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ヴワディスワフ3世ラスコノギ

索引 ヴワディスワフ3世ラスコノギ

ヴワディスワフ3世細足公 ヴワディスワフ3世ラスコノギ(Władysław III Laskonogi, 1165年? - 1231年11月3日)は、ポーランド大公(在位:1202年 - 1206年、1227年 - 1229年)及びヴィエルコポルスカ公。ミェシュコ3世と2度目の妃でキエフ大公イジャスラフ2世の娘エウドクシアの子でポズナン公オドンの異母弟。細足公(Laskonogi)と呼ばれる。 1194年に異母兄オドンが没し、甥のヴワディスワフ・オドニツが幼いままヴィエルコポルスカを相続、ヴワディスワフ3世はオドニツの後見人としてヴィエルコポルスカの摂政となった。翌1195年に同母兄ボレスワフも死去、1202年に父が亡くなった後はポーランド大公位を受け継いだ。 ところが、カリシュ公国を巡る問題でオドニツと衝突、1206年にオドニツを追放したが、同年に従弟のレシェク1世にポーランド大公位を奪われた。オドニツとは一旦和解したが、1218年に再度追放、グダニスク公シフィエントペウク2世の元へ亡命した。1227年にレシェク1世が暗殺されるとポーランド大公に復位したが、1229年にレシェク1世の弟コンラト1世に廃位され、オドニツにヴィエルコポルスカも奪われ追放、1231年に没した。 1186年頃にリューゲン侯ヤロミール1世の娘ルシアと結婚したが、子供は無かった。.

25 関係: ミェシュコ3世ポーランド君主一覧レシェク1世ヴワディスワフ・オドニツヴィエルコポルスカ県エヴドキヤ・イジャスラヴナオドン (ポズナン公)キエフ大公キエフ大公国グダニスクコンラト1世 (マゾフシェ公)シフィエントペウク2世長子領暗殺1165年1186年1194年1195年11月3日1202年1206年1218年1227年1229年1231年

ミェシュコ3世

ミェシュコ3世スタルィ(Mieszko III Stary, 1121年? - 1202年3月13日)は、ポーランド大公(在位:1173年 - 1177年、1191年 - 1194年、1198年 - 1199年、1202年)。ボレスワフ3世と2度目の王妃の4男として生まれた。ヴワディスワフ2世の異母弟、ボレスワフ4世の同母弟、ヘンリク、カジミェシュ2世の同母兄。 長命であったことから老公(Stary)と呼ばれた。ヴィエルコポルスカ・ピャスト家の祖。.

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ポーランド君主一覧

ポーランド君主一覧では、現在のポーランドにあった諸王朝、諸国の君主を一覧で挙げる。.

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レシェク1世

レシェク1世(白公) レシェク1世ビャウィ(ポーランド語:Leszek Biały, 1186年頃 - 1227年11月24日)は、クラクフ公(在位:1194年 - 1198年、1199年 - 1202年、1206年 - 1210年、1211年 - 1227年)、サンドミェシュ公(在位:1202年/1206年 - 1227年)、マゾフシェ公(在位:1194年 - 1200年)、クヤヴィ公(在位:1199年 - 1200年)。父はカジミェシュ2世(正義公)、母はボヘミア王国のズノイモ公コンラート2世の娘ヘレナ。コンラト1世の兄。綺麗な白髪を持っていたことから、白公(Biały)の異称がある。.

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ヴワディスワフ・オドニツ

ヴワディスワフ・オドニツの印璽 ヴワディスワフ・オドニツ(ポーランド語:Władysław Odonic, 1190年頃 - 1239年6月5日)は、ヴィエルコポルスカ公(在位:1229年 - 1234年)。ミェシュコ3世の長男であったポズナン公オドンの息子で、母はハールィチ公ヤロスラフ・オスモムィシリの娘ヴャチェスラヴァ / ヴィシェスラヴァ。.

