ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ベイト・エッディーン

索引 ベイト・エッディーン

ベイト・エッディーン宮殿(アラビア語表記بيت الدين、ラテン語表記Beit ed-Dine)とはシュフ山地内のレバノンの小さな町ベイト・エッディーンにある宮殿である。およそ首都ベイルートから50kmほど離れており、デイル・エル・カマールから車で10分ほどの距離にある。この町は、19世紀に完成した荘厳な宮殿として名高い。 バシール・シハブ2世が山岳レバノン(レバノン首長国)の首長として、オスマン帝国から任命された1788年から建設が始まった。もともと、この土地は、ドゥルーズの避難地であった。建設の完了には30年ほどの年月が費やされた。 ダマスカスやアレッポといったシリアの諸都市のみならず、イタリアからも建築家がこの地に招かれ、自由に建設を競い合った。その結果、ベイト・エッディーンは、アラブ建築とイタリアのバロック建築が融合した姿を見せている。 1840年に、バシールがレバノンを去り、マルタに亡命した後には、ベイト・エッディーン宮殿は、オスマン帝国の政府の建物として利用された。フランスの委任統治下に入った1918年以降も、その役割は変わることがなかった。1943年に、レバノンが独立を宣言すると、初代大統領であるビシャラ・アル・フーリーは、ベイト・エッディーンを夏の執務室として利用することを宣言した。レバノン内戦では、大きなダメージを受けた。1984年に戦火がこの地から離れる状況になるとワリード・ジュンブラットは、その復興が必要性を訴えた。 現在では、一部が夏の大統領専用の執務室として使われているが、一部は、一般に開放されている。 ここでは、毎夏、国際ベイト・エッディーン・フェスティバルが開催されていて、世界中から著名な演奏家やバレエ団などが招かれ、中東有数の文化活動の中心となっている。 バシールは、この町に自らの息子のために、3つの宮殿を別に建設したが、現在では、Mir Amin Palaceのみが残り、豪華ホテルとして営業している。.

19 関係: 山岳レバノン県バロックラテン語レバノンレバノン内戦ビシャーラ・アル=フーリーデイル・エル・カマールダマスカスベイルートアラブ人アラビア語アレッポイタリアシリア首都1840年1918年1943年1984年

山岳レバノン県

山岳レバノン県(محافظة جبل لبنان、Jebel Lubnān)は、レバノン中部山岳地域の県である。首都ベイルートを見下ろす形になっており、レバノン内戦当時は、軍事的に重要な地域であった。県都は。日本では、「レバノン山岳県」、「レバノン山地県」と表記されることもある。.

新しい!!: ベイト・エッディーンと山岳レバノン県 · 続きを見る »

バロック

ピーテル・パウル・ルーベンス『東方三博士の礼拝』(1642):なにもない空間の周りを螺旋状に人物たちが取り囲むダイナミックな構図。鮮やかな襞、一条の光の矢に照らされた動きの気配、卓越した腕前を思うまま発揮して描かれている。 バロック(barocco, baroque baroque, Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義(文学、音楽は古典主義)へと移行した。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとバロック · 続きを見る »

ラテン語

ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとラテン語 · 続きを見る »

レバノン

レバノン共和国(レバノンきょうわこく、)、通称レバノンは、西アジア・中東に位置する共和制国家。北から東にかけてシリアと、南にイスラエルと隣接し、西は地中海に面している。首都はベイルート。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとレバノン · 続きを見る »

レバノン内戦

200px レバノン内戦(レバノンないせん)は、レバノンで1975年から1990年に起こった内戦のこと。その規模などから第五次中東戦争とも呼ばれる。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとレバノン内戦 · 続きを見る »

