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第4航空艦隊 (ドイツ空軍)

索引 第4航空艦隊 (ドイツ空軍)

4航空艦隊(だい4こうくうかんたい Luftflotte 4)は第二次世界大戦中のドイツ空軍の組織。航空艦隊はドイツ空軍における最大規模の編制であり、空軍最高司令部(OKL)の直接指揮を受ける。 第4航空艦隊は1939年2月に設置され、ドイツ南東部を担当していた。第二次世界大戦勃発時は第1航空艦隊とともにポーランド侵攻へ投入された。その後も東部戦線へ配置され続け、独ソ戦においては戦線南部に投入されている。 1944年以降は、ドイツ軍の後退とともに第4航空艦隊も後退してきており、1945年にはオーストリアに配置されていた。本土防空部隊以外で1945年まで戦闘機戦力を有していた数少ない部隊であるが、1945年4月に改編により第6航空艦隊に編入された。.

9 関係: ポーランド侵攻ドイツ空軍 (国防軍)第1航空艦隊 (ドイツ空軍)第2航空艦隊 (ドイツ空軍)第3航空艦隊 (ドイツ空軍)第5航空艦隊 (ドイツ空軍)第6航空艦隊 (ドイツ空軍)第二次世界大戦独ソ戦

ポーランド侵攻

ポーランド侵攻(ポーランドしんこう)は、1939年9月1日にドイツ国、及びドイツと同盟を組む独立スロバキアが、続いて1939年9月17日にソビエト連邦がポーランド領内に侵攻したことを指す。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援助条約(ポーランド・イギリス相互援助条約(英語条文、ポーランド語条文)、ポーランド・フランス相互援助条約)を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。.

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ドイツ空軍 (国防軍)

ドイツ空軍(ドイツくうぐん、Luftwaffe(ルフトヴァッフェ))は、1935年から1945年までの期間に設置されていたドイツ国防軍の空軍。.

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第1航空艦隊 (ドイツ空軍)

1航空艦隊(だい1こうくうかんたい Luftflotte 1)は第二次世界大戦中のドイツ空軍の組織。航空艦隊はドイツ空軍における最大規模の編制であり、空軍最高司令部(OKL)の直接指揮を受ける。第1航空艦隊は1939年2月に設置され、ドイツ北東部を担当していた。 第二次世界大戦勃発時は、ポーランド侵攻に第4航空艦隊とともに主力として投入された。その後も東部戦線に配置され続け、独ソ戦においてはその北部を担当している。 1944年末までに損耗および戦力の転出により壊滅状態になり、終戦時には1個高射師団となっていた。.

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第2航空艦隊 (ドイツ空軍)

2航空艦隊(だい2こうくうかんたい Luftflotte 2)は第二次世界大戦中のドイツ空軍の組織。航空艦隊はドイツ空軍における最大規模の編制であり、空軍最高司令部(OKL)の直接指揮を受ける。第2航空艦隊は1939年2月に設置され、ドイツ北西部を担当していた。 第二次世界大戦勃発時は東部戦線の第1航空艦隊および第4航空艦隊に戦力が集中され、弱体な兵力であった。ポーランド侵攻後に戦力が集中され、1940年のフランス侵攻やオランダの戦いに投入された。 フランス降伏後、ベルギーおよびフランス北部に再配置され、バトル・オブ・ブリテンにおいてイギリス本土への攻撃を行なった。バトル・オブ・ブリテンの失敗後は東部戦線中央部に配置された。1942年以降は、地中海方面へ配置され、地中海の戦いや北アフリカ戦線、イタリア戦線で戦っている。 戦力の損耗やドイツ本土防空戦力の強化のため、1944年9月に解体された。.

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第3航空艦隊 (ドイツ空軍)

3航空艦隊(だい3こうくうかんたい Luftflotte 3)は第二次世界大戦中のドイツ空軍の組織。航空艦隊はドイツ空軍における最大規模の編制であり、空軍最高司令部(OKL)の直接指揮を受ける。 第3航空艦隊は1939年2月に設置され、ドイツ南西部を担当していた。第二次世界大戦勃発時は東部戦線の第1航空艦隊および第4航空艦隊に戦力が集中され、弱体な兵力であった。ポーランド侵攻後に戦力が集中され、1940年のフランス侵攻に投入された。フランス降伏後、フランス北部に再配置され、第2航空艦隊とともにバトル・オブ・ブリテンにおいてイギリス本土への攻撃を行なった。バトル・オブ・ブリテンの失敗後は、第2航空艦隊の地中海方面への転出に伴い、フランス全域を担当区域としていた。 1944年の連合軍によるノルマンディー上陸作戦後は空軍野戦師団も加わり防戦を行なった。戦力の損耗やドイツ本土防空戦力の強化のため、1944年9月に解体された。.

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第5航空艦隊 (ドイツ空軍)

5航空艦隊(だい5こうくうかんたい Luftflotte 5)は第二次世界大戦中のドイツ空軍の組織。航空艦隊はドイツ空軍における最大規模の編制であり、空軍最高司令部(OKL)の直接指揮を受ける。 第1から第4航空艦隊は第二次世界大戦以前から編成されていたが、この第5航空艦隊は大戦勃発後の1940年4月12日に設立された。ナチスドイツの北欧侵攻は4月9日から開始されており、これに対応して編成されたものである。ハンブルクで編成されたが、4月24日にオスロヘ移動し、ノルウェー領内の戦闘を担当した。 北欧の戦いは6月には終了したが、引き続きバトル・オブ・ブリテンに投入され、ノルウェーやデンマークから北海越えでブリテン島北東部に対し長距離攻撃を実施した。その後は北欧における防空やバレンツ海・ノルウェー海・大西洋における哨戒・船団攻撃を行なっていた。他の重要戦線へ戦力が引き抜かれ、1944年9月に解体された。.

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第6航空艦隊 (ドイツ空軍)

6航空艦隊(だい6こうくうかんたい Luftflotte 6)は第二次世界大戦中のドイツ空軍の組織。航空艦隊はドイツ空軍における最大規模の編制であり、空軍最高司令部(OKL)の直接指揮を受ける攻撃型空軍から防空型空軍へ ドイツ空軍はいかに変容を遂げたか,佐藤俊之,ドイツ本土防空戦 (欧州戦史シリーズ (Vol.19)),P136-144,学習研究社,2002年,ISBN 9784056027686。 第二次世界大戦において東部戦線中央部を担当していた部隊であり、1943年5月5日に東部航空部隊司令部(Luftwaffenkommando Ost)を改編し編成された。設立時の司令部所在地はスモレンスク。1945年4月には第4航空艦隊が第4航空部隊司令部に改編され、それを傘下に入れている。1945年5月の終戦時まで東部戦線に所在し続けた。最終司令部所在地はコトブス。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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独ソ戦

戦(どくソせん)(英語Eastern Front(World War II)) は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。 大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線(der Ostfeldzug)と表現される。 アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であると認識していた。 1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、過酷な共産党の政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また反共主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。しかし、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。親衛隊やはドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。 この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、ドイツ兵が1075万人である。民間人の死者をいれるとソ連は2000〜3000万人が死亡し、ドイツは約600〜1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している()。またドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した()。 開戦から1943年7月のクルスクの戦いまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となり、1945年5月8日にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。.

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