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耿弇

索引 耿弇

耿 弇(こう えん、3年 - 58年)は、後漢の武将。字は伯昭(はくしょう)。扶風茂陵県(陝西省興平市)の人(『後漢書』列伝9・本伝)。父は上谷太守の耿況。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第4位に序せられる(『後漢書』列伝12)。烏合の衆の逸話で知られる。

目次

  1. 47 関係: 右扶風司隸声東撃西大司馬太守寇恂岑彭上谷郡以逸待労延岑建武 (漢)彭寵後漢後漢書呉漢公孫述元始 (漢)光武帝囲魏救趙王莽王郎祭遵隴西郡隗囂調虎離山興平市邯鄲市蓋延長安苗曽雲台二十八将耿国耿舒耿況陝西省陳俊永平 (漢)涿郡漁陽郡成帝 (漢)更始 (漢)更始帝曹操景丹3年

右扶風

右扶風(ゆうふふう)は、古代中国の官職名、またはその治める行政区域名。 漢代に置かれ、長安周辺の県を統治した。官秩は二千石。 秦のとき、首都周辺を統治するのは内史であった。項羽により雍国とされ、紀元前205年(高祖2年)に中地郡として漢に編入された。紀元前198年(高祖9年)に内史に戻された『漢書』地理志上。紀元前155年(景帝前2年)に内史は左右に分割された。さらに紀元前104年(武帝の太初元年)に右内史は右扶風及び京兆尹とされ、左内史は左馮翊と改名された。また、『漢書』百官公卿表上においては、右扶風は主爵都尉(主爵中尉)を改名したものだとされているが、主爵都尉は列侯を掌ると記されており、県を統治する右扶風との関係は不明である。県を統治すると言う点では郡と同格だが、人口が多く、前漢においては役所が帝都長安にあり、さらに中央官庁の1つとして数えられ、宰相候補生の適性を見る場にもなる顕職であった。

見る 耿弇と右扶風

司隸

司隸(しれい)とは、中国・漢代に都が置かれた長安・洛陽及びその周辺一体の首都圏行政を監督した司隷校尉の管掌地域の通称である。 京兆尹(長安)・河南尹(洛陽)(前漢では河南郡、京師が置かれた後漢では河南尹)と河内郡・河東郡・弘農郡・馮翊・扶風の5郡で構成された。

見る 耿弇と司隸

声東撃西

声東撃西(せいとうげきせい)は兵法三十六計の第六計にあたる戦術。「東に声して西を撃つ」の意味。

見る 耿弇と声東撃西

大司馬

大司馬(だいしば)は、中国の王朝の官職の一つ。主に軍事を取り仕切り、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職が設けられる場合もあった。

見る 耿弇と大司馬

太守

太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。尊称として「明府」または「府君」と呼ばれる。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。

見る 耿弇と太守

寇恂

寇 恂(こう じゅん、? - 建武12年(36年))は、後漢初期の武将、政治家である。字は子翼。上谷郡昌平県(現在の北京市昌平区)の人。爵位は雍奴侯。諡号は威侯。光武帝の功臣であり、河内太守、潁川太守、汝南太守、執金吾などを歴任した。「雲台二十八将」の第5位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

見る 耿弇と寇恂

岑彭

岑 彭(しん ほう、? - 35年)は、後漢の武将。字は君然(くんぜん)。南陽郡棘陽県(河南省新野県)の人(『後漢書』列伝7・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第6位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

見る 耿弇と岑彭

上谷郡

上谷郡(じょうこく-ぐん)は、中国にかつて存在した郡である。秦の時代に設置。現在の中華人民共和国北京市にあたる。

見る 耿弇と上谷郡

以逸待労

以逸待労(いいつたいろう、逸を以て労を待つ)は、兵法三十六計の第四計にあたる戦術。これは我が方が局面の主導権を握ることの重要性を示す語である。単に「動かずに待っていろ」と勧める策と解するのは誤りである。

見る 耿弇と以逸待労

延岑

延 岑(えん しん、? - 36年)は、中国の新代から後漢初期にかけての武将。字は叔牙。荊州南陽郡筑陽県の人。義父は秦豊。義兄弟は田戎。初期は主に漢中や荊州南陽郡を活動地域とした新末後漢初の群雄の一人で、後に蜀(成家)の公孫述配下となった。光武帝の天下統一事業に最後まで抵抗した闘将である。

見る 耿弇と延岑

建武 (漢)

建武(けんぶ)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年 - 56年。 建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。 この元号は、光武帝が漢王朝を再興した際に初めて制定されたものであることから、後に日本で天皇親政を再興した後醍醐天皇が採用する(建武(けんむ):南朝は1334年 - 1336年、北朝は1334年 - 1338年)。

