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リッジフィールドの戦い

索引 リッジフィールドの戦い

リッジフィールドの戦い(Battle of Ridgefield)は、アメリカ独立戦争の1777年4月に、大陸軍とイギリス軍の間で行われた戦闘と一連の小競り合いの総称である。主たる戦闘は4月27日にコネチカットのリッジフィールド村で行われ、翌日にはリッジフィールドと現在のウェストポートに近い海岸線との間で小競り合いが起こった。 1777年4月25日、ニューヨーク植民地総督のウィリアム・トライアン少将の指揮するイギリス軍がコネチカットのフェアーフィールドとノーウォーク(現在のウェストポート)の間の海岸に上陸し、そこからダンベリーに向けて行軍した。そこでイギリス軍は小さな守備隊を追い散らした後に大陸軍の物資を破壊した。イギリス軍が動いているという報せが広まったとき、コネチカットの民兵隊指揮官達が行動に移った。デイビッド・ウースター少将、ゴールド・S・シリマン准将、およびベネディクト・アーノルド准将が大陸軍の正規兵と地元民兵を合わせておよそ700名の部隊を立ち上げ、イギリス軍に対抗しようとしたが、ダンベリーでイギリス軍が物資を破壊する前にそこに到着できなかった。その代わりに海岸に戻る途中のイギリス軍に対する攻撃にかかった。 4月27日、ウースター将軍に率いられた中隊が南に向かうトライアン部隊の後衛に2度攻撃を仕掛けた。その2度目の戦闘でウースターは致命傷を負い、5日後に死んだ。その後主戦闘がリッジフィールドで起こり、アーノルドの指揮する数百名の民兵がイギリス軍と対決し、町のメインストリートを駆けながらの戦いで追い返されたが、イギリス軍にはそこそこの損失を与えた。別の民兵隊が到着し、翌日にはイギリス艦隊が待っているコンポビーチに向かうイギリス軍への攻撃を続けた。アーノルドは民兵と幾らかの大砲を集結させ、イギリス軍の上陸点近くでイギリス軍に対して抵抗したが、その陣地が側面を衝かれ、イギリス軍の砲撃と銃剣突撃によって部隊は散り散りになった。 イギリス軍の遠征は戦術的には成功した形になったが、これを追いかけた行動でコネチカットのパトリオットの支援を固めることになった。イギリス軍はその後も2度コネチカットの海岸に近い町を襲った(1779年のトライアンの襲撃と1781年のイギリス軍に寝返ったアーノルドによる襲撃)が、内陸部深く入るような襲撃を行うことはなかった。.

37 関係: 大陸会議大陸軍 (アメリカ)ノーウォーク (コネチカット州)マサチューセッツ州ハドソン川ポール・リビアメグスの襲撃レキシントン・コンコードの戦いロイヤリストデイビッド・ウースターフィラデルフィアフェアフィールド (コネチカット州)フェアフィールド郡 (コネチカット州)ニューヨークニューヨーク州ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦ニューヨーク植民地ニューロンドン (コネチカット州)ニューヘイブン (コネチカット州)ニューベリー賞ホレイショ・ゲイツダンベリー (コネチカット州)ベネディクト・アーノルドアメリカ独立戦争イギリス軍ウィリアム・ハウウエストチェスター郡 (ニューヨーク州)オハイオ州オハイオ領土グロトンハイツの戦いコネチカット州ジョン・バーゴインジョン・トランブルサラトガの戦い愛国心1777年4月27日

大陸会議

大陸会議(たいりくかいぎ、Continental Congress)は、英国本国の高圧的な植民地経営に対して北アメリカ13州の自治意識が高まり、1774年から開催された各植民地代表による会議である。第1次大陸会議と第2次大陸会議がある。アメリカ合衆国の独立承認後は連合会議(1781年 - 1789年)に発展するが、この連合会議を含めて大陸会議と総称することがある。.

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大陸軍 (アメリカ)

1779年から1783年まで使われた軍装と武器 1775年6月15日に大陸軍の最高司令官に任命されたジョージ・ワシントン将軍 大陸軍(たいりくぐん、Continental Army)は、アメリカ独立戦争において後にアメリカ合衆国となった13植民地によって編制された軍隊。第2次大陸会議における1775年6月14日の決議に基づいて発足し、グレートブリテン王国の支配に対して反乱を起こした13植民地の軍事行動について連携を図ることを目的とした。日本の歴史教科書では単に「独立軍」と表記するものもある。大陸軍は各植民地の配下に留まった民兵組織や独立の民兵集団などによって補完されていた。独立戦争の全期間を通じてジョージ・ワシントンが総司令官を務めた。 パリ講和条約締結による終戦後の1783年11月3日、ほとんどの大陸軍部隊は解散した。1784年6月3日の大陸会議の決議によって、小さな地域軍隊がウェストポイントと幾つかの辺境の前哨基地に残された。第1連隊と第2連隊は1792年にアンソニー・ウェイン将軍の下に編制された訳注:「アメリカ合衆国軍団」は仮訳。定訳不明の基幹兵力となり、1796年に発足したアメリカ陸軍の基礎となった。.

