56 関係: 十和田湖、坂上好蔭、坂上田村麻呂、小野春風、小野春泉、上野国、不動倉、不動穀、常陸国、下野国、平安時代、五城目町、仙北郡、俘囚、北秋田市、和名類聚抄、アテルイ、備中国、備前国、出羽国、八郎潟町、元慶、国司、秋田城、秋田城介、鎮守府将軍、菅野雪虫、蝦夷、飢饉、高橋克彦、貞観地震、賑給、郡司、胡桃館遺跡、藤原保則、藤原統行、藤原興世、藤原梶長、野添憲治、雄物川、陸奥国、押領使、武蔵国、木簡、最上郡、文室有房、日本の合戦一覧、日本史の出来事一覧、日本三代実録、旱魃、...、払田柵跡、1967年、2005年、878年、879年、915年。 インデックスを展開 (6 もっと) »
十和田湖
十和田湖(とわだこ)は、青森県十和田市と秋田県鹿角郡小坂町にまたがる湖。日本の湖沼としては、最大水深は326.8mで第3位、面積では12番目。東岸には、十和田湖の水が唯一流れ出る奥入瀬川があり、北東に約14kmにわたり奥入瀬渓流が延びる。約20km北には八甲田山が位置する。 観光地となっており、冬季を除き遊覧船が就航している。このため内水ながら、国の地方港湾に指定されている港が2つある。奥入瀬渓流入り口の子ノ口(ねのくち)港と、十和田湖南岸の中山半島西側付け根にある休屋(やすみや)港である。 十和田湖は「十和田湖および奥入瀬渓流」として、文化財の特別名勝及び天然記念物に指定されている。1936年には周辺の奥入瀬渓流、八甲田火山群とともに十和田八幡平国立公園に指定されている。.
坂上好蔭
坂上 好蔭(さかのうえ の よしかげ、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。陸奥守・坂上当道の子。官位は従四位上・右馬頭。.
坂上田村麻呂
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。 坂上宝剣では坂家。.
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小野春風
小野春風 /『前賢故実』より 小野 春風(おの の はるかぜ、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族・歌人。従五位上・小野石雄の子。子に小野清如がいる。官位は正五位下・右近衛少将。.
小野春泉
小野 春泉(おの の はるいずみ/はるずみ、生没年不詳)は、平安時代前期の官人。従五位上・小野石雄の子。官位は正六位上・出羽権掾。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
不動倉
不動倉(ふどうそう)とは、律令制において稲穀を収納した正倉が満載となった後に、国司・郡司による検封作業を経て封印された倉庫のこと。その中身の満載となった稲穀のことは、不動穀(ふどうこく)と呼ぶ。 和銅元年閏8月10日の太政官符で、稲穀の貯蔵と不動倉設置が奨励されて以来、毎年備蓄が行われて、約30年近く後天平年間田租収入の30年分余りの(田地からの年間収穫量とほぼ同一)の貯蔵が存在していたことが現存する各令制国の正税帳から推測できる。通常国衙・郡衙に納められた租は動用倉(どうようそう・動倉とも)に収容されて、動用穀(どうようこく)として通常あるいは非常時の出納が行われていたが、満載状態となって一定の時期を経ると、各令制国がそれぞれの判断で動用倉を封印して不動倉とした。不動倉の鑰は都の太政官に進上されて、太政官で厳重に保管された。開封が必要な場合には不動倉開検申請解と呼ばれる解を太政官に提出して許可を求め、不動開用符または不動充符と呼ばれる太政官符の交付とともに鑰の返送を得て初めて開封が行われた。 ところが、倉庫令では倉庫内の穀は一定期間ごとに中身を入れ替えて腐敗を防止する規定があるにも関わらず、不動倉の中身をむやみに動かすことが禁じられていたために、封印後はそのまま放置されて中に入っていた不動穀を腐敗してしまう事態が相次いだため、天平12年8月14日(740年)には、一定年限ごとに中身を入れ替えるために太政官符と鑰の交付を受けることが命じられた。更に国司の引継ぎの際にも不動倉の引継ぎを巡るトラブルが続いたことから、天平宝字7年3月24日の乾政官符によって、国司交替の際には必ず開封の手続を行って中身を確認するとともに中身の入れ替えを行わせた。 だが、律令制の崩壊とともに不動穀の転用・流出が相次ぎ、9世紀終わり頃には有名無実化することになる。それでも不動穀引継のための儀式は実態がないまま、国司の制度が存在していた南北朝時代頃まで継続していたと考えられている。.
