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楚辞

索引 楚辞

楚辞(そじ)は中国戦国時代の楚地方に於いて謡われた詩の様式のこと。またはそれらを集めた詩集の名前である。全17巻。その代表として屈原の『』が挙げられる。北方の『詩経』に対して南方の『楚辞』であり、共に後代の漢詩に流れていく源流の一つとされる。また賦の淵源とされ、合わせて辞賦と言われる。.

15 関係: 劉向屈原中国後漢北宋前漢王褒詩経賈誼楚 (春秋)漢詩朱熹戦国時代 (中国)

劉向

劉 向(りゅう きょう、紀元前77年(元鳳4年) - 紀元前6年(建平元年))は、前漢の学者、政治家。はじめの名は更生、字は子政。多数の著作者で知られる。劉邦の末弟である楚元王劉交の玄孫。陽城侯・劉徳の第2子で、兄に劉安民が、弟(名は不詳)の息子に劉慶忌がいる。前漢の宗室の身分である。.

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屈原

楚の屈原(清代) 屈原の肖像画(17世紀) 屈 原(くつ げん、紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。.

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巫(ふ、かんなぎ)は、巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す。女性は「巫」、男性の場合は「覡」、「祝」と云った。「神和(かんな)ぎ」の意。 シャーマニズムによるシベリア、アメリカ原住民、アフリカなどにみられるシャーマンも同様である。 自らの身に「神おろし」をして神の言葉(神託)を伝える役目の人物を指すことが通例である。古代の神官は、ほぼ巫と同じ存在であった。祭政不分の社会であれば、彼らが告げる神託は、国の意思を左右する権威を持った。 「かんなぎ」と言う場合は、特に日本の巫を指す。現在、神職の一般呼称である「神主(かんぬし)」とは、本来、文字通り神掛かる役目を持つ職のことであった。日本においては古来より巫の多くは女性であり、巫女(みこ、ふじょ)という呼称で呼ばれることが一般的である。ただし、古代初期の日本においては巫女と同一の役目を担う「巫覡、男巫、巫子」も少なからず存在していた。また、現代において巫女という場合、単に神道における神職を補佐する女性の職の人々を指す言葉として使われることが多い。 青森県などには「イタコ」・「イチコ」などの名称の職もある。 日本本土と異なる歴史背景を持つ沖縄県周辺では、ユタ・ノロ(祝女)という古代日本の巫と同じ能力・権能で定義される神職が、琉球王国時代以前から現代まで存続している。このことから、古代日本の信仰形態が残っていると指摘する民俗学者は多い。 「かんなぎ」の語源については、神意を招請する意の「神招ぎ(かみまねぎ)」という語からであるとか、「神和(かむなぎ)」という語からであるなどといわれているが、どちらもはっきりとした裏づけはとれていない。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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王褒

王褒(おう ほう)は、中国史上の人物。.

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詩経

『詩経』(しきょう、)は、中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。 西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。 現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、『毛詩』と呼ぶことも多い。または詩三百・詩三百篇・或いはただ単に三百篇・三百五篇・三百十一篇とも呼ばれる。.

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庭堅「苦笋賦」(1099年) 賦(ふ)とは、古代中国の韻文における文体の一つ。唐の詩や宋の詞などと並び、漢帝国を代表する文芸である。戦国時代に端を発し、形を変えながら遅くは清に至るまで存続した。 漢詩が歌謡から生まれたのと考えられるのに対し、賦はもとより朗誦されたものと考えられている。文体の性格としては漢詩と散文の中間に位置する。賦は元来国ぼめの性質を持つとされ、都城の賛美に使われたほか、あらゆる場所・物・感情を網羅的に表現する手段として用いられた。漢代の賦は抒情的要素が少なく、事物を網羅的に描写する。時代が下ると抒情的な性格も強まっていき、また駢儷文や近体詩などの影響を受けるようになる。 賦についての研究・評論は清代において最盛期を迎える。しかし、過度に修辞的で現実的な感情に欠け、道義的主張が曖昧であるとして、20世紀の間は長らく、賦は中国の文人の批判するところとなった。このような歴史的経緯もあって、中国の賦文学研究は1949年から文化大革命の終わる1976年までほぼ消滅しかけていた。それ以降は、賦の研究は徐々に以前の水準を取り戻しつつある。 日本では『古今和歌集』においてかぞえうたと解釈され、和歌の理論の中に取り入れられているが、漢文体の賦やそれに類する日本語の文学作品の制作が試みられた時期もあった。また西洋においては賦に類似するものとして頌歌が挙げられる。.

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賈誼

賈 誼(か ぎ、紀元前200年 - 紀元前168年)中国・前漢時代の政治思想家・文章家。後漢の賈逵はその後裔にあたる。.

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楚 (春秋)

楚(そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。.

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漢詩

漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.

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朱熹

朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。と尊称される。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。 南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。.

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戦国時代 (中国)

中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。 どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。.

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