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ノーウォーク (コネチカット州)

ノーウォーク(Norwalk)は、アメリカ合衆国コネチカット州フェアフィールド郡南西部海岸に位置する都市である。2010年の国勢調査では人口85,603人であり、州内では第6位、郡内では第3位の都市である。ニューヨーク大都市圏に属している。 「ノーウォーク」という名前は当初 "Norwaukee" という綴りであり、その由来は不明である。アルゴンキン語の「土地の地点」を意味する noyank から派生した可能性がある。インディアンの酋長の名前と考えられる "Naramauke" から変化した可能性もある。 昔から牡蠣の養殖がノーウォークの重要な産業であり、「オイスター・タウン」という綽名もあった。毎年9月に牡蠣祭を開催している。.

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マサチューセッツ州

マサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusetts、)は、アメリカ合衆国の州であり、北東部ニューイングランド6州の1つでもある。マサチューセッツ州は「州」(State) の代わりにコモンウェルスを使っているが、日本語では他州と同様に「州」と訳されている。2010年度の人口は 6,547,629 人。 南はロードアイランド州とコネチカット州、西はニューヨーク州、北はバーモント州とニューハンプシャー州に接している。東は大西洋である。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第44位、人口では第14位、人口密度が第3位である。東部のボストン大都市圏と、西部のスプリングフィールド大都市圏という2つの中心地がある。人口の約3分の2はボストン大都市圏に住んでいる。州都はボストン市であり、人口最大の都市でもある。ボストン大都市圏には、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などがあるケンブリッジやサマービル、クインシーなどの市町が含まれている。 マサチューセッツ州はアメリカ史の中で各分野にわたって重要な役割を演じてきた。1620年、メイフラワー号の乗船客ピルグリムによって、プリマス植民地が設立された。1636年に設立されたハーバード大学は国内最古の高等教育機関である。1692年、セイラムとその周辺ではセイラム魔女裁判と呼ばれる忌まわしい事件が起こった。18世紀、大西洋圏を席捲したプロテスタントの第一次大覚醒運動は、ノーサンプトンの説教師ジョナサン・エドワーズに端を発していた。18世紀後半には、アメリカ独立戦争とイギリスからの独立に繋がる扇動によって、ボストンは「自由の揺籃」とも呼ばれた。1777年にヘンリー・ノックス将軍が設立したスプリングフィールド造兵廠は、産業革命の時代に交換部品など多くの重要な技術進歩を促進した。1786年、州西部の農夫によるポピュリスト革命、シェイズの反乱が直接アメリカ合衆国憲法制定会議の開催に繋がる要因になった。 南北戦争以前の時代には、禁酒運動、超越論的思想、奴隷制度廃止運動の中心になった。1837年、コネチカット川バレーのサウスハドリーの町に、国内初の女子カレッジであるマウント・ホリヨーク大学が開校した。19世紀、州西部の都市、スプリングフィールドとホリヨークでバスケットボールとバレーボールが発明された。2004年、州最高裁判所の判決により、国内で初めて同性結婚を法律で認める州になった。州内からはアダムズ家やケネディ家など多くの著名政治家を輩出してきた。 マサチューセッツ州は当初漁業、農業、貿易業に依存していたが、産業革命の間に工業の中心に変わった。20世紀にはその経済が工業からサービス業に転換された。21世紀には、高等教育、医療技術、ハイテクと金融業で指導的存在である。.

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ハドソン川

ハドソン川の流域 ハドソン川(ハドソンがわ、Hudson River)は、アメリカ合衆国の主にニューヨーク州を流れ、大西洋に注ぐ川である。河口付近ではニューヨーク州とニュージャージー州との境界になっている。ヨーロッパ人で最初にこの川を発見したのはイタリア人のジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノで、1524年のことである。名前は1609年にこの川の探検を行ったヘンリー・ハドソンに由来する。.