ビシャーラ・アル=フーリー

ビシャーラ・アル=フーリー ビシャーラ・ハリール・アル=フーリー(بشارة خليل الخوري、Bechara Khalil El Khoury、1890年8月10日 - 1964年1月11日)は、フランス委任統治時代から独立後まで活躍したレバノンの政治家。キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)の出身であり、委任統治時代には、2度レバノンの首相を務めた。宗派を同じくするエミール・エッデとは、シャルル・ダッバス大統領時代に後継の座を争った。 フーリーの政治スタンスはエッデと対照的であり、いわゆる「大レバノン」を維持するためには、イスラームのリーダーとの強調が必要であるという姿勢を採った。そのため、1936年1月の大統領選出のための議会での投票においては、1票差でエッデに敗れてしまった。 1943年、フランスへの依存を強めるエッデの姿勢に対し、フーリーの目標はレバノンの完全独立の達成にあった。9月に大統領に選出されたが、フーリーの大統領就任をフランスは快く思っていなかった。11月11日、フランスはフランス海兵隊とセネガル軍を派遣してフーリーを逮捕し、エッデの擁立に踏み切った。だが、フーリーの逮捕は主要6宗派の団結をもたらすという結果に終わり、11日後フーリーは釈放され、大統領に返り咲いた。現在では、フーリーの釈放の日が独立記念日とされている。 フーリー時代のレバノンは、首相をスンナ派出身のリヤード・アッ=スルフが務め、各宗派間のバランスをとる政治運営が行われた。レバノンの不文律は、1943年のペトロ・トゥラード大統領の議席案(国会議席を55議席とし、6対5の比率でマロン派とムスリムで分け合う)、大統領、首相、国会議長のポストをそれぞれ、マロン派、スンナ派、シーア派が分け合うというものであり、この慣習は、1989年のターイフ合意まで継続された。このバランスの上で、1948年に導入された為替及び自由経済政策は、レバノン経済の繁栄をもたらした。 だが、宗派間のバランスをとりながらの政権運営は、腐敗に陥りやすいという欠陥を持っていた。フーリー政権もその側面を否定することは出来ず、1948年に勃発した第一次中東戦争ではイスラエルに完敗し、アラブの大義を失うなどの失態も演じた。また、10万人規模のパレスチナ難民の受け入れは、将来のレバノンにおいては人道的に評価されるものの、実際的な政治運営に禍根を残した。 フーリーの権威の失墜は、1951年7月のスルフの暗殺に始まる。スルフの存在がムスリムの不満をそらすことを可能にしていたが、その死はムスリムの意見をまとめる人物がいなくなったことを意味し、ドゥルーズ出身のカマール・ジュンブラートの台頭を許すこととなった。 翌年、政権運営が困難になったフーリーは9月18日に大統領を辞任した。4日間のフアード・シハーブ暫定政権を経た後に、フーリーと同じマロン派のカミール・シャムーンが大統領となった。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとビシャーラ・アル=フーリー · 続きを見る »

デイル・エル・カマール

デイル・エル=カマール(ラテン語表記Deir el Qamar、アラビア語表記دير القمر)とは、レバノンの南部のほぼ真ん中に位置する村。ベイト・エッディーンから約5kmほど離れたところにあり、赤い屋根が特徴の石造りの建物が並ぶ。 16世紀から18世紀にかけて、デイル・エル=カマールは、レバノン首長国の拠点の役割を果たした。デイル・エル=カマールとは、アラビア語で、「月の修道院」を意味し、ファハル・アッディーン2世が建造したモスクは、レバノンで現存するモスクの中では最も歴史が古い。 デイル・エル=カマールが果たしてきた役割とは、文字通り、アラブの伝統の拠点であるのと同時に、レバノンの大統領や芸術家など様々な領域で活躍する人材を輩出してきた学校の役割も担っていた。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとデイル・エル・カマール · 続きを見る »

ダマスカス

ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。ダマスクスとも表記される。アラビア語ではディマシュク(دمشق Dimashq)で、別名をシャーム(الشام al-sham)という。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとダマスカス · 続きを見る »

ベイルート

ベイルート( 、、)は、レバノンの首都であり、ベイルート県の県都でもあり、同国最大の都市である。また、地中海に面した同国第一の海港である。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとベイルート · 続きを見る »

アラブ人

アラブ人(アラブじん、العرب،عربي)は、おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。 7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、中東・北アフリカを中心に勢力を拡大した。 もともとアラビア人をアラブと呼ぶが、日本では誤訳から始まった呼び方で定着した。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとアラブ人 · 続きを見る »

アラビア語

アラビア語(アラビアご、اللغة العربية, UNGEGN式:al-lughatu l-ʻarabīyah, アッ.

新しい!!: ベイト・エッディーンとアラビア語 · 続きを見る »

アレッポ

アレッポ(حلب(Halab), Halep、Alep, イタリア語・Aleppo)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある都市である。トルコとの国境に近い。人口は2008年現在で約167万人あり、シリア最大の都市である。 アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ (Khalpe) の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア (Beroea) と呼んだこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。 ハラブ県の領域は市の周辺16,000 km²に及びアル=バーブ、サフィラ、マンビジ、アイン・アル=アラブなどの近郊農村都市を抱え、住民は370万人にのぼる。2007年の推計では4,393,000人とシリア最大の県である。 かつてレバント貿易で賑わう国際市場であったが、列強の近代鉄道政策がイズミルを選好した。現在、アレッポ国際空港で中東や欧州各国と結ばれている。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとアレッポ · 続きを見る »

イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとイタリア · 続きを見る »

シリア

リア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、)、通称シリアは、中東・西アジアの共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。.

新しい!!: ベイト・エッディーンとシリア · 続きを見る »

首都

ブラジルの首都、ブラジリア ボリビアの憲法上の首都、スクレ オーストラリアの首都、キャンベラ 南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリア フィリピンの首都圏、マニラ首都圏 ベトナムの首都、ハノイ 首都(しゅと、Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。.

新しい!!: ベイト・エッディーンと首都 · 続きを見る »

1840年

記載なし。

新しい!!: ベイト・エッディーンと1840年 · 続きを見る »

1918年

記載なし。

新しい!!: ベイト・エッディーンと1918年 · 続きを見る »

1943年

記載なし。

新しい!!: ベイト・エッディーンと1943年 · 続きを見る »

1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

新しい!!: ベイト・エッディーンと1984年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

バイトゥッディーン

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »