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兒玉久子

索引 兒玉久子

兒玉 久子(こだま ひさこ、天保13年(1842年) - 昭和12年(1937年))は、幕末から昭和にかけての人物。父は長州藩の支藩徳山藩の中級武士(100石)児玉半九郎。弟は明治時代の軍人・児玉源太郎、夫は徳山七士の一人・兒玉次郎彦。 元治元年(1864年)に夫が凶刃に倒れた後(児玉家は一時断絶、後に再興)、子弟の教育と仏道に帰依して報謝の生活を送る。昭和3年(1928年)、八十六節婦として緑綬褒章を受章。これを記念して「兒玉久子褒章記念碑」が周南市の児玉神社内に建てられた。昭和12年(1937年)に死去。享年95。 墓所は、興元寺の墓地である通称・隠居山墓地の一角の児玉家墓所にある。 Category:幕末の女性 Category:幕末徳山藩の人物 Category:緑綬褒章受章者 ひさこ Category:1842年生 Category:1937年没.

18 関係: 天保幕末徳山七士徳山藩周南市児玉神社 (周南市)児玉源太郎元治兒玉次郎彦褒章長州藩明治昭和支藩1842年1864年1928年1937年

天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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徳山七士

徳山七士(とくやましちし)は、幕末の徳山藩で尊王攘夷派として活躍した兒玉次郎彦、江村彦之進、河田佳蔵、井上唯一、本城清、浅見安之丞、信田作太夫の七人の勇士を指す。 元治元年(1864年)の禁門の変後、徳山藩の政権を保守派が握ったことに伴い、児玉次郎彦と江村彦之進は元治元年8月12日に暗殺、河田佳蔵と井上唯一は捕縛された後の10月24日に処刑され、本城清、浅見安之丞、信田作太夫の三人も同じく捕縛された後、元治2年(1865年)1月14日に処刑された。 その後、萩藩の家老・宍戸親基と前原一誠が徳山藩主・毛利元蕃に強硬に詰め寄り、山崎隊(徳山藩)の軍事力を背景に政権の交代を実現したため、藩論が回復され、後に毛利元蕃は、徳山七士の家を復興し、その遺族を優遇した。明治21年(1888年)には毛利元蕃のたっての願いで、徳山七士全員は明治天皇の命によって例外的に靖国神社に合祀され、明治31年(1898年)には徳山七士の7名全員に従四位が贈られた。周南市の児玉神社には七士の顕彰碑(初めは遠石地区に建てられた)と贈従四位の碑が建っている。.

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徳山藩

徳山藩(とくやまはん)は、江戸時代の藩。長州藩(萩藩)の支藩。当初の名称は下松藩(くだまつはん)。 藩庁は最初は周防国下松(現在の山口県下松市)、後に同国徳山(改称前は野上村。現在の山口県周南市)。藩庁の置かれた徳山陣屋(徳山城)は、飯野陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。.

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周南市

周南市(しゅうなんし)は、山口県の東南部に位置する市。.

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児玉神社 (周南市)

児玉神社(こだまじんじゃ)は、山口県周南市にある神社である。.

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児玉源太郎

児玉兒玉の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体である。学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉源太郎」、御署名原本における大臣副書の本人署名は「児玉源太郎」である。 源太郎(こだま げんたろう、嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) - 明治39年(1906年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した。.

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元治

元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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兒玉次郎彦