見る 耿弇と建武 (漢)

彭寵

彭 寵(ほう ちょう、生年不詳 - 建武5年(29年))は、新末後漢初の武将。字は伯通。王莽や光武帝に仕え、後に北方で後漢に背いて自立した。

見る 耿弇と彭寵

後漢

後漢(ごかん、後漢、、25年 - 220年)は、中国の古代王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢(東漢、)と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

見る 耿弇と後漢

後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。紀伝体の体裁を取り、本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120巻からなる。「本紀」「列伝」の編纂者は南朝宋の范曄で、「志」の編纂者は西晋の司馬彪。

見る 耿弇と後漢書

呉漢

呉 漢(ご かん、? - 44年)は、後漢の武将。字は子顔(しがん)。南陽郡宛県(河南省南陽市宛城区)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第2位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

見る 耿弇と呉漢

公孫述

公孫 述(こうそん じゅつ)は、新末後漢初の群雄の一人。字は子陽。右扶風茂陵県の人。蜀郡に地方王朝「成家」を建てた。

見る 耿弇と公孫述

元始 (漢)

元始(げんし)は、中国、前漢の平帝劉衎の治世に使用された元号。1年 - 5年。 現在の内モンゴル自治区で見つかった居延漢簡の中には、「漢元始廿六年」と記された木簡があり、新末後漢初の動乱期にも一時この年号が使われたことが窺える。

見る 耿弇と元始 (漢)

光武帝

光武帝(こうぶてい)こと劉秀(りゅう しゅう、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことにより「光」、禍乱を平定したことにより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した唯一の皇帝である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。

見る 耿弇と光武帝

囲魏救趙

囲魏救趙(いぎきゅうちょう、魏を囲んで趙を救う)は、兵法三十六計の第二計にあたる戦術。

見る 耿弇と囲魏救趙

王莽

王莽が発行した貨幣の一種。小刀を模した形状であり、「一刀平五千」の名で五銖銭5000枚分の名目価値とされた。 王 莽(おう もう、前45年 - 23年10月6日)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后の王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟にあたる。王曼の次男。子は王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡ら。娘は平帝の皇后王氏・王曄・王捷ら。孫(王宇の子)は王千・王寿・王吉・王宗・王世・王利。孫娘(王宇の娘)は王妨(王宗の姉。衛将軍に任じられた王興の妻)・王氏(下の名前は不明。定安公に封じられた後の孺子嬰の妻)。兄は王永。甥(王永の子)は王光。正妻は丞相王訢の孫の宜春侯王咸の娘。

見る 耿弇と王莽

王郎

王 郎(おう ろう、? - 24年)は、中国の新代の武将・政治家。冀州趙国邯鄲県の人。新末後漢初の群雄の一人で、河北に勢力を張った人物である。本名は王昌で、王郎は別名である。しかし『後漢書』は王郎を多用し、一般にも王郎の名で知られている。そのため本記事も便宜を兼ね、王郎を用いる。

見る 耿弇と王郎

祭遵

祭 遵(さい じゅん、? - 33年)は、後漢の武将。字は弟孫(ていそん)。潁川郡潁陽県の人(『後漢書』列伝10・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の9位に序せられる(『後漢書』列伝12)。従弟は祭肜。

見る 耿弇と祭遵

隴西郡

隴西郡(ろうせいぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省東南部に設置された。

見る 耿弇と隴西郡

隗囂

隗 囂(かい ごう、? - 33年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将・政治家。字は季孟。涼州天水郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人。叔父は隗崔。兄は隗義。子は隗恂・隗純。隴右に割拠した新末後漢初の群雄の一人で、蜀の公孫述と共に、光武帝(劉秀)の統一事業に立ちはだかった人物である。

見る 耿弇と隗囂

調虎離山

調虎離山(ちょうこりざん、調(はか)って虎を山から離す)は兵法三十六計の第十五計にあたる戦術。 『孫子』に「城攻めは下策である」と書かれているように、敵が有利な地形にいるところに出向いて戦うのは、自ら敗北を求める愚行である。このような場合、敵を本拠地から誘い出し、味方が有利な地形で戦うようにすることが望ましい。これを調虎離山の計と呼ぶ。

見る 耿弇と調虎離山

、あるいはは、漢字文化圏において、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

見る 耿弇と諡

興平市

興平市(こうへい-し)は中華人民共和国陝西省咸陽市に位置する県級市。

見る 耿弇と興平市

邯鄲市

邯鄲市(かんたん/ハンダン-し、、)は、中華人民共和国河北省南部に位置する地級市。京広線の沿線にあり、石炭業のほかセメント製造、鉄鋼業、紡績業、電子産業などが盛んであり、その交通の便から工業全体が伸びている。 戦国時代の趙の首府であり、日本ではとりわけ「邯鄲の夢」「邯鄲の歩み」の故事によって有名である。

