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蠣崎波響

索引 蠣崎波響

蠣崎 波響(かきざき はきょう)/蠣崎 広年(かきざき ひろとし)は、江戸時代後期の画家、松前藩家老。.

78 関係: ぺりかん社印章増山正賢大名天明夷酋列像宝暦安永 (元号)宋紫石寛政岸駒巨椋池中村真一郎市立函館博物館下国崇教京都広島県立歴史博物館建部綾足伊達郡伊沢蘭軒伴蒿蹊北海道立函館美術館北海道立近代美術館北海道新聞社北海道教育大学ブザンソンフランス呉春アイヌアイヌ絵クナシリ・メナシの戦い円山応挙函館市函館市中央図書館光格天皇四条派皆川淇園磯崎康彦熊坂適山菅茶山落款蝦夷地蠣崎氏読売文学賞高木重俊酒井抱一雄山閣陸奥国松前章広松前道広...松前資広松前藩松浦清梁川藩森鴎外橘南谿江戸江戸時代河野常吉沈南蘋木村蒹葭堂新潮社文人文政慈周1764年1773年1783年1789年1791年1807年1821年1826年1980年代5月26日 (旧暦)6月22日 (旧暦)6月25日7月26日 インデックスを展開 (28 もっと) »

ぺりかん社

株式会社ぺりかん社(ぺりかんしゃ、英:"PERIKANSHA Publishing Inc.")は、東京都文京区に本部を置く日本の出版社である。 主に日本の近世思想、文学、芸術など人文系書籍を扱っている。 代表的な刊行物として、同社のロングセラーの書籍シリーズの1つ「なるにはブックス」(青少年向けの職業紹介書)が挙げられる。.

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印章

印章(いんしょう、)は、木、竹、石、角、象牙、金属、合成樹脂などを素材として、その一面に文字やシンボルを彫刻したもので、個人・官職・団体のしるしとして公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すことにより、その責任や権威を証明する事に用いるもの。印(いん)、判(はん)、印判(いんはん)、印形(いんぎょう)、印顆(いんか)、印信(いんしん)、ハンコ(判子)ともいう。 しばしば世間一般では、正式には印章と呼ばれるもののことをハンコ、印鑑(いんかん)と呼んでいるが、厳密には印章あるいはハンコと同じ意味で「印鑑」という語を用いるのは正確ではない。古くは、印影と印章の所有者(押印した者)を一致させるために、印章を登録させた。この印影の登録簿を指して印鑑と呼んだ。転じて、印鑑登録に用いた印章(実印)を特に印鑑と呼ぶこともあり、更には銀行印などの登録印や、印章全般もそのように呼ぶ場合もある。.

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増山正賢

孔雀図 増山雪斎筆 増山 正賢(ましやま まさかた)は、江戸時代中期から後期の大名。伊勢長島藩第5代藩主。長島藩増山家6代。文人大名として知られ、多数の書画を画いている。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.

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夷酋列像

『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)は、江戸時代後期の松前藩の家老で、画家としても高名な蠣崎波響が、北海道東部や国後島のアイヌの有力者をモチーフに描いた連作肖像画である。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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安永 (元号)

安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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宋紫石

宋 紫石(そう しせき、正徳5年(1715年) - 天明6年3月11日(1786年4月9日))は、江戸時代中期の画家。沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた。江戸の人。 本名は楠本幸八郎。字は君赫または霞亭。紫石のほか雪渓・雪湖・宋岳などと号した。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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岸駒

岸駒居住地、京都市中京区 岸駒(がんく、宝暦6年3月15日(1756年4月14日)または寛延2年(1749年) - 天保9年12月5日(1839年1月19日))は、江戸時代中期から後期の絵師。姓は佐伯。名は昌明。幼名は乙次郎、又は健亮。字は賁然。華陽、鳩巣、天開翁、同功館、可観堂、虎頭館と号す。初期の号は岸矩。岸派(きしは)の祖。.

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巨椋池

巨椋池(おぐらいけ)は、京都府の南部、現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。規模からいえば池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、現在「池」と呼んでいる最大の湖沼である湖山池よりも広かった。 豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする土木工事などにより時代によって姿を変え、最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変えた。干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。.

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中村真一郎

中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)3月5日 - 1997年(平成9年)12月25日)は、日本の小説家・文芸評論家・詩人。なお旧字体の「眞一郎」名義での出版もある。.

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市立函館博物館

市立函館博物館(しりつはこだてはくぶつかん)は、函館市青柳町の函館公園内に本館がある公立総合博物館。.