兒玉 次郎彦(こだま じろうひこ、天保13年6月14日(1842年7月21日) - 元治元年8月12日(1864年9月12日))は、幕末の徳山藩士。徳山七士の一人。名は忠炳、号は青山また品山。徳山藩士・浅見栄三郎(正欽)の次男で、児玉家に養われる。兄は同じく徳山七士である浅見安之丞。妻は明治時代の軍人・児玉源太郎の姉である兒玉久子。なお、現在では通常児玉 次郎彦の表記の方が多い。(「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。 体躯強大で剣技・銃術に秀で、和漢の歴史に通じた。安政3年(1856年)、妻・久子、義弟・源太郎の父である児玉半九郎が死去すると、その家督を継いだ。万延元年(1860年)同じく徳山藩出身の飯田忠彦が幕府に罪を問われて、江戸に憂囚され、その著作である『大日本野史』及び『諸家系譜』などを伏見奉行・林忠交に取り上げられた時に、有栖川宮熾仁親王の命を奉じ、林邸に往来し、弁論数回にしてこれを取り返した。萩藩の久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らと親交があった。 文久2年(1862年)、河田佳蔵らと同じく京都に入って周旋方となり、翌文久3年(1863年)帰国して目付役に任じられ、京都留守居役を兼ねた。同年6月に姉小路公知が暗殺され(朔平門外の変)、京都が騒然となると藩主の命で直ちに上京したが、8月に帰藩し、12月に藩校鳴鳳館の助訓役兼寮長となり、尊攘の大義を説いて後進の子弟を教育した。 元治元年(1864年)7月14日、大坂で禁門の変の報を聞き、切歯して帰国したが、8月9日に河田佳蔵らが保守派の富山源次郎の暗殺に失敗すると、次郎彦もまたその一味と目され、8月12日の早朝に保守派によって自宅で暗殺された。享年23。 次郎彦の死によって児玉家は家名断絶となったが、藩論回復後、徳山藩主・毛利元蕃は、徳山七士の家を復興し、その遺族を優遇した。児玉家は再興され、25石で新たに召し抱えられる。明治31年(1898年)に、徳山七士の7名全員に従四位が贈られた。また、元藩主のたっての願いで徳山七士全員は明治天皇の命によって例外的に靖国神社に合祀された。周南市の児玉神社には七士の顕彰碑(初めは遠石地区に建てられた)と贈従四位の碑が建っている。 墓所は、興元寺の墓地である通称・隠居山墓地の一角の児玉家墓所にある。戒名は「一休院義岳了忠居士」。 Category:幕末徳山藩の人物 しろうひこ Category:暗殺された人物 Category:1842年生 Category:1864年没.

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褒章

褒章(ほうしょう)とは、社会や公共の福祉、文化などに貢献した者を顕彰する日本の栄典の一つ。対象となる事績により、紅綬褒章、緑綬褒章、黄綬褒章、紫綬褒章、藍綬褒章、紺綬褒章の6種類がある。 英訳名は、褒章全体が“Medals of Honour”であり、各章はそれぞれ、“Medal with Red Ribbon”、“Medal with Green Ribbon”、“Medal with Yellow Ribbon”、“Medal with Purple Ribbon”、“Medal with Blue Ribbon”、“Medal with Dark Blue Ribbon”である。 日本政府による英訳では、勲章は“order”であり、褒章は記章(記念章および従軍記章)と同様に“medal”とされている。欧米で日本の勲章、褒章および記章に相当するものには、英語で“order”、“decoration”、“Cross”、“medal”と名付けられたものがある。しかし、日本と欧米ではこれら“勲章等”(勲章等着用規程(昭和39年4月28日総理府告示第16号)第1条)の分け方が異なっており、日本には無い“Cross”の扱いは区々であり、“medal”と称されるものの一部は記章ではなく勲章とされることもある。一方、日本の法令上は、他国の褒章に相当するものは記章として扱われる(勲章等着用規程(昭和39年4月28日総理府告示第16号)第11条第1項4号)。.

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長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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支藩

支藩(しはん)は、江戸時代の藩主家の一族が、弟や庶子など、家督相続の権利の無い者に所領を分与する(分知)などして新たに成立させた藩のことである。このほか有力家臣の所領も支藩という場合がある。 幕府からの朱印状が本家とは別に発給されている場合は、本藩-支藩関係にはないという考え方もある。.

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1842年

記載なし。

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1864年

記載なし。

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1928年

記載なし。

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1937年

記載なし。

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