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弟村王

索引 弟村王

弟村王(おとむらおう、生没年不詳)は、平安時代初期の皇族。知太政官事・舎人親王の曾孫。従五位下・猪名王の子。官位は正五位下・筑後守。

目次

  1. 25 関係: 大同 (日本)天長官位布勢内親王平安時代弘仁従五位俘囚図書寮皇族知太政官事玄蕃寮講談社講談社学術文庫舎人親王薬子の変藤原藤成葬儀森田悌正五位正六位淳和天皇清原岑成日本三代実録日本後紀

大同 (日本)

は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。

見る 弟村王と大同 (日本)

天長

は、日本の元号の一つ。弘仁の後、承和の前。824年から834年までの期間を指す。この時代の天皇は淳和天皇、仁明天皇。

見る 弟村王と天長

官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。

見る 弟村王と官位

布勢内親王

布勢内親王(ふせないしんのう)は、桓武天皇第5皇女。母は中臣丸豊子(正六位上・中臣丸大魚の娘)。桓武天皇の治世下の伊勢斎宮。「布勢」は「布施」とも表記する。

見る 弟村王と布勢内親王

平安時代

平安時代(へいあんじだい、、延暦3年(784年)/延暦13年(794年) - 12世紀末)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都からの約400年間を指す。 通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念と古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。

見る 弟村王と平安時代

弘仁

は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。

見る 弟村王と弘仁

従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階および神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。

見る 弟村王と従五位

俘囚

俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。

見る 弟村王と俘囚

図書寮

図書寮(ずしょりょう)は、日本の律令制において中務省に属する機関の一つである。また、明治以後の宮内省にも同名の機関が設置された。

見る 弟村王と図書寮

皇族

皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく、Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。

見る 弟村王と皇族

知太政官事

知太政官事(ちだいじょうかんじ)は、飛鳥時代・奈良時代に存在した律令制の令外官のひとつ。太政官を統括するものとして、刑部親王(大宝3年)、穂積親王(慶雲2年)、舎人親王(養老4年)、鈴鹿王(天平9年)の4人の皇族が任命された。

見る 弟村王と知太政官事

玄蕃寮

玄蕃寮(げんばりょう)は、日本の律令制において治部省に属する機関である。和名は「ほうしまらひとのつかさ」、唐名は崇玄署、典客署、鴻臚寺。 「玄」は僧侶(ほうし)、「蕃」は外国人・賓客(まらひと)のこと。

見る 弟村王と玄蕃寮

講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、)は、東京都文京区音羽に本社を置く日本の大手総合出版社。系列企業グループ「音羽グループ」の中核企業。 「週刊少年マガジン」「モーニング」「週刊現代」「FRIDAY」「ViVi」「群像」など30を超える雑誌のほか、文芸書からコミック、実用書や学術書まで多様な書籍を発行している。 小学館・集英社(両社とも一ツ橋グループに所属)と並ぶ日本国内の出版業界最大手であり、一時は年間売上高が2000億円を超えていたこともあった。しかし、近年はいわゆる「出版不況」により売上が減少、2002年(平成14年)には戦後初の赤字決算となった。近年は紙の出版物への依存体質の改善に注力し、2015年(平成27年)以降は電子書籍などのデジタル関係、および国際や権利関係の収入が急増したことにより増収増益が続いている。

見る 弟村王と講談社

講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)6月に発足講談社サイトでは「学術文庫」と表記している担当者(出版部長)による回想記は下記池永陽一『学術の森の巨人たち 私の編集日記』(熊本日日新聞社、2015年)宇田川眞人『日本に碩学がいたころ』(三恵社、2013年)。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多いが、合本改版や改訂再刊、電子書籍化されることもある。

見る 弟村王と講談社学術文庫

舎人親王

舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇親・政治家。天武天皇の第六皇子で、淳仁天皇(淡路廃帝)の父。天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代前期に長屋王とともに皇親勢力の中心的存在として重用された。『日本書紀』編修事業の総裁を務めたことでも知られる。名は舎人皇子(とねりのみこ)とも記され、薨後に淳仁の父として崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)の諡号を贈られた。子孫の清原氏は高市皇子裔の高階氏とともに、天武系の後裔氏族として長く血脈が続いた。

見る 弟村王と舎人親王

薬子の変

薬子の変(くすこのへん)、または平城太上天皇の変(へいぜいだいじょうてんのうのへん)は、平安時代初期に起こった事件。810年(大同5年)に故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。 なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。また、「薬子の変」と呼ばれるのは、嵯峨天皇が平城上皇に配慮したためだという指摘もある。また、様々な解釈が可能であるこの事件を新元号の弘仁に由来する「弘仁元年の政変」もしくは「弘仁の変」と呼ぶ研究者もいる。

見る 弟村王と薬子の変

藤原藤成

藤原 藤成(ふじわら の ふじなり)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、左大臣・藤原魚名の五男。秀郷流藤原氏の祖。官位は従四位下・伊勢守。

見る 弟村王と藤原藤成

葬儀

葬儀(そうぎ、funeral)あるいは葬式(そうしき)とは、人の死を弔うために行われる祭儀・葬制の一部である。

見る 弟村王と葬儀

森田悌

森田 悌(もりた てい、1941年(昭和16年)4月12日 - )は、日本の歴史学者。日本古代史専攻。学位は、文学博士。金沢大学教授・群馬大学教授を経て、群馬大学名誉教授。商法学者の森田果の父。

見る 弟村王と森田悌

正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。

見る 弟村王と正五位

正六位

正六位(しょうろくい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従五位の下、従六位の上に位する。勲等では勲五等に、功級では功五級に相当。 律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。ただし、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した。神階においては、正六位が最下位となる。侍は朝廷の実務を担い貴族や諸大夫に仕える、位階六位どまりの侍品(さむらいほん)が元である。六位層は袍が縹色であることから、後には青侍と呼ばれた。

見る 弟村王と正六位

淳和天皇

淳和天皇(じゅんなてんのう、786年〈延暦5年〉- 840年6月11日〈承和7年5月8日〉)は、日本の第53代とされる天皇(在位:823年5月29日〈弘仁14年4月16日〉- 833年3月22日〈天長10年2月28日〉)。諱は大伴(おおとも)。西院帝ともいう。 桓武天皇の第七皇子。母は藤原百川の娘の旅子。平城天皇・嵯峨天皇の異母弟。

見る 弟村王と淳和天皇

清原岑成

清原 岑成(きよはら の みねなり)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。当初美能王次いで岑成王を称するが、臣籍降下して清原真人姓を賜与された。舎人親王の玄孫。筑後守・弟村王の子。官位は従四位上・参議、大宰大弐。

見る 弟村王と清原岑成

日本三代実録

『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平など。編年体の漢文で書かれた。全50巻。

見る 弟村王と日本三代実録

日本後紀

『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻(散逸しており、現存10巻)。

見る 弟村王と日本後紀