目次
49 関係: 南史、南豫州、太守、太建、字、宣帝 (陳)、岳州、巴陵郡、広州 (広東省)、廬州、廬陵郡、建康 (都城)、侍中、侯瑱、侯景、侯景の乱、北斉、刺史、呂梁の戦い、呉興郡、儀同三司、元景安、光大、王琳 (軍人)、禎明、秦郡、章昭達、隋、韓擒虎、華皎、衡陽郡、軍人、霍州、至徳 (陳)、蕭範、蕭荘、蕭摩訶、長安、長江、陳 (南朝)、陳叔宝、陳書、梁 (南朝)、欧陽紇、永定 (陳)、汝陰郡、湘州、本貫、晋熙郡。
南史
『南史』(なんし)は、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著である。
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南豫州
南豫州(なんよしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から唐初にかけて、現在の安徽省南部に設置された。
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太守
太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。尊称として「明府」または「府君」と呼ばれる。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。
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太建
太建(たいけん)は、南北朝時代の南朝陳において宣帝陳頊の治世に使用された元号。569年 - 582年。
見る 任忠と太建
字
字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。昔、中国で成人男子と女子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれを用いた。
見る 任忠と字
宣帝 (陳)
宣帝(せんてい)は、南朝陳の第4代皇帝。姓は陳、諱は頊。
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岳州
岳州(がくしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から民国初年にかけて、現在の湖南省岳陽市一帯に設置された。
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巴陵郡
巴陵郡(はりょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。南朝宋から唐代にかけて、現在の湖南省岳陽市一帯に設置された。
見る 任忠と巴陵郡
広州 (広東省)
広州(廣州、こうしゅう)は、中国にかつて存在した州。三国時代から元初にかけて、現在の広東省広州市一帯に設置された。
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廬州
廬州(ろしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から元初にかけて、現在の安徽省合肥市一帯に設置された。
見る 任忠と廬州
廬陵郡
廬陵郡(ろりょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から唐代にかけて、現在の江西省吉安市一帯に設置された。
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建康 (都城)
建康(けんこう)は、中国の六朝の歴代の都であり、南京市の古称である。 三国時代の呉においては建業(けんぎょう)と呼ばれたが、西晋のときに愍帝(司馬鄴)の諱に触れることから、建康と改称された。建康を中心に六朝文化が栄え、とくに仏教の隆盛ぶりは「南朝四百八十寺」と讃えられた。
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侍中
侍中(じちゅう)は、皇帝の側近で皇帝の質問に備え、身辺に侍する役職である - goo国語辞書。 中国においては秦代に始まり、丞相の属官として殿中の奏事を司り、漢代に入ると加官(本職の他の兼任専用の役職)となって皇帝の乗輿・服飾をも扱った。漢から魏にかけて荀彧が守尚書令に侍中を兼ね、続いて太尉司馬懿と大将軍曹爽が侍中を兼ねている。 魏以後は、専任の侍中も設置され、概して4名が置かれた。枢機に参与する重職となった。南朝の梁や北朝の北魏では、宰相と同等の官となった。 隋代には納言と改称されたが、唐代に旧に復した。唐以後は門下省の長官を兼ねて2名が任命され、事実上の丞相となる。だが、時代の変遷に伴って、その権限は縮小された。門下省は貴族勢力の権益を代表して皇帝権と対抗する部局であったが、唐の中期以降は帝権が強まるにつれて門下省の権威は低下し、中書省に吸収されるに至る。
見る 任忠と侍中
侯瑱
侯 瑱(こう てん/こう ちん、天監9年(510年)- 天嘉2年3月9日(561年4月9日))は、南朝梁から陳にかけての軍人。字は伯玉。本貫は巴西郡南充国県。
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侯景
侯 景(こう けい)は、中国南北朝末期の武将。侯周() の孫で、の子。侯景の乱の首謀者。漢を建ててその皇帝に即位したものの、わずか在位5カ月で殺害された。
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侯景の乱
侯景の乱(こうけいのらん)は、中国の南北朝時代に南朝の梁にて侯景が起こした反乱。
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北斉
北斉(ほくせい、550年 - 577年)は、中国の南北朝時代に高氏によって建てられた国。国号は単に斉であるが、春秋戦国時代の斉や南朝の斉などと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。
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刺史
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。州牧(あるいは単に牧)とも。日本では国守の唐名として使われた。
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呂梁の戦い
呂梁の戦い(りょりょうのたたかい)は、中国の南北朝時代に徐州の呂梁(現在の江蘇省徐州市銅山区)において起こった戦いである。同地での戦いは、575年と577年と578年の3回にわたっておこなわれており、最後のものが最も有名である。
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呉興郡
呉興郡(ごこう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の浙江省湖州市一帯に設置された。
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儀同三司
儀同三司(ぎどうさんし)は、歴代中華王朝の官職。開府儀同三司とも。
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元景安
元 景安(げん けいあん、生没年不詳)は、北魏・東魏の皇族。東魏・北斉に仕えた軍人。拓跋什翼犍の五世孫にあたる。
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光大
光大(こうだい)は、南北朝時代の南朝陳において廃帝陳伯宗の治世に使用された元号。567年正月 - 568年12月。
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王琳 (軍人)
王 琳(おう りん、普通7年(526年)- 武平4年10月13日(573年11月22日))は、中国の南北朝時代の軍人。字は子珩。本貫は会稽郡山陰県。
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禎明
禎明(ていめい)は、南北朝時代の南朝陳において後主陳叔宝の治世に使用された元号。587年正月 - 589年正月。
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秦郡
秦郡(しん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。東晋から南北朝時代にかけて、現在の江蘇省南京市六合区および安徽省天長市西部にまたがる地域に設置された。