不動穀
不動穀(ふどうこく)とは、律令制において令制国に置かれた不動倉に保管された稲穀のこと。なお、粟で代用された不動粟穀(ふどうあわこく)や酒の形で保管された不動酒(ふどうしゅ)も不動穀の一種である。 和銅元年閏8月10日の太政官符で、正税である稲穀の貯蔵と不動倉設置が奨励され、国衙・郡衙に設置された正倉に貯蔵され、それが満載となると、国司・郡司による検封作業を経て封印されて不動倉とされると、その中に入った稲穀は不動穀とされた。不動倉の鑰は都の太政官に進上されて、太政官で厳重に保管された。飢饉の際の賑給などの非常時に限って、令制国が不動倉開検申請解と呼ばれる解を太政官に提出して許可を求め、不動開用符または不動充符と呼ばれる太政官符の交付とともに鑰の返送を得ることで例外的に開封が認められた。こうした厳重な管理体制が約30年近く後天平年間田租収入の30年分余りの(田地からの年間収穫量とほぼ同一)の貯蔵が存在していたことが現存する各令制国の正税帳から推測できる。 ところが、倉庫令では倉庫内の穀は一定期間(最長で9年)ごとに中身を入れ替えて腐敗を防止する規定があるにも関わらず、不動倉の封印が厳重であったために、封印後は放置された状況となり、各地の不動倉で不動穀が腐敗するという事件が相次いだ。このため、天平12年8月14日(740年)には、一定年限ごとに中身を入れ替えるために太政官符と鑰の交付を受けることが命じられた。この判断自体は正しいものであったが、結果的にこれが不動穀管理の原則を崩す結果となる。 その直後に行われた恭仁京などの遷都計画、東大寺の大仏の造営などで国家財政が悪化すると、地方財源である正税が中央に送られて消費され、これを補うために不動穀の取り崩しが行われた。一方、中央の朝廷(律令政府)もこれを抑止するどころか、8世紀末期の平安京造営と蝦夷討伐の費用の捻出のために不動穀の一部を中央に上供させたり、不動穀の財源である田租の中から国税にあたる年料租舂米・年料別納租穀を抽出したため、結果的に貯蔵に回す稲穀の量は減少することになった。 このため、正税及び不動穀のバランスが崩壊して、不動穀は慢性的な流出を続けるようになる。更にこの仕組みを支えてきた租庸調などの律令制税制・財政も崩壊していったために、不動穀・不動倉の前提である正税・正倉も有名無実化した。9世紀末に宇多天皇が譲位に際して書き記した『寛平御遺誡』にも不動穀が廃絶寸前であることが述べられている。その後も年料別納租穀の一部停止と不動穀への転用などの再建策が出されたが効果は無く、康保元年(964年)には令制国に対して不動穀の財源を田租に代わる税より賄うとする新委不動穀制(しんいふどうこくせい)が導入されるが、その実施と管理を令制国側に一任したために、現地ではほとんど実施されずに終わったとみられる。11世紀中期の一国平均役によって、朝廷・国衙の事業に必要な経費分だけが徴税される税制に変更されていくと、貯蔵すべき税収の余剰が出る余地も失われたために、不動穀は制度的な根拠を失って事実上消滅してしまったとされている。 なお、一説によれば、律令制における田租の原点は、神事の遂行のために在地首長(豪族)へ献上されていた初穂であったとされ、在地首長から政治的・宗教的権限を剥奪した朝廷(律令政府)がその初穂を自己に納めさせたものであるという。不動穀化はそれを囲い込むことによって在地首長と田租を切り離す目的があったとも言われている。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
五城目町
五城目町(ごじょうめまち)は秋田県南秋田郡にある秋田県中央部に位置する町。.
仙北郡
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俘囚
俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。.
北秋田市
北秋田市(きたあきたし)は、秋田県の北部に位置する市である。秋田県内では由利本荘市に次いで2番目に面積が広い。.
和名類聚抄
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.
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アテルイ
アテルイ(? - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代では「アテルイ」と呼ばれる。 陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へと侵出した紀古佐美率いる朝廷軍を巣伏の戦いで撃退したが、続く大伴弟麻呂率いる朝廷軍、坂上田村麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。 坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。 本項ではアテルイと共に処刑されたモレ(母礼)についても記載する。.
備中国
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
備前国
備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
八郎潟町
八郎潟町(はちろうがたまち)は秋田県北西部に位置する町である。秋田県の自治体の中では面積がもっとも狭く、平成22年国勢調査によると人口密度は県下一である。.
元慶
元慶(がんぎょう、げんけい)は、日本の元号の一つ。貞観の後、仁和の前。877年から885年までの期間を指す。この時代の天皇は陽成天皇、光孝天皇。.
国司
国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.
秋田城
秋田城(あきたじょう/あきたのき)は、出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。 秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の軍事・行政の中心地としての役割を担った。また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流を伺わせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。 2017年(平成29年)、続日本100名城(107番)に選定された。.
秋田城介
秋田城介(あきたじょうのすけ)は、古代から中世の日本において、出羽国の秋田城を専管した国司である。はじめは官職ではなく、国司の一人の任務にすぎなかったが、平安時代中期に出羽城介という令外官となり、鎌倉時代に秋田城介と呼ばれるようになった。.
鎮守府将軍
鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.
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菅野雪虫
菅野 雪虫(すがの ゆきむし、1969年 - )は、日本の児童文学作家、ファンタジー作家。.