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ポール・リビア

ポール・リビア ポール・リビア(Paul Revere、1735年1月1日 - 1818年5月10日)は、アメリカ、マサチューセッツ湾植民地出身の銀細工師であり、アメリカ独立戦争中は愛国者として活動した。ポール・リヴィアとも。 レキシントン・コンコードの戦いにおける伝令の役割を担ったことで、リビアはその死後も不朽の名声を与えられ、リビアの名前と「真夜中の騎行」という言葉は愛国者の象徴としてアメリカ合衆国中に知れ渡っている。リビアはボストンでも羽振りがよくて顕著な職人であり、イギリス軍の監視を続け仲間内に情報を伝達するしくみを作り上げることに貢献した。 リビアはアメリカ独立戦争の中でも最も悲惨な作戦の一つに士官として従軍したが、その行為は後に無罪を証明された。戦後、リビアは金属の大量生産が生む事業的可能性について早く気づいた者となった。.

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メグスの襲撃

メグスの襲撃(メグスのしゅうげき、Meigs Raid、またはサッグハーバーの戦い、Battle of Sag Harbor)は、アメリカ独立戦争の1777年5月24日、ニューヨーク州ロングアイランドの東端に近いサッグハーバーで起きた戦闘である。コネチカットのリターン・ジョナサン・メグス大佐が指揮する大陸軍部隊が、物資徴発を行っていたロイヤリスト部隊を襲撃した。ロイヤリスト部隊は6名が戦死し、90名が捕虜になったが、大陸軍に損失は無かった。この襲撃は、4月下旬にコネチカットのダンベリーをイギリス軍が襲い、リッジフィールドの戦いでアメリカ軍が反撃したことに反応して行われた。 遠征隊はサミュエル・ホールデン・パーソンズ准将がコネチカットのニューヘイブンで編成し、5月23日にギルフォードからロングアイランド湾を渡った。ロングアイランドのノースフォークは鯨船を引きずって越え、翌朝サッグハーバーを襲撃してイギリス軍の船や物資を破壊した。前年1776年にイギリス軍によってニューヨーク市とロングアイランドが陥落していたが、その後ではニューヨーク州で初めて大陸軍が勝利を挙げた戦闘になった。.

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レキシントン・コンコードの戦い

レキシントン・コンコードの戦い(レキシントン・コンコードのたたかい、Battles of Lexington and Concord)は、1775年の4月19日に起こった、アメリカ独立戦争が始まる契機となった英米間の戦闘である。 イギリス軍が、ボストン北西に位置するコンコードにあった、アメリカ植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を実施した。それに反発すべく動いた植民地民兵隊と武力衝突、レキシントンとコンコードにてイギリス軍と民兵隊の激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破した。規模は小さいながら独立戦争の初戦を飾るものとなった。 4月18日、フランシス・スミス中佐の指揮で約700のイギリス軍正規兵に、マサチューセッツ民兵が武器を隠していると報告のあったコンコードの倉庫を確保し破壊せよという命令が出た。植民地の愛国者達はこの日の数週間前に、イギリス軍が捜索を行おうとしているという情報を掴んでおり、軍需物資のすべてではないがほとんど全部を安全な場所に移していた。イギリス軍の遠征の前の夜にもその作戦計画の詳細を掴んでおり、この知らせは直ぐに民兵達の間に流されていた。 最初の銃弾はレキシントンで日の出とともに放たれた。民兵は数的に劣勢だったので撤退した。数時間後コンコードのノースブリッジにいた別の愛国者兵がイギリス軍の3個中隊と交戦し損害を与えた。野戦での数回の戦闘後に今度は数的に劣勢になったイギリス軍が撤退した。 民兵達はその後も陸続と集まり続け、ボストンへ向けて撤退するイギリス軍を追ってかなりの損害を与えた。スミス遠征隊はコンコードからレキシントンに向かう途中で、パーシー伯ヒュー・パーシー指揮の増援隊の援護を受けた。総勢約1,700名となった遠征隊は撤退中も激しい銃火に曝されたが、最終的にはなんとかチャールズタウンまで辿り着いた。イギリス軍は軍事機密を保つことに失敗し、敵対的地域での作戦行動に必要な速度にも欠けていた。結果として武器弾薬の押収はほとんど失敗した。イギリス軍の多くはボストンに撤退できたが、その夜からマサチューセッツ民兵が周辺地域を抑えて、ボストン包囲戦の始まりとなった。.

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ロイヤリスト

ロイヤリスト、英国王党派、王国忠誠派(United Empire Loyalists)は、アメリカ独立戦争で革命側に反してイギリスを支持した植民地の住人(王党派)。イギリス語で、革命家はパトリオット(愛国者)と呼ばれ、ロイヤリストはトーリーと呼ばれていた。戦争後、多くのロイヤリストがカナダに避難していった。 現在のカナダでは、ロイヤリストの子孫には「UE」(意味:帝国の一致)の称号が使われる。 なお、北アイルランドにおけるユニオニスト(イギリスとの連合維持派)のうち、準軍事組織に関わる強硬派のこともロイヤリストと呼ぶことがある。 loyalistを直訳すると「忠誠(loyal)主義者(-ist)」だが、カタカナ書きでは同じく「ロイヤリスト」となるroyalistは「王権(royal)主義者(-ist)」である。両者は同一の勢力を指すことも多いため混同されやすい。 Category:アメリカ独立戦争 Category:カナダの歴史 Category:君主主義 Category:イギリス帝国 Category:アメリカ合衆国の亡命者 Category:イギリスの亡命者.