見る 耿弇と邯鄲市

蓋延

蓋 延(がい えん、? - 39年)は、後漢の武将。字は巨卿(きょけい)。漁陽郡要陽県(河北省豊寧満族自治県)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の11位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

見る 耿弇と蓋延

長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。

見る 耿弇と長安

苗曽

苗 曽(びょう そ、? - 24年)は、中国の新代の武将、政治家。更始帝配下の人物だが、出身母体等は不明である。

見る 耿弇と苗曽

雲台二十八将

雲台二十八将(うんだいにじゅうはっしょう)は、後漢の光武帝の天下統一を助けた28人の功臣である。

見る 耿弇と雲台二十八将

耿国

耿 国(こう こく、? - 58年)は、中国の後漢時代初期の政治家。字は『後漢書』では叔慮、『東観漢記』では叔憲となっている。司隷扶風茂陵県の人。雲台二十八将の1人である耿弇の弟。父は耿況。次兄は耿舒。弟は耿広・耿挙・耿覇。子は耿秉・耿夔。玄孫に耿紀がいる。

見る 耿弇と耿国

耿舒

耿 舒(こう じょ、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。司隷扶風茂陵県の人。父は上谷太守耿況。兄は雲台二十八将の1人である耿弇。弟は耿国・耿広・耿挙・耿覇。子は耿襲。父や兄弟と同様に、後漢草創期の功臣の1人である。

見る 耿弇と耿舒

耿況

耿 況(こう きょう、? - 36年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将・政治家。字は侠遊。司隷扶風茂陵県(陝西省興平市)の人。雲台二十八将の一人である耿弇の父。子には他に、耿舒・耿国・耿広・耿挙・耿覇がいる。

見る 耿弇と耿況

陝西省

陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシー ション)、英語:Shaanxi(山西省と区別するため))は、中華人民共和国の省の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。

見る 耿弇と陝西省

陳俊

陳 俊(ちん しゅん、? - 47年)は、後漢の武将。字は子昭(ししょう)。南陽郡西鄂県(河南省南陽市臥竜区)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第19位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

見る 耿弇と陳俊

永平 (漢)

永平(えいへい)は、後漢の明帝劉荘の治世に行われた元号。 58年 - 75年。

見る 耿弇と永平 (漢)

涿郡

涿郡(たく-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代および隋代に、現在の河北省と北京市にまたがる地域に設置された。

見る 耿弇と涿郡

漁陽郡

紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''漁陽郡'''の位置 漁陽郡(ぎょよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。現在の北京市、天津市、河北省の一部に相当する。

見る 耿弇と漁陽郡

成帝 (漢)

成帝(せいてい)は、前漢の第12代皇帝。

見る 耿弇と成帝 (漢)

新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。国号の「新」は、成帝の時期に王莽が新都侯に封じられたことに由来する。莽新とも呼ばれる。

見る 耿弇と新

更始 (漢)

更始(こうし)は、新末後漢初、劉玄(更始帝・淮陽王)が建てた元号。 劉玄の更始朝は統一政権ではないが、その年号である更始は『後漢書』などの歴史書の紀年に使われている。23年 - 25年。

見る 耿弇と更始 (漢)

更始帝

更始帝(こうしてい)は、新末後漢初の緑林軍による更始政権の皇帝。姓は劉、諱は玄、字は聖公。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。元来は前漢の宗室である。曽祖父は舂陵侯劉熊渠。祖父は劉利。父は劉子張。母は何氏。後漢の光武帝(劉秀)の曽祖父の劉外は劉熊渠の弟にあたるため、光武帝の族兄にあたる。夫人は趙萌の娘と平林軍の豪族の娘の韓氏。弟は劉騫。従兄弟は劉顕・劉賜。子は劉求(成陽侯)・劉歆(穀熟侯)・劉鯉(寿光侯)。孫は劉巡(劉求の子)。曽孫は劉姚(劉巡の子)。

見る 耿弇と更始帝

曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の軍人・政治家・詩人で、実質的な魏の創始者。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、または吉利。豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の出身。廟号は太祖、諡号は武皇帝。

見る 耿弇と曹操

景丹

景 丹(けい たん、? - 26年)は、後漢の武将。字は孫卿(そんきょう)。馮翊櫟陽県(陝西省西安市閻良区)の人。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第10位に序せられる。

見る 耿弇と景丹

3年

3年(3 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。

見る 耿弇と3年

耿エン 別名。