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ヴィエルコポルスカ県

ヴィエルコポルスカ県 (Województwo wielkopolskie) は、ポーランド中西部の県である。県都はポズナン。ポーランドの全16県の中では、面積で2番目、人口で3番目に大きい。1999年に、旧ポズナン県、カリシュ県、コニン県、レシュノ県と、ピワ郡の大部分の地域を統合して発足した。ルブシュ県、ドルヌィ・シロンスク県、オポーレ県、ウッチ県、ポモージェ県、西ポモージェ県、クヤヴィ・ポモージェ県と接している。 ヴィエルコポルスカ()を意味する県名は、「ポーランド揺籃の地」であるこの地域の歴史的呼称でもある。歴史学者によれば、これは旧い村の隣に新しい村を立てた際に旧い方と新しい方をそれぞれ「大」「小」を冠して並び称するポーランドの習慣にしたがったものであり、1242年にプシェムィスウ公とボレスワフ敬虔公が「大ポーランド両公(Duces Maioris Poloniae)」と共同で称したのが公文書における初出である。実際のところ、かつてのポーランド・リトアニア共和国の時代には、マウォポルスカ地方は現在のウクライナ全土までをも含む広大な地域を指しており、本来はヴィエルコポルスカ地方のほうがマウォポルスカ地方よりも面積が小さい。.

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エヴドキヤ・イジャスラヴナ

ヴドキヤ・イジャスラヴナ(Евдокия Изяславна、Eudoksja Izjasławówna。1136年頃 - 1187年頃)はリューリク朝の公女である。ヴィエルコポルスカ公(クラクフ公)ミェシュコ3世の2人目の妻。 エヴドキヤは、キエフ大公イジャスラフとその妻アグネス(神聖ローマ皇帝コンラート3世の娘)との間に生まれた。1154年にミェシュコと結婚したが、この当時ミェシュコは他のポーランド諸公やドイツ勢力に対抗すべく、ル-シに同盟者を求めての結婚であった。ただし、同年11月にエヴドキヤの父イジャスラフは死亡する。 1173年、夫ミェシュコの兄ボレスワフ(ポーランド大公ボレスワフ4世)が死亡すると、ミェシュコはクラクフを受領し、兄の後をついでヴィエルコポルスカ公となった。このころ、どうやらエヴドキヤは夫ミェシュコに対する強い影響力を有しており、ミェシュコは、別の妻の子であるオドンよりも、エヴドキヤとの間の子を寵愛するようになっていた。これを不服とするオドンは、1177年に父ミェシュコをクラクフから追放した。その後、ミェシュコと共にエヴドキヤは庇護者の下を転々とすることとなる。 1199年、ミェシュコはクラクフに戻るが、この時期にはエヴドキヤに関する記録は残されていない。.

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オドン (ポズナン公)

ドン(Odon Poznański, 1141年から1149年のうち、おそらく1145年 - 1194年4月20日)は、ポズナン公(在位:1177年/1179年 - 1181年)、ヴィエルコポルスカ南部の公(在位:1177年/1179年 - 1194年)、カリシュ公(在位:1193年 - 1194年)。その名は、ポーランド最初のセイムと見なされている、1161年5月21日にウェンチツァで開かれた諸公会議で採択された文書の署名に初めて登場する。ヴィエルコポルスカ公ミェシュコ3世(老公)と、ハンガリー王ベーラ2世の娘と思われるエルジュビェタとの間の長子として生まれた。 1177年、オドンはマウォポルスカの貴族達が父に対して起こした反乱に参加した。ミェシュコ3世が再婚相手のエヴドキヤ(キエフ大公イジャスラフ2世の娘)との間に生まれた子供達を贔屓していたことに不満を持っていたためだった。オドンは自領の拡大を望んでおり、あわよくばヴィエルコポルスカ公国を力で奪取しようと考えていた。しかし叔父のポーランド大公カジミェシュ2世(正義公)は、オドンにポズナンの領有のみを残した。オドンはそれでも父との戦争を続け、1178年には父を廃位・追放した。 1181年、ミェシュコ3世はポズナンとヴィエルコポルスカの支配権を奪回すべく、ポモジェ地方の勢力と同盟してヴィエルコポルスカを攻撃、オドンをヴィエルコポルスカのオブラ川以南へと追い出した。1193年、オドンの弟のカリシュ公ミェシュコが亡くなると、オドンは父の同意のもとカリシュ公国を相続した。 彼の領国統治に関してはほとんど知られていない。オドンは貨幣鋳造所を設けて「公爵オドン(Odon Dux)」と刻まれた貨幣を発行しており、このことは彼がヴィエルコポルスカに従属的ではなく、かなり大幅な自治権をもっていたことを窺わせる。 1194年4月20日に父に先立って没し、ポズナンの聖ピョトル・パヴェウ大聖堂に葬られた。息子のヴワディスワフ・オドニツはまだ幼かったため、オドンは異母弟ヴワディスワフ3世にヴィエルコポルスカ南半の領国の摂政を任せた。カリシュ公国は父ミェシュコ3世の領土に戻された。.

