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次大王

索引 次大王

次大王(じだいおう、71年 - 165年)は高句麗の第7代の王(在位:146年 - 165年)。姓は高、諱は遂成(すいせい、スソン)。『三国史記』高句麗本紀・次大王即位紀には先代の太祖大王の同母弟とあるが、太祖大王紀の文中においては、遂成を太祖大王の弟とする記述と王子とする記述とが混合している。また『後漢書』には遂成は宮(太祖大王)の子とある。太祖大王の94年(146年)12月に王位を譲られ、遂成が76歳で即位した。.

22 関係: 坪井九馬三太祖大王三国史記三国遺事一然井上秀雄後漢後漢書国立国会図書館遼東半島高句麗近代デジタルライブラリー金富軾英語明臨答夫新大王121年146年165年71年

坪井九馬三

坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(1859年1月15日) - 1936年1月21日)は、歴史学者、東京帝国大学教授。.

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太祖大王

太祖大王(たいそだいおう、47年 - 165年)は、高句麗の第6代の王(在位:53年 - 146年)。姓は高、諱は宮(きゅう、クン)、または於漱(おそう、オス)。大祖大王、国祖王とも表記される。第2代瑠璃明王の曽孫であり、父は如律の子の古鄒加(高句麗の官位のひとつ)の再思(さいし、チェサ)。先代の慕本王が53年11月に臣下の杜魯に殺害されたとき、慕本王の太子の翊(よく、イク)が不肖であったために、国人が宮を迎えて王位につけた。このときに王は7歳だったため、王母がしばらく摂政した。 『魏書』高句麗伝には「朱蒙死,閭達代立。閭達死,子如栗代立。如栗死,子莫來代立。・・・莫來子孫相傳,至裔孫宮」とあり、この莫來を慕本王として、太祖大王の治世が長すぎる(93年間)こともあって、慕本王から太祖大王までの間に数代の欠落があったとする説もある。(→井上訳注1983 p.66).

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三国史記

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。.

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三国遺事

『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃であり、一然の没後に弟子の無極(宝鑑国師の混丘)が補筆・署名し、刊行されたと見られる。 朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に次ぐ古文献ではあるが、由来の怪しい古書を引用するなど、史書としての問題点は少なくない。しかし、三国時代及びそれ以前の朝鮮半島の歴史を記した資料は極めて乏しいということもあって、『三国史記』と並んで朝鮮半島古代史の基本文献として扱われている。また、『三国史記』が名だけを留めて収めなかった郷歌(きょうか、ヒャンガ)を14首伝えており、言語学資料としての価値も高い。.

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一然

一然(いちねん、1206年 – 1289年7月)は、高麗時代の禅宗の仏僧。俗姓は金、幼名を見明(または景明)、字は晦然。慶州章山郡(現在は慶山市)の出身で、1283年に忠烈王より国尊の称号を賜り、円径冲照と号した。没後に普覚の諡号を賜り、普覚国尊一然と称されるようになった。三国時代の重要史料である『三国遺事』の撰述のほか、『語録』『偈頌雑著』などの著作がある。.

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井上秀雄

井上 秀雄(いのうえ ひでお、1924年(大正13年)12月1日 - 2008年10月7日)は、日本の歴史学者。東北大学、樟蔭女子短期大学名誉教授。専門は古代朝鮮史、日朝関係史。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

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国立国会図書館

国立国会図書館(こくりつこっかいとしょかん、英称:)は、日本の国会議員の調査研究、行政、ならびに日本国民のために奉仕する図書館である。また、納本制度に基づいて、日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は国会法第130条及び国立国会図書館法第1条。 国立国会図書館は、日本の立法府である国会に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする議会図書館である。同時に、納本図書館として日本で唯一の国立図書館としての機能を兼ねており、行政・司法の各部門および日本国民に対するサービスも行っている。バーチャル国際典拠ファイルに参加している。 施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた支部図書館からなる。中央の図書館として東京本館(東京都千代田区永田町)および関西館(京都府相楽郡精華町精華台)が置かれ、また東京本館に付属して国会分館がある。 支部図書館としては国際子ども図書館(東京都台東区上野公園)のほか、司法機関に1館(最高裁判所図書館)、国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律(昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館が置かれる。.

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遼東半島

遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、中国語簡体字:辽东半岛 Liáodōng Bàndăo)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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近代デジタルライブラリー

近代デジタルライブラリー(きんだいデジタルライブラリー、Digital Library from the Meiji Era)は、国立国会図書館が明治・大正・昭和前期の資料を公開するインターネット上の電子図書館。2016年5月末をもって、「国立国会図書館デジタルコレクション」と統合された。(電子図書館事業を参照)  .

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金富軾

金 富軾(きん ふしょく、1075年 - 1151年)は、高麗の官僚・儒学者。慶州金氏出身の門閥貴族である。朝鮮に現存する最古の歴史書である『三国史記』を編纂し、後に楽浪郡開国侯を賜った。.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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明臨答夫

明臨答夫(めいりんとうふ、67年? - 179年)は、高句麗の次大王・新大王時代の官僚。椽那部の皁衣(そうい、高句麗官位のひとつ)として『三国史記』に現れ、165年10月、暴虐の次大王を弑逆した。新大王の2年(166年)、高句麗の初代国相に取り立てられ、沛者(はいしゃ、ペジャ)の爵位と内外の統帥権、梁貊部落(渾江の西部流域)の支配権とを与えられた。 172年、後漢の大兵による進撃を受けた際に、迎撃・籠城のいずれとするかという新大王の群臣への問いかけに対し、籠城と退却時の追撃を主張して新大王に受け容れられた。そして主張した通り、城を固守し、飢えて退却した漢兵を追撃して坐原で殲滅させた。この功により、坐原・質山を食邑として賜った。 179年9月、113歳で死去した。このとき新大王は明臨答夫の死を悼んで自ら出向いて嘆き悲しみ、7日間政務を執らなかった。礼をもって質山に葬られ、墓守として20戸が置かれた。.

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新大王

新大王(しんだいおう、89年 - 179年)は高句麗の第8代の王(在位:165年 - 179年)。姓は高、諱は伯固(はくこ、ペクコ)または伯句(はくく、ペクク)。『三国史記』高句麗本紀・新大王紀には第6代太祖大王の末弟であり、165年10月に次大王が明臨答夫に討たれた後に、左輔の於支留(おしりゅう)らに推戴されて77歳にして王位に就いた。『三国遺事』王暦によれば、165年に新大王が太祖大王と次大王とを同時に殺し、王位に就いたとある。 『後漢書』では先代の遂成(次大王)の子、『三国志』では宮(太祖大王)の子とし、いずれの書においても後漢の順帝の陽嘉元年(132年)よりも前に王となったとする。『三国史記』高句麗本紀の中国関係記事については『三国志』『後漢書』を引用したものと見られるが、新大王から山上王にかけて、年数などに矛盾するものが多々見られる。.

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121年

記載なし。

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146年

記載なし。

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165年

記載なし。

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71年

記載なし。

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