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デイビッド・ウースター

ナダのケベックでイギリス軍と対峙するデイビッド・ウースター デイビッド・ウースター(英:David Wooster、1710年3月2日 - 1777年5月2日)は、アメリカ独立戦争中の大陸軍の将軍である。ウースターは独立戦争中に戦死したが、英雄としての評価はあまりなされていない。.

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フィラデルフィア

フィラデルフィア(Philadelphia)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州南東部にある都市。同州の最大都市かつ北米有数の世界都市である。市内の人口は156万7442人(2015年推計)で全米第5位。 名門のペンシルベニア大学や工学系に強いドレクセル大学、日本にもキャンパスを置く州立大学のテンプル大学を抱える学術都市である。市内に約12万人、都市圏全体で約30万人と、全米で最も多くの学生を持つ都市のひとつである。 漢字の当て字和名は費拉特費、また短縮して費府。 なお、フィラデルフィア都市圏の治安は概ね良好であるが、デラウェア川の対岸にあるニュージャージー州カムデンは、デトロイトやセントルイスなどと並んで、全米で最も危険な都市のひとつとされる。 独立記念館や自由の鐘があり、近郊にはバレーフォージがある合衆国建国ゆかりの地である。.

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フェアフィールド (コネチカット州)

フェアフィールド(Fairfield)は、アメリカ合衆国コネチカット州フェアフィールド郡南中部に位置する町である。コネチカット州のゴールドコーストにあり、東は州内最大の都市ブリッジポート、西はウエストポート町である。内陸側(北)にはトランブル、イーストン、ウェストンの各町が並んでいる。2010年の国勢調査では人口59,404 人であり、州内の町では第4位、市を合わせても第14位の町である。2006年7月、雑誌「マネー」が「アメリカ合衆国で住みたい場所、かつ北東部で住みたい場所」リストの第9位に挙げた。.

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フェアフィールド郡 (コネチカット州)

フェアフィールド郡(Fairfield County)は、アメリカ合衆国コネチカット州の南西隅に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は916,829人であり、2000年の882,567人から3.9%増加した - accessed 2011-12-06.

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ニューヨーク

ニューヨーク市(New York City)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある都市。 1790年以来、同国最大の都市であり、市域人口は800万人を超え、都市圏人口では定義にもよるが2000万人以上である.

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ニューヨーク州

ニューヨーク州(State of New York)は、アメリカ合衆国大西洋岸中部にあり、本土アメリカ合衆国では北東部地域に位置する州。面積では第27位の州である。かつては50州で最も人口が多かったが、2010年の国勢調査現在は、カリフォルニア州、テキサス州、フロリダ州に次ぐ4位である。 南州境はニュージャージー州とペンシルベニア州、東州境はコネチカット州、マサチューセッツ州およびバーモント州に接する。西はカナダとの国境に接し、名所のナイアガラの滝がある。東南端に、アメリカ最大の都市であるニューヨーク市があり、州南部は近郊の大都市圏となっている。一方で、州北部の五大湖湖畔には古くからの工業都市であるバッファローとロチェスターがある。州都は、人口10万人足らずのオールバニである。2011年以降、州知事は民主党のアンドリュー・クオモ。.

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ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦

ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦(New York and New Jersey campaign)は、アメリカ独立戦争中の1776年から1777年の冬にかけて、ニューヨーク市とニュージャージーの支配を巡って、ウィリアム・ハウ将軍指揮するイギリス軍とジョージ・ワシントン将軍指揮する大陸軍の間で行われた一連の戦闘である。ハウはワシントン軍をニューヨーク市から追い出すことに成功したが、ニュージャージーまで手を伸ばし過ぎたがために、1777年1月にはニューヨーク市近くに幾つかの前進基地を保持するだけで、活動できる作戦シーズンを終わらせることになった。イギリス軍は戦争の残り期間ニューヨーク市を保持し、他の標的に対する遠征軍の基地として使い続けた。 ハウは1776年3月にボストン市を保持することに失敗した後、撤退した軍隊にイギリス本国からの援軍と、さらに神聖ローマ帝国の幾つかの侯国からドイツ人傭兵を加えて軍隊を集結させた。まず7月3日にイギリス軍がスタテンアイランドに無抵抗で上陸したことに始まり、8月には再度無抵抗でロングアイランドに上陸し、ワシントン軍をブルックリンやローワーマンハッタンから北のホワイトプレインズに追い出した。この時点でハウはマンハッタンに戻り、マンハッタン島の北部にワシントンが残していった部隊を捕獲した。 ワシントン軍はボストン包囲戦に参加した部隊の他に遠くバージニアなどの植民地からの連隊も加えていた。その軍隊の大半はハドソン川を越えてニュージャージーに渡り、さらにデラウェア川を越えてペンシルベニアまで撤退したが、兵士の徴兵期限切れ、脱走および士気の低下もあって勢力が減退していた。ハウは12月に入ってその軍隊に冬季宿営入りを命令し、ニューヨーク市からニュージャージーのバーリントンまで一連の前進基地を構築させた。1776年暮れ、ワシントンは軍隊の士気を上げるために凍ったデラウェア川を渡って、ニュージャージーのトレントンにあったイギリス軍守備隊を急襲して成功し、ハウの前進基地の連なりをニューブランズウィックとニューヨークに近い海岸線まで押し戻した。ワシントン軍はニュージャージーのモリスタウンで冬季宿営を張った。その冬の残りは、イギリス軍がまぐさと食料を求めていたので、たびたび小競り合いを繰り返した。 イギリス軍は1783年にアメリカ独立戦争が終わるまでニューヨーク市とその周辺の領地を支配し続け、北アメリカの他地域に対する作戦の基地として使った。1777年、ハウはフィラデルフィアを占領するための作戦を開始し、ニューヨーク市地域の指揮はヘンリー・クリントン将軍に任せた。一方ジョン・バーゴイン将軍がケベックからハドソン川流域の支配を目指して南下し、サラトガで挫折した。戦争の残り期間、ニュージャージーの北部と海岸部はニューヨーク市を占領するイギリス軍からの小競り合いや襲撃の舞台となり続けた.

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ニューヨーク植民地

ニューヨーク植民地(ニューヨークしょくみんち、英:Province of New York)は、17世紀中頃に、イギリスがオランダ領「ニューネーデルラント植民地」を占領した結果として始まった植民地である。その領域は現在のニューヨーク州大半とニュージャージー州、デラウェア州およびバーモント州を含んでおり、またコネチカット州、マサチューセッツ州およびメイン州の内陸部が含まれていた。 この植民地はオランダから勝ち取った1664年にイングランド王チャールズ2世の弟、ヨーク公ジェームズに因んで名付けられた。ニューヨーク植民地議会は1776年にそれ自体がニューヨーク邦政府であると宣言して、実質的にイギリスから分離し、翌年ニューヨーク憲法を批准した。アメリカ独立戦争中、イギリスが北アメリカにおける活動の軍事と政治の基地としてニューヨーク市を占領する間、イギリスの総督が事実上統治したが、元植民地の残り大半はパトリオットの手にあった。ニューヨークの如何なる部分においてもイギリスの権益は1783年のパリ条約で終わった。.

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ニューロンドン (コネチカット州)

ニューロンドン(New London)は、アメリカ合衆国コネチカット州の北東海岸に位置する港湾都市。テムズ川河口に位置する。 ニューロンドンは1646年に設立された。アメリカ独立戦争中にはアメリカ海軍の作戦基地となり、19世紀に捕鯨船の母港であったニューロンドン湾はロングアイランド・サウンドで最良の港湾と見なされていた。ニューロンドンにはコネチカット・カレッジおよびアメリカ沿岸警備隊士官学校が所在する。ニューロンドン湾はアメリカ沿岸警備隊のカッター、チヌーク (USCGC Chinook, WPB-87308) 及びトールシップ、イーグル (USCGC Eagle, WIX-327) の母港であり、アメリカ海軍の17隻の原子力潜水艦の母港である。 ノリッジ=ニューロンドン都市圏は21の都市から構成され、人口は266,618人である。ニューロンドンの人口は26,174人である。.

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ニューヘイブン (コネチカット州)

Harkness Tower)。大学の、そしてニューヘイブンのシンボルである。 ニューヘイブン(New Haven、 ヌー・ヘイヴァン)は、アメリカ合衆国コネチカット州南部に位置する都市。人口は129,779人(2010年国勢調査)で、ブリッジポートに次ぐ州第2の都市である。ニューヘイブン郡1郡からなる都市圏は862,477人(2010年国勢調査)の人口を抱える.