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章昭達
章 昭達(しょう しょうたつ、天監17年(518年)- 太建3年12月19日(572年1月19日))は、南朝梁から陳にかけての軍人。字は伯通。本貫は呉興郡武康県。
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隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 swěɪ、581年 - 618年)は、中国の王朝である。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。開祖楊堅は後漢代の有名な官僚の楊震の子孫にあたるというが、これには疑義が多い(詳しくは楊堅#出自についてを参照)。
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韓擒虎
韓 擒虎(かん きんこ、538年 - 592年)は、中国隋の武将。字は子通。河南郡東垣県(現在の河南省洛陽市新安県)の人。隋の文帝に将軍として仕え、南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一する功績を挙げた。弟は韓僧寿・韓洪。
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華皎
華皎(か こう、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の人物。南朝陳に対して反乱を起こした。本貫は晋陵郡曁陽県。
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衡陽郡
衡陽郡(こうよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から南北朝時代にかけて、現在の湖南省東部に設置された。
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軍人
大日本帝国陸軍の軍人と軍旗。1931年(昭和6年)撮影。 軍人(ぐんじん、、、ミーレス)は、軍隊の構成員。
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霍州
霍州(かくしゅう)は、中国にかつて存在した州。 南北朝時代、南朝梁により設置された。『隋書』地理志には北斉により廃止されたとあるが、『北斉書』等にその地名が使用されていることより隋初に廃止されたものと推察されている。
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至徳 (陳)
至徳(しとく)は、南北朝時代の南朝陳において後主陳叔宝の治世に使用された元号。583年正月 - 586年12月。
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蕭範
蕭 範(しょう はん、499年 - 550年)は、南朝梁の皇族。鄱陽王。字は世儀。
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蕭荘
蕭 荘(しょう そう)は、南朝梁の第8代(最後の)皇帝。ただし、梁はその前に陳によって簒奪されたため、正史では梁の皇帝とは見なされない。皇帝としての廟号・諡号もなく、史書では王号を採って「永嘉王」と呼ばれる。
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蕭摩訶
蕭 摩訶(しょう まか、532年 - 604年)は、南朝梁から隋にかけての軍人。字は元胤。本貫は南蘭陵郡蘭陵県。
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長安
長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。
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長江
長江(ちょうこう、长江、)は、中華人民共和国青海省のチベット高原を水源地域とし、中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6,300 kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でもナイル川、アマゾン川に次ぐ第3位の大河である。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、扬子江、、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。
見る 任忠と長江
陳 (南朝)
陳(ちん、557年 - 589年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の国。春秋時代に存在した陳と区別して、南陳と呼ばれることもある。
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陳叔宝
陳 叔宝(ちん しゅくほう)は、南朝陳の第5代(最後)の皇帝。後世、亡国の君主として暗君の典型とされる。後に後主(こうしゅ)と称された。
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陳書
『陳書』(ちんしょ)は、唐の史学家である姚思廉が636年に編纂した史書であり、二十四史のうちの一つである。 中国南北朝時代(439年 - 589年)の南朝最後の王朝である陳の断代史である。皇帝・王を中心に記した本紀6巻と、国に仕える家臣や周辺異民族のエピソードが記された列伝30巻からの構成となっており、表や志を持たない。 11世紀ごろ、北宋の史館修撰であった曾鞏らの手によって刊行された。
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梁 (南朝)
梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。蕭梁とも呼ばれる。
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欧陽紇
欧陽 紇(歐陽紇、おうよう こつ、大同4年(538年)- 太建2年2月29日(570年3月21日))は、南朝陳の軍人。字は奉聖。本貫は長沙郡臨湘県。
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永定 (陳)
永定(えいてい)は、南北朝時代の南朝陳において武帝陳霸先の治世に使用された元号。557年10月 - 559年12月。
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汝陰郡
汝陰郡(じょいん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の安徽省北部と河南省南部にまたがる地域に設置された。
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湘州
湘州(しょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。晋代から南北朝時代にかけて、現在の湖南省一帯に設置された。
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本貫
本貫(ほんがん、ほんかん)は、古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が、それにもとづき行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともにこの概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国(簡体字:、繁体字:(拼音:jí guàn))・朝鮮半島(본관(ポングワン))では、本貫は、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。
見る 任忠と本貫
晋熙郡
晋熙郡(晉熙郡、しんき-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。東晋から隋初にかけて、2カ所の晋熙郡が立てられた。
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