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右近 (歌人)

索引 右近 (歌人)

右近(うこん、生没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。 醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順(みなもとのしたごう)などと恋愛関係があった。960年(天徳4年)と962年(応和2年)の内裏歌合・966年(康保3年)の内裏前栽合(だいりぜんざいあわせ)などの歌合に出詠、村上天皇期の歌壇で活躍した。 『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に入集している。.

21 関係: 天徳 (日本)女房三十六歌仙平安時代康保後撰和歌集応和元良親王百人一首藤原師輔藤原穏子藤原朝忠藤原敦忠醍醐天皇村上天皇歌人源順新勅撰和歌集拾遺和歌集960年962年966年

天徳 (日本)

天徳(てんとく)は、日本の元号の一つ。天暦の後、応和の前。957年から961年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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女房三十六歌仙

女房三十六歌仙(にょうぼうさんじゅうろっかせん)は、鎌倉中期に成立した『女房三十六人歌合』に歌を採られた女性歌人三十六人を指す。当該歌合は、藤原公任の「三十六人撰」に模倣して作られ、左方に小野小町から相模までの中古歌人を、右方に式子内親王から藻璧門院少将までの中世初頭の歌人を配し、一人三首ずつ番わせた紙上の歌合である。 「女房三十六人歌合」のうち「伊勢」「宮内卿」 寛文年間 清原雪信筆 MIHO MUSEUM蔵.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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康保

康保(こうほう)は、日本の元号の一つ。応和の後、安和の前。964年から968年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇、冷泉天皇。.

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後撰和歌集

後撰和歌集 巻十二 『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)は、村上天皇の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。体裁は『古今和歌集』に倣い、春(上・中・下)、夏、秋(上・中・下)、冬、恋(六巻)、雑(四巻)、離別(附 羇旅)、賀歌(附 哀傷)の二十巻からなり、総歌数は1425首。離別歌と羇旅歌とを、賀歌と哀傷歌とを併せて収めた所が独特である。.

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応和

応和(おうわ)は、日本の元号の一つ。天徳の後、康保の前。961年から964年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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元良親王

元良親王(もとよししんのう、890年(寛平2年) - 943年9月3日(天慶6年7月26日))は、平安時代中期の皇族、歌人。三品兵部卿にまで昇った。 陽成天皇の第1皇子で、父帝の譲位後に生まれた。母は藤原遠長の娘。同母弟に元平親王。異母兄は源清蔭。妻室には、神祇伯藤原邦隆女・修子内親王(醍醐天皇皇女)・誨子内親王(宇多天皇皇女)らがいる。子に佐材王・佐時王・佐頼王・佐兼王・源佐芸・源佐平・源佐親らがいた。 延喜3年(903年)及び延喜7年に、当年巡給により年給を賜る。延長7年(929年)10月、彼の四十の算賀に際して妻の修子内親王は紀貫之に屏風歌を作らせた。承平6年(936年)3月、右大臣藤原仲平らともに醍醐寺に塔の心柱を施入した。天慶6年7月26日に薨去。 色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残るが、とくに宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られる。 後撰和歌集に20首入集した他、『元良親王集』という歌集も後世になって作られている。 Category:日本の親王 Category:平安時代の男性皇族 Category:平安時代の歌人 Category:小倉百人一首の歌人 Category:890年生 Category:943年没.

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百人一首

人一首のかるた読み札(天智天皇) 百人一首(ひゃくにんいっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。 中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら-ひゃくにんいっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。本記事では主に、この小倉百人一首について解説する。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原穏子

藤原穏子(ふじわら の おんし・やすこ、仁和元年(885年) - 天暦8年1月4日(954年2月9日))は、関白藤原基経女。母は人康親王女。第60代醍醐天皇中宮、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇生母。別名五条后。.

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藤原朝忠

藤原 朝忠(ふじわら の あさただ、延喜10年(910年) - 康保3年12月2日(967年1月15日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、三条右大臣・藤原定方の五男。三十六歌仙の一人。官位は従三位・中納言。土御門中納言または堤中納言と号する。小倉百人一首では中納言朝忠。.