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ニューベリー賞

ョン・ニューベリー賞(The John Newbery Medal)は、例年、アメリカ合衆国における最も優れた児童文学の著者に与えられる賞である。アメリカ図書館協会の下位組織である(児童図書館協会)が運営している。1922年に開始された、世界で最も古い児童文学賞である。名称は、18世紀の児童書出版者であるにちなむ。ニューベリー賞のメダルはルネ・ポール・シャンベランがデザインし、フレデリック・G・メルヒャー(Frederic G. Melcher)が作成した(1921年)。裏面には男の子と女の子に自分の作品を読み聞かせる作家の図が描かれている。例年、受賞作の他に佳作(単数とは限らない)も選ばれる。 コールデコット賞とニューベリー賞は、アメリカ合衆国において最も重要な児童文学賞だと見なされている。毎年一月に受賞者が発表されると書店はその作品を大売り出しに掛かり、図書館はそれを注文し、教師は授業計画にそれを加える。多くの書店・図書館がニューベリー賞専用棚を設け、テレビ番組は受賞者にインタヴューし、教科書には受賞作のリストが載り、また多くの修士論文・博士論文がニューベリー賞受賞作をテーマにして書かれる。 なお、佳作に対してはthe Newbery Honor(ニューベリー名誉賞)が与えられる。1971年に始まったニューベリー名誉賞は、その年に書かれたのではない作品に対して遡及的に与えられることもある。 ニューベリー賞を複数回にわたり受賞した作家は6人しかいない。E・L・カニグズバーグ、、ロイス・ローリー、キャサリン・パターソン、エリザベス・ジョージ・スピア、ケイト・ディカミロはそれぞれニューベリー賞を2回受賞している。ニューベリー名誉賞(ニューベリー賞ではない)を最も多く受賞した作家は、ローラ・インガルス・ワイルダーである。彼女はこれを5度にわたり受賞している。.

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ホレイショ・ゲイツ

ホレイショ・ロイド・ゲイツ(Horatio Lloyd Gates、1727年頃 - 1806年4月10日)は、アメリカ独立戦争中の大陸軍将軍。サラトガの戦いでの大陸軍の勝利に貢献したが、大敗を喫したキャムデンの戦いではその責任が問われ非難されてもいる。.

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ダンベリー (コネチカット州)

ダンベリー(Danbury)は、アメリカ合衆国コネチカット州フェアフィールド郡北部に位置する都市である。ニューヨーク市からは約70マイル (112 km) にあり、ニューヨーク大都市圏に属している。2010年の国勢調査では人口80,893人であり、州内では第7位、郡内では第4位の都市である。 ダンベリー市は、初期開拓者の多くがイングランドのエセックスにあるダンベリー出身だったことから名付けられた。帽子を製造していた歴史があり、国内の帽子のほぼ25%を製作していたこともあったので、「帽子の都市」という綽名がある。.

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ベネディクト・アーノルド

ベネディクト・アーノルド5世(Benedict Arnold V、1741年1月14日(ユリウス暦では1740年1月3日)Brandt (1994), p. 4 - 1801年6月14日)は、アメリカ独立戦争での大陸軍将軍である。様々な戦功を挙げアメリカ合衆国の独立に大きく寄与しながらも、アメリカ側の将軍である時にニューヨークのウェストポイント砦でイギリス軍へのその引渡しを画策したことで知られている。この謀略が未遂に終わった後はイギリス軍に仕えた。 アーノルドはその狡猾さと勇敢さで独立戦争の初期に頭角を現した。その功績としては1775年のタイコンデロガ砦奪取、1776年にシャンプレーン湖におけるバルカー島の戦いで敗北しながらも良く防ぎ敵の侵攻を遅らせた戦術、コネチカット植民地でのリッジフィールドの戦い(この後で少将に昇進した)、および戦争の転換点となった1777年のサラトガの戦いが挙げられる。サラトガでは足を負傷して、その後数年間は戦歴を積むことができなくなった。 アーノルドはその成功にも拘らず、昇進では大陸会議に見送られ、その多くの功績は他の将官達に横取りされたMartin (1997)。多くの政敵から汚職で告発され、大陸会議がその証言を調査した結果、アーノルドは戦争遂行のために私財を費やしたために借金を背負った結果だったことが分かった。アーノルドはひどく憤懣が募り、アメリカがフランスと同盟を結んだことに反対していたので、1779年に味方を裏切る決心をした。1780年7月、ウェストポイント砦をイギリス軍に渡すためにそこの指揮官職を求めて認められた。しかし、アメリカ軍がアーノルドの策略を書いた書類を携行していたイギリス軍のジョン・アンドレ少佐を捕まえたために、アーノルドの策謀が露呈した。アーノルドはアンドレが捕まったことを知ると、ハドソン川を下ってイギリス海軍のスループ船HMSバルチュアに逃亡し、同じ日にウェストポイントを査察しアーノルドに会って食事を共にするために到着していたジョージ・ワシントン将軍の部隊に捕まるのを辛うじて免れた。 アーノルドはイギリス軍で准将に任官され、年金360ポンドと総額6,000ポンド以上の報奨金を得た。その後はイギリス軍の1部隊を率いてバージニア植民地ブランフォードやコネチカット植民地ゴートンハイツで戦ったが、ヨークタウンの包囲戦で事実上の戦争は終わった。1782年冬、アーノルドは2人目の妻マーガレット・"ペギー"・シッペン・アーノルドと共にロンドンに渡った。イギリス国王ジョージ3世やトーリー党からは歓待されたが、ホイッグ党からは疎外された。1787年、アーノルドはニューブランズウィックのセントジョンで息子のリチャードやヘンリーと共に商売の道に入ったが、1791年に永住する為にロンドンに戻り、その10年後に死んだ。 アーノルドは味方を裏切ったために、アメリカ合衆国ではその名前が直ぐに裏切りの代名詞にされたRogets (2008)。その遺した功績に対立する面があることで、彼の栄誉を称えるために立てられた幾つかの記念碑を曖昧な性格にしている。.

