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藤原信輔

索引 藤原信輔

藤原 信輔(ふじわら の のぶすけ)は、平安時代後期の貴族。藤原北家道隆流、中納言・藤原経忠の子。官位は正四位下・右京大夫。.

32 関係: 坊門家官位尊卑分脈中納言九条流平安時代久安久寿京職後白河天皇保元信西元暦兵範記貴族鳥羽天皇近衛天皇藤原家成藤原信隆藤原北家藤原経忠藤原道隆藤原顕時藤原親信藤原惟方藤原成親正四位水無瀬家源光保1149年1156年1184年

坊門家

坊門家(ぼうもんけ)は、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した公家。坊門を名乗る家系はいくつか存在するが、藤原北家の関白藤原道隆の子孫が著名である。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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九条流

藤原頼通 |支流.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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久寿

久寿(きゅうじゅ)は、日本の元号の一つ。仁平の後、保元の前。1154年から1155年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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信西

信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.

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元暦

元暦(げんりゃく)は、日本の元号の一つ。寿永の後、文治の前。1184年・1185年の期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。 源氏と平家の争乱の時代で、平家方ではこの元号を使用せず寿永を引き続き使用していた。.

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兵範記

『兵範記』(へいはんき/ひょうはんき)は、平安時代の公家平信範の日記。書名は信範の極官である兵部卿と信範の名から。また住所であった洞院を取って『平洞記』とも、信範の二字の偏を取って『人車記』とも呼ばれる。記載時期は天承2年(1132年)から承安1年(1171年)に至るまで約40年間を網羅する。 信範は、桓武平氏高棟流の流れをくむ「日記の家」と呼ばれた実務官僚の家系であり、その日記は平安時代後期の朝廷や公家たちの活動、朝廷の儀典について知るための基本史料となっている。特に信範は摂関家の藤原忠通・基実らに家司として仕えたため、当時の上級公家などの動きに詳しく、なかでも保元の乱および乱後の後白河院・平家などについての詳細な記述は、他の諸記録の追随を許さないといえる。 さらに『兵範記』原本の特長としては、大量の紙背文書の存在が挙げられる。信範が摂関家政所別当職や蔵人頭を務めていた際の訴訟・行政文書の裏が日記用の紙に使われており、摂関家の内部事情や蔵人頭の業務内容が窺える貴重な史料ともなっている。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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近衛天皇

近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。.

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藤原家成

藤原 家成(ふじわら の いえなり)は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。.

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藤原信隆

藤原 信隆(ふじわら の のぶたか)は平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門 信隆とも記される。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原経忠

藤原 経忠(ふじわら の つねただ、經忠)は平安時代後期の公卿。播磨守・藤原師信の子。官位は従二位・中納言。.

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藤原道隆

藤原 道隆(ふじわら の みちたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣。 花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男・伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。.

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藤原顕時

藤原 顕時(ふじわらのあきとき、天永元年(1110年)- 仁安2年3月14日(1167年4月5日))は平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、藤原長隆の子。母は高階重仲の娘。初名は顕遠。通称は中山中納言。妻は藤原有業の娘、平忠盛の娘、藤原信輔の娘。 天承元年(1131年)に蔵人となり、保延2年(1136年)頃から鳥羽院の院司・受領としての活動が見られる。久安6年(1150年)に五位蔵人、仁平2年(1152年)に右衛門権佐、久寿元年(1154年)に左少弁に任ぜられて三事兼帯となった。保元元年(1156年)に顕時と改名し、後白河天皇の下で正四位下右大弁に昇進、保元3年8月10日(1158年9月4日)に二条天皇の践祚に先だって左大弁蔵人頭に任ぜられ、翌平治元年(1159年)に参議に任じられ、同年に従三位に叙せられた。翌永暦元年(1160年)に権中納言、応保2年(1162年)には正三位に叙されて大宰権帥を兼ねた。長寛元年(1163年)に大宰権帥を、仁安元年(1166年)に権中納言を辞するが、仁安2年(1167年)1月に従二位民部卿に任ぜられ、間もなく没した。 平家物語においては平清盛に「大小事申し合はせし人」、即ち大きな事から小さな事まで相談に乗ってくれた恩人として回想されており、彼の息子の藤原行隆に報恩として左大弁への推薦状、領地の権利書や出仕の為の費用等を用立てている。.

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藤原親信

藤原 親信(ふじわら の ちかのぶ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。右京大夫・藤原信輔の四男。水無瀬家の祖。.

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藤原惟方

藤原 惟方(ふじわら の これかた、天治2年(1125年) - 没年不詳)は平安時代末期の公家。藤原北家勧修寺流、藤原顕頼の次男。従三位・参議。通称を粟田口別当という。.

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藤原成親

藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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水無瀬家

水無瀬家(みなせけ)は、藤原北家隆家流の藤原親信を祖とする堂上家である。家格は羽林家。家紋は菊。.

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源光保

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。.

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1149年

記載なし。

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1156年

記載なし。

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1184年

記載なし。

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