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藤原敦忠

藤原 敦忠(ふじわら の あつただ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、左大臣・藤原時平の三男。官位は従三位・権中納言。三十六歌仙の一人。通称は枇杷中納言・本院中納言。小倉百人一首では権中納言敦忠。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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歌人

歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.

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源順

源 順(みなもと の したごう、延喜11年(911年) - 永観元年(983年))は、平安時代中期の学者・歌人・貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙(みなもと の こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。.

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新勅撰和歌集

『新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)は十三代集の最初、通算で第九勅撰和歌集。別名、宇治川集など。 貞永元年(1232年)6月13日、後堀河天皇の下命を受けた藤原定家が単独で撰し、上皇の死後も九条道家・教実父子の後援で編纂事業が引き継がれ、四条天皇代の文暦2年(1235年)3月12日、完成し奏上。仮名序も定家筆。20巻、伝本によって歌数が違うが、1370首強ある。部立は四季(春秋二巻、他一巻)・賀・羇旅・神祇・釈教・恋・雑(恋・雑共に五巻)の順に並び、従来の二十巻の勅撰集において独立した巻を持った哀傷・離別の項目が無く、それぞれ雑歌・羇旅に吸収されている。 最多入集歌人は藤原家隆(43首)で、九条良経(36首)、藤原俊成(35首)、西園寺公経(30首)、慈円(27首)、源実朝・九条道家(共に25首)、飛鳥井雅経(20首)がそれに次ぎ、定家が庇護を受けた九条家・西園寺家の貴顕(公経は定家の義弟にして、関白九条道家の岳父である)の入集が目立つ。ほかに北条泰時ら武家歌人の歌もある。承久の乱以後、流刑地にあった大歌人後鳥羽院と順徳院の歌を除外したのは、他ならぬ幕府への配慮であるが、藤原家隆・源実朝を高く評価する傍ら、自身の歌の入集を最小限に抑えた定家の態度は興味深い。 新勅撰集は華やかな新古今調から一転して平明枯淡な趣向に走り、定家晩年の好みを伺わせる。その保守的な歌風は二条派に「実」として尊重され、中世和歌の手本となった。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:藤原定家 Category:13世紀の書籍 Category:13世紀の詩.

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拾遺和歌集

『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)は、古今・後撰に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」の最後にあたる。一条天皇の代、寛弘三年(1006)頃の成立か?古来、花山院の親撰もしくは院が藤原長能・源道済に撰進させたといわれてきたが、確証はない。先行する二つの勅撰集と違い、和歌所が置かれなかった。藤原公任の撰という『拾遺抄』との命名の相似性を考え、それをベースに編まれたと思われる(両者の先後関係については、古来論争が続いて来たが、近代になって拾遺抄から拾遺集へとの説が固着した)。 春、夏、秋、冬、賀、別、物名、雑(上・下)、神楽歌、恋(五巻)、雑春、雑秋、雑賀、雑恋、哀傷の二十巻、約1350首からなる。雑春・雑恋といった部類を持つ構成はかなり独創的なものである。 「拾遺」の名は前代の勅撰集に漏れた秀歌を拾い集める意で、その名の通り、この集では紀貫之(107首)をはじめとする古今歌人が引き続き多数入集する一方、柿本人麿(104首)ら万葉歌人が再評価され、大中臣能宣(59首)・清原元輔(48首)・平兼盛(39首)ら後撰集時代の歌人の作が新たに補われた。また、斎宮女御・藤原道綱母・藤原公任などの当代歌人も登場する。物名部において、卑官の藤原輔相が37首も採られているのも興味深い。 『拾遺集』は当時の歌壇の流れに乗った平明優美な歌風で、賀歌・屏風歌・歌合など晴れの歌が多いが、殊に恋歌はすぐれ、小倉百人一首に8首も採られている。だが、花山院の個人的な好みによって選ばれた和歌が多いようであり、そのためか成立後約二百年もの間、勅撰集としての評価が得られなかった。ちなみに『拾遺集』のよさを述べ、勅撰集として初めてはっきり認めた人物は藤原定家である。 Category:平安時代の歌集 Category:11世紀の書籍 Category:11世紀の詩.

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960年

記載なし。

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962年

記載なし。

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966年

記載なし。

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