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アメリカ独立戦争

アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、American War of Independence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命(American Revolution)もしくは革命戦争(Revolutionary War)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。なお、日本の歴史教科書では、「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば、単に「独立戦争」と表記することもある。 この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。 アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国発遣軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。.

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イギリス軍

イギリス軍(イギリスぐん)は、イギリスの保有する軍隊。公式な文章では、「アームド・フォーシーズ・オブ・ザ・クラウン」 (Armed Forces of the Crown)なのだが、一般的にはイギリス軍(British Armed Forces)、または、国王/女王陛下の軍 (His/Her Majesty's Armed Forces)と表記される。 イギリス軍の名目上の最高指揮権はイギリスの君主(1952年よりエリザベス2世)にあるが、その行使は首相の助言の通りになさねばならないため、事実上の総指揮権は首相にある。管理は国防省 (MoD) の国防委員会(Defence Council)が担当する。 イギリス軍はイギリス本国と海外の領土を防衛してイギリスの幅広い将来的国益を保護し、国際的な平和維持活動の支援を任ぜられている。その他にも、NATOへ正規参加しており、合同作戦の活動を行っている。.

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ウィリアム・ハウ

5代ハウ子爵ウィリアム・ハウ(William Howe, 5th Viscount Howe、1729年8月10日 - 1814年7月12日、バス勲章受章者、枢密顧問官)は、イギリス軍の将軍であり、アメリカ独立戦争の時はイギリス軍の総司令官だった。軍人の家系に生まれ、当時ハウ3兄弟の一人だった。1775年の功績でナイトに叙せられてサー・ウィリアムと呼ばれ、兄のリチャード・ハウが1799年に死去したときに子爵位を継承した。 ハウの戦争における業績は、ボストンのバンカーヒルの戦いと呼ばれるブリーズヒルでの自軍の損失も多かった勝利や、ニューヨーク市およびフィラデルフィア市の占領などの成功の反面、サラトガの戦いでの敗北によってフランスを戦いに引き込んだがために、マイナスの評価がなされている。.

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ウエストチェスター郡 (ニューヨーク州)

ウエストチェスター郡(Westchester County)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州の郊外にある郡の一つ。 .

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オハイオ州

ハイオ州(オハイオしゅう、State of Ohio)は、アメリカ合衆国中西部の北東にある州である。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第34位、人口では第7位である。州の北はミシガン州とエリー湖、東はペンシルベニア州、南はケンタッキー州とウェストバージニア州、西はインディアナ州に接している。州都および2010年度の国勢調査での人口最大都市はコロンバス市である。州旗は全米の中で唯一、長方形でないものを採用している。 オハイオ州は1803年3月1日に、北西部領土から分かれて合衆国17番目の州に昇格した。独立宣言に加わった13植民地ではないが、北東部はコネチカット州の西部保留地だった。.

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オハイオ領土

ハイオ領土。現在の州境も示す(黒線) オハイオ領土(オハイオりょうど、英:Ohio CountryまたはOhio Territory)は、18世紀北アメリカで、アパラチア山脈の西、オハイオ川の北およびエリー湖の南の地域の呼称である。アメリカ合衆国にとっては最初の辺境の一つであり、おおまかに言って、現在のオハイオ州、インディアナ州の東部、ペンシルベニア州の西部およびウエストバージニア州の北部に跨っていた。この地域への開拓者の入植がフレンチ・インディアン戦争の主要な原因となり、アメリカ独立戦争に繋がることになった、と歴史家は指摘する。.

