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堀部ほり

索引 堀部ほり

堀部 ほり(ほりべ ほり、延宝3年(1675年) ‐ 享保5年5月25日(1720年6月30日))は、江戸時代前期の女性。赤穂浪士の1人堀部武庸の妻。名を幸(こう)、順(じゅん)と記す書もあるが、これは誤りである。.

30 関係: 吉良義央堀部言真堀部金丸堀部武庸妙海尼丹羽長次丹羽氏享保二本松藩延宝切腹元禄細川綱利熊本藩高田馬場の決闘赤穂事件の人物一覧赤穂藩肥後国江戸時代浪人浅野長矩改易1675年1694年1701年1702年1703年1720年5月25日 (旧暦)6月30日

吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

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堀部言真

堀部 言真(ほりべ ことざね、貞享4年(1687年) - 宝暦11年7月10日(1761年8月10日))は、江戸時代前期から中期にかけての武士。通称は文五郎、九十郎、忠兵衛、弥七。 忠見政常(本多長員の家臣)の次男。忠見氏は赤穂藩家臣・堀部金丸の後妻であり、言真は金丸の甥にあたる。元禄5年(1692年)に堀部金丸の長男堀部弥一兵衛が男色のことで縁戚の本多喜平次に討たれたため、かわりに堀部金丸の養子に入る事になったが、赤穂藩主・浅野長矩が許可を出さなかったので赤穂藩から支給されている家督を継がせる養子にすることはできなかった。 元禄7年(1694年)に中山安兵衛(堀部武庸)が長矩の許可を経て堀部家の養子になったのちも堀部家に置かれていたが、吉良邸討ち入り直前、金丸は連座を避けるために言実を忠見姓に戻して忠見家へ送り返している。しかし言実本人はその後も堀部九十郎を名乗り、討ち入り当日も吉良邸前まで養父にお供したという。 義父と義兄が本懐を遂げて切腹した後、堀部忠兵衛言真として金丸の堀部家を3世として相続した。さらに元禄16年(1703年)には赤穂浪士に深く感銘していた肥後国熊本藩主細川綱利に召抱えられることとなり、義兄・武庸の後家堀部ほりとともに一緒に熊本へ移った。 妻は尾花三郎左衛門の娘。長男堀部金通を儲けたが、延享元年(1744年)に死去したため、堀部家の親族である堀部清矩の子堀部言芳を養子に迎えた。以後、子孫は熊本藩士となる。 宝暦11年(1761年)に江戸で死去。享年75。江戸愛宕下の青松寺に葬られた。芳名退軒院萬休無外居士。 なお、言真の父忠見政常が仕えた本多長員は、土屋逵直とともに本所吉良邸の隣人であり、忠見家も本多邸の中にあった。そのため吉良邸絵図面を手に入れたのは堀部一家とする説がある。.

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堀部金丸

堀部 金丸(ほりべ かなまる(あきざね)、寛永4年(1627年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥兵衛(やへえ/やひょうえ)。堀部勝綱の子。本姓は源氏(近江源氏)。家紋は四ツ目結二ツ。.

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堀部武庸

堀部弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作 堀部 武庸(ほりべ たけつね、寛文10年(1670年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。四十七士随一の剣客であり、高田馬場の決闘で名を馳せた。吉良邸討ち入りでは江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格となった。通称の安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)で知られる。.

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妙海尼

妙海尼 (みょうかいに、貞享3年(1686年) - 安永3年2月25日(1774年4月5日))は、江戸時代前期の女性。赤穂浪士の一人堀部武庸(安兵衛)の妻を自称した。 元文の頃、妙海尼と名乗る老婆の尼が「自分は赤穂義士の一人堀部安兵衛の妻である」と称して泉岳寺の近くの庵に住み、堀部武庸の墓を参拝していた。当時の人々は彼女を本物の武庸の妻と思い込み、妙海尼の庵にお布施をする人が多く出て、大金をせしめている。また興味を持って妙海尼の庵を訪れた丹波国篠山藩士の佐治為綱は、彼女の話を口述筆記して『妙海語』を執筆している。しかし、実際の武庸の妻・堀部ほりは、享保5年(1720年)に肥後国熊本で死去しており、堀部家の内部事情に詳しかったことから堀部家の女中ではないかともいわれている。 妙海尼は91歳で死去するまで武庸の墓守りに従事し、死後は泉岳寺に葬られた。 なお、妙海尼を題材にした小説も執筆されており、井上ひさしの『不忠臣蔵』や柴田錬三郎の『裏返し忠臣蔵』がある。 Category:江戸時代の女性 Category:赤穂事件関係人物 Category:身元詐称者 Category:1686年生 Category:1774年没.

