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深芳野 (斎藤道三側室)

索引 深芳野 (斎藤道三側室)

深芳野(みよしの/生没年不詳)は、戦国時代の女性。稲葉通則の娘で一鉄の姉とも、または一色左京大夫義清の娘ともされ、母は一色義遠の娘。『美濃国諸家系譜』によれば、土岐頼芸の愛妾でのちに斎藤道三の側室となったといわれる。斎藤義龍の母。斎藤喜平次も深芳野の子とも。 『美濃国諸家系譜』によれば、美濃一の美女であったとされ、身長は六尺二寸(約187cm)もあったという。初め美濃守護・土岐頼芸の愛妾であったが、大永6年頃(1526年)"12月"、長井新左衛門尉の子長井規秀(のちの斎藤道三)に下贈され、規秀の側室となる。大永7年6月10日(1527年7月8日)に20歳で豊太丸(のちの斎藤義龍)を産む。 一説に、道三が深芳野を拝領する前から土岐頼芸の子を懐妊していたとされ、子の義龍は落胤とされるが、江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』の記述であるため定かではない。.

23 関係: 大永三田佳子一色義遠一色義清 (左京大夫)一色義有土岐頼芸土岐成頼国盗り物語国盗り物語 (NHK大河ドラマ)秋吉久美子稲葉良通美濃国諸旧記鈴木杏樹松波庄五郎戦国乱世の暴れん坊 齋藤道三 怒涛の天下取り戦国時代 (日本)斎藤喜平次斎藤義龍斎藤道三1526年1527年6月10日 (旧暦)7月8日

大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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三田佳子

三田 佳子(みた よしこ、1941年10月8日別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.18.

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一色義遠

一色 義遠(いっしき よしとお)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。.

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一色義清 (左京大夫)

一色 義清(いっしき よしきよ)は、戦国時代の武将、守護大名。 永正6年(1509年)、丹後国守護に補任されたが、一色義有との続柄ははっきりせず、子や弟、あるいは従兄弟ともいわれる。義清が守護となった頃の丹後は若狭武田氏の介入や守護代延永氏の下克上などで国内は混乱していた。永正13年(1516年)から翌年にかけて同族と思われる一色九郎と争う。義清は加悦城主石川直経と、一色九郎は守護代延永春信と結び戦いを繰り広げたが、加悦城を攻め落とされ一時没落したこともあったらしい(『東寺過去帳』)。 義清の動静は永正16年(1519年)まで判明している。義清以後の一色義貫流の血脈は断絶する。 また、土岐頼芸、次いで斎藤道三の側室となった深芳野の父ともいうが詳細は不明。なお、深芳野の生んだ斎藤義龍は一色左京大夫と称し、一色氏を名乗っている。.

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一色義有

一色 義有(いっしき よしあり)は、戦国時代の武将、守護大名。.

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土岐頼芸

土岐 頼芸(とき よりあき/ - よりなり/ - よりのり/ - よりよし)は、戦国時代の美濃国の守護大名。土岐政房の次男。 土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。.

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土岐成頼

土岐 成頼(とき しげより)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。美濃守護。土岐氏第11代当主。土岐持益の養子。実父は一色義遠で一色義直は伯父とされているが、土岐氏の支族饗庭氏の饗庭元明(備中守)の子とする説、佐良木光俊(持益の従弟)の子とする説などに分かれている。 養子となる際に第8代将軍足利義成(後の義政)から偏諱(「成」の1字)を与えられて成頼と名乗る。法名は宗安(そうあん)。.

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国盗り物語

『国盗り物語』(くにとりものがたり)は、司馬遼太郎の歴史小説。戦国時代、一介の油売りから身を起こし美濃国の国主になった斎藤道三と、隣国の尾張国に生まれ破天荒な政略・軍略で天下布武を押し進めた織田信長を扱った作品である。 『サンデー毎日』誌上で、1963年8月から1966年6月まで連載された。.

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国盗り物語 (NHK大河ドラマ)

『国盗り物語』(くにとりものがたり)は、1973年1月7日から12月23日に放送されたNHK大河ドラマ第11作。全51回。.