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下国崇教

下国 崇教(しもぐに たかのり、文化6年(1809年)-明治14年(1881年)6月4日)は、幕末・明治の松前藩家老。初名は季森。小字は運吉。通称は宮内・貞太郎・豊前・安芸・真澄。号は晴山・梅渓。家老時代の通称である「安芸」の名前で知られる。家老下国季鄰(すえちか)の子。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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広島県立歴史博物館

広島県立歴史博物館(ひろしまけんりつれきしはくぶつかん)は、広島県福山市の福山城公園文化ゾーンにある歴史博物館。愛称はふくやま草戸千軒ミュージアム。.

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建部綾足

建部 綾足(たけべ あやたり、享保4年(1719年) - 安永3年3月18日(1774年4月28日))は、江戸時代中期の俳人、小説家、国学者、絵師。片歌を好み、その復興に努めた。書号、寒葉齋.

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伊達郡

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伊沢蘭軒

伊沢 蘭軒(いざわ らんけん、安永6年11月11日(1777年12月10日) - 文政12年3月17日(1829年4月20日))は、江戸時代末期の医師、儒者。名は信恬、号は蘭軒、通称は辞安、堂号は酌源堂。.

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伴蒿蹊

伴蒿蹊(ばん こうけい、享保18年10月1日(1733年11月7日) - 文化3年7月25日(1806年9月7日))は、江戸時代後期の歌人・文筆家。名を資芳(すけよし)と称し、別号を閑田蘆と号した。生家は近江八幡出身の京都の商家で、8歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となった。18歳で家督を継ぎ家業に専念したが、36歳で家督を譲り隠居・剃髪し、その後は著述に専念した。著書『主従心得草』は近江商人の典型的な家訓、他に『閑田詠草』、『閑田耕筆』、『閑田次筆』など。『近世畸人伝』は、著名・無名な人物達の生活と意見が述べられ、17.18世紀江戸時代を知るのに有益な伝記集である。.

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北海道立函館美術館

北海道立函館美術館(ほっかいどうりつはこだてびじゅつかん)は、北海道函館市にある美術館。.

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北海道立近代美術館

北海道立近代美術館(ほっかいどうりつきんだいびじゅつかん、英称:The Hokkaido Museum of Modern Art)は、北海道札幌市中央区にある、道立の美術館である。.

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北海道新聞社

株式会社北海道新聞社(ほっかいどうしんぶんしゃ、The Hokkaido Shimbun Press)は、ブロック紙の北海道新聞を発行する新聞社である。子会社として道新スポーツなどを持つ。.

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北海道教育大学

北海道各地に5つのキャンパスを有する。.

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ブザンソン

ブザンソン(Besançon)は、フランスの東部にある都市で、ドゥー県の県庁所在地である。街は蛇行するドゥー川によって囲まれている場所に発展した。この都市は、ガリア・ローマ(gallo-romaine)時代以降、重要な役割を果たしている。地理的な条件とその特有の歴史によって、軍事的な場所(駐屯軍)、政治的なセンターと宗教的な首都市となっていった。フランスの最初の緑の都市と宣言されて、フランシュ・コンテの中心都市であるブザンソンは、周知のように、社会的・環境的革新(イノベーション)によって 生活の水準の高さを享受している。また、ブザンソンは、芸術・歴史の都市に分類され、ユネスコ世界遺産への登録の候補リストに載っている。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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呉春

呉春(ごしゅん、 宝暦2年3月15日(1752年4月28日) - 文化8年7月17日(1811年9月4日))は江戸時代中期の絵師である。四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)。字を裕甫、のち伯望(はくぼう)、通称を文蔵(ぶんぞう)、嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転(かてん)、允白(いんぱく)、存允白、孫石(そんせき)、軒号に百昌堂、蕉雨亭など。初期の画号・松村月渓も広く知られる。.

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アイヌ

アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語はアイヌ語。 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。.

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アイヌ絵

thumb thumb アイヌ絵(アイヌえ)は、江戸時代後期から明治時代にかけて、和人の画家がアイヌをモチーフにして描いた風俗画で、日本画や浮世絵の様式のひとつである。.

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クナシリ・メナシの戦い

ナシリ・メナシの戦い(クナシリ・メナシのたたかい:国後・目梨の戦いと表記されることもある)は、1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。.

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円山応挙

円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字表記では圓山應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。.

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函館市

函館市(はこだてし)は、北海道にある市である。渡島総合振興局所在地。札幌市、旭川市に次ぐ北海道第三の人口約26万人を有する中核市。.