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丹羽長次

丹羽 長次(にわ ながつぐ、寛永20年9月15日(1643年10月27日) - 元禄11年6月26日(1698年8月2日))は、陸奥二本松藩の第2代藩主。丹羽家第3代。先代藩主・丹羽光重の長男。母は安藤重長の娘。通称は鍋丸、大膳。官位は従四位下、左京大夫。正室は蜂須賀光隆の娘・幸姫。 承応2年(1653年)3月15日、将軍徳川家綱にお目見えする。万治元年(1658年)閏12月27日、従五位下若狭守に叙任する。延宝3年(1675年)12月26日、従四位下に昇進する。延宝7年(1679年)4月7日、父光重の隠居により、家督を継ぐ。元禄5年(1692年)12月18日、侍従に任官する。元禄11年に死去したが、実子に恵まれなかったため、跡を弟の長之が継いだ。 『土芥寇讎記』には、「父親(光重)は美童を甚だしく愛して問題が多かったが、息子(長次)にはその気配はない」「父は儒学の素養があったが息子にはない」と書かれており、「善に非ず悪に非ず」の普通の人、とされている。 なかつく なかつく Category:1643年生 Category:1698年没.

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丹羽氏

丹羽氏(にわし)は、日本の氏族。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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二本松藩

二本松藩(にほんまつはん)は、陸奥国南部(岩代国)安達郡(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に存在した藩。居城は二本松城(霞ヶ城)。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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切腹

切腹(せっぷく)は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。主に武士などが行った日本独特の習俗。 外国でも日本の風習としてよく知られ、hara-kiriやseppukuとして辞書に載っている。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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細川綱利

細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、第3代肥後熊本藩主。熊本藩細川家4代。第2代藩主細川光尚(光利)の長男。 吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、赤穂事件後に大石良雄らのお預かりを担当したことで知られる。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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高田馬場の決闘

場の決闘(たかたのばばのけっとう)は、元禄7年2月11日(グレゴリオ暦1694年3月6日)に江戸郊外戸塚村の高田馬場(現 新宿区西早稲田)で起きた、伊予国西条藩松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らによる決闘である。中山安兵衛こと堀部武庸が菅野に助太刀して名を挙げた。 講談・逸話・芝居が多いので諸説が入り乱れているが、ここでは作家で義士研究家の佐々木杜太郎が調査し発見された『細川侯爵家文庫』に所蔵されている「二月二十一日高田馬場喧嘩之事」(闘死した菅野に代わって中山安兵衛が西条松平家組頭丹羽弥二郎に提出した始末報告書)を、最も史実に近い文書としてその内容を記述する。.

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赤穂事件の人物一覧

赤穂事件の人物一覧(あこうじけんのじんぶついちらん)では、赤穂浪士(あこうろうし)をはじめとした、赤穂事件に関連する人物に関して記載する。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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浪人

浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士や侍のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。.

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浅野長矩

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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1675年

記載なし。

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1694年

記載なし。

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1701年

18世紀最初の年である。.

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1702年

記載なし。

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1703年

記載なし。

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1720年

記載なし。

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5月25日 (旧暦)

旧暦5月25日は旧暦5月の25日目である。六曜は大安である。.

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6月30日

6月30日(ろくがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から181日目(閏年では182日目)にあたり、年末まであと184日ある。6月の最終日である。誕生花はビヨウヤナギ、ヘリオトロープ。.

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