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秋吉久美子

秋吉 久美子(あきよし くみこ、1954年7月29日 - )は、日本の女優。アイエス・フィールド所属。 静岡県富士宮市生まれ、徳島県日和佐町(現・美波町)、福島県いわき市育ち。本名は小野寺 久美子(おのでら くみこ)。身長162cm。最終学歴は早稲田大学大学院公共経営研究科専門職学位課程公共経営学専攻修了。学位は公共経営修士(専門職)。 アジア映画祭主演女優賞、日本アカデミー賞優秀主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞などを受賞している。2013年「「わたし」の人生(みち)〜我が命のタンゴ」でモナコ国際映画祭主演女優賞を受賞。そのほかは#受賞歴を参照。.

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稲葉良通

葉 良通 / 稲葉 一鉄(いなば よしみち / いなば いってつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称され、特に稲葉良通は三人衆筆頭とされた。 号は一鉄(いってつ)。これが「一徹」という言葉の語源である説が有力。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。.

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美濃国諸旧記

『美濃国諸旧記』(みののくにしょきゅうき)は、美濃国における名家、豪族、戦、城、郡、村、寺社を扱った史書・軍記。寛永年間(1624年 - 1645年)の記事があるため、寛永末期の成立とみられる。作者は不詳。 平安時代の土岐氏や、明智氏を含む土岐庶流、美濃斎藤氏の多くの事跡が詳細に記述されており、多くの逸話の出典となっている。なお、斎藤道三の国盗りについては一代説で記述されている。ただし、前述の通り著者が不明の軍記物であり、一次史料と一致しない記載が多く見つかっている。.

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鈴木杏樹

鈴木 杏樹(すずき あんじゅ、1969年9月23日 ‐ )は、日本の女優、司会者。本名、山形 香公子(やまがた かくこ)。 大阪府箕面市出身、兵庫県神戸市育ち。ジャパン・ミュージックエンターテインメント(イー・コンセプト)所属。身長161cm、血液型はAB型。.

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松波庄五郎

松波 庄五郎(まつなみ しょうごろう、生没年不詳)は、戦国時代の武将。新左衛門尉と称す。藤原北家日野家一門の松浪基宗の子と称し、子に斎藤道三。別名、峰丸『美濃国諸旧記』・法蓮房・山崎屋庄五郎・西村正利(勘九郎)・長井新左衛門尉。 『美濃国諸旧記』、『美濃明細記』、『土岐斎藤由来記』などが江戸時代に成立した多くの軍記物では、松波庄五郎は斎藤道三と同一人物とされていたが、近年では『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉との父子2代にわたるものであったという説が有力となっている。.

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戦国乱世の暴れん坊 齋藤道三 怒涛の天下取り

『戦国乱世の暴れん坊 齋藤道三 怒涛の天下取り』(せんごくらんせのあばれんぼう さいとうどうさん どとうのてんかとり)は、日本の時代劇。新春大型5時間時代劇スペシャルとして、1991年1月3日にテレビ朝日系列で放送された。製作 : 東映 / ''ANN''。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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斎藤喜平次

斎藤 喜平次(さいとう きへいじ)は、戦国時代の人物。父は斎藤道三。諱は龍定、龍之とも。仮名は玄蕃。母は深芳野(一色義清女か稲葉通利女)又は小見の方(明智光継女)。 斎藤道三の三男『信長公記』として生まれる。『信長公記』によると父道三と兄の義龍・孫四郎の親子四人で稲葉山城に住んでいたという。 次兄斎藤孫四郎とともに父の道三に寵愛され、道三は喜平次に「一色右兵衛大輔」を名乗らせた。『信長公記』によれば、それにより次兄孫四郎とともに奢り高ぶり、しだいに長兄・斎藤義龍を侮るようになったいわれる。斎藤家の家督は天文23年(1554年)父道三の隠居で長兄・義龍が継いでいたが、義龍は自身が廃嫡されると考えて一計を計り、喜平次らを自身のいる稲葉山城の奥の間に病を装って呼び出し、弘治元年(1555年)11月12日、酒に酔わせた後に自身の寵臣・日根野備中守弘就により、喜平次は次兄孫四郎ともども謀殺された。.

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斎藤義龍

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)は、戦国時代の武将。美濃国の戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主(美濃一色氏初代とする説もある)。室町幕府相伴衆。.

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斎藤道三

斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。 とも、または道三が若い頃の子であるともされる横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないとかとしている。。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。.

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1526年

記載なし。

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1527年

記載なし。

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6月10日 (旧暦)

旧暦6月10日(きゅうれきろくがつとおか)は、旧暦6月の10日目である。六曜は先負である。.

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7月8日

7月8日(しちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から189日目(閏年では190日目)にあたり、年末まであと176日ある。誕生花はホオズキ、クロユリ。.

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