蝦夷
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。.
飢饉
飢饉(ききん、Famine)とは、何らかの要因により人々が飢え苦しむことを指す。狭義においては、一地域における死亡率を急激に上げるような極端な食料不足の事態を指すことが多い。主食とする農産物の大規模な不作を契機とする場合が多い。.
高橋克彦
橋 克彦(たかはし かつひこ、1947年8月6日 - )は、日本の小説家。 岩手県釜石市生まれ、盛岡市在住。岩手中学校・高等学校を経て早稲田大学商学部卒業。盛岡藩の御殿医の家系で開業医の家庭に育ち、医学部受験の経験がある。父は医師の高橋又郎(2002年没)。エッセイストの高橋喜平と、「どろ亀さん」の愛称で親しまれた東大名誉教授の高橋延清は伯父にあたる。.
貞観地震
貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代前期の貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日、 グレゴリオ暦7月13日)に、日本の陸奥国東方沖(日本海溝付近)の海底を震源域として発生したと推定されている巨大地震である。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったとされる。地震に伴って発生した津波による被害も甚大であった。 この地域に周期的に発生する三陸沖地震の1つとして理解されてきたため、貞観三陸地震と呼称されることがある。 「東北地方太平洋沖地震」(東日本大震災)が、この地震の再来ではないかと言われている。.
賑給
賑給(しんごう/しんきゅう)とは、賑恤(しんじゅつ)とも呼ばれ、律令制において高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独(身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。.
郡司
郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。.
胡桃館遺跡
胡桃館遺跡(くるみだていせき)は、秋田県北秋田市にある古代遺跡である。.
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藤原保則
藤原保則 藤原 保則(ふじわら の やすのり、天長2年(825年) - 寛平7年4月21日(895年5月23日))は、平安時代初期の公卿。藤原南家、中納言・藤原乙叡の孫。左兵衛佐・藤原貞雄の子。官位は従四位上・参議。 地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ、良二千石と謳われた。.
藤原統行
藤原 統行(ふじわら の むねつら、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。名は宗行とも記される。藤原南家、阿波守・藤原真作の曾孫。豊後介・藤原安主の子。官位は従五位下・出羽権介。.
藤原興世
藤原 興世(ふじわら の おきよ、生年不詳 - 寛平3年7月14日(891年8月21日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原南家、讃岐守・藤原村田の子。官位は従四位上・伊勢守。.
藤原梶長
藤原 梶長(ふじわら の かじなが、生没年不詳)は、平安時代前期の官人・武人。参議・藤原楓麻呂の曽孫。大舎人頭・藤原諸貞の子。官職は出雲守。.
野添憲治
野添 憲治(のぞえ けんじ、1935年3月17日 - 2018年4月8日)は、日本のノンフィクション作家、秋田県朝鮮人強制連行真相調査団事務局長。.
雄物川
物川(おものがわ)は、秋田県を流れている一級河川。雄物川水系の本流。秋田県の南半分が流域である。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
押領使
押領使(おうりょうし)とは、日本の律令制下の令外官の一つ。警察・軍事的官職。.
武蔵国
武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.
木簡
木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、荷札には長く用いられた。.
最上郡
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文室有房
文室 有房(ふんや の ありふさ、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。官位は従五位下・出羽権掾。雄勝城司。.
日本の合戦一覧
日本の合戦一覧(にほんのかっせんいちらん)は、日本の歴史上で発生した武力を以って行った主要な争いの一覧である。 概ね「戦い」や「合戦」は軍隊同士の大規模な戦闘、「乱」は国家や公的な組織に対する内戦・反乱・クーデターに当たる争い、「変」は国家や公的な組織による内戦・反乱・クーデター、「役」は外国・異民族との戦争。.
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日本史の出来事一覧
日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。.
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日本三代実録
『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。.
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旱魃
長期の旱魃に見舞われた土地(ケニア) 旱魃(かんばつ)とは、雨が降らないなどの原因である地域に起こる長期間の水不足の状態である。旱は「ひでり」、魃は「ひでりの神」の意味である。いずれも常用漢字ではないため干ばつと表記する場合がある。 旱魃の被害を総じて旱害(かんがい)と呼ぶ。干害とも書き、これは旱害の書き換え語でもある(従前から存在する同音同義語であり、新しい表記ではない)。 旱魃はその地域の水資源の存在量と人間の水需要がアンバランスになることによって発生するため、純粋な物理現象とはいえない。.
払田柵跡
払田柵跡(ほったのさくあと)は、秋田県大仙市払田・仙北郡美郷町本堂城廻にある日本の古代城柵遺跡。国の史跡に指定されている。 文献資料にその名がないため、「幻の柵」とも呼ばれる。軍事施設と行政施設の役割を果たしていたと考えられる。日本における木簡研究の嚆矢となった遺跡としても知られる。.
1967年
記載なし。
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2005年
この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.
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878年
記載なし。
879年
記載なし。
915年
記載なし。