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函館市中央図書館

函館市中央図書館(はこだてしちゅうおうとしょかん)は、北海道函館市にある公立図書館。 1907年(明治40年)に、後に市立函館図書館初代館長となる岡田健蔵が開設した「函館毎日新聞緑叢会附属図書室」を嚆矢とし、会員制の「私立函館図書館」を経て、1928年(昭和3年)に市立図書館が開設された。その後、市街の拡大に伴い地区図書室が開設され、現在、函館市が管理する図書館は、五稜郭にある中央図書館のほか5ヶ所の地区図書室(千歳、港、湯川、旭岡、美原)、1ヶ所の配本所(桔梗)となっている。このほか、移動図書館「ともしび号」を運行している。全館の蔵書数は約81万冊・点、年間の貸出数は約156万冊・点である。 なお、江戸時代以前からの古文書・古地図などの郷土資料や、函館にゆかりのある石川啄木関連のコレクション「啄木文庫」も所蔵しており、郷土資料についてはデジタルアーカイブとしてネット上に一部公開している。.

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光格天皇

光格天皇御胞塚、光格天皇の胞衣を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内 光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。.

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四条派

四条派(しじょうは)は、日本画界でも大きな派閥である。江戸時代中期頃、呉春(松村月渓)を祖とし、岡本豊彦や松村景文らが発展させ、京都画壇で一大勢力となり、その後塩川文麟、幸野楳嶺、竹内栖鳳、西山翠嶂、堂本印象などと現代まで続いている。.

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皆川淇園

川 淇園(みながわ きえん、享保19年12月8日(1735年1月1日) - 文化4年5月16日(1807年6月21日))は、江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。生まれは京都。.

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磯崎康彦

磯崎 康彦(いそざき やすひこ、1941年12月14日- )は、日本の美術史家。福島大学名誉教授。近世日本の蘭画を専門とした。 神奈川県生まれ。横浜国立大学教育学部美術科卒、東京芸術大学大学院修士課程修了。オランダ政府給費生としてアムステルダム自由大学に学び、福島大学教授となる。ハイデルベルク大学客員教授、ベルリン大学客員研究員を歴任。福島大学教授退任後は同大学名誉教授となる。2007年、「江戸時代の蘭画と蘭書 近世日蘭比較美術史」で東京芸術大学より博士(美術)。.

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熊坂適山

坂 適山(くまさか てきざん、寛永8年7月15日(1796年8月17日) - 元治元年9月12日(1864年10月12日))は、江戸時代後期の南画家。 名は助広、字は千畝、通称は床三郎。号は適山の他に波玉・摘山・元精・千水など。陸奥伊達の生まれ。.

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菅茶山

菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日(1748年2月29日)- 文政10年8月13日(1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。.

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落款

落款(らっかん)は、落成款識(らくせいかんし)の略語。書画を作成した際に製作時や記名 識語(揮毫の場所、状況、動機など)、詩文などを書き付けたもの、またその行為を言う。その文を款記といい、その時捺す印章を落款印と言う。慣習上、署名として押捺された印影、または署名に代えて押捺した印影をさすことも多い。署名用の印そのものを落款と称することもある。.

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蝦夷地

蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.

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蠣崎氏

蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。.

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読売文学賞

読売文学賞(よみうりぶんがくしょう)は読売新聞社が制定した文学賞で、1949年に第二次世界大戦後の文芸復興の一助として発足した。小説、戯曲・シナリオ、随筆・紀行(第19回より創設)、評論・伝記、詩歌俳句、研究・翻訳の6部門に分類し、過去1年間に発表された作品を対象とする。 受賞作品は選考委員の合議によって決定される。受賞者には正賞として硯、副賞として200万円が授与される。年度受賞者は翌年の2月1日に発表するため、受賞年度の表記で混乱が生じることがある。.

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高木重俊

木 重俊(たかぎ しげとし、1944年(昭和19年) 3月23日 - 2012年(平成24年) 9月1日)は、日本の漢文学者、北海道教育大学名誉教授。 長野県生まれ。1966年東京教育大学文学部漢文学卒、1970年同大学院文学研究科中国古典学修士課程修了。函館大学助教授、北海道教育大学函館校教授、2009年定年退任、名誉教授。2006年「初唐文学論」で博士(文学)(筑波大学)。.

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酒井抱一

酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている 尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。.

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雄山閣

山閣(ゆうざんかく)は、東京都千代田区にある出版社。創業は1916年で、以来日本の歴史、宗教、民俗学、考古学などに関する書籍を出版し続けている。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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松前章広

松前 章広(まつまえ あきひろ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。蝦夷地松前藩の9代藩主。.

