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籌安会

索引 籌安会

籌安会(ちゅうあんかい)は、中華民国初期に存在した社会団体。 1915年(民国4年)、中華民国大総統の袁世凱は、自己の権力を拡大するために、皇帝即位を目論むようになる。袁の肝煎りにより、当時の知識人の1人である楊度が、共和国体(共和制)は、中国の国情に合わないため、帝制(君主制)を導入すべき、との主張を展開し始めた。楊度は、孫毓筠・厳復・胡瑛・劉師培・李燮和の5人と共に、籌安会を結成し、この6人は「六君子」と呼ばれた。なお、楊度と厳復以外の4人は、いずれも過去に中国同盟会に所属していた元・革命派の人物である。 しかし、中国国内での帝制への反応は、拒否的なものがほとんどであった。同年12月、袁世凱は正式に中華帝国皇帝に即位したが、雲南省に結集した蔡鍔・梁啓超・唐継尭ら反袁勢力が蜂起し(護国戦争)、さらに袁の腹心である段祺瑞・馮国璋からも帝制への支持を得ることができなかった。翌年3月、袁は皇帝即位を取り消し、6月、失意のうちに死去した。籌安会の構成員も政界から失脚し、中でも楊度・孫毓筠・劉師培は、指名手配を受けている。

目次

  1. 23 関係: 劉師培厳復君主制孫毓筠中国同盟会中国社会科学院中華帝国中華帝国 (1915年-1916年)中華民国中華書局唐継尭共和制袁世凱馮国璋護国戦争胡瑛 (湖南)蔡鍔雲南省李燮和梁啓超楊度段祺瑞民国紀元

劉師培

劉 師培(りゅう しばい、1884年6月24日 - 1919年11月20日)は、中国清末民初の革命家(アナキスト)・国学者・教育者・政治家。字は「申叔」、号は「左盦」。革命家としては「劉光漢」とも名乗った。 辛亥革命に至る革命運動に参加したが、離反して清朝側につき、35歳で早逝した。67f頁。章炳麟や黄侃と同様、国学(考証学)でも業績を残した。

見る 籌安会と劉師培

厳復

厳 復(げん ふく/げん ぷく)は、清末民初に活躍した啓蒙思想家・翻訳家。字は又陵(ゆうりょう)、のち幾道(きどう)。号は観我生室主人、愈壄(ゆや)老人など。

見る 籌安会と厳復

君主制

君主制(くんしゅせい、monarchy)または君主政とは、一人の支配者が統治する国家形態であり、伝統的には君主が唯一の主権者である体制。語源はギリシア語の「モナルケス monarches」で、「ただ一人の支配」を意味する。君主制支持は君主主義(monarchism)と呼ばれる。 共和制(republic)は「君主制の対」とされる(共和制は民主制と同義にも用いられ得るが、実際は独裁的な場合も少なくないという)。また「君主制,神政政治など」は、支配の権威が民衆に由来する民主主義と対照的とされており、「君主政治」や「貴族政治」も民主主義と区別されるという。

見る 籌安会と君主制

孫毓筠

孫 毓筠(そん いくいん)は、清末民初の政治家・革命家。中国同盟会以来の革命派人士だが、後に袁世凱の皇帝即位運動に加担した人物である。字は少侯。

見る 籌安会と孫毓筠

中国同盟会

中国同盟会、前列右端が孫文、後列中央が宮崎滔天(1890年) 中国同盟会(ちゅうごくどうめいかい)または中国革命同盟会(ちゅうごくかくめいどうめいかい)は、清末、1905年8月20日、孫文らにより東京で結成された政治結社。略称は同盟会。孫文を中心に、清朝打倒を目指す革命運動の指導的役割を担った団体である。

見る 籌安会と中国同盟会

中国社会科学院

中国社会科学院(ちゅうごくしゃかいかがくいん)は、中華人民共和国の哲学及び社会科学研究の最高学術機構であり、総合的な研究センター。研究所31、研究センター45、研究者4200人を擁し、中国政府のシンクタンクとして大きな影響力をもつ。また世界80ヵ国のシンクタンク、高等研究機関200余りと日常的に交流する。国務院直属事業単位である。

見る 籌安会と中国社会科学院

中華帝国

中華帝国(ちゅうかていこく)また中華王朝(ちゅうかおうちょう)とは、以下二つの意味を指す: 北宋・遼の位置関係 金の位置関係。

見る 籌安会と中華帝国

中華帝国 (1915年-1916年)

中華帝国が領有権を主張していた地域 「洪憲元年」と入った中華帝国の10文硬貨 中華帝国(ちゅうかていこく、中華帝國、)は、中華民国の政治家・袁世凱による帝政復活の企てによって樹立され、1915年末から1916年初めまで続いた短命政権である。結局この企ては失敗したが、革命運動の進行は長年にわたって遅れ、中国大陸は割拠した軍閥の各地方勢力に分裂した。

見る 籌安会と中華帝国 (1915年-1916年)

中華民国

中華民国(ちゅうかみんこく、中華民國、、ウェード式: Chung-hua Min-kuo、Republic of China)は、東アジアに位置する共和制国家。実効支配している領土の大半が台湾島であることと、中華人民共和国が「一つの中国」原則を唱えている政治情勢により、台湾(たいわん、臺灣/台灣、Taiwan)が通称として国際的にしばしば使用されている。現在(1949年以降)の首都は台北市。 アジアで2番目の共和国アジア初の共和国はフィリピン第一共和国であると見なす場合。ただし、当時のフィリピンはスペインの植民地支配からアメリカの植民地支配下への移行期間にあり、アメリカの支配下から脱し切れていなかったため異論がある。