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グロトンハイツの戦い

ニューロンドンの位置、グロトンはその直ぐ東 グロトンハイツの戦い(グロトンハイツのたたかい、Battle of Groton Heights、またはグリスウォルド砦の戦い、Battle of Fort Griswold、稀にグリスウォルド砦虐殺、Fort Griswold massacre)は、アメリカ独立戦争の終盤1781年9月6日に、ウィリアム・レッドヤード中佐が指揮するコネチカット邦民兵の小部隊と、ベネディクト・アーノルド准将とエドマンド・エア中佐が指揮するイギリス軍の大部隊との間で戦われた戦闘である。 イギリス軍の北アメリカ総司令官ヘンリー・クリントン将軍は、アメリカ軍ジョージ・ワシントン将軍の軍がバージニア邦にいるイギリス軍チャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に向って行軍するのを牽制するために、ベネディクト・アーノルドに命じてコネチカットの港町ニューロンドンを襲撃させた。この襲撃そのものは成功したが、イギリス軍がニューロンドンとはテムズ川向かいのグロトンにあるグリスウォルド砦占領に向ったのに対し、コネチカットの民兵隊は頑強に抵抗した。攻撃側イギリス軍の指揮官数人が戦死し、守備側も砦が陥ちたときに戦死、負傷あるいは捕虜になった。イギリス軍の被害が大きかったので、そのことでアーノルドは上官から批判された。 この戦闘はアメリカ合衆国北部では最後の主要な戦闘となり、南部のヨークタウンでイギリス軍が降伏しアメリカ側の大勝利になったのはこの6週間後だった。.

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コネチカット州

ネチカット州(State of Connecticut、, )は、アメリカ合衆国北東部にあるニューイングランド地方では最南の州である。州の北はマサチューセッツ州に接し、東はロードアイランド州に、西はニューヨーク州、南は大西洋に続くロングアイランド湾に接している。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つである。日本語ではコネティカット州と書く場合もある。.

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ジョン・バーゴイン

ョン・バーゴイン(John Burgoyne、1722年2月24日 - 1792年8月4日)は、グレートブリテン王国の軍人(将軍)、政治家および劇作家である。軍人としてまず七年戦争に従軍し、幾つかの戦闘に参戦したが、特に1762年のポルトガル作戦が著名である。 バーゴインはアメリカ独立戦争での役割で最も良く知られている。サラトガ方面作戦の時の1777年10月17日に5,000名の軍隊と共にアメリカ大陸軍に降伏した。この時ニューヨーク植民地のオールバニを占領し、反乱を終わらせることを指示された軍隊の指揮官に指名されカナダから進軍したが、間もなく敵軍に包囲され、兵力でも劣っている自軍を見出すことになった。サラトガで2度の戦闘を行ったがその後にホレイショ・ゲイツと交渉を始めることを強いられた。その結果、自軍を故国に戻すことを認められるべく協議を始めることに同意したが、その条件が覆され軍隊全てが捕虜となった。バーゴインがイギリスに戻ると非難に曝され、二度と野戦指揮官の職に就くことは無かった。 バーゴインは劇作家としても成功し、『オークスの女中』や『女相続人』といった作品で知られたが、軍隊における名声ほどの域には達しなかった。ミッドハーストやプレストンから選出されてイギリス議会庶民院議員として長年務めた。「紳士のジョニー」と言及されることが多い。.

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ジョン・トランブル

ョン・トランブル(John Trumbull、1756年6月6日 - 1843年11月10日)は、アメリカ独立戦争期のアメリカ合衆国の画家である。現在2ドル札の裏面に使われている『アメリカ独立宣言』など歴史的場面を描いたことで有名である。.

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サラトガの戦い

ラトガの戦い(サラトガのたたかい、英: Battle of Saratoga )は、アメリカ独立戦争中の1777年9月から10月にかけて、ニューヨーク州サラトガの近くで、大陸軍とイギリス軍の間に行われた戦いである。サラトガの戦いとは、2つの小戦闘の総称である。すなわち、フリーマン農場の戦い(第一次サラトガの戦い)とベミス高地の戦い(第二次サラトガの戦い)である。この戦いの結果はジョン・バーゴイン将軍指揮するイギリス軍の降伏につながり、イギリス軍のカナダからの侵攻作戦(サラトガ方面作戦)が終わった。.

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愛国心

愛国的であれ」1917年、第一次世界大戦中のアメリカ合衆国食品管理局によるポスター。 愛国心(あいこくしん)または愛国主義(あいこくしゅぎ、パトリオティズム、patriotism)は、自分の国家に対し、愛着や忠誠を抱く心情。.

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1777年

記載なし。

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4月27日

4月27日(しがつにじゅうななにち、しがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から117日目(閏年では118日目)にあたり、年末まではあと248日ある。誕生花はシラネアオイ、カルミヤ。.

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