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キエフ大公

フ・ルーシの大公たちの印形あるいは紋。ルーシの支配者であったリューリク朝は三叉戟を用いたシンボルを家紋にしていた。 キエフ大公(ウクライナ語:Великий князь Київський)は、9世紀から13世紀にかけてキエフ大公国とその首都キエフを治める君主の称号である。 (本頁の一覧にはキエフ公も含む。).

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キエフ大公国

フ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。.

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グダニスク

ダニスク(Gdańsk グダーィンスク、)は、ポーランドの都市。バルト海南部に面するポモージェ(ポメラニア)地方東部に位置し、グダニスク湾を擁するポーランド最大の港湾都市であり、ポモージェ県の県都である。ポーランド語名の発音は片仮名転写が難しく、グダンスクと表記されることがあり、政府観光局はグダンスク、市役所はグダニスクと表記しており、公的機関においても表記が分かれている。カシューブ語ではGduńsk(グダンスク)。また、ドイツ語名のダンツィヒ( 、ダンチヒとも)でもよく知られている。.

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コンラト1世 (マゾフシェ公)

ヤン・マテイコによる肖像画 コンラト1世マゾヴィエツキ(Konrad I Mazowiecki, 1187年? - 1247年8月31日)は、マゾフシェ公(在位:1197年 - 1247年)、ポーランド君主(クラクフ公、在位:1229年 - 1232年、1241年 - 1243年)。カジミェシュ2世と、その妻でモラヴィアのズノイモ公コンラート2世の娘であるヘレナの間に生れた末息子。レシェク1世の弟。マゾフシェ・ピャスト家の祖で、ポーランド国王ヴワディスワフ1世は孫に当たる。.

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シフィエントペウク2世

17世紀に描かれた肖像画 「グダニスク公(Zwantepolc Dux Danceke)」としての印璽 印章つきの指輪 シフィエントペウク2世(ポーランド語:Świętopełk II Wielki;ドイツ語:Swantopolk II, 1190年/1200年 - 1266年1月11日)は、ポメレリアのグダニスク公(在位:1220年 - 1266年)。ムシチュイ1世の息子で、「偉大な(Wielki)」シフィエントペウクと呼ばれる。.

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長子領

ポモジェ、長子領の支配者の封土 長子領(ポーランド語:Dzielnica senioralna)またはクラクフ公国は、ボレスワフ3世の遺言状によって1138年に成立したポーランド国家を構成する5つの地域の中で最も上位に位置づけられた地域。ピャスト家の諸公が輪番で支配する地域となり、クラクフ公国を領する公がポーランドの最高権威者(大公)となった。.

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暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

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1165年

記載なし。

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1186年

記載なし。

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1194年

記載なし。

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1195年

記載なし。

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11月3日

11月3日(じゅういちがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から307日目(閏年では308日目)にあたり、年末まであと58日ある。.

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1202年

記載なし。

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1206年

記載なし。

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1218年

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1227年

記載なし。

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1229年

記載なし。

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1231年

記載なし。

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ヴワディスワフ3世 (ポーランド大公)

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