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松前道広

松前 道広(まつまえ みちひろ)は、江戸時代の大名。蝦夷地松前藩の8代藩主。.

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松前資広

松前 資広(まつまえ すけひろ)は、江戸時代の大名。蝦夷地松前藩の7代藩主。 享保11年(1726年)、6代藩主・松前邦広の長男として生まれる。元文5年(1740年)11月15日、将軍徳川吉宗にお目見えする。同年12月21日、従五位下若狭守に叙任する。寛保3年(1743年)8月16日、父邦広の死去により、家督を相続する。明和2年(1765年)3月19日、死去。享年40。 すけひろ すけひろ Category:1726年生 Category:1765年没.

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松前藩

松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。.

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松浦清

松浦 清(まつら きよし)は、江戸時代中・後期の大名。肥前国平戸藩の第9代藩主。平戸藩世嗣だった松浦政信(第8代藩主・松浦誠信の三男)の長男。母は政信の側室・友子(母袋氏)。官位は従五位下。死後に贈従三位。幼名は英三郎。号は静山。この号を合わせ、一般には「松浦静山」の呼び名が通っている。 隠居後に執筆した江戸時代後期を代表する随筆集『甲子夜話』で著名である。大名ながら心形刀流剣術の達人であったことでも知られる。.

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梁川藩

梁川藩(やながわはん)は、江戸時代の一時期、陸奥国伊達郡に存した藩。現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いた。当初は尾張藩徳川家の支藩(御連枝)。後には一時、松前氏が入封した。.

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森鴎外

森 外(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。 石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部入学時は第一大学区医学校予科卒業。 大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。 晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。.

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橘南谿

橘 南谿(たちばな なんけい、宝暦3年4月21日(1753年5月23日) - 文化2年4月10日(1805年5月8日))は、江戸時代後期の医者。文をよくし、紀行『東遊記』、『西遊記』(併せて東西遊記と称される)と随筆『北窓瑣談』が知られる。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河野常吉

河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年11月22日) - 1930年(昭和5年)9月3日)は、明治大正期の北海道史研究者。アイヌ研究者として名高い河野広道は子、河野本道は孫に当たる。.

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沈南蘋

沈 南蘋(しん なんびん、康熙21年(1682年) - ?)は、中国清代の画家。長崎に2年間弱滞在し写生的な花鳥画の技法を伝えた。弟子の熊代熊斐らが南蘋派を形成。円山応挙、伊藤若冲など江戸中期の画家に多大な影響を及ぼした。 名は銓。字を衡之または衡斎。南蘋は号。中国本国では沈銓として知られる。浙江省湖州市徳清県の人。.

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木村蒹葭堂

『山水図』 紙本淡彩 木村 蒹葭堂(きむら けんかどう、元文元年11月28日(1736年12月29日) - 享和2年1月25日(1802年2月27日))は、江戸時代中期の日本の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。名は孔恭(孔龔)、幼名は太吉郎(多吉郎)、字を世肅、号は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)、通称 坪井屋(壺井屋)吉右衛門。 蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。.

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新潮社

株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。.

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文人

文人(ぶんじん)とは、中国の伝統社会に生じたひとつの人間類型であり、「学問を修め文章をよくする人」の意である。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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慈周

慈周(じしゅう、享保19年(1734年)- 享和元年3月16日(1801年4月28日))は、江戸時代中期の天台宗の僧侶、多くの漢詩を残している。父は医者・苗村介洞。字は六如。号は白楼・無着庵。近江国の出身。.

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1764年

記載なし。

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1773年

記載なし。

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1783年

記載なし。

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1789年

記載なし。

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1791年

記載なし。

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1807年

記載なし。

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1821年

記載なし。

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1826年

記載なし。

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1980年代

1980年代(せんきゅうひゃくはちじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1980年から1989年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1980年代について記載する。.

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5月26日 (旧暦)

旧暦5月26日は旧暦5月の26日目である。六曜は赤口である。.

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6月22日 (旧暦)

旧暦6月22日は旧暦6月の22日目である。六曜は先負である。.

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6月25日

6月25日(ろくがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から176日目(閏年では177日目)にあたり、年末まであと189日ある。誕生花はアガパンサス、ヒルガオ。.

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7月26日

7月26日(しちがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から207日目(閏年では208日目)にあたり、年末まであと158日ある。誕生花はヒャクニチソウ、ヤマトナデシコ。.

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