目次
37 関係: 司空、同州、大司馬、大統、太尉、太保、太傅、孝荘帝、孝武帝 (北魏)、孝昌、字、宦官、北史、北魏、刺史、冀州、元顥、皇族、西魏、諡、魏書、霊太后、録尚書事、郁久閭皇后、郁久閭阿那瓌、関中、葛栄、長孫稚、長安、柔然、正光、永安 (北魏)、永熙 (北魏)、洛陽市、文帝 (西魏)、拓跋譚、536年。
司空
司空(しくう)は、かつて中国にあった官職である。時代により職掌・地位が異なる。
見る 元孚と司空
同州
同州(どうしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から清代にかけて、現在の陝西省渭南市一帯に設置された。
見る 元孚と同州
大司馬
大司馬(だいしば)は、中国の王朝の官職の一つ。主に軍事を取り仕切り、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職が設けられる場合もあった。
見る 元孚と大司馬
大統
大統(だいとう)は、南北朝時代の西魏において、文帝の治世に使用された元号。535年正月 - 551年12月。
見る 元孚と大統
太尉
太尉(たいい)は、古代中国にあった官職である。今風に言えば、軍事担当宰相であり、防衛大臣、国防長官、国防大臣などに相当する。主に文官が任命された。 秦及び前漢では三公の一つとして重要な役職であったが、『史記』や『漢書』を見る限りでは、丞相や御史大夫と違い、常設されなかったようである。他の三公同様、自らの府を開いて(開府)属官を任命することが許されていた。 前漢の武帝の建元2年(紀元前139年)に廃止された。『漢書』百官公卿表上によれば、その後は大司馬を冠した将軍が太尉に相当したようである。また、『漢書』黄覇伝によれば、太尉を廃止した後、武を休め文を興すためにその職務は丞相が兼ねるようにした、とされている。
見る 元孚と太尉
太保
太保(たいほ)は、かつて中国にあった官職。天子のもりやく。 『漢書』百官公卿表上によれば周においては太師、太傅、太保が三公と呼ばれ、天子を助け導き国政に参与する職であったとされる。 漢においては前漢の平帝の元始元年(西暦1年)、幼くして王莽らに擁立されて即位した平帝の補佐と教育のため太師、太傅、太保が置かれた。金印紫綬で、地位は大司馬、大司徒、大司空の三公より高く、太保は太師、太傅、太保の中で最も地位が低かった。太師、太傅、太保および少傅の四官を四輔と呼んだ。 前漢末および新の後は太保は置かれなかったが、晋において再度太師、太傅、太保を置いた。 それ以降の王朝でも太師、太傅、太保が置かれたが、総じてふさわしい者が居なければ空位とする名誉職であった。
見る 元孚と太保
太傅
太傅(たいふ)は、かつて中国にあった官職である。天子の師。
見る 元孚と太傅
孝荘帝
孝荘帝(こうそうてい、507年 - 531年、在位:528年 - 530年)は、北朝北魏の第9代皇帝。姓は元、諱は子攸。彭城王元勰の三男で、第6代皇帝孝文帝の甥にあたる。母は正室の李媛華。
見る 元孚と孝荘帝
孝武帝 (北魏)
孝武帝(こうぶてい、510年 - 535年、在位:532年 - 535年)は、北朝北魏の第13代(最後の)皇帝。姓は元、諱は脩(修とする史料もある)。第7代皇帝宣武帝の甥。『魏書』では出帝と記載される。
見る 元孚と孝武帝 (北魏)
孝昌
孝昌(こうしょう)は、南北朝時代の北魏において、孝明帝の治世に使用された元号。525年6月-528年正月。
見る 元孚と孝昌
字
字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。昔、中国で成人男子と女子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれを用いた。
見る 元孚と字
宦官
宦官(かんがん)とは、去勢を施した、特に完全去勢を施された官吏をいう。古代から各文化圏に存在した。特に男性ホルモンは短命に繋がりやすく特に中国の宦官については有名で完全去勢された宦官は長寿になる傾向があった。
見る 元孚と宦官
北史
『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。
見る 元孚と北史
北魏
北魏(ほくぎ、、386年 - 535年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東西分裂後の東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。
見る 元孚と北魏
刺史
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。州牧(あるいは単に牧)とも。日本では国守の唐名として使われた。
見る 元孚と刺史
冀州
冀州(きしゅう)は、中国の行政区分の一つ。現在、山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)等七つの省市に分属している。
見る 元孚と冀州
元顥
元 顥(げん こう、生年不詳 - 529年)は、北魏の皇族。北海王。字は子明。爾朱氏に叛いて南朝梁に亡命し、その後援のもとで北魏の皇帝を称して一時は洛陽を占拠したが、すぐに爾朱氏の軍に敗れて殺害された。正史では正式な皇帝の代数に数えられていない。
見る 元孚と元顥
皇族
皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく、Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。
見る 元孚と皇族
西魏
西魏(せいぎ、、535年 - 556年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した2つの魏のうち、函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の方は東魏と呼んで区別する。 「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。 なお、東魏を継承した北斉にて編纂された正史『魏書』においては、東魏の孝静帝を北魏の歴代皇帝に加えており、文帝以降の西魏の皇帝については記述が存在しない。西魏の一部の臣下については次の北周の建国の功臣として『周書』に記載があるケースもあるが、皇帝に関しては、唐の時代に『北史』が編纂されるまで本紀が書かれることはなかった。これを補うための西魏一代を扱った歴史書としては、清代に謝蘊山によって書かれた『西魏書』がある。
見る 元孚と西魏
諡
、あるいはは、漢字文化圏において、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。
見る 元孚と諡
魏書
『魏書』(ぎしょ)は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。
見る 元孚と魏書
霊太后
霊太后(れいたいごう、? - 528年)は、北魏の第7代皇帝宣武帝の充華(側室)であり、第8代皇帝孝明帝の実母である。姓は胡氏で、父は司徒の胡国珍。霊は諡で、夫の諡を重ねて宣武霊皇后とされた。霊太后胡氏、胡太后とも称される。宣武帝の崩御後、皇太后となってから北魏の実権者となったため霊太后として知られる。
見る 元孚と霊太后
録尚書事
録尚書事(ろくしょうしょじ)は、中国の後漢から魏晋南北朝時代に存在した官職。尚書を束ねる役職として政権を握り、宰相職としてあったが、隋代に廃止された。 尚書省・尚書令なども合わせて参照のこと。
見る 元孚と録尚書事
郁久閭皇后
郁久閭皇后(いくきゅうりょこうごう、525年 - 540年)は、西魏の文帝の2人目の皇后。柔然の出身。
見る 元孚と郁久閭皇后
郁久閭阿那瓌
郁久閭 阿那瓌(呉音:いくくろ あなかい、漢音:いくきゅうりょ あだかい、拼音:Yùjiŭlǘ Ānàguī、? - 552年)は、柔然の可汗。伏図の子で、醜奴の弟。可汗号は敕連頭兵豆伐可汗(ちょくれんとうへいとうはつかがん)といい、“把攬可汗”(手中にする可汗)という意味である。
見る 元孚と郁久閭阿那瓌
関中
関中(かんちゅう)とは、中華人民共和国の地域で、函谷関の西側の地域の渭河平原(いがへいげん)、渭水盆地を指す。現在の中国陝西省の西安を中心とした一帯である。八百里秦川とも呼称される。 南の秦嶺山脈、北の黄土高原に挟まれており、西は宝鶏市の隴山周辺、東は渭水(渭河)と黄河の合流地点までで東西300㎞の地帯である。気候は乾燥しており、水が貴重な地域である。 春秋戦国時代の秦の領地であり、前漢・隋・唐は、この地に首都である長安を置いた。 関中とは函谷関、、、の四つの防衛拠点である関所()の中にあることから、戦国時代に命名された。
見る 元孚と関中
葛栄
葛 栄(かつ えい、生年不詳 - 528年)は、北魏の反乱指導者。
見る 元孚と葛栄
長孫稚
長孫 稚(ちょうそん ち、生年不詳 - 535年)は、北魏の軍人。もとの名は冀帰。字は承業。本貫は河南郡洛陽県。
見る 元孚と長孫稚
長安
長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。
見る 元孚と長安
柔然
柔然(漢音:じゅうぜん、拼音:)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家。『魏書』『北史』『南史』などでは蠕蠕(ぜんぜん)、『宋書』『南斉書』『梁書』などでは芮芮(ぜいぜい)、『周書』『隋書』などでは茹茹(じょじょ)、『晋書』では蝚蠕と表記される。モンゴル系と考えられている。
見る 元孚と柔然
正光
正光(せいこう)は、南北朝時代の北魏において、孝明帝の治世に使用された元号。520年 - 525年。
見る 元孚と正光
永安 (北魏)
永安(えいあん)は、南北朝時代の北魏において、孝荘帝の治世に使用された元号。528年9月-530年10月。
見る 元孚と永安 (北魏)
永熙 (北魏)
永熙(えいき)は、南北朝時代の北魏において、孝武帝の治世に使用された元号。532年12月-534年12月。
見る 元孚と永熙 (北魏)
洛陽市
洛陽市(らくようし、、)は、中華人民共和国河南省西部に位置する地級市。 中国史上、しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。
見る 元孚と洛陽市
文帝 (西魏)
文帝(ぶんてい)は、北朝西魏の初代皇帝。姓は元、諱は宝炬(ほうきょ)。北魏の京兆王元愉の三男。
見る 元孚と文帝 (西魏)
拓跋譚
拓跋 譚(たくばつ たん、生年不詳 - 453年)は、北魏の皇族。臨淮王。
見る 元孚と拓跋譚
536年
火曜日から始まる。
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