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寺田甚与茂

索引 寺田甚与茂

自泉会館の寺田甚与茂像 寺田 甚与茂(てらだ じんよも、嘉永6年(1853年)10月 - 昭和6年(1931年)11月23日)は、日本の実業家。弟は寺田元吉。 大阪出身。江戸時代から創業した岸和田市の酒造業・寺田家の長男。質屋店員から一代で巨富を築き、寺田財閥を形成。1881年に国立五十一銀行創立委員となり、頭取も務めた。以後、南海鉄道、岸和田紡績(後の大日本紡績、現・ユニチカ)などの各社長を歴任し、岸和田の近代化推進に貢献した。 甚与茂の死去後、長男の甚吉は南海鉄道、岸和田紡績などの社長を務めた。.

18 関係: 南海電気鉄道大阪府実業家寺田甚吉寺田財閥岸和田市岸和田市立自泉会館岸和田紡績ユニチカ嘉永江戸時代昭和日本10月 (旧暦)11月23日1853年1881年1931年

南海電気鉄道

南海電気鉄道株式会社(なんかいでんきてつどう、)は、大阪ミナミの難波と和歌山・関西国際空港・高野山などを結ぶ鉄道を経営する大手私鉄。総営業キロは154.0km。一般的には「南海」もしくは「南海電鉄」と略されるほか、「南海電車」の呼称がある。 本社は大阪市浪速区の今宮戎駅北西側に立地する南海なんば第1ビルに所在。鉄道との相乗効果が大きい観光・小売・不動産開発といった多角化事業においても、本社やターミナル駅があるミナミ地区に重点を置いている。 東証一部に上場している。高野山への路線を運営していることから全国登山鉄道‰会に加盟している。 純民間資本としては現存する日本最古の私鉄である。社名の「南海」は、堺 - 和歌山間の出願時に紀伊国が属する律令制の南海道に因んで名づけられたことに由来し、のちに淡路・四国航路との連絡も果たした。2015年に迎えた創業130周年を機に定めたブランドスローガンは「愛が、多すぎる。」 - 南海電気鉄道、2015年3月31日。かつてはプロ野球球団(南海ホークス、後の福岡ダイエーホークス、福岡ソフトバンクホークス)や、野球場(大阪スタヂアム〈大阪球場〉や中百舌鳥球場、いずれも後に解体)を経営していたが、1988年に撤退した。.

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大阪府

大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.

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実業家

実業家(じつぎょうか)は、実業すなわち生産・流通・販売などの過程における事業を行う人物。多くの場合、企業経営者・使用者もしくは企業の幹部と同義語である。 業を経済的な側面を考慮して人的、財政的、知的に資本と物理的資本の組み合わせを利用してキャッシュフロー、売上、収益を生み出す目的で開発と成長を促す側面があり、起業家は実業家・ビジネスマンの一例である。英語の「ビジネスパーソン」という用語は、創業者、所有者、大多数の株主を指す場合がある。また、経営幹部が所有者ではないにもかかわらず、ビジネスの日常的な運営や管理を担当する高級幹部を表すために使用することもできる。 この用語は企業、組織、または代理店の上位管理職に携わる人を意味する場合もある。 これは企業、会社、組織、または代理店の総管理を担当する創業者、所有者、マネージャ、エグゼクティブ、または管理者に特に当てはまる。 資本家との対比で用いられることがあるが、資本家であると同時に実業家である場合もある。市場経済における重要な担い手である。.

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寺田甚吉

寺田 甚吉(てらだ じんきち、1897年 - 1976年1月20日)は、日本の実業家・貴族院議員。寺田甚与茂の長男。妻は元女優の筑波雪子。正四位勲二等、研究会所属。.