見る 籌安会と中華民国

中華書局

中華書局(ちゅうかしょきょく)は中華圏の代表的な出版社・書店。

見る 籌安会と中華書局

唐継尭

唐 継尭(とう けいぎょう)は清末民初の軍人・政治家。滇軍(雲南軍、雲南派)の創始者。中華民国の初代貴州都督。民国初期の10数年にわたり、雲南省を統治した。弟は唐継虞。子は唐筱蓂。字は蓂賡。別号は東大陸主人。

見る 籌安会と唐継尭

共和制

共和制(きょうわせい、republic、)(共和国・共和政)は、国家元首の地位を個人(君主)に持たせない政治体制である。共和制では、国家の所有や統治上の最高決定権(主権)を個人(君主)ではなく人民または人民の大部分が持つ。

見る 籌安会と共和制

袁世凱

朝鮮で活躍していた頃の若き袁世凱 袁 世凱(えん せいがい、ユエン・シーカイ、、英語:Yuan Shikai、1859年9月16日(咸豊9年8月20日) - 1916年6月6日)は、中国清末民初期の軍人・政治家。初代中華民国大総統。北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。一時的に存在した中華帝国で使用された元号より洪憲帝と呼ばれることもある。 字は慰亭(いてい)、号は容庵(ようあん)。中華帝国時代は洪憲皇帝(こうけんこうてい、英語:Hongxian Emperor)と自称した。

見る 籌安会と袁世凱

馮国璋

馮 国璋(ふう こくしょう、ひょうこくしょう)は、清末民初の軍人・政治家。袁世凱の部下であり後に北洋政府の代理大総統に就任する。字は華甫。

見る 籌安会と馮国璋

護国戦争

護国戦争(ごこくせんそう、、、拼音: Hù guó zhànzhēng)は、1915年 - 1916年にかけて、中国で発生した内戦。民国革命の中では第三革命に当たる。 袁世凱が1915年12月に北京で帝政を宣言したことにより、南方の軍閥(雲南派)の唐継堯、蔡鍔、李烈鈞などが雲南省で独立を宣言し、あわせて袁世凱討伐の兵を起こした。袁世凱の軍隊は敗北し、南方のその他の地域でも独立を宣言することとなった。袁世凱は内外の圧迫により帝政を取り消し、数ヶ月後に病没した。

見る 籌安会と護国戦争

胡瑛 (湖南)

胡 瑛(こ えい)は、清末民初の政治家・軍人・革命家。中国同盟会以来の革命派人士。民国成立後に、一時は袁世凱の皇帝即位運動に加担した人物である。旧名は宗琬。字は経武。号は萱庵。祖籍は浙江省紹興府。なお、同じく中国同盟会に属し、後に孫文(孫中山)の側近となった雲南省出身の軍人にも、同姓同名の別人である胡瑛という人物が存在する。

見る 籌安会と胡瑛 (湖南)

蔡鍔

蔡 鍔(さい がく)は、清末民初の軍人。中華民国の初代雲南都督。袁世凱による帝制実施を阻止するため、護国戦争を発動したことでも知られる。もとの名は艮寅、字は松坡。

見る 籌安会と蔡鍔

雲南省

雲南省(うんなんしょう、云南省、, Yunnan Province)は、中華人民共和国西南部に位置する省。 省都は昆明市。略称は雲、又は滇(てん)。 省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることに由来する。

見る 籌安会と雲南省

李燮和

李 燮和(り しょうわ)は清末民初の政治家・革命家。清末に中国同盟会に加入した革命派人士である。しかし民国初期には、袁世凱の皇帝即位を支持する籌安会に加入した。名は柱中だが、字の燮和で知られる。別号は代鈞。

見る 籌安会と李燮和

梁啓超

梁 啓超(りょう けいちょう、、1873年 - 1929年)は、中国・清末民初のジャーナリスト、革命家、政治家、思想家、歴史学者。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。さらに「中国之新民」など多数のペンネームをもつ。 建築家・建築史学者の梁思成は長男、考古学者のは次男。

見る 籌安会と梁啓超

楊度

楊 度(よう と)は中華民国の政治家・学者。清朝政府では保皇派として官僚や閣僚を務め、辛亥革命後は袁世凱の中華帝国建国を支えたの筆頭格に数えられ、中国国民党・中国共産党党員にもなった。旧名は承瓚。字は皙子。号は虎禅師、虎頭蛇、釈虎。

見る 籌安会と楊度

段祺瑞

段 祺瑞(だん きずい、トワン チールイ、1865年3月6日〈同治4年2月9日〉 - 1936年〈民国25年〉11月2日)は、清末民初の軍人・政治家。馮国璋・王士珍とともに「北洋の三傑」と称された。字は芝泉、晩年の号は正道居士。親日派として中国での評判は決してよくないが、その人格の高潔さは孫文と並び称される狭間(1999)pp.45-49。

見る 籌安会と段祺瑞

民国紀元

民国紀元(みんこくきげん、繁体字中国語:民國紀元・民國紀年)は、中華民国が成立した1912年を紀元(元年)とする紀年法である。中華民国暦(ちゅうかみんこくれき)、略して民国ともいう。 西暦との差は1911年で、民国年に1911を加えると西暦年、西暦年から1911を減ずると民国年となる。 西暦+8hours年は、中華民国(民国)年である。

見る 籌安会と民国紀元