振(り しん、? - 923年11月20日)は、唐末から後梁にかけての人物。字は興緒。西州(現在の新疆ウイグル自治区トルファン市高昌区)の出身。
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朱全忠
朱 全忠(しゅ ぜんちゅう)は、五代後梁の初代皇帝。廟号は太祖。諱は初め温(おん)であったが、黄巣の乱の際の戦功で唐より全忠(ぜんちゅう)の名が下賜された。その後、唐を滅ぼして後梁を建国し、自ら皇帝に即位して晃(こう)と名を改めた。 朱全忠は唐末期の黄巣の乱で頭角を現し、その後の覇権争いで勝利して後梁を築き上げたが、晩年は行状が乱れて最期は息子に暗殺された。
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昭宗 (唐)
昭宗(しょうそう)は、唐朝の第22代皇帝。懿宗の七男で、僖宗の弟にあたる。
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新唐書
『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。
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