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寺田財閥

寺田財閥(てらだざいばつ)は、明治、大正、昭和期に活躍した阪神財閥の1つ。寺田家が泉州(大阪府)岸和田の資産家で、文化年間より酒造業に転じ、銘柄玉の井をもって知られていた。 酒造を開始してから三代目当主甚兵衛は、妻徳との間に甚与茂、元吉の2人の男子をもうけたが、安政2年(1855年)に死んだ。徳は、甚右衛門を入夫として迎え、その間に5男1女をなした。しかし、甚右衛門も明治元年に死に、甚与茂は16歳で家督を相続した。 元吉は、明治7年に分家し、酒造業(銘柄元朝)を営んだ。甚与茂、元吉の異父弟もそれぞれ分家したり養子に行ったが、利吉は酒造業に携わらず、甚与茂も後に酒造業を廃業。しかし、元吉をはじめ、徳三郎、久吉、広吉、定蔵(下市家に養子)各家も、酒造業を営んだ。久吉の系統は祝盃の銘柄で醸造業を営んだが、現在は廃業している。 甚与茂の系統は南寺田家、元吉系は北寺田家、利吉系は堺寺田家と称された。この三家が起こした3つの家業グループが、寺田財閥を構成していた。 甚与茂と元吉は、明治10年ごろから岸和田地方の各種企業の設立にさいし、共同出資者として積極的に参加した。明治11年の第五十一国立銀行(岸和田)、20年の第一煉瓦製造(のちの岸和田煉瓦綿業)、25年の岸和田紡績、30年の和泉貯金銀行(のちの和泉銀行)などである。当初これらの企業における寺田家の出資比率はあまり高くなかったが、甚与茂と元吉は、これらの企業の役員に就任した。その後、甚与茂、元吉、彼らの異父弟各家は、これらの企業における出資比率をいちじるしく向上させた。 南寺田家、北寺田家両グループは相互に株式を持ち合い、役員の派遣も行っていたが、堺寺田家には前二者グループに対する出資はともかく、出資参加や役員派遣には応じなかった。しかし3つのグループのうち、圧倒的な力を誇っていたのは、南寺田家であった。同じ時期に設立された寺田合名(1000万円)と佐野紡績(375万円)、ほぼ同じ時期に増資を行った寺田紡績工廠(100万円)という三グループの家業会社の資本力が端的にそれを物語る。 寺田財閥の事業会社のトップマネジメントには、専門経営者が存在したが、大部分が工員、給士等から叩き上げられた人物であった。例外は、昭和14年から岸和田紡の常務、15年から同専務であった藤岡長和と合併直前の半年間取締役だった左納源一郎程度である。藤岡は、役員就任まで熊本県理事だった高級官僚の天下りで、日紡側から合併交渉に備えて送り込まれた人物である。左納は東京高工卒の技術者だがわずか半年間の任期である。ただ、専門経営者はあくまでも、事業会社のトップマネジメントにおけるそれであって、寺田合名、佐野紡績等の本社の役員と意思決定の権限は、戦時統制経済に移行するまで、寺田各家のメンバーが集中的に保持した。.

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岸和田市

岸和田市(きしわだし)は、大阪府泉南地域に位置する市。施行時特例市に指定されている。 岸和田藩の城下町を中心に発展してきた。泉南地域の中心都市でもあり、大阪府の出先機関や企業の支店などが集中している。岸和田だんじり祭で有名。行政の特徴として、永住外国人と国内在住期間が3年を越え満18歳以上で3ヵ月以上市内に住む「定住外国人」に住民投票の投票権(参政権ではない)を認めている。市のキャッチフレーズは「世界にいちばん近い城下町」。.

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岸和田市立自泉会館

ントランスホール 岸和田市立自泉会館(きしわだしりつじせんかいかん)は大阪府岸和田市岸城町にある多目的文化施設。岸和田城や岸和田市役所の至近にある。1997年に国の登録有形文化財に登録された。.

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岸和田紡績

岸和田紡績株式会社(きしわだぼうせき)は、かつて存在した日本の紡績会社である、岸和田市立図書館、2014年1月29日閲覧。岸紡, p.99-102.

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ユニチカ

ユニチカ株式会社(英称:Unitika Ltd.)は、本店を兵庫県尼崎市に、本社を大阪市中央区と東京都中央区に置く、日本の繊維メーカーである。近年は繊維事業だけでなく高分子事業・機能材事業などにも進出している。三菱東京UFJ銀行系みどり会メンバー。 コーポレート・スローガンは「We Realize It!」。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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10月 (旧暦)

旧暦10月(きゅうれきじゅうがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から10番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、小雪を含む月を10月とする。新暦では10月下旬から12月上旬ごろに当たる。 10月の別名は神無月(かんなづき、かみなしづき)、島根県出雲地方においては神在月(または神有月、かみありづき)である。名前の由来は10月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、10月29日までで10月30日は存在しない年もある。.

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11月23日

11月23日(じゅういちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から327日目(閏年では328日目)にあたり、年末まであと38日ある。.

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1853年

記載なし。

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1881年

記載なし。

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1931年

記載なし。

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